はてなキーワード: 大同小異とは
「人魚の肉を食すると不老不死・不老長寿となる」という物語は、八百比丘尼の伝説・昔話として有名でもあるし、仮にそれらを読んだり聞いたりしたことは無くても、高橋留美子の連作漫画『人魚の森』シリーズを読んだから何となく知っているという人も少なくない。
しかし、そもそも何故、人魚の肉を食したら不老不死・不老長寿となるのか?その理由というか説明については、知らない人も多いのではないだろうか。
これを書いている増田が、その理由らしきものについて書かれたものを最初に読んだのは、神話学者・大林太良の著書『神話の話』(講談社学術文庫)であった。この現物を、確かに所有しているはずなのに本棚や倉庫の中から見つけられないので、ここでは記憶を頼りに大林説を書き起こすが、もしも『神話の話』の現物を持っている人は、そちらを見た方が早い。図書館で探してもよい。
まず、八百比丘尼伝説の概要は、大同小異、以下のようなものである。「龍宮の主を助けた漁師が、龍宮に招待されて主から宴などの歓待を受け、家路につく際に主からの土産として、人魚の肉を貰い受ける。聞けば、それを食した人は、不老長寿となるという。家に持ち帰ったはいいものの、人魚の肉を食べるのに怖気づいた漁師は、いったん戸棚にそれを保管する。しかし、漁師の留守の間に、彼の娘が人魚の肉を食べてしまう。人魚の肉のことを父から聞かされるが後の祭り。はたして、娘は不老長寿となってしまう。父親である漁師も、娘が結婚した夫も、近所の人たちも、漁師の娘が愛した人たちは皆、寿命が尽きて世を去るが、彼女だけは不老長寿の若々しいまま、この世に取り残される。その孤独な境遇を嘆いた娘は、仏門に入るものの、その後も長く若々しいままで生き続け、とうとう八百比丘尼(八百歳の尼僧)と呼ばれるようになり、最後は洞窟の中に籠もり、人々の前から姿を消す」
大林太良によれば、これと殆ど同じ内容の話が、朝鮮半島・平壌の仏教寺院の伝説として残るという。但し、日本の八百比丘尼物語には見られないディテールとして「結婚して夫を迎えたが、子宝に恵まれない」という描写が、朝鮮半島版の物語には有る。
つまり、人魚の肉を食することによる不老不死・不老長寿の獲得は、生殖能力を喪失するというトレードオフになっている。このような不老不死性と生殖能力のトレードオフは、八百比丘尼の物語にだけ見られることではないことを知っている人もいることだろう。
例えば日本神話では、人間の寿命に限りが有る理由として、ニニギノミコトがオオヤマツミノカミから娘の女神を嫁に迎える物語が語られる。オオヤマツミには二人の娘、姿形が麗しくないイワナガヒメ、姿形が麗しいコノハナサクヤヒメがいた。ニニギノミコトは、見た目を重視してコノハナサクヤヒメを選ぶが「イワナガヒメを選んでおけば、不老不死でいられたものを」とオオヤマツミノカミから言い渡される。花が咲き、実を成し、種を残して枯れる植物のように、こうして人は有限の寿命となった。岩石のような、長い年月が経過しても残るような不老不死性は、こうして人から失われた。
女性を差別・侮辱する古語として「うまずめ(=子を産まない・産めない女)」というものがあるが、これを漢字で書けば「石女」である。言うまでもなく、この言葉にはイワナガヒメ(岩石の女神)とコノハナサクヤヒメ(植物の女神)の嫁取り物語と同じ考え・物の見方が、素朴な形で反映されている。
昔の人たちが呪術的な発想として、生殖能力の有無と不老不死性を結び付けて考えたであろうという仮説自体は、現代人も自然と受け入れられるであろう。
問題は、何故、人魚のイメージと生殖能力の有無が結び付けられたか、その点が定かではないところである。これについて『神話の話』の中で大林太良は、一つの示唆として、中国の人・袁枚(えんばい)の残した『子不語(しふご)』という書物に収められた、次のような挿話を紹介する。
「袁枚の甥が、地方の役人として赴任する旅の途上で立ち寄った集落で、住人たちが騒いでいた。何があったのかと尋ねると、その集落に住む或る夫婦の妻の下半身が魚になってしまったという。彼女の証言によれば、昨夜は夫と同衾し(夫婦の夜の営みを行い)、眠りについた。夜更け、下半身がむず痒くて堪らず、手で搔いていた記憶があるが、疥癬のように皮膚がポロポロと剥がれ落ちる感触が有った。朝になり、彼女が目覚めた時には、下半身は鱗の有る魚のものになっていたとのことである。剥がれ落ちていたのは、どうやら鱗だったようである」
大林太良は、この『子不語』の挿話について、わざわざ夫との同衾について言及しているのは「下半身が魚になる前の女性は、二本の脚を開いて男性を迎え入れる性行為が可能であったが、下半身が魚になったことで、脚を開くこと、すなわち性行為が不可能な状態になった」と言っているのだと考える。そして、人魚の肉による生殖能力の喪失も、これと同じ発想なのではないかと言うのである。
個人的には、この大林太良説を初めて読んだ時は「ううん、ホンマかいな?」という半信半疑の感想であった。しかし『神話の話』を読んでから暫く経過した後、大林説を補助するような話を、別の学者の著作で見かけた。が、やはりこの著作も、本棚や倉庫で見つけられずにいた。それがつい最近、その本を古本屋で発見して再入手した。嬉しい。だから舞い上がって、ここで記念にメモを残そうと思い立ったわけである。
件の大林太良の説を補助する記述が載っていたのは、金関丈夫の著作『木馬と石牛』(岩波文庫)である。ちなみに、解説は大林太良その人である!
