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「こんなはずじゃなかった……」 新入社員を悩ます“ガチャ”の正体
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2205/30/news010.html
例年なら新しい環境に適応できずに心身に不調が現れる「五月病」の時期だが、近年は「配属ガチャ」「上司ガチャ」に頭を悩ます新人も増えているという。
配属ガチャとは、入社時の配属先がどうなるのか分からないことをソーシャルゲームの「ガチャ」になぞえたもの。希望の部署は配属された場合は「アタリ」、そうでない場合は「ハズレ」。
運良く希望部署に配属されても、ちゃんと指導してくれない、あるいは先輩や上司の高圧的な態度についていけない「上司ガチャ」に悩む新人もいる。“ハズレ”を引いてしまったら早期離職の引き金になる可能性もある。
配属ガチャ問題はネット上でも「希望していた仕事ができるものと思っていたが、全く違う部署だったのでがっかりした」「実家から通勤できると思っていたが、入社したら地方の営業所に配属され、転職を考えている」という声も挙がっている。
産労総合研究所が実施した「2022年3月卒業予定者の採用・就職に関するアンケート」によると、配属(職種・勤務地)に関心がある学生は企業の採用担当者の回答では「増加」が20%、「やや増加」が40%。計60%が増加していると答えている。同様に大学キャリアセンターの回答でも63%が増加していると答えている。
その背景には何があるのか。
大学でキャリア教育を担当している講師は「取りあえず配属ガチャを避けたがる学生が少なくない。『一生この会社でお世話になりたい』と思うほど、企業に対する信頼度が低くなっている。『長く勤めたくても、そんな時代ではないんでしょ』という感覚が大きくなりつつあり、やりたい仕事でキャリアを積みたいという思いがある」と解説する。
実際に前出の調査によると、学生に入社予定の企業で「何年程度働くつもりでいるか」という質問では「できるだけ長く」が45%と多いが、5年以内に転職を考えている学生が25%、10年以内では36%に上る。
つまり現在でも、学生では「できるだけ長く働きたい」と思う人が多い。しかし、「そんな時代ではない」という不安から、配属で失敗せずに自分に合った職種、やりたい職種を新卒時から経験したいという意識が高まっている。
令和になり祝日の移動がなされた際、カレンダーから6月と12月から祝日が消えるという事態が発生した。 ただでさえブラック企業によって休みの無い日本に、祝日そのものが減らされるという異常事態になったため、逆に増やすべきとしてこの案を作り上げた。
祝日の増加だけでなく、ゴールデンウィークやシルバーウィークなどにおける長期休暇等の再整理も同時に行う。 これは五月病及び九月病の問題が発生しているため、それを防ぐための再整理ということになっている。
個人的には1年の中間ということで第3水曜日とすべきと思っていたが、難しいのもあるので月曜日とした。 祝日名はブラックカントリーである日本を最大限に皮肉るため、あえて「ぐうたら感謝の日」としたが、真ん中ということで「時計記念日」と無理くり与えることもできるだろう。
2020TOKYOで祝日が消えることが判明したため、1日以上を確実化するために設けられた祝日。 この月は神無月ということで、八百万の神々に感謝する「神様感謝日」と名付けた。
天皇誕生日がそのまま祝日にならなかったため、「正月準備日」として祝日化したもの。 当初は第3金曜日等に予定していたが、クリスマスやら年末年始の業務多忙も懸念されたのであえてこの日とした。
よく「12月には大晦日があるじゃん」というクソアンサーは、遊園地やゲームセンターなどのアミューズメント施設には通用しない。 ディズニーやユニバ、各ソシャゲやネトゲなどのスタッフが一揆を起こしたらどうなるか想像せよ。
春分の日の位置によっては3月から祝日が存在しないため、「さくらの日」や「雛の日」とでも追加する。
昭和の日が土曜日にめり込む可能性があるのと、新人が休暇というのを経験できるタイミングとして。 この日を「さくらの日」としても良さそうで、他の候補としては「おはなの日」と指定する必要もあるかもしれない。
山の日である8月11日が土曜日にかぶってしまうことを考慮し、どっちが土曜日になっても大丈夫になるように。 一応この日は「終戦の日」でもあるが、他候補に「お盆の日」でも何ら問題はないだろう。
どちらかを5月の第2月曜日にまわしておき、もう片方は4月第2金曜日等に移す。 こどもの日を第2月曜日とし、みどりの日を3月の第1金曜日とする。
現在の日本では祝日がちゃんと機能していないクソ祝日にしかなっていないという状況が非常に続いている。 大晦日でも元旦でもゴールデンウィークでもシルバーウィークでも天皇誕生日でも連休でも社畜は「私は仕事デース!!!」と叫ぶ。
この状況を見ても、政府などはモチベーションアップばりの屁理屈を定義するため、結局のところいたちごっこにすら発展しない。
結果的に世界的に祝日が多くても休めてなければ何も意味はない。 というか世界的に本当の休暇を得ているのかという観点で言うと、先進国内では最下位と言っても過言ではない。
人間の成長ってそういうもんなのかもしれないなってふと思った。
昔教職を取るときに習った発達心理学か何かでは子供はまずお母さんべったりからスタートする。
その後、お父さんなどほかの家族を探索する。
その次に親が見ている前でほかの子供と遊ぶというフェーズが来る。
