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はてなキーワード: ポリエチレンとは

2024-01-02

anond:20240102100832

塩素系は最近ほとんどないんじゃね?

耐熱性の違いでポリエチレンとかポリブデンとか種類がある

2023-12-07

どちらの環境負荷が高いのだろう?

ジャガイモ適当な大きさにざくざくと棒状に切り、

ボウルでオリーブオイルなどに絡めてから

ノンフライヤーポテトスティックを焼いて作っては食べている私。


ある程度の太さで棒状に切ったジャガイモに油をまぶす工程において、

毎回調理後に、ボウルにたっぷりと付いた油を洗い流すのが面倒だったりする。

ノンフライヤーで焼いている間に洗うから時間的には問題ないのだけれど。


そんな話を友人にしたところ、

「それならポリエチレンの袋に切ったジャガイモオリーブオイルを入れて、シャカシャカすると楽で良いよ」

と、私が今までにやったことがない調理法(世の中ではきっと一般的なやり方なのだろう)を教えてくれた。


そういう調理法があること自体は私も知っていた。

だが、使い捨てビニール袋を使うことは環境負荷が高いのではないだろうかという懸念があり、

その手法をこれまでに取ることは一度も無かった。

ビニールやす環境破壊が加速するとか教え込まれていたせいもあるだろう。


しかし、油まみれになったボウルを洗うとき、結局石鹸を用いる事になるし、

その洗ったボウルを濯ぐときに大量の水を使うわけである。この環境負荷は意外に大きい。

そう考えて比較してみると、ビニール袋を使うことは必ずしも悪ではないのでは?と思うようになったのである


ググってみたところ、それでも石鹸で洗った方が良いのではないかという意見が多かった。

(合成洗剤使用しない前提で、石鹸を使う前提の話や説明がそのほとんどだった。)

環境的な意味では普通に石鹸で洗い物をした方が良い説が多いんだなと理解した。



私は油まみれのボウルを洗う手間から解放されたいので、ビニール袋で調理することを選んだ。

1回2~3円で油まみれのボウルを洗わなくて済むなら、その方が気楽で良いと判断した。

環境のことは考えるのを止めた。(どちらでもそれなりの環境負荷がかかるので気にすることを止めた。)

2023-08-19

(桃移動販売騒動本店住所が事業実体無いところなのはよくある事でおかしくない

桃の軽トラ移動販売車は皆盗品だ!と吹き上がってる件に対して電脳塵芥が反証してる件で

https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2023/08/19/040000

/\

 高 マークのは高山青果の車であってれっきとした業者だ、と言いつつ、表示されてる住所がマンションで、階数表示無しでなんか怪しいって感じで自信無さげ。

でもああいう風に本店住所が事業実態ある場所じゃないっていうのは非常に多いので多分これも問題ないと思われる。

創業時に社長の住所で登記する→事業軌道に乗って別にオフィス工場本社にするが登記簿はそのままっていうケースは中小企業でとても多い。勤めてる会社オフィス本店住所だと思っていたら、実はどっかの住宅街だったとか。

普通取引先が登記簿照会とかしないし。登記変更は3万程度で出来るが普通の人はおっかないので司法書士に依頼する。その金が掛かる。なので放ったらかしが多い。

 

あと、ここは求人サイトにいつも募集を出しているみたいだ。

https://cys17tx6n.jbplt.jp/recruit/1655000/

それによると勤務地は高島平板橋青果市場であるとの事。

ってことはこれは仲買人か買出人ではないだろうか?つまりは番号か屋号が書かれた市場帽子持ち。

青果市場通してるとなるとこりゃプロパーなわけでますます問題無い。 

 

因みに電脳塵芥管理人氏がエントランス写真を撮ってきた件のマンションなんだが、板橋市場の隣なのよね。道はさんだ反対側が市場。そして板橋市場と同時に出来てる。

田んぼしかなかった高島平区画を整理して昭和47年高島平団地、板橋市場が同時に出来るんだが、このマンションも同時に出来ている。

大家さんかどうかは登記簿取れば判るが今回はそこまではやっていない。

 

