はてなキーワード: 安定剤とは
どうも初めまして。
もう10年近く経ったんだろうか。それでもスタートアップなのか謎だ。
もしかしたら、みんなが見る頃自分はこの世にはもういないかも知らない。なんつって。一生に一回言ってみたかった言葉なんだ許してくれ。
ベンチャーキャピタルとかいう方々にも投資を受けたり、個人名義で借金もした。
組織崩壊して、彼らが信頼していたという人物が競合に入ったりして、社員に脅されたりもしたっけ。
それでも立て直そうと頑張ったんだけど、もう疲れたみたいだ。やる気が一番とかいうけど、本当だな。
頑張ったんだけど、彼等は自分が代表にふさわしく無いというらしい。
かれこれ10回くらい言われ続けて、能無しとか、強みがないとか、投資した俺らがバカだったとか言われてもなんとかやってきた。
融資も何度もやったよ、会社のことしか考えなくて、自分の待遇とかどうでも良かったよ。
色々あって、もう疲れたなって思うようになった。
事業をなんとかする、人に喜んでもらうものを作る、それだけでは投資に値する事業は作れないと実感した。
脅迫された時も、事実と異なること言われた時も全部残してあるんだ。
相談した時も経営者は労働者より弱いから、俺が謝って辞めてもらえって事になったよ。
頭悪くてごめんな。みんなごめんな。
全部メンバーにしかごめんと思わんのは追い詰めたのはベンチャーキャピタルとかいう人らだからという恨みが奥底にあるからだろうな。
でも俺みたいなのに投資してくれたのに申し訳ないとは思ってるんだ。
これは多分自分の人生を、100年をギュッと濃縮したみたいなもんなんだろうな。
色んなことが出来るようになったよ。
生きててもいいことないと思ってたけど、生きなきゃと思えたよ。ありがとう、この10年。
父さん母さんは、出来損ないの俺を少しは誇りに持ってくれるかな。
ベンチャーキャピタルは仕事だからさ、仕方ないんだよ。回収しないと損失になるから。だから半分、苛立つ事もわかるんだ。
でも、追い詰めて追い詰めて、能無しとか信頼できないと言われ続けた先には俺は明るい未来は見れなかったよ。
理由は単純で、その人がいたら他の人が全員パワハラでやめたからだった。俺も病んじゃって、暴力も、モラハラも脅迫もされてたからかな。
そしたら重要人物までやめちゃってさ、そいつの事ずっと庇ってきたんだけど逆に「こいつ(俺)のせいです」って言われてしまった。
もしかしたら俺が見てる世界が別で、本当は俺は極悪人でサイコパスなのかなって今でも思ってる。
なんとか組織を立て直した矢先、みんなで少しずつ改良してきた時に、信頼してる人に裏切られてとある取引が無くなった。そこからまた俺の存在意義はない、とずっと言われ続けた。
確かに…俺のせいもあるだろうしな。俺が生きてるからダメなのかなと思った時に目の前が真っ暗になってぶっ倒れた。
気がついたら号泣して気を失ってたわ。
という事で、俺は逃げたいと思ったんだ。
どうもすみません。俺の存在が毒だと言い続けてくれたから、踏ん切りがつきました。
ただ、何がしたかったのかはよくわかりません。
思いつくとしたら、俺を潰したかったとかですかね。
憎かったですかね?すみません。
ここまで来ると疲れて、他の人に対して怒りとか責めるとかなくなるんだなって思うけど、他の人にはあまりしないであげてほしい。
パワハラとかモラハラとかじゃないって思ってるかもしれないけど、存在価値無いと言われ続けたらそれはもうね笑
もし、俺の事が界隈で少しでも傷跡として残せたらいいなぁ。
では。
どうも初めまして。
もう10年近く経ったんだろうか。それでもスタートアップなのか謎だ。
もしかしたら、みんなが見る頃自分はこの世にはもういないかも知らない。なんつって。一生に一回言ってみたかった言葉なんだ許してくれ。
ベンチャーキャピタルとかいう方々にも投資を受けたり、個人名義で借金もした。
組織崩壊して、彼らが信頼していたという人物が競合に入ったりして、社員に脅されたりもしたっけ。
それでも立て直そうと頑張ったんだけど、もう疲れたみたいだ。やる気が一番とかいうけど、本当だな。
頑張ったんだけど、彼等は自分が代表にふさわしく無いというらしい。
かれこれ10回くらい言われ続けて、能無しとか、強みがないとか、投資した俺らがバカだったとか言われてもなんとかやってきた。
融資も何度もやったよ、会社のことしか考えなくて、自分の待遇とかどうでも良かったよ。
色々あって、もう疲れたなって思うようになった。
事業をなんとかする、人に喜んでもらうものを作る、それだけでは投資に値する事業は作れないと実感した。
脅迫された時も、事実と異なること言われた時も全部残してあるんだ。
相談した時も経営者は労働者より弱いから、俺が謝って辞めてもらえって事になったよ。
頭悪くてごめんな。みんなごめんな。
全部メンバーにしかごめんと思わんのは追い詰めたのはベンチャーキャピタルとかいう人らだからという恨みが奥底にあるからだろうな。
でも俺みたいなのに投資してくれたのに申し訳ないとは思ってるんだ。
これは多分自分の人生を、100年をギュッと濃縮したみたいなもんなんだろうな。
色んなことが出来るようになったよ。
生きててもいいことないと思ってたけど、生きなきゃと思えたよ。ありがとう、この10年。
父さん母さんは、出来損ないの俺を少しは誇りに持ってくれるかな。
ベンチャーキャピタルは仕事だからさ、仕方ないんだよ。回収しないと損失になるから。だから半分、苛立つ事もわかるんだ。
でも、追い詰めて追い詰めて、能無しとか信頼できないと言われ続けた先には俺は明るい未来は見れなかったよ。
理由は単純で、その人がいたら他の人が全員パワハラでやめたからだった。俺も病んじゃって、暴力も、モラハラも脅迫もされてたからかな。
そしたら重要人物までやめちゃってさ、そいつの事ずっと庇ってきたんだけど逆に「こいつ(俺)のせいです」って言われてしまった。
もしかしたら俺が見てる世界が別で、本当は俺は極悪人でサイコパスなのかなって今でも思ってる。
なんとか組織を立て直した矢先、みんなで少しずつ改良してきた時に、信頼してる人に裏切られてとある取引が無くなった。そこからまた俺の存在意義はない、とずっと言われ続けた。
確かに…俺のせいもあるだろうしな。俺が生きてるからダメなのかなと思った時に目の前が真っ暗になってぶっ倒れた。
気がついたら号泣して気を失ってたわ。
という事で、俺は逃げたいと思ったんだ。
どうもすみません。俺の存在が毒だと言い続けてくれたから、踏ん切りがつきました。
ただ、何がしたかったのかはよくわかりません。
思いつくとしたら、俺を潰したかったとかですかね。
憎かったですかね?すみません。
ここまで来ると疲れて、他の人に対して怒りとか責めるとかなくなるんだなって思うけど、他の人にはあまりしないであげてほしい。
パワハラとかモラハラとかじゃないって思ってるかもしれないけど、存在価値無いと言われ続けたらそれはもうね笑
もし、俺の事が界隈で少しでも傷跡として残せたらいいなぁ。
では。
どうも初めまして。
もう10年近く経ったんだろうか。それでもスタートアップなのか謎だ。
もしかしたら、みんなが見る頃自分はこの世にはもういないかも知らない。なんつって。一生に一回言ってみたかった言葉なんだ許してくれ。
ベンチャーキャピタルとかいう方々にも投資を受けたり、個人名義で借金もした。
組織崩壊して、彼らが信頼していたという人物が競合に入ったりして、社員に脅されたりもしたっけ。
それでも立て直そうと頑張ったんだけど、もう疲れたみたいだ。やる気が一番とかいうけど、本当だな。
頑張ったんだけど、彼等は自分が代表にふさわしく無いというらしい。
かれこれ10回くらい言われ続けて、能無しとか、強みがないとか、投資した俺らがバカだったとか言われてもなんとかやってきた。
融資も何度もやったよ、会社のことしか考えなくて、自分の待遇とかどうでも良かったよ。
色々あって、もう疲れたなって思うようになった。
事業をなんとかする、人に喜んでもらうものを作る、それだけでは投資に値する事業は作れないと実感した。
脅迫された時も、事実と異なること言われた時も全部残してあるんだ。
相談した時も経営者は労働者より弱いから、俺が謝って辞めてもらえって事になったよ。
