はてなキーワード: 利他的とは
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
「国家や社会の存続ガー」とか「お前の年金や介護ガー」とか、いちいち押し付けがましい輩だ
だってそんな利他的な動機でガキこさえる女なんか今時いねえわけじゃん
まして介護士なんかにならなくて済むように、あるいはこんな国にしがみついてたらそのうち破滅だからって、せっせとガキに教育仕込んでるわけでしょ
それで言ったら無償化やら補助やらで文系博士がいくら増えたって意味ないし、とっとと社会に出てもらった方がいいぐらいだ
俺は医師会や旅行業界みたいに、子持ちが子持ちのエゴ丸出しでいったい何が悪いんだとは思うが
安楽死の話題になるとすぐ、「そんなに安楽死がしたいならば自殺すればいいのに」という声が湧いてきて
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.tinect.jp/?p=85698
それが如何に的外れな難癖なのか、自分達で言っていて分からないのか?
銃社会ではない日本で実行出来る自殺方法は、失敗する可能性が高いものが多い。
自殺に失敗して後遺症を負い、再挑戦も出来ない状態になったらどうするんだと思うと簡単に実行なんて出来る訳ないだろ。
2.自殺は痛い、苦しい、怖い
安楽死を望む人達は文字通り「安らかに」「楽に」死にたいんだよ。
死ぬ時に痛い思いや苦しい思いはしたくない。当たり前だろ。
苦痛無く楽に死ねる自殺方法が身近に溢れているならば、それは既に安楽死が実現しているのと同じ事じゃないか。
首吊りなどは上記問題点が少ないと聞くが、それでも死体の処理で関係ない人達に迷惑をかけるのは避けられないだろう。
糞尿を垂れ流して部屋は事故物件になる。
仮に上記三点をクリアしたとしても、自殺して救われるのは自分だけでしょう?自分さえ良ければいいというのは利己的な思考。
この社会において今苦しんでいる他の人達のために、安楽死の実現を叫ぶ事の何がおかしいんだ?
それ以外の社会運動に対しては「自分だけ良ければいいだろ?」なんて言わない人達も、安楽死に対してだけは何故か平気でこれを言うのはどうして?筋が通っていないにも程がある。
法哲学の議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定の属性を持っているから寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.
まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.
かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.
他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.
個体の属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.
「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンだからこそ人は憐憫を垂れる.
法哲学者の井上達夫の言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮が正義の普遍主義的要請と対立する」(井上達夫. (1986). 共生の作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.
では我々は,正義にもとるということを理由に,特定の属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.
何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.
そうではない.
なぜならば,民主主義国家によって達成される正義は手続的正義にすぎないからである.
「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬は放置することにした」.
これは本当に正義だろうか.
何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.
この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果的利他主義」である.
昨今のオープンAIのアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.
効果的利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である.
ここでの費用には,金銭だけではなく,自分の時間・労働も入る.
かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動を比較評価し,最もコスパが良いものに投資する.
この比較には,「リソース投下に対する社会的インパクトを定量化できる」のが大前提になっている.
社会科学の素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準で定量化することは不可能である.
例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.
定量化の前提は,効果的利他主義の限界の一つとして指摘できるだろう.
効果的利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.
便益を最大化することにこだわることは,特定の目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.
たまたまの理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義」宣言! : 慈善活動への科学的アプローチ. みすず書房. 42-43.)
そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.
特定の属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き的正義に留まるという限界がある.
実質的正義を追求するには,効果的利他主義のような一定の基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.
なお,筆者自身は効果的利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.
