はてなキーワード: 敗残兵とは
早く滅びろと思っている。
だからフジロックもそうなんだけど、別にその地域を守りたいとか、そういう思いは無いことを認識して欲しい。
都会に出なかったのではなく、出られなかった人間達。
敗北者が子を育て、出ていった人間達に鬱屈とした感情を抱きながら、子を育てている。
目端の利く若者は、ああこいつら他人の足を引っ張りたいクソだなって気づいて出ていくから、残るのは、ますます敗残兵。
地方に残っている人間は8割方、能力か思考力のどちらかが足りてない。
そのループを繰り返して、ついに、もうまともな人間の絶対数が足りなくなった。というのが地方衰退の実情。
だから別に、商店街が潰れるだとか、イベントがないと財政が立ちゆかなくなるとか、村が消滅するとか、都会の人は気にしなくていいよ。
パイズリってあるじゃん、要はパイとパイの間にアレを挟んでシコって貰うアレだ。
エロゲーでも巨乳のキャラがいれば必ずパイズリがある。AVも然りだ。
だから当然ながら、バスケプレイヤーがマイケル・ジョーダンに憧れるように、巨乳好きの俺はずっとパイズリに憧れて育ってきた。
ちゃんとした店だよ。立ちんぼのモンスター相手じゃなくて、予算3万くらいで、ちゃんとしたパイズリをやってもらおうと思ったんだ。
俺は小躍りしたくなる気持ちを抑えながら、「パイズリいいですか?」って言ってのけたんだよね。
そしたらさ、いざやってもらったら、全然気持ちよくねえんだよ!
その日の俺は敗残兵だった。
小遣い貯めて、またチャレンジした。だめだった。
その後、冷静に分析した。
だから当然ながら気持ちよくない。立て板に水が流れるが如しだ。
待てよ、板…板か。
俺は貧乳に当たってみた。でも、だめだった。
そもそもの話俺は巨乳好きだったから。貧乳じゃダメなのは自明の理だったんだ。
今、俺は迷子になっている。八方塞がりだ。
教えてくれ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee
共同通信社は30日、憲法記念日の5月3日を前に憲法に関する郵送方式の世論調査結果をまとめた。新型コロナウイルスなどの感染症や大規模災害に対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%だった。内閣権限強化や私権制限が想定される緊急事態条項新設を容認する声が反対意見を上回った。長引くコロナ禍が影響したとみられる。
改憲なくとも法を生かせば緊急時に行政権限をフル活用できるはず、と思ってきたが、過去の公害の教訓を思い起こしてみると立法・行政の不作為が目立つ。
憲法の制約で権限がないのではなく、あっても使わないのが問題だった。そこにメスを入れるには、行政立法を指導する上位の規律が必要で、「今まさに緊急時だシフトチェンジしろ」
と行政や立法に促す仕組みが必要なのでは。それはひょっとすると憲法の役割なのかもしれない。
という趣旨。
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「内閣権限強化」、これは橋本行革の結果、小泉政権が内閣官房の強化の恩恵を受け、その後、安倍がめちゃくちゃにした経緯から
公害立法の歴史を振り返っても、現行の規制権限は決して弱くはない。立法の余地もある。
実際60年代から70年代にかけて、深刻化した公害に山ほど立法を制定、70年はとりわけ公害国会などと呼ばれた時代もあった。
そうやって公害を克服しようとしてきた歴史の教訓をみても、現在の感染症コントロールの問題が、憲法改正でしか解決しえないとは思えない。
