はてなキーワード: 原体験とは
何が悲しくて子どもをわざわざ弱者男性に育てなきゃならんのだ。
だからこの増田は思考実験だよ。そもそも当たり前に俺自身にパートナーはいないしね。家族は増え得ないしね。
女の子の、誰かの、笑顔をみたいと思っているのに、迷惑なんて絶対に掛けたくないと思っているのに、それでも積極的な思い入れが、逆に、相手を傷つけてしまうこと。
負のフィードバックループを理解したときに、女性への自己効力感は完全に消滅する。
無力感となる。
優しい心を持っていないと、女性に復讐するミソジニーになったり、粗雑に扱ってイキる強さを得て黒イケメンに育ったりする。弱者男性としての無力感を維持できない。
むしろケンスケとくっついたことは二重の意味で救いだったんじゃないかと思う。第一に、破とQの間の十四年間に、もし仮にアスカがシンジ以外の誰も愛せずにずっと孤独を抱え続けていたら、アスカの精神状態はQの時点で相当悪化していたことと思う。そういう意味で、アスカには(シンジ以外の)他の誰かを愛するという行為が必要だったのだと思う。
第二に、その愛情を通じて、「愛に縛られる」という事からの脱却をアスカは経験しなくてはならなかったのだと思う。アスカの原体験には、母親とのトラウマが存在していて、それは愛の絡んだ複雑な自縄自縛であった。それをアスカは克服する必要があったのだけど、そのためには、一度深く誰かを愛し、その上でその愛から脱却して他の誰かを愛するという行為が必要だったのだと思う(治療行為として)。シンジをずっと愛し続けて、他の誰をも愛さずに十四年間を過ごすという行為は、むしろアスカの原体験であるトラウマを悪化させる可能性がある。つまり、単一の相手への愛情に縛られてしまうという人生観から、アスカが抜け出せなくなってしまうのだ。それは、母親という単一の相手に対して、決してもたらされることのない愛情を求め続けていた在りし日のアスカの写し絵になってしまう。それではダメだ。アスカが救われたことにはならない。
というわけで、二重の意味でアスカはシンジ以外の相手を愛さなければならなかったのだと思う。十四年間を孤独であり続けることから救われるという意味でも、また、単一の相手への愛情や執着から脱却するという意味ででも、アスカはケンスケを愛さなければならなかったのだ。そして、時間が経ってからふと「やっぱシンジとくっついときゃよかったかな」とかアスカもぼんやり考えたりするのだと思う。人生。
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
ヨッピーが朝の占いも全て規制すべきと言って、プチ炎上をかましている。
https://twitter.com/yoppymodel/status/1548848031826870272?s=21&t=jY4iK2oHzRbEWC64K_BypA
私はアラサーの女だが、占いを読むのは普通に好きだ。課金して占い師に相談しに行くほどではないが、石井ゆかりさんやしいたけ占いの自分の星座欄を読んだりする程度には星占いを信じている。どっちも無料だ。本気で信じているというよりも、憂鬱な月曜に「今週は人間関係のごたごたが落ち着くかも」と言われると「あ、今悩んでることももうすぐちょっとマシになるかも、がんばろ」と思えて元気が出るから。
最後は神頼みという言葉もあるけれど、運のようなものはやっぱりこの世にある気がして、今の自分がどこに運が向いてあるのか、なんとなく知りたくなってしまう。まあ知ったとしてもできることはほぼないし、本当に何の悩みもない元気な時は占いなんて気にもとめないのだろうけど、今週一週間がずっと憂鬱だと思う時になにか声をかけてもらえると元気になってることは否めない。エンタメなのだ。
しかし彼氏は私がそんな文章を読んでることもドン引きらしい。「彼女が細木数子のファンだって知ったらドン引きすることない!?占いほんと気持ち悪い、エビデンスもないのに」と言う。そしてヨッピーと同じようなことを言っていた。
自分だって初詣行ったりするのに…と思いつつ、男の人のこの占いアレルギーって何なんだろう? と不思議に思った。私はたぶんアレルギーになるほど占いの負の側面を見てないのだ。何か原体験でもあるのかな?
経営者や政治家は有名な占い師に傾倒してたりするというし、たぶん占い好きな男性もいるんだろうけど。でも男性誌に占いなんて載らないけど、女性誌には必ず占いが載ってるし。普通の男の人は未来に不安を持たないのかな?
追記:思ったより反応もらってびっくりした。とりあえずカルト宗教にはまらないように気をつけるよ。
あと誤読してる人いるけど私は細木数子のファンではないし怖さも感じる(あと石井ゆかりさんやしいたけさんも詐欺の報道が出たら普通に怖くなるだろうし、やっぱり金銭的な詐欺をしてるかどうかは自分のなかのラインとして大きいんだなという気付きを得た)。
ツイフェミがどうとか表現の自由戦士がどうとかそういうのはおいといて、ああいう争いは見ていてただただ気が滅入るなというのが正直な気持ち。
正直な気持ちとしては「月曜日のたわわ」はちょっと読んだだけだけど、あまりに欲望丸出しな感じがするところが正直好きじゃないし(ちなみに自分は男性)、何なら多少の気持ち悪さも感じるので、いわゆる「あの人たち」の気持ちは多少わからなくもない。ただ、この手の炎上が繰り返されるたびに思うことなんだけど、
根拠が「自分が気持ち悪い」であることに無自覚な人たちがいきなり相手を言葉の暴力で殴り始めるのを見てるのがただただしんどい。俺はあの作品は好きじゃないけど、それでも自分が気分を害する表現を排除する活動を許すままにしていくといずれは地獄になるだろうとは思うから、いわゆる「表現の自由戦士」と思想的にな近い立ち位置ではある。ただ、だからといって「あの人たち」と論争しても、相手のほとんどは感情だけで動いてるのは見ててわかるし、理性に訴える形でツイッター上で論争しても結局何も解決しないだろうなと半ばあきらめている。
ちなみに「あの人たち」の肩を持つつもりはあんまりないんだけど、発言の背後から伺えるのは、思春期あるいは成人してから男性に嫌な思いをさせられたみたいな原体験があったんじゃなかろうかってことかな。それで何かトラウマがフラッシュバックしてるとか(そう考えるとあの強烈な反応も説明がつくなーと)。ミサンドリーとか言われてるけど、どっちかというと男性恐怖症なんじゃないだろうかと少し疑っている。一方で、「表現の自由戦士」側の一部も標的を「あの人たち」だけじゃなくて、「女性全体」に拡大し始める様子が見られてちょっと辛い。曰く女性は他責的だの(白饅頭氏とかが書いてるけど別に何かのエビデンスがあるわけでもないよね)、しかもそれが今の状況ではなくて生物学的性差に違いないとか知識もなく決めつけてるし。そういう人たちの一部もミソジニーというよりかは女性恐怖症じゃないだろうかって人も見受けられる。なんかひたすら理屈だけ並べて反論してる辺りが、現実でのふつー女性との接点が薄い感じがするし。ちょっとアレなことを書くと、感情で怒ってる相手に理屈で殴り返すのは経験上事態を悪化させるだけで、いったん「話はわかった。それでも……」という風に言えばもう少し話を聞く相手も増えるような気がする。
