はてなキーワード: 原体験とは
注)オチはありません。
私、妻、娘息子の四人家族。浮気やその他悪事らしい悪事はしたことのない小市民だが、私は性に目覚めたころから小児性愛者である。
始まりは小学生の集団登校。高学年時、人懐こい低学年女子に登校中ベタベタとくっつかれていたのがキッカケだと記憶している。中学生になりガラケーを与えられてからは、猿のようにネットでネタを探し自己処理に耽っていた。そんなある日、とある男子が女子小学生が好きだとの理由で袋叩きにいじめられているのを見て、この嗜好は他言無用だと認識した。その後今まで嗜好の件は誰にも言っていない。
高校〜大学になっても相変わらず嗜好はそのまま。パソコンを買ってより快適な猿となった。
●何故結婚なんてしたのか
妻はサークルの後輩である。サークルの飲み会後私の下宿先に泊まって事に及びそのまま付き合い始めた。そしてお互いの卒業後に結婚。よくある話だと思う。嗜好がばれなかったのが幸いだった。
妻のことは勿論愛しているが、年齢の話に限れば当時からすでに私の趣味範囲から大きく外れている。しかしいざ行為に及ぶとき、私の一物はしっかり機能した。これも幸い。
妻が初めての相手であり他にはプロのサービスも含め一切経験が無いため、妻だけ特別なのかそうでないかは分からない。
●娘に対して
不思議と娘には全く欲情しない。真っ当に我が子として可愛いと感じる。原体験の通り私の嗜好の対象は小学校低学年だが、娘がその年齢になっても何も感じなかった。しかし外で見かける他所の子は今でも意図せずそういう目で見てしまう(勿論手を出したりジロジロ見たりはしません。念の為)ため、私の癖が収まったわけではないと思う。
とりとめもなく書いたが実際の話である。下の子ができてからもうそういう欲自体がだいぶ減ってしまったが、嗜好の方向性は小学生から変わっていない。今後も変わらないだろうと思っている。
父が脳出血で倒れた。
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ほらみろ、夜更かしはするし、タバコもやめないし、肥満だし、当然だ。
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と、思った。
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初めて病床で対面した時、矛盾ながらも彼はとても弱った様子だった。可哀想だと感じた。
親の死期が近い、という言葉が頭によぎる。
そして同時に寂しいという感情も沸いたのだ。
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あり得なかった。
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父は自分にとって、自分の人間関係の中でもワーストで関わりたくない。
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なぜか?
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金だ。金の使い方があり得ない。
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書ききれないほどに挙げられるが
にもかかわらず、とにかく働かないのだ(正確には働けない身体だが、本人にそれを改善する意思や行動は見られない。)。
このギャンブルに手を出してから、子どもたちの奨学金を生活資金として受け取り、踏み倒しギャンブルに投資していた。
父の入院をきっかけに父が所有するアカウントを全て洗い出した、証券の取引履歴を見たら、毎年50万の赤字を叩き出していた。本当に笑える。
喧嘩が激化して怖くて泣いた記憶もあるし、仲直りしてと子どもながらに訴えていた記憶がある。
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一度、母を殴ってたっけ。
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そんな母には僕が大学に進学するタイミングで、離婚することと家を出ることを勧め、離婚届にサインして日本を出た。
そして僕も奨学金を握りしめて家を出た。
今は海外で楽しく過ごしているそうだ。
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僕は父に対してコンプレックスを持っている。
頭が悪いと思われたく無いのだ。
幼少から他人を批判する父親を見て育ち、父にはそれを判別する力を持っている聡明な人間なのだと思っていた幼少期だった。
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入院してから病院に持ってきて欲しいものを間違えたとき、その時は気づかなかったが自分は内心とても焦っていた。
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ああ、また親父に認めてもらえない。
その原体験は高校でトップの成績を取ったときだった。成績を見せても
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井の蛙になるな
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と言われ、認めてもらえなかったのだ。
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これが寂しさを引き起こしている原因なのかもしれない。
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父には、まだ認めてもらっていない
早く何かを成し遂げなければ。
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だからもう少しだけ生きていて下さい。
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https://anond.hatelabo.jp/20210807233230
b:id:le_cinema Hさんのご両親の話は無意識の男尊女卑で世の中をちょっとずつ悪くする人の例として挙げられてるだけでは?増田は安全圏にいると言いながらフェミガー長文を書き殴らずにはいられない己についてはどう分析するの?
