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はてなキーワード: 成果物とは

2015-12-15

anond:20140521193239

小説がつまらない(かもしれない)というのは書ききれないという事象本質ではない。

単に書くことに飽きているだけだ。

初めの一文から丁寧に書いていくという形式が向いていない上に、きっと自分成果物確認しようと何度も読み返しているに違いない。

どんなに面白い小説でも、短い期間に何度も読めば飽きるに決まっている。

それが完成していない作品であればなおさらだ

まずはプロットブロックごとに分け、ブロックごとに何が起こるかを詳細に詰めろ。

長編を書ききるのが初めてのやつに、「書いているうちに思いつく」なんてことは起こりえない。

伏線出来事も全部かきだせ。それを時系列に並べろ。

書きたいところから書け。最後文章から書くとハラハラして書ける。

プロットがきちんとしていれば物語破綻しない。

距離と短距離では走り方が違うだけの話だ。

もっと体力を計算して、マイルストーンをおき、何を持ってゴールとするのか

(そしてそれは文字数などではない)を明確にすれば、走りきることができる。

2015-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20151117165802

いやだから、本当に「とても真っ当だ」と思っているなら、

私は汚い言葉使いは好みませんが、結果として成果物の質が向上することが重要なのであって、誰が賢いとか賢くないとか、誰が謙虚だとかそうでないとか、そんなことは心底どうでも良い話です。

なんて言葉は出てこないわけで、そうやって後付けでグダグダ言ったところで、おまえが元増田の主張を全く理解していなかったことは否定できないよ。

http://anond.hatelabo.jp/20151117162615

いやあ、これから翻訳プロジェクトを立ち上げようとか、既存プロジェクトに参加しようとする人へのアドバイスとしてはとても真っ当だと思いますよ。

でもSICP訳については既にそこそこの成果物が出てて、別に「俺の訳が最高だから文句つけるな」と言ってるわけじゃなく、誰でもプルレク送れますし取り込まれてるようじゃないですか。

元訳と真鍋版と見比べてみてくださいよ。それで誤訳に気づいたら、どっちにパッチ送ります?

http://anond.hatelabo.jp/20151117161354

一般論としてはもっともですよ。

でも現に成果物および実際回ってるプロセスに差が出てるんで、個別事例としては説得力無いです。

「いつもうまく行くとは限らないから、みんな真似をしないようにね」という主張であるならわかります真鍋氏を真似する人がでるとは考えにくいですが、まあ可能性はゼロではないので。

http://anond.hatelabo.jp/20151117155525

元増田氏の主張は良く分かりますが、今回の(SICP改訳騒動の)文脈においては、的を大きく外していると思います

真鍋氏の翻訳に誤りがあることは何ら本質的問題じゃないんですよ。だからそれを指摘したら何かが解決するわけでもない(真鍋自身、主張に影響を与えるものではないって書いてるでしょ? 本人かどうかわからないけど)。元増田氏の書き込みに何らかの貢献がありえるとすれば、それは真鍋訳に取り込まれ成果物がより良くなること、それだけです。

一般的アドバイスとして、円滑な校正プロセスを回して行くノウハウ、というのは有用です。でも真鍋さんには多分通じなさそうだし、真鍋さんが変わろうが変わるまいが、SICPのより良い訳が登場したこと、それを改善してゆくプロセスが現に回っていること、という事実にはあまり関係ない話です。

元増田氏の書き込み使用許可が明示されていたなら私の勇み足なので無視してください。見当たらなかったもので。

http://anond.hatelabo.jp/20151117094206

元増田さん、真鍋さん(本人かどうかわからないけど実務上問題なし)のこれに対して、使用許可を明示してやってください (匿名なのでpublic domain宣言か、無制限使用許可か---匿名ダイアリに「書き込みPDになる」とか約款ありましたっけ? それなら問題ないんですが、ちょっと探しただけでは見当たらないので。)

「そびえ立つクソの山」のような言葉使いの問題よりも、「そこに改善できる材料があるのに使用条件が不明確で使えないこと」の方がはるかに重大な問題だと思います

私は汚い言葉使いは好みませんが、結果として成果物の質が向上することが重要なのであって、誰が賢いとか賢くないとか、誰が謙虚だとかそうでないとか、そんなことは心底どうでも良い話です。

2015-11-07

部署

今期、3人の新卒が配属されて、現場でおおよそ3ヶ月くらいが経った。

一人は何でもやる。事務作業から、難しい案件チャレンジして質問も的確。好奇心も旺盛で、自分の中に芯がありながらも、それを日々鍛えなおしている感じがする。正直何が足りないか、今のところ分からない。おそらく同業他社新卒カテゴリの中でも上位にいる逸材だと思う。

一人は好きな事しかできない。応用的なのをやらせたら、コンテクストを考えなくて「なんでこうなったの?」って成果物があがってくる。俯瞰して物事を捉えろと注意した瞬間はやるけど、次には忘れて同じことを繰り返す。ただ、能動的になるには時間がかかるが、まぁまぁかな?と思っている。

一人はもうなんとも言えない。手に職を付けたいと言ってたが、課題を与えても解けない。この職種が好きなのかどうなのか、自分でも分からないらしい。普段から特に自主的勉強もしていないようだ。当人いわく「ライフワークバランス」だそうだ。「バランスとれてないよね」と言いかけたがグッとこらえた。

