はてなキーワード: 一定の理解とは
ジャニー喜多川氏の性加害についての記事がBBCから出て、ネットの一部では反響を呼んでいるが主要メディアは沈黙を貫いている。ニュースバリューがない話題ではないので、何かしらの理由があると思われるが、おそらくは「報じることによる不利益が存在する」のだろう。(例えばジャニーズ事務所タレントの出演に関わるなにかしら、など)
これは主観だが、この数十年、社会はより「あるべき姿」に近くなるように変わってきている。痰壷がなくなり、煙草の吸殻やガムの吐き捨てが無くなり、有給取得率を上げる取り組みや育児関連の取り組みが進んだり、男女平等、LGBTQの権利、などなど。それは「キレイゴト」であり現実でなかったものを現実にしてきた積み重ねでもある。
そういったキレイゴト、あるいは建前を大事にするのがメディア・報道であり、現実ではない理想を述べることで人々の意識(あるいは世論)を変えていったのだと思っている。それは、キレイゴトを実現するためにコストを払うべき人々に対する圧力でもあり、その「正しさ」故に代償を伴ってでも実現するのは当然だ、という意見となって変化を推し進めてきた。繰り返すが、メディアはその先鋒であると思う。
さて、その「キレイゴト」からすると、性加害を加えた人物が法の裁きを受けないばかりか、その社会的評価に対して何ら問い質す動きが起きない、というのは正しくないだろう。本来なら、メディアは取り上げない訳がないのであるが、いざ「支払うべき代償」が我が身となると途端に手のひらを返してキレイゴトを放り捨てるわけだ。もちろん、社会人としては各構成員の判断には一定の理解は出来る。被害を被る部門からは、報道部門に対して「かなり強い要請」を出すだろうし、報道部門も対立を招く案件には手を出したくないだろう。とはいえ、であればトップが判断するべきなのだ、社会正義を取るか自社の経営を取るか。というわけで各社、トップは正義を放り捨てたのだと思う。
最近は「ブーメラン」という表現も一般的になった。ほぼみんな、ブーメランを食らったときに、一貫性を保てない。その瞬間にその発言主体の信頼は地に堕ちる(…と私は思うのだが意外とみんなケロッと忘れがちなのもまた事実)。
さて話題は変わってSDGs。現在進行系でマスメディアが吐いてるドデカいキレイゴトだ。己の身を切れない主体が吐く言葉、その空虚さに彼ら自身が向き合う日は来るのか…と思ったがまぁ無いんだろうね。
生まれた子供が生物学的にハンデを背負うんだよね?今は潜性と顕性っていうんだっけか?あれの問題で。
社会的な差別云々じゃなくて単純に生命維持に明らかなハンデを背負うリスクがあるなら血縁者間で子供を設けることはそれそのものが子供への虐待ともとれる気がするんだけどそういう意味でのタブー視なんじゃねえの?
そのうえで情事と子づくりはイコールじゃないって反論は避妊は確実じゃない以上行為そのものを避けるべきだって意味で一定の理解を示せる。
とはいえ昨今の流れを見るに遅かれ早かれこういうのも認めろって被害者ムーブをしてくる人が出てくる気がする。
つくづく気味が悪い社会になったなあって思うよ。
今はリアルで言えないだけで済んでるけどそのうちこういうことを言うと開示請求が通るようになるんだろうな。くわばらくわばら。
ビックバン以前は正方向の時間の流れがないといいます。そういうなかで物理量や量子状態が変化しているといいます。しかしそのような物理量や量子状態の振る舞い様を物理学の専門的な知識がない人が見たら、「正方向の時間の流れの中で、物体がランダムに変化しているだけ」と、通常の時間があるかのように錯覚してしまうだけなのではないですか?