b:id:RRD 家庭内暴力ではないが、家庭内で暴力がふるわれてるんだよ。ブクマかは日本のことをよく知らないみたいだけど、日本ではよくある話。
b:id:maruX 増田が男尊女卑を感じずに生きてこられたのは何故なのか、まるで疑うこともしないでひたすら上から目線なの凄いと思うよ
b:id:cleome088 あなたもその地獄を知らなかったんだから、相対的視点のない田舎者だし、その地獄により添う気がないのならそれは現在進行系でそうなのだと思う。/大叔父が昔傷害で人刺したけど示談になってニュースにもなってない
b:id:white_rose こうやっていちいちネチネチと相手を侮辱せずにいられないミソジニー増田みたいなのがいるからじゃないですかね。自覚がないというのはより深刻。
b:id:esbee 増田がたまたまいい環境で生まれ育って無知で勉強不足な可能性はあるんじゃない?私はHanPannaさんに共感しちゃうな~。相対的視点が無いのは増田のほうでは?
b:id:kagecage 自分は全ての議論において「全員原体験が違う」ということは念頭に置くようにしてる。身近な男性がセクハラをしてくるような環境にいる人は、残念ながらたくさんいて、その悲しみには寄り添いたい。
裏で連絡取り合ってんの?
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
「面食いです」っていう人の方がよっぽど信じられる。今でも友人として数少ない仲がいい女友達がこのタイプだ。浮気性のクズだが、プラトニックな飲み友達である。
俺の髪質は悪い意味で特殊で、太くて縮れていて量が多い。小学生のころから強い癖毛で、中学時代のあだ名は「ちんげ」「スチールウール」「陰毛」「アフロ」「チリ」「かたやきそば」散々だった。他人に容姿を侮辱されるのは屈辱だったが、何よりも自分が、この扱いにくい髪質をとても嫌っていた。好きでこんな髪質で生まれたわけじゃないのに、なんでこんな仕打ちを受けなければならないのか。ネットのヘアカタログにある「くせ毛におすすめのヘアスタイル」みたいな写真は1mmも参考にならなかった。見るたびに「こんなのほぼ直毛じゃねえか」と悪態をついていた。
学年TOP3のキモいランキングに入ると、もう学校生活で人権はない。汚物のような扱い、何をしてもいい扱いになる。同級生からは「あいつは髪が終わってる」と嘲笑されて、容姿偏重主義の社会の車輪の下敷きになってメンタルは大分荒んだ。今でも心が屈折しているのはこの当時の原体験の影響かもしれない。
中学卒業を機に縮毛矯正をかけた。感動した。みんなこんな世界で生きているのか。風で髪が靡く感覚に感動した。ドライアーで髪がすぐに乾いた。とても快適だった。地元から離れた高校に入学してからは縮毛矯正を欠かさなかった。そうしたら面白い事が起きた。俺が「イケメン」として扱われるようになったのだ。中学時代に汚物のように扱われてた俺が、キモメン三銃士の俺が。イケメン扱いされたのだ。たかが髪型1つでだ。俺に媚を売ってくる女が、何をしなくても寄ってくる女が、いるのだ。中学時代の汚物扱いされてた俺がだ。
俺はそこで人間不信を深める事になった。そして思春期の持て余した性欲を寄ってきた女達にぶつけるようになった。
周りを傷つけないように振舞っていた中学時代の俺は髪質だけで男女から汚物扱いを受けていたが、女を物のように扱うクズな仮初の直毛の俺を女はより求めるようになった。高校時代はセックスに明け暮れながら、くせ毛の陰におびえた。1か月半に一度はリタッチをしていた。周りにくせ毛だとバレるのが酷く怖かったからだ。第一に髪の事、第二にセックスの事。そんなことしか頭になかった。
クラスメイトで、癖毛で小太りの男子生徒がいた。おとなしくて引っ込み思案だが、別のクラスメイトがドミノ倒しに倒した自転車を一緒に起こすのを手伝ってる姿も見た。器量は良くないが性格はとても良い奴だった。共通趣味が無くて会話したことはあまりなかったが、俺は彼が人として好きだった。そんな彼に俺の事を好きだという女が言う。「あいつキモくない?」「きしょい」俺はそれを聞いて肯定も否定もしなかった。ただ茫然自失としていた。そんな彼女の同じ口から「私は見た目で人を判断しない」「中身重視」こんな言葉が出てくる。彼女みたいな人間が気持ち悪かった、怖かった、たくさんいた。俺は人が目の前で自転車を倒しても素通りするし、縮毛矯正がなければ小太りの彼より酷い癖毛だし、君の事もおまんことしか考えてない。少なくとも彼は君からどんな仕打ちを受けても君を人として扱うだろうし、俺より彼の方が中身はよっぽど優れている。俺は君にそんな事を言われたら孫の代まで恨む。俺が彼に勝ってる要素なんか何一つないんだよ。君は一体俺の何が好きなんだろう。
