はてなキーワード: 原体験とは
読むのはたぶん3回目だが、やっぱり面白い。以前の2回は、マンガアプリの無料で1日一話ずつちまちま読んだが、今回はKindleで購入して一気読みした。いま朝の5時前だが後悔してない。
客を信用しないところからスタートする芹沢のエピソードからスタートし、26巻の最後で、それでも自分と客の味覚を信じ切る主人公と芹沢の信念が示される。
もちろん、単なるハッピーエンドの大団円でと言うわけではなく、客商売の恐ろしさを警告する千葉の一言が差し込まれることで、それまでの芹沢から発せられてきた数々の教訓がそれもまたやはりラーメンの道の真実であることが理解させられる。ラーメン店経営を取り巻くさまざまな想いが、まるで、何回か本編でも取り上げられる、ラーメンスープの重層的な味わいのように感じさせられる。
ラーメンというもの自体の定義についても、最終巻において、ラーメンの100年の歩みを紹介しつつ、主人公自身の原体験とそこからの進化に帰結させているのがよい。
京都編・奥義取得の回(調べたら第43話だった)
漫画版では今までに出会った人たちが見開きで描かれ、「俺はまだ死ねない」と奥義を放つのだが
旧アニメ版では「心太」時代に出会ったお姉さま方の言葉を思い出す。
親が死に、人買いに売られ、そこで出会った同じく売られた3人のお姉さま。
その人買いが野盗に襲われ、師匠がたまたま通りがかり助けたわけだが、剣心以外は死んでしまった。
「あなたは生きることだけ考えて。あなたはまだ小さいから、私たちみたいに自分で生き方を選ぶことはできないの。だからせめて、生き方をひとりで選ぶことができまで、生きなきゃだめなの。」
その言葉を思い出し、涙が溢れ、奥義を放つ。
剣心の「生きる意志」の原体験を見たような、一番印象に残ってるシーン。
そんなセリフは原作にはなく、補完として捉えてるが、たぶん監督のアイディアで作者はノータッチだろう。
原作に追いつかないようにゆっくり放送してたあの時代だから描けたんだろう。そのシーンめっちゃスローモーションだし。
作者は旧アニメに対してあまり良く思ってなかったようだけど、新アニメに対して満足してるんだろうか?
新アニメ版はあまりいい評判を聞かないしセンスも感じない。キャラデザも丸っこいし2010年代の凡アニメみたいな印象、たぶん連載中の北海道編の画風に合わせてるんだろうけど。
原作最後まで作るんだろうが、フジテレビの「お手軽に稼ごう」ってのが透けて見えるっていうか、期待はしない。
引き合いに出されるダイの大冒険くらいの出来じゃなきゃ再アニメ化の意味ないんじゃないの?
これはいま、おれの中にひとつわりと明確な答えがあって、それは
です
おれの住んでる田舎は、市の人口5万人とかなんで、かなりザコいんだけど、24時間営業のスーパーセンタートライアルを抱えている
そうすっと、夜10時からでも、思い立ったらチャリに乗って、でけえスーパーで買い物ができるわけですよ
まずこれはひとつの文化資本と言って良い スーパー って博物館だからさあ!
そんで、そこまで行く途中の道、これもまたいいわけ
中規模の川が近くにあるから、いまの季節、サワガニが地面を這い回っているんですよ
まず、玄関からチャリまで歩く過程で、スマホのライトに照らされて、聞き取れるくらいデカい足音を立ててカニが逃げる、おれはウオっと思ってちょっとのけぞる、こういう体験が、よくわかんねえけど、ひとつの原体験となるわけだ まあおれがここに来たのは就職してからなんで、ゲンミツには原体験じゃねえけど、原体験に上乗せしてやってもいいと思ってる いい体験だ カニ・カルチャーだ
マルケスの小説読んでると、すげーカニが出てくんだよ 夜になったらカニが海からワンサカやってくるんで、それをバケツに入れて海に追い返す、みたいな話がある
このくだりってマジックリアリズムなのか?と思うわけ そんなにカニいることってねえだろと思ってっからさ
しかし、身近にカニを感じるにあたって、ああ、その辺のショボい川からでもこんだけカニが出てくるんだったら、コロンビアの海岸なんかだとマジで超ワラワラいてもおかしくねえのかな、と思いなおす
現実で積み上げた体験が、読書体験に深みを与えるわけですよ (逆もまた然りっすねえ!)
