はてなキーワード: 水筒とは
D4の今までより広いフロアに入ると「強者男性」と銘打たれたおおきな黒い箱がぽつんと置かれていた。要するに箱の中身は空っぽなのだ。現代人は自分に拘りすぎる一方で他人の痛みに無関心である、その態度が架空のイメージをあたかも存在しているかのように振る舞わせることを批判しているのだろう。
頭をぶつけないよう首をすくめながら内部に入るとそこには宮崎駿がいた。…おい話が違う!振り返ってみるとまるで最初から入口など存在していなかったが如くのっぺりとした壁がこちらを見つめている。「まあ、座りなさい」エプロンの紐を直しながら宮崎は先刻まで座っていたパイプ椅子をこちらに薦めた…
宮崎の話はまるで要領を得なかった。怒鳴りつけたかと思えば言い淀んで、数分の間空を見つめまたふっと降りてきたかのように喋り出す。一度宮崎は大きく咳き込んだ、顔が紅潮しこのまま死んでしまうかと思われた。見かねて俺は水を飲ませてやった。宮崎はサイドテーブルに象印の水筒を用意していた。おそらく放っておけば自分は解放される。だというのにも関わらず俺は子犬を慈しむ母犬のように宮崎の喉に優しく水をながしこんだ。
四、五時間ほどの演説の末宮崎はついに俺を解放した。最後に宮崎は去り際の俺にむかって「堪え性のない男だな」と言った。おれは仕返しに今日初めて口を開いた。「あなたはありがとうと言えない人なんですね」といってやった。やつは咳き込んで水を飲ませてもらった後、命の恩人に対して「どうも、失礼」としか言わなかったのだ。するとどうだろう、宮崎の顔が変わっていくような気がした。彼の顔はみるみる光を失い、最終的にその辺の老人特有の何を考えているでも考えていないでもないような無表情になった。そこでようやく気づいた。先程までの宮崎の眼は少年のように生き生きと輝いていたのであった。
年明けすぐに発生した能登半島の地震で、東日本大震災のことを色々と思い出した。
当時小学2年生で、地震発生時は帰りのHR中。関東でもかなり揺れて、確か震度5強か5弱か。揺れてる最中のことはほとんど覚えていなくて、隣の席の机から水筒が落ちてきたこと、その席の子は背が高く頭が入り切ってなくて落ちた水筒が頭にぶつかっていたことだけ覚えている。
そのまま保護者引渡しになって、グラウンドで姉と一緒に親を待っていた。外出中だった母はすぐ迎えに来てくれて、かなり早く家に帰れた気がする。そのまま急いでコンビニに寄って水とカップ麺を買って、ガソリンスタンドで給油して、家に帰った。
この時私はだいぶ興奮していた。
楽しいとか面白いとか、そういうのではなくて、台風で学校が休校になるとかと同じ感じ。地震そのものはめちゃくちゃ怖かったので、どちらかと言えば目が血走ってるような興奮だった。
震度5の揺れなんて初めてで、5分近く揺れ続けたのも初めてで、学校であんな切羽詰まった教頭の放送を聞いたのも初めてだった。昔の地震の記録映像とかでしか見たことないような、知識としてしか知らないような規模の地震だったから、そういう時は学校で一晩明かすとか、しばらく店が閉まって学校も仕事も休みで社会機能が成り立たなくなるとか、そういうレベルのことが起きると思ってた。
実際は普通だった。
平時に比べたら普通じゃない。コンビニで酒が落ちて割れて中身が出たままとか、30分に1回は震度3が来るとか、全然普通ではない。でも、学校も休みにならなかった。テレビも番組は違うけど放送してた。コンビニは瓶が割れてても営業してた。電車も走ってたし電気もついてたし水も出た。
すごくびっくりした。
私の中では震度5強とかはめちゃくちゃ大きい揺れで、生きていくのがしんどくなるようなものだと思ってた。でも、家の皿が何枚か割れても、タワマンのエレベーターが止まったままでも、私から見える生活はほとんど変わらなかった。
