はてなキーワード: まごころを君にとは
ネタバレなし。というかネタバレになる程の新展開はそんなにないかも。
全体の感じとしてはアニメの総集編と、更に解釈を分かりやすく付け加えてくれているような、エヴァでいう簡易版まごころを君に的な印象を持った。ああ、この感じ方で監督の言いたいことは間違ってなかったんだ的な。
銀河鉄道の夜未履修だし、色々詳しいことはわからないけれど、何だか人によっては救いのない作品なのかなと。
「例え運命がすべてを奪ったとしても、一度でも愛してると言われた子供は幸せを見つけられる」
と言っているように、この物語の大まかな結論はこれに尽きると思う。
生まれに恵まれなくても、環境に恵まれなくても、レッテルを貼られた人生でも、愛し愛される事で救われる事があると。
その通りだと思う。自分も結婚してて、幼少期とかあんまり恵まれた子供じゃなかったけど、今は愛し愛されて幸せ。
でもふと、愛し愛される相手を見つけられてなかったら?もし相手が死んでしまったら?と画家を前にしているような気持ちになる事があって。この今の幸せはただただ幸運に恵まれただけのラッキーと思っている。
じゃあ乗り換えできてなかったら?また呪いのレールに乗ってしまったら?そんな事誰しもにあり得る出来事だ。
そんな時にこの物語を見たらどう思っただろう?
愛がないと幸せじゃないのか?
愛を見つけられないのは産まれと同じくらい運のなす偶然であり、不条理ではないのか?
愛し愛されない人は来世に期待ってこと?
こんな感情だと思う。
ウテナ時代から幾原監督の作品は見ているけど、どの作品にも総じて愛(自己愛、他人からの愛)が重要なキーワードになっていて、幾原監督は愛を訴える人なんだなと。
それと同時に、監督も愛も平等ではなく、世の中が不条理である事を痛感していて、あえて完全にみんながハッピーになれる訳ではない、考察の余地の残る着地が常なのかなと。
昔はこうやって、良し悪しのはっきりしない、考察しがいのある作品を好んだけれど、大人になると現実を突きつけられているようでちょっと苦しくなる。名作という点に異存はないけれど。
感じるところはあれど、見に行く甲斐ある作品でした。トリプルHの歌声を映画館で聴けただけでなんかもう感慨深かった。
そろそろ上映数が少なくなるので、気になってる方は是非に。
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
もちろんのようにネタバレを含むので、注意してほしい。
見終わった感想は、「本当に終わった」だった。
すごく丁寧に「伝える」ことに真摯に向き合っていると感じた。
それは描いていることだけではなく、描かれなかったことも含めて。
きちんと振り返り部分がある丁寧さが、この映画を象徴しているといっても良い部分。
復習して来いよ、ではなく、劇場でこれまでを振り返る。その丁寧さが全編にわたってある。
忘れてならないのは、これは劇場4部作ではなくて、エヴァンゲリオンの最終作ということ。
だから、題名からして「シン・エヴァンゲリオン劇場版」であって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でないところで主張してる。
そして、「まごころを君に」「世界の中心で愛を叫んだけもの」ときて、「未来からのホットライン」で落としているところに、本当に最後なんだな、という気概を感じる。
NOTでも(NOT)でもなく、今までの否定でも追認でも無い、終わりが来たんだなという予感は正しかった。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破QはTVシリーズみたいなもんで、今回が劇場版」みたいな位置づけっぽくみえる。
冬月副指令側はネルフパリ支部を守る陽電子砲側で、ヴィレは侵略する側。
派手なアクションシーンであるとともに、赤いヤツって戻せるんだアレというのをこれ以上ないほど明確に見せる場面。
直接の描写が牧歌的なだけで、薄氷を踏むような生活というのが描かれずに表現されているように思う。
トウジは「医者の真似事」だし、ケンスケは「なんでも屋だが風車のメンテはできない」。
食事は配給制で、一軒家はトウジの医者という特権性に由来する特別扱いになっている。
綾波型初期ロットはそのトウジの客人ではあるが、農作業にわりとしっかり従事させられている。
そしてそこにいるのは老婆が中心。