見た目でしか好かれる方法を知らなかった俺が好かれるのは、こういう女ばかりだった。清楚系で可愛い献身的な子もいたが、数年後経った今は風俗で働いてるらしい。
三十路手前の今でも俺は縮毛矯正のリタッチを続けている。かれこれ15年選手になる。未だに人にキモがられるのが怖いし、人に好かれるのも怖い。
前の職場の先輩に「その頭、縮毛?」と言われたことがあった。冷や汗をかきながら「そうです。くせ強いんで」と答えた。「へぇ」とだけ帰ってきた。その後も普通に接してくれたが、縮毛矯正をかけてなかったら普通に接してくれなかった気がする。
人間は中身が全てというがあれは嘘だ。人間が「中身」を見てもらう為には、見てもらう為の土俵に立たなくちゃいけなくて、その土俵には不細工は上がれないのだ。だからどんなに性格が良い不細工でも「キモい」「生理的に無理」で一蹴される。
俺は今でも車輪の下敷きになったままなんだろう。
別に障害者本人に何かされたわけじゃないけど、周りのせいで被害こうむったって話。
ショッピングモールの増田は対一で嫌なことされたからまぁ分かるんだけど(たまたまイカれた客が障害もってたってだけとも言えるけど)
障害者本人には責任ないけど、イカれた保育士とイカれた障害者の保護者のせいで、障害者にまつわる嫌な思いしたって話。
もうはるか昔の話になるけど、保育園でずっと知的障害持つ子の世話させられてた。
その時はまだ特別学級とか田舎の方ということもあってあんまり普及してなくて、保育園ならなおさら。普通に20人にも満たないクラスに、知的障害持つ子がふたりと、たぶん発達障害だろうなって子がひとりいた。
自分は割と発育早くて、身長も大きいし、他の子より聞き分けも良くて、先生から何かと頼りにされることが多かった。
だから、その3人の世話を任されること(押し付けられること)が多々あった。
一番重度の知的障害を持つH君は、会話もままならず、顔もなんか変で体も小さくて、周りの人とのコミュニケーションが取れなかった。
だから庭遊びの時とか、いつも手を繋がされてふたりで放置された。
他の子が縄跳びとか竹馬とか追いかけっこしてるとき、自分はH君と黙々と砂遊びしたり、園庭をぐるぐる散歩することしか出来なかった。
もう1人の知的障害を持つFちゃんは、癇癪が酷くて、自分のままならない事があると奇声をあげて泣きながら、とにかく周りの人もものも叩きまくった。
工作なんかは他人の倍時間がかかるので、手先の器用だった自分がいつもお手伝いとして投入されていた。この時間があれば、もっと絵を書き込んだり、工作も丁寧に出来るのになと思いながら、たまに癇癪おこされて頭ぶっ叩かれながら卒園までお役目は続いた。
発達障害のN君も癇癪持ちな上、ワガママで暴力的。お昼寝の時間になるとこっちの布団に潜り込み、陰部を触ったり、キスしてきたりとなんかこれはこれで大層ヤバい子だった。
布団を離してくれというと、泣きわめいて先生を蹴るので、「我慢してね」と言われて長らく園児による園児へのセクハラを受けながら過ごした。
自分の灰色の保育園生活はこんな感じだったけど、いずれも障害者本人達には何も責任はないと思う。(むかしは本人達が嫌いでしょうがなかったが)
今思えば、スケープゴートを差し出してクラスの安定をはかろうとしていたバカ保育士や、そもそも園に通わせていた保護者がむしろ加害者であると思っている。
でもその時の嫌な思い出が原体験としてはつよすぎて、未だになんか障害者とは関わりたくないんだよね。
どんだけ強いかといえば、あんな子持つぐらいなら子供いらないなと思うぐらい。
別に2020年に発売されたゲームというわけではない。というか、大抵はSteamセールで買った奴。
Endless Spaceが良かったことを覚えていたので買った。
買ったのは良いのだが、1と違って2はいまいちハマれていない。理由は良くわかっていないのだが、一応インストールは続けているので暇を見て遊び直すつもりだ。
鉄道網を中心とした交通会社運営シミュレーションゲーム。
A列車を知っている人間に対して言うが、TpF2で複雑怪奇なダイヤを組むことは出来ない。それどころかダイヤを組むことすら実質的には出来ない。というのも、このゲームは1850年頃から現代までを網羅する都合上、ゲームスピードが結構早く、隣町に辿り着くまでに数ヶ月かかるみたいな事が起こる。なので、ダイヤに拘るならA列車に拘るしかない。
C: SのDLC。確かボイロ実況を見ながら買った。
このDLCの要素は、まだやってない。
確かゆっくり実況を見ながら買った。いや、お薬ボイロ実況だっただろうか? どっちでもいいか。