ビッグバン以前の世界についての理解は、物理学の専門知識がない人でも一定の理解を持つことができますが、そのような世界で物理量や量子状態が変化しているという概念は、一般的な時間の流れとは異なるものであるため、理解するのは困難でしょう。
通常の時間は、過去から未来へと流れるものであると考えられていますが、ビッグバン以前の宇宙には正方向の時間の流れが存在していないと考えられています。そのため、そこで物理量や量子状態が変化しているということは、通常の時間の流れとは異なるものであり、物理学の専門的な知識がなければ、その振る舞いを説明することは非常に困難でしょう。
一般的な時間の流れがない世界で物理量や量子状態が変化しているということを理解するには、物理学の専門的な知識が必要です。そのため、物理学の専門的な知識がない人が見た場合、通常の時間の流れがあるかのように錯覚してしまう可能性があります。
いいよ別に産むだけなら。
産んで体調戻ったらさっさと職場復帰するよ。
でもそこから十何年、下手したら一生涯面倒を見続けないといけないの正直無理なんだわ。
なんぼ金かかるかもわからんし。
金で子育てしたがってる奴に金払って子育てさせればいいじゃん。
いるでしょ、産休育休とりたくないけど子供は欲しいみたいな奴。
私はどっちかっていうとフェミニスト側だけど、生物として女性にしか出産機能がない以上
女性が社会における出産という業務を行わなければならないということには一定の理解はある。
ただ、それに見合った対価と、産んだ後のことなんか女性じゃなくても何とでもなるんだから
それはそっちでやってくれるって選択肢があってもよくない?
男の年収が400万だとしてお前が400万稼げば世帯年収800万だよね?なんでそうしないの?
それは女が男の年収で生きていこうという考えを持っているから。つまり女子供は養われろという価値観を持っているから
なんでフェミはそんな女に価値観のアップデートを迫らないの?こういうやつがいるから女性っていつまでたっても「女子供」扱いなんじゃないの?
これを突き詰めれば「女は下方婚しないですよね?」っていうブコメにも一定の説得力が与えられるよね?
価値観アップデートされてれば女は下方婚するよね?男が稼ぐべきっていうのは性役割だし男に養われたいというのもそれじゃん
いや、本能で女は稼ぐ男を選ぶんですう~とかいうならそれは一定の理解は示すよ?生物としての本能なんだから仕方ないじゃないですかあ~(笑)←いいと思うよ。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
こんなにバズる予定じゃなかった
この努力の方向性は合ってるし言語化も腑に落ちるけど「[…]付き合うまでセックスはさせない女は、自己中気質だったり[…]」が引っかかる。女への恋愛指南としては「付き合うまで突き合うな」が鉄則だったりするし。
流石に文脈を端折りすぎたので追記。要はホテル行きますか?と打診して部屋までついてきておいて、お互いのために付き合うまでしません!と断る人をさしています。
打診しているときにこちらの性欲ギンギンなのは否定しませんが、嫌なら嫌と断るべきですし、断れずについてきてしまった人のテンションくらいは慮れますよ
増田は服を脱がすタイミングとか、オーラルとか、ノンバーバルのコミュニケーション全て含めてセックスだと思っているので、エロいこと全否定ではなくABCのここまではいいよと互いに歩み寄るコミュニケーションもできるのではないかな?と思うだけです。
特にパートナーとはいえ赤の他人にマイルールを遵守させようとする姿勢は、ことある意思決定のたびに突きつけてきそうだなと予感させるに十分かと思います。
互いにある程度の信頼関係があるうえで、ワンナイトをしてくれる女性は難しい文脈も汲み取ってくれる女の子が多い印象を持っている
ただセックスって互いの素を知るチャンスでもあると思っていて、オーガズムに達することが目的ではないと思います。
尋常じゃないくらい床上手なんだけどこの子昔苦労したのかしら?あるいは彼氏さんのことめちゃくちゃ好きだったのかな、好きな人にこれだけ尽くせるって素敵だなとか。
あるいはおとなしい子かと思ったら結構感情が激しそうなので、不満を溜め込むタイプに見えるから定期的にガス抜きが必要そうだな、とか。
逆に増田も若かりし頃今思えばセックス中の立ち回りを相手に吟味されていたんだなと思う経験があり、なんて大人な恋愛なんだと憧れて真似しています。
ドがつくほどの偏見ですね
これは増田の好みですが、性的な接触に頼らず素を開示しようとする姿勢が見えると大人の女性だなと思いますし、体に頼らずコミュニケーションを取りたくなります。
