はてなキーワード: ジェファーソンとは
インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。
シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間も馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります。
もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。
シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事のパワハラと全く同じです。
ビバ! デモクラシー!
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800
斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。
小学生を含めて(個人的な感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。
「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。
以下、具体的に指摘します。
「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。
なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しましたか?
今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。
他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
「自分は、いいねやシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?
なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現にしましたか?
他人の選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったかが重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?
どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?
なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?
他人のコメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
「それらは従来型のマスメディアが機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネットが機能した結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?
もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディアの機能とは異なり、より積極的に他人に干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?
従来型のマスメディアを超えることによるなにがしかに危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?
「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネットを貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか?
その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。
「投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?
馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。
単独の文言では無く、前後の文脈から、この文章を読み取った相手が「投票や選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?
「なるほど、コイツはインターネットで情報収集したり、いいねで応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?
真摯に相手の人格を尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子の文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います。
インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。
(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストクラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)
「民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?
前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度の限界だ」としか読み取れません。
それ以外の意図を持つ文章として文脈を構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり、文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。
(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねます。ナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定の了解があるはずです)
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
少なくとも、ジェファーソンの名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。
このall men (すべての人々)に、大衆(シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。
トーマス・ジェファーソンが、いかにマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、
ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままでは不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。
彼らが、貴族や選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆(シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民や奴隷、犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。
(その後の段落は、シロクマ先生の想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います)
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。
ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。
(私はそれをアリストクラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います)
「ただし、制度設計が改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?
「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。
「未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。
また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか?
シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。
これを、面白おかしいものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)
パワハラをする側にとって、されたものが右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。
齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくした」と表現しています。
前知事時代のパワハラを問題視した人は、この「業務上の指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法に問題があったのだと認識しているはずです。
愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これからの社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います。
その意味で、シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています。
そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。
(バカだと呼んだのは立花氏であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩や暗喩の使い方が致命的に間違っています)
もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。
制度設計で排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義や陰謀論と具体的に何が違いますか?
そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生に嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。
なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいまバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。
シロクマ先生が、「自分はマスメディアが一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。
投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。
その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやすく自分を肯定してくれる者への同調に繋がります。
よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義の問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者を馬鹿にして良いわけではありません。
別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラは現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現は些末な問題と言う立場をとるなよ。
読み取り方の問題じゃないし、皮肉だから何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。
こういう人は出てくると思いました。しかし考えてみてください。元増田さんの主張には誤りがあります。
"物欲も性欲も抱くこと自体はコントロールできないが、そこから犯罪という手段で解決しようとすることをコントロールしている"という元増田さんの主張には同意します。
現在の社会通念上、物欲そのものが気持ち悪いとは見做されてはいません。
一方で、"気のない相手から恋愛感情を抱かれたり欲情されたりすること自体が気持ち悪い"と考えている人は多数います。
つまり、物欲を持つ内心の自由は他者の人権を侵害していませんが、性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害することはあります。
こういうことを言うと"いや、内心の自由は絶対に保護される"と言うかもしれません。しかし、憲法にそのように明記されているわけではありません。あくまでそのように解釈されているだけです。
つまり、"内心の自由は絶対に保護される"というのは"自衛隊は憲法9条に違反していない"や"死刑は憲法36条の定める残虐な刑罰に該当しない"と同様に解釈にすぎないのです。
将来、"性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害しているから性欲を持つ内心の自由は公共の福祉に基づき規制される"という解釈になる可能性も十分にあります。
Ⅱ.そもそも全ての人の内心の自由を保護することが人類の幸福や発展に繋がるかを思考停止せずに考えるべき
性欲そのものが理性でコントロールできないならば強制的に薬で抑えろという主張は、「『性的なことを考える』という内心の自由そのものを奪え」と主張しているのと同じであり断じて認められない。
しかし、私がⅠで書いたことが成立しないとしても、元増田さんは"内心の自由だから守らなければならない"というところで思考停止しています。
そもそも、内心の自由を含めた基本的人権は決して自明のことではありません。トマス・ジェファーソンは自明のことであると主張するかもしれませんが、そのように主張したジェファーソン自身が奴隷を所有していたことからも決して自明ではないことが明らかです。