若い男女や男性は、綾波型の心の触れ合いのような農作業には出てこない。
銭湯や図書館も牧歌的ではあるが、つまりは個別の風呂や嗜好品が持てない生活を、直接の描写なしに示唆している。
でも、並行複発酵である日本酒を飲める程度には豊かさがある。衣服も残ってる。(心の余裕はまず生活の余裕から)
でも、味噌汁に口をつけないことで激昂する大人がいる程度には食料に余裕がない。
たぶん、ココを受け付けるかどうかはその人のエヴァンゲリオンへの思いによる気がする。
第四話の「雨、逃げ出した後」だよねココ。
ひどい経験をしたシンジが家出をして、ケンスケとキャンプする。
TV版では、その後無理やり連れて帰られるけど、ネルフから出ていこうとして、自分の意志では電車に乗らなかったと言う流れ。
ケンスケの描き方はあの時からある意味で一貫している。自身の興味には忠実だが、相手の心情には過度に踏み込まず、黙って見守る。
「なんでみんな僕にやさしいんだよ」という嗚咽がほぼすべてだけれども、誰にも強制されることなく、しっかりと時間をかけてシンジだけで結論を出すのが良かった。
今までのシンジくんって、口ではみんな色々言うけど、それほぼ強制じゃんってのが多かった。
あなたが決めなさい、とか。それシンジくん考えられる状況か?その環境作るのが大人だろうっていう。
あの農作業をしていたのがシンジで、みんなの優しさに触れてこの村を守るために戦うんだ、だったらたぶん流石についていけなかったと思う。
で、今までのエヴァだったら絶対にあのアスカの「泣くだけ泣いてスッキリしたから家出は終わりか」みたいなセリフ入れなかったと思うんだよね。
その後の、ケンスケとの見回りと治水の管理で「基幹産業たる農作業を免除されてる」とか「池が村の生命線」とか言わなかったような気がする。
村が赤く浸食されてない理由とか、ニアサーも悪いことばかりじゃなかったさみたいなのは、察しろよ、みたいな描写になってたんじゃないかな。
プラグスーツを着ていないと体を保てない綾波型が、その短い生の間に、様々な感情を駆け抜けていったのも象徴的だったように思う。
その一方で、加持さんの子供がしっかりと「世界をもとに戻す」実験に従事しているというのも、良かった。
ミサトさんは、スイカの種を見るだけなんだよね。種をまいて育てるのじゃなくて、種を残す方。
あの村のシーンこそが、シン・エヴァンゲリオン劇場版の急所だと思う。
シンジに好意を持つように設計された綾波型が感情を受け入れるも、なお運命の通りになる。
シンジは誰からも放っておかれる状態で、本当に自分がかけたいだけの時間をかけて、やっと決断する。
最初こそアスカに無理やり食わされるけど、シンジくん自分でレーション食ってんだよね。そして食うことに対して泣く。
自分で食い、自分で泣き、自分で時間をかけて、最後に無垢な問いかけに返す形で結論を出す。本当に良かったと心から思った。
アスカが途中で言ってたけど、そんなシンジくんみるの相当しんどいと思う。
で、そこは委員長の異様なほど優しい言葉や綾波型初期ロットとのやりとりでカバーされてる。
TVシリーズだったら赤木博士に「村での摩擦は死に直結するわ。学習性無力感の一種ね」くらいは言わせたと思うんだよねマジで。
落ち着いた後で、トウジと会話をしてお前は十分やったって言われたり、ケンスケからは親父とは話しとけよって言われたり、加持と出会ったり。
時間計ってないけど、かなり丁寧に時間をかけてあの一連のシーンが描かれてたと思うし、相当な比重じゃなかったのかなアレ。
でもなあ、序破ときて、Qでのカヲルくんとのやりとりって、アレまんま洗脳だろ。そらシンジくんでなくても壊れるよ。
親しい人と引き離して孤独にし、信頼を得てから既存の価値観を壊し、そのショックが大きい間に新しい方向性を示す。
で、洗脳が解ける前に、信奉した教祖たるカヲルくんが自分のせいで目の前で死んだら、そら壊れるよ。
それをきちんと作品内で比重を置いて向き合って時間をおいてくれたの本当に良かった。
アスカのDSSチョーカーみて吐くシーンは象徴的過ぎてインパクト強いけど、マリもアスカも対爆隔離室内に自室があって爆薬増やされてるってことは、シンジくんと同じよね。
シトと一緒だからじゃなくて、エヴァに乗る適性がある人間に対しての強い警戒心。
あと、振り返って考えると「ワンコくんとの進捗どうだった」のあと、「年頃の男には興味ないか」みたいなことマリがアスカに言ってなかった?
