はてなキーワード: 心象風景とは
毎期アニメが終わるたび一生分のアニメを観たような気になるので、今期もまた新作アニメのPVやニュースを憂鬱な目で見ていたはずなのだけれど、気づけば今期もまた新作アニメを浴びるほど観る毎日に身を投じていたので風呂敷を広げすぎないうちに感想を書く。それっぽく並べてあるけど、作品の優劣は付けてない。容赦して。
ちなみにここに書く作品すべて2話まで観ているわけではなく、まだ1話しか観ていない作品もいくつかある。あと解説の中に殆どキャラクター名(固有名詞)が出てこないのは、単に全く記憶していないからだったりする。表題のキャラ名(グリッドマンとか)や2期のキャラを除くと、真面目に「伝説の山田たえ」くらいしかフルネームを覚えていないかも。
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私はTVでアニメを観ない(BS見れないし、TOKYOMXもAT-Xも受信できないし)ので、配信情報はこれ以外の手段について書いている。
良い最終回だった。百合は百合でもガチの百合。花の学生生活を描くアニメ。
今年観た百合アニメで非常に印象的だった「citrus」と比較すると、citrusは主人公が性愛の目覚めに至ってから物語が始まるのに対して、本作は自分の気持ちにどんな意味があるのか?というところにフォーカスしていく物語みたい。「やがて」という言葉を冠しているところからも、同性愛に至るまでを描く内容なのだろうか。「わからない」っていうセリフが控えめに言って最高。あとcitrusにもあったけれど、最初に「男性から告白されて(恋愛対象とみなされて)、それを断った上での百合展開」というのがよりガチっぽくて好き。特に2話以降で言えば、同性愛の目覚めがけっしてみんな一緒のタイミングではなく、キャラによって気づきの早さが異なり、それゆえのすれ違いが描かれているところが最高に良い。
本作の脚本を手がけるのはあの花田十輝。「宇宙よりも遠い場所」のいしづかあつこ監督がどこかのインタビューで「花田脚本は絵で語る表現がうまく、例えば誰かが喋っているとき、そのキャラの顔をアップにするのではなく別のキャラの顔をアップにするとか、そのキャラの手元を写すなど「行間を読ませるような演出」に優れた脚本」と評価していたけれど、本作もそういった意匠のある演出になっている。「響け!ユーフォニアム」「宇宙よりも遠い場所」などでも見られるモノローグなど、花田十輝の良さが出ている作品。キスシーンめっちゃエモかった。
大島ミチルの音楽が非常に良い。校舎や制服が少し時代を感じさせる一方で、すごく特別で隔世感のある華やかな雰囲気に包まれていて、それを音楽が加速させている。また、パリッとしたわかりやすさを持たない、複雑な心情とよく合っていて痺れる。
それにしても制服のデザインがめちゃくちゃ好き。「ゆるゆり」「あまんちゅ!」の制服に似た優雅さがある。
AmazonPrimeVideo独占
制作:P.A.Works、背景:スタジオ・イースター(監修・東潤一)、音楽:出羽良彰、脚本:柿原優子。ゴリッゴリのP.A.Works作品。高校生の青春を描く物語。割とやさしいせかい。
なんやかんやで色が見えなくなった女の子がふさぎ込んじゃって、魔法使いのおばあちゃんが彼女のために云々・・・というシナリオ。色覚異常をテーマにした作品と聞いて「聲の形」が一瞬よぎったけれど、扱っているテーマが違う(あっちはいじめが大きなテーマになっている作品)。
演出的には「主人公を見守るような視点」が多く描かれていて、全体的に優しさに包まれている。魔法が日常に溶け込む世界感は「凪のあすから」くらい生活感のあるSFに仕上がっている。
生活感といえば1話の「魔法ショップの店内の様子」みたいなシーンを見て「ふらいんぐうぃっち」を思い出す人もいたと思うけれど、それもそのはず、本作の劇伴・出羽良彰はふらいんぐうぃっちの劇伴も担当していた人なので、圧倒的ふらいんぐうぃっち感のある、優しさに包まれた作品になっている。透明感のあるビブラフォンが骨身に沁みる。劇伴買おうかな。
それにしても、背景美術のクオリティが異常。一旦OPEDを観てほしい。タイトル通り本作は「色」が大きなテーマになっていて、物語のキーとなる背景が主役になるカットが多い。「(世界はこんなに美しいのに)主人公の目には世界が灰色に見える」という、暗闇の中にある思春期の心象風景に説得力を持たせるためには相当美しい背景が必要なのは分かるのだけれど、それにしても書き込みや彩色がエグく、特に彩度については主人公の心象とリンクして白黒〜極彩色まで変化するくらい凄まじい仕上がりになっている。なので、1話ラストの抽象的な、印象派のような絵画っぽい心象風景によって世界が彩られる演出は痺れた。
湘南のご当地アニメ(舞台が湘南なのは、原作者の鴨志田一曰く「湘南で青春の日々を過ごすことに憧れてたから」とのこと)。
鴨志田一といえば「Just Because!」がアニメ放送されたのは2017年10月だけれど、本作も学生のヤキモキした感じが漂う青春群像劇(ボーイ・ミーツ・ガール)になっている。
タイトルは章ごとに変わるらしい。ひたぎクラブ→まよいマイマイ→…的な。なお原作も各巻ごとにタイトルが異なる仕様だっため、先日発売された新装版は「タイトルを見ても巻数が分からない問題」が修正されている。ちなみに、2話で登場する少女(CV.水瀬いのり)のエピソードは、来年に劇場作品として公開が決まっている。
バニーガール先輩も青春豚野郎も非常にクレバーなキャラなので、ライトノベルっぽいタイトルやバニーガールのキービジュアルからは想像し難いような会話劇だったりする。「サクラダリセット」に近い。ともに主人公を演じるのは石川界人。彼の淡々とした口調がすきだなあ。ってティラミス見ながら思った。
本作は「思春期症候群」という都市伝説がテーマ。例えば「根も葉もない噂」とか「誰も自分のことを知らない世界に行きたい」とか「なんとなくみんなに合わせないといけないような、ハブられないようにしないといけない、という空気」とか「いじめを受けたことによる、目には見えない心の傷」など、特に学生時代に抱えやすい、可視化の難しい問題を「思春期症候群」という舞台装置によって可視化しているのかな。ある意味残酷ではあるけれど、逆に救いのある物語だよね。
会話の意味のなさが良い。「サクラダリセット」に出てくる相麻菫と浅井ケイの会話を思い出す。哲学に片足を突っ込んでるあたり特にツボ。1話なら「ありがとう」に「ありがとう」という意味が無いとか、2話なら「キスしよっか」が「キスしよっか」という意味を持たないような。そんなバニーガール先輩を見ていると「打ち上げ花火」のナズナちゃんを思い出す。会話にほとんど意味がないために、彼らの感情をうまくキャラクターの表情で表現しているのが言葉の軽さと対照的になっている。エモい。
特に2話は、問題の解決と同時に解消されるであろう二人の関係を思うと、どこか漂う諦め、虚無、寂寥感がある。
音楽を担当するFox capture planはシンセの曲が多めかつ特にEDのようなジャズっぽい
雰囲気があるので、「Just Beacause!」と比べて本作は精神年齢高めな作品に仕上がっている。
三浦しをんの小説原作。制作はproduction I.G。大学生10人がある日突然、箱根駅伝出場を目指してみた話。
原作が一般小説なので、大学生たちがアニメっぽいキャラクター性を持っていない。性格が地味な子が多い。しかもキャラの表情やしぐさにコミカルな表現(今期「うちのメイドがうざすぎる!」みたいな動き)をほとんど使用していない。なのに表情が非常に豊か。しかも10人とも顔のデザインがかなり異なっているのに(双子を除く)どのキャラも表情含め丁寧に描き分けしている。
アパートの飲み会中後ろでガヤガヤしている人(アドリブ)とか、アニメならキャラ同士のイチャコラを中央に据えて順番に映して「ガヤガヤしてる感」を演出しそうなのに、全くのガヤになっていて「仲がいいキャラクター同士のあつまり、という空気感」として描かれている。2話では特に青竹荘の日常が描かれていて、朝食のシーンなんか「大学生の住んでる古いアパートの日常風景」がそこにある。そういうリアルな空気が「見える」作品。
カットの特徴で言えば「やや見下ろすような視点」が多い印象。その場の雰囲気を描くためなのかな。
あと背景の情報量が多い。特に1話ラストのランニングシーンとか見ると何枚街のカットがあるんだ。全体的に黒っぽいのも実写っぽさがある(普通アニメでは夜の暗さを青色で表現する事が多い)。
ランニングシーンで言えば、走りモーションの躍動感とチャリを立ち漕ぎしてる体の触れ具合が好き。
死んだ女の子がアイドルとして歌って踊る佐賀の日常に異世界転生する話。大人が本気で悪ふざけしているアニメ。大人の悪ふざけxアイドルなアニメで今年放送された作品だと「魔法少女☆俺」が思い浮かぶけれど、本作はあっちよりもずっとアイドル寄りに仕上がっている。不和→衝突→団結を繰り返しながら一つになっていく物語の中にライブパートが含まれており、毎話ライブがエモい。特に2話は、ライブシーンのアニメーションもさることながら主人公を演じる本渡楓がめっちゃすごかった。日本語のラップに抵抗のない人なら楽しめると思う。
概ねギャグアニメになっていて、ゾンビというB級モチーフも相まって福田雄一っぽさを感じる。特に宮野真守が演じる巽幸太郎がだんだん佐藤二朗に見えてくる不思議(「全部宮野さんにおまかせで!」っていうディレクションだったらしい)。
ゾンビというモチーフを積極的に使った作品で私が観たことのあるアニメは「さんかれあ」くらいなのだけれど、どっちも「ゾンビ化」→「第2の人生」みたいな、特にこの作品では「異世界転生」みたいな機能を持っているみたい。つまり佐賀は異世界。
ちなみに「さんかれあ」では、ゾンビについて「生きているのか、死んでいるのか」「魂はどこに?」「自由意志はあるのか、ただの反射なのか」「自己同一性」「どこまで肉体は不変なのか」「どれくらい肉体が朽ちると、彼女は彼女でなくなるのか」みたいな視点に触れているややハードめな作品なのに対し、本作は(2話時点で)そういう視点がざっくりスルーされているので、安心して観られる。
なぜだろう、ただ若干肌が土気色で目のくぼみが強調されているくらいなのに…なんだか…あれ?…かわいいぞ…?