頭悪くてごめんな。みんなごめんな。
全部メンバーにしかごめんと思わんのは追い詰めたのはベンチャーキャピタルとかいう人らだからという恨みが奥底にあるからだろうな。
でも俺みたいなのに投資してくれたのに申し訳ないとは思ってるんだ。
これは多分自分の人生を、100年をギュッと濃縮したみたいなもんなんだろうな。
色んなことが出来るようになったよ。
生きててもいいことないと思ってたけど、生きなきゃと思えたよ。ありがとう、この10年。
父さん母さんは、出来損ないの俺を少しは誇りに持ってくれるかな。
ベンチャーキャピタルは仕事だからさ、仕方ないんだよ。回収しないと損失になるから。だから半分、苛立つ事もわかるんだ。
でも、追い詰めて追い詰めて、能無しとか信頼できないと言われ続けた先には俺は明るい未来は見れなかったよ。
理由は単純で、その人がいたら他の人が全員パワハラでやめたからだった。俺も病んじゃって、暴力も、モラハラも脅迫もされてたからかな。
そしたら重要人物までやめちゃってさ、そいつの事ずっと庇ってきたんだけど逆に「こいつ(俺)のせいです」って言われてしまった。
もしかしたら俺が見てる世界が別で、本当は俺は極悪人でサイコパスなのかなって今でも思ってる。
なんとか組織を立て直した矢先、みんなで少しずつ改良してきた時に、信頼してる人に裏切られてとある取引が無くなった。そこからまた俺の存在意義はない、とずっと言われ続けた。
確かに…俺のせいもあるだろうしな。俺が生きてるからダメなのかなと思った時に目の前が真っ暗になってぶっ倒れた。
気がついたら号泣して気を失ってたわ。
という事で、俺は逃げたいと思ったんだ。
どうもすみません。俺の存在が毒だと言い続けてくれたから、踏ん切りがつきました。
ただ、何がしたかったのかはよくわかりません。
思いつくとしたら、俺を潰したかったとかですかね。
憎かったですかね?すみません。
ここまで来ると疲れて、他の人に対して怒りとか責めるとかなくなるんだなって思うけど、他の人にはあまりしないであげてほしい。
パワハラとかモラハラとかじゃないって思ってるかもしれないけど、存在価値無いと言われ続けたらそれはもうね笑
もし、俺の事が界隈で少しでも傷跡として残せたらいいなぁ。
では。
そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。
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5歳の頃、家族旅行でアメリカへ行った。国外へ旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験。
私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。
幼稚園はキリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。
先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たちに理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書を記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学の概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。
でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。
先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。
前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」
小学校の頃は全く覚えてない。
英語と音楽と国語だけできた。でも国語の担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。
英語は楽しかった。小さい頃漠然と定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論と知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。
音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノのソロパートを担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽の先生は卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。
「お嬢さんが音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。
周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップでビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメの情報を共有してみたかった。
彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。
家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。
正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜は没収された。
ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。
少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。
私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日は友達とお出かけをしたい。バレンタインは友達とチョコレートの交換をしたい。
ことごとく跳ね除けられた。
おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校にお菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノの練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノの習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃんと練習してよ。
そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。
ちなみに上記の言葉を言われた後で私は一度だけ地域のお祭りに友人と行ったことがある。
一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノの練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。
…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。
高校は私立女子校に入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。
周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。
街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。
ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけが幸いである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。
その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである。
英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。
音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノの習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃんと練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノの先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノの技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。
必死で勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったから絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望の希望通りの学科。
高校生の頃(というか小学校中学校から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。
何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。
同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。
でもこれだけは断言したいが「明日の屋根を心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。
「7時半には返って来れるでしょ」
つまり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。
あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。
遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。
少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールしたかったのだ。
その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。
あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。
私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。
その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。
少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。
当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニのアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。
さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。
母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。
そしてその友人は彼氏になった。
彼から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分に証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。
しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。
きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白に同意した。
彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。
その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。
私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。
母は私から家の鍵と財布の金、銀行のカードを没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行のカード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)
母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホのGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。
彼は「気にしてないよ」と言った。
私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。
彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。
その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。
「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識の傲慢だった。
「救いたい」と言った彼は、きっと人間が人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者の立場の人間が他人を救えるのなら、今頃イエスキリストも聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典も聖典も要らない。でも世界にはそういうものが存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。
私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。
彼氏の母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。
「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」
…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉は一種のネタとして消費されたらしい。
私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。
追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中の刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。
結局、私は彼と別れた。
彼は普通の家で育った普通の人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまったことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。
それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。
どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。
感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。
指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。
ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)
仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証と現金を没収した。よって私は途中で治療が止まっている。
ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲームは自分のスマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)
うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。
衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)
さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。
翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。
「関節炎の湿布」
この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。
手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。
そもそもコンビニのアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。
それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。
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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。
出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たちが電車で行ったと思っているが。
私は彼が運転する車に乗って遠出した。
帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。
私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。
その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。
まだ私が早朝6時のバイトのシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出の時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。
ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。
そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。
変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。
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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。
家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。
幸せになりたいな、と思う。
でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい。
そもそも私はいまだに感情の生成についての問題を解決していない。
たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。
でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分で自分の母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分の未来だと思う。
男性と結婚している女性です。配偶者は40代前半、私は50代前半です。地方都市在住です。私は地元ベースの大企業の役職者です。
配偶者は大学卒業時に就職活動をせず(できず)、しばらく親元でアルバイト等をしながら生活していたが、何かのきっかけで学生時代の友人の住む私の地元に移り住み、そこで私と出会いました。私と出会った時は飲食店の店員でしたが、それまでコールセンターや大工見習いなど様々な職を転々としていたようです。
彼は、勤務先の飲食店の閉店を機にプラント管理の仕事に就き、その後しばらくして私たちは結婚しました。
結婚生活のためもあったのか、プラントでは約10年間勤めましたが、仕事の内容や人間関係は当初から不満だったそうで、ついに先日退職してしまいました。
その時に辞めるの辞めないの、辞めるにしても次の仕事を見つけてからにするのしないのと散々大騒ぎしました。
彼の場合、大騒ぎというのは世に聞くような暴力や大声に訴えるのではなく、とにかくこちらが弱るまでメソメソした上で、あらゆる決断を私の責任にするという手法です。
我が家の場合、私の方が収入が高いのですが、私は家計の管理が苦手ですので、彼に通帳を預けていますが、頑なに私の通帳からお金は使わず、全て彼の収入で家計が賄われています。
その金銭負担のために嫌な仕事をメンタルがやられるまで10年も続けた(のは私のせい)、と。
また、私は幸い仕事に恵まれて楽しく働いているので、その感覚で、(まったく働かないのも退屈だし、一回無職になると次の仕事を見つけるのが大変と聞くから)次の仕事が決まってから辞めたら、と言ったら、次の仕事が見つからないから辞められない(私が辞めさせてくれない)、こんなに辛いのに!と、執拗に責められました。
そうこうする内に幸い新しく彼を受け入れてくれる会社があり、彼は転職しました。今度は小規模な製造業で、ベテランの女性の多い職場のようです。
それから1月あまり、仕事もまだ覚束ない中、ベテラン女性先輩のあたりがキツいとのことで、あっという間に再度メンタル不安定に陥ってしまいました。
仕事の段取りが上手くいかないのは時間が足りないだけで仕方がないし、仕事が身につきさえすれば、ベテラン女性とは手のひらを返したように懐いてくるもの。だから時間が解決してくれる、と私が一回遺留したばかりに、毎日帰宅後はため息をつき続けるか、声が出ないと言って小声でつぶやき続けるか、(ロボット調の)変な口調で敬語で話し続けるか、たまには泣くなどして、私のせいで嫌な仕事を続けていることを思い知らせて来ようとします。
(根負けして)あなた(彼)の健康が一番大事だから、辞めたかったら辞めて,嫌だったらもう明日から行かなくてもいいから、と言っても、もう言い出すタイミングを逃したから、と。
本人は本当に辛いのだろうと思いますし、私は彼の力になりたい。でもやりたいようにやってもいいよと言っても、やりたいことがわからない、私が決めた通りにしたい、と言う。私も私で性懲りもなくこうした方がいいんじゃない?ああした方がいいんじゃないと言いたくなってしまう。そして、私が言った通りにしたらこんなに不幸だ、生きている意味がない、の無限ループです。
彼の「弱り」の表現があまりに多彩で巧みにこちらを削ってくるので、「弱り」の表現で相手をコントロールできるという成功体験からその技術を磨いてきたからなのではないか、とふと感じてしまいます。
彼は転職活動以来,別の症状で通院している内科から安定剤をもらって服用しています。カウンセリングや精神科を受診した方がいいのかと考えているようですが、自分では行けないと言うので、私の職場のメンタル相談で、適切な受診先を教えてもらおうと思います。
最近今までに経験したことのない身体の痛みに襲われて、病院に行っていろいろ調べてもらったんだけど結果はいたって健康ということがあった。
で、まあ、こういう場合の常套手段なのかもしれないけど、「ストレスと睡眠不足だと思う」という結論で気休めの安定剤みたいなものを処方してもらった。
これを家族に言ったら「あなたはすぐに何でも溜め込む性格だから」って言うわけ。「もっと愚痴を言いなさい」って。
でもさ、愚痴って言うの難しくない?
そもそも自分は友達とか家族とか同僚とかの愚痴を聞くのもあんまり好きじゃないんだよ。
暇で暇でどうしようもないときには「大変だね」って言ったり共通敵の文句とか言って盛り上がったりするけど、基本的には聞いてて楽しいものじゃないし、それならもっとお互いが楽しい話しようよって思う。
だからすげーむかつくこととかがあって、誰かに話したいって思っても、これを聞かされた誰かを嫌な気持ちにさせることになるって思うから言えなくなる。
こういうことがあって、むかついたんだよね!って言って、へえ、大変だったね、むかつくねって返してもらって、自分は楽になっても相手は楽しくはないわけじゃん。
そうすると結局溜め込むことになるわけで。
ああ、こういうときに壁打ちの鍵垢とか使うのか。でもそれはそれで読み返したときに自分の汚さに嫌になりそうだな。
【追記】
少し前からその友人と会うと、帰ったあとどっと疲れてしまい、体調がとても悪くなります。
じゃあ会わなきゃいいだろうと皆様は思うと思うのですが、同人イベントのジャンルが同じ、そして住んでいる県も同じなので、イベントで会ってしまいます。
しかもお互い創作勢なので絶対に顔を合わせることになります。せっかく好きなことを表現できる創作の場。人間関係で揉めたくないし、気まずくなりたくないです。
イベント以外では会うことを極力避けているのですが、友人は私のことが大好きで、「もっと遊びたい」「旅行に行こう」「合同で作品を出そう」「やっぱりお前と遊ぶの楽しいわー!」と言います。
精神的にこたえることが多いので、忙しいとやんわり断ってはいるのですが、それでも会いたいと言ってきます。
でも、会ったら会ったで友人はずっとスマホを触っていて、私の話もほとんどうわの空。返事も適当です。
友人の話は誰かに対する愚痴が多いのですが「それは友人が悪いのでは…?」と思うことがほとんど。
そして思ったことをきつい言い方で伝えるので、飲食店の店員さんにも態度が良くなく、びっくりすることが多いです。
空気が悪くならない程度に伝えると、「だって!仕方ないじゃん!」「私は悪くない!」の一点張りで聞く耳を持ってくれません。
本人に悪気はないのですが、言い方がきついし声も大きいので相手に申し訳ないし、私自身辛くなってきます。
言い方がきついことも指摘したのですが、「自分が言い方きついと思ってないからどこを直せばいいかわからない。何を言っているかわからない。」とのことでした。
そのほかにも大きな声でイベントの文句を言う、雰囲気の良い静かなお食事処で大きな声で会話&頬杖ついてずっとスマホいじり…等あって、正直もうお手上げです。
電車で大きな声でヲタ話をする、私が好きなキャラクターを見せたら「誰それオカマじゃん!」と言うなど色々きついです。
年に4回ほどのイベントがなければこちらからフェードアウトしているでしょう。
友人は様々なグループと揉めてしまうようで、揉めるたびに友達が少なくなり、今では私だけのようです。
学生の頃は「言い方がきついなあ」と思い、指摘するくらいでしたが、社会人になってから価値観が合わなくなり、一緒にいると苦しくなります。
もう無理だと思ったのは、とある人に対して友人が「心療内科行けよ(笑)」と言ったことです。
私がパワハラとセクハラで心療内科に行って闘病しているのを知っているのにそんなこと言うんだ、と。
本当に私のこと好きなのか?私の性格の都合の良い部分だけ啜ってそう言っているのか?
私のことを本当に好きだと思うのなら、私が言われて嫌なことは少しは想像できるのでは?と思ってしまいます。
そしてこの件は心療内科に通って頑張って生きている別の方や良くしてくださる先生のことも馬鹿にされた気がしてショックでした。(これは私の被害妄想かもしれませんね)
友人とは、イベントだけの付き合いだと思って割り切るしかないのでしょうか。
ただでさえイベントでは色んなことを考えなければならないのに、このことで悩みたくないです。イベント楽しみたいですし。
方法としては
①イベントだけの付き合いと思って極力割り切る
②いつものように「私は悪くない!」と言われる可能性は高いが、嫌なことは嫌とやんわりでも伝える
くらいしかないのでしょうか。
友人を思い出すたびに動悸がして、もやもやして、息が苦しくなり頓服の安定剤を飲みました。今はだいぶ落ち着きましたがどうしても吐き出したかったのでこちらに書きました。
本当は仲良くしたいですし一緒にいて楽しいと思うことも少しはあるのですが、帰宅したあとどっと疲れて泣いてしまいます。
皆様ならどうするのでしょうか。
本当に辛いです。
どちらかというと障害者雇用の賃金が低すぎる事の方が問題なんじゃないかなって思う
https://www.businessinsider.jp/post-198046
「ケツ蹴飛ばすぞ」「もう来るな」
上司から強い叱責、パワハラを受けるたびにトイレの個室に駆け込み、安定剤を飲んだ。職場の机で飲めないのは、もし同僚に何の薬かたずねられても答えられないからだ。
上司の言葉に、Aさんはただうつむくしかなかったという。また別の日は女性の同僚が、低価格の飲食店が並ぶ「せんべろ」エリアのことを、「いかにも手帳持ってそうな人が歩いてて」と笑いながら話していたこともあった。
「私も手帳持ってるんだけどなって。精神障害者に対する差別や偏見の根深さに、とてもショックでした。福祉の仕事についている人たちですらこの認識なのか、と」(Aさん)
Aさんは都内の私立大学を卒業後、大手メディアに入社。約10年間、記者として働いたのちに退職し、その後は非正規の職を転々としてきた。
仕事帰りに呼び出されてヘトヘトになって実家に帰ったら家族全員が深刻そうな顔している。
告げられたのはやはり兄がまた病気になった、という話だった。今度も癌だそうだ。
兄は特段体が弱いわけではない。
だが、何故か大病ばかりする体質だ。
身バレする可能性が高いので病名は詳しく書けないが、兄は高校の時に難病になった。そのせいで高校は退学せざるを得なかった。兄の必死に治療する姿と、両親から「兄に比べてお前は恵まれているんだから頑張りなさい」と何度も何度も言われたことが印象に残っている。
数年かかったが幸い兄の病気は寛解した。兄は向学心が旺盛なので大学に行きたいと言い、通信制の高校に通うことを決意した。兄が治療している間、俺は普通の高校に通い、親からのプレッシャーを受けつつも大学合格し、兄より先に大学生になった。
兄が通信制の高校を通い始めて暫くして、兄に癌が見つかった。腹を切る手術を受けないといけないと言われたため、兄はそれに従った。両親は何で兄ばかりが、と言って「お前は大丈夫だろうね?」と通帳を見ながら俺に尋ねた。多分金がカツカツということだったんだろう。
無事兄の手術は終わり、兄は高校を通い終えた。
だが今回の影響で大学受験には間に合わなかったため、来年大学受験に向けて頑張る、と言った。両親は病気にも関わらず懸命に頑張る兄に感動して、いくらでも金は出すから頑張りなさいと言った。俺には金の心配させたよな?と自分は言いたかった。
大学受験前に受けた兄の健康診断で、別の病気が見つかった。これも身バレするので書けないが、また手術と治療をしないといけないとのことだった。兄は流石に堪えた様で、鬱っぽくなり安定剤を飲むようになっていた。まぁ自分が兄の立場なら分かる。両親も安定剤を飲むようになった。両親は兄と連動するなよ。
俺は早々に大学を卒業して就職した。当たり前だが兄の治療費で家に金がないからだ。実のところ色々勉強したかった。研究したかった。教授にも勿体ないと言われたくらいだ。だが俺が少しでも家に金を入れないと危うかった。
兄は無事手術が終わり、治療フェーズに入った。今回の病気が治るにつれてうつ病も治っていった。両親は俺に「お前は恵まれているから頑張って働きなさい」と毎日言われ続けた。昇給が決まった時、当たり前に一人暮らしを選んだ。うつ病の兄を残すのは心苦しかったが、正直俺も限界だった。両親は決まった金額を毎月送金する事で渋々納得した。
