はてなキーワード: 成果物とは
東京オリンピック開催について
この期に及んでまだ反対だの中止しろだの返上しろだの言っているみなさんは、
おじさんに教えてくれんかね。
おじさん今から娘とどの競技観に行こうかなとか、
ものすごく楽しみなんだがね。
ぜひ教えてください。
【追記 2016/04/26 1時】
教えてくれた人ありがとう。
金の無駄遣いという話、面白くないという理由としては納得感あります。
せっかくなので、じゃあ何なら無駄遣いではないのか知りたいところです。
オリンピック開催は楽しみにしてるおじさんからすれば結構満足感ある使いみちなんだがね。
将来の財政難にという話は、失礼ながら今更そんなのが面白くないのか、、、という感想。
オリンピック一発やろうがやるまいが、
オリンピック一発分温存してどうなるのものか。危ぶむなかれ。はもちろん冗談だけど、
無駄遣いの話にも通じるところで、
オリンピック一発分程度の持ち出しを別の施策や政策に使ったとして、
オリンピックのためのインフラ整備(交通網や施設など)を上回れるのかしら。
オリンピック開催は意外と効率の良い投資なんじゃないかとおじさんは思っているよ。
引き続き教えてください。
理由は簡単に言ってしまえば自分の目指すキャリアパスとのミスマッチ。
おそらく人事部の書類にも、今頃そんな感じのことが書かれているんだと思う。
なぜ好き好んでそんな会社に入社して、短期間で退職するはめになったのかを書こうと思う。
入社する前は大学の情報系学部に通い、大学院まで進学して専門分野の研究にそれなりに熱意をもって取り組んでいた。
それもあって、同じ分野の研究を企業として行なっている同社に入社しようと考えた。
内定の前後にいくつかの職種のマッチングを行う機会はあり、自分の希望についてはしっかりと主張したつもりだったけれど、
入社して1週間後に告げられた自分の配属先は、山奥の工場でメインフレームを主とするシステムの開発・保守を行う関連会社への出向だった。
当然この決定に対して人事に不服を申し立てたけれど、返ってくる答えはあらかじめ用意してあったような定型文と、「みんな我慢しているからお前も我慢しろ」というお説教だけ。
もちろん、規模の大きい会社だし、全員が希望通りの職種につけるとは思っていたわけではない。
でも、曲がりなりにも現代のIT企業に入社したつもりなのに、20代そこそこの新卒社員が化石みたいなプラットフォームの世話を押し付けられるなんて想像だにしていなかったし、
綺羅びやかな会社説明の資料の中にそんな説明を見た覚えもなかった。
もちろん決定は全く覆らなかったのだけど、その後も思いつくだけの人脈を辿って色々な人に相談して助言を貰い、
せめて担当業務はオープンプラットフォームにしてほしいとか、COBOLは嫌だとか、ついでに可能であれば山奥の工場に押し込まれるのも勘弁してほしいとか、
できる限り主張をしつつ、しばらくの間実際に働いてみてから身の振り方を決めることにした。
それからしばらくの間新入社員研修をこなし(富士通に限らず、いわゆる日本的な大企業は研修期間がやたらに長い)、
そろそろ本格的に業務に携わりたいと思っていた矢先、上司に告げられた自分の担当業務はほかでもない、あの20万人月案件だった。
例によって守秘義務があるので詳しくは書けないのだけれど、業務を行うツールはもちろんMicrosoft Excel。
自分の仕事は言われたとおりにExcelシートに入力し、マクロを実行して成果物となるファイルを吐き出すことだった。
このマクロの挙動はとても怪しいものだったのだけれど、どうやら自分はこのマクロの修正はおろか、ソースを見ることもできない身分らしい。
SIの現場で日々行なわれている業務内容については詳しく知っているわけではなかったけれど、自分のやっていることが著しく非効率的であることだけははっきりとわかった。
そもそも、具体的な配属先については希望とズレがあったにせよ、少なくとも自分は開発職として入社したはずで、SI業務がやりたくてこの会社に来たわけではない。
とどめに「君はオープンプラットフォームでの開発には多少覚えがあるらしいけど、メインフレームではそんなものは役に立たないから。」なんて台詞が飛んできた。
確かに、Excelシートへの入力作業に情報学の修士号なんていらないし、キャッシュコヒーレンシの話なんてオタクの気持ち悪い自分語りみたいなものでしょうね。
結局これが引き金になって、転職を決意した。
しばらくの間働いてみてそれから考えるなんて、とんでもなく愚かなことだとようやく気付いた。
ただ、短い期間ではあるけども世話になった上司と、開発職の社員をSI業務に割り当てざるを得ない状況については自分も一定の理解を示しているつもりだったので、
多少なりとも会社への影響を軽減できればと思い、転職するつもりである旨を早い段階で上司に明かした。結果としてこれが大きな間違いだった。
転職の旨を伝えた週の金曜日、自席に上司から電話があり、「働く気がないならすぐに辞めてもらう」といった調子で一方的に退職日を設定された。
流石にこれは法的にも問題がある行為だと思い、すぐに折り返し電話をかけて抗議し、翌週時間をとって直接話すことになった。
翌週直接話してみると、上司はケロッとした顔で「なんだ、働く気がないわけじゃないんだ、勘違いしてた。じゃあ退職日はいつにする?」なんて聞いてきた。
自分が抗議しなかったらどうするつもりだったんだろう。
幸い、書類上は見栄えのいい学歴と、知人からの紹介と、"多少覚えのある"スキルのおかげで転職には全く困らなかった。
そろそろ就職活動が本格的に始まる頃だけど、今の就活生には是非とも就職先は慎重に選んで、貴重な若い時間を無駄にすることがないようにしてもらいたい。
いろいろ突っ込まれることを前提でエントリをぶちまけるので、忌憚ない意見が聞けたら良いなとおもっている。
さることの昨年九月、とある財閥企業グループの子会社に転職をした。
親会社にくっついたエンジニアリング会社といえば聞こえは良いが、要するに工事会社だ。親会社が不採算で利益率の低い部門を分社化しただけのことだ。
この企業に転職して数ヶ月、起こったこととそれに対する意見をぶちまける。異論、反論、大募集だ。ただし討論に興味はない。
思ったことをぶちまける代わりに、それに対して思ったことが返ってくることを期待する。
サマリーはおおまかにいって以下にまとめることができる。
①工事会社としての技術力とは一体なんなのか、それは情報漏えいを恐れるようなレベルのものなのか
②内部の人間同士で『人間性』に言及し始めるようなら、その組織は終わってる
③ドメスティックタイプの企業における『コミュニケーション能力』という名の限界
会社に入ってきて思うのだが、いわゆる施工規準や施工方法に関するデータの流出を上層部が過度に恐れているように思える。
しかもそれは本質的な『情報漏えい』に関する健全な怖れというよりは、子会社にありがちな親会社や風評被害を怖れての脊髄反射に見える。
PCをシンクライアントにするのは良いが、いくつかのクラウドサービスをアクセス禁止にするのはいかがなものか。はてはフラッシュメモリからフリーソフトのダウンロードまで規制されている。
顧客情報流出を怖れるのは良いとして、施工規準や施工方法に関する教育データぐらいある程度コピーして弊害があるか?
原価見積りに関するデータが流出することで、利益源泉が素っ裸になってしまうリスクは分かるが、正直言って建設業関係で中小のエンジニアリング会社に、セキュリティをかけてまで守る技術などない。
とてつもない機械をどっかから買ってきて、数値を入力して、資金力にものを言わせて人を雇って、膨大な工期を費やして建築物を完成させるというだけのことだ。
だいたいエンジニアリング会社なんて、自社の技術なんてなにも持っちゃいない。
太陽光発電事業者なんかがよく自らをEPC(エンジと調達と構築をワンストップで行う事業モデル)とか言っちゃってるわけだが
要するに知識と人員と情報収集力&編集力はあるから、必要なもんは金かけて集めてきて設計して作ってやんよ、っていうだけの話だったりする。
だからエンジニアリング会社がプラントに持ってく装置や設備のほとんどは、実は盤屋に筐体だけ作らせて中身は中小メーカーやどこぞの電子メーカー製品の寄せ集めだったりする。
ぶっちゃけ施工会社としてのエンジニアリング会社はエンジニアリングっつーよりはむしろ商社に近い。投資事業モデルを使ってないだけ。
客先常駐型の派遣モデルで収益を上げているが、結局設備そのものの校正やサービスはメーカーの技術者を呼ぶわけで、ビジネスの形が顧客との利益相反になってる。
これが例えばプロパティマネジメントのように、顧客の一部となって設備投資利益の最大化を目指す形ならばいざ知らず、結局は政府の公共工事に縋る建設コンサルタント業界とほとんど変わらない。
相手がメーカーに切り替わっただけの話で、二年三年単位で作られる景気を見越した設備投資計画によって投入された予算に従うだけ&なるべくその予算を多く取るために張り切るだけのビジネスだ。
現代における技術力の意味合いはどちらかといえばもっとサイエンスであったりコンピューティングなものだと思う。
少なくとも、いくら工事会社が『我々の技術力を守る』だのと言っても、そこに書かれていることのほとんどは日本の電気事業法だの高圧ガス保安法だのに則ったものを超えられないし、そこから幾らでもリバースエンジニアリングが可能なものでしかないと思う。
つまりなにが言いたいのかというと、会社のPC持ち帰れないんだから教育資料ぐらいクラウドサーバーにアップして家でテスト受けることを許可しろ。
職場で仕事の成果物に対する評価を下すならまだしも、従業員の人間性に言及が終始するような職場は終わってる。それは単なる噂話や陰口の温床だ。上司が部下の人間性に口を出す組織も終わってる。
コミュ障やアスペ、発達障害やうつ病についての言及をするような職場、とりわけそれを「脱落者」「人として未熟」という組織も同様だ。まず間違いなく組織として終わっている。
仕事をするにしても各自に割り振られたタスクそのものがなく、社内営業や油売りによって仕事を獲得するような組織だ。
指示系統にせよ、組織でありながら組織化が徹底されてない証拠だ。
誤解を怖れずにはっきり言うが、そもそも『人間性』に着目しはじめたとき、その組織もあるいはその人間関係もある意味で終わってる。
多くのビジネス書では地図よりコンパスの方が重要だとよく言われるが、はっきり言ってそれは嘘だ。
コンパスはたしかに重要だが、それよりも地図を手に入れることの方が先決だ。
コンパスは主観だが、地図は自分がいる位置を相対化して知る事ができる唯一のツールだ。GPSがあっても上空からの映像がなければ何の役にもたたない。
人間性を期待するべき側とそうでない側がTPOで変化する。また人間性の定義もTPOで変化するし、人間性を評価する人間もまたTPOで変化する。
そして多くの場合、人間の語る評価はポジショントークで、現代人は一個人でありながら日常生活の中でさまざまなポジションに立つ(親であり上司であり母であり父であり弟であり..)から、人間性の評価軸そのものが普遍ではない。
人間関係は一元的なものではない。人は誰と対面しているかによってコロコロと相を切り替えるので、ある人間から見た印象が必ずしも別の人間から見た印象と一致するわけではない。
しかもそれは個々の人間が持つ評価軸に連動しており、その評価軸は各々の視野・視座によって変化する視点であり、複雑系で曖昧だ。
『評判』そのものに実は信頼性などなく、『何故その人はそのような評価を下したのか』に着眼し、評価を下した人間の立場や背景にまで目を広げなければ、客観的な『結論』を得ることは難しい。
facebookの『いいね』の個数は重要ではない。『どこの誰が〝いいね〟を押しているのか』が重要で、さらに言えば〝何故いいねを押したか〟の方がもっと重要だ。
その理由の如何によっては、『いいね』そのものをデータの指標として無視するという選択すら十分ありうる。
ビジネスの現場において、始末書や反省文に人間性に対する言及があってはならない。
それはなんら解決にはならない。根本的な問題が仮に人間性にあるとしても、それを逆手に取って上手に外的要因に沿って問題に取り組んでいく以外に道はない。
上司がパワハラであるからといって、我々は生計を立てることを諦めるわけにはいかないし、部下や従業員が怠惰や傲慢であるからといって、具体的な目標を立てずにビジネスが進展することはありえない。
結論を言えば、『人間性』に言及し始めることは、ビジネスにおいて必須たる〝コト〟に向かう姿勢を歪める。
それが蔓延する組織は、組織化が上手くいっていないか、もしくはそのビジネスが限界を迎えているかのどちらかだ。
(※ 筆者の場合、所属しているのは子会社タイプの工事会社なので、ビジネスそのものが危うく、社内が内向きになっているのだと考えている)
阿吽の呼吸のことを『コミュニケーション能力』と呼ぶ時代はとうに終わっている。
すべては文脈と宣言型言語によって語られ、記述と構造化が優位に立つ時代になるはずだ。
曖昧さは削られていく。
世界全体で大きなストーリーが崩壊した今、ドメスティック企業において求められていた『コミュニケーション能力』を担保にした『仕事が出来るヤツ』『仕事が出来ないヤツ』の評価軸は揺らぐだろう。
なにが言いたいのかというと、現場ごとに施工ごとに異なる大同小異の部分で小さく競い合うのは不毛だし醜くてむしろ哀しくなってくるから辞めろ。
たかだが一つの装置の細かい機能に過ぎない部分で知識自慢と知恵比べをするのは不毛だから辞めろ。
文脈レベルでの競い合いなんざ無意味だ、職人同士の張り合いは趣味でやれ。ささやかな自慢なら良いが、無駄にプライドを持つと逆に扱いづらくで邪魔だ。
すごく良いこと書いてあったのですが参考にしようとしたらサイトが消えいたので、魚拓から転載。
働・学・遊・美をミックスしましょう
計画は役に立たないが、計画することは不可欠だ。
by ドワイト・D・アイゼンハワー(第34代アメリカ大統領)
人を最もダメにするのは「全体像」を見せずに「部分的なこと」をずっとさせること。
これ続けてると何も考える力のない指示待ち人間ができあがる。こわいこわい。
by 外尾悦郎(スペイン、バルセロナのサグラダ・ファミリア主任彫刻家)
腹が立ったら自分にあたれ、悔しかったら自分を磨け。
神は細部に宿る。
by ミース・ファン・デル・ローエ (建築家)
放っておくと会議の時間の九十五%は「コメントの交換」に使われている。
by 「ケッヘル」(中山可穂)
重要なことは、正しいか、間違いかではない。うまくいくか、いかないかです。
マネジメントとは、そのようなものです。
by ピーター・F・ドラッカー(マネジメントの神様)
やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず
あなたに幸運の女神が微笑んだのであれば、プロジェクトは無事に完了し、幸せになれます。とてもとても幸せになれます。多くの人々は、自分では何の失敗もしていないのに、ここまで到達することができないのです。豪勢な夜を計画してください。どんちゃん騒ぎをして散財してください。そして、その時のことをいつまでも語り継げるようにしてください。
by 「アート・オブ・プロジェクトマネジメント」
この50人時間の差が大規模で長期間のプロジェクトの場合に大差を生む。
20人のチームの場合。
この4人分の差が大規模で長期間のプロジェクトの場合に大差を生む。
ミーティングと同じようにコストを意識する。読む人の時間をムダに奪ってはいけない。
反省会は、社内グループウェアのメッセージ機能を使って、こんな感じでやってます。
ファイアープロジェクトに助っ人参戦した場合にどうするか。原因のほとんどはマネジメントもしくはコミュニケーション。
20人程度のチームならこれらを1~2日で終わらせて雰囲気を一新する。あとはふつーのマネジメントへ。
女って、「できる男の成果物を何の感謝もなく一方的に受け取ってるだけで人間としてはたいした人間じゃない」のに、「別に普通でしょ」みたいな感じだからだ。
そういう人間が、平等だの、利益をよこせだのと主張するから、意味が分からなくなる。
そりゃそんだけ楽な人生送ってれば、余裕あること言えますなあ。という感想。
なーにが毒親だ。なーにがメンヘラだ。なーにが生理だ。って思えてくる。
そこに、いかにもおかしなフェミ論法で男の権利をさらに阻害してくる。
それってもう、超えちゃいけない一線越えてるよね。
女が勝手にイケメンだのになびくのはいいだろう。勝手に『思う』のは自由だよ。
ただ、「強制してくる」これはいかんでしょ。もし強制するんなら、論理的に正当性がなきゃだめじゃん。
それなのに、キャバクラの姉ちゃんが社長に甘やかされてるくらいの意識で話してくるからうざいんだわ。
甘いこと言ってくる。
これがムカツクんだわ。
「未経験でも数ヶ月でエンジニアに!」とかいう記事をよく見るわけで。
初心者向けweb開発記事のブックマーク数を見ていても人気なのが目に付く。
やはり何だかんだで「面白そう!」とか「こういう仕事やりたい!」っていう人が沢山いるんだなと実感する。
就職する事を目的にしていなくとも、趣味でプログラミングを習得しアプリ開発をしている人も多数目に付く。
素直に「凄い」としかいえない。
当人の勉強方法が優秀なのか、はたまた開発者との繋がりがあったりするのか検討も付かないが、まったくの素人なのにあれよあれよと成長し作り上げてしまう彼らの速度に驚かされる。
情報さえ得られれば未経験でも簡単にスキルが身につくのかと思いきや、実際そんな甘い話では無いわけで。
自身も興味はあったので、動画学習サイトなどを参考にウェブサイトを作成してみたのだが、しょうも無いところで動作が不安定になってしまったりと全くといって良いほど成長が無い。
つい先日もvimについての記事を見て、「将来的にはこのエディタを選んでいた方がいいのか」とvimの操作練習で数日過ごしていた。
未だにエディタの選び方で右往左往している自分は何をしているんだと思ってしまう。
サービスなんかでもそうだ、「GitHubとかいうのも知らないといけないのか!?」と登録はしたものの利用はしていない。
自分に必要な情報と、覚えなくてもいい情報の取捨選択が出来ていない。
膨大な情報に目を通して、「あれはやっておいた方が良いのか!」と時間を取ってしまう。
「ある程度」のレベルに達すれば、必要な知識を持ち合わせているから解決方法を推測して円滑に進められるようになるんだろう。
そこまで達するための、初速が上がらない。
必要な場所が理解できている初心者は、数ヶ月で形となるモノを作り上げる程の力が発揮されているのだろうなと。
ましていとも簡単に成し遂げている彼らを見てしまうと、同時に虚無感が襲ってくる。
人のやり方しだいで可能性が広がる作業だからなのか、その膨大なやり方に自分は翻弄されている。
確かにプログラミング自体は楽しいし、作りたいモノがあるからそこを目指しているわけだけども、そこに到達するまでの手段を得ることが目的になっている。
はたまた、実際のプログラミング学習はこんなものなのだろうか?
予想以上の助言の数々に衝撃を受けた。
まずはこのような発言に反応していただいた事に感謝を申し上げます。
コメントなどからざっくりと判断すると次のような改善策が浮かんだ。
・目標を明瞭化する。
・むやみな情報収集をやめる
・小さな完成を積み重ねる。
・有識者との繋がりを持つ。
学習においては初歩的な事なのだろうが、地に足が着かない状態で学んでいた自分にとって指標となる部分が出来た。
独学という部分に特段こだわりがあったわけでは無いので、これからはどうにかこうにか交流の道も増やしていこうと思う。
一番の問題は大量の情報にとらわれ、学習難易度を自分で上げていた部分かと。
まずは最小限の作業環境に絞り、必要に応じて継ぎ足して行く事を心がけよう。
最初から全篝火最大にして巡回しているようなものだなと。人間性が足りなくなるのも納得。
そうすれば、以前よりも大量の情報に飲み込まれず、自身の望む情報を得られる状態に進化している。
という形で良いだろうか。
語るだけなら簡単だが、現状闇雲に勉強するよりは可能性が感じられる。
この形で行動を起こしてみよう。
現状、プログラミング以前の学習態度すら未熟な部分があるが、今回の皆様からの意見で気付かされた点、参考になる知識は多数あった。
思い違いを起こしている部分もあるのかも知れないが、今までの不明確な道筋よりはずっと進みやすそうだと。
何気ない発言のつもりだったが、わざわざ記事をまとめてくれた方まで居たのには驚いた。
自分に合った情報提供者がいる事が、これ程大きい事なのかと実感致す。
言葉足らずではあるけれど、本当に皆様忙しい中ありがとうございました。
ベアーズの執行役員が、実名でびっくりするような内容のnote書いて炎上した話があった。
ちゃんと記憶はしてないが、数字だけじゃ燃えない・責任を取らない・結果じゃなく共感重視みたいな話だった。
当てはまらないやつは、ちんこがおっぱいになった中身が男みたいなことも書いてあったw
なんでこんなこと実名で書いちゃったのかなーとは思うが、女は働くのに向いてないとは心から思う。
なぜ、女は働くのに向いてないのか?それは責任感がないからでも、数字で燃えないからでもない。
以前、トイアンナの記事で見かけた生理の話(http://toianna.hatenablog.com/entry/2015/06/01/215659)がわかりやすかった。
本当に心から人格が変わる。生理前と生理後だと、性格がまったく変わる。
どれだけ違うのか?
生理前は、できない部下をクビにしようと毎月思う。
なんであいつは、あんなにダメなんだ。何度言ったらわかるんだ。なんで同じミスを繰り返すんだ。
これは、生理前に限らず、毎月思っていることで、その人の嫌な部分を強く感じるようになる。
昨日までクビにしようと思ってたやつに「いつもありがとう。ランチでもおごるよ」と言ってみたりする。
なんでか?仕事は遅いしミスは多いけど成果物のクオリティは高い、などその人の良い部分が、急に見えたりしてくる。
私のように、意思決定を行い部下を使い立場の人間が、こんな調子の組織なんて怖くて働けたもんじゃない。
また、こういうことを言うと、生理のせいにするな!という意見が聞こえてくる。
ただ、事実として、毎月同じ時期にキレ散らかし、同じ時期に労ってる。
今のところ、大きな問題はなく仕事ができているので、まぁよしとしようと自分を落ち着けながらも
その度に、「女は働くのに向いてない」と心の底から思っている。
小学生以下の意見で恥ずかしいけど、思い切って増田に書いてみる。
働き始めてもうすぐ3年だけど、未だに仕事ってなんなのかよくわかってない。
仕事って、ものすっごくミクロに見ると、メールしたり、電話対応したり、見積もりをエクセルで作ったりするようなことなんだけど、これって自分に言わせると「作業」で。
じゃあ、「作業」を積み重ねると「仕事」になるのかというと、それも間違いで。
それじゃあ、作業と仕事の違いって何なのよ???という自分の問いにずっと答えを見出せないでいる。
自分は入社1年くらい、辞めた派遣さんから引き継いだ営業アシスタント業務みたいなことをやってた。その派遣さんはすごく優秀で、本来社員がやるべき雑用を一手に引き受けてて、普通の派遣さんの仕事の範疇をはみ出た仕事をしてたと思う。でも、それを正社員の自分がやらされているということが、ぶっちゃけとても理不尽に思えたし、「作業」を積み重ねたところで何にもならないとグレてしまった。だれかがやらなければならない仕事だし、新卒のくせに生意気言っているとも思うけど、当時はとてもつらかった。
その後いろいろあって仕事の内容は変わったけれど、未だに仕事をしてる、働いているっていう実感が持てない。ないわけじゃないんだが、他部署の人と連携して大きな案件こなしたときとか、そういう目に見える達成感があるときしか「仕事をした」って感じられない。
思うに、自分はなにか具体的な成果物がないと「仕事」って感じられないんじゃないだろうか?例えば、iPhoneアプリを作ったとか、本を出したとか、でっかい施設を作ったとか、そういうのはわかりやすい。でも、世の中には例えば、水道のインフラを整備してる人とか、法律を熟知してお金の運用をする人とかがいる。そういう人たちは目に見える何かを生み出してはいないかもしれないけど、「仕事」をしている。
そういう職に就くたちは、日々の作業と仕事のギャップをどう思ってるんだろう?どう思うも何も、当然のこととして受け入れているんだろう。それが自分には不思議なんだ。
そういうことをパートナーに話したら、
作業に分解できないものというのは、具体的にどう手を動かせばいいかわからないもの。
目標達成のためには、複数の作業の組み合わせの方法がありえる。
みたいな話をされて、ちょっと納得した。
例えば、(あんまりわかってないけど)ITのプロジェクトマネジメントとかは、個別の作業に分解できないから、色んな本が出ているし、みんなスキルを求めてるってこと?
・・・とここまで考えて、人生に必要ないと思って毛嫌いしていたビジネス書を真面目に読んでみたほうがいいんじゃないか、と思っている。
普通、こういうことを就職活動のうちに突き詰めて考えてから社会に出るのが普通なんだと思うけど、自分は色々遠回りしたせいで根本的な何かが抜けていると感じている。
経営者の何がつらいのか
もちろん、立ち上げ当初に、成功しないんじゃないかという不安はあった。
けど、本当の辛さは、サービスが認知され、すこしだけ成功し、社員を抱えてからだ。
「全責任を持つということ」
次から次へと降ってくる問題をひとつひとつ片付ける。すべての意思決定に責任をもつこと
ユーザーの声を聞き
今後の方針を決め
辞めたいという社員の話を聞く
そして、自分の意思決定が正しかったのか悩み、吐きそうになるほどのストレスを抱える
夜中にエンジニアと議論し、朝からカスタマーサポートチームの問題を解決する。
毎日くる大量のメールに目を通し、社員から提出された成果物に目を通す。
修正があれば伝え、どうしたらより良いものになるから議論する。
カスタマーサポートから、対応できないクレーマーの連絡がきたりする。
そんな中、社員の一人が出社してないなど、次々に問題が起きる。
経営者として、完璧な仕事を求める発言をしながら、一方で、経営者は、自由に休めていいな、などと言う。
確かに好きな時間に仕事ができる。なにせ24時間仕事をしてるんだから。
起きてる間中ずっと、仕事のことを考えている。自分のサービス、会社、顧客、社員。常に仕事のことを考えている。
仕事が大変だというと
好きでやってるんでしょ?好きで起業したんでしょ?嫌なら会社員に戻ったら?
などと言われる。
確かに好きで起業をした。
会社員は、愚痴ってもいいが、経営者は、弱音を吐くことも許されないのか?
ひとつ教えてやろう。
私のところには、問題しかやってこない。辛いし、気が滅入りそうなこともある。
そんな簡単な話じゃないんだ。
そんな言葉を言いたくなる
10年以上前だけど、同人ゲームを作ろうと思ってそれ関係のサイトをよく見てたんだわ。
で、同人ゲームのゲームデザイナーがうまくサークルを運営する方法みたいなことを書いてるやつがいて、それで「サークルのメンバー同士で直接連絡取らせるな」という項目があった。
当時同人ゲームのスタッフ募集で、「ゲームデザイナー」「ディレクター」「アドバイザー」みたいな実作業をしないであろうメンバーしかいないサークルが、プログラムやグラフィックのスタッフを募集して「利益がでたらサークルのもの」「成果物の権利はサークルのもの」みたいな条件をつけてるってのが横行してたから、搾取にもほどがあるだろって感じで炎上してた。
搾取する気まんまんの連中ってやっぱ下っ端が団結するのを恐れるんだな。
ゲーム好きが多そうなインターネット関連の仕事をしているが、社会人になってからは自分ではほとんどテレビゲームには触れていない。今となっては、子供たちがたまに遊んでいるのを眺める程度のものだ。
そんな俺だけど、最近、ひどいソシャゲ課金問題がニュースになったり、実況動画のユーチューバーに扇動されるキッズたちがそんなゲームにハマっていたり、息子の3DSを発狂して叩き割るヴァイオリニストがいたり、そういうニュースを見て大人が眉を顰めていたりするのを見て、そういうのはものづくりとしてなんか残念だなぁって思い、ふと思い立ってこれを書いている。
俺は本当は元々ゲームが大好きだった。どうしようもなく好きだった。たぶんここでマニアを名乗れるほどでは無いけれど、ファミコン世代ど真ん中で、小学生時代は任天堂に憧れ、ファミコンとディスクシステムに埋もれて育った。反抗期はメガドライブで道を踏み外し、幾多の良ゲークソゲーにまみれてサターンで遊んだ(結局スーファミもプレステも持ってたけど)。この世代によくいるエンジニアの例に漏れず、ゲーム好きをこじらせた結果、IT関連の仕事に進んだ。
社会人になってからは大好きなゲームで遊ぶ機会は徐々に減り、いつしかまったく触れることも無くなった。
興味が無かったわけじゃないけれど、ネットとWebとコミュニティ関連の仕事をしていたら、やたら忙しくて使える時間は限られたものになり、そのうち自分の家庭を持つようになり、結果として一見何も生産されない(ように感じる)ゲームにひとりで貴重な時間を費やすのは勿体無いと割りきって考えるようになったのだ。
仕事でもプライベートでも、どうせディスプレイに向かうのなら何か成果物を残せるか、実際に人との繋がりを作れる仕組みに力を入れようと考えるようになった。それはクラシックなホームページだったりECサイトだったり、ブログだったりSNSだったりしたのだけれど、いずれにしても「俺たちのインターネット」は今までと違う新しい世界を作るんだ、という気概のようなものを勝手に持っていたような気がする。つまり、ゲームを作る側でも無い普通の人間にとって、「ゲームで遊ぶ」という行為はクリエイティブな行動とは考えなかったのだと思う。
そのうち自分の子も大きくなり、人並みにDSやWiiで遊ぶようになった。
でも、うちの子たちがそこまでゲームに熱中しているほうでもなく、妻がゲーム嫌いなこともあって、それほど家庭の中でゲームが話題になることはなかった。俺自身もWiiを見たときに、すごいユーザフレンドリーで簡単に遊べて任天堂はすごいなーって思ったり、子供たちとちょっと遊んだスマブラが面白いなーと感じたりしたことはあったけれど、基本的には世代を超えてマリオに親しむ子供たちの姿を見て微笑ましく思ったり、良い物は良いねって言ってみたり、つまりは親として、第三者的な感想を述べるという以上に自分自身がのめり込むような体験が再来するようなことはなく、ああ、やっぱり自分が少年の頃感じたあの感動や興奮は、あの時期特有のものだったんだろうなあ、子供たちが今のゲームに同じように感じることはあったとしても、自分自身がもう一度あの感覚を体験することは無いんだろうなあ、などと悟ったようなことをちょっと寂しく勝手に考えていた。
我が家はそんな、ゲームにそれほど熱くなっていない一家なので、最新のゲーム機やゲームがすぐ家にやってくるというようなこともなく、WiiUも発売から3年経ってようやく我が家にやってきた。息子のクリスマスプレゼントということで、義母が買って送ってくれたのだ。正直随分とリッチなクリスマスプレゼントだと思う。
その半年ほど前、なんかイカがインクを塗るゲームが発売されて話題になっているということは知っていた。俺はホッテントリにそのゲームがしばしば上がるのを面白そうだなーと思いながら眺めていたし、息子もそれが欲しかったのだろうということはなんとなくわかった。
かくして、流行から半年ちょっと遅れて我が家にもWiiUとイカのゲームがやってきたのである。
すっかりゲームに興味が薄れてしまったおやじである俺は、息子が喜び勇んでイカのゲームで遊ぶのを温かい目で後で眺めていた。とても面白そうだった。
一台のWiiUでは基本的にはひとりずつしか遊べないので、パパにやらせろよと言うでもなく、オシャレでいいなこれ、っていう程度のことを思っていた。
その穏やかな認識が一変するのは、その一週間後の大晦日のことだった。
12月31日、仕事やら親戚の都合やらなんやらで予定が合わず、年越しは妻と子供たちだけが実家に帰り、俺はひとり寂しく自宅に帰って新年を迎えることになった。やり残した掃除を済ませて一息つき、ひとりで年末番組を見る気にもならずビールを飲んでだらだらしていたが、すぐ退屈になってしまった。そこで、なんとなく一週間前にやってきたWiiUの電源を入れ、自分のIDを登録して息子が遊んでいるイカのゲームをやってみたのだ。
ほうほうどれどれ、操作は複雑そうだが簡単に覚えられそうだ、とりあえずバトルに参加してみるか、しかしこれ音楽カッケーな、と……
かくしてイカを操作し始めた俺は、すぐにとんでもない衝撃を受けることになる。なんせ、俺はゲーム体験の歴史が軽く15年は飛んでいる老帰還兵なのだ。
操作に慣れるまでのタイムは僅か0.05秒にすぎない、とまではイカないが、少なくとも開始30秒後には俺はなんかすごいものに触っているぞという気になりはじめ、思った方向に画面が動き、自分が向いた方に画面が回り、目の前の画面に映るイカが自分と一体化した気分になり、それを気持ちいいと感じるまでに実に1分もかからなかった。大げさでなく、これはすごいことだ。ものすごいUIだ。
正直、まるでダイナモローラーで全力でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
なんだこれは。
気持ち良すぎる。楽しすぎる。
気が付くと、がむしゃらにわけもわからずインクを塗っているだけであっという間に1ゲーム終わっていた。
一体、なんなんだこれは……!!
3戦、4戦と繰り返しあっという間に30分くらい過ぎてしまった。
なんだか涙が出てきた。ていうか、恥ずかしいことにおっさんの俺はひとりでゲームをやりながらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。
別に、大晦日にひとりでゲームをやっていたのが虚しくて涙が出てきたわけじゃなかった。自由に軽快に動くイカのキャラを見て、夢中で空間を走り回っていたら、子供の頃、家にやってきたファミコンで初めてスーパーマリオを動かしてまるで自分の思いのままにマリオが走ったときの感動や、自分のお年玉を貯めて買った発売されたてのメガドラで似非3Dのスペハリ2がぬるぬる動くところを見たときのことや、ゲーセンで「自分の思うままに3D対戦できるゲームが現実になるなんて!」とバーチャロンに100円玉を積んだ思い出なんかが次々蘇ってきた。
とんでもないものを作る人がいる。
そうだ、楽しいゲームをプレイしたときの体験と感動っていうのはこういうものだ。ありがとう、それを思い出したし、世界は過去より進化している。
かつて夢に見た未来がここにある、そんなことを思った。
だって、フィールドを思い通りに走り回り、リアルな人間同士がスポーツのように対戦でき、公平で、平等で、みんなが活躍できる。
去年の5月から遊んでいる人達にとっては超今さらな話なんだと思うけど、これってとんでもないデザインじゃなイカ。
良かった、どうやら俺が枯れてしまったわけではなかったようだ。だって、ゲームで遊んで猛烈に感動したもの。良い物は良い、ていうのはこういうことを言うんだろう。
気が付くと、外は元旦の日が昇っていた。
信じられないことに、どハマりしすぎて正月になってしまったのだ。その時にはその日フク屋にあったギアは全部買い、その時持っていたギアの中で一番イカす組み合わせをコーディネートする程度にはインクの沼に溺れきっていた。ちょっと妻と子供たちには言えないが、ひどい年明けだけどどうしてなかなか気持ち良かった。
すさまじいゲームバランスと運営で成り立っている世界だ。幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦のスナイパーみたいなマニアと、たかしくん5歳(推定)やさくらちゃん4歳(推定)が同じ世界の上で楽しくワイワイとインクを塗って遊んでいるのだ。よくできたレベルごとのマッチングもあるにせよ、殺イカ鬼みたいなプレーヤーが前線で戦っている後方で、たかしくん5歳(推定)がコロコロとローラーでインクを塗って喜んでいるフィールド。みんなそれぞれ楽しい世界だ。任天堂だからできるっていうことはあるにせよ、ゲームで楽しませるんだ、新しい世界を見せるんだという思いがビシバシと伝わってくる。ガチャですり減るばかりのソシャゲのようなものとは本質的に違う。すごいゲームを作るものだと感心しながら家族の待つ実家に向かった。1月1日、俺の頭の中はカラフルなインクでいっぱいで、なぜだか不思議とクリエイティブな気分だった。
ところで、上の方にインターネットに関わる仕事をしていると書いたけど、もはや「俺たちのインターネット」的なコミュニケーションに特別な思いを抱く時代では無いんだなあ、っていうことを改めてしみじみと思った。
普段、仕事でわりと年配の方も使うWebサービスに関わっているんだけど、残念ながら2016年現在の今なお、インターネットを特別なもの、得体の知れない不穏なものと敬遠する層があり、そういう世界がある。世代間ギャップだけの問題だけではなく、サービスの内容にもよって向き不向きもある。流通業なんかだと、いまだに「リアル対ネットの戦い」だとか、「紙媒体とWebメディアの二項対立」なんていうものがあり、「オムニチャネル」なんていう言葉が持て囃されたりする。
仕方ないんだけど相変わらず、クラシックな層に対して「インターネットの普及」を懸命にやらなければならなかったりする(だいたいインフラの話とアプリケーションの話がごっちゃになっている)。正直ウンザリすることもあるけれど、それが現実だと受け止めている。
しかし一方で、イカのゲームで遊ぶ子供たちを見てつくづく考えさせられるのは、もはやこの世界で成長して大人になっていく今の子供たちにとってはインターネットがそこにあるかどうかなんてことは考えることすら無いし、我々が90年代後半から00年台にかけて見てきたような「俺たちのインターネット」としてネットの場を特別視するようなことも無いのだ。彼らにとって、ネットは電気や水道と同じようにあたりまえにそこにあって、ゲームをやろうとスイッチを入れれば、仲間や対戦相手が生身の人間であることがあたりまえなのだ。
既に、テレビゲームで遊んでいてそれがリアルかバーチャルかなんていう議論ももうあまり意味が無いんだろうなあ。それはバーチャルな場を使用したリアルであって、線引き自体がよくわからない。近い将来親になる世代に対してはネットは「普及」するものですらなく、このコミュニケーションがスタート地点ですらある世界がいよいよ本当にやってくるのだ。
思うがままに書いたけど、たぶん、ずっとゲームをやり続けてきた人から見たら何年も前から当然のようなことなのかもしれないね。
対人で対戦できるFPSやTPSだって、オンラインのRPGだって20年くらい前にはあったし、上に書いたようなネットゲーム体験はそれからずっと培われてきた技術によって成り立っているんだろうなって思った。
でも、そうやって新しい物好きやマニアの層が開拓してきた技術や経験がいよいよ一般層にまで展開されて、子供たちが何も考えずにその世界の上で育っていくという現実に、なんだかもううかうかしてられない危機感と楽しみみたいなものを感じずにはいられない今日この頃。
現実世界の酒の席、及びユニーク名SNS方面では、逆張り野郎のそしりを受けるのを怖れ一切話題にしなかったが、やはりキムタクの判断は正しいのではないかと思う。
そこらへんの世論のシーソー的に、キムタクの立場の正当性もそのうち語られるだろうと思っていたが、どうにもタイムリープ説など明後日の方角に話が進んでしまったので、匿名の場に吐き出したいと思う。
これは確かに重要で、恩人への裏切りなど人非人と言われても仕方がない。
しかしながら、その個人への恩義と、SMAPという巨大なプロジェクトを支えた人々への恩義
女性マネージャーへの事務所による不遇と、SMAPが終わる、もしくは変質することから発生する、より多くの人々の不遇
それらを天秤にかけるだけでも、女性マネージャーへの忠義立ては難しいのではないかと想像する。
ジャニーズ事務所のダーティーなイメージから、悪徳芸能事務所vs孤高の敏腕マネージャーというような対立構図をイメージしがちだが、当然、社会人の経済活動から生まれた軋轢というものに、どちらかが絶対的な正義などというものはありえない。
私の実家は自営で小商いをやっており、もし彼女のような社員が入社し良い成績を収めたなら、それはとても有り難い事なのだろうが、彼女が勝手にキャンペーンを張ったりセールを組んだりしたならば、それはかなり困る事になる。
さらには彼女の派閥が伸長してしまうと、母屋を乗っ取られる恐怖から、「太客いくつかあげるから、独立してくれよ」と迫ることは間違いない。
これは実家の3チャン経営陣の無能が故ではあるが、きちんとした企業であれば彼女を使いこなせるかというと、それも少し怪しいと思う。
多くの会社員は、会議などの生産性の無い社内ネゴシエーションに多大な手間と時間を割かれ、そこでようやく合意を得て、役職に応じた権限を得て、それからはじめて業務に勤しむ。
会社の仕来りを打ち破る社員が大いに活躍できたのは、人を見るに優れたリーダーが、フリーハンドを与えたからではないだろうか。
そんな彼女が失脚したのは、その派閥によって会社に強い危機感を抱かせたか、リーダーが力を失ったか、もしくは会社がワンマン経営から合議制へと育ったか、いずれか、もしくは複合的理由からではないだろうか。
無論ジャニーズ事務所の内部事情など知らず、ゴシップ記事を元にした想像にすぎないが、いずれにせよ会社として、社に従順でよく稼ぐ社員なら、切ることはしない。絶対に。
移籍先やみそぎ期間など業界の慣習も障害だろうが、そのへんをクリアしたところで、5人のうち何人が芸能界に残れるのだろう。
彼等が干されたところで生活費に困ることは無いだろうが、今後も満足できる仕事が得られるかとなると、かなり不透明だ。
さらには今までの仕事の成果物、音楽、映像などの権利関係がどこに帰属するかの問題があり、ひいては彼等の集大成であるSMAPという名前自体、消滅の恐れがある。
兎にも角にも、商売に客が居なければ成立しないように、アイドル業にはファンが居なければ何もできない。
私を含む、ゴシップ記事をニヤニヤ、乃至憤慨して見ている多くのネットイナゴ達は、SMAPに対して何ら物理的金銭的なアクションをしない。
ファン達は何を望んだのか、ものずごい人数が色んな意見を交わしており、何か合意があるわけではないだろうが、SMAPの作品を買うという大きなうねりが発生した。
それがジャニーズ事務所のSMAPで居続けてくれと願っているのか、他事務所に移籍してSMAPをやってくれと思っているのか、4人のSMAPを見たいのか、それは定かではないが、少なくともSMAPの作品を今後も欲しているという意思表示であったことは間違いない。
20代の数年間SIで働いた。1年以上前に退職して今は別業界にいる。
今日、Evernoteを整理していたら「退職理由、SIの嫌な点」というメモが発掘された。退職直前のかなりストレスがたまっていた時期に書き殴った文章だった。学生の頃の私は絵を書いたりしていて、ものづくりで暮らしたいな〜などと思って始めたプログラミングが楽しかったので安易に受託開発業を選んでしまったが、その後悔が如実に表れていた。
一部自分でも覚えていない話もあったがコンテンツとしては面白かったし、今でもシステムインテグレーター業界で消耗する若者を減らしたいとは思うので公開してみる。
以下、同メモに加筆・修正したものなのでファンタジーだと思って読んでくれ。
受注した時点で売上がおよそ確定するので、後はその予定工数に収めて納品できれば御の字という考え方。よくある話だが、見積がおかしくても顧客と対等な関係が築けていないから追加請求もできない。時間(工数)をかければ良い成果物ができるかもしれないがそれを説明して顧客に嫌な顔をされたくないから、限られた工数の中での最善を尽くす。最善を尽くす、聞こえは良いが要は手を抜く。