すすすすっ。”SSSS.”は発音しない。グリッドマン。アニメ版特撮ヒーロー。アニメ(ーター)見本市からの長編アニメ化(過去に長編化したのは「龍の歯医者」だけ?)。監督、美術、音響効果など一部スタッフが続投している。アニメで観る特撮ヒーロー。
作品のコンセプト的に子供向けっぽいのかな、と思っていたけれど、OP見ると本来あるはずの白文字テロップ歌詞が無いので、なんか大人向けっぽい。
作品の雰囲気を象徴している背景美術のフェチズムがすごい。何あの電柱の書き込み。他にも教室の雰囲気や町並みなども懐かしさを感じる雰囲気。
強烈なのは、日常と非日常が交錯する日常パート。「なんかヤバそうなんだけど、別にみんななんともないし大丈夫なのかな」という正常性バイアスに支配された日常っぽくてしびれる。特に1話の日常パートには音楽がなく、緊張感がある。
それはそれとして、モブ同士の会話がすごく良い。文字通り何気ない会話なんだけど、モブが活き活きしている。なお公式では毎週期間限定でボイスドラマを公開していて(脚本:雨宮哲監督)、内容としては各話の幕間を描いている。1話4分位なので聴きやすい。
そんな日常パートが終了するキッカケとなる怪獣の登場シーンがまた強烈。デザインとか暴れ方はまさに特撮ヒーローに出てくる怪獣そのものって感じだけれど、直接怪獣を描くのではなく「混戦する無線通信」「燃える街」「ビルの向こう側でなんか大変なことが起きてるみたいだけど見えないのであんまり慌てていない電車の乗客」等、雰囲気を描くことで怪獣の怖さを描いている。私はあんまり特撮ヒーローモノを観ないけれど、これを観てて「シン・ゴジラ」と同じ感動を覚えた。本作の音楽も鷲巣詩郎であり、無音からの劇伴→勝利用BGMという演出が見事に決まっている。
グリッドマンのアクションシーンもやはり特撮ヒーローライクな演出(というか再現)になっていて、重量感のある着地や舞い上がる瓦礫はまさにという感じ。特にアニメで見るライダーキックは迫力がある。アニメなのだからもっとデフォルメして空高く飛んだりしてもいいのに、中に人間が入っているような動きで繰り出すキックらしい迫力がある。これを観たかった。あとたまにフィギュアが動いているように見えるのは、監督含むトリガーの人たちがフィギュアオタクだからなのかも(職場が足の踏み場もないくらいフィギュアで溢れているらしい)。
心・技・体の揃った「未確認で進行形」の紅緒お姉さまがロリ小姑を追い詰める。
動画工房の持ち味である、ヌルッヌルのコミカルなアニメーションを観ることができる。特に本作はチーム太田(監督:太田雅彦、副監督:大隈孝晴、シリーズ構成・音響監督:あおしまたかし、音響監督:えびなやすのり、音楽:三澤康広。代表作は「みつどもえ」「ゆるゆり」「琴浦さん」「さばげぶっ!」「干物娘!うまるちゃん」「ガヴリールドロップアウト」等)による新作であり、作品のベクトルはあんな感じの日常コメディ。ついニコニコ動画で観ちゃう。
Day 1
羽田の深夜便だった前2回の旅行と違い、今回は成田発で、昼出発。
しかもややメンタルに不調を抱えているとあって、余裕を持った出発を心掛けたかったが、時間を勘違いして、ギリギリで成田エクスプレスに駆け込み、その上方向を間違えて折り返すという失態を演じてしまった。
肝心な時には何かバタバタする傾向がある自分なので、「またやってしまったー」と思ったが、どうやらチェックインには間に合いそうで、成田エクスプレスの車窓から畑を眺めながら、「この旅行に行って何になるんだろう」と愚にもつかない事を考えた。
別に何が起こるわけではない。
ただ若い頃からずっとボンヤリあった心象風景、雨のベトナムで川を眺めながらお茶や料理を食べる、その画をこの目で見て来るのだ。
メンタル不調なんて、ボンヤリするのに格好の舞台装置じゃないか。
前回の香港旅行では、事前に広東語のフレーズをいくつか覚えて行ったが、「話せるものの聞き取れない」という致命的な見落としがあり、結局中学校時台成績2の片言にもほどがある英語と、メモによる筆談で乗り切ることになった。
ベトナム語も広東語と同じ声調言語(音の高低と発音で意味が決定する言語)であり、しかもその声調というのが「コブシを効かせるようにいちど下げて上げる」「波のようにうねって上げ下げして上げる」という難解極まるモノで、もう「ありがとう」「これください」「トイレはどこですか」以外のコミニュケーションは投げている。
今回搭乗したベトナム航空は、ベトナムのフラッグシップのようで、エコノミークラスといえど、タイガーエア台湾や香港エクスプレスとはモノが違う。もちろんTGATやHKEXが悪いって訳じゃないけど、地上職員は日本語ができるし、機材も大型で安定していて、シートには枕やブランケットが用意され、機内食も出る。
さらに、シートにはモニターが設置されていて、映画その他も見られる。
海外に行くときはその地のポップカルチャーを予習して行きたいのだが(香港前に発見したアガサ・コンは最高だった)、ベトナムはまだYoutubeでの情報が少なく、これと言った映画やアーティストを発見できずにいた。
そこでモニターをポチポチやっていると、果たして良さげなベトナムのアーティスト(多分)を発見したのだった。
英語詞の曲とベトナム語詞の曲が半々。音楽性はR&BとEDM(ダブステップの様な強めじゃないムーディーなやつ)とジャズを掛け合わせた様な感じで、ジャスティン・ティンバーレイクを思わせる。
機内では検索できないので、あとで調べよう。
朝飲んだ安定剤が効いているのかな、憂鬱な気分が後退してきていい感じだ。
ややあって、海外旅行なら一度は聴いてみたい、「pork or fish rice ?」というフレーズと共に機内食がサーブされた。
ベトナムの航空会社なのに機内食で和食が出るという不思議仕様でもっぱら噂のベトナム航空だ。
ここで「fish」と答えれば和食が出て来る事は間違いなく、折角の海外旅行、しかも出発便の機内食が和食というのもどうかという事で、「pork」と答えると、豚の唐揚げの煮物をチャーハンにぶっかけたようなご飯と、海鮮春雨サラダ、パン、デザートが出てきた。
春雨の方はヤムウンセンとかそれに類するもので明確にアジア料理だが、ぶっかけご飯の方はなんだか分からない。
付け合わせが椎茸の煮しめだったり、桜の形に型抜きされたニンジンである事も地味に混乱する。
味はというと、エコノミーでこれだけの物が食べられれば充分満足で、その後、暖かいコーヒーのサービスがあったり至れり尽くせりだったのだが、あれはベトナム料理だったのだろうか。
カラトリーがまとめられた袋の底に、スパイスの小袋が入っており、「甘利香辛食品株式会社」と書いてあった。京都伏見の会社であるという事だった。
機内食で腹を満たし、少し微睡む。
眼が覚めると機内は消灯されていた。
英語のスポーツチャンネルを見ながら、「早くホテルで横になりたいな。でも何を楽しめるんだろう?テレビをつけても何言ってるか分かんないだろうし」という思いが浮かんで来る。
チャンネルでは、MTBのアーティストが大木やバランスボール、建築物やワインディングロードなど様々な障害をキッカーにしてトリックをキメていた。インスピレーションを色々なものから受けて、驚くべきビデオやショーを生み出すらしい。
他の人からは無意味に見えるものに価値を見出して楽しみ、アートを生み出している。
意味不明に見えるけど羨ましい。
普段の自分もそういうキャラなんだけど、ダメかもなぁと感じてしまう。
多分、朝飲んだ安定剤が切れる頃合いだ。
自律神経失調症で襲って来る不安と無力感、安定剤を飲んで感じる旅行への期待。
正常と狂気の境は曖昧だと思っていたが、こうして自分そのものだと思っていたものが揺れ動くと、もっと根本的な、「自分」や「個性」というものが虚ろなものに思える。
深追いはしないでおこう。
しばらくして血糖値が安定すれば、少し収まって来るに違いないから。
「間も無く、当機はホーチミンに到着いたします。到着は19:30、ホーチミンの気温は38℃です。」
機内アナウンスに耳を疑った。
今年の異常熱波は関東平野の都市化が高気圧をブーストしており、バンコクより気温が高い、なんだったらユーラシア大陸で一番高いとさえ思っていたが、勝手な思い込みだったようだ。飛行機を降りると湿った空気を感じる。日本人の歪んだプライドは常夏のホーチミンの湿った熱波が吹き飛ばしてしまった。
19:50、国際空港の入国審査というのはどこか陰鬱な雰囲気なものだが、イミグレーションを抜けてもタンソンニャット国際空港は静かだった。
改めて旅程について説明しておくと、3泊5日というのは、帰国便がこのタンソンニャット国際空港 6:25発であり、ホテルのチェックアウトが当日では到底間に合わないので、前日にチェックアウトして空港で出発便をまつ、という事だ。
帰りはここで夜を明かすんだろうか。
そう思って建物を出て驚いた。
なんと半解放の広大なスペースに待合ベンチが設置されている。
軒を並べる飲食店、溢れる活気、びっくりするほどの騒がしさ。
タンソンニャット国際空港はこの半野外のスペースも含めての空港だった。
「ははは、スゲーな!」薬が抜けてるに決まってる時間帯だが自然に笑ってしまった。
見たことがない光景だ。やっぱり先生の言う通り、この街に来て正解だった。
アニメの感想の言い合いっこを夢見つつ感想を書き溜めていたら、夢は醒めないまま8月を迎えそうなので、増田に書いてみた。まだ観ていない作品もあるけれど、このままだと一つも完走できなさそうなので切り上げる。風呂敷の広げ過ぎはやっぱり良くない。それっぽく並べてあるけど、作品の優劣は付けてない。容赦して。
~のみ見放題…対象サービスでのみ全話見放題。その他のサービスでは有料配信。
~のみ最新話無料…対象サービスでのみ最新話見放題。その他のサービスでは有料配信。
私はTVでアニメを観ない(BS見れないし、TOKYOMXもAT-Xも受信できないし)ので、配信情報はこれ以外の手段について書いている。
なお、囲い込みをしているサイトの中ではAmazonPrimeVideoがゆるいみたい。他サイトでは有料配信しているか、放送後しばらくしたら見放題になったりする事がある。
特殊なアクション作画のスポ根アニメ。OPだけ既に10回以上見てるかも。ストーリーは高校のバド部を舞台にした群像劇で、「灼熱の卓球娘」や「響け!ユーフォニアム」に似てるけど、本作のバドは個人競技として描かれてる側面が強く、先の2作品とは違うキツさがある(灼熱の卓球娘は部内でランクマッチしてたけど)。また、主人公がとても卑屈な性格なのも輪をかけて強烈なストーリーに仕上がっている。そんな彼女らを含むバド部の子達がバドミントンを通じて変わっていく姿を描く作品。3話のエレナすごい良かった。バド部と関係ないメガネちゃんは、その「変わらなさ」が対比関係になってるのかな。
本作のアクションシーン(バドミントン)のクオリティが異常。バド独特のスナップを効かせた打ち方、ジャンプをする時の太ももの筋肉隆起、まるで実写のような(バストアップではなく)全身の動き、バレットタイムと3DCGを駆使して描かれるバドのシャトル等。インタビューによると、本作の作画工程は