男性恐怖症だの女性恐怖症だのは憶測にすぎないのであんまりいうべきじゃないんだけど、ただでさえロシアのウクライナ侵攻とか暗いニュースが続いてる中で、さらに気が滅入るニュースが続くし。吉野家のアレにしてもさすがに事前チェックするとかもうちょい空気読めとは思ったけど、役員を解任した時点で一応(現時点で)やるべきことはやったと思うし、延々と騒がなくてもいいだろうにと感じる。キャンセルカルチャーにうんざりするというより、遠慮なくサンドバッグにしてる相手だって生きてる人間で生活があるんだよという当然のことをSNSで闘ってる人は忘れがちだよね。
傍観者を気取って偉そうに語ってる自分もあんまり褒められたことはしてないんだけど、もうちょっと仲良くできないんだろうかとは思ってしまう。
最初は真面目に整形していたものの、底面と側面の間をただつまんで均すのがつまらなくて、べたべたな土に指紋が残っていくのが不格好に見えて仕方なかった
僕は飽きたので、粘土で型を取ることにした
上下に金属の取っ手を動かすアレがにゅうっと粘土の中にに埋まっていく
粘土の凹凸が壊れないようにそおっと錠から外したが形が気に入らなかった
工学的な意味ある形を期待したのだけど、剥がしたときの力を込めた方向に歪んでいた
窓の錠は片側からその跡を見ても、元の形状を想像できず、また眺める面白さもなかった
もっと平面で単調な形状の方がいいなと思い、僕は今度は粘土で長方体を形作った
上履きを脱いで、右手に持ち、机の上の均等に力が加わるように調整しながら念入りに押し付けた
押し付けたときよりももっと慎重に上履きを粘土から外すと、狙い通り上履きの跡をきれいにとれた
ジグザグの稲妻上の溝の凹凸がひっくりがえって山脈の様に粘土の上に走っていた
自分の不器用な手だけでは作れない複雑な形を作れて、自分自身は満足したものの道具や粘土を粗末に扱ったと先生には怒られるかなと思った
それで僕はチャイムが鳴るとそっと作品を提出して、自分の教室に逃げた
それからしばらくしてからの選択美術で先生が僕に近づいてきて、「この間の靴跡のやつ、焼いたら割れちゃったみたいなんだごめんね」と言ってきた
「焼けたらどんな感じになるのか楽しみだったんだけどな」と言って先生は微笑んでいた
話したこともない先生を楽しませることができたのかと不思議な心地だった
もうこの先生の性別も覚えてないけど、物を作ると楽しいなと思えた原体験はこんなことだったなと昨日の昼になぜか思い出した出来事
【閲覧注意】
抜毛症は呪いだと思っている。この記事を読むと、抜毛症が発症するかもしれない。よって閲覧注意である。
先日実家に帰って机の引き出しを開けると、まつ毛が大量に入ったプラスチックのカードケースを見つけた。それを見て俺は抜毛症の原体験を思い出した。
高校生の頃、化学の授業中に「まつ毛を引っ張るとまつ毛が抜ける」という至極当たり前のことに気づいた。
面白いくらい抜けるので、抜いて抜いて抜きまくった。抜くまつ毛がなくなり、抜ける毛はないかと髪の毛を梳いていると、もみあげ、襟足、耳の後ろが特に抜けることに気づいた。
それ以来、抜毛症から抜け出せないでいる。
抜毛症は、集中力の著しい低下を招く。抜くことに夢中で他のことに意識が向かなくなる。そして、毛の抜きすぎは痛みを伴う。まつ毛を抜くと目が痛くなるし、襟足を抜くと襟足がじんじんと痛くなる。全く授業に集中できなくなった。
宿題をやろうとノートを開いて、10分考えてわからないとなると襟足を抜いてしまっている。抜いた毛をノートに並べだして、気づくと1時間が経過していて、俺は一体何を…という時間を過ごしたことは一度や二度ではなかった。
ある日いつものように家で抜いていて、抜いた毛をノートの上に並べて眺めていた。ふと引き出しからヴァイスシュヴァルツのカードを入れていた透明のプラスチックのカードケースを取り出すと、そこからカードを抜き取り、ノートの上に並べたまつ毛をピンセットでひとつひとつ、そのカードケースに移していった。まつ毛は数が少なく貴重だったので、捨てたくなかったのだ。
抜ける毛には、「良い毛」と「良くない毛」がある。
抜いた毛の先に白くて丸いのが付いてるのは、健康で新鮮な良い毛である。
白くて丸いのがついていない、黒くてねちゃっとしているのは、疲れて後味の悪い良くない毛である。
抜き始めは良い毛が抜けて気持ちいいのだが、次第に良くない毛が抜け出す。良くない毛が抜け出すと、「抜きすぎ注意」のサインである。痛みが伴いだす。
良い毛が抜けるときは音もなく抜ける。抜き続けていると、たまに「ピンッ」という小気味いい音で抜けるものも出てくる。このあたりから痛みが出てくる。そして抜き続けていると、「ブチブチブチッ」という引きちぎれるような音が出るようになる。このとき良くない毛が抜けだす。こうなると辞め時なのでやめたいのだが、このときは本当に軽くつまむ程度の力でも何本も抜けるので、フィーバータイムでもありやめられない。最後は、抜毛の念を断ち切るために思い切り立ち上がって、顔を洗ったり別のことをしているうちに抜毛のことを忘れる。たまに机に戻ってみると、ティッシュの上に広がった大量の抜け毛が放置されていて、「キモすぎ!?」となることもある。
もちろん今でも抜いている。仕事をしていて行き詰まったりイライラしたり、そうでなくても手持ち無沙汰になると、襟足かまつ毛を抜いてしまう。
何気なく襟足を引っ張って1本でも抜けてしまうと最後、「抜けなくなるまで引っ張る」という行動がやめられなくなり、実際には「抜けるまで引っ張る」ということを繰り返している。「抜ける毛は要らない毛」という考えが染み付いている。
襟足を一回引っ張って、戦果を見る。同時に4本くらい抜けていると、「大漁じゃないか…」と嬉しくなる。1本でも普通に嬉しい。0本だと、「いやまだ抜けるはずやねんけどな…」といろんな所を試す。基本的に一度やりはじめるとやめることはない。
会議中も、自分の発言のとき以外は襟足を触っている。抜いた毛はそのまま床に捨てるときもあるが、大量に抜いてしまったときは、ポケットに入れておいて、あとでティッシュにくるんでゴミ箱に捨てる。
イライラしたときは、まつ毛を抜いてしまう。引っ張ったらぶちぶちと抜けるのが快感で、イライラしてなくても定期的に抜いてしまっている。「今月は抜いてないな」と思ったら月末に抜いてしまっている。
まつ毛が無性に痒くなり熱くなる日があり、その日は「抜ける日」で、実際軽く引っ張っただけでめちゃくちゃ抜ける。たくさん抜けるのが楽しくて、「抜ける毛は要らない毛」なので、抜けなくなるまで抜き続けてしまう。というかまつ毛がなくなるまで抜く。
インターネットで「抜毛症」で調べると、抜きすぎてハゲてる人の写真が出てくる。
幸い(?)、俺が抜くのは襟足とまつ毛がメインなので、そこまで目立つわけでもなく、あそこまで悲惨な状態ではない(集中力の低下という意味では悲惨だが)。それに抜いても全然また生えてくる。
とはいえ父母の家系の男衆が全員ハゲているので、俺もいずれハゲてしまうことは確定している。「抜ける毛は要らない毛」のはずなのだが、前髪と頭頂部は全く別の話だ。ハゲたくはない。
「バリバリ仕事したいのに、育児のためにキャリアを犠牲にしないといけなくて、メチャクチャ悔しいし、子供のことを邪魔だと感じてしまって自己嫌悪」
みてえな意見を見た
おれは絶対に抱くことのない意見なんだが、べつに悪いとは思わない
敵愾心はない