つまり、どう頑張っても売上は同じなのだから、良いもの・価値を生むものを作ろうと考えない人が多い。社内で開発者と呼ばれる人間もそうだし、マネジメント層はそういうものづくり志向を持った人をリスク扱いすることもある。
これが諸問題の根源で、いかに述べるような組織・プロジェクトが出来上がっていく。
マニュアル作業の正確さをかたくなに信じてる人だらけで、ITとは何なんだと考えさせられる。
私は定型作業を効率化しようとjsやrubyでスクリプトを書いたりしていた。テストデータを開発用DBに突っ込んだり、テキスト処理して整形したり、Excelからコード生成したりするよくあるやつ。
あるとき上司に肩越しに自分の作業を覗かれて「何やってるの?」と聞かれ、そういうスクリプトを作ってると答えたら、工数とリスクの話をされた。曰く「そのスクリプト作るのに何日かかるの?工数に乗ってないよね?」「スクリプトのテストもちゃんとしないと結果が正しいって保証できなくない?」と。この時はイラッとして「30分でできる数十行のスクリプトだし自分の作業工数内で完結する。むしろ後工程や別の人でも同じことを再現性できて楽になる」とか真面目に説明してプログラムも見せたが、読もうとはせず(読めないので)1時間無駄にした。
前述したようなビジネスモデルだから、営業力と、予定工数で無難にプロジェクトを終えるマネジメント力が大事。IT企業だが開発者は自社で持たない。不況の時に待機コストが発生するリスクがあるし、自社で抱えるより単価の安い開発者が人材派遣系の企業や下請けにいっぱいいるから。
社長があるとき社内広報で「技術は買うものだ」と言っていた。文脈で明らかに技術=技術者のことだったので、使い捨ての人売り業と揶揄されていることへの自覚が無いと思う。
そういう人が集まっているor残っている組織なので開発者はほとんどいない。20〜30人ぐらいの課に1人ぐらいの割合でstaticおじさんがちらほらいるぐらい。大体20代からプロジェクトリーダーという立場をやり始め、だんだん大型の案件を扱えるようになっていき、後は出世ゲーム。部長のお気に入りが課長になり、部門長のお気に入りが部長になる。その繰り返し。
開発案件でのBP(ビジネスパートナー、委託先、派遣、下請け)比率は自分の周りだと1:5ぐらいが多い。プロパー社員一人が5人の開発を仕切る、みたいな形。案件規模によりだいぶ差があると思う。この比率が高い=マネジメント力のある組織と考える会社はこの数字を上げようと必死で、比率の低い組織は評価が下がる。
私は開発が好きだったのでエンジニアとして生きていきたい、というようなことを評価面談の度に伝えているが、その度に会社の目指す方向を説かれてモチベーションが下がる。
上述の通り、案件で接する開発者は基本的に社外の人間なのだが、彼らの技術力と意識の高さにはものすごいばらつきがある。言われたものはなんでもこなせる人、何でこの歳まで技術者やれてるんだと疑う人、このプロジェクトはおかしいと良い意味で騒ぐ人、何も意見を言わない人、CっぽくJavaを書く人、人当たりは良いが技術力がいまいちな人、すぐ休む人、バグやミスを隠す人…etc。
まぁ色んな人がいるのはどの業界のどの職種も同じだが問題は質だ。私の主観になるが本当にエンジニアとして尊敬できるレベルの人は1%いるかいないか。というのも、ほとんどの技術者は長年SIやその周辺企業と付き合ってきているので同じ体質に染まっているのだ。顧客が良いといえば良いという態度(この場合の顧客は私が所属する企業)、請負の場合は工数を超えない範囲で手を抜く姿勢、その他諸々。技術力だけをひたすら磨き続けてきたという人はごく一部だけだったし、そんな人でもGitHubアカウント持ってない・ブログやってない・OSSに貢献したことない、といった具合でクローズドな世界で生きている。
そうした技術者とやっていく中で最も厄介なのが教育コストだ。案件のあるなしで人が都度入れ替わり、新しい人が来るたびに同じシステム・技術要素の説明をして何とかやる気が出るようモチベートして、というのを繰り返すのに疲れた。私の会社固有の変なルールの説明はてきとうにしておいて、私は技術が好きな仲間が欲しかったので今のシステムの課題と技術面での改善や展望をよく話す。が、あまり食いつかれることはない。これは私の問題だが、そうした期待と落胆のループも疲弊の一因だ。
ある時、一つの課に6年近くいるというBPと一緒に仕事をする機会があった。その課にはプロパーの技術者が長いことおらず、彼がその課の技術的中心を担っているという話だった。抜けられると途端に色んなものが崩壊するからという理由で、その人の派遣元にはかなり高額の単価を支払っていたと聞いた。課員が口をそろえて「あの人はすごい」「何でもできる」というので初めはかなり期待していた。
だが、拍子抜けした。あまりにも仕事が雑なのだ。コミットされたコードはTODOコメントだらけだし、バグがあまりにも多かった。一度も実行されずにコミットされ、他の人がチェックアウトした時点で判明したバグなんかもあった。それでも声が大きく、プロパーが技術を知らないのをいいことに自分のブランディングに完全に成功していた。客先にも顔を出し、信頼を得ているらしかった。「自分は設計が得意でテスト以降の工程には興味が無い」と言っていた。確かに彼が関わった各システムには独特の概念が埋め込まれた設計があったが、その複雑な設計は保守性が低く、他の開発者が触ると容易にバグを引き起こしていた。
また、彼はJavaの有名なフレームワークであるStrutsを拡張したいわゆるオレオレフレームワークを開発しており、それの出来は悪くなかったと思う。そのフレームワークに欠けているものをうまく補うような形になっていた。だがフレームワークのバージョンを上げると壊れるというのが残念な点で負債になりかけていた。
私は異動したが、彼は今でもそこにいると聞いた。
(最低限のものしか作らないから)安くて早い!という触れ込みで売っているので、テストの工数が異常に少ないことも多い。特にテストコードを書くなんてもってのほか。そういう世界でやってきた人ばかりなので、30や40超えたマネジメント側は「テストコードって何?」状態だ。大型の改修案件が来た時にはコア機能だけでもテストを書いていこうと見積段階から社内で提案したが「顧客に『そんなメリットあるなら何で今までのプロジェクトではやってないの?』って問われるから、絶対言うなよ」と拒否された。
保守案件をやっていた頃、時間を捻出してコソコソとテストコードを書いたりしていた。その案件を離れてしばらく後、ある時リポジトリを覗いたら私が書いたテストコードがばっさり消えていて驚いた。コミットログから課内のstaticおじさん的な人が消したとわかったが、そのコミットコメントが「現在使用していないコードを削除」だった。これはもう問う気も失せて何も言えなかった。
先述したようにテストがそもそもないプロジェクトが基本なのでリファクタできないのだが、たとえテストがあったとしても勝手なリファクタは許されない。ソースコードは顧客の持ち物なので同意なしに改変することはいわば契約違反なのだ。たとえ内的品質が向上してコスト削減に繋がるとしても、そのためにお金を支払う顧客はまずいない。
私がいたどの案件にもコードレビューがなかった。リーダーと開発者数人という構成の場合、まず開発者は全員下請けでリーダーは技術の心得がない場合が多い。そうなると彼らの成果物の良し悪しを図るのは目に見えるシステムの挙動と実施されたテスト結果のExcel報告書だけになる。これが非常に非効率で、少しコードを読めばわかる明らかなバグや仕様理解の齟齬が頻発していた。特に受入試験と呼ばれるリリース直前の顧客側での最終確認や本番稼働中におけるhotfixは全機能をきちんとテストせずにデプロイされることが多く、そのhotfixがさらなるバグを引き起こしたりもしていた。
そもそもテストを書けという話だがテストが無いプロジェクトに足すのはかなり大変なので、レビューサイクルをきちんと回すだけでもかなり変わる。実際、私が入った案件ではすべてのコミットに目を通すようにし、明らかな問題は都度指摘することで品質の向上に繋がった。欲を言えば他の開発者にもレビューしてもらいたいが、下請けの彼らの工数を増やすことは嫌がられる。
無難にプロジェクトをこなすことと新しい技術を試すことの両立こそ技術者の腕の見せどころだと思っているが、ほとんどの場合それは許されなかった。新規にせよ継続にせよ案件を受注する段階で営業やマネジメント層と顧客間で「今回は過去に実績のあるこの技術でやります」という契約が結ばれているからだ。その技術(言語やフレームワーク)がいかに古く、保守性も将来性もないものだとしても受注できればよいし、その技術のサポート切れか何かの拍子で再度リプレイス案件でも受注できればさらにラッキーぐらいの考えでいる。
また横に倣えが加速してさらに悪い事に、同じアーキテクチャ・ネットワークを再利用するために既存のサーバに新システムも相乗りすればよいという発想も珍しくない。「資産の再利用によりコスト削減」という触れ込みだったが、ただでさえスケールしない低スペックのオンプレミスサーバ上で複数のアプリケーションサーバを運用した結果、予想通り耐障害性が下がった。
また、Oracleのライセンスが高いという理由で一つのDBインスタンス上に10数個のシステムが同時稼働しているなんてこともあった。1つのシステムが高負荷なクエリを投げたせいで関連する全システムが共倒れになったこともあったがOracleのバグとして報告していた。
新人の頃にOJTでstaticおじさんの下に付いたことがあった。そのとき担当したのはPerlでデータ連携用のバッチを書くという開発業務だったのだが、最悪の思い出だ。
まずプログラム構造仕様書というのを書かされた。メソッド単位でのモジュールを全てExcel上に記述し、処理の順番と内容を説明するという謎資料だった。あまりに意味がわからなかったので「UMLのクラス図を書けばよいのですか?」と聞いたら「Perlにクラスなんて必要ない。構造化プログラミングを研修でならってないのか」と返ってきた。「俺が前に書いたPerlのバッチがあるから参考にしろ」と言われ、あるリポジトリをチェックアウトして見てみると1ファイル4,000行の.plがいくつか並んでいた。その時の私は何もわかっていなかったのでそういうものかと思ってしまったが後で調べて明らかにおかしいと気づいた。