とのこと(バドミントンは独特の動きが多く、想像だけでアクション作画をするのは限界があったため、実写を取り入れたらしい)。結果、まるで実写のような生々しい動きでありつつ、作画特有の柔らかさがある特殊な映像になっている。特に2話Bパートの試合はコマ数も非常に多く、「なにこれヤバイ」という感想しか出てこない。OPでアクションアニメーターが3人クレジットされていることからも、相当ガチの模様。
また先のアニメ「宝石の国」では、作画アニメが得意な演出と3DGCアニメが得意な演出の違いがちょっと話題になっていたけれど、本作ではそんな3DCGアニメが得意としていた「カメラが回り込むような演出」を作画でちょくちょくやってて、これがめちゃくちゃすごい。宝石の国が「作画アニメの良さをうまく取り入れた3DCGアニメ」とすると、本作は「VFX(ロトスコープ)の良さをうまく取り入れた作画アニメ」という感じかも。
あと、全体的に映画のような仕上がりになってるのが好き。強めの陰影や風景描写を使って心情を表現したり、オケ主体のBGMを効果的に使ってたり。加えてキャラデザがすごく好き。上記のアクションを綺麗に表現するための体格だし、加えて群像劇のシリアスさをうまく強調してる。
- 私が、聖地だ - でお馴染み日常系お仕事アニメ。体の中で起こっていることをエンタメ風に紹介していく内容。人の体は概ね、平和かつ物騒だった。
とにかくキャラデザが良い。メインの舞台は血管なので、白血球、赤血球、血小板(血液の45%くらいがこの3種)が主要な登場人物なのだけれど、赤血球は静脈にいるときと動脈にいるときで服の赤味が違うという謎のこだわり。白血球はマンガ→アニメの過程で着色されない(何故か肌の色も白)というデザインを返り血で彩るというすげえ発想、そして血小板ちゃんかわいい。血小板は1話で何をするわけでもないのに非常に作画熱量が高く、すごく惹き込まれた。自傷行為で血小板にいたずらしたい。それぞれの大きさは概ね、赤血球は7-8μm、白血球は10-15μm、血小板は2-4μmなので、その大きさも反映したデザインだとすると非常に3キャラとも完成度が高い。
そして、思った以上に専門用語のオンパレード。特に1話冒頭の「血管内皮細胞がぁあああああ」が好き。ただし作中で文字付き解説に加えて能登さんのナレーションが容赦なく入ってくるので、たとえ白血球が雑菌と殺し合いをしていてもあの声でナレーションがすべてを持っていく。エンタメとしてとても面白い。高校で生物を習っていればもうちょっと楽しかったのかな。
また、体というのは誰でもある程度関心のある分野なので、私も「あれをアニメでやってくれないかなぁ」がたくさんある。ガンとかアルコールとかインフルエンザ(ワクチン)とか骨折とか。
これまでの集大成。スタッフは2期のチーム。夏は終わっても山を登るお話。
これまでのストーリーを踏襲しながら進んでいく物語にグッと来た。教室での編み物とか、富士山の話とか、ロープウェーを普通に乗るとことか。筑波山頂のシーンなんかBGMが「スタッカート・デイズ」のアレンジったりしてすごく良かった。山の風景も引き続きムクオスタジオの綺麗な絵が見れるので、この先も非常に楽しみ。
「メイドインアビス」でおなじみキネマシトラスによる、闇のアイカツ。ミュージカル科に通う女の子たちの物語。2017年から同名のミュージカル(ライブ?)が行われている、アイドルアニメ。
アイドルアニメを殆ど観たことがないのだけれど、こういう登場人物が多い作品は、なるべく早い段階で各キャラの印象を視聴者に与えるため「ほぼ全キャラの自己紹介パートを設ける」とか「各キャラ同士の関係性を描くため、楽屋みたいなところでやいのやいのする」という描き方が多いのだけれど、その辺りの演出がとても控えめ。名前を言う流れも、表示する白文字のフォントもすごく良い。また「メインのストーリーをメインキャラ同士の会話で進めながら、音声なしの映像でその他のキャラ同士のやり取りを描く」等、声だけではなく身体表現によるキャラ紹介がすごくうまくて、各キャラを覚えるのが楽だった。
同様に、心象風景や陰影表現を使ってキャラクターの心の機微を描くというか、行間を読ませるような演出がすごく決まってて、まるで映画みたい。キャラ紹介に尺を取られるとこういう演出が難しいので、ほんとすごい。特に東京タワーから落ちるシーンとかほぼ静止画だし、演出の引き算がめちゃくちゃ優れた作品になっている。
演出の緩急が優れているといえば、特に1話ラストのミュージカルシーン。あそこまで劇的な転調は殆ど見たことがないかも。「輪るピングドラム」とか「天元突破グレンラガン」くらい?このパートでは、リアルでミュージカルを観ているときに感じる「五感が全て奪われるような不思議な魔力のようなもの」を、非常に高い作画熱量によって見事に映像化している。起きている事自体はファンタジーだけど、実際ミュージカルって超現実的な体験なので、もし映像化するなら本作のような感じが一番近いのかもしれない。マジですごい。
本作の音楽を担当するのは、「宝石の国」「宇宙よりも遠い場所」でお馴染み藤澤慶昌。題材が歌劇なので、劇的なオケがメインなのだろうか。もう劇伴だけでご飯3杯はいける。
Netflix独占
100年くらい前の日本を舞台にした、殺し屋家業の日常アニメ。ヨルムンガンドみたいな?ゴリッゴリのP.A.Works作品。
まず戦闘シーンの熱量がヤバイ。京アニの作品「境界の彼方」の戦闘シーンくらいすごい。純粋にアクションがぬるぬるというのもあるけど、加えて出血表現がめちゃくちゃ美しい(境界の彼方も出血表現きれいだよね)し、SEが圧倒的にヤバイ。一撃を防いだ三節棍の音とか、マシンガンの弾丸が石畳に刺さる音とか、横転した車が鉄橋のフレームにぶつかる音とか(やっぱり音響効果:小山恭正だった)。挙げるとキリがない。ヨルムンガンドやGGOみたいに純粋な銃撃戦ではない(強いて言えば異能バトル系)ので、色々な戦闘音が発生する。これはこれで耳が幸せ。横山克の音楽も最高にかっこいいし、とても戦闘シーンの中毒性が高い作品。
また、舞台となる大正〜昭和の町並みがめちゃくちゃ丁寧に描かれている。東京駅から始まり、看板建築の町並み(ということは震災後。新聞を見る限り1930年頃っぽいけど)、和洋入り混じった街ゆく人々、自動車、路面電車。主人公たちの向かった邸宅も和洋の融合した、時代を感じる日本邸宅。ちゃんと道場、和室、洋室、洋風庭園など網羅していて強いこだわりを感じる。その後出てくる、街灯に照らされた夜の町並みも非常に美しい。背景美術を担当しているのはスタジオなや(有限会社GREENが解散後、事業を継承した会社)。モブで言えば、特に日本の警官の描き方がすごい活き活きしててめちゃくちゃ好き。あと邸宅の主人も、葉巻に火をつける仕草がすごく良いのでぜひ見てほしい。
AmazonPrimeVideo独占
いろんな愛の形を描く、狂人の手記。ガンガンJOKERという雑誌は魔境かなにかなのだろうか。子煩悩な主人公が愛のためにあらゆる受難と戦う話なので、概ねハートウォーミングなストーリー。久野美咲(先のアニメ「ひそねとまそたん」では甘粕ひそねを好演)のグロい演技もあってしおちゃんマジ天使。
1話ではヤバイ主人公がバイト先のヤバイ店長を打ち負かす話なので、ともすれば勧善懲悪ならぬ勧悪懲悪、ダークヒーローみたいな話っぽい?のだけれど、ちゃんと1話のなかで「その限りではないからこその狂人」であることが描かれているのが好き。
狂人の話でいえば「殺戮の天使」も狂人の話だけど、あっちは狂人であることに対して自覚的な登場人物の話で、ディケンズの短編「狂人の手記」も『実は私、狂人だったんです!』みたいな話。対して本作は無自覚な狂気を描く作品なので、めちゃくちゃ怖い。また彼女は非常に器用な女の子なので、あらゆる困難を自力で乗り越えてしまいそうな悪寒があって非常に良い。主演の花澤香菜といえば、物語シリーズではヤンデレ子ちゃんこと千石撫子を演じていて、あっちも後者(無自覚)の話だけど、物語シリーズが「恋に恋する女の子の話」に対して、本作は「愛に目覚めた女の子が、愛の力で頑張る話」みたいな、ステージの違うヤンデレ物語になっている。どっちも好き。
主人公の心にフォーカスを当てた、とても静かな演出が印象的。彼女の感じた穏やかさ、満たされた感じ、燃えるような敵意が、とてもかわいいキャラデザや演出によって描かれているのでなおさら強烈に仕上がっている。
制作のEzo'laは初元請けっぽいので、ぜひうまく行ってほしい。
AmazonPrimeVideoのみ見放題
アニメで観るOUTLAST。原作の脱出ゲームのシナリオを踏襲したストーリー。とはいえパニックホラーでもなく(1話は結構その気があるけど)、主人公の心情を丁寧に描いている。また「主人公だけがマトモ」ではなく全員やばい人なので割とツッコミ不在のブラックユーモアボケ合戦みたいになってる。
ストーリーの縦軸はフロア移動→その階のやべーやつに気をつけながら謎解き→フロア移動なのでやや単調になりがちだけど(ずっと室内だし)、全体的に凝った演出が多いのでずっと緊張感があるし観ていて飽きない。OUTLASTみたい。ゲームの雰囲気をそのままに「主人公の視線」をうまく映像化していて好き。音作りが岩浪美和と小山恭正なので、バトルシーンもとても良い。大鎌がシンクの金属板に刺さる音とか。
1~12話まで観たけど、とても刺さった。私なりの観測範囲でよく話題に上がっていた作品なので、便乗して感想を書く。まだ観てない人向けにネタバレなしレビューも書いたので、リアルタイムで13話を観るキッカケにでもなれば。
あと私はあまりリアルタイムでアニメを見るのが得意ではない方の人のだけれど、コレはコレで楽しいな、と思った。制作者のインタビュー探しやすいし、それに対するファンの反応見れたり、各話ごとに視聴者の反応をリアルタイムで知ることも出来てより深く作品を知る機会に恵まれてる。何より楽しい。この感想もそういう色んな人達の発信した悲喜こもごものお陰で書くことが出来たので、日々感謝するばかりだ。ありがとう。
2018年冬アニメ「宇宙よりも遠い場所」を12話まで観た感想 その2
2018年冬アニメ「宇宙よりも遠い場所」を12話まで観た感想 その3
ノゲノラスタッフによる作品というキャッチコピーだが、内容的にはいしづかあつこ作品「ハナヤマタ」に近いものを感じる。ハナヤマタが中学生たちの優しい世界とするなら、こっちはもう少し、冒険をするときのワクワク感がある作品。両作とも「ギャグのテンポが良い」「1話毎に話がまとまってる」「女の子がみんなかわいい」「すごく救いがある」と言う共通点がある。特に1話毎の完成度が非常に高く、好きな話を何度も見返したくなる作品だなぁ、と感じた。メインキャスト4人のメンツで既にざわざわしていたのだけれど、なんてことはない、高レベルの喜劇を演じられる実力者揃えたからっていう。