だから、問題はできることをしない、立法不作為・行政権限の不行使のほうで、それを改憲論議にすり替えるのはおかしい、という意見も納得できる。
しかし。
改憲の世論が盛り上がるのは、だからこそ逆に、一理あるのかもしれない、とも思う。
もちろん、行政・立法の性善説に立てば。。という留保はつくが。
というのも、水俣病を例にとって、公害の被害を振り返ってみると。
なぜ今日に至るまで長年、放置されてきたか。長年の放置もさることながら、振り返ると、初期の対応のまずさが際立つ。
漁業法による禁止措置と漁民への補償、食品安全法による有機水銀に汚染された可能性のある魚類の販売禁止、
すべて見送られた。つまりすでに対応可能な法的ツールがあったにも関わらず、被害が拡大した。
こうした行政権限の不行使が最終的に裁判で争われ、最終的に結審したのは2004年。
国は高度経済成長をとめたくないがゆえに、規制権限を行使しなかった、というのが結論。
1970年代、公害の社会問題の深刻化を受けて山のように公害立法が制定されたが、それ以前の問題として
そもそも1950年代、すでにある水質二法等で権限行使できただろが、という。
法の不備ではなく、繰り返すが、すでにある法を使いこなせなかった行政の責任が厳しく断罪されたわけだ。
ここから導き出される本当の教訓というのは、規制権限があったにもかかわらず
なぜ初期の対応がこれほどまでに、被害者をないがしろにしたものになったか、という問題。
そこには、何か異常な事態が発生したときに、立ち止まって物事を考え直す、
シフトチェンジの仕組みが欠落していたともいえるのではないか。
かつて辺見庸は、地下鉄サリン事件の際に、丸ノ内線の駅構内で、人々がバタバタと倒れているなか、
通勤している乗客が枕木でもまたぐかのように出口へ向かった光景について
非日常的なことを目の前にしても、脳が適切に処理できず、
惰性で日常の論理で動こうとする「慣性(イナーシャ)」が働いているといったが、
ここ一年を振り返ってみると、そういう政治的な意思決定がかなりよくみられた気がする。
この問題が解決されない限り、改憲による緊急事態条項の検討など、全く意味をなさない。
日本は、意思決定の仕方、会議の仕方を根本から見直したほうがいい。
いや、だけど一方で、
緊急事態条項のようなシフトチェンジのトリガーがないからこそ、漫然と経済優先で動いてしまうのか?という疑問も頭をもたげる。
どっちなのだろう。
そんなことを思い出したのは、さっき、尾身会長のインタビュー記事を目にしたからだ。
尾身茂氏が語った「マスクを外せる日」「3回目の緊急事態宣言なんて聞く気になれねぇ」への意見 | 文春オンライン
――東京都墨田区や長野県の松本医療圏など、基幹病院と支援に回る地域の病院や医師の連携が回っている地域の取り組みも報じられているが、厚労省は、こうした体制づくりのため各地の医師や民間病院に強い指示が出せないものか。
尾身 医師や病院に対して国が強い指導力を発揮する英国のような仕組みとは違い、日本の厚労省というのは公立や民間などさまざまなステークホルダーの意向を尊重する必要があって、上から目線ではいわない。平時はそれも大切ですが、危機の局面ではどうなのか。この機会に考えてみる必要はあります。
――医療提供体制の拡充やワクチン接種準備で、国民が納得するだけの結果を示せないことに国民は苛立ちを感じている。強権的なイメージが強い菅義偉首相だが、結果を示せない理由は?