ですから電脳塵芥が言うようにこの業者が盗品を売っている可能性は無いと言い切れる。とんでもない名誉棄損であろう。

 

 

 

最期にどうでもいいトリビア開陳して終わる。

桃とか柔らか系の果物には網状のクッション材をはいている。これはネットキャップという。

普通ならこういうのは発泡スチロール製だ。だが果物用のネットキャップは発泡ポリエチレンというちょっと珍しい材質を使っている。

これは、みかんレモンなど柑橘類の皮に含まれるリモネンという成分がスチロール樹脂を溶かしてしまうからだ。皮を折ると「ピュッ」と小さい飛沫が飛ぶが、これに含まれるのがリモネンだ。

「天然の力で汚れを落とすオレンジ洗剤」みたいな製品に入っているのもリモネンだ。こいつはトルエンとかアセトンかに似た感じのやつだ。

ポリエチレン溶剤安定性が高いので果物ネットキャップはこっちを使うわけだ。

身の回りにある透明なプラスチックで安い物は殆どがスチレン樹脂なので、レモンを置いておくと穴が開いてしまう。冷蔵庫トレイとか注意である

2023-07-30

増田がおススメする「一般キッチン用と認識されていないが使うと捗る便利なグッズ」

雑貨屋などでキッチンコーナーに置かれていないが実は使うと効率アップするアイテム類を紹介するよ!

https://anond.hatelabo.jp/20230729092726

 

カッパギ/水きりワイパー

窓を掃除する為の水きりだが、これをキッチンに常備すると捗る

まな板食中毒防止の面から調理中頻繁に洗った方がいい。だが水を切るのが面倒くさい…

そんなあなたにはコチラ、カッパギ、若しくは水きりワイパーです。まな板を洗った後にカッパギを掛けると直ぐに次の調理に取り掛かれる。時間ロスゼロ

元々はyoutube漁師マサルが使ってるのを真似したんだが、これが実に便利。特に魚を捌くときは鱗取る→洗う→内臓出す→洗う→おろす、と何度もまな板を洗う必要があってメンドイ。しかも水を残すと肴の身が水っぽくなる。でもカッパギ使えば水に残らない。

更に「シンクの高さが合わなくて背が高いと腰が痛い」問題解決だ。まな板を載せる面台の方でゴシゴシすればいいからだ。残った泡はカッパギで瞬時に処理できる。

 

清掃用のゴムブレードのものは、劣化してくるとゴムがはがれやすくなり、コンパウンドの黒いのが残ってしまうようになって不潔だ。だからシリコンブレードのものの方がいい。

100均などでもシリコンブレードのものを扱っていてこれだと劣化して来たら廃棄しやすいので清潔を保ちやすいのでおススメだ。

 

マグネット付きクリップ

ロッカーホワイトボード書類を貼るやつ。レシピを貼るのに使う。

 

重曹

油汚れにはこれ。大量に使うので1kgとかの単位で買っておく。

カレー鍋を洗うとスポンジがダメになる問題もこれで解決。因みにカレー鍋の汚れがしつこいのはカレールーに口当たりを良くするために大量の油が含まれいるから。だから油を重曹浸け置きで分解しておけば掃除が楽なのだ

焦げも重曹浸け置きでかなり楽に落ちるようになる。

 

また冷蔵庫匂いの吸着にも使える。だから冷蔵庫に入れて着臭→それを清掃に使うというサイクルが良い。

また使い終わったスポンジは重曹+熱湯に浸け置きで消毒する。

 

ペンティアム/K6-2プロセッサ

この二つは今のCPUと違ってパッケージセラミックになっている。これでこびり付いて白くなったスケールを落とすのである。因みにこのスケール金属石鹸で、水道水中のカルシウムとその他ミネラルが合わさったものになっている。

因みにペンティアムK6-2も金が多く含まれているので、まとまった量を電子回路も扱うスクラップ業者に持ち込むと金価格高騰の今日結構な買い取り額になる。

 