当初は"白人男性は自由・財産・生命などの権利を持つべきである。そのように設定することが人類の幸福につながる"と考えられ、それが”女性を含む白人は”となり、やがて”全ての人は”へと発展していったのが20世紀までの人権の歴史です。
しかし、全ての人に基本的人権を設定することで人類は本当に幸福になり発展してきたのでしょうか。私にはそれは自明のことであるとは考えません。
むろん、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人がいる"という考えが差別や奴隷制や植民地支配を生んできたことは確かです。しかしながら、それは人類が"フルスペックの人権を持つ人と持たない人の区別"を自分に都合よく設定してきたからである可能性もあります。
たとえばAIに評価させることなどにより、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人"を中立的かつ人類の幸福と発展のために区別できるようになるかもしれません。そのようなことも元増田さんには考えてみて欲しいです。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 […とも呼ばれる]あんず
・03 ドナルドダック
・05 8月1日
・10 [近似値]329
・13 [すべて]ジョージ・ワシントン ジェファーソン リンカーン セオドア・ルーズベルト
・17 70(歳
・18 ME:I ミーアイ
・21 [国]チリ
・23 南
・25 『僕が)ラオウ(になる日まで』
・29 [3択]十(万キロメートル
・31 糸(へん
・33e 鈍(角 どん(かく
“ディズニーが当時他のスタジオに先導して女性を原画やストーリー等のクリエイティブ職につけた話なんてもう知り尽くされたと思っていたが...”
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 富山(県
・07 [すべて]田沢湖 支笏湖(しこつこ) 十和田湖 池田湖
・08 クロップド(丈
・09 メンデルスゾーン
・10 [近似値]2億3502万967円
・12 心
・13 ト(ー)マス・ジェファーソン
・14 [3択]血小板
・18 鳥取(県
・19 [3択]1(番
・21 W
・22 蘇我馬子 そがのうまこ
・25 和同
・26 クマ
・27 鼎談 ていだん
・28e あのねのね
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
第3代アメリカ合衆国大統領ジェファーソンの伝記なんかも、(映画化は難しそうだけど)その時代の動きをよく表したものになりそう。
あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手は応援したい、というジレンマ。
全国的に感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。
wikipediaによると以下。
認知的不協和とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手を軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和の典型例なんじゃないだろうか。
しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。
例としては、うなぎは大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみは規制すべき等も思いつく。
自分の欲求と社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分のなかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。
うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。
うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共的判断は成立しない。
うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法のひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的な制度設計だ。
そう考えると、現代の民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。
個人的には好きではないけど自分が社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。
そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。
近代の民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカの建国者のひとりジェファーソンは、
公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共的課題を自分の欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政に必要な市民の資質だと考え、他方、代表者(議員)に必要な資質をアリストクラシー(自然的貴族)と呼んだ。
しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。
社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき、
ふつうの人々は、自分の内面を整理するために、どちらかの認知に一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知を修正してゆくことになる。
今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。
オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。
社会の規範に合わせて自分に対して一貫性を要求しがちな日本人は特に、自分の欲求を我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。
別の例を挙げれば、60年代にセクト化が加速したサヨクの動きが典型例。
また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知の一貫性を他人に求める一例。
サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。
自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。
党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、
それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。
ますます両極化が進んでいき、相手方の一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやすい立場の人とと
そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。
コロナ対策では人流の抑制が課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。
しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、
次第に言葉の力は失われ、今では行政も政治家も口にしなくなってしまった。
もっとも同時に、自粛警察もあんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。
ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。
思い出すのはベトナム反戦運動。ベトナム反戦真っ盛りの60年代のアメリカでブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たちに
反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全な場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。
コロナ禍でのステイホームのムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。
自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしまう業界。
それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。
オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会の安全と自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。
以上の話は、人々のジレンマを構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、
自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在の自分の社会的立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、
知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性がアピールされているに過ぎない。
しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。
重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、
オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、
そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。
飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。
タレコミも減ってきたという声もきかれる。
こうした寛容さは、行政の飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。
人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。
こうして考えてみると、自粛要請をベースとした日本流の政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすいタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。
自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人のメンタリティと、同じ社会の構成員にも同じ一貫性を要求したがる相互監視のムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルールや判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。
などと、都合のいい解釈で認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、
人々は、ルールへ従うことの意味が不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視は機能せず、自分の生活を変えることなくコロナへの懸念も自分の認知のなかで両立させてゆくだけだ。
しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢の限界をとっくに超えているしで、
人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当な自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。
自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナは心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。
本来の政策というのは、そんな人々の認知(世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。
例えば、自分の考えと相反していても、オリンピックは応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、
あるいは、オリンピックは懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。
「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元で政策を決めるべきではない。
むしろ「個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民の判断を見極めたほうがいい。
しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。
いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。
将来シナリオを示さない。予測や分析を共有しないから、いつも唐突に首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。
544 :ソーゾー君:2014/02/10(月) 00:42:21 ID:PgbSmGt2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/31-46
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/46
知らなかったの?何で?