そういや、冷酷っぽくふるまってるアスカが、劇中ほぼ唯一恥じらってるのがケンスケにカメラ向けられたときなんだよな。
シンジくんって、ヴィレ判定で精神的に安定してるって言われてるから、綾波型初期ロットとの直接のお別れを経験後なわけで、親父すでに超えてるんだよな。
たしかその前後で、冬月副指令が、「自分と同じ喪失を経験させるのも息子のためか碇」とか言ってなかったかな。
あと、どのシーンでもマリって劇中で誰かと相対するときには、相手のパーソナルスペース内に入ってんだよね。
破で、シンジくんの匂いを嗅ぐ、引きこもってるシェルター内のシンジくんを引きずり出す。
アスカには抱き着く、後ろに回って髪を切ってあげる。シンジくんの後ろから手を回してだ~れだって問いかける。
古今東西の書物を読み漁り、相手の懐に入り、どのタイミングでも余裕たっぷりなのは、イメージとしては「魔女」だよな。
アスカが死に装束でしょと返したスーツを着た後、シンジにわざわざ会いに行ったのはどう考えても最後だと思ったからで、
わざとだよなあの艦隊戦とあの曲。
そういや、エヴァで誰を殺せば世界が平和になるかって言ったら真っ先に冬月副指令だと思うんだよな。
Q以降、ほぼ単独で組織的な攻撃に対応してるのとか、そもそもの研究室の件と言い、このオッサンが元凶だろう。
舞台を整えるの全部やり切ってるしな。
セカンドの海の浄化、サードの大地の浄化だったら、フォースって空の浄化じゃないんかい。
あとゲンドウがきっちり葛城大佐、赤木くんって呼んで反論しててちょっと面白かった。
ミサトさんに息子の話をするシンジくんは、はっきりあいつのこと好きだよって言ってるんだよね。
自分が人を評して、それを他人に伝えることに躊躇しない最初の相手がミサトさんなのは結構グッと来た。
アレなニュアンスの旧劇ではなく明確に母親ポジションとして描かれているので安心した。
ゴルゴダオブジェクトの上で、マイナス宇宙でヒトが認識できる形を記憶からLCLが作ってるんだっけか。
きっちり旧劇っぽく親子喧嘩をメタっぽく描いてるのがエヴァだよねって感じで良かった。
よくよく考えると、わりと新劇場のゲンドウって、最初から甘いんだよな。
息子とは墓参りに行くわ、息子との食事会には行こうとするわ、わざわざ褒めるわ、本部壊すまで駄々こねた息子をギリギリまでやらせるとか。
聞けば答える、本当にコミュニケーションが苦手な親父として描かれている感が最初からあったけど、まあそうなるかなーという。
やるべきことを完全にやり切って、マリの必要なものも全部集めておいて、見届けずにL結解密度が高い中で無茶してLCLになる冬月先生。
やっぱこの人が完全に元凶な感じがしてならない。
ただまあ、ユイさんってこうサークラじゃないけど、なんだろうこのワールドクラッシャーな感じ。
ゲンドウが大人の理解力と表現力で、内面をきっちり吐露していくシーン。
「ユイと出会い、楽しかった、ユイだけが受け入れてくれた」みたいなところで、どの場面でもマリがちょっかいかけてるのに一切触れられてなくて草生える。
あの流れだけ見ると、昔ちょっと好きだったゲンドウくんの息子のシンジくんを迎えに行く女みたいになるんで、それはちょっとという気にもなる。
新しく作られたガイウスの槍のシーン、シュワッキマッセリーって流れてて、聖☆おにいさんを思い出しました。
ただ、ミサトさんの死と思いを受け取れるシンジくんはほんとにゲンドウじゃないけど、大人になったなって感じた。
最後に息子から歩み寄られて謝っておそらくは和解したゲンドウが、息子の中にユイを見出すの、
繰り返しになるけど、死を否定したり無かったことにするのではなくて、受け入れたうえで先に進もうとするメッセージ性を強く感じた。
狂言回し、なんだろうな。ゲンドウが降りたらもう確かに誰もその位置に立てないしな。岸辺露伴ポジション。
旧劇の場所でアスカに思いを伝えるシーン、マリが出てくるのバグってるっぽいなー
カヲルくんと加持さんが出てくるシーン、ゲンドウとシンジとの両方の位置にカヲルくんが居るんだよね。
シンジくんに依存しない世界でのカヲルくんの理想の世界は、加持さんと接してたところになるのかなー
加持さんは、ヒトの存続よりも種の多様性を残そうと尽力したって位置づけなんだろうな。神の使徒に愛される男。
時間も世界も戻さずに、エヴァに乗らなくて良い世界に書き換える。
時間の巻き戻しではなく、違うパラレルワールドでも無くて、継続したまま治そうとする。
たしか、マリさんも迎えに来るからって綾波に伝えて別れを告げる。
てことは、アノ世界はなかったことにはならずに継続したまま、シンジくんにエヴァを消された世界に作り替えられるけれども、シンジくんは戻れないってことだよな、と思った記憶がある。
あれだけゲンドウがユイの胸で泣きたかったって言ってたのに、母さんを送りたかっただけなんだねって納得するのは、シンジくんの理解力が大人で成長したなあと。
