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はてなキーワード: 原体験とは

2023-03-25

思春期ナンバガゴイステ聴く陰気な少年マジでかっこいいと思ってるし、自分もそうありたかった。

実際の所は姉の影響やミーハー心で事変やサカナクションを聴いていた。最近はそれもまた等身大高校生といった感じで良いような気もしてきた。逆張りの申し子だったかそもそもオーケストラジャズばっかり聴いていてロックあんまりだったが……

夜の踊り子の焦らしは今でも高ぶるし、群青日和ギターソロは本当にかっこよくてクネクネせずにはいられない。

借り物の青春像ではなく、最大音量1812年を聴きながら高尾山に登ってみたり、閃光少女アウトロを何百回も繰り返しながら多摩川を延々下ってみたりした逃避行原体験に誠実でありたい。

スマホを置いて、久々にウォークマンと有線イヤホンだけ持って出かけてみようかな。

2023-03-17

親切心の原体験学生時代に落とし物を拾おうとしたら「汚いから触らないで」と断られた事だ。

すべての老人に席を譲ったわけでは無いが、何度か席を譲ったことがある。落とし物を拾い、交番へ届けた事もある。路端に落ちたゴミを拾った事もある。コンビニ募金したこともある。

きっとそれらは全て無意味だ。

俺に席を譲られた老人は顔に出さないだけで俺が触れて汚れた席で不快になっただろう。

落とし物を届けた交番警察は余計な仕事が増えて面倒な気持ちになっただろう。

路端に落ちたゴミを拾ったって街中のゴミの数は大してかわりもしない。

コンビニ募金だって俺の数十円なんて無くても良い誤差だろう。

全部無意味だ。

自分の行う善行めいたものはその実、人を不快にさせ、人の手間を増やし、無意味な行いだ。善行を行ったという虚栄心を満たすためだけに行われた偽善だ。

それでも誰かから感謝されたくて無価値偽善を繰り返し行う俺は地獄へゆくのだろう。

2023-03-11

anond:20230311053732

なるほど…

好意はありがたく受け取りつつ、現実人間関係の中ではなく増田から本音を言うと、それは我々みたいな人には向かないアドバイスかもしれない

我々はあなた達と同じようにこの世に尽くしてきたけれど、そのお返しに苦しみを受け、それでも尽くしては殴り返される生活を続けてきた者たちだから

そして、無垢に尽くして無下にされず報われる経験家族という特殊な間柄以外でするのは、ほぼ不可能なことだそうです

恋人や友人とそれをなせるのも、とっかかりとなる幼いとき原体験ありきだそうです

ともかく、これ以上うかつになにかに尽くしてはならないと気づいたからまだ生きているのです

気づけなければとっくにこの世にいないです

2023-02-09

ドット絵レトロ感が良いというのは共感できない

自分の子供の頃の原体験ドット絵がないから。

でもPSPだったりウォークマンの画面にあったドット絵よりも細かいつぶつぶで構成された絵や文字は良さを感じる。

2022-12-31

社会的弱者支援団体代表って

だいたいが強烈な原体験を抱えていて、それに伴う怒りや憤りが活動エネルギーになってるのよね。界隈で働きていたのでその突破力の凄さは肌身で感じている。

その怒りが社会構造に向けられているうちは良いのだけど、他の組織支援者に向けられるとまあ悲惨。吸い寄せられて薪をくべる取り巻きが現れるし、穏健な味方は去っていくし、面倒臭いやつ扱いされて結局事業スケールできなくなる。

うまくやれてる団体代表者原体験を抱えながらも「自分のような不幸の連鎖を少しでも止めたい」というスタンスの人が多いかな。身の回りの人を少しでも救いたいっていう、人斬りを止めた剣心みたいな感じ。

危ういのは、「自分のような不幸の連鎖は完全に止めるべき」っていうスタンスの人。怒りのエネルギーがとにかく強い。その「あるべき」が他者に向けられるともの激しい攻撃性が発揮されるし、果たせていない自分に向けられると自責感で潰れる。もっとも、多くの人はそんな強い怒りのエネルギーを受け止め切れるだけの心の強さもないので、結局は他責に転じてしまうのだけど。

まぁ何が言いたいのかというと、もしあなた社会的弱者の支援活動従事したいなら、代表キャラクターはよく見定めた方が良い。怒りを程よい距離感活動エネルギーに変えられている人は超優秀。

2022-12-20

仕事を求めるんじゃない 風を求めるべきなんだ

俺は音楽が好きだ。

でも俺の友人は、もっと音楽が好きだ。

友人にとって音楽はまさに生命であり、これまで何度も音楽に感動し、何度も音楽に助けられてきた。

から友人は、そうした音楽に携わる仕事をしている。

俺は音楽が好きだが、しかし彼のように心すべてを奪われた経験がない。

しかし、俺には言葉があった。

俺は昔から言葉が好きだった。

名言・名句・名文を目にするとハッとし、心を奪われ、その刹那すべてが静止したかのように息を呑んだ。

その瞬間、俺の心の中には風が吹き込む。

新たな世界が芽吹く煌きとよろめき。

それを与えてくれるのが言葉だった。

から俺は今、言葉に携わる仕事をしている。

言葉の力を、その魅力を体験しているから。

心の底から言葉で感動したことがあるから

言葉底力を人に伝える仕事は、正直すごく楽しい

言葉一つで、なんて思われようとも、そんな言葉一つが一人の人間価値観をガラッと変えてしまえるような、そんな力があることを誰よりも知っているから。

これも言葉に感動した原体験を未だ忘れずに居るからだし、今でもハッとする言葉出会うことは多い。

心に風が吹き抜け、その風は精神を擽り、自然と笑みがこぼれてくる。

この感情を伝え、原体験の共有をしたいと、心の何処かで願っているのかもしれない。

から言葉に携わる仕事をしている。

そして、思うのだ。

仕事というのは求めるのではなく、風を求めるべきなのだと。

心に靡いた風をとらえ、それをずっと忘れずに居ることが大切なのだと。

重要なのは仕事を求めることじゃない。

風を求めることなんだ。

2022-11-30

訳者あとがきで著者に失礼なことを言っている本

たとえば最近読んだ本ではこうだ。著者は女性法人学者(骨を専門とする科学者)で、本の内容は骨の世界について一般人に紹介するようなもの。この本で、作者は祖父レイプされて自殺した少年の骨に強いストレスを感じていた痕跡があったエピソードを紹介し、自身もまた9歳の時にレイプされたことを告白していた。