Project Hospitalは2018年に出た病院経営ゲームだ。同年に出たTwo Point HospitalがTheme Hospitalの精神を継いでコミカルな方面に振っているのに対して、Project Hospitalの方はリアル方面に振っている。ただし、狂犬病は治る。あと、米国の保険システムをベースにしているので、日本とはちょっと違っていて、もちろんゲーム的な味付けはあるのだろうけど、契約した保険会社が客を送ってくるし、基本的には保険会社によって客単価――患者単価が変わってくる。あと最初に契約するのは保険無し。つまり……君達に500$とか請求するけど、破産しないよね? ということだ。
さて、Project Hospitalが何かというと、患者が死ぬ前に全ての処置を行えるように専門処置室を設置し、医師と技師、看護師を配置し、患者の命を繋ぎ止めていって大金をせしめるゲームだ。
まず、動線が悪かったら患者は死ぬ。必要な診察室がなくて何の病気かわからなくても患者は死ぬ。キャパオーバーしていて充分早く診察が行えなくても患者は死ぬ。そして、それら全てをクリアしてどの病気かわかったとしても、治療が間に合わなかったら患者は死ぬ。
ゲームの最初はそんなにシビアじゃない。総合診療科は基本的には軽い病気しか扱わないからだ。しかし、新たな診療科を開業していくに連れて難易度は上がっていく。
俺は最初の病院で、総合診療科の次にうっかり内科を開業させてしまった。数多の患者が肺に水を溜めて死に、病院の経営は悪化し、新たな施設投資は夢物語となり、そして、数多の患者が肺に水を溜めて死んだ。
俺はその病院を放棄し、別の病院を開業することにした。今度は整形外科から作ると誓ってな。
航空事故が血によって航空機の安全を確保してきたように、このゲームもまた、架空世界の患者の命を犠牲にすることで、より良い医療体制を追求する事ができる。
そして思うのだ。あぁ、ゲームで良かった、と。
理由はよく判らんが何故か買った。多分セールかなにかだったんだろう。Steamは魔境だ。セールと言うだけで特に遊ぶわけでもないジャンルのゲームがライブラリに増えている。怖い!
長寿シリーズの高評価リメイクだけあって俺が何かを言う必要も無いほどに良い。
一つだけ気にくわなかったのは龍が如く7のおま国だったが、無事解除される事になったので特に言うことはない。
と終わろうとしたが一つだけあったわ。どこでも真島のせいで真島さんのストーリーでの立ち位置が意味不明になってない?
C: SのDLC。確かボイロ実況を見ながら買ったが、その実況でこのDLCが使われているわけではなかった。
このDLCの要素は、まだやってない。
Wargameシリーズや、更に遡るとRUSEを開発していたEugen SystemsのWW2 RTS。
Wargameのように一定の制限の元にデッキを作り、デッキを使って戦うゲームだ。
さて、そのデッキを組むのがちょっと面倒だ。まず、Steel Division 2では東部戦線が舞台になるのだが、その中の師団(一部旅団じゃね? って気がするのもある)から1つ選んで、デッキを組むことになる。各師団は戦車師団であったり歩兵師団であったりして、それに応じて戦車が強かったり、歩兵が強かったり、砲兵が強かったり、航空戦力が強かったりする。あと、資源の増え方が師団によって異なる。だが、それを師団名とちょろっとある説明でわかるというのは難しくない? とは思うし、何よりどのユニットが良いのかわからん。俺はV号戦車がIV号戦車より強いのは知っていても、T-34-85こそが当時の万能戦車であることは知っていても、ナントカ歩兵がホゲホゲ歩兵より強いのかは知らないのだ。結局、俺はYoutubeを参考にお手軽デッキを組み、それから歩兵を減らして偵察を増やした。
ちなみに、パン偵(Aufklärungspanzer V――アウフクラルングスパンツァー フュンフ)は個人的に結構良いユニットなのではないかと思っている。
さて、デッキを組んだのでスカーミッシュに繰り出すわけだが、CPUが結構手強い。
俺みたいな弱者は戦車師団を元にした戦車デッキじゃないと勝つことが出来ないくらいには強い(どの難易度のCPUを選んだかは忘れた。Easyだった可能性はあるが、Normal的なのだった気もする)。
いや、ほんと歩兵師団でどう上手く立ち回るんだろうと思いながら別ゲーに逃避している。
Netflixでミート・イーターを見ていたらやりたくなって買った。
俺には合わなかった。
代わりに高い肉を買ってきた焼いた。
美味かったが、大自然の風味はしなかった。
