「非対称的」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 非対称的とは

2017-12-08

anond:20171207232124

ブコメトラバでも、神経質とか、おまえが仕事に集中してないだけ、みたいなのがあって体質的な分断を感じる。

いやタバコの煙と一緒で我慢したり集中して気にしなけりゃ解決って話じゃないんだが。

まあ体質的無意識他人パーソナルスペース侵害する無駄な動きを我慢できない人に我慢しろってのも酷だろうし、お互い様の話ではあるんだけど。

ただ、やる方は好き勝手やって我慢する方は無駄我慢を強いられるという非対称的構造から不公平感が生まれるのは確か。

特に仕事上の力関係が上の人にこれをやられるとかなりストレスが溜まる。

2017-07-07

安倍昭恵スピリチュアリズム

以前ブログにも書いたのですが、

もしも私が放射能だったら・・・

人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・

悲しいだろうなあと思ってしまます

嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・

原発肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。

しかし、放射能自体が悪いわけではない。

悪いのは人間です。

私は放射能感謝気持ちを送りますありがとう・・・

意識の持ち方は大切です。

https://www.facebook.com/akieabe/posts/10150571917471779

 安倍昭恵2012年フェイスブックへの投稿話題になっている。

 スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。

悪の問題について

 安倍昭恵記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会問題被害と加害の関係等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。

 この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間勝手価値観押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間物質関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念人間領域限定されていて、「善悪無記」の物質自然物)にそれを押し付けることはカテゴリーミステイクであるという発想だ。

 松崎勲と類似コメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵思想根本的に誤解している。

 そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考のものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。

 このような「対称性」のスピリチュアリズム記事の後半にも貫徹されている。

 「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間善悪無記の放射能悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会のものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり安倍昭恵糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。

 問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方関係非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)

 要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間勝手価値観押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメント安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである

槇原敬之の「Appreciation」との比較

 安倍昭恵記事を読んで、槇原敬之2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変反省し、感謝の大切さを唱える内省精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。

 一方、安倍昭恵場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直スピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵人間放射能感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。

スピリチュアリズムから批判

 安倍昭恵スピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後スピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵批判するに違いないかである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。

 人間地球自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽からの(核融合の)エネルギー植物光合成によって媒介されて持ち込まれさら動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。

 中沢議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢原発一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発放射能には適用できないということである

 中沢議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。

原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたか自然事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。

2016-06-05

理性と野性の「ズートピア

ズートピア」を見た。

結果、少々がっかりしてしまった。「理性」と「野性」というキーワードが引っかかってしまった。(地元には吹替しかないのでオリジナル表現確認できていないけども)


社会差別偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。

トランスジェンダーガゼルが、作中でカリスマシンボルとなっているところを見るに、制作陣の意図として設定されたテーマは「一見ユートピアに見える中に残る差別偏見とのたたかい」みたいなやつだと思うよ。

私は理性/野性で読んだので批判的ですが。







○理性と野性

作中には「理性/野性」という対立軸存在していた。

(理性/野性とも、理性/本能ともいえる。英語だと「savage」が使われているらしい。「野蛮」だ。)