訳者あとがきでもこの事に触れていたんだが、著者はレイプ児童虐待に関する論文も多数発表している。やはりレイプ原体験になっているのか、いやはや、ちょっと執念を感じる……。って書き方なんだよね

古い本ならありうる話だが、この本の日本語翻訳版出たのは2022年の夏、しか訳者名前からしておそらく女性。英日翻訳をするくらいの教養者だから昨今の人権感覚とかはわかっているはず。それでもこんなこと書いてしまえるのか……となんか地味にショックだった

あと覚えてるのはダ・ヴィンチ・コードの作者の本。訳者あとがきで、ウンチクが多いとネガティブに書いてて心底驚いた。教養テーマにした作品でそれ言うんかい……と。

訳者あとがき自由すぎるだろ

2022-11-09

アイカツ黒歴史として葬られる前に「硝子ドール」について話しておきたい

アイカツは恐らくもう死ぬだろう。

10周年記念のタイミングで起きた事件が大きすぎる。

いつか無かったことにされる。

その前に、「硝子ドールだけは人類史に残すべき」と伝えるために俺はここにやってきた。

俺は音楽のことはあまりからないのでメタルだとかディストーションだとかの話は誰かがやってくれると信じてひたすら歌詞解説をする。

「硝子ドール」とはなにか

硝子とは鏡であり、ドールとはそこに映る人影である

まり、それは鏡に映った自分自身

硝子ドールは、鏡に映した自分に問いかけるようにして紡がれる詩である

その本質は「変革を望む気持ちと拒む気持ち、変革への確信普遍への確信矛盾自己憐憫自己批判、そんな自分客観的に見ているつもりで、自分思い込みに縛られる様子。モラトリアムの中で戸惑いながら、終わらない日常を願いながら、昨日までと違う明日も同時に願う少女の姿」である

アイカツ対象年齢を幼児向けとしながらも、音楽テーマは若干背伸びさせてジュブナイルに仕上げているが、その中で最も痛烈に「青臭さゆえの痛々しさ」を描き出しながらも、それを「永遠時間を生きる設定の吸血鬼美少女」に重ねることで「耽美的」とも言える絶妙な痛快感に仕立て上げているのがこの硝子ドールである

幼少期の知りうる世界の狭さをもってしか生み出すことの出来ない1人セカイ系とも言える感覚原体験がここに詰まっている。

紛れもない名歌である

乱反射する眼差し 鏡越しに誰かが見てるの?

鏡越しに見ている人とは誰か。自分で鏡の前に立ってみると分かる。自分である。ではなぜ眼差しが乱反射するのだろうか?それは自分自分に対して焦点を合わせることを躊躇っているかである。人は元来、自分の姿に気恥ずかしさを感じるものだ。自分を鏡に写したとき自分直視するのは難しい。まして、自分に自信がなければ。

ビロードの重い空

ビロードと聞いて最初に浮かぶのは「手触りのイメージ」。これによって聞くものは空に手を触れる感覚を持つ。手を触れられるほどに低い空は陰鬱イメージを。それと同時に、もっと強く手を伸ばせば突き破れるほどの低さを感じさせる。心の中に浮かぶ自分だけの夜の世界ガラス天井は突き破ろうとすればいつでも破れる。その空の低さが「なぜここにいつまでも留まるのか?」を問いかける。もちろん、自分の心に広がるセカイの狭さも。

ざわめく風が昨日までと違うのよ

今日こそは変化が起きる。モラトリアムに揺れ動いた日々、いつもどこかでそう思っていた。それは夜になるほどに強くなり、「今、もしも布団に潜らなければ、今日こそはセカイは変わるのに」と強く思い込みながらも、社会迎合することを選んで眠りについた日が誰にでもあるだろう。

声を聞かせて 姿を見せて わたしを逃して

誰かが連れ出してくれると信じている。自分が踏み出すのを助けてくれる誰かを待っている。自分だけでは不可能だと。ここは自分だけの世界。それならば本当に待っているのは、自分を助けることが出来る強さを持った自分自身。今ココにいる自分では駄目だと感じ。それでも、どこかに強い自分がいてきっと自分を助けられると信じたい。

鍵が壊れた鳥籠の中

鍵が壊れているからそっと押すだけで開くのか。壊れた鍵が噛み込んでもう開くことは出来ないのか。重ね合わった2つの可能性。果たして実際に試したのか。それとも、ただ心のなかで思うだけで扉に触れてもいないのか。

永い物語

昨日と同じ明日永遠と繰り返されているような感覚無限大過去を遡ってもずっとそうだったような気がする。無限大未来を見ても、ずっと変わることはない気さえする。長いのではなく、永い。命が尽きるまで終わることがないのなら、我が身が吸血鬼ならばそれは永遠意味している。

自分だけに見える鎖に繋がれたまま 夢を彷徨っている

かに尋ねても貴方はもう自由だと返ってくる。それでも自分はここから動けない。自分を縛っているものが確かにある。他人にはそれがわからない。もしもこれが自分の心にしか無いのなら、自分はずっと夢の中にいるのと変わらない。夢の外にたどり着くことその日が来るまで、自分で生み出した鎖から逃げられない

待ちくたびれた顔の 硝子の瞳がふたつ

硝子=鏡。硝子の瞳=硝子に映った自分の瞳。自分自身自分に対していい加減に終わりにすることを望んでいる。夢から醒めることを待っている。終わりのないこの夢に退屈している。それでも辞めることが出来ない。鏡を覗けば自分でさえも呆れ果ているのは明白なのに。

もうやめにしたいのに 終わりが怖くて またくりかえすの

そうしてもまたモラトリアムは繰り返される。


感情アラーム 引き裂いて欲しいこの世界ごと

現実容赦なくやってくる。心は夢に閉じ込められたままでも、体は現実を生きなければならない。自分の夢にだけ引きこもれる夜が終われば、夢と現実が重なりあった時間が始まる。

窓を打つ雨音に 耳をすまして 朝の気配を探してる

ゆっくり時間をかけて現実へとチャンネルをあわせていく。夢の世界が閉じていく。今日もまた夢の中の自分は鳥籠から出れないままに、現実自分を布団からゆっくりと起き上がらせていく。醒めない夢は、心の奥でまだ続いている。それでも現実に向けて歩みだしていかなければいけない。

