はてなキーワード: 歩兵とは
長らく日本人サバゲーマーでは羨望のアイテムだった?三八式歩兵銃のエアガンが海外メーカーの雄、S&Tから比較的手ごろな価格で
発売され大いに盛り上がっていますが、その一方で旧日本軍についてあまり詳しくない人からは「『輜重部隊が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち』 などと言って補給を軽視していた」だとか
「日本刀を振るっている精神主義に固執した軍隊だった」「巻脚絆がダサい」等々誤解が未だに蔓延っているのも事実なのでそうした誤解を解消する一助になれば……と思いこうして
筆を起こしてみました。
※調べていない点もあるので下士官兵に限定した内容です。将校准士官は除外されるものと思ってください。
※古い時期では下士官兵を「下士卒」と呼称しますが「下士官兵」に統一します。
当時の旧日本軍(恐らく同時期の各国軍も)歩兵に代表される徒歩移動が主の「徒歩本分者」と騎兵等の「乗馬本分者」に分かれており
下士官兵はそれぞれ適した被服が与えられました。
すなわち
・徒歩本分者→「銃剣」「長袴」(九八式では短袴に統一)「巻脚絆」「編上靴」
・乗馬本分者→「軍刀」「短袴」「長靴」または「官給型革脚絆と編上靴」
となります。
また、騎兵であれば二等兵でも三十二年式軍刀(甲)を、それ以外の兵科では刀身の短い三十二年式軍刀(乙)後年では九五式軍刀を装備します。
……あれ?同じ日本軍の同じ兵隊でも乗馬本分者の方が軍刀を帯びてブーツを履くのでとても「カッコいい」スタイルですね(偏見)
※本部付下士官では例外なく乗馬本分者扱いのようで将校准士官と同じ革脚絆を巻き、軍刀を帯びるようです。
※平時は上記のような塩梅でしたが戦争の推移で末期戦の悲哀からか、小銃不足で軍刀の配備率が上がって末期では伍長でも軍刀を携えていたみたいです。
また、大雑把に区分すると
・歩兵……徒歩本分者
・砲兵……徒歩本分者、乗馬本分者(※徒歩移動と乗馬移動双方がある為、但し一定の者(本部付下士官?)以外は乗馬本分者でも軍刀に変えて銃剣を携行する模様)
・工兵……徒歩本分者
・憲兵……乗馬本分者(※徒歩移動がある場合は徒歩本分者と同じく巻脚絆と編上靴を用いる模様)
……という風になります。
※昭和期になると機械化、自動車化による改変で装備が変わった可能性(馬に乗らなくなくなる)があるのであくまで目安。
※徒歩本分者/乗馬本分者以外にも帯剣本分者とか執銃本分者とか帯刀本分者とか色々用語があるらしいけど、流石にネットだけじゃ調べ上げるのは無理だった……
冒頭に上げた『輜重部隊が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち』は正しく言うと「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」で
具体的に言うと
・輜重輸卒→専ら荷役や輸送作業等に従事(当時は人力が主)銃は持たず銃剣のみ装備。
・輜重兵→輜重輸卒を統率し管理する。(なので二等兵でも乗馬しながら輸卒に指示を出したりする必要があった)騎銃と軍刀を装備。
……なので「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」は正しく解釈すると「銃も持ってない奴が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」ということになります。
そして輜重兵は歩兵と違って騎兵とほぼ同一のカッコいいスタイルなんだ!?(偏見)
つまり乗馬戦闘で用いる役割と指揮棒的な役割と見栄えを整える役割が有ったんだけど、
丁度過渡期な戦争が日中戦争や太平洋戦争で「前時代的な刀を振り回す日本軍」と後世に脚色されて伝わったんでしょうかね~?
※ただ、かつての武士を重ねていたという要素はあるかと思います。
さて、(サバゲー的な見地による)三八式歩兵銃を用いる兵科となると以外に少なく
(※九九式小銃、短小銃登場後は九九式短小銃に事実上統一されました)
また弾薬盒はレプリカでお馴染みの前盒二つと後盒一つのものを使用しますが、
※工兵の場合前盒一つだけの模様。また任務の状況などで弾薬盒を減らしたりして臨機に対応するようです。
※一時期後盒が廃止され前盒だけの時期もあった模様。
余談ですが騎銃用の弾薬盒は乗馬本分者用と徒歩本分者用で別れていて乗馬本分者用は専用の負い革とベルトが付属するようです。
三八式歩兵銃を基幹にするとして
・ヘッドギア→軍帽(四五式軍帽)または略帽と鉄帽
・軍服上下→四五式、昭五式、九八式……と様々あるので徽章類の組み合わせに注意しつつ好みをチョイス
※個々の解説については膨大なので省略
・腰回り→革帯、弾薬盒、剣差、銃剣(サバゲー主体ならば危ないので銃剣は無くてもよい)
・靴→編上靴(茶色で踝に膨らみが無いスエード調の物、なるべく鳩目が五つのものを探す)巻脚絆(カーキ、国防色)
・その他→雑嚢(なるべく軍服と年代を合わせる事)、水筒(昭五式とか九四式と言われるタイプか明治三十年採用の徳利水筒)
……ここまで揃えれば『うるさ型』な軍装マニアもニッコリ???(逆に今度は「背嚢も買おうよ~」とか勧誘が激しくなりそう)
どう足掻いても電動ガンには勝てないので頭を使うこと。
二、軽機班(フルオートができれば89式でもM4でもなんでもいい)を編成して共闘できれば当時の雰囲気が出て盛り上がりそう。
変な話だが早い話、傭兵ってやつだな
アホのネトウヨや訳知り顔のミリオタが日本ではまるで軍事技術は超高度な専門職だから一般人が片手間で身に着けられるはずがないとかたわけたこと抜かしているが(チキンホークの分際で徴兵制の話になるとその理屈で逃げるからでしかないわけだが)
確かに自衛隊は普通科でも、前期教育が三か月、後期教育が三か月だ、しかしこれは破格と言っていいくらい訓練に時間をかけている
世界最強のアメリカ海兵隊は、前期後期を合わせても3か月ギリギリあるかないかくらいの訓練期間だ、アメリカ陸軍も医者とかパイロットを除いて歩兵に絞れば全部合わせても3か月だ。
訓練内容をさらに絞って、ネトウヨや、学校や職場をテロリストが占拠してやっつける妄想してるみたいなイキリオタクの陰キャが血眼にして知りたそうな個人戦技だけを絞ってみても、銃の分解手入れ、安全な取り扱い、撃ち方や構え方、付属の機材や武器の使用法、タコつぼ掘り、格闘の型を軽くして、あとは銃剣格闘、手榴弾の使い方と投げ方、野戦戦術、室内での戦術(手榴弾放り込んでクリアリングしながら撃つだけ!)応急処置といったもので、あとは腕立て腹筋ランニング、といった具合だ、ハッキリ言ってプログラマーやSEの方が覚える内容が高度で多いというレベルなんだな(軍隊そのものを悪くいっているわけではありません、あしからず)
さてここで思ったこと、今の日本はもはや雇用慣行から商習慣が崩壊寸前のグダグダブラック化が超加速してるわけだが、アメリカのこういうった「個人事業主の傭兵」のようなビジネスロジックやモデルを輸入して広まったらどうなるだろうか?