ないんだけど、とにかく、こう、すべてがおれと違いすぎて、なんというか、衝撃的だ
就職浪人してプラプラしていた1年間、己と向き合って、おれはいったい何がしたいのだろうか?と考え続けた
結果:「何もしたくない」
おれは何もしたくないんだよ
賃労働に縛られたくない、自由に創作がしたい!みたいなヤツでもなく、ただホントになにもしたくない
誰にも認められなくていいから、ただもう寝てたい
それだけなんだ
いまは滑り込んだクソみたいな会社で働いてるけど、実際トイレ休憩に立って廊下を歩いてるとき、マスクの下でずーっと「帰りてえなあ…」って言い続けてる
おれはいま、諸々あわせて手取り20万前後くらいあって、なんつうかもう金はこんなもんでいいなと思っている
使う元気もねえしなあ
賃貸とかそのうち借りられんくなるのかもしれんけど、そんな感じでいよいよ苦しくなったら、最悪死ぬって手もあるなと思う
おれは人生かなりキツかったと主観的に感じているが、客観的にみて全然苦しい思いはしてない
五体満足で、でかい持病はない
メチャクチャ賢くはないが、そんなに努力せずにそこそこの大学に入れる程度の能力はある
これで不幸とか言ってたらブッ殺されかねない
でもやっぱ幸不幸って自分で決めるもんだし、おれが不幸な人生を送ってきたと思ってんだから、実際不幸なんだ
東大出て教授になってかなりイイ感じに育てたっておれみたいな感じのカス人生が生じることがある、っていうのは、おれの原体験なわけですよ
カス人生のカス人間が子作りしたら、おれ以上のカス人生が生じる可能性が結構高いっていうのは、まあ明らかであろう
嫌なんだ
こんな思いをもう誰にもさせたくない
マジでハンパなさすぎる
子供を作ることに踏み切れるくらいに幸せな人生を送ってきて、仕事に充実感を覚えていて、向上心があるわけでしょ
すべてがおれの"上"じゃん
そんなん勝てねえよお
でも実際、そういう人がそこそこいて、がんばって産み支えてくれるおかげで、おれは将来国にフリーライドできるのかもしれないと思うと、感謝こそすれ嫉妬の気持ちは出てこねえな
ああーー仕事やめようかなあ
やってらんねえよな
仕事やめてさ、ジョーカーみたいな暴力的なやり方じゃなく、なんとかして生活保護をつかみとるなりなんなりしてさ、ただ社会に寄生して生きたいんだよおれは
いや 嘘です
ホンネを言うと、そもそも生きたくないんだ
何もしたくないんだからそりゃそうだよ
マジで、生まれつき両足なくて、かつスポーツに全然興味ないのに、強制的に陸上競技をやらされてるような感じなんですよ
やめさせてくれ!
見りゃわかるだろ!向き不向き!向き不向き!
おれはコレ向いてないし、やりたくもないんで、早く辞めさせてくださいよ!
おれが「やったー!」と思いながら死ぬことのなにが悲劇なんだよ?!
300万くらいだったら頑張って出すから、他人に迷惑かけずに、ラクに死ねる方法を用意してほしいんですわ
あるいは直前でビビって結局惰性で生きるかもしれないけど、300万貯めたら死ねるってなったらおれはかつてないほど頑張ると思うよ
そういう感じでいきましょうよ
おれを無理矢理生かすのは非倫理的だ
非人道的だ
ひどすぎる、むごすぎる!
たすけてくれ〜!やめさせてくれ〜!!
を読んで、そう言えば自分も似たような事を思っていたなと思い出した。
昔ジョジョが大好きだった時期にネットでこれを見てショックを受けたんだ
ジョジョのパクリ検証画像その1(写真、イラスト編)
ttps://web.archive.org/web/20120724071231/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/12.html
ジョジョのパクリ糾弾スレテンプレその2
ttps://web.archive.org/web/20120717131810/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/13.html
ジョジョのパクリ糾弾スレテンプレその3
ttps://web.archive.org/web/20121112141851/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/15.html
ジョジョのパクリ検証画像その4(楳図かずお編)
ttps://web.archive.org/web/20121112231135/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/18.html
おまけ1
ttps://web.archive.org/web/20121112112347/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/19.html
おまけ2
ttps://web.archive.org/web/20121112105337/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/17.html
ジョジョって滅茶苦茶独特で個性あんなあああーーーって思ってたから、割と元ネタからまんま拝借してるのがショックだった
数年くらいはショックを引き摺っていた気がするけど、それはそれとしてスティール・ボール・ランも読み続けていたしいつしかショックから立ち直っていた気がする
それでもこれを見た後に最近の漫画はパクリがどうの言われてるのを見ると「いやジョジョの方がずっと昔にそのまんまパクってるよ」とは言いたくなる
…
ナルトの一話でイルカ先生とナルトのエピソードにマジで感動していたのに、
後年読んだうしおととらでほぼ同じ流れのシーンがあってあの感動の名シーンもパクリだったんかい!と本気でショック受けてそれからナルトも読まなくなった気がする
ttps://pbs.twimg.com/media/EE62-x_UUAASDsP?format=jpg&name=medium
大友克洋や沙村広明、忍空に影響を受けた事は公言してるのにそのままエピソードをパクったうしとらと藤田和日郎には何も言及無いんかい!とは思った
…
ハンターハンターの方はジョジョと違って漁っても昔のテンプレサイトとか出て来ないけど
伊藤潤二作品から結構そのままパクってた検証画像があったと思う
幽遊白書の一話も何かの恋愛物作品からそのままパクってた、って画像を昔ネットで見てショックを受けた覚えがある
だからハンターハンターがパクられる側になってもそれは自分がやった事をそのままされてるだけだから人に言えないんじゃねえかなぁって思っちゃう
…
最近流行りの鬼滅もジョジョ、ブリーチ、銀魂あたりから影響受けてる事は吾峠呼世晴先生が自分の好きな作品に挙げてるけど
我間乱って比較的マイナーな少年漫画からそのまんま剣術の型をパクってきたんじゃないの?みたいな話は一切聞いた事無いし
絵柄とかキャラクターの造形とか昔の少女漫画にまんまそっくりのがあるとも聞いたけど誰も話題にしている所も見た事が無い
鬼滅の刃がパクってきた作品まとめwiki
こじつけじゃあねーか?みたいな奴もあるし、自分が好きな作品から影響受けたキャラをそのまま自分の作品に出すのは微笑ましい感じで嫌いじゃないけど
…
ここからが本題だけど
何故「古塔つみ氏」や「呪術廻戦(BLACK CAT等も)」のパクリ、トレースとされる物は許されず