サーバーCPUクーラー

解凍する時にサーバー用の巨大CPUクーラー冷凍品の上に載せておくと早く溶ける。更に扇風機を当てるとあっという間だ。

ゲーミングPCPクーラーでもいいが、ヒートパイプや銅芯が使われがちでそれらからイオンが流れて銅中毒になる可能性があるからアルミだけのクーラーじゃないとダメだ。

 

サンポール

トイレ掃除用の塩酸酸性洗剤だ。

夏の魚の内臓は痛みやすく、一日経つと爆臭になる。しかも死臭に近いヤバい臭いだ。

そこで、ビニル袋に魚の内臓を入れたらサンポールを振り入れて揉む。

すると腐敗臭が止まるのだ。

これはネットのどこかで腐敗現象とその阻害を理論だてて検証したblogがあったのだがURLを忘れてしまった。

酢でもいいのだが反応が悪く臭気は弱まるが夏の内臓腐敗速度には負けてしまう。その点サンポールならばっちりだ。

内臓を入れた袋をゴミの日まで冷凍するという方法もあるが、ゴミの日に忘れてしまうと悲惨なのでこっちをやっている。

 

0.04mm厚のポリエチレン

夏の生ゴミ臭気対策に。

ニオワイナ等の製品もあるが、そこまで完璧ではない。0.03mmのポリエチレンと0.04mmのポリエチレン中間ぐらいの性能だ。そして厚いポリエチレン袋の方が安い。

但し普通スーパー等には売っていない。業者向けにビニル袋や弁当惣菜パックを売る風袋屋で調達する。

 

ボッシュGWS7-100E型ディスクラインダー

シンクレンジ台が薄ら汚れている時に鏡面処理する為に使う。一度サンディングディスクで削ってからコンパウンドで磨いていく。

機種指定していいるのは、電子制御で速度調整が出来るからだ。普通のグラインダーでは速すぎる。だが、安物の速度調節機では回転を落とすとトルクも落ちてしまう。そこでトルクの落ちない電子制御のこいつだ。

ヘアライン加工にする場合にはざっと鏡面にした後に定規を当てながら真っすぐにサンドペーパーを動かしてヘアラインを入れていく。

高級システムキッチンなどは高品位な砂地処理がされているので鏡面はやらない方がいい。

ステンレス鍋もこれで何時でも新品以上の鏡面を保てる。ステンレス鍋に中古存在しないのだ。あるのは手入れが悪い鍋と鏡面の鍋のみである

 

ギアプーラーバイスグリップ

バイスグリップは掴んだままロック出来るプライヤー、ギアプーラーは圧入されたギアベアリングを抜くための工具。

換気扇シロッコファンはテーパー嵌合されているので掃除をサボっていると抜けなくなる。こういう時にファンの真ん中をバイスグリップで掴み、真ん中のモーター軸をギアプーラーで押してバイスグリップを引っ張る形で抜く。

抜けたら思う存分フィンを掃除する。フィンについている鉄のクリップは回転バランスを取ってあるので捨ててはいけない。

フィンを掃除すると羽根形状が適正に戻るので吸い込み力が強力になり、バランスが出荷時に戻るので静かになる。

 

スバーナー

炙り料理に使う。焼き目を付ける時に失敗しにくい。

実はこびり付いて酸化した油の除去にも抜群に効くのだが、これはやらない方がいい。レンジフードの油の焼き切りで出火させてしま料理屋は結構いからだ。

和包丁の握り柄を交換するのにも使える。刃に温度が伝わると焼き入れがパーになって鈍らになるので、びしょびしょに塗れたタオルを刃にぎゅっと巻いて柄に入る部分を手早く熱する。赤くなったら新しい柄に突っ込むと木が火を噴くが、丁度いい形に穴が変形する上に焦げた木は腐りに強くなる。

 

滑り止めマット

包丁を研ぐときにずれてしまう、小麦粉を練っている時にまな板などがずれてしまうなどのイライラを解消する。

 