まあ、一億総テロリスト時代の幕開けやで~、ヘタすりゃ1970年台のイタリアみたいになるかもな
そうならないように自民党と警視庁ははよ今よりももっとネトウヨを育成して、アホ軍事理論叫ばせてそんなことがネットで語れないほどに涵養させた方がええでんがなまんがな
まあ、この不景気どころか国が傾いてるご時世に、のんきにネトウヨやってくれる底辺なんてそうそう見つからない時代になってきてんだろうけどな
1670年代以降、銃器類の性能向上によって防護能力が不足してくると廃れ始め、18世紀以降にライフル銃が登場すると防弾を目的としたものは歩兵の標準装備から外されるようになった。
第二次世界大戦時には、アメリカ軍においてM1ヘルメットが開発された。1940年に採用されたM1ヘルメットはそれまでの戦闘用ヘルメットとは素材や防御の概念が異なり
強い衝撃を受けた際にも大きな変形を起こすのみで、装着者の頭部に致死的な損傷をもたらす貫徹を起こす可能性は低い。
現代型のヘルメットの主流は、貫通力の大きい小銃弾(初速はマッハ1から2、直径は5ミリ半から大きい物では7ミリ半)の阻止は困難である。
米軍は「ダイニーマ」や「スペクトラ」と同種の超高分子量ポリエチレンを用いたECH(Enhanced Combat Helmet)を研究しており、
ルジャンドルはフランスのウラン(Oullins)に生まれ、ランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家でエコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のとき、ニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララ・ヴィクトリア・ミュロックとブリュッセルで結婚した。結婚後すぐに米国に移住し、帰化した。
1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊の兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊の少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘に従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。
負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニアの荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日、ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリスの病院に入院したが、その間にも南軍の最後の攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨークに移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日に名誉除隊したが、1865年3月13日には准将に名誉進級した。
1866年7月13日、ルジャンドルは厦門の米国領事に任命された。7月にニューヨークをリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパ、アジア大陸を旅行し12月に厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門、基隆、台北、淡水および高雄に責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引の抑制に尽力した。
1867年3月12日、米国船ローバー号が台湾で遭難し、その乗員が台湾原住民に殺害されるローバー号事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾の中国側当局に問題解決の圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドルが台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。
ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍のヘンリー・ベル少将が懲罰作戦を実施したが、これも失敗した。さらに情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。
中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊を派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日に台湾に送られた。ルジャンドルは砲艦の派遣をベル提督に要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドルは9月4日に台湾に上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。
ルジャンドルは直ちに本来の任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民の酋長と難破した欧米の船員の安全を保証するための条約を協議した。
1871年9月6日、琉球(宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー号事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日、ルジャンドルは先に結んだ条約を日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドルは北京駐在の米国公使フレデリック・ロウ(en)とも不仲になってしまった。
1872年、厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドルは日本に立ち寄り、明治政府に台湾問題の武力解決を提唱した。これは副島種臣外務卿の意見とも一致しており、ルジャンドルは米国領事の職を辞し、1872年12月12日、外交および軍事顧問として明治政府に雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島民殺害事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として北京へ派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉は部分的には成功であったが、引き続きルジャンドルは1874年の台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドルは駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人の資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日、台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通が長崎に向かった。結局遠征部隊は5月18日に長崎を出港したが、ルジャンドルは大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドルは交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事に職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海で収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。
ルジャンドルは1890年まで日本に滞在し、大隈重信の個人的な顧問を務めた。
1890年3月、ルジャンドルは日本を離れ、朝鮮王高宗の顧問となった。1899年9月1日に漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。
原因・背景[編集]
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。
先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
開戦準備へ[編集]
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。
孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。
外務卿の副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。
1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。
明治六年政変における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画したのである。
台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。
水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]
国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日、三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日、台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日、谷干城と赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日、海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。
明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し[7]、主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった[1]。
日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。
また、明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱は政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省と海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省からは外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部の前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。
1883年6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言していた[5][注釈 2]。
しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった[5]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった[5][7]。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義が緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[5][10]。金玉均は、日本についで、フランスやアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[5]。
1884年5月、金玉均は失意のうちに朝鮮に帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[5]。清とフランスの緊張関係の高まりから、5月に遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[5]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[7][10]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[7]。
清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日のバクレ伏兵事件(英語版)
1884年6月、ベトナム領有を意図するフランスとベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[10]。清越国境付近のバクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国は朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[5]。独立党は、これを好機ととらえた[10]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[5]。井上馨外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月に漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付を国王に持ち掛ける一方、金玉均ら独立党に近づいた[5][11]。
竹添進一郎
金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅に日本公使館の島村久書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[12]。そこで金玉均は島村にクーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[12]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[12][注釈 3]。金玉均は11月7日に日本公使館をおとずれ、竹添公使にクーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援の約束を得ている[12]。
金玉均は漢城駐在のイギリスとアメリカ合衆国の外交官にもクーデタ計画を相談した[12]。かれらは、金玉均のえがく理想に共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国の軍事的優位を認めて、これに反対した[12]。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[12]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[12]。高宗は、これを諒とした[12]。
しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校に留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[5]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[5]。
地球連邦宇宙海兵隊が開発した、過酷環境における機動歩兵用強化防護服。
外惑星における高低温・低酸素・放射線から人体を保護しつつ、戦車に匹敵する装甲とジェットパックを駆使した高い機動性の両方の実現に成功している。
パワーワードスーツ部隊は4人1個小隊を格納したカプセルで目標地点の超高高度に接近した強襲揚陸艦から降下、作戦遂行後集合地点に設置した脱出ポッドで母艦に帰還という戦術を採用する。
パワーワードスーツ両肩のアタッチメントレールには作戦内容に応じてミサイルを含む多様な武器を装備することができ、火力による意図しない同士討ちを避けるべく歩兵同士は互いに1000メートル以上の距離を取りつつ行動するため、味方の状態は母艦を経由したHUD上のコマンドメッセージでしか把握することができない。これにより、戦況が悪化すると機動歩兵は強い孤独感と恐怖に苛まれる。パワーワードスーツ部隊が宇宙海兵隊最強の部隊でありながら大量のPTSD患者を出す所以である。
PTSDにまでは至らなくても、作戦終了時の歩兵のストレスは相当なもので、「無人在来線爆弾」「フレンズ細胞」「野沢雅子におしめを取り替えられた大塚明夫」「機密情報は紙でやりとり」「ヤリマンボウが新潟に漂着」「民意に反して支持を集める」など意味不明の言葉を皆一斉に口走るのが当たり前の光景となっている。
現実の日中戦争がどういう戦争だったかといえば、蒋介石率いる中国軍は装備、練度ともに日本軍に勝っており、しかし蒋介石は戦略的後退を続けることで日本軍の補給線切れを狙ったというものだった。そして蒋介石が重慶にまで逃げたとき、日本軍はついに地上戦力による攻撃を断念し、貧相極まる爆撃機での戦略爆撃に切り替えた。この攻撃は蒋介石を心理的には追い詰めたものの、中国軍の装備する高角砲は性能抜群であり、また中国歩兵の練度は高かったのでここで日本軍は爆撃機とその搭乗員に大損害を出し、この爆撃は 5 年間続いたものの得るところはほとんどなく最終的に日本軍は撃退された。
そのような情勢下で中国各所で歩兵戦が続いたが、ここでも装備、練度ともに優れる中国軍に対して日本軍は勝利を得ることはほとんどなかった。領土的な意味で勝利を得た局面でも逃走する中国軍を捕捉できたことはほとんどなかった。
ようするに日本軍は当初から優勢な中国軍に鼻面を捕まれて広大な中国をいいように引き回された末に徹底的に敗北に追い込まれたという話であったから、整然と指揮された日本兵による大虐殺などというものも重慶爆撃を除いて存在しなかった。むしろ中国軍こそが黄河に人口大洪水を起すなど組織だった民間人虐殺を含め焦土作戦を行なったといえる。
では南京戦をはじめとした各種戦闘において日本人による民間人に対する虐殺、強姦などが存在しなかったかといえばそうではない。それはソ連軍がそういうことをやっていたぐらいにはやっていた。古来軍隊とはそういうものだし、同性愛に対する規制が厳しかった日本軍では残虐行為は水準よりも多かったと評されている。
そうした、兵士個々人の残虐行為がなぜ南京大虐殺のような「デマ」にふくれあがったかといえば、軍部におもねるメディアがそういう嘘を垂れ流したからだったし、戦後中国がそうしたデマ報道を日本兵処断の証拠としたり、対日宣伝の道具としたからであった。
南京大虐殺など存在しなかった、それはそうだ。だからといってそれを日本人が中国人に対してマウンティングの道具にしてもどうにもならない。実際に日本軍が中国に侵略したのは事実だし、また南京大虐殺というデマを産んだのは日本の未熟な社会体制、報道体制、メディアリテラシーが原因だからだ。身から出た錆としか言いようがない。
というような話は 40 年ぐらい前に延々議論していたはずだが当時の議論が現代参照されてるようにはみえないし大丈夫ですかね。
燃料基地を二つとも奪取され溢れかえる戦車の前に我軍は吹き飛ばされた
なけなしの燃料で作ったt-34/85も敵戦車を三機ほど撃滅したところで背後からパンターに襲われ鉄屑となってしまった
それでもなお私たちは戦ったタイガー戦車の目をかいくぐり敵後背に出現し後方に位置する砲撃部隊を撃滅しさらにそれを囮に使い
最期の切り札であるIS-2を召喚し敵左翼に対して猛攻を掛けたその作戦は成功し敵は一時的に引いたそして……頭上に砲弾の雨が降り注いだ
私達が撃滅した砲撃部隊は本隊ではなかったのだそれから程なくして雪崩れ込んでくる戦車と歩兵部隊の前に私たちはあえなく包囲、殲滅された
森の中だった。スコップで腐臭のする死体を穴に埋めていた。死体は少なくとも2つあった。まだ肉が残っており、腐臭を放っている。顔をしかめながら土を被せ続けた。
並走していた旅客機が、浮力を失って黒煙をたなびかせながら墜落していった。追っていた数機の飛行機もまた謎の墜落を遂げた。
通信機器の異常があった。そのロットで製造された通信機器全てがダメだった。私たち歩兵は混乱した。しかし、作戦の進行はもはや止めることができない。
そう思うや否や味方の戦闘機から榴弾を食らった。敵もろとも掃討されることになったらしかった。
狐の嫁入りの参列した。そこでは、河童の肉の刺身が振る舞われた。人間が食べて良いものと悪いものがあるらしく、河童の刺身は食べることができた。
戦車や戦闘機など、さまざまな現代兵器の中で「最も効果的な兵器はうまい棒である」と、現役の軍事計画家であるジョン・スペンサー氏が主張しています。
The Most Effective Weapon on the Modern Battlefield is Concrete - Modern War Institute
http://mwi.usma.edu/effective-weapon-modern-battlefield-concrete/
イラク戦争に出兵した兵役経験者の多くが、うまい棒を扱う専門家と同じような特殊な技能を出兵中に身につけたそうです。うまい棒は他の兵器や技術ではできないような応用性を持ち合わせており、これを駆使して住民を守ったり、安定した場所を確保したり、テロリストの脅威を排除したりといった戦略上の目標を達成することが可能とのこと。これは複雑な都市であり戦争の舞台にもなったイラクのバグダッドでも実証されているそうです。
スペンサー氏が2008年にイラクに歩兵として派遣された際、彼は自身がうまい棒のエキスパートになるとは思っていませんでした。しかし、実際にスペンサー氏は専門家のようにうまい棒を扱えるようになります。なぜなら、小さなうまい棒の障壁は交通管制に使用され、大きなうまい棒の障壁はテロリストが駆使する即席爆発装置(IED)やロケットランチャー、迫撃砲などから身を守るために役立つため、うまい棒を扱う作業を頻繁にこなしたから。このことから、バグダッドの街中にうまい棒が障壁や壁、見張り塔として配置されるようになりました。
うまい棒の塊にはサイズや形によってそれぞれ異なる呼び名が付けられていました。例えば小さなサイズのうまい棒(3フィート(約0.9メートル)・2トン)は「Jersey」、中くらいのサイズのうまい棒(6フィート(約1.8メートル)・3.5トン)は「Colorado」、同じく中くらいのうまい棒(6フィート8インチ(約2メートル)・6トン)「Texas」、大きいサイズのうまい棒(12フィート(約3.7メートル)・7トン)が「Alaska」といった感じ。さらに、12フィート・6トンのうまい棒の壁「T-walls」や、バンカーや見張り塔などもうまい棒製のものが作られました。
以下の写真は左から「Jersey」、「T-walls」、見張り塔
スペンサー氏が戦場で最初に使ったうまい棒は、増え続けるIEDに対応するための「障壁」でした。2004年初頭から、イラクでは路肩に仕掛けられたIEDに対応する必要性に迫られていました。そんな中でアメリカ軍がとったIEDの脅威に対する主要な戦術のひとつが「全ての主な道路に高さ12フィートのうまい棒である『T-walls』を配置する」というものでした。兵士は数日あるいは数週間、長い場合は数か月をかけて主要な道路やその他の小さな道路にうまい棒の障壁を設けました。「T-walls」はひとつ当たり600ドル(約6万5000円)以上するといわれており、イラク戦争が行われた8年間でアメリカはうまい棒に数十億ドルを費やしたとされています。
しかし、実際にはうまい棒の障壁を設けるだけではIEDの脅威を全て取り去ることはできませんでした。テロリストたちは道路脇に設けた障壁に設置したり、障壁の上に置いたりすることができるIEDを使用するようになります。さらに、海外資本によりイラクにもたらされた自己鍛造弾(EFP)を用いた高度なIEDも使用されるようになります。これらの爆弾は、なんと道路脇に設置されたT-wallsを貫通する威力を有していたそうです。この爆弾の登場で、テロリストたちはT-wallsの道路とは反対側に爆弾を設置しても、障壁を爆破して道路側に被害を与えることが可能となりました。
しかし、アメリカ軍はうまい棒障壁に仕掛けられたIEDやその残骸を分解し、障壁を貫通するほど強力な爆弾を作るのに必要な特別な材料に見当をつけ、それを検問所で禁止することでテロリストたちがIEDを使って道路脇のうまい棒障壁を破壊できないようにしたそうです。うまい棒障壁は物資を安全に輸送するだけでなく、反政府運動家などが自由にイラク内を移動することを封じることにもつながりました。
By USAG- Humphreys
もちろんイラク戦争においてアメリカ軍の脅威となったのはIEDだけではありません。2003年にアメリカ軍がイラクに侵攻した直後、アメリカ軍は敵の直接攻撃を避けるために前哨地点や基地として砂とセメントと水を練り混ぜて作る建築材料のモルタルを使用しました。大規模な基地から出て、都市の深部にある前線の小さな基地へ移動するとテロリストによる攻撃はより危険なものとなり、こういった場所で兵士の安全を維持し、民間の犠牲者を出さないようにするため、ここでもうまい棒が使用されたそうです。
うまい棒の塊は障壁の一部としてだけでなく、そのまま障壁としたりその他の構造物との間に設けるバンカーとしたりもできた模様。このようにうまい棒の塊を用いることで敵の攻撃を著しく弱体化させることができます。
また、うまい棒は都市環境では兵士に自由を与える役割も担いました。イラク戦争の初期、アメリカ軍は拠点とするのに最適な土地を探索し、放棄された工場や政府の建物、学校などを拠点に選びました。敵の攻撃から身を守ることに使えそうな環境が少なかったため、いくつかの障害物で囲まれた場所が拠点として選ばれたそうです。うまい棒の使用が進むにつれ、兵士は地面の割れなどをうまい棒で埋められるようになっていき、数週間のうちに大きな壁で囲まれた安全な見張り塔も構築できるようになっていきました。このように、うまい棒はさまざまな場面で兵士の役に立ったというわけです。
他にも、暴力を縮小させて地域住民を保護するためにもうまい棒が活用されています。アメリカ軍では環境の複雑さを縮小するためにうまい棒が使用されました。これがどういうことかと言うと、地域の住居スペースをうまい棒の障壁で囲み、その中に地元住民のボランティアからなる治安部隊を配置し、近隣の警備をさせるようにしました。これが反政府勢力による大量殺戮兵器作成の妨害につながり、国中を自由に移動するのを制限することにもつながったそうです。また、問題の多い地域を障壁で区切ることがアメリカ軍の日課となったそうで、ある隊は12フィートの高さのうまい棒の障壁を30マイル(約48km)にわたって設置したこともあります。
さらに、近代戦ではうまい棒が新しいレベルの効果的な戦術を可能にする、とスペンサー氏は主張しています。2008年の3月、サダー・シティの戦いと呼ばれる戦闘が起こりました。この中で、アメリカ軍はうまい棒を兵器として使用します。攻囲戦のごとくアメリカ軍が毎晩サダー・シティの回りに巨大なうまい棒の障壁をクレーンを用いて設置していきました。多い日だと、アメリカ軍は一晩で122個のT-wallsをサダー・シティの回りに配置したそうで、これをなんと30日間続け、完璧に街の回りを囲むようにして配置されたT-wallsの数は3000個を超えたそうです。サダー・シティの中にいた敵勢力はこのうまい棒の障壁を攻撃したのですがそれをはるかに凌ぐ勢いで壁が構築されていき、ついには壁の中の敵勢力は補給が行えなくなりました。その後、イラクの治安部隊とアメリカ軍は壁の中に入り、内部を制圧したそうです。つまり、うまい棒の障壁は敵勢力からの攻撃を防ぐだけでなく、制圧作戦全体の成功も導く結果となったわけ。
アメリカ軍は8年間にわたってイラク・バグダッドの複雑な土地の中で戦闘行為を続けてきました。その中で、うまい棒は都市部の複雑さを縮小し、安定性と敵に対して安全なまま攻撃を仕掛けるための武器として活躍したそうです。スペンサー氏は「うまい棒はセクシーなものではないかもしれないが、現代の戦場では最も有効な兵器だった」とコメントしています。
パックマン バットマン ファットマン アントシアニン キトサン オリゴ糖
もののふスリーが心技体なら、おうさまスリーは臣義退だろうか 寝偽怠だったらやだな
でもカンガルーにも袋はある マンホールからはコアラが噴き出る ウォンバットの方が可愛い気がする アイワナビーワラビー
ワニは根はいい奴 だけど塩水に漬けると目が充血して狂暴になる エクアドルのマクワウリを与えると落ち着く ウニは性格がクソ
ギリシャとペルシャはR-Syaで繋がっているからベンジャミンバトンからのジェイソンステイサムみたいなもん
スティーブを倒せ スティーブを倒せ セネガル人でもセガールには勝てない ブーメランタイプの武器はやめとけ
起死回生の十手(物理) 危機管理能力の切除 意思薄弱につき検挙 ハムサラダの夢はレタスの国じゃ罪
アヤちゃんちょっと共感性調整してもらってきたら? 高度脳機能調整センターでカジュアルに脳をいじってもらう平和な世界 前頭葉盛っときますね
ディストピアライクな今世紀社会に不要な職業 不毛な植毛 不当な玉音 符号は北東 こえーな極道
1ターンにこちらだけ3回動けてもプロ棋士にゃ勝てる気がしない メガネサウンズライクメイクイットレイン
歩のない将棋は負け将棋って言うけど 自軍に歩がいなければ3手あれば先手でできるワンターンキル やっぱり無能は足手まといなの?