「ジョジョの奇妙な冒険」と「荒木飛呂彦氏」、「ハンターハンター」と「冨樫義博」のパクリ・トレースとされる物が許されるのか
これはもう滅茶苦茶単純な話で
これ以外に答えは無いと思う。
仮にジョジョの奇妙な冒険やハンターハンターが今イチからジャンプで連載されて面白い!って話題になっても、トレースだのパクリだのは絶対炎上するよ。
元ネタが週刊少年ジャンプの読者が知らなさそうなマイナーな物から取っている、というのもあると思う。バレないようにこっそりやれ、って事だろうね。
例えば今手塚治虫や藤子不二雄があの海外の名作からネタをパクっていた!なんて誰かの目に入っても炎上するとは思わない
何故なら偉大な先人漫画家には「権威」があり、「権威」とは「力」だからだ。要は力がある強い人の不正を糾弾しよう、なんて皆思わない訳ですね
だからまあ、パクリやトレースが叩かれる人は人気や権威が無い人なんだろうな、と思ってる。完全オリジナルで作品を作るクリエイターなんて居ない訳だしね
って反論が来る事は分かっていた。実際自分もそう思う。そう思うけど
ここら辺のめっちゃ良い台詞と名場面だなァァァーーーって思ってた所が他の作品からのパクリ…というか模倣だったのは当時凄い衝撃だった
空手バカ一代面白いし名作だし荒木先生も少年時代に梶原一騎作品に触れた年代の人だから影響大きいのは分かるけどね
ナルトの一話もそうだけど、感動の名場面を他の作品から他の作品から拝借したって展開は元の作品を知ってる人はパロディ・オマージュとして楽しめても
ひょっとして一昔前にガンダムSEEDが同じガンダムシリーズにも関わらず初代ガンダムやZガンダムのパクリと言われたのも同じような理由なんだろうか?
今となっては当時のあの熱狂なんて思い出せる訳もないけど…
荒木飛呂彦先生が原哲夫先生の元アシスタントという事は知っていたけど、ジョナサンが槍を振り回すシーンがまんま北斗の拳でケンシロウが槍を振り回すシーンと同じだったのは驚いたかな
結構昔からの友達に、色々ちゃんと自分で考えるタイプで、波長が合うし尊敬してるタイプの子がいるんだけど、その子の様子が最近ちょっと変わっていて。
何かというと、所謂『能力主義は正義か?』的な話(成功は本人の努力によるものではない的なやつ)と、フェミニズムにすごい傾倒してて。
こうやって、特に"フェミニズムに傾倒"って書くのは実はかなり抵抗がある。
というのは自分自身そういう考えを持ってるし、そもそもこうやって"フェミニズム"って日本語で書いた時、それが何を指すのか今はすごい曖昧になってしまってるからだと思う。
※ここでいう"フェミニズム"は、所謂揶揄されるときに使われる"行き過ぎたツイフェミ"みたいな意味ではなくて、女性の人権を守ろうとする考え方や運動、つまり本来の辞書的な意味のフェミニズムです。
そういう"真っ当な"ものだと考えているなら、なんで"傾倒"なんて言葉を使うのかというと、そうとしか言えない状態に友人が見えたからで、それがこんな長々と文章を書いて自分の考えをまとめようとしている理由でもある。
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その友達は昔から本当によく考える人で、ともすれば面倒臭い人なんて扱いを受けることも多かったそうだが、こちらも"自分の頭で考えずに生きるなんて"、という方だったのですごくウマが合った。
ウマが合うといってもずっと一緒につるんでいたわけでなく、中学の時から接触が増えたり減ったりしながら、社会人になった今でも繋がってるといる感じ。
で、最近電話で話し込む機会があったんだが、そしたらなんか友達がその、ちょっと変わっていた。
能力主義は正義か?という話も、フェミニズムも、今ある当たり前を疑うという話ではあるし、それ自体に自分もアレルギーがないどころか、特にフェミニズムについてはかなり友達と似た意見を持っていたはずだ。
ただなんだろう、自分の頭で考えていたはずの友達の口から、インターネットやそこらで聞き飽きたような話がつらつらと出てくるのには結構な違和感を感じてしまった。
能力主義のあれそれやフェミニズム的な話を"聞き飽きたような話"と書くのもすごく抵抗があるが、じゃあ例えばそれが何かというと、エリートへの怨嗟、結婚制度は家父長制を助長するであるとか、現状に対する特権側の無知厚顔さであるとか…。
それらの主張や感じ方自体に反対かというと、そうでないどころか自分も同じような考えを持っていさえする。
だから、所謂"ウワッフェミニズムの人だ!(笑)"みたいな気持ちには当然ならなかったし、途中までフンフンそうだよな的な気持ちですらいた。
のにも関わらず、だんだんと違和感が大きくなっていった。だって、あまりにもその、聞いたことあるし思ったことある話だから。
いやそりゃ、同じ問題について課題意識を持ってるんだから、同じことを考えるのは必然だろうというのもわかるし、それはそうだと思うんだが(例えばフェミニズムじゃなかったとしても)。
ただ、あまりにもその単語の全て、怒りの方向性、結論、雰囲気(としかいいようがない)などがあまりに既視感のあるもので。
似たような人間が同じ本を読んで感想を熱く語っているような、そんな印象を受けた。
で、じゃあその何が問題なのか?というと、それでその友達がものすっっごく生きづらそうだったのと、自分にも同じ生きづらさについて思い当たるところがあったというところ。
いやさ、フェミニズムなんて女性の生きづらさに対する考えや運動なんだからそれを意識すれば大変なのは当たり前で、でもそれに無関心、無知で生きるよりよっぽど良いだろと思うし、それは別に間違ってないとも思う。
ただその"フェミニズム"的考えが本当に全部自分のものなのか、考えたほうがいいなと思った。
別に自分の原体験じゃなくたって、他の人の怒りに同調することは全く悪ではないし、実際日本はジェンダー格差がやべ〜のは事実だし、それに怒ることはマジで大事だと思う。
でも、そういった考え方や感情のどこまでが本当に自分のものなのかを間違えたり、わからなくなると、なんというか現実までそれに歪められてしまって、目の前の人間や現実をそのまま受け入れられなくなってしまう気がする。
"よく考える人である"はずの友達をあらためて客観的に見た時に、あまりにも『能力主義は正義か?』とかフェミニズム的な考え…イデオロギーを外からガッツリインストールしてしまって、それに雁字搦めになっているように見えた。
そこで改めて自分や"フェミニズム"というものを顧みてみると、やっぱりかなり思うところがあった。
今のツイッターの"フェミニズム"ってさ、まぁあくまで自分の観測範囲内であることは先に強く言っておきたいけど、こんな感じじゃん:
・みんなが個々で色々考えて言っているように見えて、そのベースにはある程度共通のイデオロギーがある(ように見える)
・そのイデオロギーは別に特定の有名人一人の考えではないが、複数人拡散力の強い人はいる(本の著者やSNS上のインフルエンサーなど)
・対抗勢力めいたものがいる(その雰囲気を帯びた投稿にめちゃめちゃ噛み付くユーザとか)
・程度の差はあれ、現実の認識がそのイデオロギーに影響されている
これってさ…この特徴って、フェミニズムだけじゃないインターネット上の"運動"でよく見かける気がしないか?