そうやってカニをやりすごしながら、川沿いの道、川沿いっつっても土手に隠されて川は見えねえんだけど、そこを漕いで行くわけよ
漕いで行こうとしたらさ、夜8時なのに案外明るくて、真上の空はすげえ晴れててさ、日が落ちて濃さを増し、藍色になった空をバックに、でけえ雲が連なってそびえているわけですよ
「山脈」とか「大いなる」とか、そういう形容をしたい感じなわけ
これってヘタしたらエベレストより立派なんじゃねえか?とすら思う 実際、高度で見りゃいい勝負だと思いますよ
おもわずチャリを路肩に停めて、ちょっと雲を眺めたりしている時間、あれは実際かなり文化的だと思う
夏はそういう、デケー雲とか日暮れどきの光の具合なんかが目を惹くんだけど、秋とか冬もまったく悪くなくて、なんせ涼しいし、星が綺麗なんだよなあ!
秋口に、完全に夏の格好してチャリ漕いでスーパーセンタートライアルに向かってたらさ、思ったより秋が深まっていて、まあ寒い!寒い!って感じで、そのうち歯がガチガチなってきてさ、そんで田んぼ道だからチャリもガタガタしてさ、内からも外からも振動しながら、ふと空を見ると、なんかマジでアホみたいに綺麗な星空が広がっていたりして、おいおいマジかよ、と思うわけですよ
ホント暗いんだよ田舎 絶対街灯もっとあったほうがいいだろ!って思うんだ
でも、やっぱその分、星が見えんだよなあ!
スーパーセンタートライアルに向かう道すがら、寒さに震えながら見上げる星空ほどイイものって、実際そんなに思いつかないっすよ
俺はかつて東京を憎んでた(キモいから!)けど、最近ガチでどうでもよくなってきていて、それはひとえに、田舎で全然ええなあ!と思い始めたからだと思う
人のいねえ道で適当に腕振り回したりしながらチャリ漕いで、雲とか星とかを眺めて、そのあとスーパーセンタートライアルでアイスとか75円のイカフライとかを買って、別に腹が減ってるわけでもねえけど、帰り道に開封して、食いながら帰る
「君たちはどう生きるか」感想。
具体的なネタバレはそれほど無いと思うが、作中のかわいい一キャラクターのみ個体言及する。
一言で表すならば、眠りの浅い時に見た夢。
ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、ハウル、ポニョ、そして風立ちぬといった宮崎駿歴代作品イメージボードをブンブン振り回されて巡らされた。
呆然とした。
映画が終わった時には、なるほどね、と口から漏れていた。何故広告を打たなかったのか、得心したからだ。むしろ広告が打てなかったと言う方が正しいのではないかと思う。
ストーリーが訳がわからんかったのは別にいいというか、この作品自体が夢みたいなもんだからどうでもいい。
まず引っかかったことの第一、台詞回しが説明的だったのに結構なダメージを受けた。
映像だけで説明できているはずのシーンで重ねて行動の意図を口に出して「今この台詞言う必要あったか?」となったのが、覚えている限り少なくとも二回はあった。
他にも感情の流れの描写がなく、どうにも唐突に結果だけが放られる台詞が多かった。細田守を彷彿とさせる台詞回し。辛かった……
私はキャラクターへの共感については特に必要性を感じない方なのだが、感情の流れだけはしっかり描いてほしいと思っている。その流れがブツブツ途切れていて、最後に繋げたい結論だけを口にさせていて、気持ちが悪かった。
それも意図的なのかもしれないが。
第二にショックだったのは、ワラワラがただ可愛いだけのゆるキャラだったこと。
駿の中にはもうマスコットになりうる「可愛くて、でも不思議な」キャラクターはいないんだなと痛感した。