世の中の人間が全員おれみたいになったら超平和になりつつ、割とハイペースでゆるりと滅んで行きそうだなって思う。
遅刻しても誰も責めようとしないし、そもそも交通機関の定刻がアテにならない。
ホットスナックコーナーをまじまじと眺めていても店員がせかせか駆け寄ってこないし、服屋に能動的な接客はない。そういうマニュアルだって存在しない。
公共の場では最低でも一つ飛ばしで座るし、その秩序が乱されそうなら慎ましく立ってるか入店を控える。
うっかり人の足を踏んでしまえばすみませんと素直にハッキリと謝る。舌打ちはされるかもしれないが、動機の有無を問わず踏んだのは事実なのだから甘受する。殴り合いになる事もない。
他人が一人でもエレベーターに乗っていたら自分は階段を使うし、乗る時は常に自分だけの空間だ。
親しい友人を喜ばせようとはするかもしれないし、見知らぬ他人同士は最低限の敬意だけ持って互いにいらぬ気を遣い合う必要はない。気まぐれで利他的な振る舞いをする事もあるかもしれない。
自殺率が結構多い社会になりそうだが、スマホのカメラを向ける下品な人間は一人もいない。友人と毒づく事はあるかもしれないが、ネットに悪口を書くこともなければそれを咎める人間もいない。自殺なんてダメだと啓蒙する者もいなければ、個人の悲観を他人に押し付ける者もいない。
雪かきが必要な地域なんかでは、最初から進んでやろうとする人間は一人もいない。それでも少し時間が経って誰も立ち上がらなさそうだなと見れば、各々がそれとなく必要な分だけ作業を始める。
楽しくない事に関してまるでやる気を出さないから、ちょっとイレギュラーな事があるとドミノ倒しに世の中が終わっていきそうだ。
いよいよ人間の歴史が終わりそうだという段になっても現状を打破するイノベーションなんか誰も求めない。ポエティックな言葉を語り合って、おお……いいねぇと褒め合う。
最高の世の中だな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2240401
「自分が中ほどまで進まない・進みたくない理由」を書き連ねるブクマカがたくさんおるけど、
そもそも、「中ほどまで進んでくれよ~」と感じるほどの混雑になった時点で、一人の客がほかの客を掻き分けて通路中央部に到達するのは難しくなっている。
もう個の力ではどうにもならんのだ。個の力じゃなくて集団の力が必要な段階だ。
車内の混雑にあわせて全員が間隔を調整すれば、ドア付近だけ混んでて中の方は空いてるなんてことにはならない。
ドア付近が混んできたなと思ったら、ドア付近にいる人々がじわりと中ほどに一歩進めばいい。
その奥にいる人もじわりと中ほどに半歩進めばいい。
全員がせーのでじわりと動くだけで車内の混雑の不均衡なんて簡単に解消するの。みんなが全体最適を意識すればね。
でもそうはならない。
ほとんどの乗客がボーッと生きてて、時々刻々と変化する車内の混雑度に応じた行動を起こそうという意識がないから。
いったん「ボクはこの吊り革に掴まるんだい!」と決めたら自分が降りる駅までその吊り革を掴んでればいいと思ってる。
狛犬ポジションから動かない人も吊り革に掴まったまま動かない人も、「その場を動こうとしない間抜け」という点では同類なんだよ。
たとえばですよ。
自分の奥にいる客がひとり降りたらそこに一人分の空間ができるよね?
この空間を空けっ放しにしてない? ひどい時なんか、立った人の空席をそのままにしたりとか。
自分がそこにスライドしたら(奥にたった一歩だよ)、一人分の空間は自分よりドア寄りに移る。
その空間にさらにドア寄りにいる人がスライドする。これを2、3人がリレーすれば、ドア付近に一人分の空間ができるんだよ。
これを「詰め合わせる」とか「繰り寄せる」とか言うけど、これ意識してやれてる人どんだけいる?
やってみればわかるけど、自分が奥に繰り寄せたら、隣の人もつい釣られて繰り寄せてくるんだよ。「ああそうすればいいんだ」みたいに。
ボーッと生きてるやつらは周りの動きに釣られやすいから、お手本しを示して釣ってやればいいんだよ。
自分の奥に空間ができたら詰めて空間をドア寄りに送る、たったこれだけのことですよ。
全体最適を指向できない人は、満員電車に限らずどこに行っても邪魔。
これは利己的な行動だけに限らない。無駄に利他的な行動にも言える。
雑踏とかビルの出入り口とか道路のすれ違いとか、〈相手を待たせて自分が先に行ったほうがスムーズな場面〉なのに自分が待っちゃう人いるでしょ(女性に多い)。周りが見えてねーな。
頭良い人間はマクロの環境を改善する事をまず考えちゃうし、頭悪い人間は自分にしか興味無いから根性論と精神論でミクロの自己利益だけを追求してマクロをより悪くする
頭いい人間はマクロとミクロどっちが効率が良くてどちらがより効果的かや、長期的目線での影響とかを考えて行動するんだよ。
自分の影響力が極小なのに「俺は頭がいいからマクロの環境改善を考えるぜ」ってリアリストとはかけ離れ過ぎてるし、その思考の結果起こす行動がアンフェって馬鹿すぎるわ。
馬鹿って「頭がいい人はこうする」みたいな型が好きだよね。
頭がいいなんて曖昧な概念だし、頭がいい人の中には一定数「利己的な幸福を追求する」って結論を選択するのは明らかなのに、「利他的行動は頭がいい」「利己的行動は頭が悪い」ってわかりやすい基準つくっちゃうの認知能力にキャップある馬鹿の考えた「賢い人の像」って感じでマジで笑えるわ。
スレッタは恵体で優秀なパイロットだが、水星の田舎者で救助の仕事だけしてきて、素の性格はアニメを見てスクールラブに憧れていた凡庸JKだから、