錆びた扉が光を連れて来るわ

誰かが扉を開けている。終わらないはずの夜が外の世界の向こうへと誰かがそっと抜け出ていく。扉を開けているのは自分自身。扉を締めてまた暗闇の世界に戻っているのもまた自分自分の中でとっくに夢を抜け出ている自分がいる。夜の世界に居続けることを選んでいる自分はそれを見送っている。本当は今ここで鎖に繋がれている自分も抜け出せるのだろうか。

守られていることも 守られていないことも 全部わかっているけれど 本当はどこか 安心している

こうして私が夢の中に閉じこもり続けることを選び続けることを世界もまた望んでいる。同時に夢の外に出て生きることもまた望まれている。重なり合って矛盾にまみれている。だけどその矛盾の重なり合いに身を委ねるなら、どちらでもないままで居続けることが許されている。それに苦しみながらも、それに助けられながら、それを恨みながら、それを望んでいる。

このままここで朽ちてしまえたなら

終わることのない矛盾を終わらせることを投げ出してただこのまま全てを終わりにしたい。変わることを願いたいと思う自分に満足したまま、変わらないで居続けられるままで。永遠にただ今のままであれば、選択する必要もなく、選択しようとしたことだけを残し、何者でもありえるままにいられる。

消せない予感旅立つ私がいる いつか

それでも、いつか変わる日が来るのだろう。変わろうと思わずとも変わることになる。きっといつかその日が来る。でもそれは今日じゃない。明日かも知れないけど今日ではない。確信けがそこにある。まだ何も始まらないままに、何かがいつか起きることだけを知っている。鏡の中の私は硝子の瞳でそれを待ちわびている。待ちわびたままでじっと動かない。硝子で作られた動くことのないお人形。硝子ドール

2022-11-04

anond:20221103180924

そもそも腐女子どもを一切信用できない原体験がある

狂犬どもは族滅がお似合い

2022-10-29

anond:20221028174303

スポーツ原体験運動苦手なのに子供会強制的野球やらされて下級生の頭悪いガキからバカにされるというものなのでスポーツは嫌いです

2022-09-30

anond:20220930175028

中日ファンになって、球場に通うんだ。

話しはそれからだ。

その土地になじむには、その土地原体験みたいなものを一から順に楽しんでゆかないと、

ずっとよそから来た人のままになっちゃう。

2022-09-26

息子を弱者男性にする

何が悲しくて子どもをわざわざ弱者男性に育てなきゃならんのだ。

からこの増田思考実験だよ。そもそも当たり前に俺自身パートナーはいないしね。家族は増え得ないしね。

小学校低学年向けの弱者男性入門書存在しない。

弱者男性に育つために必要なのは、ふたつの原体験だ。

女の子を慈しむ優しい心
女の子を傷つけたり、女の子が泣いているのを間近に見て、共感する体験彼女の苦しみが自分のことのように感じられて、胸を揺さぶられる強い衝撃を受ける必要がある。
林間学校フォークダンスで「キモっ」と言われて手を繋ぐのを拒絶されるトラウマ
女の子に心の底から不快気持ちを持たれる経験。その時には自分側には一切の非がなく、むしろ迷惑を掛けないように丁寧に手を取ろうとしていなければならない。

①②の記憶は、少年のその後の人生を強力に歪ませる。

女の子の、誰かの、笑顔をみたいと思っているのに、迷惑なんて絶対に掛けたくないと思っているのに、それでも積極的思い入れが、逆に、相手を傷つけてしまうこと。

負のフィードバックループ理解したときに、女性への自己効力感は完全に消滅する。

無力感となる。

優しい心を持っていないと、女性復讐するミソジニーになったり、粗雑に扱ってイキる強さを得て黒イケメンに育ったりする。弱者男性としての無力感を維持できない。

もちろん人生の展開上、途中でレールが切り替わったりもするが、首尾よく行けば彼は弱者男性になるだろう。

anond:20220925105332

2022-08-31

anond:20220831172103

 ブコメだと短すぎて書き切れないのでトラバに書く

 むしろケンスケとくっついたことは二重の意味で救いだったんじゃないかと思う。第一に、破とQの間の十四年間に、もし仮にアスカシンジ以外の誰も愛せずにずっと孤独を抱え続けていたら、アスカ精神状態はQの時点で相当悪化していたことと思う。そういう意味で、アスカには(シンジ以外の)他の誰かを愛するという行為必要だったのだと思う。

 第二に、その愛情を通じて、「愛に縛られる」という事からの脱却をアスカ経験しなくてはならなかったのだと思う。アスカ原体験には、母親とのトラウマ存在していて、それは愛の絡んだ複雑な自縄自縛であった。それをアスカは克服する必要があったのだけど、そのためには、一度深く誰かを愛し、その上でその愛から脱却して他の誰かを愛するという行為必要だったのだと思う(治療行為として)。シンジをずっと愛し続けて、他の誰をも愛さずに十四年間を過ごすという行為は、むしろアスカ原体験であるトラウマ悪化させる可能性がある。つまり単一相手への愛情に縛られてしまうという人生観からアスカが抜け出せなくなってしまうのだ。それは、母親という単一相手に対して、決してもたらされることのない愛情を求め続けていた在りし日のアスカの写し絵になってしまう。それではダメだ。アスカが救われたことにはならない。


 というわけで、二重の意味アスカシンジ以外の相手を愛さなければならなかったのだと思う。十四年間を孤独であり続けることから救われるという意味でも、また、単一相手への愛情や執着から脱却するという意味ででも、アスカケンスケを愛さなければならなかったのだ。そして、時間が経ってからふと「やっぱシンジとくっついときゃよかったかな」とかアスカぼんやり考えたりするのだと思う。人生

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-08

メスガキはファンタジー

もしくは子供時代女子からいじめ原体験が元になってるんじゃないか

 

とはいえFANZAで●学生とかつきそうな年頃で大人をザコザコ煽ってわからせる女子ってマジでいない気がする

2022-07-22

anond:20220722111819

自分自身父親の読んでいた本に対する憧れみたいなのが原体験としてあるから物理の本の方がいいのは確かなんだよな

ただ置き場所とか自分が読む利便性考えるとどうしてもね......