また、そのプロジェクトのメイン言語はJavaで、Eclipseを使っていたのでPerl用プラグインを入れてコーディング・デバッグをしていたらやめろと言われた。理由は「Eclipse上で動くPerlが信用できない。サクラエディタで書いてプリントデバッグすれば充分だ」と言われた。その時の私は何もわかっていなかったので、プラグインの品質が悪いとかそういう話かと思い「じゃあvimで書きます」と言ったら「サクラエディタにしろと言っただろ!」と一喝され、vim vs サクラエディタという史上類を見ないエディタ論争が起きた。
SI業界の中では高いのかもしれないが決してよくはない。4年目(たぶん25歳)ぐらいで残業込みで年収400万にやっと届いたがそこからほとんど変わっていない。30歳の先輩に聞いたところ「500万前後、残業してない場合の月の手取りは未だに20万切ることがある。残業抜きでは新婚生活が厳しい」と言っていた。いわゆる年功序列がきっちりしていてこのまま続けてもしばらくは給与が伸びないということがわかった。
個人での貢献で差がつくのは±10万程度。その程度ならいっそ無くてもいいのでは、と思う。というかそもそも生産性をきちんと評価する制度が存在しない。これはどの組織でも難しい問題だと思うが、形骸化した評価制度で上司の気に入った人間にS評価を付けているだけならいっそ止めたほうが時間の無駄にならなくてよい。
会社から貸与されるノートPCは低スペックすぎて開発には使い物にならない。なので開発者は基本的にデスクトップを使用せざるを得ないのだがこれもメモリ4G、1.2GHz程度で大したマシンでもない。本当に開発する気がない。
いつの間にかどこかで意思決定がされていて、関与する機会がほとんどない。だがほとんどの社員がそれで良いと思ってる。失敗しても自分が決めたことじゃないから上層の責任だ、そう言えるので楽だから。
情報共有をしない、というか意図的にしないようにしているとまで感じる。連絡はメールと添付ファイルベースで行っているし、共有のファイルサーバなんてのもあったが一部のフォルダは権限を持った人間しか見られない。何で他の部や課が行った過去の見積や提案資料が自由に見られないんだよ。
ソースコードのリポジトリも同様。外部に公開しないのはまだわかるが、プロジェクト外にすら基本は公開していない。別に奪われて困る大した技術もない。
会社が用意した提案資料共有サイトみたいなのもあったが、それに至ってはもっとひどい。課長以上もしくは部長から承認を与えられた者のみ閲覧可能。共有とは。
どうでもいいことを決めるにも承認や根回しや説得が必要になる。それがプロジェクトの利害関係者ならまだわかるものの、まったく関わっていない上長(課長や部長、時には部門長)を通さないと進まないという異常さ。
利益率向上のためにコスト削減ということがしきりに言われており、過剰なコスト削減対応が生産性の低下を招いている。たとえば顧客に見せる資料以外は白黒で印刷しろ、みたいなルール。色がないために情報が伝わりにくい。というかそもそも印刷せずに各自のノートPCで見ろという話だが、先述したようにノートPCは低スペックすぎるので多くの社員がデスクトップを使っている。ITとは。
本当に無駄としか思えない承認・申請フローの煩雑さに加え、使っているシステムの使い勝手も悪く、ひどい日は一日がそうした事務作業で終わる。しかもそのシステムは自社で以前開発したものだというから泣けてくる。こんな作業が定常的に発生するのでいっそ事務員を派遣で雇うべきという提案が何度もされたが、課の予算をオーバーするから無理だという回答しか返ってこない。
表向きは社員の健康促進という触れ込みで残業時間削減を全社的に取り組んでいる。残業減らせと声をかけただけでは誰も帰らないので、勤怠システムと入退館管理システムを監視し、削減できていない組織や人間の評価を下げるようになった。
その結果、サービス残業が復活した。30時間を超えると部長に説明しないといけない、50時間を超えるとその上へ…みたいなループ。表向きの残業時間削減・コスト削減としては成功したかもしれないが、社員の残業時間を管理するとかいう無駄な仕事を増やしたし、管理される社員のストレスとサービス残業に繋がったので下策だと思う。
他人の残業時間をExcelにまとめる仕事があって、そこに給与が発生してると思うと泣きたい。
そもそも無駄な作業や工数至上主義で作業効率が悪いから残業しているので、残業が少ない奴が偉いと一斉に舵取りしただけでは生産性をちゃんと評価できていないことに変わりはない。一昔前の残業多い奴は頑張ってて偉い、というのと本質レベルで何も変わっていない。
こういう経験を一度でもしたことのある、もしくは身近にそれを見てきた人間であれば、今回のあの騒動はそれほど驚くべきことではない。大小に関わらず、身内企業では実によくあることだからだ。
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信用と業績の中心を失った企業は緩やかな死を迎える
もしこれで能力のある第三者が離脱せずに経営者側と和解なく経営権を剥奪するというのなら、それはクーデーターにほかならない。
一見して筋道の通った話に聞こえるかもしれないが、これは他人の私物を奪う行為だ。なぜなら、労働者の生産物は常に経営者の資本の上に成り立っているからだ。
自らの資本を持って一企業として自立して、市場から占有率を奪い取るのであればわかる。それこそが自由経済の原則だ。他人の資本で成長しておいて、培った実効支配力を持って母体を乗っ取る行為は寄生虫のそれと何ら変わりがない。
経営者側としては、こうした企業倫理の崩壊を防ぐために時に売上よりも理念を優先する必要がある。売上につながるからといって能力者の行動を野放しにすればいつの間にか企業内の正義が逆転してしまうからだ。
もし有能な人間が、今の企業のスケールが自らの能力に合わないと判断したのであれば今すぐにでも自らの資本で起業すべきである。もしそれができないというのであれば、それは自らの能力に対するおごりだ。なぜなら、その成果物全ては企業の資本があってはじめてのものだからだ。それを忘れて自らの能力を主張することは、エゴ以外の何ものでもない。
ときにそうした人間が会社の批判を行い、さらにそれに多くの人間が同調する姿を目にすることが、それが身勝手以外の何物でもないことは言うまでもないことだ。
しかし、ここには経営者側、能力のある第三者側に共通して不足していると言える点がある。それは自らの立場に対する自覚でありおごりだ。
企業の売上であり利益は、決して個人の活躍だけで成立するものではない。言い換えれば、企業や組織のブランドとは、そこで働く人間全員によって作られているものだからだ。そのブランドを背負うことで、はじめて個人の能力が発揮されているということを忘れてはならないのだ。それは企業で働く人間誰ひとりとして忘れてはならない原則といっていいだろう。
考えてみて欲しい。もし自らが、自らの属する組織や企業の評判の全く届かない土地に立ち、何も持たない状態で今の報酬と同じだけの収益を直ちに得ることができるだろうか。それができないというのであれば、その部分は自らが属する組織に依存している部分にほかならず、それを自らの所有物であると勘違いしている証拠なのだ。
しかし人間とは往々にしてこのことに対して無自覚である場合が多い。だからこそ企業は寿命を避けられないし、つまらぬいざこざで能力のある人間が露頭に迷うことが絶えないのだ。
今回の一見を、メディアはこぞってアイドルグループ解散の危機と報じた。しかし、見極めるべき問題の本質はそこにはない。なぜならそこにあるのは一企業存続の危機であり、そこで働く人間たちの生活の危機にほかならないからだ。口を開けてしまった溝を埋めることも、一度生じた不信感も、ましてやぽっかりと穴が空いた能力者の席も、取り戻すことは容易ではない。
今回の件において残念に感じたことは、どこにおいても大人が不在だったことだ。誰しもが自らの利権と正義のもとに行動し、それによって利害が生じる守るべき人間たちを置き去りにしていたからだ。これこそが日本企業が世界に最も劣る点であり、企業寿命が伸びていかない一番の理由でもある。
自らの類まれなる能力に自覚がありながら経営側と折り合えない悩みを抱える人間は、一度の足元を見なおしてみて欲しい。育ててくれた会社も、信用してついてきてくれた人間も、そして自らの家族も、すべてを失ってしまったわたしのようには絶対になってはならない。
スキルや知識は10年以上前でとまってる、コードもおざなり、開発フローの構築とか分かってないんじゃないかなと。
理由を聞くと大抵そこまでやることじゃないだのいう、そのくせこっちが作った成果物は効率化の為によこせという。
次に言う事がポジショントークが過ぎる、上司がいう事は俺は言った、聞いてない方が悪いと言った言わないに持っていく、議事録とらないのと聞くとそこまでじゃないと言う、
相手が言った事で上司がミスると伝え方が悪い、分かるように説明しろって論調、あんた以外分かってるよ。
言う事もめちゃくちゃ、(最大限譲歩すると、筋とかすってはいるが大抵)関係のない話を混ぜて脱線は常、
基本信用出来ない、疑問は同僚に聞いてる、上司からしか得れない情報は間違い交じりの発言から真実を見出さないといけない、
嘘を嘘と見抜ける人でないと開発は難しい。
古い知識で知ったかぶったり俺ならもっと上手くできるとかいつも言ってるが、
調査資料を引継ぎ、その内容の使えなさを確認したあとに自力であんたが出来なかったことをより短期間で解決とか常だから。
そのくせ人の上には立ちたがる、口を出したがる。
一緒に仕事をしてると汚い言葉を吐きたくて仕方がなくなる、テディペアのぬいぐるみと仕事した方がよっぽど良い。
もう辞めちゃおうかな
私は変にプライドが高く、黒髪、メイクに抵抗があるスッピン喪女だった。外見に関しては世間の人様が私と一緒に歩いてる所を「誰かに見られたくない」と思われない程度の「清潔感」や「小奇麗」なスタイルをしていた程度だった。因みに腫れぼったい一重。コンタクトレンズも怖くて出来ない人間だったから授業中だけ眼鏡。
勉強を頑張ったり、何かしらの成果物を残す方向で、皆に認められようと努力し、クサイ言葉だけど「ありのままの自分」の姿で生きてきた。
メイクに抵抗があるのは、中学の頃からずっと。何だか顔に美術を施してるみたいで…何よりもメイクしたら最後。まるっきり自分の顔じゃあない。本来の自分はどこ?