社会に関心がなく、恋愛と友達と家族にしか興味がない視野が狭いキャラクターとして描かれていても、別に違和感や不満はなかった。
しかし対比となる、都会育ちでベネリットグループ総裁の娘として生まれたミオリネまで社会に関心がないとは思わなかった。
ミオリネまで社会格差や家業に関心がないなら、デリングとシャディクに保護されて籠の中の鳥のままでいたほうが良かったのでは?と思ってしまった。
ミオリネの父親がスレッタの遺伝情報上の父親を殺していることについて、「父親がやったことだから私には関係ない」と即解決され葛藤が一切無かったのも、
正論かもしれないがキャラクターとしての魅力を大きく損なったように思う。
スレッタが強化人士4号にしつこく質問して地雷を踏んだのも悪いといえば悪いが、4号に酷いことを言われて「それでも好き」、
スレッタがプロスペラに洗脳されているのにも問題はあるが、ミオリネに酷いことを言われて「それでも好き」、
エリクトには突き放され、プロスペラからはエリクトよりも優先順位が低い娘という態度を露骨にとられるが、
「それでも好き」という嫌な天丼をやられた印象がある。
こういう、冷たいことばかり言われて、いたぶられるポジションに置かれやすい女性は類型としてあるといえばあるのだが、
シャディクがガノタに不人気で、本編でも見せ場がいまいちだったからミカエリスが売れない、などと言われていたが、
2期機のシュバルゼッテとデミバーディングはミカエリスとも比較にならないほど扱いがひどかった。
まずラウダがノレアにペトラをケガさせられた八つ当たりでミオリネを殺そうとして兄を殺しそうになる(?????)という、
訳のわからない戦闘一回だけにシュバルゼッテは使われて消滅した。
グエルに期待して、期待が裏切られて反転アンチ化し、メインシナリオと無関係に殺しに来るというろくでもないキャラだった。
デミバーディングはもっと印象が薄い。ただ人間を運搬しただけでしかない。
マルタンが出しゃばりすぎたためニカとチュチュの関係が薄いものになってしまい、自動的にデミバーディングも影が薄くなった。
ガンプラを出すことが決まっているので無理をしてでもシナリオにねじこむしか無く、ストーリーが変になったり機体が空気になっている。
おそらくこうなのだろうという予想を大勢の視聴者がしているが、本編中にろくに説明がないためほぼ憶測でしかない。
ノートレットの理想をデリングが引き継ぎ、プロスペラがそれを利用しようとする、それぞれの思想やビジョンが全部不明瞭だった。
結果、「何のためにスレッタが身を削ったのかよくわからない」というのは致命的なのでは。
4号、ソフィ、ノレア、フォルドなど社会的底辺出身のネームドが次々に死んだ。
虐殺したデリングはお咎めなし、強化人士を殺したペイル社CEOもお咎めなし、
そして宇宙議会連合軍を大量虐殺したプロスペラの罪はなぜかシャディクが被るなど、
罪と罰の扱いが非常に適当なものになっていた。「赦しがテーマの物語」とするにしたって雑すぎないか?
勧善懲悪の物語は現実と乖離しており安っぽくもあるのだが、いくらなんでもここまで混沌とさせ説明カットする必要があったのだろうか?
結局、死んだネームドは底辺生まればかりだったという印象が残る。
宇宙議会連合の唐突な殺人光線から人を守ったスレッタや、失神したモブ生徒を救おうとしたペトラなど、
スペーシアンについては「利他的な行動をした結果として重度の身体障害者になっている」のも、何が言いたい?
ラウダによる地球寮メンバー、ロウジ、フェルシーに対する殺人未遂も適当に扱われて無罪になったようだし、
利他的な行動をとると障害者になって、他責思考の加害者についてはやりたい放題であるというのが物語の結論のようだ。
>デザイナー発注時シュバルゼッテはグエル搭乗機で赤い機体だった
グエルが最後までスレッタたち主人公サイドの敵で、シュバルゼッテ乗って死んでたとしても、
人間の流動性が加速していく昨今で過度に周りの人間に固執する必要はないし、取り返しのつかない大失態を犯しても環境を一新させることも比較的容易にできてしまう
そんな中で利他性を保って生きていくことが生存につながったような昔に造られた人間本能に準拠する既成道徳や因習に過度に凝り固められ縛られているから生きづらいのではないか
現代社会において利他的行動は我々に幸福感と生の喜びをもたらしてくれるポエム的なものに過ぎなく、利他的行動により生存が圧倒的に優位となれる可能性が高いわけではない
利他的行動は相手の良心に身をゆだねるため相手が利己的ならば奪われる
野生に生きる動物たちはむき出しの本能で日々血なまぐさく争っているが、人間は理性を用いて自分の身体性の限界を拡張する炎や武器などの圧倒的な暴力を生み出し、暴力に支配された自然の理を理性で制限し人間の利己性を押さえつけることに成功した。そして各々の利己性は利他性に奉仕させられそれを美徳とすることで人間は地球の覇者となった。
つまりは人間性の起点は利他性にこそ存在している。しかし人間はいつまでも本質的な原始本能である利己性をなくすまでには至ることができないでいる。
それは人間がやはりどこまで行っても獣であり、自分の体に縛り付けられた理性しか持ちえないからだろう。
だから我々人類は共生の歴史が根深く完全な利己的行動に走るには良心の呵責が伴いこれは簡単に捨てることができない。
完全に利己的行動へ堕するには獣にならなければいけない
獣になってでも生き延びることが美徳か?人間らしい利他性のために殉ずることが美徳か?
それを決めるのは個人の自由で良い、この世の縦横無尽に広がる無限の地平線の深遠さに比べれば本当にとるに足らないことなのだから、、、
利他的で自責的な人間など存在しないという事をざっくり語ろうと思う。
人間の精神のあり方は、コストのやりくりが如何にやりやすいかで優劣が定まる。
となる。
利己的というのは自己完結した行動でコスト回復がどれくらいできるかという事であり、利他的とは他人に依存して何かをすることでコスト回復できるという事である。
利他的は度が過ぎれば相手に対して求めるコストが高くなり孤立する。要はめんどくさい人である。
利己的も過ぎれば同様である。よく自分勝手と言われるものである。
自責的というのはトラブルが起きた時、それを自身の課題と受け取れるという事であるが、これには高いコストを要する。
他責的と言うのは自責の逆であり、低コストだが度が過ぎると精神的成長が見込めなくなるなどデメリットが大きい。
例えば、利他的10割、自責的10割というビルドを組んだとすると、コストの回復のしようがない。
相手に与えた恩というものが与えた分だけ帰ってくるという事は無い。あまり知られていないが、人間には他人の苦労を正確に認識できないという特性がある。
そのため相手から見た自分の恩も、自分から見た相手の恩も過小評価されるのだ。
そうして恩を与え合った時、自分視点で見た時の帰ってくる恩というのは主観で10%程度の物であり、これで消費コスト分を回収するのは不可能である。
この場合に起きる不具合として、「自分ばっかり頑張っている」と考えてしまうバグがある。事実はそうではない。そうではないが確実にこれは態度に出て、日常生活に支障をきたす。
一方で利己的で他責的というと、これはもうよく見るものなので詳細まで語らないが醜悪なものである。彼女達はコストはあり余っているが、どこか余裕の無いようにも見える。
これは、コストが減る事に対する耐性が無いゆえに、可処分コストが少ないからである。
どちらに偏っていてもやる事は似たような物になる。
大事なのは両者のバランスである。が、自分を変えよう!といった事はほぼ不可能であると言ってもいい。自責と他責のバランスはまだ変化させることができるとして、利己的と利他的の変化については至難の業であると思う。
最初から利己的である人間は簡単で、自責に変えても他責に変えても良い。1~2か月ほどかかるかもしれないが、何かトラブルが起きた時に「自分がなんとかできたかもしれない」とか、「これは相手が悪いな」とか考える癖を付ければ良いだけである。
それで自責と他責のバランスは変化させることができる。変化にどれくらいの時間を要するかは周囲の環境とそれに対する自分の立ち振る舞いに依存する。
利己的と利他的のバランスを変化させる事はとても難しい。これは、それまでの人生を反映するからである。
人生の中で自分を殺す事があったり、道徳を信じる事があったりするとより利他に寄る。
逆に自身の望みを叶えようとしたり、面白い事をやっていると利己に寄る。
利他的というのは異常な状態と言っていい。普通の人は道徳に従う事があっても信じる事はない。道徳を信じたくなる時というのは、理不尽から逃れようとしている時に限る。
利己的な目的の為に相手に優しくするというのが普通の事であり、優しくした結果、相手から良いフィードバックを得た。というのは一見道徳的な話に見えるが良いフィードバックを得られる相手を選んだからである。
道徳に殉じた利他的な人間が利己的に戻るというのは難しい。どうすれば戻れるかは今後の課題とする。
のビルドが最も理想的であると思う。利己的に回復しながら、自責にコストを費やし、たまに他人のせいにして生きる。それくらいが良い
自分と他人の区別がつかない 他人のことを自分のように思い制御できる これが自我と他我の区別がつかないやつなんですね 自他の区別がつかない奴は無能 大学時代にキリスト教で(anond:20230610183644)
他我(たが)は、日本語の哲学用語であり、仏教や禅の教えにおいて重要な概念です。他我は、「他(ほか)」と「我(われ)」という二つの要素から構成されます。