2022-07-19

男の人ってなんで占い嫌いなんだろ

ヨッピーが朝の占いも全て規制すべきと言って、プチ炎上かましている。

https://twitter.com/yoppymodel/status/1548848031826870272?s=21&t=jY4iK2oHzRbEWC64K_BypA

こないだ私の彼氏ほとんど同じこと言ってた。

私はアラサーの女だが、占いを読むのは普通に好きだ。課金して占い師に相談しに行くほどではないが、石井ゆかりさんやしいたけ占い自分星座欄を読んだりする程度には星占いを信じている。どっちも無料だ。本気で信じているというよりも、憂鬱な月曜に「今週は人間関係のごたごたが落ち着くかも」と言われると「あ、今悩んでることももうすぐちょっとマシになるかも、がんばろ」と思えて元気が出るから

最後は神頼みという言葉もあるけれど、運のようなものはやっぱりこの世にある気がして、今の自分がどこに運が向いてあるのか、なんとなく知りたくなってしまう。まあ知ったとしてもできることはほぼないし、本当に何の悩みもない元気な時は占いなんて気にもとめないのだろうけど、今週一週間がずっと憂鬱だと思う時になにか声をかけてもらえると元気になってることは否めない。エンタメなのだ

しか彼氏は私がそんな文章を読んでることもドン引きらしい。「彼女細木数子ファンだって知ったらドン引きすることな!?占いほんと気持ち悪い、エビデンスもないのに」と言う。そしてヨッピーと同じようなことを言っていた。

自分だって初詣行ったりするのに…と思いつつ、男の人のこの占いアレルギーって何なんだろう? と不思議に思った。私はたぶんアレルギーになるほど占いの負の側面を見てないのだ。何か原体験でもあるのかな?

経営者政治家は有名な占い師に傾倒してたりするというし、たぶん占い好きな男性もいるんだろうけど。でも男性誌に占いなんて載らないけど、女性誌には必ず占いが載ってるし。普通の男の人は未来不安を持たないのかな?

追記:思ったより反応もらってびっくりした。とりあえずカルト宗教にはまらないように気をつけるよ。

あと誤読してる人いるけど私は細木数子ファンではないし怖さも感じる(あと石井ゆかりさんやしいたけさんも詐欺報道が出たら普通に怖くなるだろうし、やっぱり金銭的な詐欺をしてるかどうかは自分のなかのラインとして大きいんだなという気付きを得た)。

2022-04-24

月曜日のたわわ騒動に思うこと

 ツイフェミがどうとか表現の自由戦士がどうとかそういうのはおいといて、ああいう争いは見ていてただただ気が滅入るなというのが正直な気持ち

 正直な気持ちとしては「月曜日のたわわ」はちょっと読んだだけだけど、あまり欲望丸出しな感じがするところが正直好きじゃないし(ちなみに自分男性)、何なら多少の気持ち悪さも感じるので、いわゆる「あの人たち」の気持ちは多少わからなくもない。ただ、この手の炎上が繰り返されるたびに思うことなんだけど、  

根拠が「自分気持ち悪い」であることに無自覚な人たちがいきなり相手言葉暴力で殴り始めるのを見てるのがただただしんどい。俺はあの作品は好きじゃないけど、それでも自分が気分を害する表現排除する活動を許すままにしていくといずれは地獄になるだろうとは思うから、いわゆる「表現の自由戦士」と思想的にな近い立ち位置ではある。ただ、だからといって「あの人たち」と論争しても、相手ほとんどは感情だけで動いてるのは見ててわかるし、理性に訴える形でツイッター上で論争しても結局何も解決しないだろうなと半ばあきらめている。

 ちなみに「あの人たち」の肩を持つつもりはあんまりないんだけど、発言の背後から伺えるのは、思春期あるいは成人してから男性に嫌な思いをさせられたみたいな原体験があったんじゃなかろうかってことかな。それで何かトラウマフラッシュバックしてるとか(そう考えるとあの強烈な反応も説明がつくなーと)。ミサンドリーとか言われてるけど、どっちかというと男性恐怖症なんじゃないだろうかと少し疑っている。一方で、「表現の自由戦士」側の一部も標的を「あの人たち」だけじゃなくて、「女性全体」に拡大し始める様子が見られてちょっと辛い。曰く女性他責的だの(白饅頭氏とかが書いてるけど別に何かのエビデンスがあるわけでもないよね)、しかもそれが今の状況ではなくて生物学性差に違いないとか知識もなく決めつけてるし。そういう人たちの一部もミソジニーというよりかは女性恐怖症じゃないだろうかって人も見受けられる。なんかひたすら理屈だけ並べて反論してる辺りが、現実でのふつー女性との接点が薄い感じがするし。ちょっとアレなことを書くと、感情で怒ってる相手理屈で殴り返すのは経験事態悪化させるだけで、いったん「話はわかった。それでも……」という風に言えばもう少し話を聞く相手も増えるような気がする。

 男性恐怖症だの女性恐怖症だのは憶測にすぎないのであんまりいうべきじゃないんだけど、ただでさえロシアウクライナ侵攻とか暗いニュースが続いてる中で、さらに気が滅入るニュースが続くし。吉野家のアレにしてもさすがに事前チェックするとかもうちょい空気読めとは思ったけど、役員を解任した時点で一応(現時点で)やるべきことはやったと思うし、延々と騒がなくてもいいだろうにと感じる。キャンセルカルチャーうんざりするというより、遠慮なくサンドバッグにしてる相手だって生きてる人間生活があるんだよという当然のことをSNSで闘ってる人は忘れがちだよね。

