「憲法23条」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 憲法23条とは

2022-08-09

清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう

前置きの前置き

この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ

前置き

清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口Twitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので

代わりにそれっぽいものを書いてみる練習

具体的には江口先生

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。

続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」を書くかは未定。

まり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが

最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。

とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ


前提

を先に見ていることが前提。

特に江口先生ブログに書かれている5つの定義

説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。



学問の自由辞書定義

まず、清水先生スライド提示するのが

1998年 国際大学協会(IAU)声明学問の自由大学自治社会的責任」による定義です。

学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由

これは明らかに 辞書定義 ですね。

人びとがその言葉をどう使っているか国語辞典の載っているような形で説明している。

そして次に清水先生は、

一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」

「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」

自分言葉でも「学問の自由」を定義します。

世間一般用法という文脈なわけですから、当然、スライド引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、

同じく 辞書定義 が与えられようとしているもの解釈されます

実際に与えられた定義を見てみましょう。

ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります

IAU声明では「外部から圧力」となっているところが、

と非常に具体的な形になっています

世間一般用法として紹介される割には、議論のあり得るところで

「こういうのは多数派も少数派もない、学問独立って話なんですが、多数派から圧力特に抵抗しにくいので」

というふうに説明するほうが世間認識とあっているように思える。

とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部から圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書定義のままだと受け取ることもできる。

学問の自由」の濫用としての「学問の自由侵害」への説得的定義

次に清水先生は「学問の自由」の濫用の話を始めます

ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います

今は、とりあえず定義の話をしましょう。

現代の誰かが主張している「学問の自由侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生定義していると読める箇所を、少し文言修正の上、抜き出します。

見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生ブログで挙がっている

中絶とは、罪のない子供の容赦ない殺人である

中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全外科処置である

などと同じ形式となっている。

ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、

中絶の例ならば、中絶辞書定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、

清水先生は、この文脈での「学問の自由侵害」とは 辞書定義 学問の自由侵害とは全く異なるものだと論じていることです。


(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリック解説なので

批判の要点が掴みたいだけの忙しい人は飛ばしても良い。

どう辛いのかについては、「批判対象曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)


辞書定義明確化定義として使用することを目的とした約定定義へのすり替え

最初の節辞書定義から

これらは学問の自由侵害定義として読むことができるものであり、

先に導入された説得的定義社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。

ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書定義)」学問の自由ではない、という論証。

しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。

先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書定義と認めました。

逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生独自見解です。

すなわち、この時点で辞書定義として導入された学問の自由という概念

学問の自由を〜と私は定義します!」という約定定義へとすり替えられているのです。

一旦まとめると、

「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、

「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的定義の中に紛れこませる(定義すり替え)」

これが清水先生レトリックです。

定義を縦横に駆使するレトリック

付け加えていえば、ここですり替えられた約定定義根拠

学問の自由とは

「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの

という説得的定義の導入も行っています

まさに、

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

のものですね。

じゃあ、5つの分類の最後理論定義はどうか、

憲法23条保障する学問の自由

この一節は憲法学理論を援用しているため、少し強引ですが理論定義を示したものとも言えるでしょう。

実際、この定義根拠に「学問の自由侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し

これは日本国憲法保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

否定しています

なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、

要は憲法学理論憲法原則としては国家権力監督するものであり、私人間効力の議論私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。

権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、

そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。

批判対象曖昧さ、具体性の欠如

ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、

正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で

直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります

ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。


清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、

書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、

Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。

ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセルカルチャー」の事例が話されているのですが

これも抽象的な定義操作時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。

詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、

これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」に譲り、

記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります

議論余地はない」ほど明らかなものだけ議論される

清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、

とりあえずここは論点にせず、清水先生解説をそのまま採用します。

ABORの主張は、

ナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、 そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」

「実際にそういうような授業になっているかどうかを、 授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべき」

学問の自由とはそういった環境で成立する。

ぶっとんでますよね。これ肯定する自由主義者いるんですか?

ナチス肯定論文を学問の自由擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?

しろ、何が相手だろうと自由である肯定する、過激自由論者ほど否定する内容です。

大学ナチス擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか

まとめると、

最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論余地のないことしか言っていません。

じゃあなんで議論になるのか。

清水先生立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が

ある意味辞書定義のように暗黙に共有されているからです。

千田有紀と呉座勇一

清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります

このちょうどいい2人については講演では全く触れない。

特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、

ちょっとからない」「詳しくない」「法律専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」

との返事。

「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。

訴訟原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば

この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。


たこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。

理論物理学者の性暴力学問の自由擁護することはできない」

何を当たり前の話をしているのでしょうか。関係ありますか?

せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラパワハラを長年犯してきた超一流哲学者大学から追放されたことを、学問の自由擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。

まとめ

文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しかさない。

それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書定義には触れないで、

何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。

暗黙の辞書定義説得的定義の関連は、聴衆が勝手勘違いしてくれることに任せる。

これが、学問の自由についての、清水先生の講演の構造です。

2022-08-05

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part1 〜学問の自由とその濫用

前置き

2022.7.24 一般公開シンポジウムフェミ科研と学問の自由

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI

より、清水晶子氏発言部の文字起こしである

長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。

分割の境界スライドにある番号に従うが、副題は増田判断である

スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。

講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしベースに、

増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。

質疑応答部、スライド部の文字起こしはすべて増田が行った。


批判記事の紹介

まず、江口先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。

加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセルカルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生記事

なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルタイプ言論の自由擁護」として紹介されている。

また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、

他、法学専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、

(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part1 〜学問の自由とその濫用

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s

40:57~48:23

2022/7/24

学問の自由キャンセルカルチャー

清水晶子(東京大学

菅野優香

はい、お二人目は清水晶子さんです。

清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています

フェミニズム・クィア理論をご専門とされ、

研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体他者性、自己表象生存戦略可視性を巡る問題などがあります

最近英語圏フェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。

主な著作に、

Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision英語の本です、2008年

「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィアポリティクスのために」、2019年

フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」、2020年

フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります

清水さん、どうぞよろしくお願いいたします。



清水晶子:

はい、ご紹介ありがとうございます清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、

本日は「学問の自由キャンセルカルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います

少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。

学問の自由とは

学問の自由という原則は、学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者、教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由定義できる」

1998年 国際大学協会声明学問の自由大学自治社会的責任

学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。

一般的には、大学だったり研究機関とかっていうものが、

政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的権力だったりというところから圧力を受けることなく、

さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学経営陣あるいは多数派社会的通念・経済的要請などから

不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問良心手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。

例えば、1998年国際大学協会声明学問の自由大学自治社会的責任」という文書があるんですが、これによると

学問の自由という原則は、学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者・教員学生が、

倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、

そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由定義できる」というふうにされています

学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判文脈における学問の自由の主張というのは、

ある意味まさにここに相当するもの王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います

2000年代前半:ジェンダーバックラッシュ

過激性教育ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム

2014年広島大学でのいわゆる「従軍慰安婦」に関する講義

産経新聞による吊し上げ↑ 日本科学者会議広島支部幹事会による抗議

2020年日本学術会議会員任命拒否

日本学術会議会員任命拒否違法状態是正を求める意見書」提出(日弁連

残念ながら、日本フェミニズムとかマイノリティ政治に関わる研究者にとって、

今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。

からこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。

今世紀に入ってから過去20年に限定しても、

2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、

ここでは与党自民党プロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体使用疑義提示されたりしている。

2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学研究者の授業というのが、

先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、

批判や抗議が大学殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由侵害であるというふうにして、

産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。

もちろんさら記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、

日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。

この任命拒否については、憲法23条保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、

2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否違法状態是正を求める意見書」というもの総理大臣に提出をしていると。

これらの事例での学問の自由というのは、この重要性、

この意味での学問の自由重要性というのは、本日シンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます

学問の自由」の濫用

差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由侵害」とする言説

その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、

もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います

今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、

国家とか、強力な宗教団体、経済団体多数派社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、

研究者の社会的通念と研究手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています

その意味では学問の自由という枠組みは、

力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、

研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。

ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。

すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、

これは「学問の自由侵害であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。

これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。

二面での闘い

国家による学問の自由の明白な侵害

②現状を追認し被抑圧側の異議申し立てを封じるための口実としての学問の自由の動員

結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、

私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。

けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、

抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。

学問の自由を巡っては、フェミニストには現在ういういわば両面での闘いというもの要請されている。

この現状は忘れるべきではないと思います

実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、

ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、

こういうタイプの、マイノリティ権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由侵害」という枠組み、

この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、

これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

2012-11-07

田中大臣の打ち出した方向性自明のものではない由

田中大臣が3大学を現行基準によって審査する旨を表明したことは、違法不利益処分が国民国会による行政監視によって水際で阻止された、と言える。

それはさておき、この件に関して「田中大臣問題提起自体はごもっとも」みたいな声は聞こえど「問題提起も間違っている」という声は見かけないので、逆張りしたくなる。

たとえば

憲法23条によれば『学問の自由は、これを保障する。』とされ、同条は大学の自治をも保障しているという見解が一般的であることからして、大学の設置についても(公共の福祉による制約は有り得るとしても)自由なのが原則である。そうであれば市場の飽和を理由に不認可とするような基準は違憲の疑いがある。」

とか

市場の飽和を理由に不認可とするのは新規設立規制することで不良大学保護・存置しようとするもので、経済合理性を欠く。」

とかのそれらしい反対意見が考えられるわけで、田中大臣提唱する方向性自明のものではないということに注意して欲しい。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん