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はてなキーワード: ヱヴァQとは

2018-10-28

ヱヴァQ

庵野が辞めるの考えるくらい叩かれたって言っててめちゃくちゃビビったんだけど、他意は無いけど叩いていた人がヱヴァQに何を期待していたのか気になって眠れない

戦艦のシーンは自分も嫌いだけど、どこに叩く要素があるんだ?

2018-01-27

anond:20180125105759

榎戸脚本作品全部観てないクソ雑魚エヴァを引き合いに出してる時点で0点。

スタドラはヱヴァQにすらキャラクター引用されている作品だし増田ダリフラ以前にエヴァを引き合いに出す資格すらない。

2016-10-08

山本弘シンゴ感想シンジ君の罪

http://hirorin.otaden.jp/e437747.html

庵野総監督はこの映画を、右にも左にも偏向しないように配慮して作っている。露骨イデオロギーなんか入れたら作品がつまらなくなると分かっているからだ。

なのに、何でわざわざ偏向した意味をつけ加えなきゃいかんのだ。

つーか、怪獣映画をそんな観方して面白いの?

シンゴジ公開当初からよくこういう意見が聞こえるけどさあ、

3.11を模写した時点でそういう観方で見られるのは当然でしょ?としか思えない。

まして消費者目線でそんな意見聞きたくないというのはまだいいんだけど、創作者がそれを言うのはあまり無責任じゃないか

「作者の意図」のとおりに作品を読み取ることを観客に強要するのってただの怠慢じゃん。

大体「怪獣

これは自分作品づくりに関わる人間の端くれだから切に感じるけど「作品」ってのは「作者そのもの」じゃなくて「作者の子供」。

親の意図を超えて勝手にいろんなことを語りだしてしまう。

それを分かったうえで「好きに」作品を作ったのだから、それを見てどう思われても、それは受け止めなくちゃいけない。

ヱヴァQシンジ君の罪っていうのはまさにそういう性質のもので、

そんなつもりは全くなくても自分作品(=エヴァ)で世界を滅ぼしかけてしまったら、それはやっぱりどうしようもない自分の罪。

現実には世界を滅ぼすようなことはないか勝手な勘ぐりをされる程度なわけだけども。

それは辛いことかもしれないけれど、それでも残したい意志があるから作品を作るわけだし、

一方で意図しない希望見出してくれる人だっているかもしれないわけじゃないですか。

俺は庵野が実際どう思っていようが、旧エヴァから強い勇気をもらっているし、富野がどう思ってようとVガンは面白いと思うわけで、

それが創作物可能性ってやつであり、作品を作ることの社会的意義でしょう。

結局怪獣映画として楽しむためだけに作られたものだというのも一つの観方にしか過ぎないし、

そこでイデオロギー的な観方をする意見だけを否定するのは創作者の姿勢としては懐が狭いと言わざるを得ないよ。

2016-08-19

シン・ゴジラをみて思い出したようにヱヴァQ批判を始める人、全然違うものを観てるんじゃないかビビる

Qや巨神兵で描かれてる内容が今回のゴジラ存在下地になっていることなんて、何も考えなくても観たら感じるだろうに

2016-05-26

同じ映画を何回も繰り返しみるということ

ガルパンキンプリでようやく理解が広まった

ヱヴァQ10回観た俺のことも受け入れてくれるね

2016-02-20

http://anond.hatelabo.jp/20160220014437

 仰りたいことは分かります

 そのうえで言い得て妙だと思った加藤ヨシキさんのツイート引用します。

>「王様は裸だ!」と指摘するのは良いと思うんですが、「王様は裸だ!あの小さなチンポを見ろ!あれじゃ奥さんも浮気してるに違いないぜ!」まで行くと王様も怒りますし、なんなら奥さんも怒りますし、周囲もなぜそこまで言うのかと思いますよ。その辺の常識礼儀大事にしていきたいです。(https://twitter.com/DAITOTETSUGEN/status/699594948023181314