安直でなんの捻りもない造形には、宮崎駿の原体験や自然の中にある生命の伊吹を感じることができない。そこに「いる」必然性は描かれず、ただ丸く、かわいい、特徴の廃された「マスコットらしいマスコット」でしかない。
子供向けにフックとしてマスコットが要るだろうという「思いやり」もしくはジブリと言えばという商業的要請から出されたキャラクターにしか感じられなかった。
DNA螺旋なことは分かるが、それにしたって安直なデザインには宮崎駿の興味・関心が感じられない。
まあそこは今の宮崎駿にとってはどうでも良かったのだろう。でもシンプルながら風変わりで、動物や幼児の見せる原初の感情や愛嬌を細やかに描いたキャラクター達を愛していたので、個人的にショックが大きかった。
現在の宮崎駿の中で鮮やかに表現されるのは、戦争であってファンタジーではないというのは今作を観て強く感じられた。
最も切実にこちらに訴えかけるのはやはり空襲のシーンであったし、街が燃え、人が炙られ彷徨うシーンだった。
主人公が自らを傷付け、結果二兎を得るが上手いこと加減できず割と深い傷になる小賢しさと迂闊さも少年らしく良かった。
背後に不穏さが漂う陰鬱な現実こそが「今」の宮崎駿なのだろう。現代情勢からも必然だろうとも思う。
私は宮崎駿の、普通エンターテインメントに乗りきらない切実で繊細なものを、エンターテインメントという砂糖をまぶして結実させ、本来のターゲット外の人までより広く世に送り出す手腕にこそ心酔していた。
「風立ちぬ」なんかはその真骨頂で、あんな純文学を大々的にお出ししてきたのは正気ではないと思いつつ狂喜乱舞したし、そこに込められた宮崎駿の諦念を目の当たりにし、これで創作活動を終いとするのは悲しすぎると涙した。庵野が棒すぎて頭に入らないから嫌と内容以外の部分で周りに否定されたのも悲しかった。
結果的に言うと「風立ちぬ」は宮崎駿の終点とはなり得ず、私の望みは叶えられた。
「君たちはどう生きるか」を鑑賞し、ここまでただ狼狽した心情を書いてきたが、今の宮崎駿に非常にショックを受けつつも、なんとなく心穏やかになった部分もある。
宮崎駿作品から既にひりついた表現への欲を感じなくなったのは、それはそれで救いであるとも思う。
そういう意味では、私にとっても「宮崎駿」への餞というか、終活になった。
どんなに作品の底に込めた意味があろうと、こちらに伝えようという意思が感じられない、というか作品を観ながら「伝えたかったもの」を考える余地がある、物語に没入できない時点で出来の悪い作品と考えているので、作品単体で言うと★1なのだが、監督が宮崎駿ということを加味すると★3になってしまう。
「君たちはどう生きるか」を宮崎駿ではなく、例えば米林宏昌あたりが作っていたら私は激怒し、オマージュを大義名分にジブリブランドを体良く利用して棄損するなと気炎吐き散らして暴れ回っていただろうが、宮崎駿ならばこれを作る権利がある。
立川も八王子も駅前は多少栄えてるけど、ちょっと歩けばウチの近くと似たような景色になる。ハリボテみたい。海もなければ多摩川も遠いし、デカい公園もない。昭和記念公園は金を取られる。
いくらかマシな駅前でも、遊ぶには金がかる場所ばっかりだ。高校生の頃、雑費込み5000円の小遣いじゃ大した事はできない。電車に乗って遠くに行く機会も中々ない。
昔一回嫌気が差して新宿まで出ようと決めた。大学入るまで電車通学したこと無かったから、知ってる「都会」が新宿くらいしかなかった。金がもったいないから行きは歩き。