それを、アニメーションのセル画っていう低次(二次元)の存在に落としたうえで、マリに迎えに来てもらって元に戻すっていうのは、すごいな。
マリに相変わらずいい匂いって言われたあと、相変わらず可愛いよっていうシンジに対して、
いっぱしの口を利くようになってといって、DSSチョーカーを外すのって、あれシンジの主時間で時間経過してない表現だよな。たぶん。あれが入らないと、何年も経ってるように見えるし。
そのために甲板でDSSチョーカー嵌めたのかなあ、自ら進んで嵌めるって演出にも見えたんだけどヴィレ的には必然性ないよなアレ。
最後、シンジから手を引いて階段を昇っていくのが、ああ、終わったんだなって。
というか、ぶっちゃけると、シンジくんが緒方恵美さんの声から声変わりしていた瞬間の衝撃が強すぎて、あとは流れるように見ていた。
ハッキリと明確に、彼が大人になったと感じた瞬間だった。
ああ、エヴァンゲリオンのアニメーションとしての作品は終わったんだなと思った。
一人一人に引導を渡していって、最後にあまり知らないが好意を持ってくれる女と手を繋いで階段を昇っていく。
この先どうなるかはわからないけれども、しっかりと大人になったシンジを見て、ああ、本当に良かったと思った。
鏡を見ろ現実に帰れみたいな突き放し方じゃない、同じ意味でも伝え方の違うアニメーションの力。
加持さんは裏で我儘を通し切ってた。ミサトさんは意地を押し通した。ペンペンはきっと殖えてる。
上のエントリは,「EOEが公開された頃は今ほどインターネットが普及しておらず,情報が欲しい人や感想を言いたい人はNIFTY-Serveなどのパソコン通信で細々と交流していた」という話。この話を読んで「そういえば当時パソコン通信上でさかんに議論されてた『ラストシーンの解釈』をまとめたものがあったはず」と思ってディスクをサルベージしてみた。分量が多いので二回に分けて投下してみる。
当時から「観ると語りたくなる映画」だったんだなあとか,昔も今もみんな同じようなことしてるなあとか,いろいろ懐かしい。
首を絞められながらシンジの頬に手を添えたアスカ。 このまま終わったら、アスカはただの聖人になってしまいます。(^^; アスカだって、問題のあるリアルな人間なのです。(アニメの中だけど。) それ描く為に製作者は、イメージ的には顔を「殺してやる」の時のまんまにして、 アスカ側からのシンジとの不一致を出すための行為として、「気持ち悪い」の悪口 を言わせたのでは無いでしょうか。 ここで「バカシンジ」だったら悪口に聞こえないし。
またこれは観客に向かって庵野監督が言ってるのかなとも思いました。 庵野氏はかつてEVAファンに失望しているようなことを言ってましたし、 アニメから現実に戻れということも言ってたと思います。それが実写で 観客をうつしたり、「現実は夢の終わり」などと言っていることに表れている ように思います。ラストのセリフが駄目押しかなと・・・。
シンジが“男のくせに泣いている”ことに対する非難
あるいは、監督自身の制作後感を語っているようにも思いました。 大きな期待をかけられ、やりたいことは膨らみ、当初の完成予定は遅れ、 賞賛と非難が入り交じる中、ファンの期待を(たぶん)裏切らない形で作品を 完結させた・・・。それは「疲れた」を通り越して「気持ち悪い」こと だったのかもしれない。
「きもちわるい」アスカにとっては、感覚的なものじゃなく、生理的にただ気持ち 悪かっただけかもしんないしんですよね。
シンジや綾波はあれでいいかもしれないけど、彼女の性格から して、今までの数々の屈辱を背負ってこれからまだ生きていく ってことは「気持ち悪い」そのものじゃないかなぁ…。
えっと、アスカがシンジに「加持さんはもういないんだよー(うろおぼえ)」と 言われてあ然とした後で風呂のシーンになって、湯船の水面を見つめながら 「ミサトやばかシンジの使ったお湯なんかに誰が入るもんか… ミサトやばかシンジの使った洗濯機なんか誰が使うもんか… ミサトやばかシンジの……・・・」 で、 『気持ち悪い』 で、「ミサトもいや!シンジもいや!ファーストはもっといや!!…」と 爆発したように思います、あぁ、うろおぼえなんすけど、すいません。 あと、ここのシーンって「DEATH編」の中でもテレビにはない 新作のとこだったような気もしてます、あぁ、 なんせうろおぼえなんで許して下さい、あぁ。 んで、そういうとこに、この『気持ち悪い』というセリフが使われていたことに、 そのなんだあれです、あたくし的には興味あるです。 最後のセリフのフックとして使ってるのかしら、とかとか。
つまり、あれだけ首を絞められても死ねない、という アスカの、自分自身に対する言葉かな、と思っています。 「生命の実」も取り込んだ、って事なのかな?