「他」は他人や外界を指し、自己以外の存在や他者を意味します。「我」は自己や自我を指し、個人の意識やアイデンティティを表します。他我は、自己と他者の関係や境界を探求することを通じて、人間の存在や人間関係の本質を理解しようとする考え方です。
仏教や禅の教えでは、他我の概念を超越することが重要視されます。自己中心的な執着やエゴの解消を通じて、他者との結びつきや共感を深め、慈悲や無我の境地に至ることを目指します。他我の境界を超えることによって、苦しみや迷いから解放され、真の自由や幸福を実現する可能性があるとされています。
他我の考え方は、個人の自己認識や他者への理解を促すだけでなく、倫理や道徳的な行動の基盤となる要素も含まれています。他我の境界を超えて他者との関係を築き、利他的な思考や行動を実践することは、個人や社会の発展に寄与すると考えられています。
ただし、他我の概念は非常に複雑で哲学的な概念であり、個人や文化によって解釈が異なる場合があります。仏教や禅以外の文脈では、他我の概念を異なる意味で使用することもあるため、文脈によってその意味や解釈が異なることに留意する必要があります。
憎まれもしなければ愛されもせず、辛くもなければ楽しくもない。
「あなたが必要だ」と言われたところで、社会の歯車として、という略された枕詞が見えてしまう。
自分の遺伝子を引き継いだところで、こんな遺伝子欲しくないだろうという悲惨なスペックである。おそらくいじめられるか見向きもされない、そんな子供が生まれる気がする。とか考えるとその子がかわいそうだから子供が欲しいとも、結婚したいとも思わない。
一見集団の輪の中にいても、「ああ、自分はここにいないな」というのが皆の視線や口元から伝わる。興味の矢印が自分に向くことはない。居ても居なくても変わらない。それならいる必要もないよな。
そんなときに帰ろうとすると「え、帰っちゃうんですか?」と思ってもいないだろう言葉を聞く。余計に足早になる。
なんのために生きているのか。自分に問いかけても時を経るごとに靄がかかる。もっとも10代や20代そこそこの頃は根拠のない全能感に包まれ、無邪気に生きていた。夢現で過ごすうちに、まわりの人間は一人、また一人と何者かになっていた。ヒーローやらヒロインやら。自分は気づけばエキストラ。役名なんかありゃしない。
あるいはせいぜい味変用の調味料。そこにあったら誰かが喜んでくれるかもしれないが、無くて困ることはないんだよな。
母さんごめんよ。
完全自殺マニュアルを買ったものの私には死ぬ勇気なんてなくて、でも生きつづけたいとも思ってない。臓器提供の意思表示だってしてない、中途半端なクソダサ人間。
頭のめでたい系の精神疾患にでもなって、フワフワ生きれたらいいが、どうやらそんな気配もない。無駄なとこだけタフでさあ。親の精神病は遺伝しなかったくせに、クソみたいなヴィジュアルだけ遺伝しやがった。俺が何したっていうんだよ。バカが。
オレは論理的で合理的だから「お気持ち」なんかに振り回されないぜ。
じゃあ当然ニヒリストなんですよね?って思う。
不快を避け快楽を得るための経済的に充実した生活を求めて金稼ぎのスキルを磨くだなんて、そんな「お気持ち」ベースの無駄な事はしませんよね?って。
死ぬ理由もないけど、生きる理由もないですよね?そこからどうやって「お気持ち」抜きで合理的な生き方をするんですか?
意味を問うのを止め、欲の炎を吹き消して悟りでも開いたら確かに合理的と言えなくもないかもしれない。
でもそんなんしてないっしょ。
社会に資本主義経済という舞台があるのは事実だけど、そこにコミットすべきだというのは規範の話。
「である」からといって一義的に「そうあるべき」という話にはならない。
社会を維持するのは大人の義務?なんで維持しなきゃならんの?「論理」だけで正当化するのは難しい。
個々の生存と幸福追求の場を守るため?なんで幸福なんか追求すんの?
生物は生存して種の保存をしていくものだから?優秀な子孫を残すべき?
確かに今までそうしてきたけど、これからもそうしていく「べき」という意見の正当性はどこから湧いた?