国立から線路沿いに歩いて、三鷹辺りまでは似たようなつまんねー町並みが続いた。無機質なコンクリの高架と、その足元の人が入ってんだか入ってねーんだか分からんピカピカの商業施設。それを囲む家。時々森林。つまらん。
でもそこらを通り過ぎると個性が見えてくるようになる。まず駅前の雰囲気が画一的でない。でけえ掘っ立て小屋みたいな駅舎とツルツルのアスファルトの閑散としたロータリーみたいなワンパターンじゃない。駅の形がおもしれえ。
乱立する店も金はねえから利用はできないが、それでもプラプラ歩き回りながら眺めてるだけで楽しい。
マックや松屋、ビッカメやルミネを眺めていても何も楽しくねえけど、ここは違う。見慣れない街への新鮮さもあるだろうけど、それ以上の何かがある気がした。街に色があった。
中野で断念しちゃったけど、今でもアテもなくフラフラ歩き回るのがすきなおれの原体験だ。
大学も多摩だった。おれはもう一生をここで過ごすのかもしれないと思った。このままでは魂が多摩色に濁ってしまう気がして、わざわざ都心のバイト先を選んだ。初めて目白という地名を知った。往復1000円弱がタダになるのはデカい。
無駄に一人暮らしして、最寄りが中央線から京王になってなんか新鮮だった。多摩内を南西に移る虚無の引っ越しだった。
中1までは本気で日本の電車とは中央線が北海道から九州まで繋がってるもんだと思ってた。乗り換えという行為の意味が謎だった。
新宿での乗り換えで一旦駅を出て、覚えたてのタバコで一服するのが恒例だった。西口の喫煙所でモード学園のビルを眺めながら一息ついてると主人公にでもなった気がした。
目白ではバイトの休憩中に学習院へ侵入して一服するのが好きだった。キャンパスがおれのとこと違ってザ・大学って感じがした。附属の生徒が構内を歩き回っていた。おれの母校も小中高一貫校で、小学生が学食でチョロチョロしてるのが嫌だったのを思い出した。
マックスキャロットに行こう行こうと思っていて終ぞ行かずじまいになってしまった。今度行かないとな。
一回金なさすぎて目白から帰れなくなった。みどりの窓口がある池袋まで歩いて、Suicaを払い戻して現金を手にし事なきを得たのも思い出深い。
この頃から都心の雰囲気に少し慣れ始めた。同時期から服装に気を遣い始めたのもこれと無関係じゃなかったかもしれない。
元々フラフラ歩き回るのが好きだし、そのステージが多摩から遥かに豪華になったのが嬉しくてたまらなかった。都心はすげえ。立川より立派な街並みが隣の駅まで歩いてもずっと続いてる。バイト代もあるからかっこ良くて履き心地の良い靴も買えるようになった。
バイト帰りに、当時流行りだしたサウナへ寄って一泊するのも好きだった。親の同意書も要らず外で泊まれるようになったのが嬉しかった。まあ以前も自分の字で書いて出してたけど。朝から一風呂浴びて、さっぱりした身体で上野や錦糸町をふらつくのも新鮮な体験だった。
バルト9では深夜も映画が観られる事を知った。ゲーセンもファミレスも夜は閉まってしまう時代で、こんな場所があるのかと思った。夜を映画館で過ごすなんて、マンガや映画に出てくる不良少年みたいな体験で興奮した。
終電で適当な駅に降りて、夜通し歩き回るのも好きだった。夜中の鵠沼海岸でボーッと波の音を聞いたり、誰もいない江ノ島を歩き回った事もあった。
確かに、子どもの頃から、性欲を出すのはキモいキモいと忌避されてたよ。
俺はいま30代後半の田舎育ちだけど、たぶん日本全国同じだと思う。
エロい女性に鼻の下を伸ばしたり、オナニーの話題を出すと冷たい目で見られるし。
漫画とかフィクションでも三枚目の男キャラが下心丸出しにして女性キャラに殴られたりね。
でも、そもそも性欲って時代と文化に関わらず絶対的にキモいものなのかな?
