はてなキーワード: 非対称的とは
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
「ズートピア」を見た。
結果、少々がっかりしてしまった。「理性」と「野性」というキーワードが引っかかってしまった。(地元には吹替版しかないのでオリジナルの表現は確認できていないけども)
社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
トランスジェンダーのガゼルが、作中でカリスマ的シンボルとなっているところを見るに、制作陣の意図として設定されたテーマは「一見ユートピアに見える中に残る差別偏見とのたたかい」みたいなやつだと思うよ。
私は理性/野性で読んだので批判的ですが。
○理性と野性
(理性/野性とも、理性/本能ともいえる。英語だと「savage」が使われているらしい。「野蛮」だ。)
・・・・・・・「理性による野性の淘汰」をこの時代にわざわざやります?
残念だったのは、「理性」「野性」の判断基準が恣意的であることに対して、さしたる言及もない点。
作中に言及されている「野性」の部分って、肉食動物の側だけなんだよ。
「(多数派である)草食動物への害になりうる野性」のみが、「野性」として取り上げられている。
草食動物だって、「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろう。
群れを維持するために弱い個体を追い出したりするというような。
そうしたことに、少しは言及されていてもよかったのに。
「草食動物が90%の社会だから、肉食動物の怖さにだけ、敏感だ」みたいな位置づけが欲しかった。
非対称的で、ひどく残念だった。
そして、ああ救われねーな、と思ったのが。
肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
そして、肉食動物である彼ら自身が、野性の克服を「是」としているところだ。
野生に「戻った」カワウソが、彼の奥さんを認識できなかったりとか。
そして、「理性ある」状態の奥さんに、「あんなの夫じゃない」と言われてしまったりとか。
彼らにとっても、野性・野蛮は憎むべき敵なのだなという位置づけが、ひどく残念だった。
理性/野性の構図が一貫して変わらない。自明視されていて言及されない。
理性は善で、野性は悪。
あまりにも。
あまりにも不足が大きすぎるのではなかろうか。
○タイトルについて
タイトルは明らかにユートピアないしはディストピアを意識してのものだろう。
いわゆる「ユートピア(ディストピア)」にまつわる言説を、なんらかの形で昇華するのかな、という期待もあった。
「ユートピア」といえば。
元をたどればトマス・モアの「ユートピア」に連なる一連の「ユートピア文学」だ。
「人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な場所」だ(wikipediaより)。
だから、高度に機械化され、監視機能が発達し、そのなかで主人公が公職に付いた時点で、
過去の「ユートピア文学」らの批評を加味した、なんらかの言及がなされるのではないか・・・・・・という期待をした。
作中内に、理性/野性が取り上げられ。
理性が善で、野性が悪。
「ユートピア(=ディストピアに転じうるもの)」への、なんらかの批判がなされるのではないかと、期待した。
・・・・・・・・・・・・・・・・そ ん な こ と は な か っ た 。
理性によって作られた社会。
理性の肯定。野性の克服。
「それだけ」だった。マジで。
理性的で合理的な「ユートピア」が、「ディストピア」に転じうるってもう言及されているのに。
「理性」ゴリ押し。
それってどうなん。
つまらん。
愚痴終わり。
これ、字幕版見たら変わるかな。
でも県内にないんだよな。
県外までいく気力は、今のところ、起こっていない。
妻に不倫をされた夫の話(http://anond.hatelabo.jp/20141028184640)がホッテントリに入っていたので、逆の立場である自分の話をだらだらと書き綴ってみる。
自分はいま、趣味のサークルで知り合った既婚女性とお付き合いをしている。世間からみたら、いわゆる不倫の関係というやつだ。
実は、自分としては人妻と付き合っているという意識はほとんどない。
だって、相手の夫の名前とか顔とか一切しらないんだもの。もしかしたら彼女は独身なんじゃないかと思う時すらある。
俺にとって彼女が既婚であるということは、現実感がともなっていない。
現実感がともなってないから、知り合いがいるかもしれない街なかで手をつないで歩いたりとか普通にしている。
俺としては彼女の事をすごい好きだし、愛している。
愛しているのでお付き合いをしている。
リスクとかまったく考えていない阿呆な俺にとっては、ただそれだけのこと。
ただ、外野からみたらただの不倫なわけで、我ながらたちが悪いなとは思う。
これが既婚男性だったら自身の家庭があるわけで、不倫をするにも限度があるだろうし、だからこそ打算的だ。
ようするに、ひとときの秘密の関係を楽しんでいるという認識をもってるんじゃないだろうかと思う。
限度がない。
まったくもって救いようがない。
ただ、自分には限度がないのだが、相手にはある。
最近、そのことを認識することが多くなってきたような気がする。
独身男性である俺の側としては、普段の日常と彼女と会っている時間は地続きだ。
知り合いに目撃されたとしても彼女として紹介できる。
ようするに、俺としては彼女と会っている時間は特別ではあるけども日常として分類できる時間なのだ。
だが、彼女の側としては俺と会ってる時間は普段の日常と切り離されている。
普段の彼女は夫の妻として振る舞い、知り合いからもそう認識されているだろう。
だから、俺と二人でいるときは彼女にとって非日常なんだと思う。
同じ時間を共有しているのにもかかわらず、一方は日常の延長、もう一方は日常とは切り離された非日常。
そういった非対称的な関係がお互いにはっきりと認識されることなく発生する。
デートをした後、お互いの家に帰る際に駅の中などで彼女がものすごく悲しそうな顔をするようになり、その認識のずれを知るようになった。
俺としてはひとときの別れは寂しいけれども、ただ家に帰るだけのことでそこまで悲しむことではないが、彼女にとっては違う。
彼女の帰る家には夫が、ようするに彼女の日常、彼女の現実が待っている。
最初、彼女が別れ際に悲しい顔をみせたとき、俺はそのことに気づかなかった。
だが、それが回を重ねるようになってからようやく彼女の悲しさの理由がわかるようになった。
そういう事があって以来、俺はときどき彼女の日常を想像するようになった。
旦那さんはどのような人で、どんな家に住んでいて、二人はどんな生活をしているんだろうか。
朝ごはんは一緒に食べているのか、家事の分担はどうなんだろうか、そもそも同じ寝室で寝てるのだろうか。
そんなことを想像しても答えがでるわけがなく、本当に知りたいのなら彼女に聞けばいいのだが、彼女の日常を知ってしまうとこの関係のままで居続けることができなくなってしまうんじゃないかと不安で、そのような話はしないようにしている。
いつか、そんな話をすることができるようになるんだろうか。