この『木馬と石牛』に収められた「榻(しぢ)のはしがき」という論文が、人魚による不死性と生殖能力の喪失のイメージの結び付き仮説を補助するような記述を含むものである。この論文は何について書かれたものか、簡単に説明すれば、国文学におけるオナニー文学について論じたものである。これは、悪巫山戯で書いているのでも、嘘を書いているのでもない。本当のことである。初めて読んだ時は「お硬い岩波文庫で、こんな珍論文を読めるとは」と、かなり吃驚したものである。
本題に入ると、金関丈夫によれば、天明六年の自序がある東井春江による『譬喩尽(たとへづくし)』という俚諺(りげん)辞典の「い」の部には「一夢二千三肛四開(いちむにせんさんこうしかい)」という俚諺(ことわざ)が収められている。その意味は「性行為の中で快感が大きいものランキング・ベスト4」である。念のために言うと、男性の立場でのランキングである。4位の「開(かい)」が「女色すなわち男女の営み」を指す。この「榻のはしがき」の一節を初めて読んだ時「なるほど、『開(かい/ひらく)』の語と『男女の性行為』のイメージは、昔の人の頭の中では自然に結び付いていたのだなあ」と納得し、大林太良説も納得して受け入れられるようになったと、そういった次第である。
何?ベスト3の意味が知りたい?いちいち言わなくても、字を見れば薄々察しがつくだろうから細かい説明は書かない。なお、同「榻のはしがき」によれば、戦国時代頃に来日したポルトガル人宣教師たちが、布教活動を行うために編纂した日本初の日本語/ポルトガル語翻訳辞書『日葡辞書』には「Xenzuri」という単語が収録されているとのことである。
とりあえず『神話の話』も『木馬と石牛』も、どちらも非常に面白い本なので、機会があれば図書館などで探して一読することをお勧めする。
また、人魚の話に関しては、椿のモチーフなど海女文化が八百比丘尼伝承などにおける人魚のイメージに影響を与えた可能性の話、人魚の肉はフケツノカイ(キュウケツ[9つの穴]ノカイ)すなわちアワビのことではないかという可能性の話など、色々ほかにも面白そうな話が有るので、興味が有る人は調べてみることをお勧めする。
https://anond.hatelabo.jp/20220427131919
俺も某クラブのサポで元増田さんと似たような感じなんだけど、俺の応援クラブのスレに限った話かもしれないが、体感的には2015年あたりで5chにいた有力な発信層はほぼTwitterに流出してると思うよ。
匿名掲示板であってもちゃんと発信してる人ってごく少数で、その他の人はその発信者に乗っかってあーだこーだ言ってるだけなんだよね。
コテハンじゃなくてもわかるやん、深夜のコンビニにスポーツ新聞確認しに行ってくれるのこの人だよなとか、練習情報出してくれるのこの人だよな、みたいなのが。
Twitterで割と有名なサポの人とか、ブログもやってますみたいな人に聞いてみたら、やっぱ元々は5chにいたって答える人ばっか。
あの時この情報を本スレに書き込んだのは実は俺なんですみたいな話もけっこう聞けたりした。証拠はないから信じるしかないけど。
5chメインでなくなった理由としては、大同小異あれども、本人のパーソナルと発言とがある程度紐ついてるメリットがデメリットを遥かに上回ったからだって言ってた。
要はフォロー・フォロワーを選べることとブロック・ミュートできることだよね。
だから5chの国内サッカーメインで住み着いてる人って、他に移れなかった残りカスみたいな感じだよ。
俺は今でも5chを確認してるけど、そこに書き込まれる移籍情報とか怪我情報も「Twitterの誰々のつぶやき」をソースとしてる場合ばっかだもん。
だったら直接Twitter見る方が早いやんてなる。
元増田さんがどのクラブのサポなのか知らんけど、サッカー関係で誰かと情報共有したりつるみたいなら今はTwitterが一番良いよ。
https://anond.hatelabo.jp/20220425143134
お前が本当に捨てる気があるという前提の話だが、環境センターにメールで聞け。
ちゃんと答えてくれる。それがめんどくさいなら以下を読め。俺がお前に教えてやる。
なお本当に合ってるかどうかはお前の居住地域がわからんので責任取れない。
小型家電回収ボックスに捨てろ。電気屋とかホームセンターにだいたい設置してある。ググれば地域のどこにあるかはすぐわかるはずだ。
それがめんどうならハンマーで叩き割れ。キーボードであった断片が30㎝以内に収まれば不燃ゴミに出せる。
それすら面倒なら粗大ごみだがぶっちゃけ粗大ごみとして出すのが一番手間がかかるんじゃね?