ネトウヨとか、スピリチュアルとか、陰謀論とか、そういう、「自分の頭で考えれば良いのになぁ」って感じの人達。
↑の箇条書きのテーマをフェミニズムからこれらに読み替えてみてほしいけど、どれでも結構当てはまると思う。
まぁ、だからどうなのかと言われると、少し困る。
ジェンダー格差は現実の切実な課題としてそこにあることも、それを自分が問題に感じることも変わるわけじゃない。
ただ、少なくともインターネットで多く繰り広げられてる"フェミニズム的なもの"については、↑のような要素や部分も少なからず有るようには感じる。
人間というものがなんらかのイデオロギーを持って活動しようとすると、多かれ少なかれ似たようなことになるのかもしれないな、とも。
だから、これもどこかで聞いた話だが、"その怒り(じゃなくてもいいけどなにかの強い感情、そして多くの場合は怒り)は本当にあなた自身の怒りなのか?"というところがわからなくなったら、一旦距離を置くというのも(その人自身の人生にとって)良い選択肢なのではないかな、と思う。
別にインターネット上のフェミニズム自体を全く否定するわけではないし、拡散力がある以上その手の運動にとってインターネットの活用は不可欠だと思う。
具体的に名前が浮かぶアカウントも、普通に応援したいというか頑張れ…とは思っている。でも、俺は一旦離れようかな、という感じ。
こんだけつらつら書いて結論弱?!って感じだが(笑)、自分が信じ込んでるものについて、リアルで他人の挙動を見せられたのは結構衝撃だったし、それをみて自分にも思い当たるところ(振る舞いもだけどそれより特に考え方について)があったのも衝撃だったし、それを整理するのに分量が必要でした、という感じだ。
その友達も変わらず俺の大事な友達なので、別にそのイデオロギーめいた部分以外は変わってないし話してて楽しいし、同じ考えを持つことを強要されだすとかしない限りは(そしてそういうことはしない人だとは思う)、仲良くしていきたいと思う…(書いてて改めて思うけどほんと陰謀論の人とかに対する感じ方だな…)。
ちなみに自分の振る舞いや考え方で特に思い当たったのは、同性パートナー(男)への評価の仕方がなんか、毒されてるな(あえてこういう日本語を使う)と思った(し実際相手から微妙に指摘された)という感じです
こういうちょっとした違和感が重なっていた所に、ドーンと友人の挙動を見せられたのがトリガーになった感はある
蛇足にしたのは本編でしていたイデオロギー云々の話に、自分の個人的な話(特に属性)を入れると話が発散しそうだなと思ったので…
男でフェミニズム?モテたいの?とかよく言われるけどゲイだと結構色々思うところはある。
ただあんまりこの話をするとそもそもフェミニズムは女性の権利の回復の話であって(勝手に男のものにするな)、みたいな話にもなるし、別にその話をしたいわけじゃないのであまり脱線させたくなかった
注)オチはありません。
私、妻、娘息子の四人家族。浮気やその他悪事らしい悪事はしたことのない小市民だが、私は性に目覚めたころから小児性愛者である。
始まりは小学生の集団登校。高学年時、人懐こい低学年女子に登校中ベタベタとくっつかれていたのがキッカケだと記憶している。中学生になりガラケーを与えられてからは、猿のようにネットでネタを探し自己処理に耽っていた。そんなある日、とある男子が女子小学生が好きだとの理由で袋叩きにいじめられているのを見て、この嗜好は他言無用だと認識した。その後今まで嗜好の件は誰にも言っていない。
高校〜大学になっても相変わらず嗜好はそのまま。パソコンを買ってより快適な猿となった。
●何故結婚なんてしたのか
妻はサークルの後輩である。サークルの飲み会後私の下宿先に泊まって事に及びそのまま付き合い始めた。そしてお互いの卒業後に結婚。よくある話だと思う。嗜好がばれなかったのが幸いだった。
妻のことは勿論愛しているが、年齢の話に限れば当時からすでに私の趣味範囲から大きく外れている。しかしいざ行為に及ぶとき、私の一物はしっかり機能した。これも幸い。
妻が初めての相手であり他にはプロのサービスも含め一切経験が無いため、妻だけ特別なのかそうでないかは分からない。
●娘に対して
不思議と娘には全く欲情しない。真っ当に我が子として可愛いと感じる。原体験の通り私の嗜好の対象は小学校低学年だが、娘がその年齢になっても何も感じなかった。しかし外で見かける他所の子は今でも意図せずそういう目で見てしまう(勿論手を出したりジロジロ見たりはしません。念の為)ため、私の癖が収まったわけではないと思う。
とりとめもなく書いたが実際の話である。下の子ができてからもうそういう欲自体がだいぶ減ってしまったが、嗜好の方向性は小学生から変わっていない。今後も変わらないだろうと思っている。
父が脳出血で倒れた。
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ほらみろ、夜更かしはするし、タバコもやめないし、肥満だし、当然だ。
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と、思った。
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初めて病床で対面した時、矛盾ながらも彼はとても弱った様子だった。可哀想だと感じた。
親の死期が近い、という言葉が頭によぎる。
そして同時に寂しいという感情も沸いたのだ。
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あり得なかった。
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父は自分にとって、自分の人間関係の中でもワーストで関わりたくない。
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なぜか?