尾身 それは政治のことだから、私にはわかりません。ただ、総理大臣は、いろいろなことを今、四方のことを考えなければいけない立場にあるんでしょう。そう思います。
これが明確な意思決定メカニズムとして組み込まれていないことが、水俣病の初期対応の問題ともつながっているように思えた。
それを可能にするのは、規制権限の強化と行使、という既存の立法・行政機構のあり方の、もうひとつ上段の制度として構築する必要があるのかもしれないといえなくもない。
改憲への渇望というのは、案外、そういった視点で考えることも可能ではないかとふと思った。
危機対応専門の省庁を創設する、というのもひとつの方法。非常時のガバナンス体制を整備する。
米国のFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のように。
そうすれば、現在の河野太郎のような感染症の素人が新型コロナウイルスワクチン接種推進担当大臣として奮闘する、といった話もなくなるはず。
彼はおそらく、急に任命されて困っただろうが、実質やれることを模索した結果、
ロジ担当となり下がってしまっているように見受けられる。住民の心配に答えるのは基礎自治体の役割だ。
危機管理のプラットフォームができれば、アメリカのファウチ博士のように、
集団免疫獲得に向けた仮説を立て、何%の接種があればOKで、ワクチンの効果が切れる前の接種完了を逆算してスケジューリングする。
目的とロードマップを国民に示したうえで協力を仰ぐという、専門家による意思決定がベースとなったリーダーシップが重要だ。
ガバナンスの基本は、法、規則基準、科学的な予測を明示した意思決定を行うことだ。
これは世界銀行の借用だが、世銀では途上国の行政改革支援の際に、ガバナンスを以下の4要素で因数分解して
説明責任(財政とリソース)、予測可能性(法的枠組み)、透明性(情報公開)、参加(連携)の4つ。
テーマ出しした瞬間、近年の日本がどの分野でもガタガタになっていることがわかる。
いずれにしても、緊急時のガバナンスの訓練を積んでゆくことが大切で、こうした組織を立ち上げることには意義があるだろう。
現在の菅政権は、こうしたガバナナンスの観点から落第点であり、
首相が何を考えているかわからず、結局、リーダーの一挙手一投足に注目が集まる意思決定となっている。
急に決心して、緊急事態宣言を発出したりやめたりする。このように国民から予測可能性を奪うやり方は国民から自由を奪うのも同然だ。
国民からすれば、知らず知らずに国のリーダーシップに注視せざるを得なくなり、いつの間にかリーダーシップの問題に錯覚してしまうが
本当は危機管理はリーダーシップの欠如の問題ではなくて、ガバナンスの問題だ。リーダーが誰であれ、ある程度、やるべきこと、基準が決まっていて
どのように対応するかが決まっていること、この予測可能性が確保されることが大切。
国民にとって予測可能でなければ、国民自身が計画を立てられず、急に決断されても、ついていけいけない。
(水木しげるの漫画で、上官が急に玉砕を決心したので部下の大半が付いていけず、結果として敗残兵として生き残った兵士に、すでに全員立派に玉砕したことになっているのだ、として、ラバウルの本部が改めて玉砕を命じる、という話がある。日本人のリーダーシップを象徴する話だと思う。)
緊急時へのシフトというのは、なにかしらリーダーとして発動するトリガーが必要なのではないか。
そこに非常時へのシフトチェンジが記載されることにも意義があるのかもしれない、という考えに傾いてゆく、そういう世論の動きもわかる。
もちろん、そんな非常時に平和ボケして判断の鈍いおっさんが首相だったらなんの意味もなさないが、誰かがシフトチェンジを発動しなければならない、
それが立法や危機管理のプラットフォームづくりだけでうまく機能しないのであれば、ある意味、大統領的な権限を期待する傾向が出てくるのは自然なことのように思う。大統領の権限というと、合衆国建国当時まで振り返ると、当時の議論のなかで、リーダーの聡明さ(アリストクラシー)というのは、欠かせない条件だったように思う。
日本の政治社会にそんなことを期待できるのか、と考え始めた瞬間、改憲には激しく首を横に振らざるを得ないのだが。