先ず「過剰供給=マネーサプライインフレ」を起こして「信用収縮=クレジットクランチ=貸し渋り化し剥がし=デフレ」
を起こして奪うと警告している。
「株価が上がった?土地の価値が上がった?金の価格が上がった?石油の価格が上がった?」
「いや・・単なるインフレだろ?」
単純でしょ?シンプルです。
お前達が信じてるだけだ・・「経済学などの学問は賢者しか理解できない」と・・
その賢者=専門家に任せてこの様だぜ?この様になった原因を未だに解明できないw
何で原因を解明しないの?
原因が解らないのに対策が出来るわけねーよなw黒髭危機一髪じゃねーんだぞ?
「原因が解らんのに治療の為に腹を切開すると言われて納得できる?」
「俺の言った通りの結果になっただろ?」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
227 ソーゾー君 [] 2013/03/09(土) 00:08:52 ID:Zvx2kqmU Be:
1763年、ベンジャミン・フランクリンがイギリスを訪問した折、イングランド銀行の頭取から新大陸の植民地が繁栄している理由を聞かれ、
彼はこう答えた。「その理由は簡単です。植民地では、我々は自分たちの貨幣、いわゆる“殖民券”と呼ばれている紙幣を発行しています。
それは、商業と工業の需要に合わせて発行されます。そうすれば、商品を生産者から簡単に消費者に渡せるのです。
この方法で自分たちの紙幣を作り、その購買力を保証すれば、我々の政府は誰にも利息を払う必要などないのです」
この新しい紙幣の誕生と流通は、必然的にアメリカ植民地がイングランド銀行の管理下から離脱することを意味していた。
彼らが牛耳っている英国議会は1764年に「通貨法」を決議し、アメリカ植民地の各州が独自の紙幣を発行することを禁じ、
イギリス政府への納税には、すべて金と銀を用いるように植民地各州政府に強要していた。
228 ソーゾー君 [] 2013/03/09(土) 00:11:00 ID:Zvx2kqmU Be:
「わずか1年の間に、植民地の状況は様変わりした。反映の時代は終わり、
経済はひどく衰退し、町中に失業者が満ちあふれるようになった」
植民地の人々は一定額未満の少額の納税はお茶やその他の産品で行っていられたのだが。
通貨法は失業と不満を人々にもたらした。自分たちで紙幣が発行できなければ、
植民地は英国国王ジョージ3世と国際銀行家の支配から抜け出す方法を永遠に封じられる。
これが、アメリカ独立戦争を引き起こした最大の原因なのである」
229 ソーゾー君 [] 2013/03/09(土) 00:14:28 ID:Zvx2kqmU Be:
アメリカ建国の立役者たちは、イングランド銀行が英国の政治を管理していることや人民の不公平を生んでいることを
明確に認識していた。33歳という若さでアメリカ「独立宣言」を起草し、
歴史に名を残した第3代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソンは次のような警世の一文を残した。
「私有銀行がアメリカ合衆国の通貨の発行権を握ったならば、彼らはまずインフレを作りだし、
それから一変してデフレにすることで、国民の財産を奪うだろう。ある朝、子供たちは目を覚ますと、
自分たちの家やかつて父親たちが開拓してやっと手に入れた土地がなくなってしまったことを思い知るのだ。」
231 ソーゾー君 [] 2013/03/09(土) 00:17:09 ID:Zvx2kqmU Be:
それから200年が経った現在、ジェファーソンが残したこの言葉をふたたびめにすると、
彼の予見が正しかったことに驚きを禁じえない。
今、アメリカの私有銀行は、国家の通貨流通量の97%を発行し、
アメリカ国民は銀行に44兆ドルという天文学的数字の借金をしている。
彼らは、ある朝起きると、家と財産を失っていることを知るかもしれない。1929年と同じように。
アメリカの偉大なる先駆者たちは、英知をもって熟慮し、歴史と未来を見すえた深い思考の結果、
「議会は通過を製造する権利と通貨の価値を設定する権利を有する」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1343051395/