アスカの「キモチわるい」は、シリアスすぎる雰囲気になるのがイヤさの、テレ かくし半分だと思います(^^)。
ラストのアスカの台詞ですが、案外、怪我のショック症状で本当に気持ちが 悪かったんじゃないかなぐらいに思っています。アスカがまともな性格なら ともかく、シンジと同じくらい壊れているアスカにいわれても、オタクのオ タク批判のようなもので、まともに受け取る必要はないと思っていますから
これから二人が“アダムとイブ”として生きていかなければならないことに対する 嫌悪感
この映画が凄いところは、(中略)その後の砂浜のシーンでシンジが、 結局アスカに投げつけられる言葉「気持ち悪い。」が、 がんばったからと言ってそんなにほいほいうまく行くものじゃない、 現実は甘くない、という点を突きつけていた点にあるとおもいます。
最後のシーンについて僕は、シンジに叩き付けられた現実の世界 ではないかと思います。 倒れているアスカの光を失った目、シンジの頬に触れた手とちぐ はぐな「気持ち悪い」という言葉。アスカがシンジに対し「気持ち 悪い」って言うのは結構普通だけど、ちょっとおかしいなと思いま した。以前にキス騒動で似たようなことがあったけど、今回は首を 絞められてる最中だし........。 ここで僕は自分と他人の境界がわからないLCLの世界(原始 地球の海に酷似した世界。海に象徴される)から、他人との境界が はっきりし互いに気持ちを理解し合うのができない世界(海に対し陸、 すなわち二人がいた浜)に戻ったら、アスカはあの戦闘で気がふれて しまっていたのではないかと思いました。(心を失ってしまった?) シンジは共に歩いて行こうと思っていた女性が以前の姿を失っていて、 人形の様になっていた。彼女のことを考えいっそのこと殺そうと考える シンジ。しかしできない。 アスカが包帯をしているのを見ると、あれはあの出来事の直後では ないですよね。(戦闘以前、戦闘中は頭に包帯をしてなかった。) となると、あれは後日、もしくは後に起こってくることの提示だと 思うんですがどうでしょうか。 もしこうなると、アスカは最も嫌っていた心のない人形に自分が なってしまったというかなり皮肉な結果になってしまいますが.......。 まごころを君に..... シンジのアスカへ対するものだったのだろうか。
結局ある意味でテレビと同じ。 つまり、自分じゃ最後を書けない、だからそれなりのを書いて 皆さんそれなりに満足(または不満) というところですかね。
22話で精神的に侵食されたアスカは、25話で今度は肉体的に侵食 されてしまったわけですね。 こう考えると、なんとなくラストシーンのアスカの言葉も納得がいく。 「気持ち悪い」というのは、世に存在する「男」に対する嫌悪感が発せさせ た、ごく自然な言葉だったのでしょう。
あれは(監督の考えている)アニメファンに対する痛烈な嘲りだと感じました。 世界の全てを破壊し飲み込んだ初号機とシンジには、同時にその世界に 対する全能の力も与えられました。世界をどうするかは、全てシンジに まかされました。全てを虚無へと帰すことも、虚構の世界を構築して再び そこへ逃げ込むことも、つらい現実の世界へと歩き出していくことも、 すべて、彼が心を決めるだけで可能となるのです。 そして同時にそれは、観客一人一人に突きつけられた選択でもありました。 これはシンジの選択であるだけでなく、あなたたち自身の選択でもあるのだと。 画面に現れた、実写シーンや春の映画の観客たち、パソ通上での繰り返される 監督の悪口などは、そのメッセージじゃないかと思いました。 当然、答えは観客の数だけあります。 その中の一つの可能性をえがいてみせたのが、#26のBパートだったん じゃないでしょうか。あれは「それでもエヴァに依存しようとする人々」を 象徴しているのではないかと。 あれはある意味、多くのファンが予想し望んでいた結末でした。 世界が変化し、その中に二人だけ生き残ったアダムとイブ。 しかも、ご丁寧にもアスカにはレイの象徴である包帯と眼帯まで まいてあります。 しかし、そこにあるのは、おぞましいレイの死体。血の色の海。 シンジの殺意。アスカの蔑みの表情。と、監督は甘い幻想を徹底的に 打ち砕いていきます。 そして、とどめにアスカがあの台詞をいうのです。
他者が存在する世界に戻ってきたシンジは、自分の選択に絶対の自信が持てなかっ たんでしょう。 あそこでアスカの首を絞めきれたら、シンジは自分の世界も終わらせていたと思う。 でも、できなかった。甘い希望にすがりついたんだよね。で、自分の弱さに泣く。オ イオイ泣く。 なにかわけのわかんないことで泣かれたら、きもちわるいよね。絶対、きもちわる い。 あそこでシンジを無条件に受け入れるアスカだったら、他者として成立しないと思 う。
帰ってきたシンジは、体を再構成したアスカを弐号機のエントリープラグか ら引っ張り出し手当てをしたが、彼女は植物人間状態のままであった。 シンジは、毎日みんなの十字架を作りながらアスカが意識を取り戻すのを 待っていた。 いっこうに意識の戻らないアスカを横に、途方に暮れるシンジは、ふと水面 を見ると綾波の姿が、衝動的にアスカの首を締めるが、彼女の手が彼の頬に触 れた。彼は、意識を取り戻した喜びと彼女を殺そうとした自分に涙した。 意識を取り戻したアスカは、生理的な不快感と、自分を見殺しにしたシンジ が目の前にいることに対し「気持ち悪い」といった。 物語としてはこんな感じかなと思います。
多数の人間を犠牲にすることによって現実を取り戻した。 自分の為した罪を背負い生きることを選んだ。 飛び立つことは美しく、気持ちのいいこと。 醜いかもしれないが「気持ち悪い」かもしれないが、 本当の快楽とは、地に足を付け 他人の首を締め続けることによってしか得られないのか?
