はてなキーワード: 無益とは
優しくない増田ばかりなので、なんで意味がないと言われるか説明するね
基本的に、学習前には集めたデータのフィルタリングを行うので、ゴミはそもそも除外されることが多いんだ
分類条件は、画像サイズだったり、画像と説明文の一致度だったり、色々ある
そうして何度かろ過されたものが、学習に使われるデータセットになるんだよ
なので、せいぜい画像のダウンロードやフィルタリングの時間を一瞬伸ばせるくらいの効果しか見込めない
ただAI検索のような、生成時に検索を行うAIが、正しい回答を出力する邪魔はできる
AI画像や人力デマが検索上位に出てくると困るように、AIの邪魔になるということは、人間の邪魔にもなるんだ
ところで画像生成モデルは、色んな画像の色んな特徴を学習して、その学習結果を元に生成するんだよね
つまり、ゴミをゴミとして学習できていると、ゴミから適切に距離を取ることも可能になるんだ
だから、ゴミ画像ばかり集めて、ゴミから距離を取るために使うモデルというものもあるよ
例えば僕達は、進行ルート上にウンコが落ちてたら、避けるでしょ?
それは、僕達がウンコという物質を学習していて、できれば踏みたくない、忌避すべきものだと思っているから
これは生成AI的に言うと、negative prompt: poop が与えられている状態と同じなんだ
なので、場合によっては有益なデータとして見ることも可能ですらあるの
というわけで、「全く効果がない」は単純化しすぎだけど、人間にも迷惑だし、基本的には無益な行為と言える
「たとえ自分の時間その他コストを支払ってでも、気に食わないアイツが損するならそれでいい!」という思考の人以外にはおすすめできないかな
メタファーのシステム&デザインでロマサガ2 リメイク『ロマンシング サガ2 リベンジオブザセブン』が出てくてりゃ、日本のゲームやJRPGの未来は明るかったのにな
『アトラス(とセガ)』と『スクエニ』、どうして差がついたのか・・・慢心、環境の違い・・・・・・と思いつつ、
『メタファー:リファンタジオ(Metaphor: ReFantazio) 』の1周目をクリアしたので、前回(https://anond.hatelabo.jp/20241020022808#)の感想の続き
一般的なコマンド型のJRPGなら、緊迫した状況でも以下のことができる
しかし、ロマサガ2には年代ジャンプがあるため、無計画にこういった行動を続けると、状況が変わり取り返しがつかなくなることも(放置した場所が滅ぶなど)
これが、メタファーの『カレンダーシステム』では更にシビアになっている
ちなみに、メタファーのカレンダーシステムは以下の仕様で、ひとつひとつの行動に非常に緊張感がある。
『これだよこれ!本当にやりたかったロマサガ2のリメイクはよぉ!!!』ときゃっきゃ楽しんでいたのだが、
異常にそそっかしいワイ氏、 期待を裏切らず や ら か す !!!!!!!!
ファーーーーーーーーーーーwwwww
その瞬間は、『へへ、やっちまったぜ・・・』と思いつつも、まぁノーマルの難易度なら魔職でゴリ押しできるでしょとタカをくくっていた
ところが、重要そうな依頼イベントをクリアする時間が半日分足りない!!!!(クリアした後に依頼が新たに追加されて日付計算が狂うパターン)
どうやら最序盤の王の資質上げで無駄な行動をしていた模様・・・
い、いやでも、イベント取り逃がしても、エンディングには影響しない要素かも知れんし?と、おそるおそるネットの攻略情報を特別解禁したところ、
(自分で試行錯誤せず、攻略情報見ながらゲームをプレイするのは好きじゃないので、基本的にクリア前は攻略情報を封印している)
テテテテテテテテテ・テーーーン
(ビーバップ・ハイスクール 高校生極楽伝説のゲームオーバーのBGM https://www.youtube.com/watch?v=5AKM0fHc2Ps&t=48s)
たまたま上書きしていないデータもあったものの、それはメタファーのカレンダー上で30日も前のデータ
リアルの雑用対応中ゲーム付けたまま放置した時間や、プレイ中に寝落ちして放置した時間も含まれているが、約20時間くらいの巻き戻しだ
一晩考えたが、エンディング差分回収を2周目に回したり、動画で差分回収済ませると熱が冷めそうなので、20時間前のデータからやり直すことにした・・・
前回(https://anond.hatelabo.jp/20241020022808#)の感想にも書いた通り、序盤で適当にクラスやスキルを取ったせいで、
上位職のクラスを取得するためのポイントがどう考えても足りなかった
地形が楽で高額アイテム売れる洞窟でポイント稼ぎを 数時間 して挽回したのだが、数時間をもう一度やり直すことになり、かなりきつかった・・・
まぁおそらく、ワイと似たような失敗をしたんじゃないかなぁ・・・って思います😅
カレンダーシステム自体は緊張感があってとても面白いので、今後も是非続けて欲しい
だけど、うっかりセーブミスをする愚か者のために、個別データセーブに加えて、定期セーブシステムもあるとめっちゃ助かる・・・
例えば、個別データセーブとは別に、週の始めに『定期セーブ』を自動でシステム作成、
最大で3週間前の週はじめまで戻れるとかあるとめっちゃ助かるので、ゲーム中の快適を追求する開発陣のみなさま何卒・・・🙏
ワイが終盤の展開に入り込めなかった一番の理由は、属性過多で矛盾だらけのラスボスのルイが好みじゃなかったからやね・・・
結論だけ書けば、貴族枠の女性軍人だったら、矛盾も魅力に映ったかなぁって思う
順を追って書くなら、
特権階級をぶち壊す象徴は『叩き上げ』じゃないとダメなんだよ!!!!!で譲らないにしても(過酷な現実と日々向き合って、あんな抽象的な思想や混沌への憧れを持たないと思うが)、
ルイには、おもしれー男 要素まで盛り込まれている。たとえば、