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50
反嫌儲の腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサのクソどもはいいかげん嫌儲に歴史と理論がある事を知れよアホが!!著作権を振りかざた権威にひれ伏す権力の犬である腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサどもよ、おまいらは打倒されるべき抑圧貴族階級に過ぎん!!何がゆとりだ。腐れデジタルミレニアムコピーワンス搾取はてサ老害こそ文化を独占資本化する帝国主義者だろうが!!
http://www.ezweb.co.jp/~higan/
サイバー反体制派、エレクトロニックフロンティアファウンデーション共同設立者
産業世界を牛耳る政府どもよ、お前たち肉と鋼鉄でできたか弱い巨人どもよ、私は新しい精神の住処、サイバースペースの住人だ。未来のために私はお前たち過去の人間に要求する。我々のことは放っておいてくれ、と。お前たちは我々にとって歓迎すべからざる客だ。我々の集まるところでお前たちの権威は通用しない。
我々は選挙によって選ばれた政府など持たないし、また持つ気もない。従って、私がお前たちに向かって語りかける言葉には、自由が常に語ってやまぬ言葉以上のいかなる権威も含まれていない。そこで私は宣言する。我々が建設中のグローバルな社会空間は当然ながらお前たちが押しつけようと画策する専従体制からは独立している、と。お前たちは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。政治は統治される国民の同意があって初めて力を持つ。お前たちは我々の同意を促すこともできない。我々はお前たちを歓迎しない。お前たちは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。サイバースペースはお前たちの引いた国境の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、自分たちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同の行為と通じて自然に成長していくものだ。
お前たちは我々の大いなる集団の対話に参加したことはないし、また我々の豊かな市場の富を作ったわけでもない。我々の文化も知らなければ、倫理も不文律も知るまい。それは、お前たちが押し付けるどんな強制よりもはるかに多くの秩序を我々の社会に現にもたらしているものだ。お前たちは我々の世界に解決すべき問題が存在すると言う。そしてそのことを口実にして我々の世界を侵略しようとしている。お前たちの言う問題の多くは実際には存在しない。本当に摩擦があり、問題点があれば、我々はそれを認めて我々なりの方法で対処するだろう。我々は我々だけの社会契約を作りつつある。我々の世界の統治は我々の世界の諸条件に応じて自然に発生する物であって、お前たちの勝手な条件から生まれるものではない。我々の世界は違うのだ。
サイバースペースは様々な商取引、関係、そして思考そのものからできあがっていて、それが我々のコミュニケーションのウェブの中にまるで定常波のように隈無く広がっている。我々の世界はいたるところにあるとともにどこにもない。ただしそれは肉体が住める場所ではない。
我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。
我々が作りつつある世界では、誰もがどこでも自分の信ずることを表現する事が出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。
お前たちが考える、所有、表現、自我、運動、前後の関係(コンテクスト)に関する法的概念は我々には適用されない。それは物質に基づくものだからだ。我々の世界に物質は存在しない。
