はてなキーワード: 非対称的とは
わたしが1回目のレスでずれた方向に拾って反論したのが悪いかもしれないけど、ちょっと勘違いされてるかと思う。私が怖ーと思ったのは刀剣乱舞と艦これっていう同じような表現がされてる作品に対しての自分の感情です。作品のエロにショックを受けてるとかではない。作品自体はある意味対称的なのに、受け取るわたしが非対称的に受け取っていたって話。で、この私の受け取り方、いつのまにかミソジニーを内面化してて怖いなっていう話…。
そういう話です。
ちょっと話ずれてるけど、表現の自由が〜とかいう意味では二次元を二次元として分けて考えなきゃいけないのはそりゃそう。どっちの作品の表現も否定してないしわたしが刀剣乱舞を嫌いなのは個人の好みです。刀剣乱舞の表現にショックを受けたりもしてない。ただ、こういうジェンダー論の観点から話してるときに二次元は二次元!って言っちゃう人はいろいろ見えてないんだろうなって思って怖いよやっぱり。
(『本書の概要』で述べるとおり専門的すぎるため省略)
●『人口過剰』
p.176 人格影響説…非同一性問題→非人格的総計説、非人格的平均説…新たな理論Xを求める。
p.181 非人格的総計説は…とにかく人間を増やすべきだという「いとわしい結論」と、まだ存在しない人間を対象とする誤った前提を否定できる。ただし、人口のサイズに対するガイドラインはなくなる。非人格的平均説は…人間の出生に条件を付ける「単純な追加の問題」を否定できる。…非人格説は幸福の最大の総量/平均値ではなく、不幸の最小の総量/平均値を目指すべきだ。よって、理想的な人口はゼロだ。
●『段階的絶滅』
p.191 高齢化。とくに一部が「最後の人類」となることはQOLを大幅に低下させる。
p.194 現存の人々のQOLを良くするために新たに生命を作ってもよいか。また、その条件は。
p.195 総計的人格影響説、平均的人格影響説…不幸から見た場合、平均説は明らかに誤り(QOLが悪い人生が60億あるより、120億ある方が悪い)。総計説なら部分的に許される。
p.198 平均説・総計説とも功利主義に対するのと同じ批判を受けうる。→権利・義務論:厳格な説ならすべての子作りは許されない。厳格でない説なら部分的に許される。
●『絶滅』
p.202 小惑星の衝突といった外的な脅威、持続不可能な消費、環境破壊、疫病、核兵器、生物兵器。
p.204 ①皆殺し②「最後の人類」への害悪③人間がいないという状態…①は明らかに悪い。②は最後の世代の方が、最後から2番目の世代より、未来への願望・欲望が絶たれるという点で害悪が大きい。ただし、これは絶滅が早いほどにいいという議論と矛盾しない。③道徳的主体や理性的思考者がいなくなり、多様性もなくなる。それらの受益者はいないし、「永遠の相のもとで」価値があるか不明だ。
○第7章『結論』
p.210 「道徳台帳」という功利主義の理論を退けるピーター・シンガー。「失望主義(反失望主義」を退けるニルス・ホルタッグ。
p.211 そもそも反直観的だというのは判断材料として有力ではない。…この結論(反出生主義)が反直観的という理由で否定し、背理法的に非対称性を退ける。…快楽の不在は悪で、苦痛の不在は「悪くはない」と見做すことはできない。さらに、支配的な直観は①他人に害悪を与えることを子作りに限って度外視している、②出産を奨励する直観は心理学的に歪められている、という問題がある。
p.214 背理法的に非対称性を論じることができると見做せば、我々より悪い人生を送る人々に、我々の直観を同様に反直観的と非難されることになる。
●『楽観主義者への応答』
p.215 楽観/悲観主義には事実、価値判断の2つについてがある。無論、反出生主義はどちらも悲観主義だ。
p.216 反出生主義の楽観主義的転回=避けられない絶滅を良いことだと考える。他の人々にとっては悲観主義的だ。
p.217 楽観主義者は悲観主義を苛立たしく思い、非難する。出生は「覆水盆に返らず」で、自分を憐れまず、いかに自分が恵まれているか考え、人生をフル活用し、喜びを感じ、前向きに考えなければならない…①人を元気付けるというだけでは正当とは言えない。②自己を憐れむことなく自らの存在を悔やむことはできる。何より、反出生主義はまだ生まれてこない子供のためのもので利他的だ。盆からこぼれてもいなければ、こぼれる必要もない。③自分の人生に満足すべきだという意味を読みとって「いかに自分が恵まれているか考える」ことは、自分に都合のいいように解釈することを必然的に伴い、そうしろという命令には全く説得力がない。反出生主義は苦痛の拡散をせず、なおかつ自分の人生をより悪くなくすことができる。④楽観主義は苦痛に対する妥当な否定ではなく、ただの無関心でしかない。明るい方向がつねに正しいというのは、ただの無根拠なイデオロギーだ。自己欺瞞を回避できれば、集中して取り組まなければならないのは、おおむね希望より逆境だ。彼らは幸せかもしれないが、だからといって正しいわけではない。
●『死と自殺』
p.220 存在してしまうということはつねに害悪だという見解は、死が存在しつづけるより良いということや、自殺がつねに望ましいということを意味しない。存在するものは存在しつづけることに様々な利害関心を持ちえて、人生を続けるに値しないほどの害悪は、それらの利害関心を無効化するほどでなければならない。
p.221 実際、存在することの害悪の大きな1つは死ぬこと(不死ではないこと)だ。
p.221 エピキュリアン:死は死ぬものにとって悪くない。死が来た時点でその主体は存在せず、よって死は経験できない。…①すべての条件が同じなら、長い人生は短い人生よりいい。②死んだ人間の願いは尊重すべきだ(もし死は害悪でないのなら、死後生じることで害悪ないことはない)。何より、③殺人はその犠牲者を害するという直観に反する。
p.222 ①存在することが害悪だと考えるひとさえ、同意なくその人を殺すのはその人を不当に扱っていると考える。②予防原則:エピキュリアンの見解が間違っていた場合、深刻な害悪がもたらされるが、反出生主義が間違っていても、害悪がもたらされることはない。
p.223 生前の非存在と死後の非存在は非対称的だ。人に歴史は個人の歴史から構成される。
p.223 「生前の」人物から奪うというのは…害されるのが「生前の」人物なら過去への因果関係が生じているという議論…死が害する瞬間は「つねに」または「永遠に」だ(例:「最後から2番目の大統領」は「つねに」、「永遠に」そうだ)。…デイヴィッド・スーツ「それは「純粋に関係的な」点において惨めであるということで、彼が害されているということは言えない」。
p.225 ともあれ、反出生主義はエピキュリアンを意味しない。エピキュリアン:死は害でも益でもない。→エピキュリアンの見解を退けるとすれば①死はつねに害悪である。②つねに利益である。③害悪である場合も利益である場合もある。…①②は明らかに間違い。反出生主義は③で、QOLの評価と、それが存在しつづけるのをやめるべきときの基準は、自己決定の原理によるべきだ。しかし、一般的な見解より合理的な自殺に寛容なことは確かだ。実際、西洋の文化のほとんどを含む多くの文化に合理的な自殺への大きな偏見がある。
p.228 一旦、誰かが存在してしまい、その人への愛着が形成されると、自殺は苦痛を引き起こす。せいぜい子供のいない人生の苦痛を比較することで和らげるだけだ。さらに、周辺の人への害が増えることがあり得る。
p.229 旧約聖書でヨブは生れてきたことを悔い、エレミヤはさらに堕胎してくれなかったことを恨んでいる。タルムードはヒレル主義とシャマイ主義の論争で、人類は作られない方が良かったという後者に軍配を上げている。
p.231 反出生主義は人間好きによるものだ。しかし、人類は自分からは絶滅せず、多数の苦痛が生まれつづけるだろう。これこそ、人間嫌いが反出生主義に達しない理由だ。…人々は反出生主義も子作りをやめることも受けいれないだろう。それが人間好きに由来するとは考えにくい。それは人間に対する悪意ではなくとも、存在してしまうことへの害悪への、自己欺瞞的な無関心によって行われている。
本稿の著作権・著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。
○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。
●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。
●『本書の概要』
●『読者への指針』
●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。
・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。
●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』
・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。
・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。
●『子作り』
・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。
・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制やアパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。
・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。
本稿の著作権・著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。
○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。
●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。
●『本書の概要』
●『読者への指針』
●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。
・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。
●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』
・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。
・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。
●『子作り』
・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。
・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制やアパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。
・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。
異性との性的交流を貨幣で交換する行為の非人道性に人間の倫理感の敗北を感じてた。
でもちょっとした収入が入って、悶々とする性欲が手伝って、これは社会科見学だ、フィールドワークなんだと自分を誤魔化しながら歩き続け気が付くと射精していた。
僕が今まで嫌悪してきた対象に僕自身が転じたこと。それもある。
でもそれ以上に、僕がこれまで嫌悪してきたのは「僕自身に内在する性欲を持て余す僕」だったんだということに気が付いてしまったから。
性産業は非人道的だとか、非対称的だとかあれこれ理由を作っては他責してきたのは、結局は自分自身の業に向き合うことを恐れた臆病な僕がいたからなんだと気が付いてしまった。
そして今すでにアルバイト代でまた風俗に通おうとしている僕がいる。
渡された名刺に書かれた無数の心無いハートマークに心を揺り動かされている僕がいる。
帰り際に恋人縛りで絡めとられた指先のざらついた感触が忘れられない。
どんなに彼女に馬鹿にされてたっていい。内心カモにされてたっていい。
韓国軍による自衛隊機へのレーダー照射 複数回で一定時間続く | NHKニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20181222/k10011756991000.html
chuukai 日本からも韓国国内からも「間違ってたなら認めようよ」と韓国軍が袋叩き状態.騒ぎが大きくなって喜ぶのは北朝鮮か中国
2018/12/22
rKoneru_waiwai id:chuukai 嘘をつくな。徴用工判決に批判的な朝鮮日報ですら「日本は過剰反応」という韓国軍の代弁をしてるし、読者も半分は「日本が悪い」だ。 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/12/22/2018122280004.html
2018/12/22
chuukai /id:rKoneru_waiwai嘘だというならnaverニューストップにある記事のコメントを原文で読んできなさい。
2018/12/22
chuukai「韓国国内でも韓国軍が袋叩きだ」「北朝鮮や中国を利するだけ」
「(韓国民も自国が悪いとして自制してるんだから日本は韓国を責めて騒ぎを大きくしたらだめ)」