自分がどう思っているかをそれとなく伝えてくれたり、頑固だよとか、こう言う喧嘩したことあるよとか伝えてくれると信頼を感じます。
増田のようなアスペ人は対人関係に怯えています。あなたと会話をすることは苦じゃありません、嬉しいです。を伝えてくれるだけで救われるちょろい存在です。
言葉の端々にまだ女見下してるフシあってクズいけどもっと酷い輩がネットには多いので進歩として許容する感じで褒める人も出るんだと思う。1年持たずに飽きて捨てるか捨てられた後で今のクズさを自覚するの繰り返し
同様に増田ことアスペは対人関係に怯えているので、今思えば防衛行動として妬みや見下しをすることで心を守っていたのかなと思います。
正直増田も昔はドがつくほどの味噌だったのは否定しませんし、多くの人に指摘されている点は正しいです。クラッシャーしてきた人々への申し訳なさは一生残ります。
ただきちんと自分が好きになれる人ができると、そういう防御衝動は減るもんだと思います。世の苦しんでいる人々はみんなパートナー作ろう。頑張って
決して短くも楽しくもない努力の果てに孤独から脱却することができたので、色々思い出しながら書いていく。
当然のごとく彼女いない歴=ほぼ年齢
地方の貧乏家庭出身で単身上京、金も人脈もない0からのスタート
彼女ができるまでの期間はおおよそ5年
彼女ができるまでに告白した人数多分20くらい、出会った数40くらい
ファッションの改善(服装、髪型、眉)をしてカッコよくなることへの恐怖から脱却すること
恋愛関係抜きで女性と交流する機会を設ける(趣味など)ことで女性の解像度を上げること
マッチングアプリや街コンでいろんな女性と出会うことで意中のタイプを言語化
女に自分の価値を認めさせられれば、どれだけのマイナスがあっても一定の理解はしてくれる。
増田はいわゆる加害性の塊である。とにかく彼女が欲しかったのでひたすらアタックし続けた。
既存のコミュニティを破壊しまくったし、こちらに敵意がなければほぼ全ての知り合いの女に特攻した
自分がモテないのはダサくて出会う試行回数が少ないからだ=ファッションを磨いてアタックしまくればいつかは付き合えると思っていた
増田のようなアスペアタッカーではなかなか上手くいかないのはわかっていたけど、それでも孤独に耐えられるわけではないし、試行回数理論を信じるしかなかった。
でもちょっとくらいは、いつか理解のある彼女ちゃんが現れて救ってくれるんじゃないかと期待していた。
非モテのほとんどが肌で感じていると思うけど、我々男のそばに理解のある彼女ちゃんは絶対100%確実に生えてこない
不細工とか金がないとかトークが面白くないとかそれらしい理由は色々思いつくと思うんだけど、
女は「女性の解像度が低い人間に愛情を持たない」のに対し、男は「ヤレる女に愛情を持つことがある」というのが増田の考え
うざい言い回しをすると女は心でセックスをし、男は体でセックスをする。
女の発達障害持ちは穴モテの果てに男が愛情を持ってくれることはある。男は女体さえあればセックスができるし、好きでもない女にも勃つ。
一方で女は、女をわかってない男を嫌悪の対象としてそもそも近づいてこない。
AV女優の深田えいみも言っているけど、女がセックスをするときには体の快楽よりも目線や献身の気持ちに興奮する。
女性の解像度が低い非モテはセックスができない(=互いに理解し合うコミュニケーションを取れない)と判断され、そもそもパーソナルスペースに入ってこない・
というのが理解のある彼女ちゃんが存在しない仕組みなんじゃないかなと思っている
実際彼女ちゃんとセックスをしていて思うのだが、セックスってただ肉欲をぶつけるだけじゃない
無言の中でお互いに何をしてほしいか探り合う献身のコミュニケーションは確かにある。
そんなにカッコよくもセンス良くもないのに彼女が尽きない男を嫌というほど見てきたけど、そういう連中はとにかく女性のことをよく知っている。
ポジティブな方向だと、女の子にどういうことをすれば喜ぶかを常に考える。自分の性格が刺さるタイプの女の子を絞って口説いている。一言で言うとキザを通す立ち回りでモテてる男。この立ち回りは自己肯定感が低い女の子には良く刺さるけど、容姿の整った女の子相手の場合はある程度自分の容姿も整っていないといけない印象がある。
ネガティヴな方向だと、ドロドロした人間関係を把握してコミュニティの解像度を上げる、それこそ男や女のタイプを即時に把握して会話のネタにできる力。相対的に自分に力があるように見せる(マイナスを見せない)ような立ち回り。いわゆるノンバーバルが強いアルファ気質の男がよくやってる。自分の価値をわかってる若い女の子やモテる女の子はこのタイプの口説きにめっぽう弱い印象がある。一方で陰キャ寄りの子や真面目な子は恐怖して近寄りにくい気がする。