規範が無からポップする事はないし、理詰めで言えば存在しないものをあると言い張るなら、それは「論理的」な人が大嫌いな宗教ですよねって。
全ての規範の土台は快不快であって、土台が無ければ論理を積み上げていく事は出来ない。
論理的「だけ」で言ったら人間なんかいてもいなくてもどっちだっていいんで。
殴ったって盗んだって殺したって、不快が蔓延するという点を除けば何の問題もない。
ニヒリズムというと脊髄反射で厨二かよと思う人もいるけれど、自然科学が台頭して宗教が相対化されて以来、誰だって最低限心にニヒリズムの影くらいはあると思う。
自覚的であれ無自覚であれニヒリズムを土台(?)にして、そこから刹那主義や実存主義や消極的ニヒリズム、あるいは宗教(人権思想や生命の尊厳だって立派で有益な宗教ですよね)への回帰なんかを選び取ってる。
「お気持ち」に従ってね。
私は大い感情論者だし、生きるとは自分の納得を追い求める事だと信じて疑わない。
そのための近道をする道具として論理を使う事はあっても、どこまでいってもそれは道具で感情に先んじるものではないと思う。
人は理屈でカレーを好きになるのではなくまず先に好き嫌いがあって、そこから遡及的に論理的な分析が始まる。
カレーとはかくある理由で美味しく、あなたが嫌いなのはそれを理解していないからだ。
「本物」を食べれば分かる、とか山岡士郎みてーな事言う奴がホラ食え、ウマいだろ?と強要したらどれほどグロテスクか。
結局は感情論だよね、という話に対する極端な反論として「感情論がイイなら人殺しをしたいって感情もオマエは受け入れるんだよな?」
みたいな話はありがちだけど、それもまた論理や規範、道徳と言うよりは快不快の均衡の話だよねって思う。
殺したいと殺されたくないは等しく無意味で対等なので、まあ多数決的に殺されたくないが優先される。
大抵の人は殺したいより殺されたくないに天秤が傾くんで。
まあ私は別に殺したくても、実行したっていいと思うけどね。突っぱねられて終わりなんで。
その考えは尊重するけど、そこから出力された刃が自分に向けられたら当然抵抗する。
他者の考えを尊重する事と、それが自分の領域に入ってきた時に突っぱねる事は全く矛盾しないんで。対等であるが故の衝突。
アフリカで何万人が死んでますって情報を聞いてもほーんとしか思わんけど、目の前で人が死ぬ所みたら素朴にイヤな気持ちにはなるだろうと思う。
そこには単純な損得勘定で片付けられない道徳や規範について何かのヒントがあるかもしれないけど、何であれ突き詰めれば快不快の問題に収束する。
自然科学的な事実でなく規範を論じるなら、快不快からは逃れられない。
イヤ利他的な行いをする人間だっているだろ、人間快不快だけで動いてない、という反論もあるかもしれない。
主体的に他者へ奉仕するにしたって、その行いが自身の中で快楽を生む、あるいは少しのコストを払ってより大きな快楽を得られるからそうしてるんじゃないって思う。
それは別に偽善でもなんでもないけど、自身の快楽を求めるために働きかける先が自分が他人かの違いでしかないんじゃない。
規範について、例えば今は結果の平等より機会の平等の方が強めに支持されてる。
じゃあその機会の平等の実践として、等しく分け与えるべきか?持たざるものにより多くを再分配すべきか?
後者は甘え、世の中弱肉強食「であるべき」なんだから努力で補え、なんてのはネトウヨにありがちな言い草だと思う。
さりとて前者が「正答」だと決めたらその時点で宗教になってしまう。
元より答えなんてないんだから「合理的に考えて」、なんてカッコつけない方が良いと思う。
私はこっちだと思います、こうこうこういう論理的な理由もありますが、根っこの部分の判断としては私の心がそう囁くからです。
って言った方が誠実だと思う。
論理的に正答が導かれるのなら、道程は違えどちゃんと学べば全員が同じ結論に辿り着くはず。
でもそうはならないはず。
こういう話をすると文章読めない人が素朴な相対主義だ!拗らせ冷笑野郎だ!死ね!ってお門違いな説教をされるんですけど。
私自身はこの話を通じて所詮は「お気持ち」だよねとは言うが、それがダメだなんて一言も言ってない。
むしろそれに自覚的である事が誠実なんじゃない?的な放言をしてるんで。悪しからず。
今のままじゃいつかはダメになるけど、今の所しばらくは大丈夫そう。今の構造に苦しんでる人はいるし、気の毒ではあるけど結局他人事。自分はそうならないとでも思ってるのかなんて脅されても、実際今まで無縁だったし、これからも多分そう。だから今の自分の生活が大切っていう素朴な保身を手放しに非難できるのか。