などなど、確信犯的におもしれー描写が続く。でも、ルイがバットマン のジョーカーのように混沌と無秩序そのものを楽しんでいる風でもないんだよね
そもそもルイのような叩き上げの軍人にとって無秩序や混沌といった要素は本来、相性が悪いはずだし、ジョーカーみたいな気質のヤツが真の目的を隠して縦社会で勝ち上がっていけるイメージがわかない
属性過多はこれだけでは終わらず、ルイには『絶対的な力の象徴で信奉者』という設定もあり、常に落ち着き払っていて感情を露わにすることがない
そのため、突然叫び出したり、会話を一方的に打ち切るようなこともなく、紳士的で不気味さがないんだよね
キレどこがわからない怪異やクトゥルフの上位存在が不気味で怖いように、対話が成立しないキャラのほうが恐怖感はあるよね
まぁワイとしては、ルイがあまりにてんこ盛り属性で一貫性を欠いているため(現役軍人、女性的な外見、理想主義者、エキセントリックな行動、紳士的な態度など、相反する要素が詰め込まれすぎ)、シリアスさを感じなかったし、最終盤はただただポカーンとした
せめて、ルイが上位貴族という設定であれば、独自の行動や破壊的な思想、突飛な振る舞いも『特権的な気まぐれ』として説明がつき、てんこ盛り属性でもまとまりのあるキャラクターになった気がする
あと、女性的な外見ではなく本当にお嬢さんだったら、賭ケグルイ の 桃喰綺羅莉 のように、『怖さ(狂気)』と『おもしれー』を自然に両立できたと思う
桃喰綺羅莉は、冷酷な暴君でありながら優雅さを保ち、狂気と不気味さが同居しているキャラだ
危険分子を放置したり、突飛な行動をとって自らの命を掛けたり、自らが支配していた学園のシステムやお気に入りの人物を壊されても『失うから面白い』と笑っており、
混沌を楽しむおもしれー女としても成立している
貴族的な立場からくる特権と傲慢さと少女の無邪気さがあってこそ、エキセントリックな行動も説得力を持つと思うんです
最終盤のストーリーは若干気になる点があって、これたぶん、個人的な好みではない違和感だと思うので書いとく
→ 人の心、どこかに置き忘れた?と思うが、理性的で高い志を持つ人物の主張としてギリわかる
→ 復讐が無益なのはそれはそうだし、負の連鎖を断ち切って未来だけ見つめられるなら大変素晴らしいことだ
→ じゃあ、不安を持ち主に返そうとするルイ討たずに、放っておいてもよかったんじゃね?
→ 『溜まった不安を一気に返すと狂化して化け物になるんだよ!』なら、ルイに交渉して少しずつ持ち主に返せばよかったのでは?
わざわざ冷静沈着で会話出来るヤツにしたんだし
というか、ルイがあくまで一気に不安を返して化け物化させることにこだわっているなら、結局、世の中への復讐心が動機ってことでいいの?
あと、やっぱりジュナだよなぁ
パーティメンバーのみんな命を掛けることになった納得感ある理由があるのに、ジュナだけ自ら諜報活動(当然命のやり取りがある)を始めた理由が、
歌の真剣み?深み?を持たせるためとか言う理由なのだが、後半で『歌だけでいいのかしら』、『歌だけじゃ寂しい』とか言い出す
どういうことなの・・・?せめて歌キチだけは貫いてよ、救われた命・拾った命を自らわざわざ張ってるんだし
あと、三下に対する態度が酷かったのに、パーティに加入したあと個別イベント等では、善人通り越して聖人モード
あんなに心広いなら、三下永井豪眉にも、もう少しまともな態度は取れなかったもんなぁ・・・
終盤の展開とルイとジュナといくつかの事柄に対する態度は気になりつつも、ゲームとしてはすこぶる快適で、派手で挑戦的で面白くて、1000000点なので言うこと無いっす
(しいていうなら、うっかり上書きセーブしちゃう愚か者のために、個別データセーブとは別に、週の始めに『定期セーブ』を自動でシステム作成、
最大で3週間前の週はじめまで戻れるとかあるとめっちゃ助かる)
『幻想は無力なんかじゃない』もそうだねって思うね、あと考えるきっかけを作ろうって野心的な姿勢は感動した
私もあれから色々と考えたが、現状思っていることとしては「おっぱいは個人差が大きいため、一概には言えない」である。
では順に見ていきたい。
そのように下着店員も嘘をついてるんじゃないかと思われるのはわかります。
ただ、そのような水増し行為はありえません。
どんなに胸の小さい客にもBカップ以上だと嘘をつくのであればAカップのブラは一つもないはずです。(中古に流れているので購入実態もある)
これはAAカップのお姉さんがトラバしてくれた通り、あり得る話なのである。ただ、どの程度あることなのかは分からない。結構あるのかもしれないしほとんどないのかもしれないが、「あることはある」のである。
また、全員が計測して買うわけではないことにも留意したい。自分がなんとなくAカップ以下だと思っている場合は普通にAカップを買うだろう。
次に、大きくて固いブラの上から採寸すれば確かに結果もおかしくなるかもしれません。
しかしこれで騙せるのは「ブラを買いに行くためのブラがある客」だけです。
成長途中の人にAAAカップと告げるのと、育ちきった人にAAAカップと告げるのでは違うのではないだろうか。
前者なら普通にジュニアブラみたいなものを勧めればいいが、後者はそういうわけにもいかない。ワコールでは取り扱いがあるらしいが、ないメーカーもあるだろう。
高校生以上でノーブラで下着屋に行く人がどれぐらいいるのかは不明だが、恐らく非常に少ないのではと思われる。
よって、ここで考える対象としては「ブラを買いに行くためのブラがある客」だけで十分である。
こうして自分のカップサイズがAAやAAAだと知った客にお世辞でAなどと言っても嘘だとバレてしまい、喜ばせるどころか「あの下着屋は嘘つき」と悪評を呼ぶことにしかならないでしょう。
そうなればネットでウワサになってそうなものですが一度も聞いたことがないので嘘カップが常態化しているということはないものと思われます。
本当に悪評を呼ぶだろうか?
ちゃんと測ってもらったら2カップアップした!とキャッキャしている人が多いように感じる。
「自分で測ったらAAだけど店で測ったらBだった」のような類の投稿はたまに見かけるが、疑問に思ってこそいれど怒ってはいないことが多い。
基本的に、「店で測ったらサイズアップした」は「嬉しいこと」なので、炎上するようなことはないのではないか。
ただ、常態化しているとまでは言わない。そこの割合までは分からない。
これはもちろん基準の不統一です。しかし、だからどうしたというのでしょう。客にとって重要なことは自分に合う下着を選ぶことであって、よその客と同じ基準で測定されることではありません。
スタッフの仕事はフィッティングであるため、自社のもので合うものを探すために計測しているということなのだろう。
実測がAだったとしても、体型や形状によってはBカップやCカップがフィットするということが十分あり得るのは理解できる。
しかしここで、「実測はAですが、当店のものではこちらのCカップのものがぴったりかと思います」としっかりと伝えることが重要なのではないだろうか。
スタッフが「こちらのCカップのものがいいと思います」とだけ伝えた場合、客は恐らく「私Cカップなんだ!」と思うだろう。
そんな彼女が脱いだとき、男性からこう言われることになる。「え?これでCなの?嘘でしょ?」と。
女性の認識がおかしいのもあるし、男性側の「バストサイズはパッと見では分からない」という認識の欠如も大きい。
そもそも、大抵の女性は「自分のバストサイズ」を「着けているブラのサイズ」だと思っているように感じられる。
自分のアンダーとトップをちゃんと測ったことがある人はそんなに多くないそうである。トリンプの記事にもそう書いてある。「なんとなくこのくらいかな?」で買うのだろう。
ここで、前に書いたアンダー67、トップ83の女性の話をしたい。
実を言うと彼女は妻なのだが、上記の値は授乳期間中にお辞儀状態で測ったものである。
授乳開始から数ヶ月後あたりの、パンパンに張っているわけでもなければ垂れているわけでもない状態である。
ちなみに、直立で測るとトップは78ぐらいになる。2サイズダウンだ。
妊娠前はトップ76であったが、妻の自称はCカップであり、持っているブラもCであった。
トップ76だとAカップだね、と伝えたところ、「そんなわけない!私はAじゃない!」と言われた。
確かに、ぱっと見Aカップっぽくはないし、Cのブラもぴったりかはともかくスカスカではない。「実測はAだけど合うのはC」という体型なのだろう。
なんでのCブラ買ってるの?と聞いたところ、なんとなくこれくらいかと思って試着して、だいたい合ってると思った、とのこと。
妻は自分で測ったことはないそうだが、「Cのブラをつけて行ってお店で測ってもらったところ、ブラの上から測られ、Cカップと言われた」そうだ。
n=1のサンプルではあるが、やはり実測値は把握していないようだった。
これは、自分のバストサイズを実測値ではなく「着けているブラのサイズ」で表すことが認識に歪みを生じさせているのではないか。
メーカーの違いや個人の体型の違いにより、同じ実測Aカップでも着用サイズは異なる。
だからこそ、「個人のバストサイズの定義」は実測値からくるものであるべきなのではないだろうか。
私が測り方のレギュレーションが必要だと言っているのは、「自称するためのバストサイズを正しく測定するため」という話である。
「いやいやそんなの女からしたらどうでもいいんだが」と言われればそれはそうかもしれないが、世界から争いが減るのはいいことである。情報は正確であればあるほどいい。AAカップ以下透明化問題もある程度解消されるかもしれない。
これも今は「一概には言えない」と思っている。
リンク先のサイトから、豊胸の経過の画像が多く見られるが、見れば見るほど「一概には言えない」。
これでAAAなの?!というのもあればAだけど全然小さいな・・・のような画像もある。
AとAAAであまり見た目が変わらないパターンもあれば、結構変わっているものもある。
なんなら術後にワンサイズダウンしたものすらある。(バストの形はきれいになっているので、あまりサイズダウンしたようには見えない)
カンチガイサイズと実際のサイズについては、多くの女性の体型をスキャンして、カップサイズ毎の平均の体型を3Dモデルとして出力すればある程度傾向は見えるだろう。ワコールあたりに期待したい。
もちろん、それが実現したからと言って個々のケースには当てはめられないことには十分な注意が必要である。
結局のところ全員に合うものを用意することはできず、大抵の人にそれなりに合うものを作ることになる。
正規分布の1σか2σぐらいまでをターゲットとし、それ以外はある程度切り捨てるしかない。
これは下着に限らず、靴などでも同様だろう。
バストがすごく寄ってたり離れたりしている方、すごく大きい方や小さい方、靴で言えば爪先がすごく広かったり細かったりする方は、なかなか会うものが見つからず苦労することになる。
論点のすり替えとは、議論や討論の中で、最初に取り上げた話題や問題から意図的に、あるいは無意識に別の話題に焦点を移してしまうことです。例えば、ある問題点について話し合っている最中に、全く関係ない別のテーマにすり替えられることで、本来の論点がぼやけてしまいます。この手法は、相手の主張や反論を正面から受け止めず、議論の核心から目をそらすために使われることが多いです。
貴方は、このように対話の場で誠実さを欠いていると言えるでしょう。なぜなら、真剣な議論はお互いの意見や考えを正確に理解し、それに基づいて建設的な対話をすることが求められます。しかし、論点をすり替える人は自分の立場や主張を守るために、わざと話題を混乱させ、相手を正面から議論に巻き込もうとしないのです。
また、このような行為は、相手の意見に向き合う知的な誠実さを欠いた態度であり、最終的には生産的な議論を阻害します。対話の質を低下させるだけでなく、相手を苛立たせることが多く、無益な議論の泥沼に引きずり込む可能性もあります。
非常に長文です。読み辛ければ申し訳ない。
昨日、個人の意見や感想が身近な上に大量に見られる現代で、情報の取捨選択ができず、それらの大量の他人の意見に沈黙できないのは病的だ、と書いている人を見かけた。
はっとして、そしてまさに自分のことだ、と思った。
自分は、自身の考えを第三者の前で表明しないと自身が歪んでいくようだと思い込むようになって久しい。
表明する内容も、ジェンダー論や人間性の話など、答えの無い人それぞれ考え方が異なるものばかりだ。
そんなことを発表せずとも幸せに生きている人は多くいるにも関わらず、自信を省みるともはや強迫観念の域に達していると自分でも思える。
「あくまで自分は」を常套句に、ネットの海に放り込まれた誰へ向けるかも明確ではない見知らぬ人の呟きに対して「自分はこう思う」と表明し続けている。
今思うと、今まで表明してきても良い反応も悪い反応も帰ってこなかった。
周りの一生懸命に真っ当に生きて人生を楽しんでいる(ように見える、きっと苦労も経験してきている)人たちは、そんな表明をせずとも健全な精神を得ている。
自分は、交流があまり無い人や関係が続いている親しい人からは元気で親しみやすいと言われる。
場が沈黙するくらいならと、自分から話し始めることは当たり前。
一人での旅行は当然楽しめるし、初めてやる仕事の教えを乞いに上司に声をかけることもどんどんする。
そんな陰キャにしては歪で悩みの種の一因でもある自分の性格を形成する根底にあるものは、家庭環境が大きい。
両親が家にいる事は少なく、父親は仕事で別に住居を構えており、電話もメールも年に数回するかどうかだった。
母親は子育てをしながらも家事を全て一人でこなし、子供の手間が減ってからはパートタイム程度に留めていた仕事を夜勤有りのフルタイム勤務に切り替えた。
上のきょうだいが居るが、訳あって母を伴い施設や病院に行くことも多かった。
そして、五体満足な自分が一人。
自分は基本的に家では一人のことが多く、家に母親が居ても人を呼ぶ余裕など当然無い。
でも小学生の頃の自分は、記憶が曖昧ながらもそれらに悩んだ記憶はあまりない。
なぜならそんな自分には何も与えられなかったわけではなくて、小学生の頃にパソコンを買い与えられていたからだ。
みんなは携帯やスマホで家に帰ってからもゲームをし合っている。
撮った写真をすぐにSNSに載せて、それに反応をして笑っている。
中学生の自分は学校でそれらが行われているのを見ているしかなかったが、急いで家に帰ってパソコンを付ければその輪に自分も加わることができた。
そのためか多少不便を強いながらも自分をハブるような友人はおらず、楽しい生活を送ることができた。
関係がほとんど自然消滅していった今でも、当時の友人達には感謝が尽きない。
問題はその後だった。高校時代から陰りが見え始め、交友関係に失敗する経験をし始めるようになった。
高校生になってしばらくしてから電話機を買い与えられたため、問題はそこではなかった。
きょうだいは居ても、母親が居ない時は部屋が別なのもあり最低限の必要な会話しかしない。
誕生日も年齢も電話番号も覚えていないくらいに関係の薄い父親。
家族に話しかける機会があまりなく、また話しかけた時に相手が迷惑だと考えることを意識してしまい、最低限の会話しかしなくなった。
そしてそのうち、話さないことが当たり前になり、自分も家族への興味が失せてしまって、それ以降話すきっかけを取り戻せていないのを今でも明確に認識している。
家庭での居心地の悪さを自覚しているなら、中学生の頃のように自分から行動を起こせばよかったのに、その発想は頭に浮かばなかった。
家族であるにも関わらず、邪険にされない楽な方へと逃げて、結果的には家族を見捨てたようなものだ。
腹を痛めて産んだ実の子供を邪険にする母親がいるにも関わらず、自分の母親は素っ気ない実子が生きるためにとてつもない努力をしていた。
きょうだいとは喧嘩する事はあれ、きょうだい自身は普通のレールを歩めない体であるにも関わらず心の余裕を持ち、こちらを邪険にすることはなかった。
それらを見てきたのに、自分は自分自身した行動で残った事は、何も行動を起こさず逃げたという事実だけだった。
そんな流れで、学校以外で人と会話をする機会がほとんどなくなった。
家庭で静かに一人で失敗をして学ばず、その孤独感から本ばかり読んで人間関係を学んだ気になりそれを実践していた声の大きい自分は、学校の友人達はさぞ面倒な相手だったことだろう。
鈍感で距離を取られていることに気付かず近寄ってきて、意思のキャッチボールができず一方的に話すことを対話だと思い込んでいて、小説では省略されるリアルの付き合いで起こるやり取りが円滑にできない、そんな人間が煩わしく思われるのは当たり前のことだ。
それでも周りの人達は直接的な何かを言ってくるわけでもなく、それとなくいつものメンツからは省きながらも、さまざまなグループに属する人達がちらほらと自分と浅い付き合いを続けてくれていた。
10代の頃から、10代の頃でも、周りの人達は頭を使い、時にはぐっと我慢をして自分のような化物をいなしながらも人間関係の折衝をしていた。
自分はずっと気付けておらず、当時を振り返って自分の察しの悪さと無神経さを心から反省できるようになったのは社会人になってからだった。
こんな歳になってから自分の愚かさがわかったってどうすればいいんだよ、と思った。
一人で旅行をしても楽しめるのは、目的意識がありそれが一人である必要があるというわけではなくて、一人だと好き勝手できて気楽だから。
周りが緊張している中でも率先して話せるのは、他人の感情を軽視し興味を持てていない無神経さから来ている。
そして悩みに悩んで失敗し続けて今も絶賛落ち込んでいる人間関係の軋轢を作りがちな原因は、自分が人生の中で選択してきた間違いを間違っていると認めるどころか認識すらしてこなかった思い込みの強さと、視野の狭さと愚かさだ。
この日記の冗長さだって、きっと自己保身をしたい気持ちから来ている。
自分を形成しているものがこんなにも身勝手で出来上がっていること、自分自身ですら他人から煙たがられて当然だと感じていることに、今までの人生はなんだったんだと足元が崩れていくような感覚がしている。