ともあれ、こうした自分の強みを理解して、うまく特攻の効く女性を口説けている男は諸々見た目や金銭で劣っていてもそれなりに理解のある彼女ちゃんを持っている。
だけど自分の素の性格が刺さる層、自分が本気になれる女性のタイプを全く見極めていなかったので、いつも2、3回目のデートで見限られていた。
大事なのは天性の身長とか、顔面偏差値といった部分ではなくて、後天的な努力の部分だと思っている。
カッコよくなろうとする男は得てして自信があるように見える。
ダサい格好から抜け出せないのは、自分がカッコよくなることに自信がないことがほとんどなんじゃないかなと思っている。
以前の増田含め多くの男性が気づいていないことだけど、女性は生きていく上で強制的に可愛くならなくてはならないという社会要請を受ける。
高校生や遅くとも大学生頃には化粧や服装をそれなりにしないと女社会から爪弾きにされる
我々男は髪の毛のセットなんてできなくても社会人になれるが、女性はある程度の化粧ができることが前提の社会に生きている。
これは経験則だけど、だから女性はカッコよくなろうとする男性に共感しやすいのではないかな。
よくいう清潔感なる意味不明ワードは、男性が自分達と同様に垢抜ける努力をしてきているかどうか、その大変さや楽しさを共感できるかどうかをはかる言葉なんじゃないかなと思っている
なので非モテはとにかくカッコよくなろう。
youtuberの紹介する大学生っぽいファッションでいいからとにかくそれっぽい服を着てみて恥ずかしさをなくす。
例えば増田は短足なので最初は黒スキニーが恥ずかしくて履けなかったけど、それに合う大きめのトップを着ることで意外とバランスが良くなることに気づき、恐怖を克服した。
そうするうちに自分って意外とかっこいい服が着れるな?と気づき出して、ちょっとずつ幅を広げていくことができた。
おすすめはwearで自分の体格と同じ人のファッションをマネキン買いすること。大体の服はゾゾかユニクロで買える
自分と同じ体格の人をフォローしてその人を真似し続けるのが一番楽
大事なのはそれっぽいシルエットを作ることで、必ずしもオタクになる必要はない。もちろんブランドを覚え出すと面白くはなるけどね
髪の毛はちょっと高い美容院に行って相談する。増田は全く知識がなかったのでオリジナルのシャンプーを売っているような大手の美容院に行ってかっこいい髪型やセットの仕方をとにかく教えてもらった。
たいていの美容師さんはカッコよくなることを応援してくれるので、インスタでセルフセットの写真を送ればアドバイスしてくれたりする。
増田はとにかく自分のコミュニティさえも破壊しまくってアタックをし続けたけど、自分がどういう女性が好きなのかという一番肝心な部分がなかった
正直女なんてヤれればいいと思ってたし、化粧をした女の顔なんて全部同じだと思っていた。
だから自分でもやれそうな女の子、自分が話しかけても楽しそうにしてくれる女の子にひたすらアタックして玉砕してきた。
増田は極端に女を遠ざけて生きてきたので、もっと軽いところから女性を理解するべくリハビリをした。
もちろんナンパはせずに、純粋にゲームを楽しむことに専念した。
この手のトークゲームはルール上女性もコミュニケーションを積極的に取ってくれる。
また終わった後に感想戦を通して仲良くなりやすいので、とにかく女性の知り合いを増やしてSNSなどでたくさん交流した。
ここで変な気を起こしてナンパをしては下の木阿弥である。この人は増田のことが好きなのかな?とよぎる瞬間があっても絶対に色恋はせずにゲーム友達の距離感を守って修行した
この交流を通しておしゃれそうな女でも男で言うチー牛みたいなメンタルの人がいるとか、発達障害気味でコミュニケーションに難がある人がいることを知った。
女はみんな恋愛経験が豊富で、男よりも高次なコミュニケーションをしていると勝手に思い込んでいたけど、意外と自分の性別を反転させたような女の子もいるんだなと気づいたのであった。
どうしてかアスペアタッカー時代はとんでもないブスでも彼氏が過去10人いたとかいう隠れモテ(姫?)にしか会ったことがなかったので、こんなに可愛いのに彼氏いない人もいるんだと驚いた。
女性が好む日常会話の温度感とかノリを知れたのも大きかった。ちょっと小ボケを挟むとか、馴れ馴れしいくらいのノリのほうが意外と受け入れてくれる(下心が見えてるとキモがられるけど)
それなりにSNSで女性の知り合いができるようになると、日常のコミュニティでも女性の友達ができるようになってきた。
やっぱり女の子と日常会話ができるのは大きい。些細な考え方とか、女性特有の視点に理解を持っているだけで、今までと比べて格段に信用されやすくなった。
ここまでくるのに数年かかった。並行して進めていたマッチングアプリでワンナイトも経験できるようになった。