協力:文部科学省、国立極地研究所、海上自衛隊、SHIRASE5002(一財)、WNI気象文化創造センターとあるように、すっごい詳しく取材した上で作られているアニメ。「JKが南極を目指す」という触れ込みは軽くSFチックなんだけど、現実に即した物語と美麗な背景美術で描かれる世界はとてもリアリティがあって、それ目当てだけでも観ていて楽しい。小ネタも満載で、「昭和基地の施設内にある厨房の戸棚に書かれている落書き」まで再現していたりする。そういう世界の中で描かれるキャラクターたちは、監督がメインキャスト4人の演技を「それぞれのキャラクターが本当に生きている」と評したように(公式ラジオ第11回より、水瀬いのり談)すごく活き活きしていて、本当に生きた人間の成長過程を見ているようである。キャラデザも緻密に作られていて、鼻の形にまでちゃんと意味が込められているんじゃないかと思わせるくらいのクオリティに仕上がっている。バカみたいに表情豊かなので、同じ話を何度観ていても飽きない。そんな彼女たちの心の機微が徹頭徹尾とても丁寧に描かれている作品なので、非常に感情移入のハードルが低い。また絶妙な音楽による演出はより作品への没入感を加速させるので、そのうち彼女たちが何気ないことでヘラヘラ笑ってるシーンでさえつられて笑ってしまうくらいシンクロ率が高くなる。もはや音楽に心を委ねているだけで自然と、面白いシーンで笑い、悲しいシーンで泣き、嬉しいシーンで泣けるようになるので、そこら辺に意識を向けながら観てほしい。ただハマりすぎると「むせび泣きながら大爆笑する」という稀有な体験をすることになるけれど。
この作品を観ていて強く感じたのは「何度も見返したい」という点。一つ一つのシナリオが高いクオリティで完結している、というのもあるのだけれど、加えて本作では「4人の成長」が大テーマになっていて、各話には彼女たちの成長を如実に感じられるよう伏線をたくさん張り巡らせてあるので、話が進めば進むほど彼女たちの行動一つ一つに宿る物語を思い出しては強く感動する…という構成になっている。なので、「このシーンでこの子がこういう行動を取ったのって…」と気づく度に過去回を見返したくなるような、非常に完成度の高いエンターテインメント作品だと思う。
(物理)という意味もある。物理的に行くのが困難な場所を目指す物語としてすごく完成された作品だし、「リアリティがあって、かつほんとに行けるか分からないくらいハードルが高くてワクワクするような目的地」というつくり手の戦略はすごくハマってると思う。
一方で心因性の「宇宙よりも遠い場所」ってあるよね、というもう一つの意味も丁寧に描かれている。例えばそれは誰かにとって「メッチャ高い目標」、あるいは「何も変えられない自分から、何かを変えられる自分への転身」、「誰かに依存し続ける自分との決別」、「まだ見ぬ友達のすぐ隣」なのだけれど、大切なのは勇気を持って最初の1歩を踏み出すことだよね、ということを描く物語がこの「宇宙よりも遠い場所」というタイトルに込められていると感じた。私が1~12話全部が好きな理由は、すべての話が「最初の1歩を踏み出す物語」になっているから。ED曲「ここから、ここから」もそれを象徴している。ちなみにED曲タイトルは、作曲者が近所の散歩中に[ここから~]という道路標識を見つけたことが由来らしい(本人ツイッターより: https://twitter.com/higedriver/status/968006184413249536 )。
とにかく笑って泣ける作品なので、イッキ見をすると顔中が痛くなる。普段表情筋を使っていない私のような人は体調に気をつけて観たほうが良いかも。
上記の通り何回も見返したくなる作品なので、私なりに観る順番を決めてみた(数字は話数、その右にある()内は注目するポイント)。少しでも楽しむネタになれば。
4-1(キマリの想い)-2(報瀬、日向、観測隊の想い)-3(ゆづの想い)-
5-[1-2-3-4(キマリ一家)](めぐっちゃんの表情)-5-
7-1(キマリの想い)-3(ゆづの想い)-4(報瀬と隊長)-5(冒頭撮影シーンのつながり)-
8-1(キマリ)-4(4人)-5(4人)-7(4人)-
9-[1-2-3-4(報瀬と隊長)-5-7(報瀬と隊長)](ほんとに南極行けるの?だって南極だよ?)-9-
10-1(報瀬にとっての友達)-3(ゆづにとっての友達)-4(4人の仲)-5(4人の仲、めぐっちゃん)-6(4人の仲、報瀬と日向)-8(4人の仲)-10-
11-2(日向)-3(日向)-4(日向)-5(日向)-6(日向)-7(日向)-8(日向)-9(日向)-10(日向)-11-
12-1(報瀬)-2(報瀬)-3(報瀬)-4(報瀬)-5(報瀬)-6(報瀬)-7(報瀬、隊長)-8(報瀬)-9(報瀬、隊長)-10(報瀬)-11(報瀬)-12-
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私事になるのだけれど、ほぼおんなじことを言われた経験がある。何年か前に高校の同窓会に行ったのだけれど、その中に青年海外協力隊に参加した経験者がいた。元々興味があったのでかなり前のめりに話を聞いていたのだけれど、そんな私を見た彼が「じゃあ、行く?知り合いに話してあげるよ」と言ってくれた。けど私は行かなかった。その場であれやこれやと行けない理由を話した覚えはあるけれど、要はそういうことなんだろう。だからこうして一歩踏み出そうとして出来なかったり、そのくせ踏み出そうとしてる友達を応援してみたり、そんな自分が嫌いなったりしているキマリの姿を丁寧に描く1話は私に刺さりすぎた。
アニメを含むコンテンツに触れているとよく、「スカートで体育座り」というシチュエーションを見る。…けど、私は「そそそそのスカートで座ったらパンツ見えちゃうよ!?」ってなってしまって結構苦手である。最近のアニメ作品では絶対にパンツが見えないような工夫がされていることが多いけど、その多くは「神様視点では見えない(脚でパンツ隠すやつとか)」あるいは「重力を無視したスカート」のどちらかである。どちらの手法でも非常にもやもやしてしまうので、「どうやってスカート履いてる女の子が座る姿を自然に描くか」という表現技法にずっと興味があった。
そこで1話 14:05頃を見て欲しいのだけれど、キマリがスカートの下に手を回してる座り方がすごいかわいい。自然な仕草かつ可愛いだけでなく、キャラクター自身が見られないよう意識している事がわかり、それも含めて可愛い。とてもよく出来ているシーン。
この手法は、監督いしづかあつこが絵コンテを担当した作品「ハナヤマタ」(2014年)の1話 13:40頃でも見られることから、監督のこだわりなのだろう。些細な事だけど、私が監督を好きな理由の一つである(余談だけど、同氏が絵コンテを担当したノゲノラ1話ではワンピースを着た”白”が自室でベターっと座ってパンモロしていて、彼女のだらしなさを簡潔に表現している。座り方一つでキャラクターの性格を描くという点では一貫していてすごく好き)。
色んなアニメで登場する「放課後の学校の音」を比較するのが好きなんだけど、よりもい1話の放課後の音がとても好きなのでぜひ聴いてほしい。男子生徒の会話する声、吹奏楽の音、陸上部あたりのホイッスル等、非常に音が豊か。
15:05頃 「宇宙よりも遠い場所」を読むキマリがかわいい。
めぐっちゃんの「南極に聞いた?」を見た報瀬がムッとした表情になり、キマリの心配に対してつっけんどんに拒絶してしまうという流れから、今まで散々「南極」とからかわれたり、あるいは仲の良い人から諦めるよう説得されてきて、その度に彼女はどんどん強情になっていった報瀬の過去を思わせる。それでもすぐに和解できたことから、いかに二人が1~2話の間に信頼関係を築けたかが分かる。また、二人が言い合った場所が敢えて交差点であることも強い印象を残していて(作品を通して交差点が登場するのはこの時のみ)、非常に好きなシーン。
目まぐるしく変わるシーンの背景がいちいちハイクオリティ。その中を複数のキャラが、文字通り縦横無尽に走り回る本作で最も激しいアクションシーン。コマ送りで見ると楽しい。アニメ作品において、キャラが奥→手前のように奥行きのある移動をする際、作画が安定してるって結構すごいことだと思う。
奥→手前
右→左
奥→右と左に分かれる
奥→手前
右→左
手前→奥
奥→手前
手前→奥
右→左
奥→手前→右
右→左 …みたいな。3人が歌舞伎町に来るまでは夜道=街灯もない真っ暗な道という描写だったけれど、このシーンでは対照的に明るい歩道、きらびやかなネオン、往来する人なんかが強調されてて、キマリの心象風景が可視化されてるみたいで好き。
加えて疾走感の演出がすごく良い。キマリは最初、すっげー速い隊員と日向に比べてヘナチョコ走りなんだけど、挿入歌の盛り上がりに合わせてどんどんフォームが良くなっていく。たった一人だけ笑顔で走ってるキマリの高揚感がすごく伝わってきて、胸がいっぱいになる。
1話の100万円…報瀬の並々ならぬ覚悟を象徴する舞台装置、またそれに応えるキマリの覚悟の大きさ
2話の100万円…スポンサー料として提示した金額。ハッキリ言ってゼロが足りない。その申し出を断ったかなえからは、大人組が報瀬の「絶対に南極へ行くという想い」を超えるくらい強い意志を感じさせる。
だからこそ、追い返された帰りの電車内で報瀬がちっとも折れずに「こいつ、ポジティブちゃんだ・・・」ってなるやりとりが非常に効果的な演出になっていて好き。
これ以降も重要な舞台装置になっていて、ただの札束をここまで丁寧に描く作品ってすごいと思う。
17:40頃 「私の青春、動いてる気がする!」のキマリがかわいい。
特に2~3話は「さもありなん」と思わせるシナリオになっていて、非常に面白い。この作品にリアリティを感じた人はよりもい公式ページの「南極チャレンジ」や、観測隊の日記等を見て幸せになってほしい。
報瀬家ではリーダーを解任された報瀬が不満を漏らすのだけれど、お茶を出しているところを見て「お茶くみに格下げか」と気づいた人はどれくらいいるだろうか。また、後ろにそっとおいてある南極観測船「宗谷」にも気づいた人って最低でも30代だと思うのだけれど、そこらへんがこの作品のターゲットなのかもしれない、と思った。私もアラサーだし。
同じく報瀬家でのやりとりにおける報瀬(CV.花澤香菜)の演技が抜きん出て面白い。本当に素晴らしいキャスティング&ディレクション&演技だと思う。
「変な夢…」→夢と違い、殆ど開かない窓→スマホを見て目を細める結月→バッジのないSNSアプリ(前日送ったチャットの返信がない)→退出しましたx2→後ろ姿→\コンコン/→一瞬窓を見る→\コンコン/→「おはよー!」
この間セリフがないのに、それでも結月の心の浮き沈みが痛いほどわかる演出がすごい。本作の特徴である、丁寧な心理描写や伏線の貼り方を象徴しているシーン。
07:20頃 こんな事もあろうかと用意しておいた”二人羽織”(書・キマリ)の、”二人羽”に比べて小さい”織”
高校生が主人公のアニメや漫画では学力をテーマにした回が定番だけれど、この作品ではキマリ家での悲劇が描かれるのみ。なぜかといえば、4人のうちちゃんと学校に通っているのが2人だけだから。加えてゆづは通っている学校と学年も違うので、学力テストをテーマにしにくい。てかそもそも女子高生を描くアニメで学校に通っていない子をメインにするという発想に惚れた。でも4人のスペックについてはうまく描かれていて、
キマリ…部屋の片付けが苦手、一つでも赤点取ったら南極に行けない、コンパサー→基本はできない子
報瀬…キマリに説教する日向に同意する、慎重に測量の訓練をする→できる子?