この言葉はもっと前向きに捉えて良いのでは? アスカと言えば「唯我独尊」な状態だったわけですが、彼女がシンジを見て 「気持ち悪い」と言うのは、それは彼女が本気で他人を受け入れようとし始め たからこそだと思います。 他人を自分の心の領域に踏み込ませることは勇気のいることでしょうし、気持 ちの悪いことでしょうが、それを彼女が始めたからこそ、「気持ち悪い」とい う言葉も出てきたのでしょう。 ある意味で彼女はシンジ以上にATフィールドの強い人間であったかもしれな い、その彼女が(サードインパクトによって強制的に取り払われるのではなく て)自らの意志で心の壁を開放しようとしていることが重要なことのように思 えます。
シンジはアスカを求め続け アスカはシンジを拒み続けた。 最後にシンジはアスカを殺そうとした。 なぜだ? でも出来なかった。殺せなかった そして、やはり最後までアスカはシンジを拒んだ。 それが現実なのだ。
けど、首絞められて、そいつがいきなり泣き出したら 「気持ち悪い」 というか、そういう似た様なことを思うだろうね、やっぱり。
私はこのI need youのテーマをアンビバレンツと理解した。 人間の行動は大半がこのアンビバレンツの要素をおおかれすくなかれ含んでいる。 合いと憎しみ,冷たさと優しさ,強さと弱さ。恐怖と怒り。悲しみと喜び,希望 と絶望,これらはみな表裏一体で切り離す事は出来ない。 シンジとアスカの行動と言葉はこのアンビバレンツを象徴しているのではなかろう か。私にはそう思えた。 シンジの嗚咽はこのアンビバレンツの悲しみを,そしてアスカの言葉はこのアン ビバレッンツに対する嫌悪をそれぞれ象徴していたのではないだろうか。 アンビバレンツに苦しみながらシンジもアスカも生きてゆくのだ。
さて、シンジが他人との共存を選んで現実の世界に帰ってきてアスカと砂浜 に寝てる訳ですが、ミサトの墓標があった事からいくらか時間の経過があった 様です。 アスカが怪我をして包帯を巻いているのはアスカはATフィールドを失わなか ったからLCLにならなかった様です。(レイの迎えが来てない)プラグスー ツを着ている事からも説明出来ると思います。きっとあんな状態でも弐号機が 守ってくれたんでしょう。(ここは希望的観測) そして戻ってきたシンジが弐号機のエントリープラグを探し出しアスカを助 け出します。包帯等はきっとエントリープラグに備え付けてあるはずです。 そして砂浜、、、。 しかしアスカは自我崩壊状態。「生きる意志」を無くしてます。半ば絶望気 味のシンジ。 そこにレイが現れ、そして消える。シンジは何かを悟りそして 危険な賭に出ます。ここからが僕の新解釈なんですが、、、 アスカの「生きる意志」を試すために彼女の首に手をかけます。そしてシン ジの願いは叶い、アスカはシンジの頬にふれ、シンジに「生きる意志」を示し ます。 喜びに泣き崩れるシンジ。そして最後のセリフ。アスカが元に戻った事を表 してると考えたいです。
なんか、ラストの泣き虫シンジとアスカのセリフにマイナスなショックを受けている ファンが多いようですが、ボクにはそれが良く理解できない。どう見てもラストのシ ンジはうれし(はずかし)泣きだと思うし、アスカのセリフも前向きなモノだったと 解釈しました。
砂浜でアスカは無表情で寝ている訳ですがあれは再び精神崩壊にあった状態 だと思います。やはり弐号機のなかでの復活はサントラのタイトルにもある「 偽りの、再生」です。弐号機(母親)を失ったので元の状態に戻ったのと、エ ヴァシリーズによる陵辱によるところも大きいでしょう。 そんなアスカをシンジは見つけます。シンジを受け入れないアスカ。 ここにシンジの成長があります。ここでアスカに「目を覚ましてよ」とか「僕 を一人にしないで」とか声をかけたら303号病室の時と一緒です。成長の跡 が感じられ無かったでしょう。彼は首を絞めるという行為でアスカ自身に存在 の是非を問いました。 しかし、何故首を絞めたのか? 首を絞めるという行為はアスカにとって特 別な意味があります。母親との事のトラウマであり、それが頭にあった為にシ ンジとの抗論の時、彼に首を絞められたとき抵抗できませんでした。(そう見 えた) 首を絞められた事に抵抗する行為は母親のトラウマを乗り越えた事も表しま す。シンジがここまで考えたとは思えないのでこっちは結果論ですが。 シンジがアスカの首を絞めた真意は確信には到りませんが、結果としてシン ジの成長と同時にアスカの生きるという意志表示、トラウマの克服、などアス カの補完も表したシーンに思えます。あらためて考えるとこのシーンはすごく 前向きなシーンです。
アスカが「気持ち悪い」と言ったときの目は、心底嫌いなものを見る ときの目に見えるんですがどう思いますか。