 傍観者を気取って偉そうに語ってる自分あんまり褒められたことはしてないんだけど、もうちょっと仲良くできないんだろうかとは思ってしまう。

2022-03-12

選択美術の思い出

20年くらい前の中学校での選択科目の美術

陶芸をするから粘土をこねろと言われた

美術室の中には知り合いも少なくて居心地の悪い時間だった

最初は真面目に整形していたものの、底面と側面の間をただつまんで均すのがつまらなくて、べたべたな土に指紋が残っていくのが不格好に見えて仕方なかった

僕は飽きたので、粘土で型を取ることにした

粘土をつぶしてただの塊状に戻し、廊下側の窓の錠に押し付け

上下金属の取っ手を動かすアレがにゅうっと粘土の中にに埋まっていく

粘土の凹凸が壊れないようにそおっと錠から外したが形が気に入らなかった

工学的な意味ある形を期待したのだけど、剥がしときの力を込めた方向に歪んでいた

窓の錠は片側からその跡を見ても、元の形状を想像できず、また眺める面白さもなかった

もっと平面で単調な形状の方がいいなと思い、僕は今度は粘土で長方体を形作った

上履きを脱いで、右手に持ち、机の上の均等に力が加わるように調整しながら念入りに押し付け

押し付けときよりももっと慎重に上履き粘土から外すと、狙い通り上履きの跡をきれいにとれた

ジグザグの稲妻上の溝の凹凸がひっくりがえって山脈の様に粘土の上に走っていた

自分不器用な手だけでは作れない複雑な形を作れて、自分自身は満足したものの道具や粘土を粗末に扱ったと先生には怒られるかなと思った

それで僕はチャイムが鳴るとそっと作品を提出して、自分教室に逃げた

それからしばらくしてから選択美術先生が僕に近づいてきて、「この間の靴跡のやつ、焼いたら割れちゃったみたいなんだごめんね」と言ってきた

「焼けたらどんな感じになるのか楽しみだったんだけどな」と言って先生は微笑んでいた

したこともない先生を楽しませることができたのかと不思議な心地だった

もうこの先生性別も覚えてないけど、物を作ると楽しいなと思えた原体験はこんなことだったなと昨日の昼になぜか思い出した出来事

2022-03-10

anond:20220310192620

うーん、まとめられてる人も多少は鼻持ちならないからね。

いつまで原体験にこだわってるんだっていう。

新興のエンタメなんて1~2年で元の形から進化して、原形を留めないことは珍しくないじゃん。

それでも原形にこだわりたいってなら、今の形を嘆くんじゃなくてやることありますよね?って話。

2022-02-18

抜毛症という呪い(閲覧注意)

【閲覧注意】

抜毛症は呪いだと思っている。この記事を読むと、抜毛症が発症するかもしれない。よって閲覧注意である






























先日実家に帰って机の引き出しを開けると、まつ毛が大量に入ったプラスチックカードケースを見つけた。それを見て俺は抜毛症の原体験を思い出した。

高校生の頃、化学の授業中に「まつ毛を引っ張るとまつ毛が抜ける」という至極当たり前のことに気づいた。

面白いくらい抜けるので、抜いて抜いて抜きまくった。抜くまつ毛がなくなり、抜ける毛はないかと髪の毛を梳いていると、もみあげ、襟足、耳の後ろが特に抜けることに気づいた。

それ以来、抜毛症から抜け出せないでいる。

抜毛症は、集中力の著しい低下を招く。抜くことに夢中で他のことに意識が向かなくなる。そして、毛の抜きすぎは痛みを伴う。まつ毛を抜くと目が痛くなるし、襟足を抜くと襟足がじんじんと痛くなる。全く授業に集中できなくなった。

宿題をやろうとノートを開いて、10分考えてわからないとなると襟足を抜いてしまっている。抜いた毛をノートに並べだして、気づくと1時間が経過していて、俺は一体何を…という時間を過ごしたことは一度や二度ではなかった。

ある日いつものように家で抜いていて、抜いた毛をノートの上に並べて眺めていた。ふと引き出しかヴァイスシュヴァルツカードを入れていた透明のプラスチックカードケースを取り出すと、そこからカードを抜き取り、ノートの上に並べたまつ毛をピンセットでひとつひとつ、そのカードケースに移していった。まつ毛は数が少なく貴重だったので、捨てたくなかったのだ。

それ以来、家で抜くときカードケースに貯めるようになった。

抜ける毛には、「良い毛」と「良くない毛」がある。

抜いた毛の先に白くて丸いのが付いてるのは、健康で新鮮な良い毛である

白くて丸いのがついていない、黒くてねちゃっとしているのは、疲れて後味の悪い良くない毛である

抜き始めは良い毛が抜けて気持ちいいのだが、次第に良くない毛が抜け出す。良くない毛が抜け出すと、「抜きすぎ注意」のサインである。痛みが伴いだす。

良い毛が抜けるときは音もなく抜ける。抜き続けていると、たまに「ピンッ」という小気味いい音で抜けるものも出てくる。このあたりから痛みが出てくる。そして抜き続けていると、「ブチブチブチッ」という引きちぎれるような音が出るようになる。このとき良くない毛が抜けだす。こうなると辞め時なのでやめたいのだが、このときは本当に軽くつまむ程度の力でも何本も抜けるので、フィーバータイムでもありやめられない。最後は、抜毛の念を断ち切るために思い切り立ち上がって、顔を洗ったり別のことをしているうちに抜毛のことを忘れる。たまに机に戻ってみると、ティッシュの上に広がった大量の抜け毛放置されていて、「キモすぎ!?」となることもある。

もちろん今でも抜いている。仕事をしていて行き詰まったりイライラしたり、そうでなくても手持ち無沙汰になると、襟足かまつ毛を抜いてしまう。

何気なく襟足を引っ張って1本でも抜けてしまうと最後、「抜けなくなるまで引っ張る」という行動がやめられなくなり、実際には「抜けるまで引っ張る」ということを繰り返している。「抜ける毛は要らない毛」という考えが染み付いている。

襟足を一回引っ張って、戦果を見る。同時に4本くらい抜けていると、「大漁じゃないか…」と嬉しくなる。1本でも普通に嬉しい。0本だと、「いやまだ抜けるはずやねんけどな…」といろんな所を試す。基本的に一度やりはじめるとやめることはない。

会議中も、自分発言とき以外は襟足を触っている。抜いた毛はそのまま床に捨てるときもあるが、大量に抜いてしまったときは、ポケットに入れておいて、あとでティッシュにくるんでゴミ箱に捨てる。

イライラしたときは、まつ毛を抜いてしまう。引っ張ったらぶちぶちと抜けるのが快感で、イライラしてなくても定期的に抜いてしまっている。「今月は抜いてないな」と思ったら月末に抜いてしまっている。

まつ毛が無性に痒くなり熱くなる日があり、その日は「抜ける日」で、実際軽く引っ張っただけでめちゃくちゃ抜ける。たくさん抜けるのが楽しくて、「抜ける毛は要らない毛」なので、抜けなくなるまで抜き続けてしまう。というかまつ毛がなくなるまで抜く。

インターネットで「抜毛症」で調べると、抜きすぎてハゲてる人の写真が出てくる。

幸い(?)、俺が抜くのは襟足とまつ毛がメインなので、そこまで目立つわけでもなく、あそこまで悲惨状態ではない(集中力の低下という意味では悲惨だが)。それに抜いても全然また生えてくる。