正直顔面詐欺だ。詐欺な顔で友達を作っても(釣っても)、この顔で寄ってきた子達と友達になっても真の友達じゃないし、何か仕事をしても正当な評価じゃないから。だから、不細工だけど小奇麗にしていて数字を残していれば、私はそれで良いと思い込んでいた。
それは、非常に浅はかな考え方だった。それに気が付いたのは、進学してからだ。
1個上の先輩を好きになった。電車の窓に映ったスッピンの私の顔がどこか「女」の顔になっているのが、自分でも解った。ほっぺたはどこか赤いし、表情が違う。変な言い方をすると、世界中の人達を愛せる様な、今なら何でも許せる、そんな大らかな気持ちを抱いてた。体中がポカポカして、無意識にスキップでもしちゃうんじゃないかって位。
先輩に告白したい。でも出来ない。しちゃいけないって解ってた。理由は2つ。
好きだったけど、偏差値も人として(既に先輩は大人と対等に会話できる人だった)色々スペックが違い過ぎて。お呼びでない感はもう空気感で伝わった。私は告白なんてする土俵にすら上がれない事は、本能的に悟った。だから、告白できなかった。
それから、先輩は煌びやかな造形美な女性が好きだった。北川景子や佐々木希、滝川クリステル。同級生や学内に居る女子に対しても、そう言った華やかな女子に対する態度と、素朴な女子に対する態度とはあからさまに違っていた。
私は自分のちっぽけなプライドをへし折って、メイクしたり垢抜ける事は出来なかった。結局は自分の個性を、私は取ったんだ。初恋だったのに。今ある自分の素材の範囲内でのオシャレと減量(163cn 46kgになった)。私のプライドと折り合いを付けた努力は、その程度だった。案の定、造形美な華やかな女子や先輩方とは、足元にも及ばなかったし、一緒の空気さえ吸えない程の外見。
そうこうしていると、私は某男子から告白された。外見が太ってて背も低くてキモい男子だった。例えるなら、銀魂の「ハタ皇子」そっくりだ。性格は社交辞令を真に受ける様な、それでいてナルシストな男子。学校の皆は彼を茶化しちゃいけない相手として接してきた。何か茶化したら、ちょっとした一言で自殺しちゃうんじゃないか。そんな様な男子。
どこかのブログで「僕は性の対象として観てない女子から、性の対象として見られていたと知った時ゾッとした。好きでも無い女子から告白された時、「死ね」と思った。精神的にもダメージが大きかった。だから、不細工と自覚している自分からは絶対に告白しない。正直言って、相手の女性からしてみたらテロの被害者である。」というのを読んだ事がある。
まさにその通りだった。私は彼から告白された時、丸で末期がんを診断されたかのような、奈落の底に突き落とされた。
私の事が好きな事は何となく解ってたけど、クラスメートとして、適度な距離を取りつつ、挨拶をする程度にしていた。私は彼に対して決して誤解を招く様な発言も行動もしてなかったと思う。害はないと、思っていた。だから、ノーガードだった。突然呼び出されて、告白された。
「何で私なの?」
「だって、〇〇さんは美人だし、△△さんは可愛いし、僕には到底告白なんて無理だから。でも、貴女は僕とあいさつしてくれるし…」下を向いたまま、何故かコーヒーのストローの紙でずっと折り紙?をしている。
つまり、私は彼にでさえ「コイツなら嫌とは言わないだろう。素直だから、自分の意見を持たない良い子だから、自分にも手が届きそう。」と思われていた程度の存在だった。
自分の市場価値というものを、痛いほど実感した。先輩に好かれたいとか告白なんて、もう絶望的なレベルの人間である事も、十分痛感した。
こんな精神的に病む事を、先輩に経験して欲しくない。だから、今の私は、先輩を好きになる事すら迷惑がかかる存在。一方、ハタ皇子の気持ちもよく解る。だから丁重にお断りした。それでも毎日毎日、距離を縮めてきて「友達だから、良いよね?」と昼食を同席してきたり、フィールドワークの際もついてきた。終いには、「昨日、忙しそうだったけど、なんのイベントだったの?友達なんだから聞いても良いよね?」とやたら詰め寄ってきた。
「友達」という大義名分で、どんどんとハタ皇子が近寄って来て、気持ち悪いという気持ちがやがて、「ウザイ」になった。
「いい加減にしてよ!」と叫びたかった。でも、言えなかった。私も、一歩間違えれば絶対に先輩に盲目になり猛アピールしてたと思う。そうなったら先輩は私を再起不能にするまでに一喝するだろう。それを想像すると、背筋が凍った。だからハタ皇子の気持ちも解るし強い口調で「いい加減にしてよ!」だなんて言えなかった。
私は、考えるに考え、笑顔を作りつつも、徐々にフェードアウトして、なるべく同じ授業を取らない様に、気を使いながらニアミスしない様に、学校生活を送った。
そして7年が経った。
私は卒業してから、アイプチに手を出し、都内の有名美容院巡りを経て出会った女性スタイリストさんが独立して経営する小さな美容院に通っている。
お堅い仕事柄、スーツだけれども、私服も、シンプルながらも地味すぎない、小物を使ったファッションを採り入れて、無理のない、背伸びをしない、オシャレを楽しむ女性になった。雑誌は買わないけれど、オシャレな女性を見ては真似をしたり、服の配色や自分が絶対似合う服を把握。女を楽しんでると思う。
アイプチの効果は偉大だった。周囲の人たちの態度がまるで違った。人扱いから、贔屓扱いしてくれるようになった。「可愛くなったねえ」「お姉さんになっちゃってまあ」。苦手だったコンタクトも克服できた。因みに、つけま・カラコン無し。アイメイクもアイプチだけ。と言うか出来ないよね、アイプチノリだし。
社会に出てから、男性から告白されるようになったし、「美人」とか「班のマドンナ」とか言われるようになったり、視線も多く浴びるようになった。周囲から見返りを求めずチヤホヤされる事も初めてされた。女扱いが初めてばかりので必然的に私は、しどろもどろで腰が低くなる。「調子に乗らない良い子」「付け上がったり高飛車じゃないから良い」とか。
人間ってここまで私は変われるんだ…プライドをへし折った、それだけで。別世界な社会人生活を送っている。
人間ってここまで外見が違うと扱い方が変わるんだ…。人間不信じゃないけれど、人間の心って不思議だな、と思った。同じ「私」なのに。
漸く、軍資金も、経済基盤も、社会人としての生活も、衣食住も、整った。
けれど、卒業後から同窓会などには一切出ていない。例の先輩に私が何故か告白しフラれた事になっている様だ。そしてハタ皇子からはリベンジをされそうなので(実際FBに友達申請が来た)恐いし、正直行けない。先輩の件も、ハタ皇子の件にしても、その二つを考えると、どうにも腰が重くなった。
経済的にも精神的にも女としても、成長したら、先輩に告白するつもりだった。今がその時だと、思ってた。腰が重い…でも、その思いはムダだった。
既に先輩は就職して赴任先で出会った、同業他社の女性と結婚したみたい。去年から東京に戻ってきたみたいだけれども、もうパパなのかな。
「遅かったか」と思ったけれど、不思議とショックはそこまでなかった。だって、好きならお互い自然にそうなってたはずだし。それに、社会人になってから「人を好きになる事」という事を改めて実感した。身が焦がれるような恋が、この世にこんなにあるんだって事も知ってしまったから。素敵な男性が、沢山いるんだって、知ってしまった。
だったら学生時代に、告白してればよかった?という思いがよぎる度に、ハタ皇子からの告白の精神的ダメージを思い出し「私は正しかったんだ。」と思えた。
何よりも、このプライドの高い私が、メイクに手を出し、自分を変える・捨てる、なんて一新させ、今の生活があるのも、ハタ皇子のおかげなのだ。
ハタ皇子が私の市場価値の低さを、結果的には教えてくれた、目を覚まさせてくれたんだ。
いつか、私が好きになる男性に、失礼のない様に、見た目も可愛くなる様に、ほどほどに気を配るつもり。
因みに、二重になったので、今はアイプチを卒業。今は普通に昔の同期と会ったり、先生と会ったり、コミュ障も大分なくなったかな。
私にとって、自分を見つめる事は、とても大きな壁だったけれど、強引な形で向き合わざるをえなかった事で、喪女的外見から卒業できました。
でも、矛盾しているけれど、今でもスッピンで勝負している女性達にはエールを送りたい。私は負けたけれど、彼女たちの「ありのままの姿」で家族を持ち生活を送る方々には敬意を示したいと思っている。
乱文で御免。ここまで読んでくれて、有難う。
就職してもうすぐ3年になるので、仕事に対する不満について書いていこうと思う。
細かな不満はたくさんあるけれど、私が仕事をしてきたなかで、最もイラッとしている不満だ。
私はとある広告制作会社に採用されて入社したのだが、私はその会社にとってはじめての新卒入社だった。
当時は会社の業績が順調に伸びていたので、二人ほど新卒を入れようということになったらしい。
私は少人数で仕事もすぐに任せてもらえるという話に惹かれて、この会社を選んだ。
ちなみに、私の同期になるはずだった男の子は、内定を辞退したため、実際に入社したのは私だけだった。
大学を卒業したての私は、当然のことながら、右も左もわからないひよこだった。ただ、まあまあの学歴だったので、期待されていることはわかった。
働き始めて最初の三ヶ月は、広告制作の研修に当てられた。広告の制作には難しさも感じたが、とても楽しかったし、責任の重さも感じることができ、手応えを感じていた。
しかし、この時点で、疑問を感じることもあった。ビジネスマナーの研修がほぼ全くと言っていいほどなかったのだ。
私は就職活動に備えて、秘書検定を取ったり、ビジネスマナーセミナーに参加したりしていたが、そうしたものと実際に仕事場で行うのとは勝手が違うため、不安だった。
周りを見て、電話の対応やお茶汲みお茶出しをしてはいたが、他の企業に就職した友達の話を聞くと、しっかりとした研修があったようで、羨ましいと思った。
はじめて新卒をとった会社だから、このあたりは仕方がなかったのかもしれない。
制作の仕事は、どのような業界でも基本的に下請けである。自社の営業担当が直接クライアントから取ってきた仕事もあるとはいえ、ほとんどの仕事は、大きな広告代理店から下りてくるのだ。
ごくごく簡単に書くと、クライアント→広告代理店→制作会社という形だ。
私たちは、クライアントと広告代理店の人たちが決めた方針に沿って、広告を制作することになる。