rKoneru_waiwai 「chuukaiは嘘付きである。」「比較的に自国批判の出来る朝鮮日報ですら韓国軍の代弁をしている。」
「(当然韓国民の世論などお察しで、日本が悪いと言う声が大勢だろう。強く責めていくべきだ。)」
chuukai 「私の話を嘘だと主張するrKoneru_waiwaiはnaverニューストップにある記事のコメントを読んできなさい。」
「(私の言うとおり、韓国軍を袋叩きにする声が韓国世論で支配的であるのを見ることが出来るだろう)」
朝鮮日報は韓国を代表するクオリティペーパーの1つでありつつ、比較的現政権を批判する側の存在。
悪口を言う韓国人からは「親日売国新聞」等と呼ばれるところでもお察し。
つまり(消極的ながら)日本の手を上げて自国を批判することが出来る希少なメディア。
なので「朝鮮日報でも韓国軍を代弁している(だから韓国軍批判の声なんか韓国内にほぼないだろう)」
というrKoneru_waiwaiの主張は変ではない。
naver newsも韓国でトップのニュースサイトと言ってよく
書き込みは共感順にソートできるので人気のある意見も見つけやすい。
なので「naverニュースの記事のコメントで韓国軍が袋叩きである。だから韓国世論は韓国軍非難である。」
というchuukaiの主張の仕方もおかしくない。
両者互角のようだがひとつだけ違うところがある。
rKoneru_waiwaiは論拠とする朝鮮日報の記事urlを貼っているのに対し、
chuukaiは論拠とするnaverニュースの記事urlを貼っておらず、「読んでこい」だけで明示しない。
問題点は絞られた。
chuukaiが主張の論拠とするnavernewsコメント欄だけが確認されていない。
問題点は2つだろう。
・chuukai本人が具体的なURLを貼らない。
・「原文で読め」という指定がある。
韓国に詳しくない人はnavernewsのトップまで行くのがめんどくさいし、次に原文読むことが出来ない。
navernewsなんかもよく見てるのでかわりに今回の事件のトップ記事を読んできましょう。
というわけでnaverへ行ってこの事件のトップ記事とそのコメント欄読んできました。
https://m.news.naver.com/read.nhn?mode=LSD&sid1=100&sid2=267&oid=001&aid=0010541015
以下人気コメント順です。
love****
이정도 해명했음에도 자꾸 트집잡는건 북한이 조용해서 외부의 적으로 지지율을 끌어올리기 힘든 일본 정치권이 위안부협정파기에서 지지율 상승 재미를 보고 또 건수 잡았다고 생각하는것같다.
事情は説明したのに。にも拘らず日本が何度もケチをつけてくるのは支持率上昇が目的だ。北朝鮮が静かなので別の外部の敵を欲している。慰安婦協定破棄の時にも支持率上昇したので、味を占めてるんだ。
asel****댓글모음
남의 나라를 36년간 점령한 주제에 레이더 좀 비춰다고 저 난리법석을 떠는 놈을 이웃을 하고 있으니. 항상 긴장하자. 남북분단도 시초는 지놈들의 책임 인 것을.
2018-12-22 14:55:08신고
他国を36年間占領した癖に、レーダーをちょっと照射されたぐらいで大騒ぎするやつらが隣にいるんだ。精神を引き締めましょう。南北分断も始まりは日本の責任です。
tkfk****
원래 한국 수역이였는데... 김돼중정권 시절 노무현 해양수산부장관이 한일어업협정이란걸 해서 일본에 그냥 줘버렸지.... 독도는 그때부터 공해상에 있는섬이 되어 버렸다. 그걸 알고도 독도 드립해대는 민주당놈들..위선...꼬맹이들은 그런 역사가 있는줄도 모르고 김돼중 노무현 우상화에 세뇌된,,,한심한 개돼지들...
あそこは元々韓国の水域だ。金大中時代に海洋長官だった盧武鉉が韓日漁業協定を結んで日本に渡してしまった。そんな歴史も知らずに大騒ぎしてるあほな与党支持者度も…。
(訳者注:これは政権与党への愚痴です。盧武鉉は文大統領の盟友であるという背景があり当てこすっています。)
whdl****댓글모음
지구상서 멸종되어야할 1급 동물 쪽바리들
2018-12-22 14:13:46신고
地球上で絶滅させてやるべき第一候補の動物:チョッパリ(訳者注:日本人の蔑称)
gamb****
미사일로 격추시켜라. 어디 원숭이 초계기 따위가....
サル(訳者注:日本人の蔑称)の哨戒機などミサイルで撃墜すべきだったんだ。
kym9****
어떻게든 반일감정 부추기고 일본과 미국에게 등 돌리게 만들려는 주사파놈들의 조작이다..