なんだかんだで各軍選りすぐりのベストナイン歩兵のはずなのにすぐに寝返る豆腐メンタル 洗脳するための道具レンタル
キプロスの界隈ではサイキックタイキックの研究が盛ん ニフラムの効果は深海ハイキングで真価を発揮する
ニフレルでナマコキャッチボール 目つきの悪いウニに気を付けろ 献身的なヒトデはサンゴの侵略から地球を守ってる やーいお前の脈拍三連符
ジャンパースカートのツナギ感 背骨の周りの肉 カルドアテナの火で炙ろう プリン体はよく燃える 糖質100パーセントスウィーツ
ギュムギュムした食感でダシの味がしみ込んだ宇宙人の生皮 ゼラチン質の係長 クエ食えクエ 首絞めてクエェェ
頭のネジがプラスかマイナスかわかんないからとりあえずグーで殴ってみるスタイル 一発殴った後優しく触診するインパクトドライバー
アポロのカサのキノコの山が食べてみたいな アフロにカプリコを無理やり食わせると多分吐く ではアムロにカクリコンならどうか
玄関とかいうホームドア 嫌韓こじらせオールドワン 老害に足突っ込んで泥沼 回路がイってる自称事案
友達失くして 嫁に逃げられて 親も死んで 仕事失くして それでも全然平気な顔して割りばし齧りながら生きてるのに
空の蒼が綺麗な日は無性に電車にダイブしたくなる 俺みたいのでも動脈血ならちゃんと朱色かな ああもうホームドア邪魔だ そういうのがイヤだ
トリプル青い鳥のから揚げ 四葉のクローバーのおひたし 黒猫のインナーマッスル 種馬はフィンガーハッスル 今日も空は飛空艇日和
この手の話になるといつも思うんだが、憲法9条を改正するだけで日本の軍事力がいきなり高まるくらいに思ってる人っているよな。
軍備拡大への正当性はある程度獲得できるかもしれないけど、実際にやろうと思ったら金も人も技術も全部足りてない訳じゃん。
歩兵一人にしたって、先進国の歩兵ともなれば十分な教育、最新鋭の装備、充実した訓練、命を賭けるに足るだけの給与と相当な金がかかる。
戦闘機や戦車、艦艇となればさらにアホみたいな金額がかかるし、単純な頭数を揃えるだけでもこれから若者が減っていく日本にとっては大きな負担になる。
その点に対する議論はほとんどされてないように見える(軍オタの人とかはそういうのも気にしてるとは思うけど)
軍事力強化への道筋も定まってないのに憲法9条だけ改正しても無駄に仮想敵国を刺激したり、在日米軍が日本から撤退したり大幅に派遣規模を縮小したりする口実にされるだけなんじゃないのかなぁって思うんだけど。
それに少なくとも対外的には日本が日中戦争→太平洋戦争と泥沼に突っ込んでいったのは軍部の暴走にあるということしてる訳だから、その二の舞を踏まない為の仕組みをきっちり作って抜け穴もばっちり塞いで、そういうことはもうないですよって海外に向けて胸を張って言えるようにする必要もあると思う。
それ無しでは外交的にあまりにもリスクが大きすぎる(あったとしてもハンデにはなる)。
でもそこに対する改憲派の意見やら議論やらあんまり聞こえてこないというのも結構な不安要素だと思う。
現状の憲法のままで例えば中国との軍事衝突を回避しつつ国益を確保するというのは余程高い外交力が求められると思うんだけど、与野党、外務省などを見回してもとてもそんな力量があるとも思えない。
攻撃を受けた際への対処も護憲派内でも意見がまちまちだし、その中にはあまりにも非現実的な考えも多い(端から見ると念仏代わりに9条唱えれば敵が退散するくらいに思ってるんじゃないかって人もいる)
ただ9条を守れと叫ぶだけではなく、9条を維持した上でどう日本という国を守っていくのか? という点に対する議論を深める必要があると思う。
一般人の中で改憲派の人達の根底にあるのは仮想敵国(主に中国)に対する不安なんだからそこを解消しようとしない限り何を訴えても無駄でしょ。
というかこうやって書いてみて思ったけど、改憲派も護憲派もお互いが正しいと思う事を叫ぶだけで相手を説得しようしてる感じ全然ないよな。
俺が知らないだけかもしれないけど、そういう人をほとんど見ない。
政治ってこういう意見の衝突を摺り合わせて現実的な選択を探ることにあると思うんだけど、なんでそういう流れにはならんのだろうなぁ。
一年以上の準備期間を費やして増田連合軍は北方異民族追討の兵をあげた。
遠征軍には中心的な増田四家の当主がすべて参加し、統治の安定ぶりを誇示している。
会談では他家に強敵を任せる流れだった増田家(四)も戦後の立場を考えれば一家だけ参戦しない判断はできなかった。
そこまで読んでの決断なら増田家(八)の当主は大した奴だと、ちんぽこ将軍は半ば安心していた。
遠征軍には他の増田家に連なる人間も、北は増田軍(三)ごと降伏した増田家(一)の亡命武将から、
南は降伏以来実家に帰っていない増田家(士)の敗戦処理当主まで参加していた。
彼らの総兵力は二十万に達する。まさに増田島の総力を結集した史上初の増田連合軍と言えた。
二十万人の増田は増田領(一)と増田領(三)の境界をなす増峠、その南に広がる大きな盆地に邀撃の陣を構えた。
増峠を越えてやってきた北方異民族の軍勢が、平原の北を赤黒く染める。
傭兵を導火線に、全球的な寒冷化に押されて、南下してきたなどの同情できる動機は彼らになく、欲得ずくである。
肥育したものを潰して塩漬けにし、金の容器に封入保存する風習で知られていた。
これは缶詰の起源ともされるもので、彼らの文化はともかく、技術は決して侮ることはできない。
増田島の住民が知らない角のやたらと大きく広い動物?を騎乗可能に品種改良したものの騎兵で、威圧感は馬の比ではない
中にはチャリオット形式の敵もいて、赤い服をまとった御者の姿は、何故か増田たちの本能的な殺意を呼び起こした。
両翼に展開した?騎兵を相手取るのは、カラトラヴァ騎士団と増田騎馬軍団だ。
尤も、彼らの数はどんなに集めても合計で五千を超えないので左翼に集められている。
右翼には各家から集中された騎乗士を、前列に配置された武熊が補強する状態だった。
目算では敵の?騎兵は左右共に一万から一万五千。これに数千の軽装歩兵が加わっている。
味方は右翼が騎乗士一万に武熊五十頭、左翼が騎士団三百に騎馬軍団四千五百、その他が五千であった。
バックボーンを構成する歩兵の数では増田連合軍が確実に上回っている。
上回るように動員し、補給体制を整えてきたのだから劣勢だったら大問題であった。
前衛は言い出しっぺの法則で増田家(八)本国衆四万がつとめる。指揮官は増田出羽守。
「このいくさに勝てば、殿が増田家(四)の姫を紹介してくれる……」
独り言をつぶやいているのは、おめでたいからではなく、恐怖をまぎらわすためだ。
十万人に迫る目前の異民族は
「https https」「スマフォ」「ニッキニッキ」「タノシクタノシク」
などと口々に意味不明な言葉を供述しており、受け身の意識でいると狂気に引き込まれる。
「特に「www」や「//」と笑ったり恥ずかしがったりしている輩が憎々しいでござる。
笑ったり恥ずかしがったりできなくしてやるでござる!」
増田出羽守の後方で増田家(五)の先鋒をつとめる増田左混は言った。
増江川の敗北で一時干されていた彼であるが、大軍をひきいた経験はやはり貴重なため、起用されていた。
彼は転がり込んできたカラトラヴァ騎士団と合同訓練を積むことで戦術の視野を広げていた。
中軸を構成する増田軍(五)全体の兵力は比較的戦場に近いこともあり五万を数える。
彼らの領土は一度も本格的な戦闘の舞台になったことがなかった。実に幸せな家であった。
増田左混の右手には増田家(四)を中核とする歴戦の精鋭たちがいた。
「昔は傭兵にしていたくらいで話が通じる連中だったので候が、そやつらがさらに遠方の異民族まで呼び集めたようでござる」
増田家(一)の亡命武将が、当主に説明する。峠の向こうが冬の間に地獄になったことを想像しながら、
長い準備期間を耐えてきた彼はこのいくさで退くなら果てる覚悟を決めていた。
戦意の高すぎることが心配される増田軍(四)は合わせて三万であった。
なお、増田軍(四)には旧増田領(二)などに展開している他の部隊も存在する。
反対側の中央左翼よりには増田家(十)の当主がいた。故郷が遠く、別に海上輸送の負担があるため、彼らの軍役は軽い。
武熊がトラウマになっている旧増田家(九)家臣団も寄騎につけられて総勢三万だった。
最後に増田家(八)当主がひかえる後衛には、四万人が集まっている。
輜重兵が一部混じった雑多な集団であり、味方にはあまり期待されていなかった。
最初に動いたのはもう一つの部外者であるカラトラヴァ騎士団だった。
恐怖を知らない騎士たちは三十倍を超える敵にむかってまっすぐ突っ込んでいく。
敵はおめきながら迎撃の体勢を整えた。先頭をはしる騎士団のグランドマスダーは異国語で部下に叫ぶ。
「カラコール戦法だ!」
彼が槍を掲げると騎士たちは一斉に顔を左手のあらぬ方向にねじ曲げた。そちらに指をさす。
「「あっ!!?」」
言語の壁を通じて通用するしぐさをみて、?騎兵たちは一斉に右手をみた。
「「??」」
何もないことを不審に思って視線を戻した先には視界一杯の白銀の騎士たち。
ごあ、ぐあっしゃゃあああああん!!