自分の自己肯定感が薄く、でもそれをカバーするように間違いを疑わないほどの思い込みで自信を保ち、それを全世界に発信して非難を受けない事で認められたと思い込む。
初対面で自分のことを元気で親しみやすいと感じただろう人達が、その後親しくなっても半数以上に軋轢が生まれ険悪なまま別れることになるのは、相手が誰であれ、こちらのファーストインプレッションと異なる偏りすぎた二面性とそれを隠さなくなっていくことに幻滅したであろうことは確かだ。
家族ですら放り捨てるようなコミュニケーションの取り方、距離感を掴むのが上手くないのに一方的な形で距離感を操作しようとして不安にさせてくる行動、「あくまで自分は」と言って予防線を張りながら自分の偏った意見を非難されないように堂々と述べる。
これをされて、なぜ相手が親しみを感じて喜ぶと思うのか?
さらにそれだけではなく、ただ相手を不安にさせるに留まらず、それを行なった自分自身もそれらの行動に対し利点がほとんどなかった。
その場その場で一時的な自尊心は満たされても、継続しないから自分の立場は悪くはなれど良くはなっていかない。
本で見たような、親しい友達と特別な関係を持ち合い楽しく過ごしたいという自分の理想を得るための行動とあまりにも乖離していることにやっと気付いたのだ。
目標もなく結果も出ない行動は、本当に無益どころか無駄でしかない。
どうしたらいいのかわからなかったが、より落ち込むとしても今までの自分の行動とその意図と、それに対して起きた周りの反応を振り返った結果がこの日記だ。
自分がこのままではいけないと感じ、ではどうするべきかと散々自分の失敗を省みて出した結論は「努力して愚痴を控え、愚痴を言う原因になる交友関係は広く浅くに留め、自分の成果に数えられることに挑戦する」というとりあえずの目標を持つことにした。
これは周りに迷惑をかけず、また他人から自分のことを深く意識されることも減らし、「また自分が同じような失敗をして落ち込まないために自分自身を見つめる必要があるでしょ、またいずれ誰かと深く交流することもあるかもしれないでしょ」と自分に言い聞かせ、自分自身が認められるような形で自分の価値を上げ、自分に合っていそうなその過ごし方に慣れて、余裕のない自尊心の低さからくる失敗をする自分から離れるための挑戦だ。
自尊心が低く余裕がないと、自分を最優先で守ることに固執し、脇目も振らず逃げを選ぶことになって、手元に残るのは周りに不快をまき散らし逃げ回った自分だけだったのは結果が物語っている。
そして徒労をする度に落ち込み、自尊心はどんどん低くなっていくのだ。
孤独感は感じても、自分の言動が人と深く交流することに向いていないのであればその先は失敗しかない。
深い仲の人がいなくとも問題なく生きていける世の中で、それを利用して自分を見つめ直す事ができることを心からありがたいと思う。
もう遅いのではと感じても、生きていくのならば必ず自分のような意志を持った誰かと関わる必要があり、その際に失敗が減ることで友人関係を長く続けられるという経験はいずれ自分の心に余裕をくれることになるのではないだろうか。
「匿名でない自分自身が皆の前で堂々と考えを表明する」ことに固執していた一人の人間が自分の視野の狭さや醜さを認め、自分が変わる挑戦の最初の一歩として、匿名でここに残させてください。
がむしゃらに書き殴ってしまった長文にも関わらず、反応ありがとうございます。
自分はまさにこのような自分は〜だけどといった不必要な主張を、匿名でもない趣味のアカウントでしてしまっていたんですよね・・・自分のことを腫れ物だと考えている人はきっと多い。
自分のための会話ばかりして長文でお気持ちを吐いてしまう所は直したいと強く思っいます。
保身ばかりを考えた会話や主張をせずとも胸を張って生きられるように、この日記以降は吐き出す習慣を無くし、感化されやすい情報の多いSNSを見る時間を減らすなど少しずつ環境を変えていくつもりです。
コメントを読んで、慰めてくれる方や汚点をスルーして付き合いを続けてくれている人達をこれ以上幻滅させないよう意識していこうと思いました。
コメントでご意見をくださった方々、本当にありがとうございました。
大元エントリが削除されていて、Googleキャッシュが消えた今、誰かが自主的に魚拓やらArchiveやらの保存を選択しておいてくれない限り、はてブで話題になってから見に来る人は内容を確認することができないのがツライ、悲しい、残念、遺憾。
これまでは削除しても、Googleキャッシュですぐに確認できて、それをarchiveに保存することもできたんだよな。
元のエントリがどんなことを書いていたのか知りたかったのにな。Bingキャッシュにも残っていない。
増田で元のエントリの番号を検索して、トラバで内容を類推するしかできない。
https://anond.hatelabo.jp/search?word=20240930083612&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
今回の場合は元エントリにトラバが3つついていたことで、他のトラバのツリーにスニペット表示が残っていたので、暇空コラボ騒動への嘆きエントリに対して短く「まとまってる情報ある?」と呼びかけるトラバだと分かった。
孫トラバが付く前に子トラバで、無益でろくでもない情報のトラバしかつかなかったから削除したんだろう。
今回は文章が短いからスニペットで全文分かる稀有な例だ。そもそもトラバゼロのエントリはこんな確認できないし、削除されたエントリはしばらく経てばトラバツリーからも消えてしまう。
ワイも二十代かなり悩まされたけど以下で大幅改善した。
原因は、「大して負担には感じていない軽微な身体への負荷」だ。
すべて経験を踏まえてのことだ。
いきなりうんこの話題ですまないが、直腸にうんこが存在すると俺は眠くなる。
誰にでも当てはまるかは微妙だが、ビオフェルミンを規定の3倍飲むとか、朝イチで冷水とかアイスコーヒーとかオレンジジュースとか、おのれの排便に効果的な液体を飲むことで出勤前に排便を尽くすのが効果的だ。
あるあるすぎてそんなのわかってるわいと思っただろ?