 どこの世界でもそうですが、ニワカは古参に叩かれます文壇スポーツ音楽ゲーム仕事も。先達に比べて知識量のない人が偉そうにしているのは、鼻につくものです。でもね、ニワカが罪を犯しているのかというと、そうではないと思うのです。

 誰を傷つけたわけでもない。知識がないだけでアホ呼ばわりされて叩かれるのは、やはり不当で止めるべき悪習だと自分は考えます。(腹が立つのは仕方のないことなので、出来るだけそれを外に出さないよう心がけたいと思っています

 映画を羅列する意味についても、大本記事には「私を構成する9枚のCD」という企画を読み、それに着想を得たとあります。羅列に意味はないとしても、実際に彼は羅列を面白いと感じ、それで記事を書いた。それは好みの問題に過ぎません。(パク……インスパイア問題はあるかもしれません)タランティーノもよく映画ランキング作りますが、世界中ファンがそれを待っています。年間200という数字が、タランティーノ存在同様の重みを持つかどうかは、それぞれの読者が判断することです。

 アクセス数云々も「彼には認められる記事が書けなかった」という意味使用した表現で、記事存在意義問題にするのなら「彼には意義ある記事が書けなかった、以上」というつもりで書いたものです。分かりにくかったら申し訳ない。

 興行作品である映画は、観客に受けるような工夫が(当たるかどうかは別にして)散りばめられています玄人好みのものと、一般層に向けてのものはあるかもしれません。世間的に受けたとは言いづらいヱヴァQですら、スタッフロールに入った劇場内に立ちこめるポカーンとした雰囲気に「エヴァはこうじゃなくっちゃ!」とワクワクした人(悪いファンかもしれませんが)もいます

 表現規制の話とかでもよく出てくる話ですが、名作を排出するためには、ピラミッド的に数多くの駄作を必要とすると自分は考えています。多産とクオリティは比例の関係にある。ファッション映画が増えたからといって、名作が駆逐されるわけではないと自分は思いますジャッキー・ブラウンがそうだったように、ファッション層ってすぐ離れちゃいますしね。ファッション的な映画がって、増えればすぐさまダサくなるし。(ホイチョイ製作映画も廃れました)カウンターカルチャーはそういう土壌で出てくるので、良い映画が無くなってしまうことはないと自分は思います

 表現の自由について論じたいわけでもなく、「老害になるのはよそうぜ」って自戒を込めて言いたいだけなんです。感じたことを書くことは自由で、だから自分感想を書いているわけです。(『高知名度の漫画ドヤ顔で薦めてくる男たち』までくると「分かるわー」としか思えないんですが)

 なのであなたが(なのかな?よく分からなくてすみません)そうなさったように、「自分はこういう記事の方が面白いと思う」って記事を書くのが、よりスマートクリエイティブで良いと思うんです。でもそれにハリーハウゼン名前も出てこないアホが……って言われるのはイヤじゃないですか。その名前を出さな理由だってあるかもしれないし。

 より良いものを出せばいい。その方がかっこいい。他人を貶める必要は無いと思うんですよ。

 と自分はやっぱり思うのです。世の中そんなもんでしょというのも分かるけど、やっぱりそれは変だと思うのです。前に書いたのと主張はほとんど変わらないから蛇足だし、理解し合えるとは思わないんですけど、書かせていただきました。

 あと話は移ってしまうんですが、「キル・ビルが駄目な人」ってのが自分ドンピシャで(文章からそういうにおいがしたんでしょうか?)、あれの楽しさが全然からなくって……そうするとタランティーノ好きの話にも入れなくって、たいへん寂しい思いをしています

2015-11-13

ヱヴァQ

劇場公開してすぐに見に行った。

あれだけリピートしてみてたエヴァ

Qだけは二回目を見てない。あの一回だけ。

つまんないな、ダサいなとおもった。

でも、これきっと、わざとなんだろな、

ちがうのかな?頭の中がモヤモヤした。

最近、辛いことがあまりに重なって

心がぼきぼきになってしまったんだけど、

最初に頭に浮かんだのがQ見直して見ようってことだった。

いまならシンジくんにシンクロできる気がしたんだ。

2014-09-06

Q、ブラックVSブラックならどっちを選ぶ?