だがそれは、おぞましい虚偽に統合=補完されない真実へ至るユイ一の可能性 でもある。互いをさらにバラバラにしようと「噛み合う」者同士の断面が、なぜ か一致し「噛み合う」という皮肉な意図せざる結果こそが、コミニュケーション の「奇跡的」な本質なのである。(だからG.バタイユのような思想家はそのよう なコミュニケーションを「聖なる」ものと形容する。) これは「コミュニケーション=癒し」、あるいは「他者を傷つけるな(あるい は、他人を傷つけない限り何をしてもよい)」という価値観に対する、やはり根 底的な批判である。――「希望」に向けてシンジは言う。「それでもいいんだ」 ラストシーン「I need you.」はその明確な寓意である。 ――補完という「夢 は現実の中に」意図せざる形である。互いをさらにバラバラに引き裂こうとして いる二人(アスカを絞殺しようとするシンジとシンジを「気持ち悪い」と拒絶す るアスカ)の間には明確なコミュニケーションが成り立っていた。 それは、「自分の横にいる人と普通につき合う」ことができている者なら、も っと上手にしているのとまったく同じことだ。われわれが自他を分断するべく振 るうに決まっている暴力を、相手(あるいは自分)が死なない程度に、和らげて振 るうこと。逆に言えば、もうすでに暴力が和らげられてしまっているからこそ、 われわれは今ここで生きているとも言える。 われわれは日常の中では分断の暴力を、「人の気持ちを些細に傷つける」ような 隠微な形で振るい、致命傷への短絡が「結果的に」「意図に反して」回避されてい たりもする。些末な暴力の遍在状態の中で、われわれはなぜか、「まだ生きてる」 のである。
監督「君たち…、気持ちいいの?」 監督「おれは見てて、気持ち悪いと思うゾ。」 終劇
「気持ち悪い?つわりじゃないの? ちゃんと病院行って検査してもらった方がいいよ。 サードインパクト・ベビー誕生!」 ・・・・・・・なーんてね。
結局エヴァ劇場版って、エヴァという永遠に終わりそうもない物語を、 完璧に終わらせることだけが目的だったような気がします。その意味で ラストの気持ち悪いというのもエヴァを完璧に終わらせる為の台詞とし ては最高の決め台詞だったかもしれません。
あれは劇中の「気持ちいいの?」に呼応するものだと思います。 そうでないと「気持ちいいの?」という言葉の出現が唐突すぎると思います。
なぜアスカの首を絞めなければならないかはわからなかったが最後一緒にいたの がアスカで最後の台詞があの台詞だったのも現実の厳しさをあらわしていて非常 にリアリティがあって良かった。あれが綾波でもミサトさんでも母さんでもシン ジを受け入れてしまうだろうから、あの台詞にはならなかっただろうし、やっぱ り最後はアスカしかなかったんだろうな
あれほど激しく、直接ぶつかりあった2人って、あの話の中にいるかな。 そんな風に思います。 これからが、大変なんだよ、と。 あらためてひとに触れるわけで、それが初めてなんだから、 「…気持ち悪い…」というのは、仕方ないんじゃないかな、と。 まずはそれでいい、それからどうするかなんだっていうこと、かな。 シンジの髪に、頬に触れたアスカの手が、痛々しいけど、やさしかった。
ヒゲメガネが,ふられたみやむーに嫌がらせしてるだけ。
で、アスカの最後の言葉が「ありがとう。」でもなく、 「バカシンジ」でもなく、 ましてや、「あんたなんかに殺されてやるもんか」でもなかった。 「気持ち悪い」。誰に言った言葉?自分に?シンジに?それとも観ている 俺にか? 最後までアスカとシンジはわかりあえなかったんだね。 そして、唐突におわる物語。何だったんだ?気持ち悪いよ、ほんとに。 「現実を見ろ。」言いたかったことはこれか。 やっぱり大きなお世話だと思うよ。映画ぐらい現実をわすれていい気分で いたかったよ。その証拠に明日は休日出勤だ。とほほ。
最後のセリフ「気持ち悪い」は「けして〔アダム&イブ〕は、みんなが 思っている程に仲むつまじいモノではない」と言う意味かと(^^;)
「とってもきもちいいこと」。身体の、心の境界線がなくなること、とけあう こと…から、もどることをえらんだ、そして生きることを選んだシンジ。 「…気持ち悪い…」は、アスカのシンジへの嫌悪の言葉、としてではなく、シ ンジが、「とってもきもちいい」世界から、とけあう世界からもどってきたのだ、 ということをしめす、そこが、「生きる世界」なんだということをしめす、サイ ンのセリフではないでしょうか。
他人に触れる。それはわからない存在、「気持ち悪い」。でも、アスカのあの 手は、シンジを拒んではいないから。 進んでいけると思う。もっといっぱいお互いをさわっていくとおもう。ずっと 「気持ち悪い」かもしれないけれど。それでも手をのばしつづけることをやめな いだろう。生きていくから、シンジはアスカを殺さなかったのだから。