反日感情を煽って日米を敵視させようと言う主体思想派連中の情報操作である。
(訳者注:北朝鮮シンパによる工作だと主張。おそらく文政権への批判もにじませています。)
sola****
문재앙 정권 답다ㅋ 북한선박 표류한거 발견한게 이번이 처음이냐??? 그때마다 사격통제 레이더를 우방국에 쐈음??? 해군새끼들은 말같지도 않은 소리를 하냐. 우방국에 사격통제 레이더 쏘는 정신나간 정권
文災害政権らしいw 北朝鮮漂流船を捜索するのは今回が初めてか?そのたびに射撃統制レーダーを友好国に照射するのか?海軍は話にならない言い訳をするな。友好国に射撃統制レーダーを撃つ非常識政権。
コメントの順はサイト側でソートされた共感順であり、増田はいじってません。
疑う人はソースのページを直接ご覧ください。
ソート人気順の1ページ目の最後の方にようやく自国政権を非難する声が少数ありました。(でもそれらは非共感割合も高いです)
chuukai 日本からも韓国国内からも「間違ってたなら認めようよ」と韓国軍が袋叩き状態.騒ぎが大きくなって喜ぶのは北朝鮮か中国/id:rKoneru_waiwai嘘だというならnaverニューストップにある記事のコメントを原文で読んできなさい。
2018/12/22
この勝負はid:rKoneru_waiwaiの勝ち。
嘘付きはid:chuukaiの方。
あーつかれた。
軽い気持ちで始めるんじゃなかった。
(所要時間48分)
https://anond.hatelabo.jp/20181025141220
0 はじめに
すごく読みたかったけど読む前に消えてしまった。おれもこのことは考えた事があるのでちょっと記して共有したいと思う。
すげえ嫌なこと言うね。高学歴、高身長、女に人気ある職種で、三十過ぎだけど未婚です。見てくれは学生時代にホストやる勧誘受けたり、女にデート誘われたり部屋に誘われたりだから、少なくとも悪くないと思う。いや、きっと良い部類なんだろうな。その前提で書かせてください。あと、イケメンだよねとか男女問わず言われる。
じゃあセク○スし放題だと思うじゃん。でも、おれは家族関係があまり良くなかった。精神分析的な視点から男の女性関係は異性の親との関係を繰り返すとかいうしで、母との関係が悪かったおれは女をそんなに信頼できていない。結婚したいっていう意識が希薄なんだと思う。母親から虐待を受けていた男は女との関係で安心できないから、セク○スで勃起ができない、射精できないことが多いみたい。俺も似たようなもので、一夜限りの関係を全然楽しめないので心の底から男性性を楽しめていない。ていうか、異性関係はクソ真面目だと思う。
率直に言えば、別にイケメンでもなくて社交性の高いやつがいろんな女とセ○ロスしているのが羨ましい。おれはそこまで女との関係を安心できない。
スペック的には恋愛市場で一応人気はあると思う。イケメン、高学歴、高身長、仕事も十分(もちろん、上を見ればキリがないんで匿名のあれがイキってると流してください。ただ、そう思ってくれる人が多いみたいだという話)らしい。
一応言っておくと、女という性別はそもそも一般的に信頼できない!とかいう話じゃなくて完全に家庭的で個人的な事情でおれが単純に女を信用できないから、よくわかんない人ととのセク○スに持ち込めない、ということだ。よく知らない女と同じ布団に寝られない。むしろ信頼という話で言えば、共感をベースにした話は女との方がしやすいし、尊敬できる人もたくさんいる。
N=1ではあるが自分の経験をとりあえず整理したい。それぞれ挙げることは相互排他的じゃないけど思いつくまま書いていく。
1 よかったこと
(1)女が優しい
これは統計とったわけじゃないけど他の男を観ていて多分そうだと思う。会って話して、他の人とは違っておれと話しているときはなんかいい方にか声色が変ってる女の比率は、世の中の人より多いと思う。多分イケメンだからだと思う。男がキレイな女を好きなのと同様に、女がかっこいい男を好きなのはそれがそうあるべき姿かはおいといて、当然だろうな、と思う。ていうかアイドルも俳優も生き様はあるかもだけど、何よりも見た目だしね。