とはいえ父母の家系男衆が全員ハゲているので、俺もいずれハゲしまうことは確定している。「抜ける毛は要らない毛」のはずなのだが、前髪と頭頂部は全く別の話だ。ハゲたくはない。

2022-02-09

おれ人生向いてなすぎてワロてまう

バリバリ仕事したいのに、育児のためにキャリア犠牲にしないといけなくて、メチャクチャ悔しいし、子供のこと邪魔だと感じてしまって自己嫌悪

みてえな意見を見た

おれは絶対に抱くことのない意見なんだが、べつに悪いとは思わない

敵愾心はない

ないんだけど、とにかく、こう、すべてがおれと違いすぎて、なんというか、衝撃的だ

まずおれはキャリアマジでなんの興味もない

就職浪人してプラプラしていた1年間、己と向き合って、おれはいったい何がしたいのだろうか?と考え続けた

結果:「何もしたくない」

おれは何もしたくないんだよ

労働に縛られたくない、自由創作がしたい!みたいなヤツでもなく、ただホントになにもしたくない

誰にも認められなくていいから、ただもう寝てたい

それだけなんだ

いまは滑り込んだクソみたいな会社で働いてるけど、実際トイレ休憩に立って廊下歩いてるときマスクの下でずーっと「帰りてえなあ…」って言い続けてる

 

キャリアを求められる元気があるのってマジですごい

おれはいま、諸々あわせて手取り20前後くらいあって、なんつうかもう金はこんなもんでいいなと思っている

使う元気もねえしなあ

責任は負いたくないか出世はしたくない

賃貸とかそのうち借りられんくなるのかもしれんけど、そんな感じでいよいよ苦しくなったら、最悪死ぬって手もあるなと思う

 

子供を作っていいと思うくらいに人生肯定できてるのがすごい

おれは人生かなりキツかったと主観的に感じているが、客観的にみて全然苦しい思いはしてない

親の金大学出て、バイトなんかロクにしてねえ

五体満足で、でかい持病はない

メチャクチャ賢くはないが、そんなに努力せずにそこそこの大学に入れる程度の能力はある

これで不幸とか言ってたらブッ殺されかねない

でもやっぱ幸不幸って自分で決めるもんだし、おれが不幸な人生を送ってきたと思ってんだから、実際不幸なんだ

東大出て教授になってかなりイイ感じに育てたっておれみたいな感じのカス人生が生じることがある、っていうのは、おれの原体験なわけですよ

カス人生カス人間が子作りしたら、おれ以上のカス人生が生じる可能性が結構高いっていうのは、まあ明らかであろう

嫌なんだ

こんな思いをもう誰にもさせたくない

俺は子供は作んねえんだ絶対

 

で、「子供のためにキャリア犠牲辛いマン」ですよ

マジでハンパなさすぎる

子供を作ることに踏み切れるくらいに幸せ人生を送ってきて、仕事に充実感を覚えていて、向上心があるわけでしょ

すべてがおれの"上"じゃん

そんなん勝てねえよお

でも実際、そういう人がそこそこいて、がんばって産み支えてくれるおかげで、おれは将来国にフリーライドできるのかもしれないと思うと、感謝こそすれ嫉妬気持ちは出てこねえな

ああーー仕事やめようかなあ

やってらんねえよな

仕事やめてさ、ジョーカーみたいな暴力的なやり方じゃなく、なんとかして生活保護をつかみとるなりなんなりしてさ、ただ社会寄生して生きたいんだよおれは

いや 嘘です

ホンネを言うと、そもそも生きたくないんだ

何もしたくないんだからそりゃそうだよ

根本的に生まれてきたのが間違いなんですって

マジで、生まれつき両足なくて、かつスポーツ全然興味ないのに、強制的陸上競技をやらされてるような感じなんですよ

やめさせてくれ!

見りゃわかるだろ!向き不向き!向き不向き!

おれはコレ向いてないし、やりたくもないんで、早く辞めさせてくださいよ!

おれが「やったー!」と思いながら死ぬことのなにが悲劇なんだよ?!

300万くらいだったら頑張って出すから他人迷惑かけずに、ラク死ね方法を用意してほしいんですわ

あるいは直前でビビって結局惰性で生きるかもしれないけど、300万貯めたら死ねるってなったらおれはかつてないほど頑張ると思うよ

そういう感じでいきましょうよ

おれを無理矢理生かすのは非倫理的

非人道的

ひどすぎる、むごすぎる!

たすけてくれ〜!やめさせてくれ〜!!

2022-02-05

『【追記】した!今!』「ジョジョの奇妙な冒険」と「ハンターハンター」のパクリが許容されるのは何故か?

anond:20220205100712

を読んで、そう言えば自分も似たような事を思っていたなと思い出した。

ジョジョが大好きだった時期にネットでこれを見てショックを受けたんだ

ジョジョパクリ検証画像その1(写真イラスト編)

ttps://web.archive.org/web/20120724071231/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/12.html

ジョジョパクリ糾弾スレテンプレその2

ttps://web.archive.org/web/20120717131810/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/13.html

ジョジョパクリ糾弾スレテンプレその3

ttps://web.archive.org/web/20121112141851/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/15.html

ジョジョパクリ検証画像その4(楳図かずお編)

ttps://web.archive.org/web/20121112231135/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/18.html

おまけ1

ttps://web.archive.org/web/20121112112347/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/19.html

おまけ2

ttps://web.archive.org/web/20121112105337/http://www30.atwiki.jp/ichi-1/pages/17.html