拒絶も離別で辛い思いをしても人として生きたかった。 だから、人として戻ってきた、アスカを連れて。 人として生きるのに、1番いっしょにいてほしかった(1番好きだった) のが、アスカだったのでしょう。 しかし、アスカの魂は戻ってこなかった。 人としていっしょに生きることすら拒絶された。 だから、シンジはアスカの首を絞めた。 だけど、アスカは戻ってきてくれてた。 最後の「気持ち悪い」というセリフも 「心の壁を作ってくれた = 人として生きてくれた」 という意味があったと考えます。
あの、ラストのアスカの台詞が「よかった」と言えるのは、 そこにどんな意味が込められているからなのでしょう。 僕は、何という救いのないエンディングだ・・・と思ってしまった。 教えてくださーい。
ただ、ラスト。アスカの首を絞めようとしたシンジの頬をアスカがなでる。アスカ が生きていることが判りシンジは涙を流す。何故かは判らない。独りでない、という ことかもしれない。最後の「気持ち悪い」の一言が「アスカがアスカである」ことを 物語っているのことに救われた気はする。
私はシンジはアスカの中に入ろうとしたのだと思います。 しかしアスカのATフィールドはそれを拒む。されどアスカはシンジの頬を 撫でることで、わずかながらの意志表示を示す。それにシンジは涙するも、 アスカはそれに対して一言。「気持ち悪い」と。
アスカが、シンジを罵倒し、拒絶し、否定する、その言動の端々から、アスカ のシンジに対する強烈なまでの「想い(愛・・・はやめとこ(^^;)」がにじみ出 ているような気がして、なんだかジーンと来るのです(←ヤバイかも(笑))。 そう思えば、物議を醸しだしているあのラストにも、一筋の光明が射し込んで見 えるから不思議なものですね~(←確実にヤバイかも(T-T))。
なんだか、見終わった後で妙にさめている自分を感じてます。 アスカの最後のシーン、最後の言葉、それがそのまま感想のひと、 結構いたりして……
あれが二人の愛情表現だったらすっごく恐い・・・。アスカは「一緒に死んで ちょうだい」ってことで母親に首を絞められた事があるみたいだから、自分を愛 してくれる者が首絞めてくれるのは気持ち良いことなのかとか、思ったりもして。 まさに命懸けのSMだな。 って、ことは初号機が3号機(バルディエル)の首絞めたのも愛情表現(シンジ ×トウジ)な訳で、首が落ちたカヲルなんかはもう、最高に愛されてたのかな。 で、ラストでアスカの首を絞めるシンジが鳴咽し、アスカが「気持ち悪い」の は、そういう歪んだ愛情表現を憂いての事なのかなぁと。
ラストの「気持ち悪い」は、私の場合は 「アンタなんかに触られて汚らわしくて気持ち悪い」と「首締められて気持ち 悪い」程度しか思い付きませんでした。
深手を負った状態で気絶していたのに首まで締められたら当然、気持ち悪くなる
アスカの最後のセリフは、自分自身に対してなのかと思うの ですが...アスカが嫌いなシンジの頬を優しくなでている行為(矛盾し た行為)がそう思わせたのですが...
うまく言えないけれど,とても嬉しかった。あのラストでシンジもアスカ も,そしておそらく庵野監督も「こっちの世界」(ってどこ?(^^;))に還っ てきたと思いました。それが無性に嬉しかった。
最後のアスカのセリフで、シンジとアスカは人間として認めあえるんじゃない かな?という気になりました。少なくともこれまでとは一つ違ったステージに 進めたのでは?と思います。すごく暗ーい感じで終わったけど、大団円ではあ ると思います。
もっと救いのある,後味のいいエンディングを作ろうと思えば作れたと思い ます。それでもああいう終わり方を選んだところに,わたしは庵野監督なり の「誠実さ」と「正直さ」を感じました。わたしの「よかった」はそういう意 味です。(でも「好き」にはなれません(笑))
ラストで描かれた少しの「前進」、その程度の変化ならば、 ちょっと心の持ち方を変えるだけで十分な気がするのです。 あんな経験をした後で、普通なら生きていてくれてよかったって、レイが 生きてた時のように泣いてるところだと思うのですが、どうしてほんとに 首を絞めたんでしょうね。 僕は、ニーチェが言ったように、この世はただ繰り返す、楽しいことも苦しいことも 含めて。でもそれを勇気を持って受け入れることが、人間の生きる道なんだっていう ことを言いたかったのかなって思いました。
バブルがはじけて 疲弊して 世紀末で
生きにくいと感じる人たちが増えてきていて
でも精神病っぽい話題なんてまだ表だって人と話せなくて
そんな世の中で、あの時代の人たちの心情をあれほどうまく映像化した作品は無かった。
人と社会・他者っていうテーマはやはり普遍的だったし、それに至る演出力が類い希だった。
ただのオタ層を越えてOLとかリーマンとかにもうけるような存在になっていったのは事実。
テーマ性でもってエヴァに感動する人は心情の書き方・演出に心うたれてる人が多いと思う。
「アンタ私のこと何も知らないじゃない」
「だってアスカは何も言わない、何も言わないのに分かってくれなんて無理だよ。」