不燃ゴミで出せ。そもそもアルミホイルは可燃ゴミじゃねえよ。使い捨てのアルミホイルも不燃ゴミだっつーの。
自分で正解言ってるじゃねーか。お前ホントはめんどくさいだけだろ。まあいいけど。
ちなみに缶詰なら少々賞味期限切れてようが問題なく食えるし、何ならジモティーとかで直接引き取ってくれる人限定0円とかで出したら買うやついるよ多分。
レトルト容器は資源ゴミだ。中身を捨てて容器は資源ゴミで捨てろ。なお缶詰同様に(略
40㎝と明記してあるのにどうしていきなり不燃ゴミで良いと判定するんだ。
表題の事例で思い浮かべるのが、元・漫画家の「豊島ゆ〜さく」である。"元"と付けたのは、現実の豊島は、もう漫画を描いていないからである。同人誌活動も含めて、おそらく十年以上は描いていない。昔はアニメ雑誌でアフレコ現場レポート漫画とか描いていたが、そんな仕事も今はしていないようである。
豊島には、昔日曜日の朝に放送していた某魔法少女アニメのエロ同人漫画を描いていたという過去がある。そんな自分のことを棚に上げて豊島は、若いアニメファンを「性欲に踊らされている」として、ネット上で口汚く罵り続けている。
豊島の拠点は、自分が管理しているネット掲示板である。そこで長年に渡って「馬鹿な若年オタクとは違い、自分は物が分かっている!今日のダメなアニメ作品に対して意見することは、自分の務めである!」と堅く信じて、アニメの感想を書き連ね続けている。しかし、掲示板と言っても書き込みは認証制なので、実質、豊島の独演会状態である。と学会の山本弘が独善的に「昔のオタクは物が分かっていた!今の若いオタクはなっていない!」とやっていたが、あれを1億倍ぐらい酷くしたような感じである。
漫画家でアニメ評論活動に熱心といえば、あさりよしとおが有名であるが、実は豊島は初期のあさり作品にアシスタントとして参加していた経験もある。つまり、そういう年齢である。一方のあさりよしとおが漫画家として現役であるのに対して、現在の豊島は漫画家としての活動実績ゼロである。
元々、高齢オタクにありがちな、癖の強い口調・文体ではあったが、現在のようなレベルで口汚くなった時期は、ちょうど豊島の漫画家としての活動実績が消失した頃と符合する。
漫画家といっても十人十色だ。誰もが売れっ子になり、プロとして飯を食え続ける訳ではない。プロとしての目立つ表舞台からは消えても、同人誌やネット上でコツコツと創作活動を続ける人たちもいる。あるいは、筆を折って、漫画以外の仕事で第二の人生を地道に堅実に歩む人たちもいる。こういう人たちには、敬意を払うべきである。しかし、豊島は該当しない。
漫画家として芽が出なかった現実から逃げるために、若年オタクと自分は違うのだと信じたいがために、若年オタクを口汚く罵る豊島ゆ〜さく。ネットで若年オタク叩きに勤しむ人間を見ていると、そんな豊島と大同小異の「現実が上手くいっていない高齢オタク」が現実逃避をしている姿を思い浮かべる。自分は、あいつらとは違うのだ、と。
映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的な昭和の思い出話である。
歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家の本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌が本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。
それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画、オカルト映画、パニック映画が流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。
やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSF、オカルト、パニック作品に関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれた子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異の経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである。
話を戻すと、こうして結果的に活字記事も読むようになった私は、雑誌『SCREEN』に淀川長治の連載記事が掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者からの質問や相談に淀川長治が答えるコーナーであった。
読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。
「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法や手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。
馬鹿な小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品『オネアミスの翼』を製作・劇場公開した時のことである。
中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語の最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。
さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品で監督を務めた山賀博之氏のインタビューも掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである。
雑誌『SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女とコーチの奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』である。テイタム・オニール、かわいい。山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。