よくまぁ、こんなにも上手に[上][中][下]が揃ったもんだ。

やはり問題は[下]。

指摘され慣れていないのと、就職がゴールだみたいなのを、日々感じる。

これは心が壊れる一歩手前まで追い込まないと、多分育たない。と中年の勘が申しております

2015-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20151101130511

説明して理解確認するのや作業指示について確認するのが失礼とか初めて聞いた。

そもそも同等の立場じゃないのにそういう勘違いがこういう人達価値観なのか、勉強になったわ。

わかったとかできるは人それぞれって成果物が決まってる「できる」に人それぞれとかないと思うんだが…

それこそ学校じゃないんだからしっかりしろよ。

日本生産性と私の仕事

http://toyokeizai.net/articles/-/90210

「休めない」日本人生産性が著しく低い理由 | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世リーダーのためのビジネスサイト

・長い時間仕事をするほど評価が高い

・休暇や休憩は取らないほど評価が高い

・こなしている仕事の質や量は二の次

だらだらと思ったことを書きなぐる。

私は7年目の技術SE残業時間は平均すると月40h以下だが、忙しいときは80hを超える。

今の仕事は中規模の請負開発をやっていて、30人ぐらいのチームで作業している。

個人としての生産性は高い方だと思い込んでいるが、

今考えているのは自分生産性ではない。

 

最近課題は、外注新人への教育である

やっぱり、どうにも生産性が低い。

自分のような普通エンジニアが1時間で終わる作業が、1日かけても終わらない。

終わったと連絡を受けて成果物確認すると、

品質基準に達してなくて、結局1から全部指示しないといけない。

そして合計1時間以上かかる。

 

人材の質の問題であり、外注に払う単価を上げれば解決する問題なのかと

思ったが、どうも聞く限りそもそも労働市場にまともなエンジニアがいないらしい。

上司いわく「人材自分たちで育てるしかないだろう」とのこと。

頑張って育てているつもりだけども、やっぱり成果は人によって差が出る。

5人に教えて1人ものになればよいほうだ。

 

これはソフトウェア設計プログラミングの話になるけど、やっぱりセンスがないと難しい。

教科書的な内容は教えれば学んでくれるけど、正直それは最低限のレベル

特にUI設計データ構造設計センスがモロにでる。

センスのない人の作業成果は、正直何の役にも立たない。

(むしろあるだけ有害のことが多い、技術負債と呼ばれるやつだ)

 

難しいのは、本人はいたって真面目に作業していることだ。

しろ朝早くから深夜までよく働いてくれている。

真面目に作業しているのに、その人の生産物価値ゼロなことは悲しいことだ。

(これはそもそも作業指示が悪いという批判は正しい)

 

最近、昔やったノベルゲームセリフをよく思い出す。いわく

管理とは成長させることだ 。現状を維持することではない」

価値の低い人間社会にどう役立てるか、それが問題だ」

本当に、いかに人を使って仕事をうまくこなすかが難しい。

全部その人に丸投げして、作業が遅れたら休日出勤させて

無理やり終わらせるというのは昔ながらの解法なんだろうけど、やりたくない。

人に優しくないし、何よりスマートじゃない。

 

私が日本生産性寄与できるとしたら、

今いるチームの他の人の生産性を上げることだろう。

「TeamGeek」や「How Google Works」を読むと、

"そもそもチームメンバーになる人の選考が一番大事だよ!"と書いてある。

私もそう思う。でも私の立場はそれを許さないのだ。

 

質を問わず安い外注を大量に入れて、戦線に投入しながら立派なエンジニアに育て上げ、

そこそこの品質ソフトウェア効率的に開発する。

それが私の今の仕事なのだ少年兵教官の気分だ。

日本生産性向上に寄与できるだろうか?

正直生産性はどうでもいいな。

これ以上、開発が原因で鬱病になる人を見たくない。

 

少年兵教官の気分だ。

みんな元気に育ってくれ。一緒に戦おう。そして死ぬな。

2015-10-14

イケメンは、「イケメン」って仕事担当してる男だと思う

俺は、イケメンになろう、なぜイケメンけが得するんだ。って劣等感持ってたんだけど。

いま少し考えあらためた。

イケメンは女をとりこにして、風俗なりAVなり落とす。そうまでしなくとも、女の婚期をつぶして妥協させる。そういうのでできた成果物普通の男達が得る。

これを考えると、イケメン社会にとって、「女を倒す食物連鎖の1種」で、「イケメン」っていう役割果たしてるんだと思った。

  

ブサメンは、女から相手されないから必死努力して金を作る、社会を回す。つまり、そういう差別が間接的に社会を動かす原動力になっている。

ブサメンは、そういう働きをする「ブサメン」って仕事担当してると思う。

  

そう考えると、扱いの差が気にならない気がした。

俺は、俺の領分仕事をしているし、イケメンイケメン領分仕事をしているだけで。

研究者技術者仕事の分担みたいなもんだな。イケメンをうらやましがるのは、違うわけだ。

食物連鎖がまわらないと環境がぶっ壊れてみんなが死ぬ

からイケメンイケメン役割を果たすだけで、ブサメンはそれで不利益を受けても、ミクロはいやだが、マクロでは共生関係なんだなと思う。

2015-10-11

高度に勘違いしたエセ反解釈信者はただの萌え豚区別がつかない

1980年代に反解釈がやってきたころにも反権威主義だのを掲げる実際はただの反知性主義人間たちが過剰に持ち上げ、そいつらの反解釈実践がしょぼすぎて下火になったが、Charlotte擁護で見かけるとは思わんかった。あの時と同じようにやはり同じような反知性主義人間が持ち上げていたのでもう苦笑するしか無い。