ゆづき…学校に行けない分ファミレスで自習、数学のノート(図形の作画が非常に丁寧、字が綺麗)→できる子
南極での作業フェーズではそれぞれがいろんな作業をするので、できる子なのかできない子なのか分かるっていうのはそれなりに意味があるんだけど、それを「勉強の出来不出来を数字で表す」という無意味な評価軸に頼らない演出にしてて好き。
「ここじゃないどこかへ」というモチベーションでここまで報瀬に付いてきたキマリ。それだけでもすごいのに、そのうえ報瀬の想いや大人組の想いを知った上で「みんなで行きたい!」と言ったキマリの鋼メンタルが描かれている。報瀬たちと同等の覚悟がないとこんなこと言えないはずで、物語の縦軸を担う報瀬ではなくキマリが主人公であることを再認識した大好きなシーン。
16:35頃
なんか、ひょんなことから月蝕歌劇団(という小劇団が都内にあると思ってほしい)の公演を見に行って、それ以来なんか芝居づいている。
これまで演劇なんてぜんぜん興味がなかったのに。
いくつか劇場に足を運んだところで、もう1回くらい観ればもっと色々と見えてくるものがあるかと思い、また月蝕歌劇団に足を運んでみた。
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演目は『ねじ式・紅い花』と『盲人書簡−上海篇』の2本立て連続公演
(前回の観劇の記録は
https://anond.hatelabo.jp/20170925212923
を参照のこと)
ということで、自分のログを兼ねて、また観劇記を残しておくことにする。
御用とお急ぎでない方は、しばしお付き合いを。
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ただし。
自分は舞台観劇についてはとことん素人なんで、これから書くのは、通りすがりの素人が見た印象批評くらいのつもりで、紹介文としての情報は期待しないでほしい。
(というか印象批評というワードも小林秀雄みたいで偉そうだな。ほんとに感想文くらいの感じで、ひとつ)
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■全体として
歴史の長い劇団というのは知っていたけれど、今回は公演100回記念とのこと。
で、旗揚げ時代からのライバル劇団その他のビッグネームが集結した大プレミアム公演だったらしい。
普段は若い女性主体の “少女歌劇団” っていう感じの劇団なんだけど、今回はキャストの年齢が大はばに高めだった。
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ちょっと変わった構成をしていて、1つのシーズンというか公演期間を前後に分けて、2種類の演目を上演する。
さらに各演目について前座というか露払いというか、出演キャストの歌唱ショー、寸劇、詩の朗読その他をまとめたパフォーマンスとして “詩劇ライブ” というのがある。
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なので、フルで鑑賞すると1シーズンで合計4演目。
これを多いと思うか、アリだと思うか。
いろんな作品世界が見られてオトクだとも言えるし。
リハーサルやシナリオの練り込み等々のリソースは分散されるから内容的に落ちるものになるかもしれないし。
自分が見たところ、器用な高能力キャストと、まぁそうでもないキャストでうまく仕事を振り分けて、不満を感じさせない作りにしている感じだった。
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順番に見ていってみると。
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先に不満点を言わせてもらうと。
演目『老人と子供のポルカ』の歌唱。
左卜前役のベテランキャストがカンペ片手に左右のキャスト(岬花音菜、慶徳優菜)を振り回して大暴れ。
休みなく次の曲『本牧メルヘン』が始まり、そのまま岬花音菜がマイクを握るが、息の上がった彼女にはキーが低すぎた。
おかげで貴重な戦力(岬)を空費。
トリの白永歩美がキッチリと『バフォメット(と、あとなにか悪魔がもう一柱)の歌』(詳細不明)で締めてくれたのが、せめてもの救い。
ハプニングなら再発防止策を取ってほしいし、プロットなら、申し訳ない、あれに快哉を送るハイなセンスは自分は持ち合わせていない。
しかし。
詩劇ライブというのがファンミーティング兼同窓会だというのなら。
いとしの大スターがいつにないハジケっぷりを開陳したほうがファンサービスとしてのお値打ち感は高いのかもしれない。
と、思って周囲を見回してみると、自分と同じか、あるいはさらに年配の観客がホクホク顔で舞台を見守っている。
ハテ、招カレザル客ハ自分ノホウデアッタカ。
うん、わかった。
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■後半の前座『詩劇ライブ 暗黒少年探偵団』
詩劇三傑(←たったいま自分が決めた。はるのうらこ、岬花音菜、そして白永歩美の3人)のパフォーマンスがたっぷり見られたので実に良し。
はるの嬢は前回と同じギター伴奏かと思ったら、ギターからキーだけもらって、ほぼ独唱。それでいてピッチは正確、ハイノートも申し分なく出ていたし、なんというか、 “このヒト、ひょっとして劇団の隠れた屋台骨なのではないか?” という予感がさらに強まる。
(↑それは本編でガツンと証明されるんだけど)
なぜ合唱のときは控え(それはもう、あからさまな控え)にまわるんだろう?
リハーサルの負荷をソロに集中させるためか。
岬花音菜はカッパの舞。そして小阪知子を舞台に引き出してカッパの相撲。
あいかわらず、この人は歌って動いてが実に良い。
そしてトリは白永歩美。
朗読、歌唱と大活躍。
いつ見ても、この人は安定しているなぁ。
はかなげで、あやうげで、その状態のままガッチリ安定しているという不思議なキャラクター。
そういえば『Those ware the days』に日本語歌詞をつけたものを歌ってたんだけど、受付で立ち読みしたセットリストにそんなのなかったぞ、と思って調べてみたら、『悲しき天使』なんていう日本語版があったのね。
知らなかった。
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さて本編。
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■前半の本編『ねじ式・紅い花』
つげ義春の原作、『ねじ式』『紅い花』『女忍』『沼』『狂人屋敷の謎』をまとめて1つのストーリーにしてある。
実を言うと、前回の公演を見たあとに、某氏から、
「なに、月蝕歌劇団が面白かったって? それじゃアレだ。主催の高取英のアレ読んどけアレ」
といって勧められたのが、『聖ミカエラ学園漂流記』(小説版と戯曲版)。
前回の公演を観たときに、
「この人の持ち味は “奔放に見えて実は緻密な複数世界のマッシュアップ” だろうな」
と感じていたのが、この本で確信に変わったのだけど。
原作が2作品や3作品なら、例えば2つの世界の登場人物が呉越同舟で共闘する、みたいな展開もあり得るけど、さすがに5作品同時となるとメドレー形式にならざるを得ない、という感じ。
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さて、もう1つ、高取氏の特長と思ったのが、ストーリーに必ずクライマックスを用意する、という点で。
(それが、エンターテイナーとしての氏の本性によるものか、それとも “客にはなんとしてもカタルシスを持ち帰ってもらわないと次につながらない” という興行師としての冷徹な計算によるものか、そこまではわからない)
それが、つげ義春の茫漠としたアンチクライマックスな世界とどう折り合いをつけるのか、そこに興味があったんだけど。
これが『紅い花』を中心に最小限の改変を加えただけで、見事に全ての原作が一斉に収束に向かうオチといえるオチになっているのは、さすが。
最後にはねじ式青年が『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』(P. K. ディック)みたいに無限増殖するあたりの幻想テイストが高取氏らしい。
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あと、前回公演みたいな「身捨つるほどの祖国はありや」的な大きな主題は今回は抑制されている。
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助成金云々の楽屋落ちは生臭いので忘れたことにする。
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そして、この劇団特有の時間がゆがむ感覚をまた味わう。
今回は、サヨコの祖父の楽屋オチ的な台詞。
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「最近、嵐山光三郎が書いたんですがね、松尾芭蕉は忍者だったんですよ」
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えーと、嵐山光三郎の “芭蕉忍者説” は2000年代なんですが。
高取氏の作品世界が戦前、戦後、昭和30年代、1960年代、1980年代みたいに複数の時代を放浪するように、劇団自体も、60年代、80年代、そして2000年代の全ての時代に存在しながら、どの時代にも存在しないような不思議な立ち位置。
それが、この劇団の持ち味でもあり。
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あ、あと、狐舞の意味がやっとわかった。
なんのことはない、 “ここから現実感と見当識がゆるんで、心象風景と象徴劇が始まりますよ” という演出効果だ。
多色発光LEDを掲げた葬列も、夜光塗料の試験管をもった少女たちも、おそらく同じ。
少女漫画で「なんでクライマックスに花びらが飛び回ってるの?」とか訊かないでしょ? アレと同じだ。
そういえば、最近の子供は漫符(怒りの青筋とか緊張の汗とか)がわからないケースが多いらしい。
つまり自分は月蝕の鑑賞において子供だったわけだ。
というあたりで。
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そして、問題の↓
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■後半の本編『盲人書簡−上海篇−』
あー、うん。
むかし『草迷宮』(寺山修司)を観て途方に暮れたことを思い出した。
あるいは、さらにむかし『原始人』(チャーリー・ミンガス)を聴きながら、
「これは良い音楽なんだ、良い音楽なんだ、みんながそう言ってるから良い音楽なんだ」
と歯を食いしばっていたことを思い出した。
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はっきりしたこと。
自分に “前衛” を受け止める感受性はない。
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それでも、なんとか受容を試みてみる。
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(1)1930年代の第二次国共合作を背景にした不穏で混沌とした上海共同租界。
(2)明智小五郎と小林少年という、戦前・戦後の言ってみれば “陽のヒーロー” をどす黒く改変したキャラクターと、堕落した母親としての小林少年の母。
(3)白痴の少年と娼窟の姉妹がからむ、不快にユーモラスな人物群。
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この3つの人物群を主なストーリーラインとして、失明した小林少年を中心に “目明きと盲(めしい)、世界が見えているのはどちらか” という問いを主題として話はすすむ(ように見える)んだけど。
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途中、影を喪失した少女、みたいな挿入話をはさみながら、ひたすらグロテスクなストーリーとも言えないストーリーの断片が続く。
クライマックスは小林少年と恋人(?)のマサ子の再開を中心にしながら、全てが虚構の中の虚構、悪夢の中の悪夢、という入れ子の構造をあからさまにするところで、唐突に終わる。
最後の最後には第四の壁も突破して現実のキャストの名前まで出てくる。
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うーむ、書いておいてなんだが、なんの説明にもなっていない。
ねぇ、寺山修司って、ホントに70年代、80年代の青少年のカリスマだったの?
(今度、『書を捨てよ云々』でも読んでみるか……)
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可能性としては、今どきの若者がP. K. ディックやら筒井康隆やら読み慣れてるせいで、 “崩壊する現実” やら “虚構の中の虚構” を普通においしく摂取しているのに対して、当時はその種の超現実的な幻想悪夢ワールドが知的にトガった青年だけの愉悦であったとか。
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ま、さておき。
これ以上はどうにも言いようがない。
自分にとって確かなことは。
ということ。
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さて。
キャスト、演出その他については、以下の通り。
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■白永歩美
女忍コジカの息子、宗近と小林少年を好演。
このヒトが、登場するだけで舞台が猟奇的でビザールな空気になるような、言ってみれば “嶋田久作” 的な怪優でありながら、それでいて結構な美人サンである、というのは劇団にとって大きなアドバンテージなんじゃなかろうか。
劇団のカラーを一人で体現しているような。
ビジュアル、演技、歌唱、トップの名称は伊達じゃない、って感じ。
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というか。
実のところ、トップというネーミング自体はどうでもいい。
それがプリマドンナでもソリストでもエースでも四番でも同じことで。
その種の人に求められるのは才能でも鍛錬でも、ましてやプロデューサー/ディレクターの寵愛でもなく。
それは「いつ、いかなるときでも、自分が前に出ていってなんとかする」という思考形態だと思う。
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例えば才能、というか生まれつきの資質なら。
前回の公演には高畑亜美という彼女に負けず劣らずのビザール美人さんがいた。
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例えば技能なら。
前回の公演で、白川沙夜というキャストは、ストーリーテラー、コメディリリーフ、仇役という3つの仕事を3本の腕で同時につかんでブンブン振り回して大暴れしていた。
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でも、彼女たちは今回はいない。事情は知らない。
いっぽうトップには「事情により今回は出演しません」という選択が無い。
脚光も浴びる、注目もされる、そのかわり劇団の出来が悪ければ矢オモテ、火ダルマ、槍ブスマと。
群像劇主体の劇団で、ある程度は負荷が分散するにせよ、あの細っそい体にかかっている重責を想像すると、なんというか、なんというか。
長くなった。
ともあれ、健康にお気をつけて。
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■川合瑞恵
前回までは “作りようによっては、いかめしく見える” ビジュアルを活かしたワンポイント役だったのが、今回は『女忍』パートのキーとなる女忍コジカに大抜擢。
これが大根だったら目もあてられないところを、実に器用に演じきってしまった。
本職はモデルさんだと思ってたんだけど。違うの?
芸能関係って器用な人が多いのよね。
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■岬花音菜
演技はさておき、まずは狐舞。
今見ているのがカラダのオモテなのかウラなのか、腕なのか脚なのか分からなくなってくる超絶変態空間機動がひっさびさに大炸裂!!
これだ! これが観たかった!