放射温度

天ぷら油の温度管理ホットケーキなどフライパン温度管理冷凍温度確認等に使う。

特に一度確認しておきたいのが冷凍温度で、個体差があり-10度程度しか下がらないものがある。

生食食中毒予防では寄生虫死ぬ温度○○度を何時間維持という項目がある。冷凍温度があまり下がらない機種だと冷凍したのに食中毒という結果を招いてしま場合があるから確認すべきだ。

 

マンガ雑誌新聞

錆びやすい鋼の包丁を洗ったらぶっ刺しておく。すると水気も吸い取られ、インクの油分で錆も発生しない。何より防錆油塗るより楽。

包丁

一般的キッチン用品の話をして申し訳ないが、包丁は高炭素ステンレス三徳白紙出刃+白紙柳がおススメだ。

炭素ステンレス割り込み材がV金10号やマルテンサイトSUSのもの。よく切れる。値段は4000円から

白紙刃物鋼でこっちも4000円から

料理人は和包丁を買う時必ず出刃、柳、菜切(なっきり)の3本セット以上で揃える。出刃は固いものを裁つのに、柳は刺身を引くのに、菜切は野菜を切るのに。また、包丁修行の中に「菜切で大根をひたすらかつら剥きする」というのがあるので菜切は必須なのだ

でも素人には三徳の方が使いやすいし、特に解凍状態の肉類を鋼で切ると刃が欠けてしまう。その点ステンレスは丈夫なので三徳はそっちの方がいいのではないか。高炭素刃物鋼は他のなまくらステンレスと段違いなのでちゃんと鋼材を確認して買った方がいい。

貝印の助孫六スーパーでも手に入りやすいが高炭素刃物鋼を使ったものはかなり割高でスーパーでは扱われない。その上に、和包丁の敵である自動研ぎ器にも助孫六ブランドを付けて売っているのが信用ならん。片刃和包丁を研ぎ器に掛けると一発でお釈迦だ。

 

まずはまな板洗いが苦ではなくなるのでカッパギを使って見る事をおススメする。

料理工業だ!

2023-05-10

anond:20230509181908

ほっとこうかと思ったけど明らかに悪影響ありそうなんで書いとく。

ペットボトルなんて全然安定じゃない。まじでやめろ。全国の工場事業所がどれだけ薬液をペットボトルに入れてやらかしやらかされてるか。ちなみに誤飲する危険性もあるからまじでやめろ。

大人しくポリプロピレン(PP)かポリエチレン(PE)の容器を使ってください。ポリスチレン(PS)も百均でよく売ってるがダメだぞ。

あと触れると脱水作用で炭化するのは濃硫酸やろ。アルカリで炭化なんて聞いたことないし見たこともない。

2023-02-21

いやポリエチレン別に有害物質が出る類のものではないので、焚き火焼き芋焼くのに使うのは問題ないでしょ。

https://togetter.com/li/2085027

ポリエチレンは体内で消化されないので、間違えて食べてしまったらそのまま出てくるのを待つしかない。普通はそのまま出てくるので大抵は何の問題も起こらないけど、万が一体内で詰まってしまうと(腸閉塞など)怖い病気に繋がりかねないから危ないよね、くらいの話かと。(あとは耐水性が損なわれて中身が零れたりとか?)

2022-05-15

anond:20220515215526

ラーメンとかならうすくてピチッと密着するポリエチレンラップの方が使いやすいだろうな。乾燥とか関係ないし。

寿司屋ポリエチレン使ってるのはあほかと思う

anond:20220426115442

サランラップクレラップ(塩化ビニリデン)と安いラップポリエチレン)では機能的に別物。

プロが安いラップを使うのは無知で安い方を選んでるだけだよ

2021-11-25

anond:20211123155359

別にBOSじゃなくてもポリエチレンならにおいはもれないっぽいよ

2021-11-14

anond:20211114095853

手袋管理って結構大変だよ。台所で使うのはポリエチレン使い捨てかな。

多少手袋しても結局ハンドクリームを使う女の作る料理お茶からハンドクリームの味がする呪いからは逃れられないよ。

塩ビの丈夫な手袋は、こんどは手袋自体をきれいに洗う作業のむつかしさがあるんだよな。

2021-09-01

はてな民不織布マスクをどう評価するのか

不織布マスク代表的な素材は大抵の人がPET(ポリエチレンテフタレート)であるということを認識しているとは思うけど、その構造上どうしてもマイクロプラスチック副産物として出てしまい、それが呼吸によって肺へ侵入することを防げない。
一部の喘息持ちにはこの上なく危険な代物であるが、布マスクの飛沫防止性能が不明瞭だったときマスク不要論を一部はてな民提唱してしま事態へ陥ったのと同様に、布マスクやウレタンマスク比較して不織布マスク絶対視するような言説が現在目立っている。