解釈は何も考えずに豚になれっていう知的怠惰とは全く逆だ。自分が興味ない部分は全部解釈って枠に押し込めて無視し、自分が興味ある点については感性って言えばおっけーみたいなヌルい態度のやつがソンダクを引き合いにだして何かを悟ったかのように語ってるのマジで滑稽。ソンダクの理論がそんな簡単に実践できるようなものなら誰も苦労しないが、バカはすぐこの理念みたいなところに吸い寄せられて、わかった、俺の感性勝負すればいいんだ、という勘違いを起こす。反解釈的態度というのであれば、「キャンプの奥の奥にある純真もの」について自分官能的態度で感じ取ったものを語るべきだ。だが殆ど人間はそれが出来ない。僕は反解釈的態度で見て楽しめましたって言ってる割に書いてる内容が全くそういう話じゃない。自分が好きだから好意的解釈するって言ってるだけ。それはただのえこひいきであって反解釈とは程遠い知的怠慢にすぎない。Charlotte擁護してるやつも、"評価するべき点としては、綺麗な映像の数々、楽曲の質、不満を感じさせない人体の動き・アニメーションといった「作品外形」が高水準な所・そして「毎話楽しかった」ところ"などと書いているが、それはそれすべてCharlotte本質関係ない部分であってPAWORKSすげえアニメすげえという話しかしてない。これを今期終わった後のワンパンマン評価に置き換えても何も変わらない。つまり何も語ってない。こいつは作品のものについては何も語らず逃げたのだ。キャンプのものは確かに語ろうとすると逃げていくようなものであるが、その輪郭を語ることはできる。それすらもせずにワンパンマンでも語れるようなことしか語れていない以上80年代によく見かけた「エセ反解釈信者」だ。。Charlotteという作品のものについて語ることから逃げて、僕はこの作品楽しめました。なぜなら反解釈的態度を手にしているからですってアピールしてるけど、成果物が全くCharlotteという作品のものについて語れていない以上オマエがそう思うんならそうなんだろうなって話にしかならねえ。ただの豚なら余計なもの持ち出してないでブヒブヒ言っていればいいのだ。

2015-10-01

“31歳無職彼氏自称されていた時に学んだこと、か。書いてる内容は正しいと思うが、なんか好感の持てない文だ。選民意識高そう

僕が彼女に「選民思想でもあるんじゃない?」と言った理由を少し書いとく。どちらかと言うとアートニート寄りな人間のいうことなので、ハヤカワさんの言う不正解人間の言うことだからコバエが飛んでると思って無視していただければ幸いですよ…

まず、僕は女の人のブロガーライターが増えたことで、「自分出会ったダメンズへのヘイト」を書き散らかすブロガーライター存在を山のように見てる。本当に彼女達が弱者被害者ならまだ応援する気にもなるけど、ある程度モテてる人間による、モテない人間へのマウントしかない用に感じ、不快

僕はハヤカワさんについて「選民思想」といったけど、具体的に言うとうしじまいい肉とか峰なゆかとかそっちの人と同じ系列選民意識を感じています自分男性モテるような位置に行って、実際多少なりモテた結果、モテの弊害も経験し、その弊害を語ることで私はモテてるとでも言いたげなナルシズム

ダメンズについて綴る女性ブログツイートに対して、ある種のセクハラセカンドレイプだという自覚自分被害者でかつ、相手を汚い言葉で見下せる立場であるから殴るんだ」という被害者最強(クレーマー的)な発想と「でも、そんな経験のある私はモテてるの」というナルシズムが感じられる

クレーマー的に人を殴るのも、被害者としてナルシズムを発揮する発想も僕から見るとなんかご都合主義論理的でない(この人と関わると立場や印象で態度をコロコロ変えられるのだろう)という懸念を感じて、不信感が募る。ハヤカワさんに限らずね

とは言え、僕はアートニート寄りの人だからきっと彼女に何を言っても「お金というグッドをもらってないあなたが何を言っても、それはコバエ程度のノイズしかならないよ」って意見しかないだろうし、そのことは僕も自覚してますしかし、ハエでも生きてる以上飛び回るし、生きようとはするんです

あとは20歳のガキに説教するのもどうかと思うけど、人間ね、はじめから道が決まってる人ばかりじゃないんだよ。進んだ道が合わなかったり、塞がってたり、転落して見失ったりしてその都度模索しながら生きてる人もいるんだよってことを若くして成功なさってる彼女差し出がましくもいいたい僕がいる

どうせみんなハヤカワさんの味方をする負け戦だと知ってるから、僕はこの場で言っておくか。よく、女の人はヤリチン女の子との行為成果物のように言うことを批判するが、最近溢れてる自分の関わったダメンズ晒し批判して同情を集める行為ヤリチンのそれと本質的には同じことなんじゃないの?