大航海時代っぽい奴。面白そうと思って買ったみたは良いが、そこそこ近くでも移動するのに30分掛かり、さらに別の港までは逆風で60分ほど掛かったのでプレイ継続を断念した。
好きな奴は好きだし、ハマる奴はハマるゲームではある。
まだやってない。
たしかPS4で買ったのだが、PS4は弟に譲ったので買い直した。
スパロボはスパロボだが、ヤマト2199が出て来るという点で異色か。
版権の問題で難しいとは思うのだが、αやZシリーズをPC移植してくれないかな。
3D版Factorioと表現したくなるような奴だが、Factorioと違って原住生物の襲撃がないのがちょっと物足りない。
しかし、工場を立体的に構築するという点についてはFactorioとは違った面白さがある。
これは前からセイギャラ実況動画で知っていたのだが、ETS2以外にのんびりするゲームが欲しいなと思った時にセールで買った。
石灰を撒き、肥料を撒き、耕して種を植えてから肥料を撒き、除草剤を撒き、もう一回除草剤を撒き、そして収穫する。これらを全て違う農機を駆使して行う農機シミュレーター。
かつては農業シミュレーターと呼んでいたのだが、サクナヒメが出てからは農機シミュレーターの方が合ってるなと思って俺の中での呼び方を変えた。
ボーッとゲームをしたいときにするゲームの1つ(もう1つはETS2)。
一応ハンコンにも対応しているのだが、あまり合わない気がする。
クッキングする系ゲームだが、プロパン爆破ゲームと勘違いされている気がしなくもない。
まぁ、ケーキやクッキーを作れるようなDLCを買ったのは良いのだが、現実でやらんタイプの料理をコイツでしてもなんか面白くないなと思って結局本体だけやってる。
教授の動画のようにMODを増やしていくことで経済面が充実していくので楽しいのだが、今はE:Dに回帰してしまった。
この表現が正しいかどうかはわからないが、これはカイロソフトの『ゲーム開発途上国』の系譜にあるゲーム開発会社運営ゲームであると言って良いと思う。
似たようなゲームとして『Mad Games Tycoon』や『Game Dev Tycoon』がある。『Software Inc.』なども類似性があると言えるかもしれない。
City Game Studioは、複数のスタジオを運営できたりと、この系譜の現時点での完成形と言っても良いと思っていたのだが、『Mad Games Tycoon 2』が出ていたのでその判断は差し止めて置く。
ただMad~Tycoonのグラフィックは結構人を選ぶタイプなんだよなとは思う。
地下鉄駅のネットワークを営業するシミュレーションゲーム。
どうもロンドンのチューブをベースとしているらしく、東京の雪崩を相手にする必要は無い(そっちは多分STATIONflowがそんなのなのでは?)。
俺は捻くれているので、実況とは違って音楽系U-Tuberになることにしたのだが、あまりクオリティが高いとは言えない音ゲーが挟まるのがストレスポイントになって終了した。
ピラミッドとZUNTATAのスマホゲームをやっているので買った。
こいつは古き良きRTSに近くて、ただマップが球体であり、宇宙があり、そして、他の球体がある。
俺は古のConquest: Frontier Warsがゲームの原体験なのでこの手のゲームは好きなのだが、Steel Division 2の話で気付いたように、俺は弱い。
俺は弱いのだが、Planetary Annihilation: TITANSはそんな俺でも爽快感に満ちる事が出来る。なぁに、途中の趨勢が悪かったから何だというのだ? スーパーレーザーで惑星ごと破壊してしまえばこっちの勝ちだし、惑星を破壊すると言うことはそれがなんであれ、最高に気持ちいいのだ。
超細かくて楽しいことは楽しいのだが、このゲームをやっているとその時々の自動車産業史を調べたくなってしまって中々進まない。
例えば、このゲームの序盤はピックアップトラックを作って各国軍に売り込むのが初期資金を作り上げる手として有効なのだが、この時に自動車用エンジンの設計もすることになる。この設計をするときに、史実のこの年代だとどの程度のエンジンが開発されていたのかを参考にしたくなる。そしてそのたびに手が止まる。
そもそもピックアップトラックは1900年に存在しねーよとかは、まぁその通りだが(歴史上初めてのピックアップトラックは1913年に作られたし、メーカーの純正モデルになったのは1923年らしい)。
買ってインストールし直して起動していない。
Cyberpunk 2077が話題になっていたので買った。
なんか動画を見てゲームを買うことが多い年だったな、と思ったが、ゲームを知る経路がジャンル別のPV集から実況動画に変わっただけな気もする。
