幸せって結局、苦痛を感じない状態への安堵感なのかもしれない。
世界一のお金持ちになっても世界一の幸せ者であるとは限らない。
どんなに幸せな結婚をしてもその幸福感はずっと続くとは限らない。
幸せ(であるという感覚)は時間の経過とともにどんどん減ってくもんじゃない?
そんなことをなんとなく思いついた。
将来は博士課程に進学し、博士修了後は海外へ行こう考えている。
先輩は玉木浩貴といい、博士課程を中退し、国家公務員キャリア技官として、国立印刷局に勤めている。
先輩は色々と私の進路にアドバイスをしてくれる。
「博士課程は教授の奴隷」「博士取っても就職口なし」「博士は就職してから取ればよい」と博士に厳しい。
さらには国立印刷局は「天国」のような環境であり、自分のしたいことができる「夢のような世界」だと私に会うたびに誇らしげに語ってくる。
先輩の職場は最初の1年間は研修期間で、その間は付属の工場で働くとのこと。1年たてば希望の部署に行けるらしい。
そのため、私に修士で就職して「早く俺のような楽しい世界に来いよ」と国家公務員をすすめてくる。
先輩はなぜ博士課程を中退したのか、なぜ国家公務員になったのか、どんな仕事をやっているのかについては、聞いても具体的には教えてくれない。
この先輩の言っていることは正しいのでしょうか?信じてよいのでしょうか?
なんだかみんな勘違いしているみたいだけど、認可園に落ちたら認可外園に入れればいいだけだし、実際育休から復帰決まってる人は、認可に落ちたくらいで退職なんてせず、普通に認可外に入れて復帰しているはず。
いや、確かに世の中には、ひどい認可外園も少数ながらあるだろう。認可外園のほうが事故が多いのも多分事実。
ただ、認可園でも先生と合わなかったりいじめがあったり教育方針が時代遅れだったりするところはあるし、
法律上の基準は満たしていないものの、志の高い先生たちが心を込めて保育してくれる認可外園だってある。
ちなみにうちの子供は認可外園に入れてるけど、アットホームですごくいい園だ。
うちの子は集団行動が苦手なタイプなのだけど、マンモス認可園と違い、目が行き届いて配慮してくれている感がある。
違う学年の子と一緒に遊ぶ機会が多いのも小規模園のいいところだ。年上の子からお勉強を教わったり、年下の子の面倒を見たり、得難い体験が出来る。
認可園と違って、延長したいときに自由に延長させてくれるのもいい。残業の証明なんていらないので、自分のリフレッシュのために遊ぶのに延長することもできる。(もちろんお金はかかる)
ビルの一室なので園庭はないけれど、すぐ近くに公園があり、毎日連れて行ってくれるし、
夏はプールにも行くし、週に1回ずつ英語とリトミックの時間もある。
最大のネックは料金だと思うが、確かに低所得者だと認可外園の保育料は払えないかもしれない。
ただ、首都圏で普通に正社員で共働きしてる家庭なら、多分そんなに変わらない。
首都圏はもともと認可園の保育料も高いし、首都圏で結婚して出産してるような家庭は、そこそこ高収入であることが多い。
認可園だと5万円のところ、認可外園だと6万円になってしまうとか、そんな程度である。
認可園に入れなかったらこの世の終わりとか、認可外園に子供を預けるなんて非道いことは出来ないとか、そういうのやめて欲しいわ。
働きアリが死んだら、今、働いていないアリが働き始めるから、働いていない人がいてもいいのだ、という理屈が間違っている理由として、
働かないアリと、働きアリのスキルには差はない。ただ、ごはんを見つけて運ぶだけ。
人間の仕事には、スキルの差がある。だから、簡単に人を取って替える事は難しい。専門職であればあるほど。
現に、人が余っているのに、人が足りないという状況が起こっているのだ。
国家の最大の機能とは個々人では不可能な規模での先行投資を行うことである。
理解力・思考力のある人間でこれに180どの角度から異論を唱える人はいないだろう。
もしいるとしたらそれは相手が何をしゃべろうと常に反対の言葉をしゃべる逆オウム怪人の思考停止アンチなのでスルーするほかない。
しかしここ最近世界各国で国家が自国の成長を阻害し、目先の利益ばかりを追い求めてばかりいるのだから笑うしかなすぎて笑おうとした口角が引きつったまま動かなくなること請け合いである。
目の前の寒さを凌ぐために本を焼く乞食のような愚かさを国家が示していては人類の行末には終わりしか無い。
官僚たちは引きちぎったセーフティーネットを老人たちの口に無差別に突っ込み、民衆はダンピングの続く労働環境を努力って素晴らしいよねと褒め称える。
こんな国ばかりで世界が長続きするはずがない。
チラッ