しかし、広告の方針まで制作会社に丸投げしてくるクライアントや代理店もあり、その境目は曖昧だった。
広告を実際に制作しはじめて間もない頃、私は広告代理店の担当と打ち合わせをしていた。
その広告は、いわゆる丸投げのもので、私が広告の方針まで決めなければならないと上司から聞かされていた。
そこで、私は制作の傍ら、色々とクライアントや業界について調べて方針を立て、打ち合わせのときに、広告の方針について広告代理店の担当に提案をした。
そこで担当の表情が一変した。
実は、打ち合わせをしていた広告は、クライアントと代理店が方針を決めるものだったのである。つまり、上司の話していたことが間違っていたのだ。
その時以来、私は、職分を守らず、あろうことか取引先に口出しをする傲慢な人間として、代理店の担当の人々に扱われることになってしまった。弁明の機会も一度もなく、いきなりである。
最初は理不尽に感じたが、今となっては、これが下請け会社の日常なのだとわかった。
ちなみに、こうした口出しが逆に好まれるときもあるので難しい。成果物提出まで時間がないときは、担当を飛ばしてクライアントと直接コミュニケーションをとることも頻繁にあり、そのような場合は、むしろ口出しが好まれるのだ。
だが、もちろん、基本的に職分をおかしてはならない。新人だからといって、甘えは許されないのはわかるし、今考えると、自分の機転とコミュニケーションで解決できた部分もたくさんあった。
これはとても反省している。
しかし、納得できないのは、上司の指示が間違っていたことだ。上司にあちらが方針を決める案件だったみたいですと報告したところ、あら、そうだったの、という感じで軽く流されたことにもいまだに腹が立っている。
あの一件のせいで、いまだに私は、広告代理店の担当者たちに、自分では仕事ができると考えている傲慢な人間という扱いをを受けたままなのだから。
しかも、こうした指示ミスはその後も頻繁にあった。代理店と私の会社の上司の指示の食い違いが私に降り掛かってくるので、とてもイライラしている。
しかし、不思議なのは、上司には別に悪気がないようにみえることだ。おそらく、悪気はないのだろう。ではなぜ、こうした食い違いばかり起きるのか。
思うに、いままで上司がやってきた仕事のスタイルを新卒にそのまま当てはめることができなかったのだろう。
代理店から見て、私の上司に許されていることが、新卒である私には許されない。なぜなら、新卒である私には経験が不足しているからだ。だが、上司は自分の仕事の方法そのままを私に伝えてくるのである。
新卒である私を通して、こうした一般化できない部分が明らかになっているのが今の状況なのだ。
はじめて新卒を採用した会社では、こうしたことが起こりやすいのかもしれない。
いまでは、他の企業には存在するという中間研修も一切なく、これでいいのかと首をひねる毎日を過ごしている。
他の会社に新卒で入っていたらどうだったのだろうと思わずにはいられない。
ちなみに、私の入社した年にも新卒採用を実施したようだが、誰もとらなかったようだ。いや、とったが辞退されたのだろうか。その可能性のほうが高そうである。会議でも採用についての話をしていたし、リクルートスーツを着た学生らしき人たちもいたので、面接は実施したはずだ。
もちろん、この会社に入って、いいこともあった。少人数なので面白い仕事も回ってくるし、上司を含めて、基本的にいい人たちばかりである。採用してくれた恩義も感じている。だが、流石に、危機感を抱いてきた。
近年見るに耐えない退職エントリや退職報告が多いのですが、エンジニアって文字を書くことに関しては恐ろしく下手くそなのか、マニュアルや仕様がないと何も出来ないのかのどちらなんでしょうか。
前者だったらどうしようもないけど、後者だったら「これをやってはダメ」というのを教えてあげることで少しはマシになるかと思ってこのエントリを書きます。
著名なエンジニア以外、退職報告なんてしなくていいです。あなたの退職に興味を持っている人は、辞めたことを人づてで聞きます。わざわざブログやTwitterでの報告は不要です。あなたは著名じゃないですし、世の中のほとんどの人は、あなたが会社を辞めたことに興味を持っていません。あなたの退職を知らなくても、何の問題もありません。Facebookでステータスを変更して、そこにコメントをくれた人に返信するくらいで十分です。
退職というのはそこそこ一大事です。人生において結婚は大体1度前後ですが、退職も大体1度前後でしょう。何か書きたいと思う気持ちはわかります。そういう場合に、以下の点について気をつけて下さい。
これを守っていない人がたくさんいて軽いバカ発見器になっていますが、基本的に退職日以前に退職を発表する(退職エントリを書く)のはやめましょう。事前に会社に確認を取っているなら退職日以前に発表しても良いですが、1ヶ月前後したところで何も変わりません。退職エントリを急いで書く必要はまったくありません。最終出社日が終わった後であっても、法律上はまだ社員なので退職報告は控えましょう、きちんと書類上の退職日が過ぎ去った後で報告すべきです。はやる気持ちはわかりますが、ちゃんと退職を待ってから退職エントリを書きましょう。
理由についても一応説明しておきます。まず会社において人事関連の情報は大変重要な情報です。まともな会社なら、就業規則等で守秘義務で守られているのが一般的です。それが自分の進退であっても、当然その範疇に入ります。社会人として所属している組織の情報を無為に漏らすのは言語道断です。自分の情報だと皆さん気軽に共有しがちですが、ここはしっかり守りましょう。
また一般的に、会社を辞めるというのは「会社に不満があった、もしくはより良い待遇の会社を見つけた」ということがほとんどであり、前職に対して多かれ少なかれマイナスイメージをもたらすことが多いです。在職中に在籍している会社のイメージを下げるのは、コンプライアンスの観点からあまり優れた行動とは言いがたいでしょう。せめて会社の所属を離れてからにしましょう。
なお、特にスタートアップに転職した人の中で稀に見ることがあるのですが、まだ退職日が過ぎていないにも関わらず「すでに働いています!」みたいなことをブログやTwitterで報告しているアホがいます。絶句するほどにアホです。そこで働いた成果物は前職のもの、と主張されてもおかしくないですよ?スタートアップはリソースが足りないので即座に働く必要があるのかもしれませんし、それがバレなければとやかく言うつもりはないんですが、たとえば会議などにとどめてコードはコミットしない(後々買収されたりしてコードの履歴が明らかになる可能性がある)などの配慮をした方がいいでしょう。正式に辞める前に働いていることを公言するのはアホの極みです。
前の会社で嫌なことが積み重なって転職する場合、前職の悪口を書きたいと思う気持ちはよくわかります。そして世の中にそういう転職エントリはあふれており、読む分には面白いです。これに関しては本人の気持ちの表現方法の一つなので止めはしませんが、「できるだけやめたほうがいい」と助言をするにとどめておきます。
まず、あなたが著名なエンジニアだった場合、「悪口をネットで書くような人だ」と思われるのは大抵の場合大きなマイナスです。それが事実であろうとも、その人の将来の可能性を狭める行為であるのは間違いありません。まあ最も、著名なエンジニアは滅多にそんなエントリを書いたりしないので問題無いでしょう。
さて、あなたは「自分は著名なエンジニアでないから大丈夫」と思うかもしれません。確かにあなたの退職エントリは、あなたの関係者にしか読まれません。主に前の会社の人、次の会社の人、Twitterのフォロワー、です。そして一般的に業界は大変狭く、転職は同じ業界内で行われることがほとんどです。あなたの悪口エントリがうまくバズれば、前の会社に効率的にダメージを与えられるかもしれませんが、結局それは一瞬のことで長くは続かないものです。一方、あなたの関係者は「あなたがそういうエントリを書く人間だ」と認識され、その印象はずっと付きまとうことになります。結果として、あなたの評判はあなたの知らない所で傷ついていくのです。
直情的に行動してしまうエンジニアに何を言っても無駄ですが、「悪口を書かない」というのは理性的な人にも大事なことです。やはり前の会社に含む所があれば、ちょっと婉曲的に悪口を書いてしまったりするものですが、そういうのは一発で伝わります。特に前の会社の同僚などは一発でわかり、嫌な気分になるでしょう。人を嫌な気分にさせる文章は、書くのは自由ですが、公開しないほうがよいと思います。
はれて転職を果たし、新しい会社での生活がバラ色に見えているのはよくわかります。でもそれを書くのはやめましょう。痛々しいです。
今まで色々な転職者を見てきましたが、潜在的に自分の転職に不安を持っている人の方が、より積極的に「転職してよかった」「仕事にやりがいがある」「今の環境最高」みたいなことを書いています。書かないと不安なのか、それとも思い込もうとしているのでしょうか、そういう人たちは結果的にあまり幸せな転職をしていないことがほとんどで笑えます。皆さんもウォッチしてみるといいでしょう。
まあこれは、痛々しいだけなので、別に書いてもいいです。付き合い始めのカップルがTwitterとかで永遠の愛とかを語っているみたいなもんで、こちらとしては半笑いしながら眺めているだけなので。
まあ書かないのが一番だと思うんですが、はてブ数を稼ぐ千載一遇のチャンスであるとか、どうしてもウィッシュリスト乞食をしたいとか、理由は色々あれど「書きたい」という人は多いでしょう。退職日以降に書く、前職の悪いところは完全に忘れて書く、今の会社の良い所は書かない、というのを守った上で、何を書けばいいでしょうか。
やはり一番重要なのは、前の会社でお世話になった人への感謝などでしょう。もっとも部外者がこれを読んでもちっとも面白く無いのが難点ですが…。
また、新しい組織の中で挑戦したい夢を語るのもいいかもしれません。転職という手段をなぜ選んだのか、これから今までと違う形でどう社会に貢献するのか、みたいな話ですね。ま、大抵の人は「今の自分に足りない技術を求めて…」みたいな自分語りになるので、これも面白く無いのが難点なんですよね。
というわけで、真っ当な退職エントリを書いても面白くないので、書かないのが一番だと思うんです。だれもあなたの退職なんかに興味を持っていないのですから。