これが侮れない。
目の疲れは眠気を引き起こすのだ。
試しにイブプロフェンを飲んだら翌日から予想外に非常に頭がすっきりした。
イブプロフェンやロキソニンのような非ステロイド性抗炎症薬は全身の炎症を抑えてくれる。
Tは、東京にある大学から、千葉にある自宅まで毎日1時間30分くらいかけて帰っていた。
時刻は夜10時過ぎで、Tは疲れていた。電車の中で彼はいつものように、ぶつぶつと文句を言いながらスマホゲームに勤しんでいる。
楽しむためのゲームで苛つきを募らせていたTがふと電車の周りを見渡してみると、すっかり乗客も少なくなっていることに気付き、着実に自宅に近づいていることを確認した。
そしてTがまた無益な戦いに舞い戻ろうとした、まさにその時だった。
よりにもよって、こんなすいてる車内で、というか、母親は何しているんだ。
Tはその事態に戸惑い慌てて横を向くと、幼女の母親と思われる女性は手元のスマホを弄っていて、幼女のことは気にもとめてない。
しかし、基本的に内弁慶なところがあるTは、母親に対して注意することができなかった。
何より、その時のTは幼女の熱を感じていた。
正確な時間は定かではないが、幼女を膝枕していた時間は、いつもの煩雑な電車通学の時間ではなくなっていた。
するとTの最寄駅を示すアナウンスが聞こえる。幼女はまだ彼の膝の上で寝ている。母親は何も言ってこない。
そしてTも何も言わなかった。
ただ幼女と一体化していた。
結局、自宅の最寄り駅から大分離れた駅で幼女と母親は降りて行った。
母親は降りる瞬間に幼女を起こし、幼女は眠気眼を擦りながら、母親の手を握って歩いて行く。
Tは一言何か声をかけるでもなく、その姿を目で追っていた。電車のドアが閉まり、幼女が見えなくなるまで、ずっと、ずっと。
もうすっかりTの中の幼女の母親に対する怒りなんて消えている。
Tに残ったのは、自分はロリコンであるという、そんなどうしようもない確信だけだった。
いかがだったであろうか。もしかしたら、あなたもいつの日か、ふいにロリコンに目覚めるかもしれない。そんなメッセージがTの体験談からは読み取れるのではないか。
話はこれでは終わらない。Tはオープンで、社会不適合なタイプのロリコンに進化した。彼の中にはロリコンに対する罪悪感はなく、我はロリコンであると堂々と公言していた。
その姿を見て、ある意味まだ捕まってないだけ、彼は頑張っているのかもしれないと思った。Tという男は、要は犯罪者予備軍であった。
Tは電車に乗ると幼女を探し、学校の近くを歩けば幼女を探し、公園を見たら幼女を探す男だ。
そんな彼が塾講師でバイトをしていたのだ。事件が起きなかっただけ幸運な状態であった。その証拠に、「小学生の女の子は距離が近いから懐かれると擦り寄ってくる」と嬉々として話していた彼の笑顔は、単純に気持ち悪かった。普通はバイト代が出なくてブラックバイトと文句を言う筈の居残り指導も、彼にとってはむしろご褒美のようだった。
そんなTに大事件が起きる。なんと塾の小学生の女の子から告白されたのだ。
Tは大層悩んだ。教育者として。大人として。男として。そして1人の人間として。
悩み抜いた末にTは、その告白を断るという決断を下す。なけなしの常識がTを踏みとどまらせた。1人の幼気な女の子がロリコンの魔の手から守られた瞬間でもあった。
ここで終わったら凄くかっこよかったのだが、Tは告白を断ったのをひどく後悔していた。何ヶ月もその恋を引きずっていた。どうやら告白された女の子は、可愛い子で、付き合いたかったらしい。まあ社会が許さないのだが。
「どうせその子は中学に上がり一旦塾辞めるんだから、俺も辞めてその子と付き合えば良かった」
ある日の部室で机に肘をつきながらTがそう言った。誰も見ていなかったら悔し涙を流し始めるんじゃないかと思うほど、その日のTは打ちのめされていた。ロリコンのガチ失恋なんて、誰も対処の仕方がわからない部室の空気は、異様に重たかった。
その姿を見た私は、Tにとってロリコンというのは、無理矢理背負わされた重荷なんだと思った。
果たしてTが幼女を求めてしまうのは、彼の自由意志か。それとも周りの環境のせいか。それとも親の教育の責任か。
学術的な根拠は分からないが、性癖とはきっと先天的なものだと思う。
最近「親ガチャ」なる言葉が流行ったが、これではまるで「性癖ガチャ」ではないか。
そのガチャの中でもロリコンは外れであることは疑いようがない。ロリコンに世知辛い世の中をTは生き抜いていかねばならない。それは道なき道を行く覚悟が必要で、もし自分の性癖に身を預け、ロリコン道を突き進んだら最後、Tを待ち受けるのは社会的な抹殺だろう。
もし、あの電車に乗らなかったら。隣の車両に乗っていたら。隣の席に座っていたら。
彼は違う道を進んでいたかもしれない。
ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。
そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者が発症する誤嚥性肺炎である。
内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。
特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家が存在しない。
肺炎だから呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。
精神科は認知症診療が業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である。
脳神経内科医は嚥下や認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。
そんなわけで多くの場合は内科医が手分けして診療することになる。
そういうわけだから、誤嚥性肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドラインも2013年から更新されていない。また誤嚥性肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いものが出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだものは殆どみない。患者自身が何を体験しているかを推定している文章は殆ど読んだことがない。
病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師の説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍の説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。
もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針は大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。
にもかかわらず、認知症患者の誤嚥性肺炎は最も多い入院かつ、その患者は入院期間が長い傾向にある。入手可能なデータだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥性肺炎が関連している印象がある。
誤嚥性肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥性肺炎を起こすことでさらに認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設へ退院することが難しくなり、転院を試みることになる。
典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者は施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから、治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症=治療不可能な疾患があることは意識されない。
ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。
退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態を誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄のリスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。
そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる。身体機能も食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。
しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能・認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥性肺炎を起こしやすくなり、活動に制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能がさらに低下して退院していく。
だから人によっては一か月とか半年後に誤嚥性肺炎を再び発症する。
家族や医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。
そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。
というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間の感覚があるのだろうか。
本人にとって長生きすることの体験の価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。
というのは逃げなんじゃないか。
状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快の感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。
なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識が障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)
どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。
多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。
仮に唱えたとしても、それはせん妄や認知症の悪化としてとらえられてしまう。
老衰の過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。
ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力、食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である。
多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎で入院したときに認知機能について評価されることは稀だ。
実際には、その人の生活にどれだけの介護が必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。
進行した認知症で入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。
訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥のリスクを減らし、肺炎を治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。
医療において、患者の権利は尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療を選択することもできる。
しかし患者自身が認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。
そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療を希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージを希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)
しかし問題があって、認知症が進行するほどに高齢な患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。
親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。
そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験を想像しながら話す場合も、めったにない。
意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。
「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」
この二つを満たすことが無益な治療の定義である。この概念を提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者を対象としている。
彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益な治療は倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である。
高度に進行した認知症患者の誤嚥性肺炎の治療は、厳密な意味での無益な治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。
この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。
そこで死に至る疾患である印象が失われた。
専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である。医療系ガイドラインはエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥性肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値に踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である。
人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン、人生の最終段階における医療・ケアに関するガイドラインは存在するが、そもそも高度な認知症を合併した誤嚥性肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事と認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである。
さらに状況が不利なのは、個々の病院のKey performance indexは、病床利用率であることだ。
認知症患者の誤嚥性肺炎は、しばしば酸素を必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域に病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度は使用される。そのため、誤嚥性肺炎の患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。
介護施設に入所した場合は、誤嚥性肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟が複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。
介護施設から搬送された患者が誤嚥性肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。
一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥性肺炎の治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥性肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。
訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。
病院の経営構造、施設の訴訟回避、医師の不勉強と説明不足、そしてEBMと患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ちと多忙さ、患者自身が自己の権利や利益を主張できないこと、家族の意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。
現在誤嚥性肺炎を入院で担当する主な職種である内科医は、糖尿病の外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。
専門医制度が煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なからず認知症高齢者の誤嚥性肺炎を診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しかし構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。
僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。
進行した認知症患者の誤嚥性肺炎とは延期可能な老衰である、という共通の認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実、認知機能が低下していない高齢者で、延命を希望しない方は多い。その延命の意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。
誤嚥性肺炎の診療は、所謂延命と解釈することが可能な範疇に入ると僕は考えている。
後期高齢者の医療費自己負担額一割と、高額療養費の高齢者優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥性肺炎の入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。
三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。
これが一番の進歩であり収穫であって
一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます。
私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかりますが
そちらの思考が長くなるため本の内容の受け取り方が歪む。
草薙さんの癖の強い経歴を見てください。
彼はいわばブラックジャック(医師会に属さない医師)のような僧侶です。
それで本が何十万部も売れるのだから作家の才能は保証つきですが
彼の本が身になる人って案外少ないのではないかと私は感じています。
彼が添加する具体性は常に、
仏教を理解させるより「身近に感じさせる」ことに重点を感じます。
いちいち冗長な具体性を与えて透明な抽象性を損ねているように思えます。
草薙さんと三沢さん2人の出会いが相性抜群で最悪だと感じるのは
教師の草薙さんは仏教を紹介する本にかなり自己流の工夫を入れる人で、
生徒の三沢さんは人の話の途中の浅瀬で自己流解釈を始める人です。
草薙龍瞬さんが提供する仏教は既にスパゲッティナポリタンになってる感じ。
三沢さんはそれを舐めて「このケチャップの僕流アレンジ」を考えている。
三沢さんが草薙龍瞬さんの本から得た「仏教」はお釈迦様のアイデアとは別ものです。
現に三沢さんの欠点・苦しみの元が少しも治っていないですよね。
せめてこの端緒にでもついていれば、三沢さんの病的な「自分自分自分自分」という文の(思考の)癖に変化の兆しぐらいは生じているはずです。
https://note.com/tm2501/n/n1c20fe51d4ec
現に三沢さんにそのような変化が見られないので、
草薙さんか三沢さんか少なくとも片方に重大なエラーが発生していると思います。
(たぶん共鳴し合っている気がするのですが)
三沢さんは執着せず眺めて手放すということが出来ていません。
「ん、これはアンタッチャブル」とか考えていたら出来ないですよね。
(私は草薙さんの「ジャッジメント」ですらなんだかなと感じましたが
三沢さんはそれをさらに俺流に「アンタッチャブル」に変えました。
二人ともなぜこんなことするんですかね。
草薙龍瞬さんの紹介と三沢さんの読解のタッグが仏法を損ないました。
二人とも勝手なアレンジを入れることの弊害への警戒心がなさすぎるように思います。
それをやると劣化コピーではなく根本的に機能を損ねることがあります。
というか私は草薙龍瞬さんの本はサンプルだけ見て閉じたきりでしたが、
今回三沢さんへの影響を確認するうえでアンリミテッドで読みました。
「反応しない練習」。
読んでいるだけでどんどん頭が悪くなるような感覚がありました。
知識の収集癖、羅列癖、過剰で無益な具体性、支離滅裂、あと鍵かっこが多すぎ。
書き手が実践して身についた知識について語っている感じがあんまりしない。
これ本当に三沢さんと同じ型の人ではないですか?