そして実況動画で受けた印象とは違うプレイフィールに気付くのだ。あぁ、実況動画って繰り返し作業はカットしているな、と(実際、俺も試しにYoutubeでの再生数2桁の実況動画を作ったが、1時間録画して使ったのは10分とかそう言う感じだった。序盤でそうなので、ゲームが進んで作業が増えてくると使用率は推して知るべしとなる)。
まぁ、でも2020年のメインは、PCクライアント版が投入されたピラミッドのアリスギアだったんだよな。フリック回避が暴発することはあれど、大画面とXBoxコントローラーでするシューティングゲームは息抜きには丁度良かった。丁度良すぎて数時間調査に費やしたことがあったが、あれも多分息抜きだったのだと思う。
そして俺はピラミッドの思惑通りにブキヤ沼にハマり、今はFAガールが2箱、メガミが4箱、創彩少女庭園が1箱、ギガンテックアームズが1箱積まれている。多分、少ない方だと思う。
二十年以上前の話になるけれど、小学生だった俺は、自分自身が創造したキャラクターに訪われる夢を見た。
彼らは本当に存在していたのだ! と夢の中で俺はとても興奮していた。「早く準備をするといいよ」と、その黒髪の少年が優しく促す中、家に取って返して準備をしていたところで、目が覚めた。
「あれ? 冒険の旅は……?」
そう呆然としつつも、まだ胸の高鳴りは残っていた。この喩えが適切かどうか分からないけれど、某海賊漫画で船長から誘われた船員は、大体似たような気持ちになったんだろうと思う。俺はそんな夢を見た日の朝に、幾分がっかりはしていたものの、夢で味わった旅出の爽やかさは、まるで心の溝をそっと撫でる風のようだった。
それ以来、そのキャラクターが俺の夢に出てくることは無かったけれど、でも、その夢はある意味で俺の道祖神として、その後の人生の招き手となった。
その後、少年期の俺はよく一人で山に出掛けた。知らない町に自転車で行って、その知らない辻を彷徨うのを好んだ。小さな丘を越えて、普段は見えることのない丘向こうの隣町を見下ろした。大きな橋を渡って、隣り島の海辺の町で時間を過ごした。
今では冒険の話を書くことはなく、もっとひっそりとした人間関係の物語を書いているけれど、でもその時見た夢は、俺の原体験として未だに心に残っている。人は誰かに誘われるのではなく、自分自身の呼びかけに従って旅に出るのだ。その時の気持ちを忘れないでいたい。
https://blog.tinect.jp/?p=68019
だいぶ昔にMENSAに所属していて、MENSAのIQテスト大会みたいなので優勝したりして、IQという指標で分布見たらかなり端っこにいるヤツ。
元記事にある様な行動を取ったりすることもあるので胸が痛くて増田に書こうと思いました。
ちょうど、同じことを社内向けに伝えたばかりなのでタイムリーだったというのもあり。
まず最初に断っておくと、この項目はいわゆる知的障害者への偏見を抜きにして事実だけ読んでほしいです。
MENSAの飲み会の中である人が「我々は知的障害者なんだ」と話していたことがとても印象に残っています。
どういうことかというと、IQ130(MENSA入会基準)というのはIQ70(知的障害基準の一つ)と同じだけの出現率であること。
そして、知的障害という分類を社会が生み出したのは、コミュニケーションや理解度がボリュームゾーン(IQ100)と異なることで、社会生活に困難を生むから。
大は小を兼ねる的に、高IQだからってコミュニケーション困らないでしょ、と思うとそうでもないです。
知的障害の方々の行動や思考の「理解できなさ」を思い浮かべてみてください。
なぜ、あの人はずっと同じことを繰り返しているのだろう。どうして突然関係ないことにこだわり始めるんだろう。
そういう「理解できなさ」をマジョリティに対して感じることがあるわけです。
そうすると、理解できないことを起因として集団からはじき出されながら社会生活に支障をもたらすことがあります。
僕はパターン化(抽象化)の能力が高いってことだと考えています。
複数の物事に触れたときに、それらの共通点・差異を見つけてパターン化し、次の事象へ当てはめてみようという意欲の強さと精度の高さです。
少なくとも、その能力だけで僕はMENSAに所属し、その中でもIQテスト大会やって優勝するくらいの異端にはなりました。
裏返せば思い込みが激しいんです。
サンプル数の少ない事象に直感とも言うべき帰納的なパターンを見いだして、恐れずそれを適用するだけなのですから。
そして、その独特なパターンに乗ってない議論や視点や考え方への理解はそれほどうまくできなかったりします。
だから、IQ高い/頭がいい=頭の回転が速いとか計算が速い、記憶力が高い、といった捉えられ方をすると困惑します。