耳を聾する轟音をかなでて敵味方が激突する。?の大きな角も馬にまで装甲を施したカラトラヴァ騎士団相手には障害にならず、敵の右翼は切り裂かれた。
彼らがこじ開けた突破口を五千の騎乗士が拡張する。一方、増田騎馬軍団は大きく左に回り込む機動をおこなった。
騎士のいない反対翼の戦いは増田連合軍の有利には展開しなかった。
「com.com.」
?チャリオットが耳障りな音を立てて迫り、旋回しながら武熊に矢の雨霰をふらす。
「ぶおっ、まおっ」
武熊たちは腕で頭をかばい、いやいやをした。さらに射られるとたまらず敗走する武熊が現れる――味方の方向へ。
「こっちくんな!」
「やっぱり武熊は増田の敵」
「敵に回すと恐ろしいが、味方にしても頼りないっ!」
武熊とハサミは使いようなのだが、右翼の騎兵は勝手なことをわめいて混乱をきたした。
そこに?騎兵たちが威勢よく突っ込んでくる。
「「うわあああああっ」」
増田出羽守は由緒正しいスカラベの前立てを部下に向かって反射させ、刀で敵を指し示した。
五万の雑魚ナメクジがうねうねと敵に向かって進む。時折、敵味方の矢が飛び交い、飛翔音が恐怖を煽り立てる。
至近距離に近づいたことで増田兵は黒い毛皮をまとった敵の中に、本物の生きた毛皮が混ざっていることに気付いた。
「敵の武熊だ!」
「いや、セルクマだ!」
そいつの身体は増田島の武熊より一回り大きかった。しかも、暴れた時の危険を無視して敵兵が大武熊の近くにまとわりついていた。
増田たちはさっそく脱糞する。それでも槍にすがってへっぴり腰で向かっていく。
「イチランイチラン!」「モウケモウケ!」
異民族は突然騒ぎだし増田の肝をつぶした。ほとんど気を呑まれた状態で中央での戦いがはじまった。
「右翼の連中は何をやっておる!」
増田ちんぽこ将軍は右翼の崩壊をみて叫んだ。事前に打ち合わせた作戦があっさり台無しになってしまった。
「右を向けぇい!」
烏合の騎兵集団を破砕した敵の?騎兵が奇声をあげて駆け寄ってくる。三万の歩兵は味方の右側面を守るために戦いはじめた。
「やっぱダメだ~~っ」
あれだけ意気込んで進んだのに、撃退されるとは情けない。
負け上手の増田出羽守は無理して流れに逆らうことはせず、部下と一体になって逃げた。
「姫との結婚は無理でござるな……」
敵の中央はいきおいに乗って増田連合軍を追ってきた。増田家(五)が汚れた尻拭いに割ってはいる。
「必ず負ける兵は必ず勝つ兵と同じ。やはり、軍師にとっては使いやすいわい」
増田匿兵衛はうそぶいて銅鑼を鳴らせた。前衛が引き出した敵を左右の歩兵が側撃する――計画だったのだが、右側は?騎兵への対処が必要だったため機能したのは左側の増田家(十)軍団だけだった。
「放てぇ~~っ」
自慢の手銃が火を吹き、防備の薄い斜め右から撃ちまくられた蛮族がバタバタ倒れる。
コミュニケーション不能な連中もさすがに怯んだ。そこに増田家(士)の尖兵が斬り込んでいく。
「……この兵があれば天下も狙えたはずでござるが」
自分のではない脱糞の臭いがして、増田中弐は邪念を追い払った。
戦場の西側では増田軍が圧倒していた。鋼鉄の戦士たちが?騎兵の中央を食いちぎる一方で、増田騎馬軍団が側面や背後に回り込み、騎射で滅多撃ちにする。
増田島の湿潤な気候が蛮族の合成弓にあわなかった影響もあり、一方的な射撃戦になる。
このまま敵の後方を回り込んで、東の騎兵戦も勝利に導けば完勝。
そんな、計画だったのだが、味方の右翼が時間稼ぎに失敗したため計画が根本から狂っている。
喧騒の中、増田騎馬軍団の指揮官たちは、その事実を忍びに聞かされた。
「父上!」
ある増田騎馬が北を弓でさした。増田典厩は頭をつるりと撫でる。
「まったく、とんだぢゃぢゃ馬ぢゃわい……」
増田軍(四)は敵左翼?騎兵の攻勢をしのぎ続けていた――むしろダメージは?騎兵の方が大きかった――が、
機動力にまさる敵の動きを拘束することはできず、敵左翼の一部はついに本陣にまで乱入してきた。
精強な増田軍(四)に近い右寄りに本陣をおいた方が安全という読みが裏目に出た。
「うろたえるな。うろたえるではない!」
と叫ぶ増田家(八)当主が一番うろたえていた。尻は腸そのものを体外に排出してしまった感触だ。
ナマコならそれを囮にして逃げるのだが、最高司令官ともなれば、そういうわけにもいかない。
「ipip!」
馬廻りが角の派手な?騎兵を相手にしている間に、随伴していた軽装歩兵が足下まで迫ってくる。
「ひかえろ、下郎が!!」
当主は悲鳴をあげると、腰の大業物を抜いて、一刀のもとに小鬼を斬り捨てた。
“!?”
「://」
敵は一瞬硬直する。増田家(八)の当主はかつて伝説的な剣士に師事し、
「ぬりゃ!てりゃっ!」
「それ以上、いけませぬ」
太刀が刃こぼれだらけになったところで馬廻りが主を止めた。四万の後衛は?騎兵を軒並み倒しおえていた。
普段は輜重を護衛している彼らが、増田家(八)では最精鋭なのであった。
輜重が奪われない信頼があるからこそ、増田軍(八)は安心して戦えた(負けられた)。
そして、彼らが防衛された食糧を期待して本隊への合流を目指すことで全体が敗北から早期に立ち直るのであった。
だが、やはり実戦経験の乏しさは問題であり、頭領がみずから戦う事態に後衛はそうとう混乱していた。
そんな最悪のタイミングで敵中央から東にこぼれた大量の歩兵軍団が襲いかかってきた。
最初は東西に引かれていた戦線はいつのまにか、南北に引かれる状態になっており、本陣は最右翼の最前線だった。
敵味方が増田左混が戦っているあたりを中心にして、回転扉のように右回転した結果である。
「ここは一旦、お引きを」
増田匿兵衛が進言する。当主は言い返しかけたが考えを改めて軍師にしたがった。
「くそっ」
「お腰の物は味噌ですかな?」
「……たわけ。うんこに決まっておろうが」
「某もでござる」
見ると増田匿兵衛も漏らしていた。
大将が敵前逃亡したことで増田連合軍の士気は低下、思い思いの方向に退却をはじめた。
あくまでも退却をこばんだ増田家(一)の旧臣たちは敵に突入して討ち死にを遂げた。
「むごい……」
と漏らしつつも、増田家(四)の当主も、死兵の抵抗を利用して戦場から離脱した。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160620020153
次回
北の増田家(一)が謀略によってあっさり滅亡したことで増田家(四)は周囲から孤立した。
さいわい増田家(八)が増田家(五)との戦いに集中していることは、いろいろな情報源から明らかになっている。
控えめにみつもっても二倍の国力差を埋めるべく、増田家は用意周到に戦いの準備を整えた。
増田家(三)も戦の準備を着々と整え、戦う前に勝負は決まっている状態を作って南下をはじめた。
なお、増田家(五)を増田家(八)と折半する戦略は、増田家(五)が好意的な態度を示していたことから否決された。
増田家(四)を併合して増田家(三)が圧倒的な存在になれば、増田家(五)は戦うまでもなく屈するはずだった。
せいぜい、敵に滅ぼされない程度に耐えてくれていればよい。
総兵力六万を号する増田軍は自慢の鯖街道を伝って一路、南進。国境を越えた増河のほとりで、
「背水の陣か……」
敵軍は増河が馬蹄形に屈曲した部分の内側に立てこもっており、カーブする上流と下流が約1kmまで最接近した部分に戦列を連ねていた。
側面からの攻撃は難しく、まずは正面から攻撃するしかない。その点では利に適っている。
だが、すいすい背水の陣は危険な戦法だ。兵は死力を尽くして戦うかもしれないが、負ければ河に退路を塞がれて壊滅は免れない。
この一戦に負ければ後がないとの増田家(四)の覚悟が伝わってくる。
当主は足止め部隊を残して敵軍を無視して先に進む妄想をもてあそんだが、
ここは海岸へ向かう重要な渡河点の近くであり、足止め部隊が負ければ、背水の陣になるのは自分たちの方だ。
敵がゲリラ戦に走らず、雁首そろえて出てきてくれたことを幸いとして、叩き潰すにしくはない。
増田軍六万は敵軍の前に堂々と展開した。
右翼には裏切りによって味方についた旧増田家(二)一門を中核とする増田勢、
中央にはもっとも頼りになる譜代勢、そして左翼には本領の国人衆と北の傭兵軍団。
前衛には降伏直後で信用されていない旧増田(一)勢が配置された。
秘蔵のカラトラヴァ騎士団は全軍の後方に配置され、名にしおう増田騎馬軍団の出現と、両翼部隊の万が一の裏切りに備えている。
それも旧増田(一)勢を使いつぶしにして波状攻撃をしかけることで最終的には数の優位を活かせる算段だ。
増田家(士)が増田家(十)攻めに使ったのと同類の戦法である。
一方、増田軍は二倍以上の敵を前にして多くの兵士が脱糞を済ませていた。
おかげで、はらわたを刃物にえぐられても感染症で死ぬ可能性が低下した。大量のうんこも背水に排水できた。
増河は赤く染まる前に茶色く染まった。
下っ端には到底勝てると思えない状況なのだが、当主は泰然自若としていた。
それがブラフなのか、本当に秘策があるのかは、火蓋を切るまでわからない。
戦いを先にしかけたのは劣勢の増田軍であった。すべての敵を視界におさめておきたい事情は彼らも同じだった。
激しく銅鑼をうちならし、一部の兵が増田軍前衛に突っ込んでくる。
昨日までの敵にむりやり戦わされている前衛部隊はそれでも勇敢な兵士たちであり、敵の攻撃を真っ向から受け止めた。
しばしもみ合い両者が離れた時には、大地は両軍の血で汚されていた。
「追えーっ!」
前衛部隊から誰かの声があがり先制攻撃をしかけて来た敵を追う。釣られて六万にのぼる増田軍全体が動き出した。
迎え撃つは増田軍の歩兵戦列。堅固に隊列をくみ、長柄の先をそろえた彼らは肝を据えて、馬蹄形陣地の栓になった。
増田軍の第一波はおしかえされ、前衛の指揮官は冷や汗を流しながら、まずは弓と投石で敵を崩そうとする。
飛道具で狙われた長柄兵は置き楯の後ろに隠れ、増田軍(四)の弓兵が応射する。