職場でもそう。おれを目の保養にしている表情のお局が優しくて、そこは本当に助かっている。
これは本当に強調したい。人妻っぽいお店の人がすっごい優しくしてくれる。なんなら商品を安くしてくれる。
友人のイケメンの話によると風俗でも気がついたら女側の意思で入っ○たとかあるらしい。おれもある。他にも韓デリのお姉さんがうちに来なよっていってくれたけど、多分多くの人はそういう経験ないし、おれの見てくれはその発言に影響していると思う。
(4)なんか褒められて嬉しい
なんだかんだ承認されるのはとても嬉しい。おれは自己評価が死ぬほど低かったから、こう言われて救われている機会は想像以上にあると思う。特に大学入る前に激ヤセした分、その前後の評価の違いはかなり感じる。
2 よくないこと
(1)遊んでると思われる
本当に辛かったのが、マッチングアプリで知り合った女にお前みたいに好条件の男にはなにか裏(彼女持ち・既婚)があるに違いないと疑われたこと。直接的には関係ない裏はあります。心理相談室でカウンセリングを受けているので。というのも自分ではいかんともしがたい自己評価の低さを悩んで通っていた。直接的に彼女ができないのとは関係ないと思っているけど。この疑問は半分本当な分、なおさら自分の誠意を疑われて辛かった。
面食いの女が寄ってくる。イケメンが好き、とかじゃなくてイケメンじゃないと嫌だという女は、だいたいイケメンと付き合っている私が好きという女で、自己肯定感が低く後々面倒くさいことになる例が多い。ある種の層にとってはイケメンはブランドと似ているんじゃないかな。セ○ロスするだけならいいけど、本当に付き合いたい人を探している者としてはつらい。この手の女はおれと同じく、あるいは俺以上にいろいろ抱えてるから相手するのがだるい。
(3)イケメンをマウンティングしてる自分が好きな男がよってくる
自分すごいの出汁にイケメンにこんなことが言える自分はすごいだろう的にマウンティングしてくる同性がいる。これは、うまくあしらえない自己肯定感の低い自分という問題はあるけど、そういう輩は一定数いる。
3 整理してみて思ったこと
得することは絶対ある。とはいえ、女性関係において、男が女の顔とかおっぱいといった外面を観ているように女も男の見てくれを見ている。でも、男のそれとは非対称的に女は男の内面をかなり観ていると思う。マッチングアプリを運営している友人曰く、男は顔、身長、学歴、金、女は年齢、おっぱいがある人が人気をかなり決めるようです。でも、いざアプリを使う男として女と会ってみた皮膚感覚で言うと、マッチングしたら女のほうが話が合うとかいった内面を重視してます。
男のあなたは俺と同じく、すげえ美人でスタイルがいい性格ブスともやってみたくない?でも、女は違うらしい。モテないと画面の向こうでイケメンを呪うあなたがもてない理由はスペックだけじゃないのです、たぶん。。。ていうか男は学歴と年収という努力でなんとかなる要素が効く分、男でよかったと思った。
(2)同性の男には嫉妬されない
よく「かわいいからって調子乗って」とか女が周りの女に思われてもやもやするっていう話を聞きますが、男はそういう嫉妬は相対的に薄いのではないのでしょうか。女が男にどれだけ求められているかで女の価値が決まるみたいな価値観を抱きがちですけど、男にはそういう感覚は薄いと思います。みんなに求められている女を好きな男はいます。とはいえ、この話は上野千鶴子の『発情装置』とかで論じられているらしいのを間接的に聞きました。モテるのはいいことだみたいなところはありますけど、両性のモテる要素には言語化するのは直感的には難しい差異がある。
(3)ゲイを断りにくい
おれは華奢なのでなんかそういう層に需要があるみたいです。「2 よくないこと」に入れようと思いましたが、男が好きな人にとっては悪くないのでここにいれます。手が松脂臭い爺に手を握ってうっとりされたりで正直面倒くさいです。でも、30超えてからそういう機会も減って煩わしさが減りました。