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金だ。金の使い方があり得ない。
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書ききれないほどに挙げられるが
にもかかわらず、とにかく働かないのだ(正確には働けない身体だが、本人にそれを改善する意思や行動は見られない。)。
このギャンブルに手を出してから、子どもたちの奨学金を生活資金として受け取り、踏み倒しギャンブルに投資していた。
父の入院をきっかけに父が所有するアカウントを全て洗い出した、証券の取引履歴を見たら、毎年50万の赤字を叩き出していた。本当に笑える。
喧嘩が激化して怖くて泣いた記憶もあるし、仲直りしてと子どもながらに訴えていた記憶がある。
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一度、母を殴ってたっけ。
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そんな母には僕が大学に進学するタイミングで、離婚することと家を出ることを勧め、離婚届にサインして日本を出た。
そして僕も奨学金を握りしめて家を出た。
今は海外で楽しく過ごしているそうだ。
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僕は父に対してコンプレックスを持っている。
頭が悪いと思われたく無いのだ。
幼少から他人を批判する父親を見て育ち、父にはそれを判別する力を持っている聡明な人間なのだと思っていた幼少期だった。
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入院してから病院に持ってきて欲しいものを間違えたとき、その時は気づかなかったが自分は内心とても焦っていた。
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ああ、また親父に認めてもらえない。
その原体験は高校でトップの成績を取ったときだった。成績を見せても
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井の蛙になるな
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と言われ、認めてもらえなかったのだ。
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これが寂しさを引き起こしている原因なのかもしれない。
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父には、まだ認めてもらっていない
早く何かを成し遂げなければ。
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だからもう少しだけ生きていて下さい。
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https://anond.hatelabo.jp/20210807233230
b:id:le_cinema Hさんのご両親の話は無意識の男尊女卑で世の中をちょっとずつ悪くする人の例として挙げられてるだけでは?増田は安全圏にいると言いながらフェミガー長文を書き殴らずにはいられない己についてはどう分析するの?
b:id:RRD 家庭内暴力ではないが、家庭内で暴力がふるわれてるんだよ。ブクマかは日本のことをよく知らないみたいだけど、日本ではよくある話。
b:id:maruX 増田が男尊女卑を感じずに生きてこられたのは何故なのか、まるで疑うこともしないでひたすら上から目線なの凄いと思うよ
b:id:cleome088 あなたもその地獄を知らなかったんだから、相対的視点のない田舎者だし、その地獄により添う気がないのならそれは現在進行系でそうなのだと思う。/大叔父が昔傷害で人刺したけど示談になってニュースにもなってない
b:id:white_rose こうやっていちいちネチネチと相手を侮辱せずにいられないミソジニー増田みたいなのがいるからじゃないですかね。自覚がないというのはより深刻。
b:id:esbee 増田がたまたまいい環境で生まれ育って無知で勉強不足な可能性はあるんじゃない?私はHanPannaさんに共感しちゃうな~。相対的視点が無いのは増田のほうでは?
b:id:kagecage 自分は全ての議論において「全員原体験が違う」ということは念頭に置くようにしてる。身近な男性がセクハラをしてくるような環境にいる人は、残念ながらたくさんいて、その悲しみには寄り添いたい。
裏で連絡取り合ってんの?
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
「面食いです」っていう人の方がよっぽど信じられる。今でも友人として数少ない仲がいい女友達がこのタイプだ。浮気性のクズだが、プラトニックな飲み友達である。
俺の髪質は悪い意味で特殊で、太くて縮れていて量が多い。小学生のころから強い癖毛で、中学時代のあだ名は「ちんげ」「スチールウール」「陰毛」「アフロ」「チリ」「かたやきそば」散々だった。他人に容姿を侮辱されるのは屈辱だったが、何よりも自分が、この扱いにくい髪質をとても嫌っていた。好きでこんな髪質で生まれたわけじゃないのに、なんでこんな仕打ちを受けなければならないのか。ネットのヘアカタログにある「くせ毛におすすめのヘアスタイル」みたいな写真は1mmも参考にならなかった。見るたびに「こんなのほぼ直毛じゃねえか」と悪態をついていた。
学年TOP3のキモいランキングに入ると、もう学校生活で人権はない。汚物のような扱い、何をしてもいい扱いになる。同級生からは「あいつは髪が終わってる」と嘲笑されて、容姿偏重主義の社会の車輪の下敷きになってメンタルは大分荒んだ。今でも心が屈折しているのはこの当時の原体験の影響かもしれない。
中学卒業を機に縮毛矯正をかけた。感動した。みんなこんな世界で生きているのか。風で髪が靡く感覚に感動した。ドライアーで髪がすぐに乾いた。とても快適だった。地元から離れた高校に入学してからは縮毛矯正を欠かさなかった。そうしたら面白い事が起きた。俺が「イケメン」として扱われるようになったのだ。中学時代に汚物のように扱われてた俺が、キモメン三銃士の俺が。イケメン扱いされたのだ。たかが髪型1つでだ。俺に媚を売ってくる女が、何をしなくても寄ってくる女が、いるのだ。中学時代の汚物扱いされてた俺がだ。
俺はそこで人間不信を深める事になった。そして思春期の持て余した性欲を寄ってきた女達にぶつけるようになった。
周りを傷つけないように振舞っていた中学時代の俺は髪質だけで男女から汚物扱いを受けていたが、女を物のように扱うクズな仮初の直毛の俺を女はより求めるようになった。高校時代はセックスに明け暮れながら、くせ毛の陰におびえた。1か月半に一度はリタッチをしていた。周りにくせ毛だとバレるのが酷く怖かったからだ。第一に髪の事、第二にセックスの事。そんなことしか頭になかった。