いや、じつは、このところモヤモヤしていた。
「いや、たしかに踊りも歌も演技も良いけど、ここまで追っかけるほどか?」
でも、たしかに思いちがいじゃなかった。
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そこには、たしかに岬花音菜がいた。
およそ2ヶ月前、片目の猫の舞で自分の脳味噌をブチ抜いた岬花音菜が。
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ちなみに。
あとから取材を試みたところ。
あの一連の動きは、ボランティア(アルバイト?)のダンス教室で子供たちに最初のウケを取るために編み出した動物踊りがオリジナルだとのこと。
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するとなにか。
自分の鑑賞眼は子供レベルか。
まあいいけど。
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というか、彼女の狐舞に視線をもぎ取られ、ねじ式青年と女医のベッドシーンの大半を見逃していたことに、劇場を出てから気がついた。誠に申し訳ない。
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さて。
キャストとしては『紅い花』パートのシンデンのマサジ、『盲人書簡』で白痴の少年を担当。
この演技、周囲の評価はウナギ昇りだろう。
じっさいTwitterを中心にネットを見ると、彼女と慶徳優菜の評価はウナギ昇っている。
ただ。
自分としては評価は保留としたい。
なぜって?
あまりに、あまりにもハマり役すぎて、いま見ているのがキャラクターなのか、それともキャスト本人なのか、観劇素人の自分には判然としないから。
(これ、自分の中では笠智衆と同じ位置づけだ)
大竹しのぶがアニーを演じたり、同じ劇団でいえば白永歩美がピーターパンを演るのとは、意味が違う。
『紅い花』ではプレ思春期の少年のいら立ちを、『盲人書簡』ではスケベなアホの子を、と、いろいろ打ち出しているのは分かる。
分かるけど、いずれも、まずは本人あっての効果であって。
このあと彼女は “月蝕きっての永遠の少年役” として存在感を増していくのだろうか。
それもアリだと思うけど。
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■慶徳優菜
『紅い花』キクチサヨコ役。
だけど彼女の評価も保留。
理由は岬花音菜と同じで本人そのものだから。
その意味では、娼窟の妹と小林少年の想い人のほうが、本人のポテンシャルがよく分かる気がする。
そっちの方はというと、うん、悪くない。
ただ、これは自分の思い込みかもしれないけど。
なんというか彼女は “月蝕、次世代のプリマドンナ育成枠” というのに完全に入っている気がする。
この直感が正しければ、それはおそらく本人の十分な資質と劇団の目算があってのことだろうけど。
なんかモヤっとする。ほかの新人も若手も、ひとしく頑張っている(ように見える)のに。
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■はるのうらこ
なんというか、詩劇ライブのときは “ひかえめな、でもシャレのわかるおねーさん” というオモムキの彼女。
キーとなる配役のキャスティングが多いから、信頼の厚いキャストなんだろうな、という以上の認識はなかったんだけど。
(そしてそれは、ねじ式青年という大役を見ても動かなかったんだけど)
これが。
『盲人書簡』娼窟姉妹の姉役。実にすごい。
あのフワっとしたキャラが、女の嫌なところを全部集めて煮詰めたようなキャラクターに大変身。
慶徳優菜をサポートに娼窟パートのカラーというか空気を完全に支配していた。
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あと、些細なことだけど。
キーアイテムとなるタバコをチャイナドレスに入れ忘れたか、取り出せなくなったか。
取り出そうと悪戦苦闘して2秒。
見切りをつけてアタマの中でプロットを切り替えるのにコンマ2秒。
架空のタバコをふかして場面転換の決め台詞につなげるまでの時間の空費がわずか2.2秒。
はるの氏にとっては迷惑な賞賛かもしれないけど、ここの所作の切れ味に地味に鳥肌が立った。
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■宍倉暁子
彼女が登場すると、そこだけ別の照明があたってるようだった。
さらに今回の千本桜ホールより少し大きめの劇場向けにチューニングされた、よく通る発声。
今回集結した “夢のベテラン勢” の中では、彼女が出色だった。
彼女だけは気になって調べたら、舞台を中心にTV、映画と活躍の現役大ベテラン。
たしかに分かる。
自分の外見と所作が人にどう見えるか、何十年にもわたって掘り下げていないと、ああは行かないと思う。
『紅い花』では漂泊の釣り人。すこし困り顔の茫漠とした旅客でありながら、マサジのカウンターパートとして要所を締める。
『盲人書簡』では軍人と密通する小林少年の母として、実に汚ならしい堕落した母親像を体現。
教科書的に言えば寺山修司の作品世界に通底するコンプレックスというかオブセッションというか、ともかく “その部分” を実に彼女一人で背負って担当していた。
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■大久保千代太夫
今回最高の当たり役の一人。
犬丸は尾張織田と敵対している設定だけど、人物造形はおそらく美濃のマムシこと斎藤道三がベースだと思われ。
自分に襲いかかった刺客を手籠めにして側室にする一代の梟雄らしい悪太郎ぶりと、戦国武将の透徹した死生観が、もう全身からみなぎっていた。
『盲人書簡』の方は。
うーん、自分の中では “生ける舞台装置” としての黒い苦力(クーリー)の集団は、なんというか、全員が均質な筋肉質の没個性の集団だったんで、あの巨躯が逆にマイナスにはたらいた気がする。
こればっかりは、いたしかたなし。
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■小阪知子
影の殊勲者にして功労者。
前説とカッパ相撲のときから(自分の見立てでは)この人は切れ者だろうな、と思ってたんだけど、今では確信に近い。
馬鹿をやる、それもビビッドに馬鹿をやれる人間は、なんというか、切れる。これは自分の持論。
自分が見るかぎりでは、月蝕歌劇団キャストのベテラン高位職者(?)には2つのカテゴリがあって。
1つは白永歩美、岬花音菜のように “スタア” 役を仰せつかってスポットライトを浴びる職種。
もう1つは、前回公演の鈴乃月葉や今回の彼女のように “ひとり10役をこなしてストーリーラインを維持する” という重責の担当者。
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■若松真夢
薄い眉、暗く沈んだ眼。白永歩美が陽のビザールだとしたら、彼女は陰のビザール美人。
もっといろんなキャストで見てみたいと思った。できれば和装で。
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■城之崎リアン
詩劇ライブのみに登場。OGか。
そりゃ、男女問わず固定ファンがガッツリと付いたことは想像にかたくない。
問題は、貴公子以外にどんなキャストをやっていたのか、想像がしにくいことで。
もっと昔から見ていなかったことがくやまれる。
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■登利忌理生
前回の中村ナツ子に続き、今回の「なにものだ! このひと!」ワクに期待のダークホースが登場。
自分は茶髪に偏見があるようで、「えっとぉ、学校卒業の記念にぃ、オーディション受けちゃいましたー!」みたいなハスッパな外見と、そこから飛び出す恐ろしい長セリフと演技巧者ぶりのギャップに舌を巻いた。
本当に何者だ! と思って調べてみたけれど、月蝕以前の芸歴がまったく引っかからない。
あれか。学生演劇出身か。
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■音無ねむ
今は、まだ大部屋女優といった立ち位置。
(たぶん。自分が調べた限りでは、まだ無名)
何者でもない。
何者にも、まだなっていない。
だけど、あの男に引けを取らない長身とキリっとしたマスクには、絶対に活きる使いみちがあるはず。
実際、『盲人書簡』の “新聞朗読笑い男” には何とも言えない味があった。
(キャスティングの認識、間違ってないよね?)
陵南の田岡監督ふうにいえば、「体力や技術を身につけさせることはできる。だが、彼女をでかくすることはできない。立派な才能だ」ということ。
まずは、その長身を恥じるような猫背をやめて、胸郭を開いてまっすぐ立つところから、カンバレ!!
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■J・A・シーザー(と音響)
ふむ。ふむふむ。
エンディング、こんな感じかにゃ? 間違ってるかもだけど。
(いま手元にGarage Bandしか無いんで大変)
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Bm....................BmM7(←Daugかも)
寺 の 坊 ん さ ん 根 性 が 悪 い
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Bm.............Bm........F#m..GM7
守 り 子 い な し て 門 し め る
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F#m.........Bm........F#m......Bm.E
ど し た い こ り ゃ き こ え た (か)
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(間奏2+4小節)
E.................Bm.......Bm.......Bm.......Bm
+--------+--------+--------+--------+--------+--------+
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Bm.......D/A...GM7..........Bm.D/A..E..
守 り が 憎 い と て 破 れ 傘 き せ て
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Bm.......D.....GM7.......Fm#......GM7
か わ い が る 子 に 雨 や か か る
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Fm#.........GM7.......Fm#......GM7
ど し た い こ り ゃ き こ え た か
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(間奏4小節)(以下同じ)
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メジャーセブンに合わせて変えたか。
採譜するまで気が付かなった。
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えー、日本のニロ抜き音階(いわゆる田舎節)で作られた民謡/童謡に、7th、9thがタップリ乗ったモダンコードをあわせて。
さらに、それを流行りのリズムパターンに乗せると、こう、実にカッコいいニューエイジ/ワールドミュージックになるのは皆さんご存知のとおり。
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こういう音楽はみんな大好き。ボクも大好き!
この種の音楽の嚆矢は自分が知る限りYMO(実質、坂本龍一)で、80年代ではあるけど、このスタイルが「教授(坂本)のパクリじゃ〜ん!」と言われなくなったのはEnigmaやDeep Forrestが日本でワサワサ紹介されて一般化した90年代のような感じがしていて。
(“姫神せんせいしょん” や喜多郎については、当時ノーマークだった自分に語る資格はない)
問題は、J・A・シーザー氏が、何故この時期にこの種のスタイルをぶつけてきたか、だ。
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本公演エンディングの『竹田の子守歌』はJ・A・シーザー氏の手になるものではないとの指摘がありました。
お詫びして、訂正します。
以下、上記の誤りを前提にした言及をカットします。
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でも、今回のエンディングが実にイイ感じだったことは確かで、これからもこの路線はアリなんじゃないか、と思った次第。
うん、自分に言えるのはそれだけ。
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最後に音響について。
なんか、今回の殺陣は斬撃の効果音のタイミングがやたらと良かった。
何か条件が変わったんだろうか。
ただ、いつもながら思うのは、客席一番奥にコントロールブースを置かないで、それでもあのレベルの音響を維持できているのは、それ自体が奇跡に近いことだ。
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ただ、生きている動物の仕込みはさぞかし苦労しただろうな、と。
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んー、今回の月蝕歌劇団はこんな感じでした。
全体としてどうなのかって?