我々の自我は肉体を持たない。だからお前たちと違って、我々は肉体的強制によって、秩序を獲得することは出来ないのだ。我々の世界の統治は、倫理学、啓蒙的な利己主義、連邦体制といった土台から生じるであろうと我々は信じている。我々の自我はお前たちの法的権限が及ばない多岐にわたる領域に分散して存在する事が出来る。我々の世界を構成する様々な文化が唯一一致して認める法は「黄金律(汝の欲することを人にもなせ)」しかない。我々はこれを基礎にして個別の問題の解決を見出そうと望んでいる。しかしお前たちが押しつけようと図る解決法は到底受け入れられない。アメリカでは、お前たちはテレコミュニケーション改革法案なる法律をでっち上げたところだ。これはお前たち自身の憲法を否定し、ジェファーソン、ワシントン、ミル、マディソン、トクビィル、ブランダイスらの描いた夢に泥を塗るのに等しい行為だ。この夢は我々の世界で新しく生まれ変わるに違いない。
お前たちは自分たち自身の子供に脅えている。子供たちはサイバースペースのネイティブなのに、お前たちの方はいつまでたっても根付かぬ移民のままだからだ。この子どもたちを恐れるがゆえに、お前たちは、自分たち自身では卑怯にも真正面から引き受けることの出来ない親としての責任を官僚たちに委ねるのだ。我々の世界では、人間性に関わるあらゆる感情やその表現は、下劣なものから崇高なものまで、みなシームレスな全体を形作る部分であり、ビットによるグローバルな対話の一部なのである。人を窒息させるのも空気なら鳥を舞い上がらせるのも空気であり、両者を区別する事は出来ない。
中国、ドイツ、フランス、ロシア、シンガポール、イタリア、アメリカで、お前たちはサイバースペースのフロンティアに番兵を立たせて自由のウイルスの侵入を何とか食い止めようとしている。それで少しの間は感染を防げるかもしれないが、まもなく世界中がビットメディアに覆い尽くされれば、それも無駄になろう。
お前たちのますます陳腐化する情報産業界は、延命を図ろうとアメリカやその他のいたるところで自分たちの主張を世界中に通すための法律を作ろうとするだろう。その法律とやらは、アイデアもまた別種の工業製品だとのたまう。それは高炉から流れ出た鋼鉄に比べてちょいとばかり高級などというものでは何らないというわけだ。しかし我々の方では、人間の精神が作り出せるものはすべて再生産できるし、また無償で無限回分配することができる。思考のグローバルな伝達にはもはやお前たちの工場の完成を待つには及ばないのである。
このような、陰険で植民知的な措置のおかげで、我々はかつての自由と自己決定を愛した人々と同じ立場に立たされている。かつてこの人々たちは遠くから何の説明もなく権力を揮う政府に対し異議を唱えねばならなかった。我々はここに何としても宣言せねばならない。我々のヴァーチャルな自我はお前たちの権力に対して免疫抵抗を持っている、と。たとえ我々は我々自身を地球全体に分散させているから、誰にも我々の思考を捕縛することはできない。
我々はサイバースペースに精神の文明を作り上げるだろう。そしてそれはかつてお前たち政府が作り上げた世界よりもはるかに人間的で美しいものになるに違いない。
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産業世界を牛耳る政府どもよ、お前たち肉と鋼鉄でできたか弱い巨人どもよ、私は新しい精神の住処、サイバースペースの住人だ。未来のために私はお前たち過去の人間に要求する。我々のことは放っておいてくれ、と。お前たちは我々にとって歓迎すべからざる客だ。我々の集まるところでお前たちの権威は通用しない。
我々は選挙によって選ばれた政府など持たないし、また持つ気もない。従って、私がお前たちに向かって語りかける言葉には、自由が常に語ってやまぬ言葉以上のいかなる権威も含まれていない。そこで私は宣言する。我々が建設中のグローバルな社会空間は当然ながらお前たちが押しつけようと画策する専従体制からは独立している、と。お前たちは我々を規則で縛ることが出来るような道徳的な権利など持っていないし、また我々が真に恐れるに足るようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない。政治は統治される国民の同意があって初めて力を持つ。お前たちは我々の同意を促すこともできない。我々はお前たちを歓迎しない。お前たちは我々のことを知らないし、我々の世界も知らない。サイバースペースはお前たちの引いた国境の中にありはしない。公共の建設事業か何かのように、自分たちで作ってしまえるなどと思ったら大間違いだ。そんなことはできはしない。これは自然の営みと同じで、我々の共同の行為と通じて自然に成長していくものだ。