はいはい、負け戦。今回も僕はまた女に負けた。お金に負けた。攻撃される前からこうやって愚痴ってる時点で自分にも負けてる。オーディエンス戦意がない僕に味方しない。そこにナルシズムはないです。僕も彼女が正しいとは思うから、僕を否定してますます彼女が正しいと示されたらいい。全部僕が悪い

病んでもないさ。ただただやる気をなくしているのさ。

kanose お金がなくて女性に対する自信がないからって女性ブログ無料キャバクラ代わりに使って心を癒やそうとするかのような鬱陶しいつぶやき。これシラフで書いてるなら怖いな

2015-09-28

恐怖でおかしくなりそう

仕事の金銭トラブルに巻き込まれた。

簡単に言うと、プロジェクトが遅れているので今まで支払った報酬を全額返金しろ、というものだ(今回遅れはでたがもちろんそれまでは成果物確認してもらっている)。

詳細は省くが全額返金に正当性があるのか弁護士相談できるサイト相談した。

弁護士の回答によると「契約書等、実際の進捗状況を法的に資料作成して損害を計算したもの弁護士を通して請求してきたなら法的に対処してください。しかし全額返金になる可能性は低いです」と。

この時点で正式に相手の担当弁護士から請求が来るならこちらも法律に則って粛々と返済プラン提案しようと思っていた。

しかし、実際はそうはならなかった。

毎日電話lineで届く罵詈雑言の嵐、こちらが何か返答しようとしても激昂して話にならない。

しまいには実家電話してきて親に「あなたの息子さんは詐欺師だ、仕事全然していない、お金を返してもらう、本人が返せないなら親や親族お金を出せる人間を集めろ」と言ってきた。

家族は僕の仕事内容をよくわかってない&相手の脅迫とも取れる言葉を聞いて精神おかしくなりかけた。

そして私にまた電話が来た「○○日に親と一緒にこちらの事務所にこい。その場で念書を書け」

その日(二日後)とか言われたのだが「考える時間をください」と予定をなんとかずらした。

あらかじめ調べて私以外の人間親族であっても)は連帯保証人になってないかぎり賠償責任ないそうだ。

頭ではそのことがわかっているのだが電話であらゆる恐ろしいことを言われ現に家族にまで返金を迫ってきていることによりもう気が狂う寸前。

法律無視人間にどう対処すればいいのかわからない。

私が死んだら解決するかといえば解決しないだろう。相手は家族危害を加えてくる。

恐ろしくて仕方ない。

正直今すぐ首でも吊って楽になりたい。しかし残された家族の行く末を考えると実行できない。気が狂いそうだ。

とりあえず明日弁護士対処法の相談をしてこようと思う。

相談しても相手が法律無視して嫌がらせ等をしてきた場合どうすればいいのかわからない。

2015-09-15

小学校組体操をやめるべきか

【小6「組体操やめたい」 学校対応・・・? - Togetterまとめ】

http://togetter.com/li/873801

大変もやもやするので、自分の頭の整理がてら。

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組体操やめろ派の主たる主張は「ケガをするリスクが大きい」こと。

・他の競技、騎馬戦棒倒し等はどうなの?組体操が格段にリスクが高いのだろうか。

リスクが高いことを、そのリスク判断ができない児童強要してはいけない。

・それでもやりたいなら(やらせたいなら)中学体操部に入ればいい。

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組体操教師や親の自己満足なのだろうか?

・もし自己満足なら、こんなくだらないことはない。即刻やめるべきだ。

・それとも「体幹を養う練習」「他者を助ける練習」の一つの形、成果物なのだろうか。

・そうならば、しっかり練習をする意義はあるのではなかろうか。

・(例えが悪いが、運動会は、日頃の成果を披露する軍事演習みたいなものか)

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・いや、体育の本来的な目的って、そういうことじゃないか?体を育てる。

・個々人が、自身の成長ペースに合わせて、健康な身体をつくること、身体の動かし方を覚えること。

・高いタワー作らせたり、炎天下野球やらせたり、グラウンド100周させたり、それって本来目的じゃないよね?

・一体感とか達成感とか根性とかは、副産物だ。そのものを体育の目的にしてはいけない。

・「体を育てる」から逸脱する規模の組体操には反対が起こるのだ。

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組体操やめろ派は、机上勉強についてはどう考えるのだろう。

・「理解できないリスク」「将来不要であるリスク」を主張するのだろうか。

マルクスを学ぶことは左翼主義に傾倒する、とか言い出すのだろうか(ものの例えだ)。

勉強したい人だけ机上授業に参加すればいい、ウチの子他人と比べて頭が悪いから勉強させるのは可哀想、とか言うのだろうか。

・傷を負うリスクがあるのが身体か、思考回路か、という違いはある。が、後の人生に影響をおよぼすのはどちらも同じ。

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けっきょくモヤモヤしたままだ。

結論

①「身体を作る」という目的遂行できれば、組体操でなくてもよい。

②ただし、なにかしらの成果を示す場は必要

③親や教師は、子供が(相対的に)逞しく育つことに価値を見るべきで、成果物の派手さやハードルの高さそのものに目を奪われてはいけない。

④参加したい人だけ参加すればいい、というのは少し違うんでないかな。

2015-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20150902103207

微妙色違いや位置違いを作るのは最終調整の段階だし、全部を保存しなくても後で再現できればいいので何でもかんでも保存しておくのは得策じゃないよ。

>途中保存ファイルが増えすぎると取り違えが起こる可能性も増えるので、これやってるとしたら相当危険仕事の仕方だと思うし、長年やってるデザイナーならこういうことはしてないと思う。

いや、ちゃんとしたデザイナーは保存するよ。正確にいうと「残る」と言うのが正しいんだけど。

aiとかpsdそのままじゃないけど、確認用のpngjpgで出力したり、紙に印刷したりで、

結局膨大な数のデータが「残る」。小さな案件ロゴですら100くらいは残る。

もちろんサーバに定期的に保存するし、途中成果物時系列に残していく。

ダブルクリックで日時付きのファイルが別名保存されるバッチファイルを用意していたり、工夫しているよ。

もし取り違えが起こってしまうなら、そのような「体制」にしてるから、三流なんだよ。

自分デザイナーだけど『疑わしきは罰せず』という考えというか、すごく怪しいとは感じていたけど決めつけるのはまだ早いということもあったりで最初擁護というか、責めることはしてなかったよね。

その立場であれば別にいいんだけど、「素人にはわからんだろ、おまえはアニメの見分けがつかないオカンと同じ」とか言って周りを叩いてたデザイナー様たちは問題だよね。

からきみはウダツのあがらない三流なんだぞ、と言ってもおそらく本人には伝わらないけど。

2015-09-01

デザイナー佐野擁護したいわけじゃない

http://anond.hatelabo.jp/20150831231737

五輪ロゴの件、使用中止でひと段落したみたいなので。

ネット上ではデザイナー佐野擁護してる」というような図式が出来上がっており、

デザイナーが「一般人」を見下してるみたいな見方がよくありましたが、実際はそうじゃないです。

ただデザイナーとしての自分仕事理解してもらいたかっただけです。佐野氏や佐野のしたことを擁護たかったわけでは決してありません。

(そもそもトートポスターパクリ擁護するデザイナーはいないでしょう。そんなことすれば自分の信用に関わる)

佐野氏の行ったデザインについて、トートバッグや他のポスターなどでは明確なパクリが見つかっていますが、五輪ロゴで言えば、実際にパクったという決定的な証拠はなく「デザインが似ている」という疑惑の話です。(実際のところどうなのかは別として)

いくつかの解説でもあった通り、五輪ロゴのように、自分が作ったデザイン過去のものと似ていることはあります

そしてデザイナー仕事とは成果物を仕上げることももちろんですが、むしろその制作意図、どういう理由目的デザインしていくかがメインなのです。「なんとなくかっこいいもの」を作るのではなく、明確な意図があって形は選択されるのです。

そして、もし似ているデザインが見つかった場合制作意図過程の違いがあれば、デザイナーはやはり絶対に説明するはずです。(たとえ成果物だけ見たらパクリしか見えないものだとしても)

これは潔白を証明するとともに、新たな代案を受け入れることにもつながります

今回は佐野氏の代わりに、他のデザイナーがその説明を行ったということです。

同職の立場からグレーゾーンのもの安易批判するのは避けるのが普通ですし、また同職としては意図がわかってもそれが一般の人には理解されにくい箇所なためです。(あと佐野氏の説明が足りなかったからです)

そういうわけで、ロゴ制作意図を説明し、また自身デザイナーとしての経験からこれはパクリではないのではと意見を言っていたのだと思います

しかしこれらがうまく伝わらず、デザイナー自身の説明のまずさ、また世間佐野氏への不信感が合わさって理解齟齬をきたし、一般人を見下すように取られたことは大変不幸だと思います

世の中にある人工物は全てデザインされていますデザインとは一般人生活乖離したものでは全然ありません。

そして多くのデザイナーは、真面目に見る人使う人、つまり一般人」のことを考えてデザインしています

もはやクロと言い切れる佐野氏のデザイン・その行為批判するのは当然ですが、今回の件でデザイン界隈をひとくくりにして批判するのは、非常に残念なことだと思います

2015-08-31

例えばググる前に頭を働かしてみた方が良いんじゃないか。

文学って何なんだろうって。

ふと思ったんですよ。

そして、頭の中はすぐに、

文学とは」で検索しようという指令が走って、

ブラウザを開こうとします。

今、そこで立ち止まってここに書いています

何か疑問が浮かんだ時、

昨今ダイレクトググれカス指令が出て、

誰かに聞くよりはもとより、

自身で一度考えるより先にググる習慣が身についています

一定量の知識を仕入れたいときに、

このフローは非常に便利で有効です。

パワフルです。

しかし、

問いに対する、なぜを解決する力はつきません。

世の中で濾された何某かの成果物自身思考の要素として得ることができたとしても、

自身オリジナルの何かを想像する力は尽きません。

得られることは知識と時間の短縮です。

たとい、知識に触れた後、

改めて「文学とは」を振り返って思考をしたとしても、

そこには何か垢に触れた後の思考が待っているだけで、

オリジナル創造とは異なる発想となってしまます

何よりずるいです。

無論人は思考をする場合

何某かの前提知識を必要します。

からググった後に該当の思考をすることも、

ググる前に思考することも、

大きな違いはないではないか、と。

そういう議論もありえます

しかし、思考過程として、

何か疑問に思ったものについて、

誰かからの答えを提示されてから思考と、

答えの無い中(あるいは答えが無いと感じている中)での思考は、

明らかにその本質が異なると思うのです。

基礎科学研究するか、

加工貿易しこしこするかの違いくらいある。

ググるが習慣化されて日々生きることと、

ググらずに問題ゼロベースで常に向き合って生きること。

ここにはきっと大きな差があるし、

生き様人格にまで、きっと大きな影響がある。

それはすなわち社会性にまで繋がると。


文学とは何でしょうか。

いい機会だから

ちょっとググらずに考えてみたい。

2015-08-24

「がんばる」評価経済

 がんばることは基本的に良いことだ。なにごとも頑張らなければ成功はない。

 それはそれとして、本邦には誰かが頑張ったことを過剰に評価する風潮がある。

 そりゃがんばったんなら成功しようがすまいが褒めてあげればいいんだろうけれど、一部の人たちは「◯◯ちゃんはすごくがんばった」ことを外部へ向けて印籠代わりに使いたがる。往々にして頑張った本人ではなく、頑張ってる◯◯ちゃんを応援する人びとが、だ。