 ヱヴァQ見ました。アスカ女神過ぎて大変嬉しかったです。嫁にしたい。

 この話は、誰に感情移入していたかで受け取り方が違いますよね。私はTV版旧劇でアスカミサトさんに心奪われた口なので、新劇Qのミサトさん批判が行くのがよく分からないです。むしろシンジはいつも苛々させられてきました。

 元々ネルフ自体ブラックで、しかもゼーレは人類補完計画というイカレたものを信じるカルト団体ではないですか。

 みんな頭おかしい。本当に頭おかしい。

 実態を知れば何故所属していたのか不思議でなりません。

 皆さんは人類補完計画死にたいですか? 死にたくないですか?

 私は死にたくない。

 ネルフにいても皆死ぬしかないのなら、新しい組織を作るしかないのです。例え体質的にはネルフと同じブラックでも、理念が違いますネルフにいる碇司令の思惑に抗ってるのがミサトさん

 仮にそれをシンジに説明したところで、シンジの頭のなかは「ボクは綾波を助けられた?」で止まってるわけです。とてもムカつきますね。説明してやる気も失せます

 シンジを頼ることが結果的サードインパクトを引き起こすのなら、もう頼らずに別のやり方を模索するしかないし、頼らないのなら一切の同情を与えてもいけないと思うのです。ミサトさんは情に弱いから。彼を信じていた過去自分すら嫌悪してそうですし。

(でもやっぱり甘いからスイッチ押せなかったけど)

 都合のいいときシンジを利用して、都合の悪いときシンジを捨てるのかとの批判は分かります。でも何を優先させるか、決断しなければならないのなら、シンジを捨てるべきでしょう。

 だって優柔不断もの。彼に時間を割いてたら、こっちが死ぬ

 そんなどうしようもなく生きる価値もないシンジを引き上げるのがアスカです。バカシンジ、ガキシンジと言いながら、見捨ててないのです。女神ですよ。

 綾波カヲルくんはよく分からないので、よく分からないままに放置イケメンから看過されていますが、カヲルくんはシンジを甘やかすだけですしね…宜しくないです。害悪です。

 次作ではこのブラック対決の決着がつくと良いですね。

 お願いだ、ちゃんと終わらせてくれ!!庵野監督!!!

ヱヴァQ見て

全部分かんないとか言われると流石に分かる部分もあるだろうとか思うんだけど、

それ言うと「ヱヴァが分かる俺(笑)」みたいな感じにされるしでつくづく面倒くさい作品だなと思う。

そういえば劇場で見た後も同じ感想だった。

2013-05-25

ヱヴァQ再見。

ストーリーがつまんねえのは今更だが、

破で旧版のシナリオなぞりながら「エヴァとは違うんです」というシーンに焦点当ててきたのに対して

こっちは「メンゴメンゴ、今までのエヴァですわ」を連発してんのが全く盛り上がらねえ要因じゃねえかと思った。

シンジくんの復活 記号綾波 ユイエピソード 第九 サードインパクト ホモ首チョンパ

「いやこれもう見たことあるよ!」というとこばっかよね これ

2013-04-24

満足度が高かったヱヴァQBDを見て感想ちょっと変わった

http://anond.hatelabo.jp/20130122212020


これ書いた増田なんだけど、やっぱ買うよねBD

関係ないけどやっと紅の豚BD化決まったね。やったね。当然買うよね。


で、買ってさっそく視聴したわけですが、あの時とちょっと違う印象を受ける場面がありました。


まぁ、ラストなんですが。

あの時俺は「2度も多大な迷惑をかけたにも関わらず息を切らして駆けつけて助けてくれる美少女が居る」と

シンジさんを妬んだわけですが、改めて見てみるとこれ、違うんじゃないか?と。


なんというか、シンジと再会するまではツンデレ美少女28)さんも

ワッペン意味する少年のことを想っていたのかもしれません。

しかし会ってみると、当たり前ではあるものの、その少年は己の責任の重さを

微塵も自覚していない14歳のガキでした。

しかも、あろうことかどれだけ諭しても過去の女の亡霊に取りつかれて

自分の方を見向きもしない。


そんなガキを、さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた28大人の女性

好きでい続けることができるでしょうか?