今現在苦しんでるけど、どうせ変わらないだろうし、そんな事考える余裕なんてないしという無力感を叱るのは傲慢じゃないか。
社会を良くするのは「誰か」ではなくて一人一人なのだから、アンタらがそんな有様じゃ困るという憤りも、ヘラヘラと開き直る姿への苛立ちも分かる。
でもそれただをあー冷笑野郎だわー。目先の事しか見えないバカだわー呆れたわーと揶揄するなら、冷笑野郎はどっちなのかという。
優しく穏やかに、自ら歩み寄るべきだとは言わない。
人の事言えるほど利他的な人間なのか?なんて邪推はしないし、そういう人間にしか非難する資格がないとも思わない。利他的であった所で、他人にそれを押し売りしたり、「正しい側」から非難しまくるのもどうかと思う。
社会を変える事は大事だけど、腰を上げ楽な位置から離れるコストを皆が嫌う囚人のジレンマ状態。無関心な者と変化を望む者の分断。
社会を変えようとする人間を暇人と笑うのも、目の前の生活を生きる人間を愚か者と笑うのも、等しく傲慢だ。
今「高齢者の集団自決」とか「colabo問題」などあるが、この頃炎上させる気持ちも分からんでもないけど、その力を少しだけ救う方向に転換してみてはどうだろうと思っている
じゃぁその中にいる高齢者達をどう救うのか
「成田さんはよく『老人は自害』と言ってるじゃないですか?老人は実際日本から退散した方が良いと思うんですよ。老人が自動でいなくなるシステムはどうやって作ります?」
みたいなことを考えて、その答えにのっかるような発言をされた小学生とどう接していいのか
他の方向へ考えることの方が必要だとは思った。
ちなみにウィリアム・マッカスキルの『〈効果的な利他的主義〉宣言!善意活動への科学的アプローチ』は持っていて、物凄くさらっと読んで、日本赤十字社のトルコ・シリア地震救援金に5000円払い初めて自ら寄付というものをした。
しかしその後、このお金でビックマックいくつ食べれたんだろう…とかいう『シンドラーのリスト』の中のシンドラーが、私の心の中では反シンドラーという現象(誰かこの現象を上手く名付けてほしい)が起こっていた。
まぁ今はどんどん現状がひどくなっているようなので多分良かったんだろうと思っている。
他には献血とかも行った方がいいのかなとか考えてたりする。ただ針が怖いのでちょっと躊躇しているが。
やっぱ、グラフとかデータとかで貧困国の状況とか比較であらわせられても、自分に時間とお金に少し余裕がないとなかなか、行動するのは難しそうだし、まずやっぱり国内から救った方がいい思ってしまった。
多分分かってない部分がかなり多いので、あとでじっくり読んでみようとはしている。
この後の文章は
安楽死に対する考え
私の現在状況が書かれている。
興味のある方は読んで欲しい。
T4作戦を実行したナチスドイツの総統のヒトラーが現代にタイムスリップして世論を動かしていく『帰ってきたヒトラー』とか
実際歴史はあってるのかよく分からないけど、物語の中では軍の命令で、戦って手や足がなくなったり動けなくなったりした重症の人達に毒を飲ませたり、刃物で自決したりする、『激動の昭和史 沖縄決戦』
を見てたのでさすがに怖くなって、あなたに安楽死について考えてほしいなんて言われたくないし、どうせメディアも視聴率や再生回数のためにTVやネットで出してんだろうとは思う。
「colabo問題」はいろんなのが絡んでて実際よく分からんが、不正に税金使ったり、叩き合ってるイメージしかない。名誉棄損的なものが互いにあって、怖いし苛立ってるんだろうなとは時々思う。訴えたりするのも仕方がないのだろうが、その集めたお金で一体何人救えるのだろうとは思った。
安楽死については
カルト問題にちょっと興味をしめし始めた頃、『世界』の2022年の12月号を買ったのだが、ちょうど『安楽死を遂げるまで』や『安楽死を遂げた日本人』を執筆した宮下洋一氏のルポが載っていた。フランスの巨匠ゴダール監督の安楽死について書かれている。
安楽死容認国では今、「死にたいと」思わせる社会に潜む問題の解決よりも、その意図に反映に重点を置く傾向にある。それが「死ぬ権利」というものなのか。私の理解が彼らに追い付くには、まだ時間が足りないのかもしれない。
『PLAN75』とはちょっと違った目線から見る、もし現代自分の家族が安楽死を願ったら?というのがテーマで、主人公の父親が脳卒中で回復を少しずつしているのにも関わらず、死を願う。というのがあらすじ
終末期でなく、まだ生きる望みがあるならば?