かに不織布マスクの飛沫防止性能は高く、COVID-19ウイルスへ対する気軽な防御方法として非常に優れているが、忘れてはいけないのが不織布マスク自体健康に何ら影響を及ぼさないとは誰も言ってない」ということだ。

かにマイクロプラスチックの人体への影響はいまだ研究途上で正確にはわかっていない。しかし、粉塵が人体へ対して与える影響はわかっている。いわゆるじん肺だ。
一時期は不織布マスク市場から枯渇したものの、現在は非常に安価不織布マスクが大量に出回っているが、その品質一定でないことは少し考えれば誰にでもわかる。
アナタが着用しているその不織布マスクはどうやって品質比較して、そしてその不織布マスクを選んだのか?
品質不織布マスクじん肺、病床へふせっているとき肺炎リスクを高めるであろうことは想像に難しくない。

他にも指摘できる問題はある。
タバコポイ捨てなどで環境美化が損なわれると指摘され続け、現在ではタバコポイ捨てを見るのは1990年代に比べて非常に少なくなり、万が一ポイ捨てがあってもタバコ業界フィルターまでも自然へ還るようにした。
しろコロナ禍の現在自然へ還るようになったタバコポイ捨てよりも自然へ還らないPET素材の不織布マスクポイ捨てが目立つことは誰にも否定できないだろう。

さぁ情報強者はてな民よ!
PET不織布マスクを根絶し、自然へ還る植物由来の生分解性プラスチック素材の高品質不織布マスク市場供給するよう求めよう!

2021-08-02

anond:20210802153203

すでに別の微化学増田からつっこみはいってるから添削するね

サランラップの役目は、微生物をふくめて一切のホコリを入れないことと湿度を保ち乾燥させないこと

サランラップの素材はポリエチレンではなくサラン樹脂、ポリ塩化ビニリデンに、可塑剤を練り込んだもの。なお安い代替サランラップはだいたいポリエチレンで合ってるのだ。

チレンガスのエチレンを重合(合体)させてとても密な化学繊維ごく普通の(酸素もすかすか通す)高分子化合物になってる。(ちなみにペットボトルポリエチレンテレフタラートという、ポリエチレンの強化版ではないぞ。名前が似ているだけで酸素遮断性や結晶性なども全く別ものだ)

食品が悪くならなのは微生物に触れさせないかだけではない、酸素にふれさせ温度をあげるだけでも魚油醤油などはあっさり痛む。卓上醤油はこの季節は真っ黒になるぞ。一応、レトルトカレーや瓶詰め(未開封)であれば微生物酸素遮断でOK。その場合原理はルイパスツール実験と同じ。

パワーワード続出すぎて塩化ビニリデンの話にふれられなかったんだけど、ポリエチレンと似てるけど香り酸素については多少有利とされている。

けれど、なにより売れているのは容器にぴたっとくっつくその点だけ。

ポリエチレンでも、「フタ」でも効果はほぼおなじやぞ。

anond:20210802124407

サランラップの役目は、微生物を入れないこと。サランラップの素材はポリエチレンだ。エチレンガスのエチレンを重合(合体)させてとても密な化学繊維になってる。(ちなみにペットボトルポリエチレンテレフタラートという、ポリエチレンの強化版だ)

食品が悪くならなのは微生物に触れさせないから。原理はルイパスツール実験と同じ。

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005300448_00000

2020-06-11

anond:20200611131025

いまや標準装備となった不織布マスク、その原材料は何か知っていますか? 主にポリプロピレンポリエチレンといった石油原料の化学繊維が使われており、それらはマイクロプラスチックとして海洋流出問題となっている素材です。2020/05/18

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 どんな記憶忘却可能性を含んでいて、それがいか尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである

 とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。

 これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。

 あるいは、死んだ猫の重みを人生最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。


 人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。

 猫は突然死ぬ

 重要命題である

 だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身精神的にタフにならなければならないのである

 して、タフな人生を生き延びるために重要資質とは何だろうか?