ジョジョって滅茶苦茶独特で個性あんなあああーーーって思ってたから、割と元ネタからまんま拝借してるのがショックだった

数年くらいはショックを引き摺っていた気がするけど、それはそれとしてスティール・ボール・ランも読み続けていたしいつしかショックから立ち直っていた気がする

それでもこれを見た後に最近漫画パクリがどうの言われてるのを見ると「いやジョジョの方がずっと昔にそのまんまパクってるよ」とは言いたくなる

ナルトの一話でイルカ先生ナルトエピソードマジで感動していたのに、

後年読んだうしおととらでほぼ同じ流れのシーンがあってあの感動の名シーンもパクリだったんかい!と本気でショック受けてそれからナルトも読まなくなった気がする

ttps://pbs.twimg.com/media/EE62-x_UUAASDsP?format=jpg&name=medium

岸本先生うしとら好きなんだろうなって事は分かるけどね

大友克洋沙村広明忍空に影響を受けた事は公言してるのにそのままエピソードをパクったうしとら藤田和日郎には何も言及無いんかい!とは思った

ハンターハンターの方はジョジョと違って漁っても昔のテンプレサイトとか出て来ないけど

伊藤潤二作品から結構そのままパクってた検証画像があったと思う

幽遊白書の一話も何かの恋愛作品からそのままパクってた、って画像を昔ネットで見てショックを受けた覚えがある

からハンターハンターがパクられる側になってもそれは自分がやった事をそのままされてるだけだから人に言えないんじゃねえかなぁって思っちゃう

最近流行りの鬼滅もジョジョブリーチ銀魂あたりから影響受けてる事は吾峠呼世晴先生自分の好きな作品に挙げてるけど

我間乱って比較マイナー少年漫画からそのまんま剣術の型をパクってきたんじゃないの?みたいな話は一切聞いた事無いし

絵柄とかキャラクターの造形とか昔の少女漫画にまんまそっくりのがあるとも聞いたけど誰も話題にしている所も見た事が無い

鬼滅の刃がパクってきた作品まとめwiki

ttps://w.atwiki.jp/kimetunoyaibapakuri/

こじつけじゃあねーか?みたいな奴もあるし、自分が好きな作品から影響受けたキャラをそのまま自分作品に出すのは微笑ましい感じで嫌いじゃないけど

ここからが本題だけど

何故「古塔つみ氏」や「呪術廻戦(BLACK CAT等も)」のパクリトレースとされる物は許されず

ジョジョの奇妙な冒険」と「荒木飛呂彦氏」、「ハンターハンター」と「冨樫義博」のパクリトレースとされる物が許されるのか

これはもう滅茶苦茶単純な話で

ジョジョハンターハンターは昔から続いている権威ある作品で、面白く、人気があるから

これ以外に答えは無いと思う。

最近作品イラストレーターのトレパクは安直で捻りが無く、ジョジョハンターは先人をリスペクトしたオマージュから、なんて言うのは大嘘

仮にジョジョの奇妙な冒険ハンターハンターが今イチからジャンプで連載されて面白い!って話題になっても、トレースだのパクリだのは絶対炎上するよ。

元ネタ週刊少年ジャンプの読者が知らなさそうなマイナーな物から取っている、というのもあると思う。バレないようにこっそりやれ、って事だろうね。

例えば今手塚治虫藤子不二雄があの海外の名作からネタをパクっていた!なんて誰かの目に入っても炎上するとは思わない

何故なら偉大な先人漫画家には「権威」があり、「権威」とは「力」だからだ。要は力がある強い人の不正糾弾しよう、なんて皆思わない訳ですね

からまあ、パクリトレースが叩かれる人は人気や権威が無い人なんだろうな、と思ってる。完全オリジナル作品を作るクリエイターなんて居ない訳だしね

今見たけど何か滅茶苦茶伸びてて驚いた。ここから追記

この日記を書いた時から

ジョジョ漫画から絵は本質じゃないだろ」

って反論が来る事は分かっていた。実際自分もそう思う。そう思うけど

断末魔の一瞬! ジョジョ精神内に潜む爆発力がとてつもない冒険を産んだ!
しかし!ワムウは… 逆におもいっきりのけぞったッ!
俺にとって強い戦士こそ真理…勇者こそ友であり尊敬する者!!
JOJO無意識のうちにとっていたのは「敬礼」の姿であった--涙は流さなかったが無言の男の詩があった--奇妙な友情があった

ここら辺のめっちゃ良い台詞と名場面だなァァァーーーって思ってた所が他の作品からパクリ…というか模倣だったのは当時凄い衝撃だった

空手バカ一代面白いし名作だし荒木先生少年時代梶原一騎作品に触れた年代の人だから影響大きいのは分かるけどね

ナルトの一話もそうだけど、感動の名場面を他の作品から他の作品から拝借したって展開は元の作品を知ってる人はパロディオマージュとして楽しめても

元の作品を知らない人にはそれこそがオリジナルであり原体験なんだよね。だから模倣と分かった時に衝撃を受ける。

ひょっとして一昔前にガンダムSEEDが同じガンダムシリーズにも関わらず初代ガンダムZガンダムパクリと言われたのも同じような理由なんだろうか?

今となっては当時のあの熱狂なんて思い出せる訳もないけど…

荒木飛呂彦先生原哲夫先生の元アシスタントという事は知っていたけど、ジョナサンが槍を振り回すシーンがまんま北斗の拳ケンシロウが槍を振り回すシーンと同じだったのは驚いたか

2022-01-24

友人がフェミニズムで変わったのをみて我が振り直した話

あったこ

結構から友達に、色々ちゃん自分で考えるタイプで、波長が合うし尊敬してるタイプの子がいるんだけど、その子の様子が最近ちょっと変わっていて。

何かというと、所謂能力主義正義か?』的な話(成功は本人の努力によるものではない的なやつ)と、フェミニズムにすごい傾倒してて。

こうやって、特に"フェミニズムに傾倒"って書くのは実はかなり抵抗がある。

というのは自分自身そういう考えを持ってるし、そもそもこうやって"フェミニズム"って日本語で書いた時、それが何を指すのか今はすごい曖昧になってしまってるからだと思う。

※ここでいう"フェミニズム"は、所謂揶揄されるときに使われる"行き過ぎたツイフェミ"みたいな意味ではなくて、女性人権を守ろうとする考え方や運動、つまり本来辞書的な意味フェミニズムです。

そういう"真っ当な"ものだと考えているなら、なんで"傾倒"なんて言葉を使うのかというと、そうとしか言えない状態に友人が見えたからで、それがこんな長々と文章を書いて自分の考えをまとめようとしている理由でもある。

---

その友達は昔から本当によく考える人で、ともすれば面倒臭い人なんて扱いを受けることも多かったそうだが、こちらも"自分の頭で考えずに生きるなんて"、という方だったのですごくウマが合った。

ウマが合うといってもずっと一緒につるんでいたわけでなく、中学の時から接触が増えたり減ったりしながら、社会人になった今でも繋がってるといる感じ。

(ずっと友達でそういうことになったことはない)

で、最近電話で話し込む機会があったんだが、そしたらなんか友達がその、ちょっと変わっていた。

能力主義正義か?という話も、フェミニズムも、今ある当たり前を疑うという話ではあるし、それ自体自分アレルギーがないどころか、特にフェミニズムについてはかなり友達と似た意見を持っていたはずだ。