うん、良いところもあれば、首をかしげるところもある。
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まずは。
自分はもともと聖子ちゃん、キョンキョンのころから、それほどアイドルが好きではないので、フレッシュなキャストのライブ感、というのにはそれほど重きをおかない。
なので、(おそらくは)キャストそのものに入れ込んでほしい、という劇団の方針には同意しかねる。
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しかしながら。
高取英氏の作品世界。これにはどーしても、どーしても不思議な引力を感じでしまう。
結果として、スケジュールが合って演目の印象が良ければ、これからも足を運ぶような、そんな感じがしている。
というあたりで。
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また機会があれば。
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一昨日注文した「アイドルタイムプリパラ 夢オールスターライブ!」が届いた。
「アイドルタイムプリパラ」の3DSゲームで、「めざめよ!女神のドレスデザイン」の続編にあたる最新作だ。
スーパーに買い出しに出ている間に宅急便が不在票を置いて行ったりしたおかげで、私は一日千秋の想いで到着を待っていたのだが、その熱は見事に昇華された。
プレイし始めて一時間も経っていないのに、私は完全に語彙力消失腐女子のように「まって」としか言えなくなったのである。
「プリパラ」はもう四年目に突入する女児(とかなりの大人)に人気のテレビアニメ・アーケードゲームである。
簡単にまとめてしまうなら、女の子が誰でもアイドルになれるパラダイス「プリパラ」を舞台にした愛と友情の物語である。
「プリパラ」の主人公・真中らぁらはプリパラのなかで(紆余曲折を経て)愛と友情をはぐくみ、いよいよ最後にはアイドルの最高位である「神アイドル」にまで成長する。
そして「アイドルタイムプリパラ」では、メイン主人公の座を夢川ゆいに譲る。そしてゆいはらぁらや友達とともに、夢へと突進していく。
あらすじはこんなところだろう。本作は、その「アイドルタイムプリパラ」の冒頭からスタートする。
さて、なにが私にこんな文章を書かせるまでに至らせたのかという話をしたいと思う。
「プリパラ」には、紫京院ひびきという女がいる。
本作ではその紫京院ひびきが、ひびき様が、子供っぽくぐぬぬポーズをしたり、「また友達になってくれるか?」というような発言をするのである。
もう、「まって」としか言えなかった。
彼女はもともとはアイドルではなくムービースターで、とある野望のためにアイドルに転身、あらゆる人を意のままに動かしていく万能の天才という立ち位置である。
彼女が登場するのは「プリパラ」二年目であり、そしてそのラスボスである。
現在では一年目のラスボス・ファルル、そして自分が見出した「最高のプリンセス」とともに「トリコロール」という公式で作中実力最強と呼ばれるチームを組んでいる。
その性格は、さきほどの言及を見ればわかると思うのだが、非常に傲慢で、けれど圧倒的なカリスマを持っている。
彼女の出自だとか野望だとか、それを書いてしまうとシリーズで一番重いとファンの間で口々に言われる二年目がまるでわかってしまうのでここは省略させてもらうが、
ともかく彼女は友情などというものは信じず、自分の力のみを信じていたキャラクターだということを分かってもらえれば構わない。
キャラクターコンテンツにどっぷりのめりこんだ諸兄なら、このすさまじさはわかっていただけると思う。
女児向けゲームの手抜き移植と侮ることなかれ。本作は完全にファンに向けられたご褒美であり、完膚なきまでに私の脳天はぶち抜かれた。
(ちなみにだが、ひびき様は人気がかなり高く、ファンの間でも解釈違い等争いの種になるのだが、私はこういうのは大丈夫である。だってプリパラだから。プリパラレルワールドだから。)
なんと「男プリ」モードがある。
簡単に言ってしまえばプリパラの男子版なのだが、その人気アイドル「WITH」の三人が歌って踊る。
正直、爆笑が止まらなった。考えてもみてほしいのだが、めちゃかっけー曲(ポウポウポウという音が鳴りまくる)をキメキメで踊る男の子三人組。
ステージセットもメイキングドラマ(ライブで再生されるキャラクターたちの心象風景)も女の子たちのものとそん色ないほど作りこまれている。
そもそも本作、女の子だとソロライブしかできないのに、「男プリ」モードは三人ライブなのである。
この力の入れよう、まさに「プリパラ」そのものであるフリーダムさなのである。
そもそも、プリパラにハマったのは鬱になりそれがかなり重かった時期なのであるが、前作「女神のドレスデザイン(略称:メガドレイン)」には心底助けられた。
自分の分身であるキャラクターが、自分のデザインしたコーデを着て歌って踊る。ランウェイを歩く。
一時期の「わがままファッション ガールズモード」の流行りを経験した方ならわかるかもしれないが、その多幸感といったらない。
寝る前にちょっとプレイするだけで、その日はもう幸せに包まれて安眠なのである。私はそうだった。
本作はれっきとしたキャラゲーであり、その完成度はとても高い。
これを書き終えたあと、ベッドに寝っ転がってプレイするのが楽しみで仕方がない。
購入を検討されているとか、プリパラを知っているという方が、本作について詳しく知るきっかけになったとしたら、非常にうれしいことだ。
≒世界の不毛化された記憶が凝結する地下墓地=ミイラや<死者>の住処
≒社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
≒自己複製子の乗り物(?)
≒相互性の平面の下方に放逐された過剰な欲動の場≒バタイユのいう「呪われた部分」
≒自己幻想の世界=無条件の連帯の肯定も平等も存在しない共同体で自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在=承認の供給不足にある存在
≒権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在
≒仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在
≒植民地化された地域の周縁化された存在=ほかで許されないことが許される別世界=誇大自己を持った者の自尊心の基盤
≒暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象
≒パノプティコン的な匿名の不可視の視線の下で見世物化された監視付き生活を強制されている存在≒近代社会の合理的理性を自称する存在による抑圧的意志の対象
≒生政治的範例
≒排除された後も外での動きも捉えられる存在 ≒日常においては禁止され構造から排除されている部分=構造内で下層に抑圧された者
≒非差異、無差別、連続=差異の抹消=相互暴力状態=怒号と喧嘩の音
≒警察権力が市民生活の内に力を発揮する場=秩序創成暴力の対象
≒一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない
•理想自我=想像界=小文字の他者a=内在的な他者=生物的な世界
≒マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
≒貧しい文化や洗練されていない不自然な表現=モテない存在=影の薄い人
≒掟の門の前で衰退していく棄民=勝手に「悪」とされ共同体メンバーに愛されず衰退していく者
≒状況を自覚していない灰人と知らされている共同体メンバーとの境界線上にいる人
≒「象徴的他者」の位置より一段下の、原始的な対象の位置(想像的なもの、性的慰安の対象)に留めおこうとされた「想像的他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移を拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的な幻想を抱いていた転移の局面と比べてはるかに不安定で、患者の攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態
≒外部の情報が入ってこない<下>に見られた人のいる壁に囲まれた世界の外の世界を知ろうと巨人のいる世界を調査しようとする人
≒他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界
≒暴力誘発性、脆弱性を帯びた存在
≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
≒自己をそれとして措定してくれる言葉をもつ代弁者の探索にとらわれている状態
≒自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係
≒動物のルアーへの反応をモデルにして語りうるような直接的な関係
≒理想化された鏡像として他者の表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き
•自我理想=象徴界=大文字の他者A=超越的な他者=社会的な世界
≒文化の秩序、象徴秩序、言語的秩序としての構造=サンボリック
≒エディプス期につくられる=父、母、子どもの三者関係の中ではじめて成立する一つの小社会
≒掟によって自己中心的な万能感の感覚を否定し、その掟を守ることで成立する秩序と理念をもった世界
≒個々人の欲望や自己中心的な感情を一度克服してはじめて、確立されるような世界
≒自己中心的な個人的な自己愛を一度否定したところから成り立っている
≒万能感を捨てて入っていく世界=個人の実質、個人の存在全体の基盤
≒社会的絆であり、信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約
≒共同幻想の世界=個体保存の欲望と各人のナルシシズムを言語の内に吸収し共同化された世界≒豊かな影を持った存在
≒仲間意識で連帯した世界=倫理的関心を内輪に限定する世界=感情で動く世界=ビオスの世界
≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係や差別や排除がある世界
≒魅力の低い者が客観的な理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界
≒魅力の高い者が客観的な理屈として間違っている事を主張しても容認される世界
≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気や人間関係の網の目に支配された世界
≒掟の門の門番
≒セミオティックの位置にある存在が自我理想を持った対等な「人間」であると主張すると生意気に感じて苛立ち権力や言葉の暴力を振り回し「下」に置こうとする存在
≒「下」に見られた人の過失は吹き散らすが自分達の過失は隠してしまう存在
≒長い例外的状態にある<エス>や<対象a>など存在しないという主権者
≒「小文字の他者a」を対等な人間として文字に残る形式で相手にする必要がないと判断している存在
≒近代国家の一市民の世界=国家の保護の下にある者=権力者側のウチワの情報ネットワークの中にいる存在
≒ネットの掲示板やコミュニティを教育的な豊かな知識を与える場所として使う事が禁止されている世界
≒労働や勉強で生産的な成果を挙げ社会的に評価される事が美徳であるとされる世界
≒人が自分を社会化するために選ぶ標識=名誉の対象=美徳のもとになる秩序
≒人が憧れる、かくありたい存在=モテる存在=小文字の他者aに模倣される存在
≒第三者の審級=規範的な判断の究極的な帰属先=権威を感じ自発的に従おうと思う存在
≒言語的、父権的な中心ないしコード=象徴的父の表象であり、制度であり、掟
•超自我
≒誇大自己に執着した存在=他者を非人間的に判断したりする存在=モラルのない世界
≒法の影=狂った法であり法を無視する=「享楽せよ」という命令
≒集団の「エス」や「セミオティック」の位置にある存在を徹底マークして情報を「自我理想」の位置にある存在に流している存在
≒植民地主義の国家、民族差別を容認する国家、人権侵害を推奨する国家、死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家
≒近代社会の合理的理性を自称する存在=非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁の対象としていいとしてもいいとする存在
•対象a
≒羊抜け
≒現実の領域は対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象aが現実の領域を枠どっている
≒犠牲のメカニズムにより歪められた表現を犠牲者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為を告発する探偵
≒秘密の宝=他者にとっての私に還元されない<私> ≒象徴秩序の外
≒寄る辺ない存在
何とかひねり出した案としては、痴漢への抑止を主にするのではなく、実際に被害に遭った側の心情を表現するのがいいのではないかと思った。誰にも言えなくて自分を傷つけてるようなグログロとした悲惨な心象風景を描いて、そっちの方向で刺しに行くしかないのかなと。
痴漢には興味ないんだけど、逆効果じゃないか?余計に興奮する気がする。
俺の提案としては痴漢専用車両を作ることだな。存分に痴漢できるがスリルが無くてそのうち飽きるだろう。そして最終的に痴漢にも興味がなくなるわけだ。
地元の鉄道駅に貼ってあるんだけど、やめろだとか犯罪だとか一生棒に振るだとか、他人の視点すぎる。痴漢への呼びかけとして全然刺さらない。