「尊厳ある命」とは一体何なのか…。
とコメントしている
見た感想としては、まずこの親子関係複雑だし、抗うつ薬みたいなの飲んでるし、その精神的なものを回復できることはできなかったんだろうかと思った。何がどう回復なのかは分かってないのかもしれないが。やっぱ価値観が違うんだろう。
まだ自分の親は認知症でも脳卒中でもないし、今聞く勇気もない。
主人公の父親のようにあそこまで頑固でもないと思うし、病気になって回復してきたら少し気持ちが変わるかもしれない。
いろいろ考えると答えは出ない。
私の場合、おそらく個人の尊重を優先してと思いながら親の安楽死を願ったとしても、必ずどこかでは自分の介護の負担が出てきて楽になりたいとう気持ちがどこかには少なからずあると考える。
もし今、日本の政府が安楽死法案を出すとしたら、本当に苦しんでいる人には悪いとは思うけど、私は反対する。
今回の問題発言もそうだし、それに賛同する人達や、笑っている人達、や政治家たちの失言を見ると優生思想が強すぎると感じる。
私の現在状況
その時のB型事業所は、月曜日から金曜日10時~16時(昼休憩45分)で給料は平均して月1万5千円くらい。
今の給料は平均して月7万円くらい。
家賃は3万ほど出している。
今、年金は払っていない。
まだ私は親がいる分、生活は楽な方だとは思っている。
貯金は300万ほどある。
もう遅いのか、NISAとか考えた方がいいのだろうかと最近思う。
発症原因はあまり教えたくないので、ここには書かないことにする
普段、母親の部屋で洗濯物を取り入れて畳んでいるのだが机の上に、一冊の本がカバーを裏側にして置いてあった。
なんだろうと思い、カバーを取ったら『老いの品格』という本だった。
中の目次さっと見たら、良い老人であろう的な感じがした。
まぁ品格って書いてあるし、そうなんだろう。
これを見て思い出したのが、テレビでやっていた『月曜から夜ふかし』の"通りすぎる人全員に会釈するおばあちゃん”の回である。
ある女性がその行為を不思議がって調べてほしいと投稿した話なのだが、そのおばあちゃんの理由が感動というよりも、そこまでさせないといけない社会なんだなと思ったし、私たちもそういう風になるのかもしれないと少し怖くなってしまった。その理由は興味があれば調べてほしい。
私は母親とうまくいっておらず、会話はほとんどない。なので何を考えているのかよく分かっていないのだが、そんな感じでとりあえずこの本をkindleで買うことにした。そして最優先にこれを読もうと思う。
ついでに、映画『生きる LIVING』のパンフレットも置いてあった。
まぁ母親と話せば済む話なのだが。それができないのが私のダメなところである。
どこで働いているか判明されるかもしれないので、分かりにくく書くが、清掃作業をするととある消耗品が毎回なくなるのだが、それを注文するたびに一枚の絵ハガキが入っている。
その絵は私にとっては上手くはない。おそらく障害者が描いたであろうと思われる。
初めはその絵ハガキを清掃道具入れにためていた。捨てると罪悪感がある気がしたのもあったし、以前ここで障害者雇用として働いていた人がずっとそうしていたのもある。
その後一旦その清掃道具入れを整理してほしいと補助役の人に言われたので、このたまった絵ハガキはどうしようか相談し、申し訳ない感じもするが捨てようということになった。
それから少し経って、相変わらずその新しく入ってきたその消耗品の中には、絵ハガキが入っている。ふとなぜこの絵ハガキは入っているのだろうと疑問に思い、その意図は分かってはいないが、私としては「絵は描けます」というメッセージみたいなのを受け取った。
もしこれが、障害者でなく高齢者だったらどうなんだろうとか、通院している精神病院に、病にかかっている人が作った、よく分からないパズルとか、ちょっと凝った折り紙だったりとか展示されているのを見るとあれは一体何なんだろうと不思議だったが、これも実際意図は分からないが、この社会にいる存在を表しているのではないのかと思うようになった。
その後、私はこの上手くはない絵ハガキをなんとなく家に持って帰っていて、本当に何かの緊急事態が起こった場合以外は捨てずにためることにしている。
その消耗品の会社が分かった人は、変な人が絡むと嫌なので黙っていてほしい。
終わり
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このまとめの米欄に
「発達障害排除論の人が検査したら発達だったなんて、発達を別の何かに置き換えれば昔からありそうな話だな」
ってあるけれど、
これってその『発達排除論』とやらの人達が、自分自身を健常者だと疑っていないという前提だよね。
そうじゃねえんだよ
「発達障害は子供を生むな」と言っているのは、既に発達障害と診断されたか未診断でも確定的にその自覚がある人間が殆ど。
つまり自分自身が発達障害で苦労したからこそ同じような子供を増やしたくないという利他的な思いやりの精神から発言している。
無責任に産んでもいいとか言っている奴等は当事者の苦労なんて知らない定型ばかりだ
なのになんで逆の思い込みがこうも罷り通っているのか