治療が終わる間際、兄はまた大学に行きたいと言い出した。金ないんだから諦めてくれ、と俺は言いたかったが、本音を言えば俺も大学に残りたかったし、勉強したい気持ちは理解できた。両親はめげない兄に感動し、二つ返事で了承した。俺が送金する金額は増えた。兄の学費のためだそうだ。
兄は頭が良い。キチンと勉強をして、俺よりも良い大学に入ることができた。俺は素直に喜んだ。言い忘れていたが別に俺と兄は仲が悪くない。寧ろ兄は俺を幼い頃から可愛がってくれた。小学生の時に両親に秘密でゲーセンに連れて行ってくれたことを思い出す。少ない小遣いを貯めて俺にゲームを買ってくれたこともあった。うつ病の時は滅茶苦茶大変だったけど。
で、先日起きたことが冒頭の件だ。兄はまた癌になった。ようやく大学にも慣れて、歳は結構違うが大学でも友人ができて、頑張っていこうとした矢先だった。
何で兄ばっかりこうなるんだ?と言う憤りと、また俺の色々な負担が増えるのか、と言う嫌気と、純粋に病気ばかりする兄への憐憫と、俺に精神的な負担をかけまくる両親への怒りがごちゃ混ぜになって、突いて出た言葉が「もういい加減にしてくれ」だった。言ってはいけない言葉だったとすぐに理解したが、それより早く父親に殴られまくった。母親は泣いていた。兄はやばそうな目つきでどこかを見ていた。
俺は友人が少ないから分からないんだが、世の中の人ってこんな病気するもんなの?両親と俺はムカつくほど健康だけど?兄は常時デバフか呪いでもかけられてんの?間接的に俺が影響受けてんだけど?
どうすりゃいいんだろうな。本当。もう訳わからん。
因みに俺は職場の健康診断で一個引っかかって早急に病院に行けと言われたが、こんな状況で行ける訳がないので放置している。もう知らんよ本当に。
20代の頃、仕事中に目がかすむ症状がでました。その日の帰宅中のバスの中で視界が急激になくなり、バスから降りて「これはやばい、どこかに連絡しなきゃ、救急車、家、」と考えていたら、思考と身体が一致しなくなりました。
声も「あー、うおー」としか出ず、立っていられずに道端のポールに倒れかかっていたところ、通行人の方が救急車を呼んでくれました。
運ばれた先では、医師の言っていることは分かるのに口からは「あああ、あああ」としか発することができず、視界は完全になくなり、こちらの意思を伝えることができません。
見た目ではパニック状態と判断されたのか安定剤を飲ませてもらいましたが、水が飲み込めず錠剤ごと口から漏れてしまいます。
数時間ほどベッドに寝かされていたら視界が開けてきて、喋ることもできるようになりましたが、頭がチカチカする感じと目の焦点が合わない状態が数週間続きました。
後日精密検査を行ったところ、身体や脳に異常はみられないが「一過性脳虚血発作」の可能性があるということでした。この病気の予後自体は悪くないのですが、脳梗塞の予兆でもあるので注意が必要だそうです。
生理前になると情緒が不安定になり、毎晩訳もなく辛くなって苦しくなって泣いたり、今死ねば周りに迷惑にならない…と考えてしまい安定剤を飲んだりして嵐が過ぎるのを待っている。
この間は子供に何か「イヤ」と言われるだけで全てを否定されたような気持ちになり「そっかー、じゃあママが死ねば満足だねっ」となってしまうし、実際に子供に問い詰めたこともある。
生理中は通常と変わらない労働をしていても激しい疲労感に襲われ、家に帰る頃にはぐったりして子供と話すことすら億劫になる。
また、ちょうど家に帰るタイミングで服用しているコンサータが切れるのでその反動の疲労感も来るのでいつもの倍以上に疲れている感じがする。
とにかく生理前・生理中は育児ができないと言うほど精神がおかしくなるし、身体も辛い。
ピルは服用していたけど、経血量が減って生理期間が短るなるだけで精神への効果ゼロ、身体の負担8割減という感じだった。
ただピルを服用してから肝斑ができてしまい、個人的にそれがとてもショックであまり飲みたくない(レーザーでも消せないし、本当にどうしたら肝斑って消えるの?)。
既にADHDで心療内科には通っており、安定剤などは貰い、先生にも相談している気がする(診察時間が短いので何を話したかよく覚えていない)。
婦人科への通院はしていない。田舎なので近所の産婦人科が2ヶ所しかなく、そこへ市内の人が集まる感じになっており、どうしても妊婦さん優先になって診察までものすごく時間がかかり、予約をしても2時間待ちなどがザラだったりしてその間子供を連れて待つというのを想像するとゾッとするので行きたくないという気持ちが強い。
安定剤を十分に用意して思い切って歯医者にチャレンジしてきました。
ところが待合室で待ってる最中になんだか動悸がしてきて
♪どーきどきどきどきどきどきどきどき…君の銀歯が!!