クラスメイトで、癖毛で小太りの男子生徒がいた。おとなしくて引っ込み思案だが、別のクラスメイトがドミノ倒しに倒した自転車を一緒に起こすのを手伝ってる姿も見た。器量は良くないが性格はとても良い奴だった。共通趣味が無くて会話したことはあまりなかったが、俺は彼が人として好きだった。そんな彼に俺の事を好きだという女が言う。「あいつキモくない?」「きしょい」俺はそれを聞いて肯定も否定もしなかった。ただ茫然自失としていた。そんな彼女の同じ口から「私は見た目で人を判断しない」「中身重視」こんな言葉が出てくる。彼女みたいな人間が気持ち悪かった、怖かった、たくさんいた。俺は人が目の前で自転車を倒しても素通りするし、縮毛矯正がなければ小太りの彼より酷い癖毛だし、君の事もおまんことしか考えてない。少なくとも彼は君からどんな仕打ちを受けても君を人として扱うだろうし、俺より彼の方が中身はよっぽど優れている。俺は君にそんな事を言われたら孫の代まで恨む。俺が彼に勝ってる要素なんか何一つないんだよ。君は一体俺の何が好きなんだろう。
見た目でしか好かれる方法を知らなかった俺が好かれるのは、こういう女ばかりだった。清楚系で可愛い献身的な子もいたが、数年後経った今は風俗で働いてるらしい。
三十路手前の今でも俺は縮毛矯正のリタッチを続けている。かれこれ15年選手になる。未だに人にキモがられるのが怖いし、人に好かれるのも怖い。
前の職場の先輩に「その頭、縮毛?」と言われたことがあった。冷や汗をかきながら「そうです。くせ強いんで」と答えた。「へぇ」とだけ帰ってきた。その後も普通に接してくれたが、縮毛矯正をかけてなかったら普通に接してくれなかった気がする。
人間は中身が全てというがあれは嘘だ。人間が「中身」を見てもらう為には、見てもらう為の土俵に立たなくちゃいけなくて、その土俵には不細工は上がれないのだ。だからどんなに性格が良い不細工でも「キモい」「生理的に無理」で一蹴される。
俺は今でも車輪の下敷きになったままなんだろう。
別に障害者本人に何かされたわけじゃないけど、周りのせいで被害こうむったって話。
ショッピングモールの増田は対一で嫌なことされたからまぁ分かるんだけど(たまたまイカれた客が障害もってたってだけとも言えるけど)
障害者本人には責任ないけど、イカれた保育士とイカれた障害者の保護者のせいで、障害者にまつわる嫌な思いしたって話。
もうはるか昔の話になるけど、保育園でずっと知的障害持つ子の世話させられてた。
その時はまだ特別学級とか田舎の方ということもあってあんまり普及してなくて、保育園ならなおさら。普通に20人にも満たないクラスに、知的障害持つ子がふたりと、たぶん発達障害だろうなって子がひとりいた。
自分は割と発育早くて、身長も大きいし、他の子より聞き分けも良くて、先生から何かと頼りにされることが多かった。
だから、その3人の世話を任されること(押し付けられること)が多々あった。
一番重度の知的障害を持つH君は、会話もままならず、顔もなんか変で体も小さくて、周りの人とのコミュニケーションが取れなかった。
だから庭遊びの時とか、いつも手を繋がされてふたりで放置された。
他の子が縄跳びとか竹馬とか追いかけっこしてるとき、自分はH君と黙々と砂遊びしたり、園庭をぐるぐる散歩することしか出来なかった。
もう1人の知的障害を持つFちゃんは、癇癪が酷くて、自分のままならない事があると奇声をあげて泣きながら、とにかく周りの人もものも叩きまくった。
工作なんかは他人の倍時間がかかるので、手先の器用だった自分がいつもお手伝いとして投入されていた。この時間があれば、もっと絵を書き込んだり、工作も丁寧に出来るのになと思いながら、たまに癇癪おこされて頭ぶっ叩かれながら卒園までお役目は続いた。
発達障害のN君も癇癪持ちな上、ワガママで暴力的。お昼寝の時間になるとこっちの布団に潜り込み、陰部を触ったり、キスしてきたりとなんかこれはこれで大層ヤバい子だった。
布団を離してくれというと、泣きわめいて先生を蹴るので、「我慢してね」と言われて長らく園児による園児へのセクハラを受けながら過ごした。
自分の灰色の保育園生活はこんな感じだったけど、いずれも障害者本人達には何も責任はないと思う。(むかしは本人達が嫌いでしょうがなかったが)
今思えば、スケープゴートを差し出してクラスの安定をはかろうとしていたバカ保育士や、そもそも園に通わせていた保護者がむしろ加害者であると思っている。
でもその時の嫌な思い出が原体験としてはつよすぎて、未だになんか障害者とは関わりたくないんだよね。
どんだけ強いかといえば、あんな子持つぐらいなら子供いらないなと思うぐらい。
別に2020年に発売されたゲームというわけではない。というか、大抵はSteamセールで買った奴。
Endless Spaceが良かったことを覚えていたので買った。
買ったのは良いのだが、1と違って2はいまいちハマれていない。理由は良くわかっていないのだが、一応インストールは続けているので暇を見て遊び直すつもりだ。
鉄道網を中心とした交通会社運営シミュレーションゲーム。
A列車を知っている人間に対して言うが、TpF2で複雑怪奇なダイヤを組むことは出来ない。それどころかダイヤを組むことすら実質的には出来ない。というのも、このゲームは1850年頃から現代までを網羅する都合上、ゲームスピードが結構早く、隣町に辿り着くまでに数ヶ月かかるみたいな事が起こる。なので、ダイヤに拘るならA列車に拘るしかない。
C: SのDLC。確かボイロ実況を見ながら買った。
このDLCの要素は、まだやってない。
確かゆっくり実況を見ながら買った。いや、お薬ボイロ実況だっただろうか? どっちでもいいか。
Project Hospitalは2018年に出た病院経営ゲームだ。同年に出たTwo Point HospitalがTheme Hospitalの精神を継いでコミカルな方面に振っているのに対して、Project Hospitalの方はリアル方面に振っている。ただし、狂犬病は治る。あと、米国の保険システムをベースにしているので、日本とはちょっと違っていて、もちろんゲーム的な味付けはあるのだろうけど、契約した保険会社が客を送ってくるし、基本的には保険会社によって客単価――患者単価が変わってくる。あと最初に契約するのは保険無し。つまり……君達に500$とか請求するけど、破産しないよね? ということだ。
さて、Project Hospitalが何かというと、患者が死ぬ前に全ての処置を行えるように専門処置室を設置し、医師と技師、看護師を配置し、患者の命を繋ぎ止めていって大金をせしめるゲームだ。
まず、動線が悪かったら患者は死ぬ。必要な診察室がなくて何の病気かわからなくても患者は死ぬ。キャパオーバーしていて充分早く診察が行えなくても患者は死ぬ。そして、それら全てをクリアしてどの病気かわかったとしても、治療が間に合わなかったら患者は死ぬ。
ゲームの最初はそんなにシビアじゃない。総合診療科は基本的には軽い病気しか扱わないからだ。しかし、新たな診療科を開業していくに連れて難易度は上がっていく。
俺は最初の病院で、総合診療科の次にうっかり内科を開業させてしまった。数多の患者が肺に水を溜めて死に、病院の経営は悪化し、新たな施設投資は夢物語となり、そして、数多の患者が肺に水を溜めて死んだ。
俺はその病院を放棄し、別の病院を開業することにした。今度は整形外科から作ると誓ってな。
航空事故が血によって航空機の安全を確保してきたように、このゲームもまた、架空世界の患者の命を犠牲にすることで、より良い医療体制を追求する事ができる。
そして思うのだ。あぁ、ゲームで良かった、と。
理由はよく判らんが何故か買った。多分セールかなにかだったんだろう。Steamは魔境だ。セールと言うだけで特に遊ぶわけでもないジャンルのゲームがライブラリに増えている。怖い!
長寿シリーズの高評価リメイクだけあって俺が何かを言う必要も無いほどに良い。
一つだけ気にくわなかったのは龍が如く7のおま国だったが、無事解除される事になったので特に言うことはない。
と終わろうとしたが一つだけあったわ。どこでも真島のせいで真島さんのストーリーでの立ち位置が意味不明になってない?