ワンナイトは狙ってやったと言うよりも、流れで数回やった。この人は帰りたくないのかな?とか、めちゃくちゃ好感度が高い今押さないといけなさそうだと感じた時に誘った。
好んでナンパやワンナイトをしたいとは思わないけど、人生経験としてやっておいて良かった気がする。
互いにある程度の信頼関係があるうえで、ワンナイトをしてくれる女性は難しい文脈も汲み取ってくれる女の子が多い印象を持っている
逆に思わせぶりな態度をとっておきながら付き合うまでセックスはさせない女は、自己中気質だったり互いに譲り合うコミュニケーションが取れないことが多いので避けるようになった。
ただ肉体のセックスができても、長期関係にはなかなか結びつかない。
ここにきて、自分はモテやすい体面を取り繕って素の自分を見せていないことに気づいた。ヤレそうな女にモテる男のよくやる立ち回りを見よう見まねで通すことだけは上手くなっていた。
なので一度自分が本気で好きになれる女性を厳選した。自分のNGをどんどん出してそれに合わない女性にいいねを送らないようにした。
ある程度写真が盛れていて、女性が好む文面やコミュニケーションが取れそうな雰囲気を出せていれば、いいねは返してくれるようになっていた。この時点で自分がほんの少しモテるようになったことを自覚した。
同時に電話を重視し始めた。相手からは自分の素に減点要素がないか、自分視点では話した時の雰囲気とか、相手の気遣いが感じられるかどうか、価値観が賛同できるかを見るようにした。
結局女の子は自分が好意を持っている男性から好意を持たれることに弱い。自分のレベルを上げてきたので、あとは自分が本気になれる子にアタックするだけだった。
電話はいい。お金がかからないというメリットももちろんあるんだけど、遅くても遠くてもコミュニケーションが取れるのが大きい。
正直電話だけでいいとさえ思っている。何度も電話して、最後に告白をする手前で1、2回会うだけでいい。しっかりと信頼関係を構築できていればプロフに書かれた数字なんてそれほど重要じゃなくなってくる。逆に女の子の外見にしても、最初から好みじゃない女の子にはいいねを送らないので可愛さが担保されている。
それに気づいた時、やっぱり男は見た目じゃなくて人間性の高さとか、女性の解像度の高さの方が重要なんだなと思った。
電話で互いに知った仲になった後は驚くくらいスムーズだった。1回目のデートはとりあえず飲んで、後日デートをして、素の自分を隠さずともケラケラ笑い合って。いつまでもこの子を幸せにしたいという気持ちが強くなった。
そうこうあって彼女ができた。
恋愛って運命的に落ちるものではなくて、互いの価値観を擦り合わせていく作業だと気づいた。
採用前に企業が就活生の「裏アカ」調査、たった数十分で特定も 過激投稿の“無法地帯”を見て人格把握
学生側の受け止めは複雑だ。都内の私立大3年の女子学生はインスタグラムを利用している。裏アカには、愚痴や他者の中傷を投稿している友人もいると言う。だから「企業が学生の本音を調べたいという気持ちも分かる」と一定の理解を示しつつも「間違った調査で、自分のものとは違うアカウントを基に判断されないか不安はある」。
一方で、こうした調査には危うさもある。他人に知られたくない本音を投稿したアカウントを調べることで、学生の出自や思想信条を把握する可能性があるためだ。利用の仕方によっては、就職差別につながりかねない。
職業安定法は採用活動で人種、思想信条などの個人情報の収集を原則、認めておらず、収集する場合は同意が条件だ。厚生労働省も配慮すべき事項として身元調査を挙げ「就職差別につながる恐れがある」と指摘している。厚労省担当者はSNS調査について「一概には言えない」と前置きしつつ、思想信条などの個人情報を収集する恐れが高い点を挙げ「好ましくない」との見解を示している。
一方、企業調査センターは「企業側が採用プロセスで学生に同意を取っているので、法的に問題はない」との立場だ。
こうした点を識者はどう見るのか。岩手大の河合塁准教授(労働法)は、調査自体は違法とは言いがたいとしつつ「本来集めることが禁じられているデリケートな情報まで手に入れてしまうことがあり、本人が知らないところで把握するのは問題になる可能性がある」と指摘する。
さらに「企業側もSNS情報で不採用にしたとは言わず、調査したこと自体開示する必要はないので、企業側がどういう理由で不採用にしたかが学生には分からず、ブラックボックスになっている」と分析する。調査される可能性があることを把握していない学生もいると言及した上で「どういう目的でどう調査するかを企業側は、あらかじめ示すことが必要だ」と話した。
「左派」や「リベラル」に怒るのは勝手だけど文章を正確に読解してくれない?