「がんばること」は尊いので、成果物に対するあらゆる批判封殺することができる。

 関わったスタッフはみな血反吐を吐くような努力をして作品作りました

 アイドルは下積み時代に地べたを這いずるみたいな大変な思いをしました。

 うちの社員毎日残業続きですが誰も弱音を吐いたりせず有給会社です。

 彼ら彼女らの献身自己犠牲は尊い。それ自体は美しい。

 しかし、その結果として、クソみたいな映画マンガや曲や小説プロダクツ生産されてしまった場合はどうなのだろう。

 Q1. 誰かのがんばりを知ってしまった、がんばってもない俺らはその腐った成果物批判する権利はないのか。

 Q2. 彼ら彼女らのがんばりは仕事をこなす上で当然の努力であり、趣味以下のレベルで消費する俺らにはそんながんばりなど関係なくはないのか。

 Q3. いかなるプロセスを経ようはモノはモノであり、俺らは直接にモノそのものと向き合うべきではないのか。

 問いに対する答えはこうである

 A1. もちろんそんな権利はない。

 A2. もちろん関係ある。

 A3. もちろんプロセスは十二分に考慮されるべきである

 努力は美しい。非効率で、実効的でないほど美しい。

 神風特攻を思い出してみよう。甲子園の思い出ヘッスラを思い出してみよう。24時間テレビマラソンを思い出してみよう。

 人はなぜがんばるのか、努力するのか。それは「たとえ今は使えなくても、将来有用経験となるから」ではない。

 誰かが頑張りを要求するからだ。他人から見て、美しいからだ。

 ジョージ・ミラーも言っている。「真の英雄とは、他人にために犠牲となれる人だ」と。たぶんこれはジョーゼフ・キャンベルからのパク、引用だと思う。

 真の努力人とは、自分のためにがんばる人ではなく、他人のためにがんばれる人だ。

 

 俺たちはもっとがんばりを評価すべきだ。むしろ、がんばりだけを評価すべきだ。

 Aさんが2時間かけて作った最高品質プロダクトより、Bさんが二十時間労働を百日つづけて作ったクソプロダクトのほうが価値は高い。その価値市場価値世間的な評価に反映させるべきだ。

 なぜならがんばれるということはそれだけ真剣だということだからだ。思いがつまっているからだ。真剣な人は傍目からどれだけ滑稽におもえても、偉いのだ。

 効率品質などという上辺だけの評価軸に踊らされるべきではない。もっと人間を見よう。モノの内部に宿った魂を見よう。

 がんばってできない人は、がんばらなくてもできる人より、時間や金をかけている。その見返りを与えてやってなにがいけない。

 考えてもみろ、俺たちだって人のことを言えるか? がんばらなくてもできる人か? がんばってもダメだろ? いつも努力の方向を間違えてしまうだろ? おもいやりだよ。共感だよ。それ自体ドラマで、製品に組み込まれているんだよ。

 だからがんばりへの評価製品への評価を切り離すべきではない。

 

 そういう仏のような気持ちで昨日、実写版進撃の巨人』を観に行った。

 劇場を出るときには鬼のような形相になっていた。

 パンフレットにはスタッフ役者陣がどれだけがんばったかが書いてあった。

2015-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20150823150823

フランスパンの素材無断使用ならまだしも、

BEACH」みたいなのですらデザイナー勝手にやったことだって言うのなら、

アートディレクターって、他のデザイナー成果物に判子押すだけの仕事なのかなあ。

とは思った。

2015-08-22

なんか、惜しい時代に生まれ

あと30年くらいたてばさ、多分世の中の発展がひと段落して、ある程度ネットとか資本主義とかの技術に対する総括がなされると思うんだよ。

今は、毎年毎年すごいじゃん。新しい薬できました、新しいディバイスできました、新しいサービスできました、新しい発見でました。

生活が激変するものばっかり。そのたびに右往左往してる。

  

技術発展はうれしいんだけど、もう少し負担をなくしてほしい。

だってさ、3年前のスマホがもう使えないとか、そんなんかねが無駄にかかる。だったら、最新バージョンだけ買っておきたかった的な。

昔はさーストーブでも車でも、そういう長持ちするの前提のものばっかで、実際、30年ものストーブとかザラだったじゃん。

  

なんつーか。技術に振り回されたんだよなあ、若い時代を。

ネットができた、スマホがでたぞ、技術発展で毎年学び続けるのが当たり前だぞ。

この時代についていくだけで、っていう感覚キツイよ。

もっと成果物をじっくり味わいたい。

  

なんつーか、ギリギリ間に合った世代といえばそうなんだけど。明らかに過渡期の努力を強いられてる世代だよね。

これで青春つぶされるのって、戦争青春つぶされるくらいキツイわ。

情デ卒の視点>"多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと"

多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと』という記事に対する考えを述べようと思います

http://anond.hatelabo.jp/20150821111821

エンブレム正当性についてー

・"最初自分があのエンブレムをみたとき直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムをは一線を化すような新しいデザイン

新しい東京イメージを担ってくれるような力強いものに感じました。"

・"現状では異端であるもののそれがこれからベーシックになっていくはず"