C: SのDLC。確かボイロ実況を見ながら買ったが、その実況でこのDLCが使われているわけではなかった。
このDLCの要素は、まだやってない。
Wargameシリーズや、更に遡るとRUSEを開発していたEugen SystemsのWW2 RTS。
Wargameのように一定の制限の元にデッキを作り、デッキを使って戦うゲームだ。
さて、そのデッキを組むのがちょっと面倒だ。まず、Steel Division 2では東部戦線が舞台になるのだが、その中の師団(一部旅団じゃね? って気がするのもある)から1つ選んで、デッキを組むことになる。各師団は戦車師団であったり歩兵師団であったりして、それに応じて戦車が強かったり、歩兵が強かったり、砲兵が強かったり、航空戦力が強かったりする。あと、資源の増え方が師団によって異なる。だが、それを師団名とちょろっとある説明でわかるというのは難しくない? とは思うし、何よりどのユニットが良いのかわからん。俺はV号戦車がIV号戦車より強いのは知っていても、T-34-85こそが当時の万能戦車であることは知っていても、ナントカ歩兵がホゲホゲ歩兵より強いのかは知らないのだ。結局、俺はYoutubeを参考にお手軽デッキを組み、それから歩兵を減らして偵察を増やした。
ちなみに、パン偵(Aufklärungspanzer V――アウフクラルングスパンツァー フュンフ)は個人的に結構良いユニットなのではないかと思っている。
さて、デッキを組んだのでスカーミッシュに繰り出すわけだが、CPUが結構手強い。
俺みたいな弱者は戦車師団を元にした戦車デッキじゃないと勝つことが出来ないくらいには強い(どの難易度のCPUを選んだかは忘れた。Easyだった可能性はあるが、Normal的なのだった気もする)。
いや、ほんと歩兵師団でどう上手く立ち回るんだろうと思いながら別ゲーに逃避している。
Netflixでミート・イーターを見ていたらやりたくなって買った。
俺には合わなかった。
代わりに高い肉を買ってきた焼いた。
美味かったが、大自然の風味はしなかった。
大航海時代っぽい奴。面白そうと思って買ったみたは良いが、そこそこ近くでも移動するのに30分掛かり、さらに別の港までは逆風で60分ほど掛かったのでプレイ継続を断念した。
好きな奴は好きだし、ハマる奴はハマるゲームではある。
まだやってない。
たしかPS4で買ったのだが、PS4は弟に譲ったので買い直した。
スパロボはスパロボだが、ヤマト2199が出て来るという点で異色か。
版権の問題で難しいとは思うのだが、αやZシリーズをPC移植してくれないかな。
3D版Factorioと表現したくなるような奴だが、Factorioと違って原住生物の襲撃がないのがちょっと物足りない。
しかし、工場を立体的に構築するという点についてはFactorioとは違った面白さがある。
これは前からセイギャラ実況動画で知っていたのだが、ETS2以外にのんびりするゲームが欲しいなと思った時にセールで買った。
石灰を撒き、肥料を撒き、耕して種を植えてから肥料を撒き、除草剤を撒き、もう一回除草剤を撒き、そして収穫する。これらを全て違う農機を駆使して行う農機シミュレーター。
かつては農業シミュレーターと呼んでいたのだが、サクナヒメが出てからは農機シミュレーターの方が合ってるなと思って俺の中での呼び方を変えた。
ボーッとゲームをしたいときにするゲームの1つ(もう1つはETS2)。
一応ハンコンにも対応しているのだが、あまり合わない気がする。
クッキングする系ゲームだが、プロパン爆破ゲームと勘違いされている気がしなくもない。
まぁ、ケーキやクッキーを作れるようなDLCを買ったのは良いのだが、現実でやらんタイプの料理をコイツでしてもなんか面白くないなと思って結局本体だけやってる。
教授の動画のようにMODを増やしていくことで経済面が充実していくので楽しいのだが、今はE:Dに回帰してしまった。
この表現が正しいかどうかはわからないが、これはカイロソフトの『ゲーム開発途上国』の系譜にあるゲーム開発会社運営ゲームであると言って良いと思う。
似たようなゲームとして『Mad Games Tycoon』や『Game Dev Tycoon』がある。『Software Inc.』なども類似性があると言えるかもしれない。
City Game Studioは、複数のスタジオを運営できたりと、この系譜の現時点での完成形と言っても良いと思っていたのだが、『Mad Games Tycoon 2』が出ていたのでその判断は差し止めて置く。
ただMad~Tycoonのグラフィックは結構人を選ぶタイプなんだよなとは思う。
地下鉄駅のネットワークを営業するシミュレーションゲーム。
どうもロンドンのチューブをベースとしているらしく、東京の雪崩を相手にする必要は無い(そっちは多分STATIONflowがそんなのなのでは?)。
俺は捻くれているので、実況とは違って音楽系U-Tuberになることにしたのだが、あまりクオリティが高いとは言えない音ゲーが挟まるのがストレスポイントになって終了した。
ピラミッドとZUNTATAのスマホゲームをやっているので買った。
こいつは古き良きRTSに近くて、ただマップが球体であり、宇宙があり、そして、他の球体がある。
俺は古のConquest: Frontier Warsがゲームの原体験なのでこの手のゲームは好きなのだが、Steel Division 2の話で気付いたように、俺は弱い。
俺は弱いのだが、Planetary Annihilation: TITANSはそんな俺でも爽快感に満ちる事が出来る。なぁに、途中の趨勢が悪かったから何だというのだ? スーパーレーザーで惑星ごと破壊してしまえばこっちの勝ちだし、惑星を破壊すると言うことはそれがなんであれ、最高に気持ちいいのだ。
超細かくて楽しいことは楽しいのだが、このゲームをやっているとその時々の自動車産業史を調べたくなってしまって中々進まない。
例えば、このゲームの序盤はピックアップトラックを作って各国軍に売り込むのが初期資金を作り上げる手として有効なのだが、この時に自動車用エンジンの設計もすることになる。この設計をするときに、史実のこの年代だとどの程度のエンジンが開発されていたのかを参考にしたくなる。そしてそのたびに手が止まる。
そもそもピックアップトラックは1900年に存在しねーよとかは、まぁその通りだが(歴史上初めてのピックアップトラックは1913年に作られたし、メーカーの純正モデルになったのは1923年らしい)。
買ってインストールし直して起動していない。
Cyberpunk 2077が話題になっていたので買った。
なんか動画を見てゲームを買うことが多い年だったな、と思ったが、ゲームを知る経路がジャンル別のPV集から実況動画に変わっただけな気もする。
そして実況動画で受けた印象とは違うプレイフィールに気付くのだ。あぁ、実況動画って繰り返し作業はカットしているな、と(実際、俺も試しにYoutubeでの再生数2桁の実況動画を作ったが、1時間録画して使ったのは10分とかそう言う感じだった。序盤でそうなので、ゲームが進んで作業が増えてくると使用率は推して知るべしとなる)。
まぁ、でも2020年のメインは、PCクライアント版が投入されたピラミッドのアリスギアだったんだよな。フリック回避が暴発することはあれど、大画面とXBoxコントローラーでするシューティングゲームは息抜きには丁度良かった。丁度良すぎて数時間調査に費やしたことがあったが、あれも多分息抜きだったのだと思う。
そして俺はピラミッドの思惑通りにブキヤ沼にハマり、今はFAガールが2箱、メガミが4箱、創彩少女庭園が1箱、ギガンテックアームズが1箱積まれている。多分、少ない方だと思う。