 僕が思うに、恐らくそれは一種判断能力である。つまり重要もの重要でないもの区別する為の判断能力である

 この世界において、重要もの重要でないもの比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである重要ものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生もっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。

 そう、我々が人生を全うする為にもっと重要能力は、数少ない重要物事出会った際に、その重要出来事を迷わず掴み取る能力なのである

 タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。

 人物だけではない。記憶に関しても同様の態度を取ってきた。

 我々の心の中には無数の記憶存在している。その多くは、断言するに無意味記憶に過ぎない。病院記憶体育館記憶商店街記憶――はっきり言って、その殆ど無駄記憶だ。重要記憶というものは一握りしか存在していない。

 我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味記憶無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要ものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生無意味事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである

 書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ

 はっきり言おう。

 これから語る記憶は、決して僕の人生重要ものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。

 

 大した記憶ではない。

 道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手ゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。

 通り過ぎる。

 川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。

 階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。

 鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。

 薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンへと戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし、それはあくま一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-10

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 記憶というもの原理的に忘却可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。

 例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。

 これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。


 タフな人生を生きようとする人間功罪の常で、僕は重要記憶とそうでない記憶峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。

 僕は自分にとって重要物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要人間とそうでない人間峻別できると思っている。そこが功罪なのである人間自分にとって重要人間とそうでない人間並置し、比較し、時に冷徹判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。

 さて、そんなこんなでこ記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。


 大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。

 さて、帰宅する。薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンに戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2019-12-28

anond:20191228214509

・8割は下ごしらえもせずに冷凍された肉パックとかだから選ぶ余地はない

・選ぶ余地がある=凍らせるときのことをたずねているのであればオレンジページに毎回載ってる冷凍テクニックジップロックにひらたくいれて箸でおさえるとか)やればいい、とにかく解凍やす

冷蔵庫から出したおかずを温めたいのであれば陶器食器お茶碗か丼が洗い物が増えなくてよい

金属は当然ダメ陶器に金の縁取りがあるものもだめ、はみ出す・吹きこぼれるようなものダメ、蓋にラップをつかって脂がくっつくととけて気分が悪い

・タッパーというかスーパーにあるポリエチレン箱はある意味万能な最適解だけど角が角ばっているものは「洗いづらいから嫌い」派と「場所無駄にならないから大好き」派がいる、食洗機使うなら洗いづらさが関係なくなる、すくいやすさでカレーやつぶしアボカドなどスプーンで取り出すものは丸型容器、刻んだ万能ねぎやクシガタレモンなどは四角とかが定番じゃねえかなぁ

・正直、水分が偏ったものはどういう形においてチンしても水分がたりない部分から焦げる(そのためには濡らして蓋や密閉つけて蒸す)庫内の電波は庫内壁には乱反射されれるが、食材の水分のない部分は透過する。つまり水分があれば均等に水分から吸収される仕組みなので厚さ薄さはあまりかんけいない。そこが蒸し器とは違う。

とうもろこしの皮と卵の薄皮も金属に近いくら電流がながれて危ない(もちろんトマトのような水蒸気爆発もあるが、焦げ、燃えも発生しやすい)。パンも水分少なめなのでご飯の10分の1の時間でやらないとすごくかたくなる。

・あとは経験つめば自然とわかる

2018-06-06

anond:20180606182721

日本じゃマルチっていうとポリエチレンマルチシートのことだけど、もともとの意味有機物で根際を覆うことだからな。腐植で土寄せするようなのも、もともとはmulch。

これ豆なって書こうと思って、そういや豆に土寄せする時期だと思った。

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