4 おしまい
イケメンで救われてることは経験的にたくさんあるけど、イケメンなのにその程度なのかよっていうのはもっとある。たいしたことなくてすいません。なんか、人と比べてどうのっていうより、自分の幸せを見てくれにかかわらず他人と育んでいける人間関係を築くのがいちばん大切なんじゃないんでしょうか。
おれはイケメン高スペックと世の中的には認識されがちな層だとは思うけど別に自分のことがそんなに好きじゃないという感情もあるし、なんか自分のことを肯定できてブサメン、低スペックで幸せに生きている人が羨ましいです。本当に調子に乗った発言だとは思う。でも、おれだって見てくれなんかどうでもいいから自分を好きな人間として育ちたかった。というわけで、そういう人が幸せな結婚してるしで、俺もお前も自分が他人と比べずどうなったら幸せかを考えようぜ、というお話。
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
「ズートピア」を見た。
結果、少々がっかりしてしまった。「理性」と「野性」というキーワードが引っかかってしまった。(地元には吹替版しかないのでオリジナルの表現は確認できていないけども)
社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
トランスジェンダーのガゼルが、作中でカリスマ的シンボルとなっているところを見るに、制作陣の意図として設定されたテーマは「一見ユートピアに見える中に残る差別偏見とのたたかい」みたいなやつだと思うよ。
私は理性/野性で読んだので批判的ですが。
○理性と野性
(理性/野性とも、理性/本能ともいえる。英語だと「savage」が使われているらしい。「野蛮」だ。)
・・・・・・・「理性による野性の淘汰」をこの時代にわざわざやります?
残念だったのは、「理性」「野性」の判断基準が恣意的であることに対して、さしたる言及もない点。
作中に言及されている「野性」の部分って、肉食動物の側だけなんだよ。
「(多数派である)草食動物への害になりうる野性」のみが、「野性」として取り上げられている。
草食動物だって、「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろう。
群れを維持するために弱い個体を追い出したりするというような。
そうしたことに、少しは言及されていてもよかったのに。
「草食動物が90%の社会だから、肉食動物の怖さにだけ、敏感だ」みたいな位置づけが欲しかった。
非対称的で、ひどく残念だった。
そして、ああ救われねーな、と思ったのが。
肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
そして、肉食動物である彼ら自身が、野性の克服を「是」としているところだ。
野生に「戻った」カワウソが、彼の奥さんを認識できなかったりとか。
そして、「理性ある」状態の奥さんに、「あんなの夫じゃない」と言われてしまったりとか。
彼らにとっても、野性・野蛮は憎むべき敵なのだなという位置づけが、ひどく残念だった。
理性/野性の構図が一貫して変わらない。自明視されていて言及されない。
理性は善で、野性は悪。
あまりにも。
あまりにも不足が大きすぎるのではなかろうか。
○タイトルについて
タイトルは明らかにユートピアないしはディストピアを意識してのものだろう。
いわゆる「ユートピア(ディストピア)」にまつわる言説を、なんらかの形で昇華するのかな、という期待もあった。
「ユートピア」といえば。
元をたどればトマス・モアの「ユートピア」に連なる一連の「ユートピア文学」だ。
「人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な場所」だ(wikipediaより)。
だから、高度に機械化され、監視機能が発達し、そのなかで主人公が公職に付いた時点で、
過去の「ユートピア文学」らの批評を加味した、なんらかの言及がなされるのではないか・・・・・・という期待をした。