相手の言っていることが言葉として理解できるけどその思考が理解できないとか、こちらが伝えようとしていることが全く伝わらないとか、かなりの頻度でありました。
勉強を教えてほしいと言うので教えると、こちらとしては当然こう考えるべきというレールがあるのに、そこに乗ってくれない。
僕は幼い頃からこんな風に周囲との違いを暗に感じてきました。
そういうことを繰り返して手に入れた結論は「人のことがわかるなんておこがましい」です。
「自分は人を見る目がある」と自負する言葉は僕にとって信用ならない言葉だし、「言わなくてもわかるでしょ」はわからないんです。
でも、僕自身はやっぱりパターン化して世界と向き合っているので、そこにはある種の自動化とか思考のショートカットが入っていて、それらを言語化するのにすごく時間がかかってしまう。
その中で、自分自身がうまく言葉にできていない部分を連ねていくときには、自分の思考をトレースしているために、ものすごく直線的な論理展開をします。
そんなときには他者の意見を否定するようないい方をしている場面も自分自身感じています。
ただ、僕は高圧的に話をして人をやり込めたいとか否定したいのではなくて、必死に自分の考えを伝えようとしているだけなんです。
その上で僕の間違っている部分を示してもらって、よい結論へ持って行く議論ができるとうれしい、と思いながら話をしています。
そんな思いとは裏腹に、自分の話し方がまずいせいで、どうしても人を威圧したり、意見を封殺するような口調になっていることが多いように感じています。
理由は上に書いたように、僕が話し始めている時というのはかなり必死な状態なんです。
今まで自分と同じ土俵だと思って話して行き違いを何度も何度も経験してきたことが僕の原体験にになっていて
みたいなやり方が自分の中に根付いてしまっているから、これをうまく修正できないでいます。
つまり、単なるマウンティングのために頭の良さでぶん殴っているわけではなく、立っている土台が違うことでコミュニケーション齟齬を産んでいるケースを想定しています。
今僕は、頭の良さっていうのは謙遜も自慢もなく自覚しないとひどい病だと思っています。
死ぬことこそが救い、俺が愚民を救世してやる、とナイフを振り回す異常者、怖いでしょ?
元記事の同僚がどうかはわからないけど、コミュニケーション上の問題を感じながら論理的であることをやめられないのはそもそも問題意識が周囲と異なるのではないでしょうか。
それ自体が間違っているわけではないし、論理的に解決を進めることが社会や人類を発展させてきてます。
なので人と一緒に働いている中では、自分の特性みたいな部分を自覚して、周囲に伝えてみてください。
その人がどういう人間性なのかを、一面だけで判断しないでほしいです。
もちろん、中にはまさにクズと言っていい性根の人もいるでしょうし、そういう人を無理にかばってくれとも言いません。
しかし、普段は問題ないのに議論になると殴られるからいやだな、と思うような相手はもしかしたら問題を抱えている人かもしれません。
そういう人たちとインクルーシブに働ける環境を作っていけたらいいなぁなんて思っています。
わかってるけど、やりきれない部分ってあるんです。
なので、最善とは言わないけど、ここに書いたような文章をチーム向けに伝えて、お互いのギャップを一緒に見つめましょ、って話をさせてもらいました。
コミュニケーションなんだからみんなできて当たり前、たどり着けない部分があるのは甘え(努力していない)って言われるのは怖いなぁ。
お前もクラスメイトが6人しかいなくて、その中の5人が児童養護施設出身、って環境で幼少期を過ごしてみろ
いきなり同じ屋根の下で暮らしている5人組の中に放り込まれてコミュニケーションをとらなければならず、しかもその5人が全員のちに軽犯罪をやりまくることになるヤンキー気質
そういう環境で育ったのか?お前は
そりゃ引っ込み思案にもなるだろう
都市部で育って、いろんな層の同世代30〜40人から気の合うやつと仲良くなればいい、っていう生ぬるいコミュニケーションで生きてきてねえんだこっちは
粗暴かつバカなやつらの中に異分子として飛び込み、なんとか仲良くしなければならない そういうところでやってきたんだよ
だから「友達と遊びに行く」みたいな概念がないんだ 行きたいと思ったことがないからな
仲良くならなくていいなら誰とも仲良くしたくねえんだ カスみたいなやつばっかりだったからな
幼少期の刷り込みってでけえんだよ
俺にコミュ力がないのはかなり仕方ないと思う
充実した子供時代を送ったであろう人間に「まずは話しかけなきゃ!」なんて言われると本当に殺意が湧きますね
お前もあの小学校で育ってみろ
それで同じことが言えるか?