いくつかの野菜は妙な形をしていた——…ブサイクな野菜だった。
奇跡でもなんでもない単なる偶然の産物である大根の顔には、しかし、ペンでこう書かれていた。
登校してそれを見た女子たちは、キモい、キモい、最っ低!! と口々にののしったんだ。
男子の中にさえも、キモいよな、と言い出すのもいたと俺は覚えてる。
早朝の教室の光景は、幼い頃の俺の脳みそに、原体験として刻み込まれた。
思い出すたびに、過去の自分を守る立場でクラスのみんなと戦いたい気持ちになる。
実在する弱い具体的な特定個人を追い詰めたわけでもないのにさー。
…。
思い出って、忘れたつもりでも、ずっと燻ってたりするんだよな。
割と唐突に思い出して、思い切って相談したら、親切にも彼は考えてくれたんだ。
犯人の自供ではなくネットの伝聞として紹介した話に、ひと回り歳下の男友だちは答えを出した。
だそうだ。
「性欲は当然存在してるけど、存在を見せちゃいけないんですよ」
「性欲を表に出すのは自由ですけど、だったら表に出すのを許さないのも自由です」
我納得不出来
然反論不出来
なんか今日、おすすめのゲームとか漫画教えてもらう増田が多くてずるいずるい!!私もやる!!
どうやら食事シーン萌えらしく、何かを食べている描写がある作品が大好物なんです。
リストアップしてて気づいたんだけど静かに「美味しいねぇ…」って吟味するようなのが好きなのかもしれない。
最近では「八日さんが舐める」という漫画の連載初期がもう上品さと下品さのバランスがハチャメチャに良くて、熱いメールを送りつけたりもしてたんだけどどんどんよだれがグチャグチャ垂れたりヘソの垢を舐めとろうとしたり臭そうな女が出てきたりしてダメになっちゃった。悲しすぎる。
以上!とりあえずなんでも試してみたいので教えてくれ!!
小学生の頃のある日、昼休みに珍しくクラスのT君と喋っていたら掃除の時間になった。私が教室に戻ろうとした折、彼は「そんなんサボっちゃえばいいんだよ」と言った。
それまで私の人生に「にげる」というコマンドはなかった。逃げて良いのはドラクエだけだった。掃除の時間中、彼と一緒に校舎内を練り歩いた。真面目に掃除している友達を訪ねおちょくるT君を横で見ていた。
同じ班の女子生徒に見つかり、サボってんの?と呆れられはしたが、チクられはしなかったのだろう。その後お咎めはなく、世の中自分が思うより結構緩く回っているのかもしれないと思った。これがサボりの原体験だった。
その後は逃げるという選択肢を大いに使った。
T君の誘いに流された時と違い、初めて自分の意志で塾をサボった。サボりすぎてバレて殴られ、それでもめげずにサボった。時間潰しにチャリで10km離れたイオンまで乗り付けて、エヴァを1巻ずつ買うのが当時何よりの楽しみだった。
中高は担任がハズレで、ついぞ学校をサボるという体験はできなかった。が、部活の気分じゃない日はサボって高尾山に登ったり、多摩川を延々と下ってみたりもした。春には桜が見える駅前のマックにコーヒー一杯で長々と入り浸った。
夜中の江ノ島を独り占めしたり、バルト9のミッドナイトショーへ行って、始発が来るまで中央公園で感想を書き留めたり。魚がいるかも分からない多摩川で一晩中釣り竿を振り回したり。終電も過ぎて遠出が出来ない日は、聖蹟のゆうひの丘まで行き、多摩の夜景を眺めながら物思いに耽った。静かな夜に動き回るのが好きだった。
傍から見れば取るに足らない思春期の現実逃避だろう。でも私の青春はいつも逃避の中にあった。逃げた先で大切なものを見つけようとした。憂鬱な帰り道すらも現実を考える時間になった。必要な時間だったと心から言える。
逃避という麻薬の如き選択肢を教えてくれたT君。育ての親や敬愛するバッハを差し置いて、私の人生に誰よりも影響を与えた人物かもしれない。
人生、機を見極めて逃げるべきタイミングもあろう。今までは少し逃げ過ぎたかもしれない。それも良かったが、青春も半ば終りかけた今や目の前の生活とも向き合わなければならない。世の中に蔓延るバカげたことから上手く逃げおおせながら生きたいものだ。