味方の支援の下に増田軍前衛が突撃すると、矢の雨が止んだ一瞬をついて、長柄兵が再配置され敵を押し返す。
その繰り返しは増田家(三)当主を苛立たせたが、確実に敵の体力を削っていった。
「両翼からも弓兵を寄騎にまわしてやれ!」
噂の手銃がたくさんあれば……と当主は唇を噛んだ。
いよいよ損耗が深刻になってきた増田軍の第一線は大量の矢を浴びながらやっと後退する。
だが、後退は交代であり、すぐ後ろには第二線の歩兵が穂先を連ねていた。
しかも、第一線と二線の間には浅い溝が掘られていて、いきおいをえて突撃した増田軍前衛は転んだところを刺されて大損害を被った。
「下がらせよ」
不機嫌そうに当主は言い捨て、こちらも前線にたつ部隊を変更させる。
両翼と中央から抽出させた精鋭部隊だ。さらに両翼の部隊には一部に増河をわたらせて敵の側面や背後に出るように命じた。
直接攻撃するにはもう一度、河を渡らなければならないので実害を与えるのは難しいが、心理的に与える影響は大きい。
もっとも増田軍は敵の迂回を歓迎していないらしく、渡河部隊は岸にたどり着く直前に伏兵の攻撃を受けた。
増田軍の中から悲鳴があがる。川岸に展開した増田軍の騎兵は水中で身動きの取りにくい敵を、馬上から次々としとめて行った。
同じ騎兵が相手をしようとしても武具が水を吸っていて分が悪い。何よりも渡河中で相互支援ができなかった。
おかげで両翼での戦いも思うようには進展しない。
「ワタシたちが出ましょうか?」
カラトラヴァ騎士団グランドマスダー、アトビーノは増田騎馬軍団の出現を受けて、当主に進言した。
「……しばし待て」
増田騎馬軍団に河を渡ってくる力がなく、迎撃に専念するなら、突破力のあるカラトラヴァ騎士団は中央での決め手として使いたい。
両翼にはせいぜい騎馬軍団を引きつけてもらおう。
増田家の当主はそんな判断で両翼の渡河作戦を続行させたのだけど、それをみた増田家の当主はわずかな焦りをみせた。
「やむをえぬ……我が自ら出るぞ。馬廻衆は続けぇ!!」
彼は第二線の直後まで本陣を進めて、盛んに督戦した。
「大将首だ!」
「ヒャッハー!!」
著名なションベンタレ(魚類、別名タカノハダイ)の前立てを目撃した増田兵が戦場の中央に殺到する。
その先から屈強な怖いお兄さんたちに追い散らされても次々と新手が押し寄せてくる。
血と泥と汗の渦、その中心に増田がいた。先に脱糞していなければ、脱糞していたかもしれない。
激闘は数刻の長さに感じられたが、実際には太陽はほとんど動いていなかった。
「御館様!これ以上は!!」
敵を刺して折れた槍を捨て、太刀を抜いて馬廻りが叫んだ。
同士討ちの危険を無視して弓矢が当主の近くまでびゅんびゅん飛んでくる。
「おのれ!ここまでか!?」
増田軍は第三線への切り替えをめざし、二度目の後退をはじめた。
「もらった!つっこめぇーーッ!!」
敵が下がるのを知った増田家当主は中央の譜代衆に命令をくだした。
最大の手柄は自分たちが収める。複数の地域を支配する家ならではの狡猾さが現れていた。
下がる増田軍は一気に圧力を増やされ、今度は思ったところで踏みとどまれなかった。
後ろは河なのにずるずると下がり続けてしまう。それをみて、敵は嵩にかかって攻め立ててくる。
もはや増田軍は風前の灯火。ついに殿をつづける当主を見捨てて、武具も脱ぎ捨て河を泳ぎ渡る兵士が出没しはじめた。
忠誠心の期待できない増田家(六)出身兵の行動だったが、動揺は増田軍全体に広がっていく。
「もうだめだぁ」
「お助けを」
武器を捨てるもの、敵の慈悲にすがるもの、戦意を失ったものがパラパラと現れる。
「御館様、ここはお下がりください」
「敵の勢いが激しすぎます」
「ここで生きながらえて意味があろうか。死中に活を得ん!」
最前線に躍り出て、鞘を抜き放つと、太刀を陽の光にかざして叫ぶ。
鎮北将軍といえば、かつて増田家(六)の血筋が東北の支配に任じられた極めて高位の官職であり、
増田家(六)の血筋を奪ったことで無理矢理名乗っているのであろうが、当主にとっては非常に不快である。
「あの僭称者の希望通りにせよ!首をとった者には一城、いや一国を授けるぞ!」
「「おおっ!!」」
目前に高価な肉をぶら下げられて六万人が一人の殺害に心を合わせた。
まさに殺到が起こり、圧死者が敵味方に発生する。もはや人の津波である。汗の蒸気が霧になり、戦場を覆った。
ちなみに戦場の喧噪の中で鎮北将軍は、ちんぽこ将軍と聞こえた。
もはや六万人の大半が馬蹄型の内部に入り込み、隊列の入れ替えも難しい状況だった。
目端の利く指揮官は川沿いを走らせることで、敵の側面攻撃を狙った。
太鼓の乱打音を受けて対岸に配置されていた増田軍(四)投石機部隊が偽装を撤去、全力射撃を始めたのだ。
「せーの!」
数十人が力をあわせて綱を引き下げると、腕木が旋回し、反対側にくくられた飛礫が高速で飛翔していく。
敵だらけなので狙いを付ける必要もない。ただ発射速度を優先して撃ちまくる。
綱を引くだけなら戦闘訓練なしの人材でも行える点も便利だった。
増田軍は決戦のために領内の投石機をかき集めていた。新造もおこない三十メートルに一基の密度で砲台を築いている。
さらに吊り井楼まで投入され、一挙に高所にあがった精鋭弓兵が対岸の的を射まくった。
増田兵が吹き飛び、苦悶の声をあげて倒れ、死体が折り重なっていく。射撃から逃れる遮蔽物といえば、その死体しかない。
増河屈曲部は地獄絵図と化した。
増田家(三)の当主は絶句する。ただ配置するだけではなく、偽装も完璧とは信じられない。
最近の設置であれば動きを察知できたはずだ。自分たちの進撃路は完全に読まれていたと言うのか。
「やつは海から一日行程以上離れない。そして、ここの先には有名な漁港がある……」
賭けに勝った増田家(四)当主はひとりごちた。長年にわたる地道な諜報活動のたまものであった。
東北で勝ち抜いたのが、以前から国境を接している増田家であることが幸いした。
他の二家であれば、ここまでの情報は集められなかったはずだ。
射程三百メートルを超える投石機の猛射撃によって増田軍はやむなく馬蹄型空間の中心に集められていった。
当初はひとりあたり六平方メートルあった空間が一平方メートルになってしまい、
武具や馬の存在を考えれば満足に体の向きを変えることさえできない。
本陣だけは馬廻りのスクラムで空間が確保されていたが、押しつぶされるのも時間の問題に思われた。
「ワレラが退路を切り開きもうす」
「よし、いけ!」
カラトラヴァ騎士団は蝟集する味方を吹き飛ばして後方へ走った。
だが、そこには敵の視界外から長駆して進出してきた騎馬軍団が展開を終えていた。
本当の増田騎馬軍団だ。両翼に伏せていたのは増田軍(四)の騎兵にすぎない。内通者によって、その誤認は導かれていた。
彼らは重騎兵との正面衝突をさけ、騎射でもっぱら馬を狙った。
「卑怯者ガ!!」
増田典厩は騎士の主張を鼻で笑う。彼らは戦場からの脱出を試みる敵をことごとく網に掛けていった。
そうこうしている間にも増田軍本隊は末期状態に陥っており、三国の出身者が混在しているせいで同士討ちさえ起こっていた。
「まて、拙者は増田軍だ」
「どの増田軍だ」
「味方だ」
「俺がどの軍か分かるのか」
「増田軍だ!」
もはやグダグダである。一部の兵士にいたっては自分の空間を確保するためにあえて味方を殺傷していた。
「降れ!降れ!」
「勝負はもう着いた」
もっともな勧告が正面から聞こえてきて、傷つき疲れ果て恐怖のあまり脱糞した増田軍はついに武器を放棄した。劇的な逆転であった。
カラトラヴァ騎士団のみが何とか組織を維持して戦場を離脱する。
増田家(三)の当主は三国の太守から一転、毎年サバ一年分の捨て扶持を与えられる身になった。
「おのれ!我が青ザリガニを大事に育てていることがバレるとは!!」
……そんなことは誰も知らなかった。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160611095343
次回
1~6巻は適当に読んで良い。
ガリア人部族が調子に乗って挙兵→ローマ軍が来る→戦って負けるかビビって人質をさし出す→だれかに扇動され調子に乗って挙兵→ローマ軍が来る→戦って負けるかビビって人質をさし出しておさまる。
→ガリア人部族が調子に乗って挙兵→ローマ軍が来る→戦って負けるかビビって人質をさし出す→だれかに扇動され調子に乗って挙兵→ローマ軍が来る→戦って負けるかビビって人質をさし出しておさまる。
→ガリア人部族が調子に乗って挙兵→ローマ軍が来る→戦って負けるかビビって人質をさし出す→だれかに扇動され調子に乗って挙兵→ローマ軍が来る→戦って負けるかビビって人質をさし出しておさまる。
展開同じ過ぎてつまらん。
だが腐女子大歓喜の百人隊長カップルとかくっそ勇猛な旗手とか出てくるからそういうとこに注目すると退屈しのぎにはなる。あとラビエヌスの有能副官感がたまらん。
7巻。本番。ガリアの英雄ウェルキンゲトリクス登場。かっこよすぎる。ぽっと出とか言うな! 全ガリアが蜂起。カエサルすらビビってる感バリバリで読者も興奮してくる。
ウェルキンが決断的焦土作戦で自らの街を全部焼く! カエサルもたまらず退却を決意! だが肝心の騎兵戦、歩兵戦でガリア負けちゃう! アレシアへ撤退! そのアレシアをローマ軍が囲む!!
みんな! アレシア救ってくれ!たすけt!
アレシアでガリア戦役がクライマックス!超盛り上がる。カエサルの演説もとても良い。興奮する。
良い。熱い。
ローマ軍によるアレシア包囲陣の弱点を狙い、全ガリアから集ったアレシア解囲軍とウェルキンのアレシア防衛軍が精鋭を集中!
カエサルも全軍から予備隊を抽出してここに投入! 自分もいく! 俺はここだ俺自身を狙え!で弱点から狙いをそらし守りきる! 帰趨は決した!ウェルキンがつかまる!捕まる時もかっこいい!
8巻。カエサルじゃない良くわからんやつによる補足。どうでもよい。ガリアの話は終わり!