お前たちは我々の大いなる集団の対話に参加したことはないし、また我々の豊かな市場の富を作ったわけでもない。我々の文化も知らなければ、倫理も不文律も知るまい。それは、お前たちが押し付けるどんな強制よりもはるかに多くの秩序を我々の社会に現にもたらしているものだ。お前たちは我々の世界に解決すべき問題が存在すると言う。そしてそのことを口実にして我々の世界を侵略しようとしている。お前たちの言う問題の多くは実際には存在しない。本当に摩擦があり、問題点があれば、我々はそれを認めて我々なりの方法で対処するだろう。我々は我々だけの社会契約を作りつつある。我々の世界の統治は我々の世界の諸条件に応じて自然に発生する物であって、お前たちの勝手な条件から生まれるものではない。我々の世界は違うのだ。
サイバースペースは様々な商取引、関係、そして思考そのものからできあがっていて、それが我々のコミュニケーションのウェブの中にまるで定常波のように隈無く広がっている。我々の世界はいたるところにあるとともにどこにもない。ただしそれは肉体が住める場所ではない。
我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。
我々が作りつつある世界では、誰もがどこでも自分の信ずることを表現する事が出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。
お前たちが考える、所有、表現、自我、運動、前後の関係(コンテクスト)に関する法的概念は我々には適用されない。それは物質に基づくものだからだ。我々の世界に物質は存在しない。
我々の自我は肉体を持たない。だからお前たちと違って、我々は肉体的強制によって、秩序を獲得することは出来ないのだ。我々の世界の統治は、倫理学、啓蒙的な利己主義、連邦体制といった土台から生じるであろうと我々は信じている。我々の自我はお前たちの法的権限が及ばない多岐にわたる領域に分散して存在する事が出来る。我々の世界を構成する様々な文化が唯一一致して認める法は「黄金律(汝の欲することを人にもなせ)」しかない。我々はこれを基礎にして個別の問題の解決を見出そうと望んでいる。しかしお前たちが押しつけようと図る解決法は到底受け入れられない。アメリカでは、お前たちはテレコミュニケーション改革法案なる法律をでっち上げたところだ。これはお前たち自身の憲法を否定し、ジェファーソン、ワシントン、ミル、マディソン、トクビィル、ブランダイスらの描いた夢に泥を塗るのに等しい行為だ。この夢は我々の世界で新しく生まれ変わるに違いない。
お前たちは自分たち自身の子供に脅えている。子供たちはサイバースペースのネイティブなのに、お前たちの方はいつまでたっても根付かぬ移民のままだからだ。この子どもたちを恐れるがゆえに、お前たちは、自分たち自身では卑怯にも真正面から引き受けることの出来ない親としての責任を官僚たちに委ねるのだ。我々の世界では、人間性に関わるあらゆる感情やその表現は、下劣なものから崇高なものまで、みなシームレスな全体を形作る部分であり、ビットによるグローバルな対話の一部なのである。人を窒息させるのも空気なら鳥を舞い上がらせるのも空気であり、両者を区別する事は出来ない。
中国、ドイツ、フランス、ロシア、シンガポール、イタリア、アメリカで、お前たちはサイバースペースのフロンティアに番兵を立たせて自由のウイルスの侵入を何とか食い止めようとしている。それで少しの間は感染を防げるかもしれないが、まもなく世界中がビットメディアに覆い尽くされれば、それも無駄になろう。
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このような、陰険で植民知的な措置のおかげで、我々はかつての自由と自己決定を愛した人々と同じ立場に立たされている。かつてこの人々たちは遠くから何の説明もなく権力を揮う政府に対し異議を唱えねばならなかった。我々はここに何としても宣言せねばならない。我々のヴァーチャルな自我はお前たちの権力に対して免疫抵抗を持っている、と。たとえ我々は我々自身を地球全体に分散させているから、誰にも我々の思考を捕縛することはできない。
我々はサイバースペースに精神の文明を作り上げるだろう。そしてそれはかつてお前たち政府が作り上げた世界よりもはるかに人間的で美しいものになるに違いない。