多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと』の筆者は上記の様な内容を、エンブレム批判されるべきではない理由としてあげていますしかし、どれも論理的ではなく、感情論しかありません。

デザインとはある程度の理論存在し、その上にビジュアルの様な表層に見えるかたちを構成するものです(私が学んだことが正しければ)。"直感的"、"シック"、"新しい"、"東京イメージ"といった感覚的な部分を持ち出し、それを理由として扱うのには無理があると考えます

私個人の見解エンブレム評価に価する点を述べるのであれば、ロゴが”展開する”という部分でしょう。文字への展開、ピクトグラムへの展開、映像への展開など、様々なメディアへの仕組みこそがこのエンブレム本質だと思うのです。これらの展開する仕組みの齎す価値は不動のものだと考えます佐野さんの会見でのプレゼンテーションに寄っては、印象が大きく変動したように思えるし、ビジュアルの印象が良くない点が今回多く取り上げられていると思いますが、それはモチーフ曖昧であること、形に込められている意味が表層に現れていないことなどが原因ではないかと推察しています。著名なデザイナーの方や、デザインを学んでいる学生などがこのロゴ批判しないのは、単なる擁護ではなく、ロゴの仕組みを推察し価値見出しての意見だと考えておりますが、もちろん一般にその仕組みをプレゼンテーションすることや、ビジュアルに仕組みを表すこともデザイナー仕事であると思っております。その点は佐野さんの今回の会見は残念で致し方ありません。

筆者はデザイン感覚のみで捉えているような意見しか述べていなかったので、理屈的な部分を理解していないのだと考えています。表層的な部分を見て判断するのであればデザインを学んでいる学生としての視点にすら及ばないと思われます

情報デザイン学科が失敗であるという意見

現在確認したところ記載内容を削除されておりましたが、"情報デザイン学科は、先端技術を用いて新しい可能性を模索することに力を注いできたが、”ただ新しいことをする”学科に陥っている。卒業制作展を見に行ったが、アニメーションクオリティーは低いし、キネクト使ってることがすごいというアピールをしているかの様で気持ち悪かった"

というのが大まかな筆者の内容です。

筆者は、”なにかから影響を受け、文脈形成されていくことを「パクリ」の一言否定しないでください。”とも仰っています

情報デザイン学科卒業制作展に赴き、感覚的に得た情報クオリティーが低い、気持ち悪い)を持ち出し学科自体批判していることは、ロゴパクリだと批判している意見と違いはないように思えるのです。

根本的に考れば、"学科が失敗"することの定義曖昧であり、失敗ではない例とはどのような存在かを述べていませんし、統合デザイン学科の"ベーシック"を学ぶこと()成功したという実績が存在するのでしょうか?対として情デが"新しいことをするだけの学科であるとすれば、統合は"ベーシックしかしない"ということになりますし、発言軽率であることは確実です(削除されたので自覚したとして捉えていますが)。この意見ロゴ批判と違うと思うのであれば、もう少し理屈で語っていただきたいと考えました。

最後

デザイン感覚がすべてではありません。機能意図的に含めた様々なアウトプットデザインです。それを学んだのが情報デザイン学科でした。

今回取り上げさせて頂いた記事があまりにも破綻しているように思えたので、書かせていただいた次第です。

長々と書きたくなかったのですが、文才のない私にはこれが限度でした....。

乱文ではありますが以上が私個人的意見です。ありがとうございました。

追記

とのことでしたが、情報源はどちらですか?これもまたネット批判の悪い点と同じで、情報源を明示することや自身理屈の元で意見として述べるのであれば良いと思いますが、それが事実かどうか、何故そう思うのか、という所を明確に述べないまま批評するのは、"なんとなくロゴがかっこ悪い"、"多分パクリ"、と言う方々となんら変わりはないと考えています誤情報錯綜するのがインターネットですが、発言する際に少しの考えを載せるだけでも変わるのではないでしょうか。

人が製作した作品に対して、展示を見に行っただけで"クオリティが低い"と述べる方は、本当にその作品クオリティーを見ているとお思いでしょうか。文脈によって形成されるロゴ否定しないで欲しいと本人が述べているにも関わらず、文脈の見えない視点から人の成果物批判をしていては矛盾が生じます。それがデザインを学んでいる方のするべきことでしょうか。ちなみに私は、クオリティ感覚であると述べている訳ではなく、引用元の筆者の述べている内容は感覚的に捉えたクオリティだけであると述べているのです。背景などを読み取らずに捉えたものが"クオリティ"であるかすら疑問ですが、私自身は文脈を含めてのクオリティである認識しています

2015-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20150820152118

人間はがんだの精神病、あるいは近親者の事故なんかで、びっくりするほど性格や考えなんて変わる。

人間のものなんて、信用とかできない。

人間は弱いと理解して、接してあげるのがやさしさ。弱い部分を受け入れてあげて、その上で、社会的に正常とされる信頼をしてあげるってこと。

  

人間は信用しなくてもいい。人間成果物を見て判断するだけ。そこにちょっとだけ、弱さを許してあげるだけ。

2015-08-18

声優さんラジオについてな

http://togetter.com/li/853162

声優ラジオ台本に「以下10フリートーク」って事例沢山あるのかなあ。まあい殆ど無いとしても『それが声優!』であったからという理由で多発するようになっちゃうんだろうな。それが許されることとして描くとそうなっていきやすくなるんだよね