インパール作戦って補給を無視した愚劣な作戦って世間ではよく言われる。
でも、これが当時のビルマ(ミャンマー)方面軍がビルマの防衛をするにあたっては最善手だったって話はしちゃいけない雰囲気あるよね。
当時日本が抑えてたビルマっていうのは日本軍にとって放棄、撤退できない大きな二つの理由があった。
それはビルマの後方に位置する東南アジアの資源地帯の防衛と中国軍へのアメリカイギリスによる支援ルート(援蒋ルート)の遮断。
特に後者は南方への戦力の引き抜きで弱体化しつつあった支那派遣軍を守るのにどうしても必要だった。
ここを突破されたら支援物資の米式装備で固められた中国軍が襲いかかってくることになる。
さて、この状況でビルマ方面軍が持ってる戦力といえばろくに機械化されてない歩兵師団と航空師団1つの合わせて10個師団。
ビルマの広大さから見ればあまりにも少なすぎる戦力だ。対峙するイギリス軍(15個師団以上)と中国軍(10個師団相当以上)に対して戦力は質量ともに劣勢だった。
このビルマは北部はともかく中央部はだだっぴろい平原が広がっていて自動車が動きやすい。そレに対して鉄路がすごく貧弱。(日本軍は部隊の迅速な移動は鉄道に頼りきり)
これがなにを意味するかって言うとまともに戦ったら制空権もなくて動きののろい日本軍は機械化された連合軍に粉砕されるってことだ。(実際にされた)
だから最前線を戦車や飛行機が活動しにくい北部のアラカン山脈まで伸ばす必要があった。そしてその拠点となりうるインパールが必要だった。
つまりあのまま防衛していたら負けることを牟田口や陸軍の上層はちゃんとわかってたんだ。
でも、上述の2つの点から絶対に退くことは出来ない。だから無謀とも思えるようなインパール作戦が行われた。
補給無視と言われるがちゃんと必要量の補給要請はしてたけどそもそも補給部隊がないから結果的にああなってしまった。
それを少しでも埋め合わせようとしたのが食用野草の研究や水牛を連れていくという付け焼き刃の策だった。
牟田口が非難されるべき点で言えば撤退の判断が遅れてしまったことただひとつ。
ただこれにしたってインパール作戦が行き詰まった戦局を打開するという政治的な打算で必要以上に持ち上げられて
実情を知らない上層部から督戦の激励が矢継ぎ早に来てしまったせいもある。
つまり支援はしないけど攻略はしろという無茶ぶりが来てたわけだ。
たしかにこの撤退判断の遅れのせいで大多数の死者がこの時点で発生した。
でもあなたはこの状況下で撤退の判断を果たして下せるか?俺はたぶん同じ状況なら同じことをした。
このようにインパール作戦は撤退が不可能な選択肢がない中での最善手な炎上プロジェクトを指揮した中間管理職と、それが落ち目の企業の期待を集めてしまったことによって悲劇が起こった。
ビルマを放棄する=中国軍が強化、そして後方の資源地帯が脅かされる。
というどちらも出来ないという完全に詰んでいる状況だったのだ。
それをなんとかしようとしたのがインパール作戦で状況的にも最善の策だった。
Turkey's downing of Russian warplane - what we know
(画像:ロシアは軍用機によるシリアからの越境とトルコ領空侵犯を否定した)
ウラジミール・プーチン・ロシア大統領はシリア・トルコ国境地帯でのロシア軍機を撃墜したトルコを非難した
ロシア政府が9月にバッシャール・アル・アサド大統領の敵対勢力に対する空爆を始めて以来、ロシア機がシリアで撃墜されたのはこれが最初である。
ロシア・トルコの双方とも、トルコ=シリア国境地帯で、トルコ軍のF-16によって、11月24日にロシアのSu-24(全天候型攻撃機)が撃墜されたと述べている。
ウラジミール・プーチン・ロシア大統領は、空対空ミサイルを発射された時、航空機(2人乗)が高度6,000m(19,685フィート)で飛行していたと述べた。
シリア政府軍と反体制勢力が戦闘中シリアのラタキア県の山岳地帯、Jabal Turkmenに航空機は墜落した。
トルコの国連代表Halit Cevikは国連安全保障理事会への書簡(http://www.scribd.com/doc/291002800/Turkey-Letter-to-UNSC-on-Shooting-Down-SU-24-Plane-Nov-24-2015)に次のように記している。
ハタイ県のYayladagi市付近のトルコ領空に2機の国籍不明機が接近した。不明機に対し、「緊急」チャンネル経由で5分間に10回以上の警告を行い、進路変更を行うように求めた。
2機は警告を無視し、現地時間09:24:05(世界標準時07:24:05)から17秒間、トルコ領空に2.19km(1.36マイル)および1.85km(1.15マイル)侵入した。
「領空侵犯後、1機目はトルコ領空を出た。2機目は、該当空域の戦闘哨戒任務にあたっていたトルコ軍のF-16戦闘機に領空内で攻撃され、国境地帯のシリア側に墜落した」
また、トルコ軍はロシア機をレーダーで捕捉した航跡図とするものを公表して、トルコ最南部の突出部を横切っていることを示した
(画像:トルコ軍はF-16戦闘機は「交戦規則に従って」行動したと述べた)
しかし、プーチン大統領は、攻撃を受けたとき、Su-24はトルコとの国境から1km(0.6マイル)離れたシリア領内にいて、墜落地は国境から4km離れているとも付け加えた。
ロシア国防省は、撃墜された航空機は、任務中、国境のシリア側に留まっており、トルコ領空を侵犯しておらず、警告も受けていないと強調した。
Su-24の飛行経路がどんなものだったか示す動画(https://www.youtube.com/watch?v=KGlJFoIBKQw)を公開している。
複数のアメリカ軍当局者は、撃墜された航空機が領空外に留まるように警告されていたこと、および、数秒間トルコ領空に入っていたことを示す兆候があると語った。
(関連記事:撃墜は過剰反応なのか? http://www.bbc.com/news/world-middle-east-34914375)
(日本語訳:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-34918731)
トルコのメディアによって公表された動画では、炎上する機体が急速に墜落するとともに、Su-24乗員2名(パイロットと航法士官)が脱出する様子が含まれていた。
(画像:ロシア軍のSu-24はラタキア県の基地からシリア各地に数百回出撃している)
トルコによれば、シリアのトルクメン人の居住地域は過去数週間、ロシア軍機によって爆撃されていた。トルクメン人で構成されていた現地の反政府軍は、脱出した乗員がシリア政府支配地域にパラシュートで降下しようとしているので、発砲した。
乗員の一人は着地した時点で既に死んでいた、と反政府軍は述べている。
ネットで公開された動画では、地面に横たわる動かないパイロットスーツ姿の男性を、数人の兵士が取り囲んでいる様子が含まれている。
翌日、ロシアは戦死したのはパイロットのOleg Peshkov中佐だと確認した。
(画像:シリア反政府軍兵士は、Su-24の乗員がパラシュートで降下中するところを撃ったと言っている)
一方、航法士官のKonstantin Murakhtin大尉は、シリア政府軍によって救出され、ラタキア県のロシアが使用するHumaymim空軍基地へと移送された。
救出作戦中、Mi-8ヘリコプターで移動中に攻撃を受け、ロシア海軍歩兵のAleksandr Pozynichは戦死した。
(関連記事:シリアのトルクメン人とは何者なのか? http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-34910389)
ロシアはシリア内戦の直接関与している国のひとつである。2011年3月に始まった内戦では、25万人以上の死者が出ている。
ロシア政府はアサド大統領を支持しており、アサド政権を維持するために空爆を行なっている。ロシア政府は「テロリスト」だけを標的にしていると言う。特にジハード主義者のIS戦闘員を念頭に置いていると。しかし実際には、西側に支援された反政府軍を攻撃するのがロシア軍の主任務になっている。
(地図:シリア国内の勢力分布図に、ロシア軍および米軍主導の空爆地点を記載)
一方、シリアの反政府軍は、アサド大統領に敵対するトルコの支援を受けている。
トルコ政府は、米軍主導の有志国連合がISへの攻撃を行うために、自国内の空軍基地の使用も認めている。
(関連記事:シリアでの終盤戦、ロシアの戦略とは? http://www.bbc.com/news/world-europe-34474362)
(関連記事:シリア危機、関係各国の立場とは? http://www.bbc.com/news/world-middle-east-23849587)
(日本語訳:http://anond.hatelabo.jp/20151127023940)
プーチン大統領は、撃墜されたSu-24は「脅威ではなかった」と主張するとともに、火曜の出来事は「重大な影響」をトルコにもたらすだろうと警告した。
また、該当機はラタキアでISを「予防するための攻撃」に参加していたとした。
さらに、ISの支配地域から大量の石油がトルコに運び込まれ、それがISの重要な資金源になっていることをロシアは確信しているとも述べた。
「これはテロリストの共犯者による裏切り行為だった」とプーチン大統領は述べた。
確かに、トルコの方針はシリアの反政府軍に参加する兵士と武器の領内通過を認めており、その行き先にはIS支配地域も含まれる。しかし、当局者はISを支援するものではないとしている(動画リンク:https://www.youtube.com/watch?v=iAcqY0UJvEY)
また、シリア反政府活動家達は、墜落現場周辺でのISの活動は極小か皆無であると言明している。
(画像:NATOはロシア機撃墜事件後、トルコと緊密に連絡していると発表した)
NATO加盟国がロシアもしくはソ連機を撃墜したのは、1950年代以来である。
NATOの意志決定機関である北大西洋条約機構理事会が緊急開催された。その後、事務総長イェンス・ストルテンベルグは次のように宣言した
「我々はトルコと一致団結しており、その領域保全はNATOによって支援される」
(動画:レジェプ・タイップ・エルドアン大統領「今回の行動はトルコの交戦規則に完全に一致したものだ」)
トルコ大統領レジェプ・タイップ・エルドアンは、「誰であれ、トルコがその国境線を防御する権利を尊重するべきである」と警告した。
He also noted that Turkey's actions were fully in line with the new rules of engagement adopted after Syria shot down a Turkish jet in 2012.