そんなことをインタビューの印象として持った。
今日は飲むぞって決めて、ちょっと良いウィンナーを買って帰る。
家に着く、カバンと仕事着をてきとうに放り投げて、まずは昨日の晩御飯の残りをレンジで温めながら、気温差でほのかに水滴をまとった缶ビールを流し込む。
一日の疲れがどっと出てくるようで、休息以上に解放感に満ちた心と体が栄養と快楽を欲するのが分かる。
チン、という小気味良い音で一つ目のつまみが出てくる、昨日作った文字通り豚バラ肉とじゃがいもだけの、肉じゃがが、盛大な湯気と醤油の香りをまといながら、食卓と呼ぶにはあまりに粗末な折り畳みテーブルの上に鎮座する。
匂いだけでビールをもう一口、甘めの味付けの豚バラ肉を追い掛けるように口に放り込み、さらに駄目押しでビールを流し込む、一呼吸終えて出た溜め息は演奏を終えたオーケストラにおくる拍手と同義である。
あっという間に無くなったいぶし銀なスーパードライの空き缶をくしゃりと握り潰し、引き換えにビニール袋から取り出したストロングゼロ ダブルレモンのプルタブをこじ開ける。
辺りに漂う先程とは違う濃厚なアルコールの匂いに、肝臓が嫌でも引き締まる。
ここで先ほど買ったウインナーの登場だ、レンジ対応の薄汚れた引き裂いた袋からこぼれ落ちるウインナーを落ちないようにだけ積み上げる。
それは人為的な盛り付けではなし得ない、燃え尽きる前の一番に火が盛り上がるキャンプファイヤーの崩れかけの土台のような、雄々しさすら感じさせる自然に出来た肉欲を満たす櫓だ。
そのままレンジに投入し、タイマーをぐるりと回す、燃え尽きるまでの時間は3分、芳ばしい肉の匂いだけでもう一口酒が飲める。
早くも500ml缶の半分が空いたレモンサワー、キツいアルコールの味を塗り替える強烈な肉の味に涎が止まらない。
レンジから再度鳴るチンという音は、人生を掛けて戦う男たちをリングに呼び戻すゴングそのものだ。
ウインナーを噛る、硬い、なんだこれ。
そら戦う奴もおれば、戦わなくなる奴もおるやろう
玉音放送聞いて絶望した奴、バレないようにホッとした奴、絶望してから不貞腐れて役に立たなくなった奴、戦争終わってからいろんな防備固めた奴もおるやろう
あと密林に居て現地民と戦い続けたり、バレないように過ごしたり、十何年後とかに恥ずかしながら帰ってきたり、そのまま向こうで家庭持っちゃった奴もおるやろう
勿論魔王から魔力使った線が伸びてて各師団に力を供給してて魔王負けちゃってその力が減少しちゃったぜ、力が無くなっちゃったから戦わないぜ、もしくは十字軍共に子々孫々まで根絶やしにされるぜ、各家庭も各地域も燃やし尽くされるぜ、もあるだろう
もしかしたら魔王との戦いの前に「俺達のラストマッチ、各家庭や会場で座して見てくれよな!魔王城で僕と握手!」なパターンもあって、結果待ちで負けただの勝っただのも描写の内容によってはあるだろう
でもまぁ結局それでも
「俺は魔王様が居なくなろうとも貴様ら人間共、その協力者共を一人残らずぶっ倒してから死んでやら〜!」って奴も居るだろうし
「あの強力な勇者も余計な指示を出してプレッシャーかけてくる上司もいないから好き放題してやるぜヤッホォーイ!」の奴もいるだろう
あと普通に魔物として制御効かなくなって暴れ出す奴もいるだろう
「いやいや、魔王が力失ったら魔物も消えるよ!雲が晴れて世界平和!やったねたえちゃん!平和な世界に戻るよ!」って言い出すのもファンタジーなのよね。
僕は魔王軍が一枚岩でも一枚岩じゃなくても、側近がもっとヤバい存在の手下でも、単なる金儲けで戦争をしてたでも好物であることには変わりないです。
10年以上は前の話。
田舎出身。都会に憧れがあったので、首都圏の難関ではない某国公立大を志望した。当時の自分の学力に合っていて、希望する学科があるのがそこだった。田舎の県立高校で地道に勉強し、受験し、合格した。他の大学のことはよく知らなかった。国立単願だったし、元から偏差値が合わない大学は眼中になかったので。俺はただ憧れの大学に通えることが誇らしく、新生活に胸を躍らせていた……