一応業界からこの辺周辺に対する意見な。

そういう台本は実際になくはないんだが、だとしてもそれがすなわち悪である、許されてはいけないというわけではないんだよ。

様々なパターンがある。

そもそもの台本ってのは成果物じゃないんだよ。成果物ってのは音声であってこれをラジオとして放送するわけでしょう。その放送音声すらも収録したもの編集して効果音をつけて流すのが前提であって、台本っていうのはその過程一時的必要とされる介助でしかないし、そこに絶対ルールはないんだよ。

例えば、台本には「以下10分フリートーク」と書いてあったとしても、別紙で「想定される話題」などが用意されてる場合すらある。台本ってのは現場構成要素の一部なんだよ。

もちろんただのぶん投げで声優さん一方的負担を強いるような現場ってのは存在する。でも、かといって、「以下10分フリートーク」って書いてある台本がそのままぶん投げの証明とはならない。

声優さんある意味声を売る仕事だけど、だからといってスポンサーなり脚本意向で何喋らせてもいいとは思ってなくて、そんな事をやっていれば最終的な成果物(この場合ラジオの音声)もそのラジオを含むプロジェクト全体のクオリティも下がると、普通放送作家なり脚本なりPは考えてるよ。

声優さんプライベートでも嫌いなものや興味のないもの指定して、それを台本の指示に従ってフリートークしろってかいたとしたって、その番組面白くならないのは想像がつく。

台本に「以下10分フリートーク」と書いてあったとしても、普通放送作家なら、収録前の打合せで「最近何して遊んでますか?」から始まって「今日はどんなフリートークしましょうか」「そのネタ面白いですね、拾っていきましょう」「じゃあ、そこでBさんのモンハンの話につなげて」みたいな打合せをやってるんだよ。まずは、それが基本の姿だって認識はあってほしい。声優さん台本のぺらの「フリートーク」の部分に話題として使えそうなネタメモをして収録に挑む。

(余談だけど、この打ち合わせが盛り上がりすぎて、本収録よりそっちの方が面白かったなもう少し打ち合わせは抑えていくべきだったなあ。とかもある。声優さん役者さんによっては、打合せで綿密に話題確認をしておいた方が本番でイイ人もいるし、逆に打ち合わせでしゃべりすぎて本番が二週目になると輝きが減る人もいる。プライベートについて絡んだ話題のほうが面白い人もいるし、あくま仕事範囲内で話題をあつめててプライベートの話は嫌な人もいるし、それぞれNG話題もある。その辺の声優さんの都合、相性の問題スポンサープロジェクト)の意向、全部ひっくるめて番組の打合せをするのが放送作家本来仕事で、台本はその準備のひと手順なんだよ。関連会社の事前チェックをとるために大事儀式ではあるんだけど。)

以上が「本来現場の姿」であって、でもしかし、声優ラジオは増えた。FM深夜番組だけじゃなく今主流はWebラジオだし、アニメ映画なんかのプロモーションとして番組も爆発的に増加した。メディアミックスにおいて多数の入り口を作るのは戦略の基本だし、声優ラジオは(コミカライズノベライズにくらべれば)短時間に作れて、予算や手間もさほどかからない(ということになっている)。

経験の浅いスタッフも増えたし、声優さん側に分投げになっている現場も、悲しいけれどないわけじゃない。たぶん増えてる。それは確かにブラックだ。

(また昨今、声優さんというもの立ち位置も「ただ声を当てる職人」ではなくて「あるプロジェクト(主にアニメ番組)の代弁者広報役」として期待されるようになってきた。期待されてるっていうのはそういう声優さんの方が仕事取り易いし重用されるし出世するということで、はっきり言っちゃうへぼ放送作家声優負担の高いへぼ台本を書いてきても、それでも面白いフリートーク番組を作れる声優さんのほうが需要がある。)

でもだからと言って「以下10分フリートーク」という台本存在声優ぶん投げではない、というのがこの記事趣旨だ。声優さんの選定やスタッフの相性まで考え、一番重要な打合せを含んだ総合的な現場構築が面白い番組バックグラウンドであって、台本というのは皮相な一部なんだ。

願わくば面白い番組が一個あった時、その背景に思いをはせて評価してあげてほしい。評価の中に「あれは多分現場雰囲気がよかったんだな」とか「番組企画が毎回よかったな」(企画によっては普段口数の少ない声優さんが楽しくしゃべってくれるとかもある)みたいな価値観が全くないとすれば、放送作家なり現場のPなりはいてもいなくても一緒の存在だということだ。結果、そちらには予算評価もながれず押し付けられた素人けが素人仕事をすることになってしまうだろう。そして声優さん負担を全部押し付けることになり、誰も得をしないギスギ現場だけになってしまう。

――というのを現場からのレポ的な何かとして書いてみたよ。

2015-08-15

グラフィックデザイン業界の所感

グラフィックデザイン文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルク活版印刷雑誌時代エディトリアルデザイン広告コミュニケーションテクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナー職能として、工業化社会における機械製品美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである生活を便利にする機械製品電話洗濯機など)は生まれパーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツール思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザイン勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。

いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度ごますりが必要コミュニティ入会の現状。

デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考しかデザイン評価できない。つまり、受賞した人間はいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネス社会ライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。

本来的にビジネス協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザイン機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。

また別の観点では、現在多くの美術教育現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザイン文脈で育っているので、そのような視点しかデザインを捉えておらず、結果的美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法社会コミュニケーション活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能グラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。

ここ数年、自分生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティ思考高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティ未来はないとだけは言っておきたい。

美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。

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