「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図に気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。
ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代はコンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定の理由や合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分のレーダーに引っ掛かるモノを持つ作品に出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。
ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayやDVD、レーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードやカセットテープが販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品のフィルムテープのリールも販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から、兄弟のツテでカセットテープにダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフを暗誦できる。何の自慢にもならないが。
そして、歳月が流れた。
後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家もビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生で作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対の行為である。
ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。
大人になって、現在の宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的な評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。
子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。
それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手に想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞を暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。
正直言って「有名女優である必要性」自体は、購買層への知名度(有名であるほど認知度が高く、スキャンダルがなければ親しみを持ってもらいやすい)以外には
女優の収入とか事務所の都合とかの、購入者そっちのけの「大人の事情」のほうが大きい気はするが…。
そういう女が皆無とは言わんが、その論法だとすべてのCMで美人女優は使えないことになるよね。
それに2つ。
「美人女優がどのぐらい、広い世代の女性から反感や嫉妬を買うか」というと、それはない気がする。
平均的な女性は、美人が生理用品のCM、あるいはCMに出るというだけで嫉妬や反感を持ったりはしない。
私が見た一部のキチガイ女は、認知度の高い美人女優よりも、ちょっと露出しはじめてきた=まだ存在がより身近で、まだ有名ではない美人に嫉妬している人が多かった。
そうでない一般的な女性から反感を買うとしたら、その女優のカラーに合わない商品に出ている、
あるいは以前のスキャンダルや、露出した際に露呈した性格などが原因で嫌われている。
「女は美人に嫉妬するもの」というのは、同じ土俵に上げられたときに美人だというだけで露骨な差別に遭うからで、CMの中の女優は視聴者と同じ土俵にはいない。
また個人的な感覚として、生理用品にきれいな顔立ちの女優が選ばれる理由は、
どっちかっていうと美人女優であるというよりもアクのない、印象に残りにくい平均的な美人が選ばれている気がする。
生理用品のCMを頭に思い浮かべてみても、顔は出てきても名前は思い出せない。みんな同じ顔に見える。演技も大同小異。
▽金があるならそれを使うのは当然。小説を楽しませてもらっておいてタダに飛びつくのは卑しすぎる
漫画村とかなら確かにその言い方でいいと思うんですが、無料公開が大前提のWeb小説ではさすがに無理かなと。
無料で読まれるのが困るなら公開しなきゃいいだけの話ですが、大半の作品はそうなってませんよね?
▽あと大半が書き直されていることもあるので「ほぼ同じ内容」とは限らない。
でも同じ世界観、同じキャラクターであるのは変わりないのであれば、そういうコレクターアイテムに金を使う趣味は、俺にはありません。
▽この世に「起承転結のある物語」しか存在しないなんてつまらないだろう。
それは確かにその通りだと思いますが、俺はそういう作品に金を払いたくはないですね。
▽大同小異の作品が無数にあることで「ほとんど同じ筋の上でこの部分がこうだったら良いな」などと細かくチューニングしていけるところに面白みがある。
これはなるほどなと思いました。確かにそういう需要はありそうですよね。
ブクマカの質の低下が凄まじいレベルで進んでいる。ほとんど上位コメントの内容を真似て、大同小異のコメントをまるで自分の意見のように繰り返してるだけだ。他人と同じ事を言ってるだけのくせに。いつぞやの2ちゃんねるみたい。初期コメント、上位コメントに批判的なものが多いと(というかそれがほとんどなのだが)頭の悪い人たちはそれに釣られてやはり同じく批判的なコメントを書く。それも目立ちたいから(?)攻撃性を増していくのが常だ。
だから俺が気をつけてるのはなるべく批判を書かないってこと。初期コメントが好意的だと、後続のブクマも不思議なくらい好意的なものばかりになる。何故って、そりゃ人の意見を真似してるだけだからね。