という感じになり施術開始直後に無念のギブアップ帰宅と相成りました。
優しい歯医者さんなのが本当にありがたい…
大丈夫な時は全然平気なのでホント自分でもトリガーが謎なんですよね
終わるまでじっとしてないといけない!口弄られるから呼吸が乱れそう!みたいな強迫観念があるのかも
まあ体調万全にしてまたリベンジ頑張りたいと思います(虫歯あるの嫌だし)
精神科、心療内科、臨床心理士のカウンセリング、民間カウンセラー、産業保健師と渡り歩いて悟ったことがある。
当方は双極性障害もちの看護師だが、精神科で処方される薬はなんせ「死ねる」薬が多い。
だいぶ処方がマイルドになってきたにせよ。
そして「いっぱい飲んだら死ねるかしら」という輩が後を絶たない。
どんな薬にも致死量はあるだろうが、例えば循環器や泌尿器科で出される薬を飲んで死のうとした、
という話を聞かない。
向精神薬にしろ麻薬にしろ、脳に作用する薬には強い規制がかかっている。
ドラッグストアで購入できる薬も、以前は処方薬であったものがどんどん増えているし、
しかし、向精神薬だけは別である。最も弱い安定剤でさえ市販はされていない。
を内服は多めにもらって自己調整している、という人も実に多い。
つまるところ、精神科、心療内科は「ヤバいブツを販売する場所」なのだ。
仕事を辞める際、多重労働や人間関係の辛さが原因だったとして、
こうした場合、精神科で「抑うつ」「適応障害」などなんでもいいので診断書をもらい、
この場合、会社へは一身上の都合とだけ伝えておき、退職理由を会社と争う必要はない。
形のない労災やパワハラを会社に認めさせるのはほぼ不可能だけれども。
辞めるまでいかなくとも、「明日から2週間ぐらい仕事いけません」のような診断書はわりとさっくり出してもらえる。
精神科や心療内科への通院歴はスティグマにもなりうるが、自分の身を救うこともある。
「ヤバいブツを7割引きで販売してくれるところ」「身を守るお札を書いてくれるところ」と割り切って、
賢く利用するのがよい。
クリニックではなく大きな精神病院には良い臨床心理士がいたりするが、
そういった人の援助を受けられるのは、取り返しのつかないほど心を壊した後だ。
残念だけど。
精神科、心療内科、臨床心理士のカウンセリング、民間カウンセラー、産業保健師と渡り歩いて悟ったことがある。
当方は双極性障害もちの看護師だが、精神科で処方される薬はなんせ「死ねる」薬が多い。
だいぶ処方がマイルドになってきたにせよ。
そして「いっぱい飲んだら死ねるかしら」という輩が後を絶たない。
どんな薬にも致死量はあるだろうが、例えば循環器や泌尿器科で出される薬を飲んで死のうとした、
という話を聞かない。
向精神薬にしろ麻薬にしろ、脳に作用する薬には強い規制がかかっている。
ドラッグストアで購入できる薬も、以前は処方薬であったものがどんどん増えているし、
しかし、向精神薬だけは別である。最も弱い安定剤でさえ市販はされていない。
を内服は多めにもらって自己調整している、という人も実に多い。
つまるところ、精神科、心療内科は「ヤバいブツを販売する場所」なのだ。
仕事を辞める際、多重労働や人間関係の辛さが原因だったとして、
こうした場合、精神科で「抑うつ」「適応障害」などなんでもいいので診断書をもらい、
この場合、会社へは一身上の都合とだけ伝えておき、退職理由を会社と争う必要はない。
形のない労災やパワハラを会社に認めさせるのはほぼ不可能だけれども。
辞めるまでいかなくとも、「明日から2週間ぐらい仕事いけません」のような診断書はわりとさっくり出してもらえる。
精神科や心療内科への通院歴はスティグマにもなりうるが、自分の身を救うこともある。
「ヤバいブツを7割引きで販売してくれるところ」「身を守るお札を書いてくれるところ」と割り切って、
賢く利用するのがよい。
クリニックではなく大きな精神病院には良い臨床心理士がいたりするが、
そういった人の援助を受けられるのは、取り返しのつかないほど心を壊した後だ。
残念だけど。