そのうち親から離れて遊び、ちょっと不安なことがあると親元に戻ってくるというのを繰り返すとなるらしい。
結局は探索する距離が大きくなり、離れていられる時間が長くなるだけで人間はこれを繰り返しているのかもしれないなと増田の投稿を読んで思った。
2020/1/19(コロナ前)
去年結婚した。結婚に伴い、新卒より働いていた会社をやめ、福岡に越してきた。Web系に再就職したが、給料が安い。自分で選んだとはいえ、みじめだ。仕事はキツくないが、常に追われている感じはずっと続いている。根底には常に焦燥感がある。これならば、前職と変わらないではないか。むしろ、前職の方が良かったかもしれない。
福岡に来て、友達と遊ぶ機会がなくなった。代わりに夫と過ごす時間が増えたが、既にマンネリ気味だ。
他者との交流の代替なのか、kポップのペン同士で交流にのめり込んできた。はじめは、EXOが好きだった。今も好きだけど、どちらかというと、フォローしている人とやり取りするのが楽しくなってきているのかもしれない。一度もあったことがないのに、ツイートを見て、リプライして、現実の友人よりプライオリティが高くなっている。情けない話だ。
プライドが高いせいで、フォローしている人と自分を見比べ、渡韓できないのが悔しくなってしまっている。〇〇がしたい!と思っても、夫の目が気になったり、実際に止められれて、出来ないことが増えた。一人暮らしをしていた時より、不自由なことが増えて、ひとりの時間もなくなり、「結婚とはなんだったのか?」と考えるようになった。
結婚すれば、必ずしも幸せになると盲目的に信じてたわけではないのに、今直面している現実を受け入れられない。不幸なことに、私は金銭的な理由で、離婚なんて決断はできず、おそらくずっとこのままだ。
この状況が好転することはあるのだろうか。薄々気付いているのは、どんな状況でも不平・不満は必ずあると知っていること。それを承知の上で、この先もずっと、この不幸は続いていくのだ。
来年こそはイギリスに行こうと思ったとき、私に来年があるのかと思った。自殺はしないだろうから、来年はあるのだけれど、自由に出来る身体なのか、自由に決断できる環境なんだろうか。
あの時はこんなことを考えるようになるなんて、思いも寄らなかった。新しい人生の始まりに胸がわくわくしてた。まさに、一寸先は闇。
「終わった」人生は、とても味気なく、何のためにこの先も生きていかないといけないのかと考える。いや、考えないようにしてるが、もはや私の人生を生きていた時の気力はなくなった。
顕著なのは、外見がそこまで気にならなくなったこと。そこで、カンフル剤のように私の人生に、喝を入れているのが、EXOだから、これはもう宗教なのかもしれない。
中高での毎日の礼拝は何も響かなかったが、今なら懸命に祈るかもしれない。どこに向かって、人生を進めているか分からない者にとって、キリストの教えは羅針盤のように道を照らしてくれる。古くから人々が宗教にすがってきた理由がよく分かる。
この先もずっと続くであろう鬱々とした私の人生の霧が晴れることはあるのだろうか。それとも、「諦めが肝心」と自分を納得させるしかないのだろうか。おそらく後者であるが、現状を打破する方法が皆目検討つかない。いや、わかってはいるが、怠惰な自分がそれを選んでこなかっただけだ。
いつから、私の人生は終わっていたのだろうか。絶頂期をすぎ、暗く長い坂をゆっくりと転げ落ちている。行き着く先は地獄だが、あまりにゆっくりとしたスピードなので、到着地が地獄なんて気付かなかった。まあ、人生なんてそんなものなのかもしれない。
結局死に向かって突き進むほかないのだから。
この日常に耐えきれなくなったら、その時、また人生について考えようと思う。
2020/1/19の私の日記は、私にしてはよく書けていて思わず感嘆してしまった。
いまの私は五月病なのか、暗い日々を過ごしている。2020/1/19に比べ世界は大きく変わった。大袈裟ではなく、あのコロナウイルスによって生活様式が一変した。「世界が変わった」と言っても差し支えないはずだ。
私自身の環境も大きく変わった。生活を良くするために仕事を変えた。元鞘に戻ったというのだろうか。住むところも変わった。
なのに、この憂鬱な結果はなんだろうか。
ずっと纏わりつく閉塞感、無気力感。当時感じていた強い絶望感はないけど、じわじわと私の気力を奪っていく。何をしても楽しくない。何も食べたくない。もはや人生の目標なんて考えない。目の前の時間を問題なく過ごすことで、いっぱいいっぱいだ。
八方塞がりに近く、ただ日々の時間が過ぎるのを待つ人生。これが、これからも続くのだ。ぞっとする。
コロナで死ぬと遺体となっても、家族と対面出来ないまま灰となる。それは、あまりに酷だ。私は魂の救済や輪廻は信じていないが、遺された家族があまりに不憫で可哀想だ。今までは無かった死に方は、遺された者に多かれ少なかれ影響を与える。なるべくなら、そういう最期は避けたい。
だが反面、不可抗力にも近い形で人生を終わらせることが出来るコロナは、今の私にはとっては福音でもある。恥ずかしい話だが。
あまり苦しまずこの生を終わらせたい。出来れば、交通事故のような突然死ではなく、徐々に時間をかけて自分が死ぬ事実を、家族が理解できるスピードで終わらせたい。
流行りの病で亡くなった事実は、あまりにやるせないが、死に対して一定の説明責任を果たす。本人の精神状態を問わず、運悪く流行りの病に罹患して命を落とした事実だけが残る。精神が鬱屈していたかどうかは関係ないのだ。無視される。好都合だ。
この世界を変えた感染症が収束した時、私の気分は少しでも晴れているといるだろうか。おそらくだが、そこまで明るくなく薄暗いじめじめした中をナメクジのように這いずり生きているだろう。最悪だ。