作中内に、理性/野性が取り上げられ。
理性が善で、野性が悪。
「ユートピア(=ディストピアに転じうるもの)」への、なんらかの批判がなされるのではないかと、期待した。
・・・・・・・・・・・・・・・・そ ん な こ と は な か っ た 。
理性によって作られた社会。
理性の肯定。野性の克服。
「それだけ」だった。マジで。
理性的で合理的な「ユートピア」が、「ディストピア」に転じうるってもう言及されているのに。
「理性」ゴリ押し。
それってどうなん。
つまらん。
愚痴終わり。
これ、字幕版見たら変わるかな。
でも県内にないんだよな。
県外までいく気力は、今のところ、起こっていない。
妻に不倫をされた夫の話(http://anond.hatelabo.jp/20141028184640)がホッテントリに入っていたので、逆の立場である自分の話をだらだらと書き綴ってみる。
自分はいま、趣味のサークルで知り合った既婚女性とお付き合いをしている。世間からみたら、いわゆる不倫の関係というやつだ。
実は、自分としては人妻と付き合っているという意識はほとんどない。
だって、相手の夫の名前とか顔とか一切しらないんだもの。もしかしたら彼女は独身なんじゃないかと思う時すらある。
俺にとって彼女が既婚であるということは、現実感がともなっていない。
現実感がともなってないから、知り合いがいるかもしれない街なかで手をつないで歩いたりとか普通にしている。
俺としては彼女の事をすごい好きだし、愛している。
愛しているのでお付き合いをしている。
リスクとかまったく考えていない阿呆な俺にとっては、ただそれだけのこと。
ただ、外野からみたらただの不倫なわけで、我ながらたちが悪いなとは思う。
これが既婚男性だったら自身の家庭があるわけで、不倫をするにも限度があるだろうし、だからこそ打算的だ。
ようするに、ひとときの秘密の関係を楽しんでいるという認識をもってるんじゃないだろうかと思う。
限度がない。
まったくもって救いようがない。
ただ、自分には限度がないのだが、相手にはある。
最近、そのことを認識することが多くなってきたような気がする。
独身男性である俺の側としては、普段の日常と彼女と会っている時間は地続きだ。
知り合いに目撃されたとしても彼女として紹介できる。
ようするに、俺としては彼女と会っている時間は特別ではあるけども日常として分類できる時間なのだ。
だが、彼女の側としては俺と会ってる時間は普段の日常と切り離されている。
普段の彼女は夫の妻として振る舞い、知り合いからもそう認識されているだろう。
だから、俺と二人でいるときは彼女にとって非日常なんだと思う。
同じ時間を共有しているのにもかかわらず、一方は日常の延長、もう一方は日常とは切り離された非日常。
そういった非対称的な関係がお互いにはっきりと認識されることなく発生する。
デートをした後、お互いの家に帰る際に駅の中などで彼女がものすごく悲しそうな顔をするようになり、その認識のずれを知るようになった。
俺としてはひとときの別れは寂しいけれども、ただ家に帰るだけのことでそこまで悲しむことではないが、彼女にとっては違う。
彼女の帰る家には夫が、ようするに彼女の日常、彼女の現実が待っている。
最初、彼女が別れ際に悲しい顔をみせたとき、俺はそのことに気づかなかった。
だが、それが回を重ねるようになってからようやく彼女の悲しさの理由がわかるようになった。
そういう事があって以来、俺はときどき彼女の日常を想像するようになった。
旦那さんはどのような人で、どんな家に住んでいて、二人はどんな生活をしているんだろうか。
朝ごはんは一緒に食べているのか、家事の分担はどうなんだろうか、そもそも同じ寝室で寝てるのだろうか。
そんなことを想像しても答えがでるわけがなく、本当に知りたいのなら彼女に聞けばいいのだが、彼女の日常を知ってしまうとこの関係のままで居続けることができなくなってしまうんじゃないかと不安で、そのような話はしないようにしている。
いつか、そんな話をすることができるようになるんだろうか。