思春期にナンバガやゴイステを聴く陰気な少年をマジでかっこいいと思ってるし、自分もそうありたかった。
実際の所は姉の影響やミーハー心で事変やサカナクションを聴いていた。最近はそれもまた等身大の高校生といった感じで良いような気もしてきた。逆張りの申し子だったからそもそもオーケストラやジャズばっかり聴いていてロックはあんまりだったが……
夜の踊り子の焦らしは今でも高ぶるし、群青日和のギターソロは本当にかっこよくてクネクネせずにはいられない。
借り物の青春像ではなく、最大音量で1812年を聴きながら高尾山に登ってみたり、閃光少女のアウトロを何百回も繰り返しながら多摩川を延々下ってみたりした逃避行の原体験に誠実でありたい。
親切心の原体験は学生時代に落とし物を拾おうとしたら「汚いから触らないで」と断られた事だ。
すべての老人に席を譲ったわけでは無いが、何度か席を譲ったことがある。落とし物を拾い、交番へ届けた事もある。路端に落ちたゴミを拾った事もある。コンビニで募金をしたこともある。
きっとそれらは全て無意味だ。
俺に席を譲られた老人は顔に出さないだけで俺が触れて汚れた席で不快になっただろう。
落とし物を届けた交番の警察は余計な仕事が増えて面倒な気持ちになっただろう。
路端に落ちたゴミを拾ったって街中のゴミの数は大してかわりもしない。
コンビニの募金だって俺の数十円なんて無くても良い誤差だろう。
全部無意味だ。
自分の行う善行めいたものはその実、人を不快にさせ、人の手間を増やし、無意味な行いだ。善行を行ったという虚栄心を満たすためだけに行われた偽善だ。
なるほど…
好意はありがたく受け取りつつ、現実の人間関係の中ではなく増田だから本音を言うと、それは我々みたいな人には向かないアドバイスかもしれない
我々はあなた達と同じようにこの世に尽くしてきたけれど、そのお返しに苦しみを受け、それでも尽くしては殴り返される生活を続けてきた者たちだから
そして、無垢に尽くして無下にされず報われる経験を家族という特殊な間柄以外でするのは、ほぼ不可能なことだそうです
恋人や友人とそれをなせるのも、とっかかりとなる幼いときの原体験ありきだそうです
ともかく、これ以上うかつになにかに尽くしてはならないと気づいたからまだ生きているのです
気づけなければとっくにこの世にいないです
だいたいが強烈な原体験を抱えていて、それに伴う怒りや憤りが活動のエネルギーになってるのよね。界隈で働きていたのでその突破力の凄さは肌身で感じている。
その怒りが社会構造に向けられているうちは良いのだけど、他の組織や支援者に向けられるとまあ悲惨。吸い寄せられて薪をくべる取り巻きが現れるし、穏健な味方は去っていくし、面倒臭いやつ扱いされて結局事業がスケールできなくなる。
うまくやれてる団体の代表者は原体験を抱えながらも「自分のような不幸の連鎖を少しでも止めたい」というスタンスの人が多いかな。身の回りの人を少しでも救いたいっていう、人斬りを止めた剣心みたいな感じ。
危ういのは、「自分のような不幸の連鎖は完全に止めるべき」っていうスタンスの人。怒りのエネルギーがとにかく強い。その「あるべき」が他者に向けられるともの激しい攻撃性が発揮されるし、果たせていない自分に向けられると自責感で潰れる。もっとも、多くの人はそんな強い怒りのエネルギーを受け止め切れるだけの心の強さもないので、結局は他責に転じてしまうのだけど。
まぁ何が言いたいのかというと、もしあなたが社会的弱者の支援活動に従事したいなら、代表のキャラクターはよく見定めた方が良い。怒りを程よい距離感で活動のエネルギーに変えられている人は超優秀。
俺は音楽が好きだ。
友人にとって音楽はまさに生命であり、これまで何度も音楽に感動し、何度も音楽に助けられてきた。
俺は音楽が好きだが、しかし彼のように心すべてを奪われた経験がない。