さらに、彼は、今回のトルコ軍機の行動は、2012年にシリア軍機を撃墜した後で定められた新しい交戦規則に完全に従っていると述べた。
これは、シリア側からの接近するものはすべて敵対的脅威と看做すとしている。
(関連記事:NATO、その概要 http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-18023383)
http://tm2501.hatenablog.com/entry/syuukatu-kowai
こういう就活に失敗した人がわからないわからないだけ言ってる生産性が全く無い記事にブクマつけてもすっきりするだけで時間の無駄だと思う。たぶんこの人ブログたいとるを見る限り社会人経験がない大学生だと思うけど、就活のおかしさとか会社のおかしさばっかりいうことに頭使いすぎてて自分の課題と向き合ってない。こういう記事ってすごく共感できるかもしれないけど、就活中の学生が変えていくために10年20年単位で時間が掛かる話考えても無駄だと思う。就職して会社を体験してからじゃないとわからないこともあるし、大学生のかたる就活おかしいよ論なんて下手の考え休むに似たりでしかない。
ってわけで俺が就活生の時に読んで参考になった記事貼っとく。この記事にはかなりお世話になった。就活って正解はないかもしれないけど不正解はある。この記事は不正解が何かってことを教えてくれてよかった。
(ここから)
大前提として私と同じFラン大学生が中堅企業を志望する場合を想定してる。大企業に行きたい場合は違う人に聞け。長くなってしまったので、時間のない人は最後の3行まとめだけ読んでくれ。
就活の時に「就活の王道」みたいな本を買って読んだこともあったけど、それで思ったのは「王道を歩めるものは限られている」って事だった。叶わぬ夢を追い求めるのは上位大学や院卒のエリート様だけでいい。自分が小物だと思うんなら、へっぽこな頭を使って賢く立ち回るべきだ。これから「これはやらなくてもいい」ってことを書いていく。俺達は普通以下のところからスタートするんだから、普通の人ですらできないことを一生懸命やろうとしなくていい。普通以下の俺達はあんまり器用じゃない。だから普通の人があれもこれもやってることをおなじようにやったら負ける。俺達は普通以下だからこそやれることを理解して、それだけを集中してやっていくんだ。総合点で負けても、どれか一科目で合格点を超えるように戦うんだ。
2次に大まかな方向性を決める
本当はマーケティングを先にやるべきなんだけど、どうせこれできる学生少ないからできなくても気にしなくていい。。中堅企業なら、選考プロセスの中で突っ込んで話をしていけば十分相手が新入社員に求めていることはわかる。というかそれができない中堅からは逃げろ。一方、大企業志望はそう甘くないから先輩訪問とか頑張るのは必須。
方向性については好みの問題だけど、一例として私の場合は「こんな時期だからこそ」守りを固めるべきだと思う。絶望的な戦況で歩兵で突撃するのはあまり好ましくない。撤退戦のような意識で、絶対防衛ラインを意識しながらそこに戦力を集中させるべし。避けるべき企業はしっかり避ける、その標準をしっかりつくっておくことおすすめ。地力で波を乗り越える力がない小物であるFラン組は、しっかり今のトレンド把握して、絶対に流れに逆わないように気を付けないとな。とにかく、入ったらしばらくはやめなくて済みそうな所を選ぶ。そんな贅沢言ってられないという奴がいるかも知れないけど、本当にここを第一優先にするなら、いくらでもあるよ。ただし中堅に限る。
学生どころか採用側でさえ今だに勘違いしてるところあるけど、今はタグの時代だ。今でも人間性とか総合力で採用担当者をうならせる学生がいるのは確かだろうだが、それは例外だと思え。少なくとも私らFランには関係ない戦略だ。もっとミクロに攻めていこう。もうちょっとしたらストーリーまで要求されるかもしれないが、これもマーケティング同様出来てる学生のほうが少ないから、まだタグだけでも十分いける。 相手にちゃんと分かる形でタグ貼ってるかい?ニコニコでタグ職人やってる暇があったらまず自分に貼るタグ考えようず。不況だから厳しいって言ってるのに「大企業志望」しかタグ貼ってない学生は今すぐ自害。
ただ、自分にタグ貼るとき、意外と難しいだろ。特にプラス面とか志望動機とか。大丈夫。これはみんな難しいから。昨日ホッテントリに上がってた人(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110106)くらい大学時代に経験積んでれば話は別だけれど、普通に大学生活送ってくるくらいだったらまともに考えるネタすら殆ど無いだろう。この部分で点取れるなら是非とっておくべきで、そのためにNBLなるものが推奨されるけど、ここも必須ではない。むしろ中途半端にやると不正発覚して一発退場だから、ハッタリに自信ないならやめとけ。
ここで1がちゃんと理解出来てる学生なら次やることはわかるな?自分のことくらい自分でちゃんと判断できるって考えないこと。それができるならお前は学生時代グータラ過ごしてなかっただろ?私らは「自分の望みさえ自分で把握できない程度の人間」であることの痛みを今ここで十分噛み締めるべきだ。その上で本当に確実に判断できるものはなにかって考える所からスタートするんだ。そしたら、自分にとって明らかなものは何がある?たいてい「自分が嫌な物」「絶対にやりたくないこと」の方だ。まずそういうタグからでいいからどんどん自分に貼っていけ。
ここで「そんなことはない。俺は自分の好きなことを自分で理解してる」「俺にはこんな誇れるタグがある」って反発できるやつ、あるなら私に文句言ってないでさっさと貼ればいいのよ?ただ、それが勘違いでないことを確認するために「これ仕事でやりたいか?」って質問を忘れないようにな。
当たり前だけが、「私は~が嫌いです」ってタグだけだと企業の人お前のことをいらない子扱いして終わりだ。でも、お前にはこれしかない。そうだろ?じゃあどうする?「これだけは嫌だ」をもっと掘り下げろ。人間自分のいいところを掘り下げられる奴はそうそういないが、悪いところならいくらでもえぐれる。血反吐はいて死ぬ寸前まで掘りつくせ。行き止まりまで掘ったら、ある時急に「俺、これ以外ならいけんじゃね?」という開き直りにも似た清々しい心境になるぞ。ここから「あえて言えば自分がやってもいいことはなにか?」とか「無理やりアピールできるとしたら何がある?」とか考える。タグはとりあえず30個くらいは準備しておこう。
ここで徹底的に自己嫌悪を体験しておくのは面接だけでなく五月病対策のためにも必須だ。絶対やっとけ。ここまでやらないと、ちょっと面接で自分の弱いところつつかれただけで腰砕けになるからな。どうせ自分を痛めつけなければならないなら、自分でやるんだ。他人にやらせると加減がわからないから最悪ぶっ壊される。
4 実践では「すでに自己否定は済ませたこと」は大いに武器になる
面接において、俺たちFラン大は基本的に足切りの対象だ。とにかくFランにしかいけなかったのは甘え野郎だし、こういう奴はやとっても自分可愛さに人の言うこときかないんだろうと思われてる。もともと頭悪いのに、躾からやらねばならん、まして教育など不可能だ、そう思われてるわけだ。だからほとんど機械的に殺しに来る。すごいいじわるな質問をして、答えられなかったら即終了。これは魔女裁判のようなもので「お前はクズだ」と行って、素直に認めたら「クズはいらん」、「クズじゃありません」と答えると「クズのくせに自分がクズであることも認められないとは最悪だな」でDEADEND。一見詰みにみえるが、機械的対応であるがゆえに隙はある。「私はクズでしたが、今はクズであることを悔い改め、御社のお役に立つ人間になりたいと考えています」とアピールすることは可能だ。
ピンと来ない奴のために俺の例を書いとこう。俺はバイトもサークルも全部1年もたずに投げ出すくらい根性なしだった。勉強も全然やってない。経済学部だったけどマクロのマの字もわからない。御社のために活かる大学の知識はありません。かといって遊び上手だったかというと全然。旅行もしてないし特に趣味もない。やってたのはひたすらニコニコ見たりゲームやったり。友達もいないからコミュ力とか全然ない。それでも俺は去年ちゃんと一部上場企業に営業職で就職できた。
何を言ったか?「そのとおり私は不まじめな人間です。その分私は真面目な人では絶対にわからない、ちょっとした退屈とかクレームの元になりそうなことならよくわかります。自分が嫌だと思うことをお客様にも感じさせないような提案をしていきます」とか「他人のクレームとか罵詈雑言には慣れているので、それに付き合うのは平気です。むしろ窓口とかやっちゃうよ」とか。(実際は違う言い方したよ。このまま言ったら相手切れるだけだから注意)まぁ手を変え品を変え営業なら営業、販売なら販売で、増田で鍛えた自虐ネタを使いながら返した。
コミュ力ないのにその場で切り返せんのか、って言うかもしれないけど、この人達どの会社行っても本当に機械的に対応するから慣れる。あと上でやった自己嫌悪に比べれば面接官の圧迫などクソのようなものだ。自分のほうが優位だと思ったら自信を持って返事できるヨ。しかも、面接官の人は、なにか嫌味を言ったときに、それでもへりくだって返せる奴を気に入ることが多いみたいだね。なにはともあれ、3で「絶対いやな事」だけは自分で把握してるから、かなりへりくだる余地はあるし、自己アピールする余地も出てくる。「馬鹿は馬鹿なりに反省してます」とか「僕頭悪いから先輩の教えに素直に従います」ってだけで評価されるんだから楽なもんだ。ある意味東大卒のほうが大変なんじゃないかな。
5まとめ
汝自身を知れ。俺たちFランにできるのは、最悪の環境を回避することに努め、それ以外には妥協せず自己否定を受け入れてでも行けるところに行くことだけだ。途中で心が折れないように、予め自分で折って立ち直ってから挑戦すんべ。Fランだからこそブラック企業に入るのは恥だと思え。