・・・・・・・「理性による野性の淘汰」をこの時代にわざわざやります

つの近代人だよ。




残念だったのは、「理性」「野性」の判断基準恣意的であることに対して、さしたる言及もない点。

作中に言及されている「野性」の部分って、肉食動物の側だけなんだよ。

「(多数派である草食動物への害になりうる野性」のみが、「野性」として取り上げられている。



草食動物の「野性」には言及されない。

草食動物の「生物学的」特性には触れられない。

肉食動物の「野性」には言及される。

肉食動物獰猛さが「生物学的」である言及される。



主人公が抱えていた偏見は語られたけども、

草食動物肉食動物に対して抱えている「偏見」止まり

草食動物に野性があることへの言及にはなっていない。

草食動物だって、「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろう。

群れを維持するために弱い個体を追い出したりするというような。

そうしたことに、少しは言及されていてもよかったのに。





草食動物が90%の社会から肉食動物の怖さにだけ、敏感だ」みたいな位置けがしかった。

この恣意性言及されなかった。

非対称的で、ひどく残念だった。




そして、ああ救われねーな、と思ったのが。

肉食動物社会性には触れられず、

肉食動物の野生状態描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。

そして、肉食動物である彼ら自身が、野性の克服を「是」としているところだ。

野生に「戻った」カワウソが、彼の奥さんを認識できなかったりとか。

そして、「理性ある」状態の奥さんに、「あんなの夫じゃない」と言われてしまったりとか。

彼らにとっても、野性・野蛮は憎むべき敵なのだなという位置けが、ひどく残念だった。



理性/野性の構図が一貫して変わらない。自明視されていて言及されない。

疑念余地は挟まれない。

理性は善で、野性は悪。

それを、「ズートピア」というタイトルを冠しつつ行うのは、

まりにも。

まりにも不足が大きすぎるのではなかろうか。










タイトルについて

タイトルは明らかにユートピアないしはディストピア意識してのものだろう。

いわゆる「ユートピアディストピア)」にまつわる言説を、なんらかの形で昇華するのかな、という期待もあった。

ユートピア」といえば。

元をたどればトマス・モアの「ユートピア」に連なる一連の「ユートピア文学」だ。

「人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾合理的』な場所」だ(wikipediaより)。

簡単に「ディストピア」に通じる社会だ。



から、高度に機械化され、監視機能が発達し、そのなかで主人公公職に付いた時点で、

過去の「ユートピア文学」らの批評を加味した、なんらかの言及がなされるのではないか・・・・・・という期待をした。

作中内に、理性/野性が取り上げられ。

理性が善で、野性が悪。

理性が社会的で、野性は反社会的

そういう位置けがなされていたから、

ユートピア(=ディストピアに転じうるもの)」への、なんらかの批判がなされるのではないかと、期待した。




・・・・・・・・・・・・・・・・そ ん な こ と は な か っ た 。




理性的合理的で「理想郷」のユートピア肯定されただけ。

理性によって作られた社会

理性の肯定。野性の克服。



「それだけ」だった。マジで




理性的合理的な「ユートピア」が、「ディストピア」に転じうるってもう言及されているのに。

ズートピア」とかいうもじりを使っておきながら、

「理性」ゴリ押し







それってどうなん。

まらん。












愚痴終わり。

これ、字幕版見たら変わるかな。

でも県内にないんだよな。

県外までいく気力は、今のところ、起こっていない。

2016-02-02

http://anond.hatelabo.jp/20160202083213

そもそも「育てて貰った恩を持たなければならない」というのが当然の真理のように受け入れられているのが、諸悪の根源ではないか?

かい事情は置いておいて、基本的に「親は子を産むことを選択できる」のに対し「子は親からまれることを選択できない」という非対称的関係がある。

子供は望まずに産まれ育てられるのであって、それに恩を抱くことを人間的な義務とするのは甚だおかしな話である

(子側が自発的に恩を持つのは全く否定していない)

2014-10-29

人妻不倫をしている

妻に不倫をされた夫の話(http://anond.hatelabo.jp/20141028184640)がホッテントリに入っていたので、逆の立場である自分の話をだらだらと書き綴ってみる。

自分はいま、趣味サークルで知り合った既婚女性とお付き合いをしている。世間からみたら、いわゆる不倫関係というやつだ。

ちなみに俺自身独身で、お互い30代。

彼女結婚して5年くらいになるらしい。

実は、自分としては人妻と付き合っているという意識ほとんどない。

だって、相手の夫の名前とか顔とか一切しらないんだもの。もしかしたら彼女独身なんじゃないかと思う時すらある。

俺にとって彼女が既婚であるということは、現実感がともなっていない。

現実感がともなってないから、知り合いがいるかもしれない街なかで手をつないで歩いたりとか普通にしている。

客観的に見たら只の馬鹿である。というか、馬鹿だ。


俺としては彼女の事をすごい好きだし、愛している。

愛しているのでお付き合いをしている。

リスクとかまったく考えていない阿呆な俺にとっては、ただそれだけのこと。


ただ、外野からみたらただの不倫なわけで、我ながらたちが悪いなとは思う。


これが既婚男性だったら自身の家庭があるわけで、不倫をするにも限度があるだろうし、だからこそ打算的だ。

ようするに、ひととき秘密関係を楽しんでいるという認識をもってるんじゃないだろうかと思う。

だが、独身男性場合というか俺の場合は違う。

限度がない。

限度がない上に、この関係純愛だとすら思ってたりする。

まったくもって救いようがない。

ただ、自分には限度がないのだが、相手にはある。

最近、そのことを認識することが多くなってきたような気がする。

独身男性である俺の側としては、普段の日常彼女と会っている時間は地続きだ。

知り合いに目撃されたとしても彼女として紹介できる。

ようするに、俺としては彼女と会っている時間特別ではあるけども日常として分類できる時間なのだ

だが、彼女の側としては俺と会ってる時間は普段の日常と切り離されている。

普段の彼女は夫の妻として振る舞い、知り合いからもそう認識されているだろう。

から、俺と二人でいるとき彼女にとって非日常なんだと思う。

同じ時間を共有しているのにもかかわらず、一方は日常の延長、もう一方は日常とは切り離された非日常

そういった非対称的関係がお互いにはっきりと認識されることなく発生する。

デートをした後、お互いの家に帰る際に駅の中などで彼女ものすごく悲しそうな顔をするようになり、その認識のずれを知るようになった。

俺としてはひとときの別れは寂しいけれども、ただ家に帰るだけのことでそこまで悲しむことではないが、彼女にとっては違う。

彼女の帰る家には夫が、ようするに彼女日常彼女現実が待っている。

最初彼女が別れ際に悲しい顔をみせたとき、俺はそのことに気づかなかった。

だが、それが回を重ねるようになってからようやく彼女の悲しさの理由がわかるようになった。

そういう事があって以来、俺はときどき彼女日常想像するようになった。

旦那さんはどのような人で、どんな家に住んでいて、二人はどんな生活をしているんだろうか。

朝ごはんは一緒に食べているのか、家事の分担はどうなんだろうか、そもそも同じ寝室で寝てるのだろうか。

そんなことを想像しても答えがでるわけがなく、本当に知りたいのなら彼女に聞けばいいのだが、彼女日常を知ってしまうとこの関係のままで居続けることができなくなってしまうんじゃないかと不安で、そのような話はしないようにしている。

いつか、そんな話をすることができるようになるんだろうか。

というのが、既婚女性不倫をしている自分の今現在の心境。

現場からは以上です。

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