少なくとも元増田(anond:20211217082930)では「残念ながら赤松には投票できない」と書いた次の段落で「支持できないにせよ非難もできないかなぁ」と書いている通り、元増田は別に赤松を敵視していない。支持も投票もしないが一定の理解を示していることは読めばすぐにわかる。
赤松を非難・敵視してきた連中に怒るのはけっこうだが、その怒りを元増田にぶつけるのはどう考えても筋違いだ。
それともひょっとしてアンチ自民なら野党支持者の振る舞いに連帯責任を負うべきだとでも言いたいのかな? そんならアンチ野党の皆様にも自民支持者の差別発言とかの連帯責任を問うていい?
そもそも、左派の皆様にしてみりゃ「中立(んなこと全然思ってねえくせにな)」や「超党派のロビー活動」からして、全く面白くなかったに決まってるんです。
左派の皆様はどうか知らないが、少なくとも元増田からはそうは読み取れない。元増田が赤松のロビー活動を面白くなかったと思っていることが一体どこから読み取れるのか?
それが腹立つという感情は大いに理解できますし、怒るあまりにネタごと盛大に放り投げる共産党ムーブも大いに結構(選挙前に馬脚顕してくれたあたり、彼らはまだ誠実だと思います)。
でもそこで見え透いたウソつくのやめませんか?
あのー、元増田は赤松を支持できないと書いた直後に「共産党が「社会的合意」に基づく表現規制を示唆するに至った。言うまでもなく、到底受け入れられる政策ではない」と書き、最後の方では「表現規制推進派の限界フェミにも投票できるわけがない」とも書いてるんだが。
ちっとも表現の自由を投げ捨ててないでしょ? 一体どこから表現の自由を放り投げるムーヴを読み取れるの?
元増田に先入観を持つのは勝手だけど、元増田が書いてることくらい正確に読解したらどうです? 国語のテストなら赤点だよ? 元増田をちょっと読めば、自民党を嫌うのと同じくらい表現規制派フェミを嫌ってることが読み取れるでしょ? そんなことも読み取れずに元増田と「左派」を一緒くたにして叩くの、党派性で目が曇っているのはどちらだよと言うほかないのだけれど。
この増田についたブコメも、ちょっとは元増田を読めば書かれるはずのないブコメばっかだな。はてなーのネットリテラシーも地に落ちたもんだ。それとももとから地中に埋まってたのか?
aa_R_waiwai あれだけオタクや萌え絵描きを「表現の自由戦士」と攻撃し、相手が反対側に行ったら「お前のためを思って言ったのだ」って、完全に体罰教師の言い分なんだよな。
元増田は明確にオタク蔑視にも表現規制にも反対しているのだが……? 「表現の自由戦士」と攻撃してくる連中が憎いのはわかったが、攻撃していない人に向けて言う意味とはいったい……?
by-king そもそも左派政党から表現を規制しようという発言が多すぎるからな。しかもそんな発言が咎められる様子もなく。
うん、それ、元増田の後半部分で問題視してるよね。なんならそういう連中がいるせいで赤松も自民党側に付いたのかなぁ、とまで言ってるよね。
あのさ、元増田は明白に「野党に入り込んだ表現規制派フェミうぜえ」という趣旨のことを書いているわけ。これはどちらかというと「表現の自由戦士」側の発言だよね? それに対して「お前らはオタクを『表現の自由戦士』呼ばわりして攻撃してきただろう!」とか反論しちゃう(そしてそれに賛同しちゃう)のは端的に言ってアホのすることなのよ。それ「オタクはネトウヨ」みたいな左派の偏見とどう違うの? 党派性に目が曇って目の前の板に表示されてる文章も読めなくなっちゃったんでちゅか?