名言・名句・名文を目にするとハッとし、心を奪われ、その刹那すべてが静止したかのように息を呑んだ。
その瞬間、俺の心の中には風が吹き込む。
新たな世界が芽吹く煌きとよろめき。
それを与えてくれるのが言葉だった。
言葉一つで、なんて思われようとも、そんな言葉一つが一人の人間の価値観をガラッと変えてしまえるような、そんな力があることを誰よりも知っているから。
これも言葉に感動した原体験を未だ忘れずに居るからだし、今でもハッとする言葉に出会うことは多い。
心に風が吹き抜け、その風は精神を擽り、自然と笑みがこぼれてくる。
この感情を伝え、原体験の共有をしたいと、心の何処かで願っているのかもしれない。
そして、思うのだ。
心に靡いた風をとらえ、それをずっと忘れずに居ることが大切なのだと。
風を求めることなんだ。
たとえば最近読んだ本ではこうだ。著者は女性の法人類学者(骨を専門とする科学者)で、本の内容は骨の世界について一般人に紹介するようなもの。この本で、作者は祖父にレイプされて自殺した少年の骨に強いストレスを感じていた痕跡があったエピソードを紹介し、自身もまた9歳の時にレイプされたことを告白していた。
訳者あとがきでもこの事に触れていたんだが、著者はレイプや児童虐待に関する論文も多数発表している。やはりレイプが原体験になっているのか、いやはや、ちょっと執念を感じる……。って書き方なんだよね
古い本ならありうる話だが、この本の日本語翻訳版出たのは2022年の夏、しかも訳者の名前からしておそらく女性。英日翻訳をするくらいの教養者だから昨今の人権感覚とかはわかっているはず。それでもこんなこと書いてしまえるのか……となんか地味にショックだった
あと覚えてるのはダ・ヴィンチ・コードの作者の本。訳者があとがきで、ウンチクが多いとネガティブに書いてて心底驚いた。教養をテーマにした作品でそれ言うんかい……と。
いつか無かったことにされる。
その前に、「硝子ドールだけは人類史に残すべき」と伝えるために俺はここにやってきた。
俺は音楽のことはあまりわからないのでメタルだとかディストーションだとかの話は誰かがやってくれると信じてひたすら歌詞の解説をする。
硝子ドールは、鏡に映した自分に問いかけるようにして紡がれる詩である。
その本質は「変革を望む気持ちと拒む気持ち、変革への確信と普遍への確信の矛盾、自己憐憫と自己批判、そんな自分を客観的に見ているつもりで、自分の思い込みに縛られる様子。モラトリアムの中で戸惑いながら、終わらない日常を願いながら、昨日までと違う明日も同時に願う少女の姿」である。
アイカツは対象年齢を幼児向けとしながらも、音楽やテーマは若干背伸びさせてジュブナイルに仕上げているが、その中で最も痛烈に「青臭さゆえの痛々しさ」を描き出しながらも、それを「永遠の時間を生きる設定の吸血鬼美少女」に重ねることで「耽美的」とも言える絶妙な痛快感に仕立て上げているのがこの硝子ドールである。
幼少期の知りうる世界の狭さをもってしか生み出すことの出来ない1人セカイ系とも言える感覚の原体験がここに詰まっている。
紛れもない名歌である。
鏡越しに見ている人とは誰か。自分で鏡の前に立ってみると分かる。自分である。ではなぜ眼差しが乱反射するのだろうか?それは自分が自分に対して焦点を合わせることを躊躇っているからである。人は元来、自分の姿に気恥ずかしさを感じるものだ。自分を鏡に写したとき、自分を直視するのは難しい。まして、自分に自信がなければ。
ビロードと聞いて最初に浮かぶのは「手触りのイメージ」。これによって聞くものは空に手を触れる感覚を持つ。手を触れられるほどに低い空は陰鬱なイメージを。それと同時に、もっと強く手を伸ばせば突き破れるほどの低さを感じさせる。心の中に浮かぶ自分だけの夜の世界。ガラスの天井は突き破ろうとすればいつでも破れる。その空の低さが「なぜここにいつまでも留まるのか?」を問いかける。もちろん、自分の心に広がるセカイの狭さも。