ただなんだろう、自分の頭で考えていたはずの友達の口からインターネットやそこらで聞き飽きたような話がつらつらと出てくるのには結構違和感を感じてしまった。

能力主義のあれそれやフェミニズム的な話を"聞き飽きたような話"と書くのもすごく抵抗があるが、じゃあ例えばそれが何かというと、エリートへの怨嗟結婚制度は家父長制を助長するであるとか、現状に対する特権側の無知厚顔さであるとか…。

それらの主張や感じ方自体に反対かというと、そうでないどころか自分も同じような考えを持っていさえする。

から所謂"ウワッフェミニズムの人だ!(笑)"みたいな気持ちには当然ならなかったし、途中までフンフンそうだよな的な気持ちですらいた。

のにも関わらず、だんだん違和感が大きくなっていった。だって、あまりにもその、聞いたことあるし思ったことある話だから

いやそりゃ、同じ問題について課題意識を持ってるんだから、同じことを考えるのは必然だろうというのもわかるし、それはそうだと思うんだが(例えばフェミニズムじゃなかったとしても)。

ただ、あまりにもその単語の全て、怒りの方向性結論雰囲気(としかいいようがない)などがあまり既視感のあるもので。

似たような人間が同じ本を読んで感想を熱く語っているような、そんな印象を受けた。

思ったこ

で、じゃあその何が問題なのか?というと、それでその友達ものすっっごく生きづらそうだったのと、自分にも同じ生きづらさについて思い当たるところがあったというところ。

いやさ、フェミニズムなんて女性の生きづらさに対する考えや運動なんだからそれを意識すれば大変なのは当たり前で、でもそれに無関心、無知で生きるよりよっぽど良いだろと思うし、それは別に間違ってないとも思う。

ただその"フェミニズム"的考えが本当に全部自分のものなのか、考えたほうがいいなと思った。

別に自分原体験じゃなくたって、他の人の怒りに同調することは全く悪ではないし、実際日本ジェンダー格差がやべ〜のは事実だし、それに怒ることはマジで大事だと思う。

でも、そういった考え方や感情のどこまでが本当に自分のものなのかを間違えたり、わからなくなると、なんというか現実までそれに歪められてしまって、目の前の人間現実をそのまま受け入れられなくなってしまう気がする。

"よく考える人である"はずの友達あらためて客観的に見た時に、あまりにも『能力主義正義か?』とかフェミニズム的な考え…イデオロギーを外からガッツリインストールしてしまって、それに雁字搦めになっているように見えた。

そこで改めて自分や"フェミニズム"というものを顧みてみると、やっぱりかなり思うところがあった。

今のツイッターの"フェミニズム"ってさ、まぁあくま自分観測範囲であることは先に強く言っておきたいけど、こんな感じじゃん:

・みんなが個々で色々考えて言っているように見えて、そのベースにはある程度共通イデオロギーがある(ように見える)

・そのイデオロギー別に特定有名人一人の考えではないが、複数人拡散力の強い人はいる(本の著者やSNS上のインフルエンサーなど)

・対抗勢力めいたものがいる(その雰囲気を帯びた投稿にめちゃめちゃ噛み付くユーザとか)

・程度の差はあれ、現実認識がそのイデオロギーに影響されている

これってさ…この特徴って、フェミニズムだけじゃないインターネット上の"運動"でよく見かける気がしないか

ネトウヨとか、スピリチュアルとか、陰謀論とか、そういう、「自分の頭で考えれば良いのになぁ」って感じの人達

↑の箇条書きのテーマフェミニズムからこれらに読み替えてみてほしいけど、どれでも結構当てはまると思う。

まとめ

まぁ、だからどうなのかと言われると、少し困る。

ジェンダー格差現実の切実な課題としてそこにあることも、それを自分問題に感じることも変わるわけじゃない。

ただ、少なくともインターネットで多く繰り広げられてる"フェミニズム的なもの"については、↑のような要素や部分も少なからず有るようには感じる。

人間というものがなんらかのイデオロギーを持って活動しようとすると、多かれ少なかれ似たようなことになるのかもしれないな、とも。

から、これもどこかで聞いた話だが、"その怒り(じゃなくてもいいけどなにかの強い感情、そして多くの場合は怒り)は本当にあなた自身の怒りなのか?"というところがわからなくなったら、一旦距離を置くというのも(その人自身人生にとって)良い選択肢なのではないかな、と思う。

別にインターネット上のフェミニズム自体を全く否定するわけではないし、拡散力がある以上その手の運動にとってインターネット活用は不可欠だと思う。

具体的に名前が浮かぶアカウントも、普通に応援したいというか頑張れ…とは思っている。でも、俺は一旦離れようかな、という感じ。

こんだけつらつら書いて結論弱?!って感じだが(笑)自分が信じ込んでるものについて、リアル他人挙動を見せられたのは結構衝撃だったし、それをみて自分にも思い当たるところ(振る舞いもだけどそれより特に考え方について)があったのも衝撃だったし、それを整理するのに分量が必要でした、という感じだ。

その友達も変わらず俺の大事友達なので、別にそのイデオロギーめいた部分以外は変わってないし話してて楽しいし、同じ考えを持つことを強要されだすとかしない限りは(そしてそういうことはしない人だとは思う)、仲良くしていきたいと思う…(書いてて改めて思うけどほんと陰謀論の人とかに対する感じ方だな…)。

蛇足

ちなみに自分の振る舞いや考え方で特に思い当たったのは、同性パートナー(男)への評価の仕方がなんか、毒されてるな(あえてこういう日本語を使う)と思った(し実際相手から微妙に指摘された)という感じです

こういうちょっとした違和感が重なっていた所に、ドーンと友人の挙動を見せられたのがトリガーになった感はある

蛇足にしたのは本編でしていたイデオロギー云々の話に、自分個人的な話(特に属性)を入れると話が発散しそうだなと思ったので…

男でフェミニズムモテたいの?とかよく言われるけどゲイだと結構色々思うところはある。

ただあんまりこの話をするとそもそもフェミニズム女性の権利の回復の話であって(勝手に男のものにするな)、みたいな話にもなるし、別にその話をしたいわけじゃないのであまり脱線させたくなかった

フェミニズム運動女性のためのものというのは当たり前だし普通に同意です)

あとこれも話が発散するのであまり触れなかったが、能力主義の方も結構強烈にイデオロギーインストールしてる感があった…

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