今になって考えれば、それだけ災害に対しての備えがあったんだろうな、と思う。
10年以上前だから、今と比べればその備えも足りなかったんだろう。東北では関東と比べ物にならないような揺れだっただろうし、津波では恐ろしいほど被害が出た。東北に住んでいた従兄弟は中々学校が再開しなかったという話も聞いた。
それでも、これだけ大きいと感じた揺れでも、何も私の周りは変わらなかった。親も普通に仕事に行った。私も姉も変わらず学校に行った。あれだけ興奮していたのに、非日常は存在しなかった。存在させないような日々の努力が存在しただけ。
10年以上経って、能登の地震を見て、やっとそれに気がついた。当時より発達したSNSやテレビ放送で、東日本大震災の経験が垣間見えた。日本海に近い実家にいた友人は、津波から逃れるために避難したけど、家は被害に遭わなかったと聞いた。ここは大丈夫といって逃げない家族を引き摺ってでも避難してきた、というツイートを何件も見た。
潰れた家の写真もたくさん見た。
あの時の非日常だった部分が、今こうして活きている。そう見えた。日常のままあの日を通り過ぎた私たちは、血で滲んだ教えを、そうやって生かしていく。
多分、東日本大震災をまともに覚えているのは、私やその1個下の年齢くらいがギリギリなんだろう。今の中学生はそもそも生まれてなかったと聞いて、気が狂いそうになった。全然発狂した。あの震災はもっと最近だって。
そこにあったのは小学2年生の日常でも、私はその日常を続けられたことも、私の見えない場所に非日常だってたくさんあったことも、忘れちゃいけない。
能登半島地震で被害に遭われた方々に、お見舞い申し上げます。募金など間接的な支援しかできませんが、復興をお祈りしています。
✖水筒係 ○出納係 覚えようやでという話
生まれて18年くらいだけど片付けのプロセスが未だに分からない。
散らばったものを棚や箱にしまったり、ゴミが落ちてたら捨てることくらいはわかるが、順番がわからないから、忘れる前に全部思いついたこと紙に書くんだけど。
でも全部完璧にやらないといけないからさ、雑誌とか全部出てるやつは一回読んでから片付けるのと
服とかも全部確認してちゃんとした分類で棚にしまうのと、私は絵を描くのが趣味だから、紙が無限に散らばっているのを要るもの要らないもの種類ごとに分別して、引き出しの中にある使わなかったマックとかのコーヒーミルクを使うためにコーヒーを飲んで、カミソリが出てきたから今日風呂で使って、ピアッサーが出てきたからそれは早く使ってしまいたくて(後日)、で、ポストカードがたくさん出てきたから、あとCDについてる背表紙の紙みたいなやつ、ああいうのは壁に貼り付けてみたんだけどやっぱイライラするから全部剥がさなきゃいけない。前に開けた途中のお菓子を食べないといけないし、昔のメガネケースを使うためにメガネを買いにいく、ネイルが出てきたから今夜塗りたい、スマホを見てたらスマホの中のデータも片付けないといけなくなったから、それが1番大変だと思った。写真を消すために全部覚えたり、描いたりしないといけないし。撮った動画も全部切り抜いてGoogleドライブに載せないといけないし、あと、Safariで検索してそのままになってるタブをどうにかしないといけないし、なんか洗濯とか最近してないしさ。置いてあるぶっ壊れたラジカセって何ゴミなんだよ、みたいに、何ゴミかわかんないやつは一生片付かない。さっきは床に置いてた水筒ひっくり返したら、コピー用紙が水浸しになった。メイクポーチが溢れたコンシーラーだらけになっていたからそれも洗って拭いて、拭くんだよ全部、ホコリで汚れてるDVDとかも拭きたいし、棚の上も拭きたい。
棚の中にある要らない物があるのがイライラするけど捨てれる自信がないよー。みんなは何からするんだろう片付け