今日こそは変化が起きる。モラトリアムに揺れ動いた日々、いつもどこかでそう思っていた。それは夜になるほどに強くなり、「今、もしも布団に潜らなければ、今日こそはセカイは変わるのに」と強く思い込みながらも、社会に迎合することを選んで眠りについた日が誰にでもあるだろう。
誰かが連れ出してくれると信じている。自分が踏み出すのを助けてくれる誰かを待っている。自分だけでは不可能だと。ここは自分だけの世界。それならば本当に待っているのは、自分を助けることが出来る強さを持った自分自身。今ココにいる自分では駄目だと感じ。それでも、どこかに強い自分がいてきっと自分を助けられると信じたい。
鍵が壊れているからそっと押すだけで開くのか。壊れた鍵が噛み込んでもう開くことは出来ないのか。重ね合わった2つの可能性。果たして実際に試したのか。それとも、ただ心のなかで思うだけで扉に触れてもいないのか。
昨日と同じ明日が永遠と繰り返されているような感覚。無限大の過去を遡ってもずっとそうだったような気がする。無限大の未来を見ても、ずっと変わることはない気さえする。長いのではなく、永い。命が尽きるまで終わることがないのなら、我が身が吸血鬼ならばそれは永遠を意味している。
誰かに尋ねても貴方はもう自由だと返ってくる。それでも自分はここから動けない。自分を縛っているものが確かにある。他人にはそれがわからない。もしもこれが自分の心にしか無いのなら、自分はずっと夢の中にいるのと変わらない。夢の外にたどり着くことその日が来るまで、自分で生み出した鎖からは逃げられない。
硝子=鏡。硝子の瞳=硝子に映った自分の瞳。自分自身が自分に対していい加減に終わりにすることを望んでいる。夢から醒めることを待っている。終わりのないこの夢に退屈している。それでも辞めることが出来ない。鏡を覗けば自分でさえも呆れ果ているのは明白なのに。
そうしてもまたモラトリアムは繰り返される。
現実は容赦なくやってくる。心は夢に閉じ込められたままでも、体は現実を生きなければならない。自分の夢にだけ引きこもれる夜が終われば、夢と現実が重なりあった時間が始まる。
ゆっくりと時間をかけて現実へとチャンネルをあわせていく。夢の世界が閉じていく。今日もまた夢の中の自分は鳥籠から出れないままに、現実の自分を布団からゆっくりと起き上がらせていく。醒めない夢は、心の奥でまだ続いている。それでも現実に向けて歩みだしていかなければいけない。
誰かが扉を開けている。終わらないはずの夜が外の世界の向こうへと誰かがそっと抜け出ていく。扉を開けているのは自分自身。扉を締めてまた暗闇の世界に戻っているのもまた自分。自分の中でとっくに夢を抜け出ている自分がいる。夜の世界に居続けることを選んでいる自分はそれを見送っている。本当は今ここで鎖に繋がれている自分も抜け出せるのだろうか。
こうして私が夢の中に閉じこもり続けることを選び続けることを世界もまた望んでいる。同時に夢の外に出て生きることもまた望まれている。重なり合って矛盾にまみれている。だけどその矛盾の重なり合いに身を委ねるなら、どちらでもないままで居続けることが許されている。それに苦しみながらも、それに助けられながら、それを恨みながら、それを望んでいる。
終わることのない矛盾を終わらせることを投げ出してただこのまま全てを終わりにしたい。変わることを願いたいと思う自分に満足したまま、変わらないで居続けられるままで。永遠にただ今のままであれば、選択する必要もなく、選択しようとしたことだけを残し、何者でもありえるままにいられる。
それでも、いつか変わる日が来るのだろう。変わろうと思わずとも変わることになる。きっといつかその日が来る。でもそれは今日じゃない。明日かも知れないけど今日ではない。確信だけがそこにある。まだ何も始まらないままに、何かがいつか起きることだけを知っている。鏡の中の私は硝子の瞳でそれを待ちわびている。待ちわびたままでじっと動かない。硝子で作られた動くことのないお人形。硝子ドール。