性欲に脳味噌乗っ取られておかしくなってる男は、やめろって言われてもやめるわけないし、犯罪だって分かってやってるし、捕まらないと思ってるから一生棒に振るとか想像しないで手を出すわけで。
それじゃどういうのがいいのかと考えたんだけど、全然浮かばなくて。何とかひねり出した案としては、痴漢への抑止を主にするのではなく、実際に被害に遭った側の心情を表現するのがいいのではないかと思った。誰にも言えなくて自分を傷つけてるようなグログロとした悲惨な心象風景を描いて、そっちの方向で刺しに行くしかないのかなと。
ちょっと違った角度から書くと、物語を書く人とアスペって相性が悪いんだよ。
物語っていうのは、“様々に起きてくる事象をある視点から見て関係のある一連の出来事として解釈したもの”という定義が出来る。
たとえば、ここに悲しい人がいました。冷たい雨が降ってます。このふたつは本来関係ない。だって自然現象だし、そんな関係があろうハズがない。しかしそれをある視点から見て、心象風景として演出的に描写する。関係を発見(ねつ造と言っても良い)して物語の1シーンとして組み立てる。
物語を作るには、また、自分の生きてる時間を物語として看取するためには、そういう心性が必要なんだよ。
それに対してアスペというのは、関係性の把握が出来ないとされている。つまり、物語を普段から書いてる人にはアスペを深く理解する事が出来ない(だってじぶんは関係背を把握したり演出したり出来るから)。その上、アスペは物語に大きなストレスを与えるんだよ。彼らは物語の律というものに対して配慮がないから、ある種のウィルスのように物語を破壊する。
もちろんもの書きは「アスペと一緒に暮らす苦労」なんかは、体験すれば理解出来る。一人称の感覚として。でもそれは、異星人と暮らすみたいな話に行き着く。
このへんの相性の悪さがアスペがドラマなんかに出づらい理由じゃないかなあ。
<はじめに>
ヱヴァQが面白く無かった人の中には、どうしてそれが面白く無かったのか、
どうしてあんなに面白く無かったものをありがたがる人がいるのか、を理解できない人もいるかと思います。
(理解した上で嫌悪感を感じる人は本説明の対象外です)
そうした人達に向けてヱヴァQおよび旧作エヴァンゲリオンの面白さと面白く無さを説明してみます。
ただし、これは「説明」なのであって、ヱヴァQはだから面白いよねという「説得」ではありません。
理解できたからといってヱヴァQが面白くなるわけではありません。
<要約>
ヱヴァQはアンチorメタエンターテイメント的な構造=「期待を裏切られる楽しみ」を持っている。
(ここでいう「期待」とは「謎の提示→解決」「話のフリ→オチ」「主人公の苦難→成長」という、従来のエンターテイメントが持つ構造である)
「期待を裏切られたこと」が受け入れられない人は当然つまらなく感じるし、裏切られる楽しみを感じた人は楽しめただけの話。
これについては説明できません。「そう感じる」のだから仕方が無いありません。
ただ、他アニメに比べて単純にクオリティが低かったかどうかで言えばそんなことは無かったのではないでしょうか。
本説明は、こちらに関する説明になります。
通常、お話には各文章毎に意味があり、お話世界の設定を示し、物語が流れ、オチがつきます。
これが普通の「エンターテイメント」です。たとえばミステリを例にとってみましょう。
まず小説世界の設定が示されます。その示し方、というのは作者が見せたい示し方「ある視点からみた小説世界」です。
その世界には「謎」があります。クライマックスで作者は別方向からの視点を持ち込んだり、
視点の位置を変更することによって「謎の解決」をはかります。これがミステリです。
旧エヴァンゲリオンと新ヱヴァンゲリヲンには様々なエンターテイメント要素「純文学的」「SF的」「ミステリ的」な楽しみが入っています。
本論ではミステリとしての切り口からエヴァ群およびエヴァQを読み解きます。
エヴァには謎がちりばめられています。南極で4体いた巨人は何なのか、槍とは何なのか、人類保管計画とは・・・etc。
通常のミステリ系エンターテイメントではこれらの謎には一応の説明=オチがつきます。
謎と回答がセットで用意されていることがミステリ系エンターテイメントの条件なのです。
謎に対する回答が論理的でないことはミステリ系エンターテイメントでは批判対象になります。
では、謎に対して論理的な回答が用意されていればいいのでしょうか。答えは否です。
当たり前すぎる謎への回答は「つまらない、面白く無い、想定の範囲内」としてまた批判対象になるのです。
ミステリ系エンターテイメントの歴史はこの矛盾した期待「筋道が通っているのに予想を外す」に応えた歴史でした。
エンターテイナーは密室を作り、アリバイをでっちあげ、人物を交換し、天狗の鼻の上でナイフを滑らせたのです。
しかし、読者には読書体験が蓄積されます。「密室もの」「アリバイもの」「島田荘司のいつもの」などのように予想は外れにくくなります。
ミステリ系が広まることがミステリ系の楽しみを成り立ちにくくするのです。ここでエンターテイナーはさらに頑張りました。
密室ものと見せかけかけた人物入れ替え(トリックをトリックとして使う)や、
文章を意図的に誤読させることで謎でないと感じていたものを最後に謎であったと提示する(叙述トリック)などです。
「読者の読書体験込み」の謎(トリックを知っている読者への謎)を作ったのですね。
しかししかし、それすらも読者の読書体験に織り込まれてしまいます。「ああ、これは叙述トリックもの」だね、という風に。
こうしてミステリ系エンターテイメントのパターンは全て出尽くしたように見えました。あとは各作家の文章力/味付けだけの世界になったように思えました。
しかししかし、そうではありませんでした。ミステリ系エンターテイナー原理主義者が考えた最後の兵器、最後の謎、それがアンチorメタミステリです。
アンチミステリ、メタミステリとは何か?それはミステリ系エンターテイメントの条件「謎には回答がセットで用意されている」という想定、
「これはミステリだろ、という読者の読書体験を裏切る」ミステリのことです。(読者体験を念頭に=メタ、解決の放棄=アンチ)
ミステリ的に提示された謎は解決、されません。貼られた伏線には何らかの意図があり、背景には脈絡が流れているにも関わらず永遠にそれが明かさないのです。
読者は怒りました。怒り狂いました。こんな本は狂っていると騒ぎ、壁に本を投げつけ壁に穴をあけ、火を付けてさつまいもを焼いたのです。
ただ、一部の読者は壁にめり込んだ本を再度開き、焦げた本を再度繋ぎ合わせ始めました。
何故か?永遠に解決されない謎がとても魅力的に思えてきたのです。
アンチorメタミステリがただの問答無用の「裏切り」だったとしたら、それはミステリでもなんでもありませんでした。
しかししかししかし!アンチorメタミステリはきちんと「ミステリ」でした。何故か?提示されない、収束しないだけで、回答らしきものは「読めた」からです。
作者はデタラメに謎を配置したわけではなかったのです。
謎の配置には意味がありました。完全に繋がっていない謎同士、明かされずぶち切れた伏線から、かすかな破線のような真実の輪郭はかろうじて読めたのです。
一部の読者たちは途切れた伏線をつなぎ、明かされない謎を照らし合わせました。そうしてできた回答は一つではありません。
読者の数だけ答えがありました。いや、読者が考える度に回答が産まれました。
作者の意図は完全にトレースあるいはサルベージできない(ようにつくられている)ため、当然のことでした。
本を拾いあげた読者たちは各々、自分の回答について話合いを始めました。そうしてまた、新しい回答群が産まれたのです。
それは他のアニメにも言えることかもしれません。ですがエヴァは思いつく限り全部入り、ぐらいの要素が入っているのです。
SFとしてのエヴァ、純文学としてのエヴァ、ミステリとしてのエヴァ、キャラ萌えとしてのエヴァ。
それぞれが本格的に作られており、それらが複合的に絡み合うことで色々な読みを許す懐の深いアニメです。
当時、それら本格的な要素を持つアニメとしてエヴァはそれなりに期待されました。
TV放映の途中まで庵野監督は概ねそれに応えていたといっていいでしょう。
しかし、最終的には庵野監督は視聴者の期待をことごとく裏切ります。
TV版エヴァでは最終二話にはエヴァはほとんど登場せず、伏線は回収されず、ただ主人公が救われたという心象風景だけが提示されます。
旧映画版。今度こそ、と期待されたものを再び庵野監督は裏切りました。
復活したヒロインは次の瞬間無惨に食われ、主人公は最後の最後まで成長らしきものをせず、謎らしきもの回答は完全には示されませんでした。
たくさんの視聴者が失望・・・しませんでした。これこそがエヴァだと叫び、糞だ糞だと拍手喝采褒め讃えたのです。
エヴァがいかに糞でその糞が何を描いていたのかについて各々語り始めました。
何故か?視聴者は「裏切られることを予期していた」からなのです。
TV版最終二話でなされた裏切り。庵野監督が持つオタクへの自己嫌悪から発生したと言われるファーストインパクト。
これはうんこでした。ただただ庵野監督がうんこをしたかった。とてもうんこがしたかったことが原因で産まれた巨大なうんこでした。
しかし、これが偶然にもアンチエンターテイメント、アンチミステリの形式を踏んでしまうことになります。
「開示される予定だった真実が巨大な庵野のうんこによって適度に隠される」ことで良質なアンチミステリとなってしまったのです。
デリヘル・ガイナックス♪で嬢呼んだらいきなり罵られた挙げ句勝手に帰ってしまったんだけど、そういうプレイだと思えば良質だったみたいな感じです。
この放置プレイが評判を呼び、放置プレイマニアがこぞって映画館に行ったのですから、文句の出ようがありません。
いや、息子のわがままで映画館に連れてこられた私の家族など、一部、可哀想な人たちがいたことは事実です。歴史の裏にはいつも悲しみがあります。
庵野監督は10年くらいたったから、そろそろうんこ溜まってきたし、うんこしよう。するなら、前回よりもおっきいのを、だ。と考えました。
巨大うんこのために作られたより巨大な謎、セカンドインパクト、それが新劇場版ヱヴァQでした。
序、破は伏線でした。庵野監督は旧エヴァの制作/公開体験を、そして視聴者の視聴体験を利用します。
つまりメタミステリとしてのヱヴァ「第一の裏切り=お、これ、前と違ってまっとうなアニメじゃん!」です。
旧劇では糞が半分読まれていました。
旧劇を超えるためには、序、破、でエヴァが糞で謎を隠す形式のミステリである視聴体験を払拭する必要があったのです。
普通の糞好きに普通に映画館にきてもらっても、もう、庵野監督は満足できない。
訓練された糞好きでも楽しめる、よりアクロバティクなうんこを魅せるとともに、
中年男性がうんこを放り出したとこをみたこともない女子高生にうんこの素晴らしさを伝える、という庵野監督の願い–––––––人類補完計画。
この発動を目的として作られたため、序、破は精巧に綿密にまっとうなエンターテイメントをしていました。
そして、ヱヴァQ。やってしまいました。満を持して登場した監督はヴンダー=希望に糞を放り出す12使途(ネタばれ)として登場。
観客を糞塗れにします。
君の言っていることはほとんど意味が分からないよカヲル君、それどころか肝心なことは何一つ言わないよシンジ君以外のみんな。
これが第二の裏切り=
一人じゃないんだ、と思ってたら「孤独でしたー」
前に進めたんだ、と思っていたら「進めてませんでしたー」
槍でやり直せると思ったら「やり直せませんでしたー」
です。
救われるべきものが救われないアンチエンターテイメント、開示されるべき謎がほったらかしのアンチミステリこそがヱヴァQなのです。
つまらないのは当然なのです。まっとうな反応なのです。面白いとみせかけて面白く無く作ったのですから、面白いわけが無い。当然のことです。
ただ、「期待を裏切るという形式のエンターテイメントが面白さを期待されたら、最終的には<面白いことを裏切る>しかない」んです。
一度は必ず「面白く無いという面白さ」へ行き着いてしまうものなんです。これはもう、ある程度しょうがない。
問題は次回作シン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越されました。
ここできちんと伏線が回収される!と見せかけて回収されない!謎が開示される!と見せかけて開示されない!のか、どうかは分かりません。
アンチ的構造の最終回だったとしても、ある程度、おぼろげながら真実が見える形には仕上げてくるのではないでしょうか、というのが僕の予想です。
ある一つの解を持つミステリは、ネット社会においては瞬時に消費されます。
AはBだったんだ!以上!という情報は急速に読者や読者ですらない人間に行き渡ります。
「なあんだ、Aは結局Bだったのね。あーあれね。昔あったA=B型的カテゴリのやつね」というふうに。
物語の延命をはかろうと思うとメタorアンチミステリの形式をとらざるをえないのです。
読者が謎と真実について語り合うことで新たな謎が生まれ、語りが語りを呼ぶことで物語はかろうじて生きながらえるのです。
だから、今は普通のエンターテイメントにもアンチ的要素は含まれます。
ある物語できちんとオチがつくものの、別の読者を引きつける開示されない大きな謎がシリーズを繋ぐとみえる、などベタな展開ですね。
ちょうど、TVゲームがネットゲームになったことにそれは少し似ているかもしれません。
ゲームの攻略そのものではなく、攻略について語り合い、次アップデートへの期待について語り合うメタな楽しみ。
ラスボスを倒しても終わらないその営みこそがネットゲームの醍醐味です。
エヴァンゲリオン、一体、どうなってしまうんでしょうね、楽しみですね。
こちらからは以上です。