私はこのがちゃがちゃな本から読者が自分のためになるエッセンスを掴み取れる気がしません。
凄く売れた本らしいですが、買った人達はちゃんと読んだのでしょうか?
草薙龍瞬さんはプロの作家でお坊さんですから偉そうな意見は言えませんが、
三沢さんは34歳ニートなので多少の助言はしても良いと思います。
三沢さんは「有能な人っぽく振る舞うこと」に神経を使いすぎです。
三沢さんて「有能な凄い人にならなければ自分の願いはかなわない」と思い込んでいませんか。
全然そんなことはありません。
能力的に凡人でも凡人以下でも願いをかなえて生きている人は沢山います。
三沢さんの大言壮語や意識高そうな口調はただの自己否定や現実逃避に見えます。
凡人だと生きていけないという強迫観念があるためではないですか。
三沢さんは普通でないくらいに自信がない人で、しかも自信欠如への対応がおかしい。
「自分と乖離した凄い人の虚像を作って身にまとう」という対処のせいで
実像とのギャップが生じてますます苦しみと自信喪失のループに陥っていますよね。
たまに三沢さんの文を見かけるだけの人間でもそういうことを濃厚に感じます。
俗世間の熾烈な競争に負けない「凄い人」になる必要があったかもしれません。
しかし34歳にもなればそんなものを追い求める虚しさは感じられているでしょう。
四国に住んで創作活動人生を送るという願いは素敵だと思います。
叶うと思います。
ただ、その願いの実現ためにまず「凄い人」になる必要があると考えていると
10年後も同じ部屋に住んでると思います。
三沢さんが「凄い人」になろうとする必要性や焦燥は何のためにありますか?
そういう「凄い人」になるための焦りの所産と言うか
人と違うバリューを出すんだという間違った取り組みに見えます。
本を読んでるあいだずっと「面白い独自の感想を言わなければ」とか考えていますよね?
これは大きな間違いで、
本をただきちんと読めて書いてあることを受け取れるなら
高学歴なはてなブックマークの人達だって新聞記事すら読めていないでしょう?
ひときわ壊滅的な集中力しかない三沢さんも苦しみの構造自体は同じです。
三沢さんが人並以上に集中力が欠損しているのも、頭があんまり良くないのも、(本当はなんらかの自覚はある筈です)
本の内容と一体化すべき時にいちいち自分自分をやっていれば本など読めるわけがありません。
おそらく「批判的に読書をする」のようなアイデアをまた草薙さんのようなアレンジをする人から受け取って、
ものごとを正しく見て正しく知ることができ、
というのが仏教です。
三沢さん好みの具体的過ぎる話をするなら
何と言うこともなくすらすらと内容が頭に入ります。
概念を手放していくというのはたぶん三沢さんの溜め込んだメソッドと正反対でしょう。
だから三沢さんが本当に仏教と出会えばじわじわと別人になってしまうはずです。
でもそうならないのはおそらく草薙さんと三沢さんの自我のせいです。
何と出会ったって自分の概念九龍城へ組み込むパーツとしてしか見てないために
まとめると
「自分は有能な凄い人だ」という妄想概念をくみ上げて常にそれを体の周りに装着しています。
このために何を見ても何を聞いても何を読んでもその妄想を通しているために情報が壊れてしまう。
これが自我です。
人の話を聞いてるときに、相手が何を言っているかも何を感じているかもわかりにくくないですか。
もしそうならそれは自我がずーっと邪魔をしていて心が目の前の情報を取れないためです。
全人類がこの病気ではあるけど三沢さんは少し程度が強いのではという印象です。
仏教にはこのガスを取り払うための実践的で研ぎ澄まされたメソッドがありますが
草薙龍瞬さんの本を読むとそういうことまで辿り着けないと思うし
三沢さんは「特別な自分」「オリジナルな自分」について考えこむことが自分の強みであり突破口だと思っていそうですが
そこが一番の間違いであることは仏教なら本当は30分でわかります。
本を読むのにも文をバズらせることにもそんなこと考える必要は一切ないです。
四国へ行きたいならまずその自我妄想と別れを告げることだと思う。
ところでお坊さんを軽々に否定したりしちゃいけないという道徳が自分の中にあるんですが
でも草薙龍瞬さんの本はなんか…。デタラメを言っているとかでもないからなんとも言えないんですが。