(追記アリ)
すごいよマサルさん:“外し”た感じの意味わかんない感じが面白いと思う傾向。ホリケン的。
ギャグマンガ日和:なんかすごい勢いで突っ込むのが面白いと思う傾向
銀魂:ギャグマンガ日和に近い+勢いよく、沢山しゃべるのが面白いと思う傾向 --現実でやると寒い
ギャグマンガ日和はつっこみ頼りじゃないという意見を頂きました。
ごめんなさいこの中だとギャグマンガ日和の記憶が一番薄いのでちょっと的外れになってる可能性はあり。
勢いよく突っ込んでる回の印象だけ強く残ってるのかも。
浦安鉄筋家族:チャンピオンのギャグマンガの雄。下ネタ、パロディ、勢いのストロングスタイル。成長過程で卒業していき、その後の影響は少ないと思われる。
王様はロバ:センス系。センス一本で戦う気概を感じる作品。これが好きな人は現実ではボソッとおもしろいことを言うタイプ。
脳みそプルン:マガジンのギャグマンガを渋く支えた功労者。ファンタジー&オフビートな笑いで現実での汎用性は低い
LET'S ぬぷぬぷっ:同じくマガジンギャグマンガのいぶし銀なるもあまり特徴の印象がない
久米田康治 作品「かってに改造、絶望先生」等:当初は下ネタ中心だったが作風が変化、自虐、社会風刺系&おしゃれ系へチェンジ。これが好きだと自虐好きに育つ。
夫婦でホームレスの取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為は奇行と捉える人がいても不思議ではない。
現在は夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトのきっかけは妻である私の原体験が基となっている。
20年以上前、新宿駅の地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。
今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌を安値で売る者すらいた。
その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボールの小屋だった。秘密基地の様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であることをうっすらと理解した。
そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである。
これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。
興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネットの検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。
検索結果は田舎のホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。
2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事を支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である。
初めて会う相手に自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去の情報を他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情を配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。
これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦の第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。
A氏はホームレス支援の活動として、インスタント食品や保存が可能な食材、周辺のパン屋、農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動は不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。
我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒、作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものを揃えていた。
食材と日用品を仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。
A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。
A氏からのアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。
失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。
(おじさん達の家の棚の写真)
(おじさん達の竈の写真)
(おじさん達の物干し台の写真)
おじさん達は森や河川敷に個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。
ダンボールや古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。
突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。
一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。
それはそれまでの日常では出会ったことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。
自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。
2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。
おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。
このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。
「家がない」ところから「生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。
興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎の河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、
それまでの偏見と先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。
車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。
おじさん達の暮らしは時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。
勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。
家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的な安心があることは否めない。
我々夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人々を3年継続して取材を続けられているのは、この安心が得られないような状況で、人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。
我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれた生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。
出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ。
ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。
その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活と普遍的で同じであるかという事を探していきたい。
取材を始める前に我々が抱いていたような偏見や先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。
今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心の生活からは程遠い。
不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ、惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。
おじさん達と同じ立場の人には見知らぬ人に暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。
取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレス」から「不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は
彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間で生活する力を持つ、普通の人々であることにもっと目を向けてほしいと思った。
いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。
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こちらの投稿のベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります。
筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。
これを描かれた筆者は更に若い中学生や高校生が、社会の偏見でホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。
華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図を勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。
夫婦でホームレスの取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為は奇行と捉える人がいても不思議ではない。
現在は夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトのきっかけは妻である私の原体験が基となっている。
20年以上前、新宿駅の地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。
今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌を安値で売る者すらいた。
その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボールの小屋だった。秘密基地の様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であった。
そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである。
これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。
興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネットの検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。
検索結果は田舎のホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。
2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事を支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である。
初めて会う相手に自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去の情報を他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情を配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。
これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦の第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。
A氏はホームレス支援の活動として、インスタント食品や保存が可能な食材、周辺のパン屋、農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動は不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。
我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒、作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものをを揃えていた。
食材と日用品を仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。
A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。
A氏からのアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。
失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。
(家の写真3枚)
おじさん達は森や河川敷に個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。
ダンボールや古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。
突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。
一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。
それはそれまでの日常では出会ったことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。
自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。
2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。
おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。
このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。
「家がない」ところから「生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。
興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎の河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、
それまでの偏見と先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。
車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。
おじさん達の暮らしは時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。
勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。
家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的な安心があることは否めない。
我々夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人々3年継続して取材して続けられているのには、この安心が得られない時に人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。
我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれた生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。
出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ。
ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。
その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活と普遍的で同じであるかという事を探していきたい。
取材を始める前に我々が抱いていたような偏見や先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。
今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心の生活からは程遠い。
不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。
暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。
取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレス」から「不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は
彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間で生活する力を持つ、普通の人々である。
いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。
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こちらの投稿のベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります。
筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。
これを描かれた筆者は更に若い中学生や高校生が、社会の偏見でホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。
華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図を勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。