4月。新入生オリエンテーションが終わり、同じ学科の数人で集まって話していたときのことだと思う。経緯は忘れたが、同級生の1人が「こんなBランク大学」と言ったのだ。「本当はこんな所に来るはずじゃなかった」「俺の同級生には東大生がたくさんいる」と。(今考えるとFランではなくCランでもなく「Bラン」をチョイスしたところに彼の葛藤が伺える)
それを聞いてとてもショックだった。なぜかは分からなかったが、ものすごくショックだった。地道に勉強して、希望どおりの大学に入ったのに、目の前のこの人はそうではないんだと。当時は学歴コンプレックスというものの存在がよくわからなかった。ただ、全く違う価値観で生きてきた人なんだということは感じた。まさに異文化との遭遇。田舎の高校にも、難関大学を志望したりそれで不合格だった同級生はいたが、それとは違う何かを感じた。
それからしばらく経って、大学の同期の中にも「中高一貫の進学校」出身者が多くいることに気づいた。そこは田舎の県立普通高校とは全く違う何かであるようだった(今だによくわからない)。また、関東出身の同級生たちは殆ど皆、受験予備校に通っていた。河合塾とか駿台予備校とか。都会出身の同級生たちは受験戦争の荒波に揉まれまくった生き残り(または、当人の感覚では敗残兵)だったらしい。東大とかナントカ難関大学とかの高みを目指し、そこにたどり着いた、またはたどり着かなかった、妥協して腰を落ち着けた…。マジかよ。田舎の価値観と違いすぎるだろ。そら学歴コンプにもなるわ。子供のうちからそんな生活してたら心が荒むに決まってるじゃん。
とくにオチもないんだけど、このことは何故かふとした時に何度も思い出すし、地域間格差とか、学習機会の均等とか、受験戦争の過酷さとかなんかそんな話題が出るたびにジワーっと思い出してモヤモヤするので吐き出したかった。
燃料基地を二つとも奪取され溢れかえる戦車の前に我軍は吹き飛ばされた
なけなしの燃料で作ったt-34/85も敵戦車を三機ほど撃滅したところで背後からパンターに襲われ鉄屑となってしまった
それでもなお私たちは戦ったタイガー戦車の目をかいくぐり敵後背に出現し後方に位置する砲撃部隊を撃滅しさらにそれを囮に使い
最期の切り札であるIS-2を召喚し敵左翼に対して猛攻を掛けたその作戦は成功し敵は一時的に引いたそして……頭上に砲弾の雨が降り注いだ
私達が撃滅した砲撃部隊は本隊ではなかったのだそれから程なくして雪崩れ込んでくる戦車と歩兵部隊の前に私たちはあえなく包囲、殲滅された
事件の犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説あり、その背景として、「虐殺」の定義、地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料検証の相違がある。
- 30万人以上 - 1947年の国民政府による南京軍事法廷判決書。中国共産党政府の見解はこれに依拠している。なお、この説には南京城外の犠牲者数は入っていない。30万人説は資料的根拠が乏しく、日本側の学者からは支持されていない。
- 20万人 - 極東国際軍事裁判判決。松井司令官に対する判決文では 10 万人以上。
- 11万9000人以上 - 南京郊外を含む説としては、中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)、計11万9千人以上という笠原十九司がいる。
- 4万人 - 秦郁彦は、中国兵犠牲3万、一般人犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした。ほか久野輝夫は37,820人とする。中国文献では、中国軍約11-12万人のうち約4-6万人が南京で戦死と捕虜(行方不明を含む)とされる。
- 1〜2万 - 板倉由明は、中国兵の犠牲8千人と一般人の犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする。当時の戦闘詳報などの公式記録には約1万前後の敗残兵(捕虜)の殺害記録もある。
- ゼロ - 「大虐殺」否定説・戦時国際法上合法説では、30万人の市民の「大虐殺(大屠殺)」はなかったと主張。
いわゆるネトウヨは「全ての肯定派は30万人説を支持している」と批判する、
というズレがある。