目の前にいない人なら妄想を膨らませて想い続けることも可能でしょうが

そんな妄想を打ち砕くダメ人間を目の当たりにして、男として好きになることが可能でしょうか?


フォースインパクトを何とか回避し、もう13号機も使い物にならないとはい

シンジさんはまだ重要キーであることに変わりはないはずです。

となると、ツンデレ美少女28)さんが息を切らして駆けつけるのも、

自分のアホさ加減に嫌気がさして心がポッキリ折れてしまっているガキのお守りするのも

女性としての好意」ではなく「大人としての責任」ではないのか?


そうするとシンジさん、救われなさすぎるよなぁ。


そんなことを妄想するともう次が待ちきれないわけですよ。

ヤバい、俺見事に売り手の術中にハマってる。

次は2015年でしたっけ?

2013-01-22

個人的にはかなり満足度の高かったヱヴァQ感想

どこの集計かもよくわからんのですが、ヱヴァQの評判が悪いそうで。

そう思う人が多いのも仕方ないとも思うのですが、個人的には楽しめたのでそのあたりについて

ヱヴァ解釈論ブーム」が落ち着いてきた感のある今頃になって適当に書き綴ってみる。


キニートが一念発起してちょっと間違った方向に全力で頑張ってしまったヱヴァ破のラスト

ヱヴァQを語るうえで前作とのつながりについては言及しないわけには行かないですね。

たぶん今回ヱヴァQがっかりした人は結構割合ヱヴァ破のラストにグッと来ていたと思います

かくいう私もグッと来ました。シンジさんかっこよかったっすね。

でも、あれってヱヴァQ見てから再度見直すと、シンジさんのちょっとしたミスが気になってしまます

それは、


「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」


というシンジさんのセリフです。

これがシンジさんをシンジさんたらしめているセリフなんですが、ここに含まれるちょっとしたミス

のちの世界に多大な影響を及ぼしてしまます


そうです。「世界がどうなったっていい」という部分は口にしても願ってもいけなかったんです。

だってヱヴァ初号機とシンジさんの組み合わせではその願いが具現化してしまうんですから

シンジさんの願いを叶えるべく、初号機さんは世界犠牲にしてでも綾波を救おうとしちゃうんです。


ここでのシンジさんの不幸は、己の力量を正確に把握できていなかったことでした。

己の何気ない考えや言葉世界に及ぼす影響をまったく考えていなかったことでした。

あの時のリツコさんの言葉が本当なら、とことん貪欲に「世界綾波も救って幸せ暮らしてやる」って願えば

世界への甚大な影響はなかったんじゃないんでしょうか?それとも「古い生命体は滅ぶ」の方が優先されるんでしょうか?

そんなのみんなで新しい生命体になればいいじゃん!Yes貪欲!No More 遠慮!


やりきった達成感でポジティブシンジさんとそのせいで多大な迷惑を被った周りの温度差が著しい序盤

そしてヱヴァQの序盤です。

我らのヒーローであるシンジさんが周りからひどい拒絶を受けてしまう序盤ですが、これもこの時の状況を考えると

周りの反応も仕方ないんではないかと思ってしまうんです。

だってシンジさんのせいで被害を被ってない第三者である我々視聴者はともかく、ヴィレの面々はシンジさんが

間違った方向に全力出しちゃったせいで甚大な被害を受けた被害者なわけです。

それだけでも拒絶するに十分な理由なのに、あろうことかサルベージ計画実行中に覚醒してます

回収後の調査で科学的には14年前の碇シンジという個体と同一である可能性が非常に高いという結果が出てるとはいえ、

世界犠牲にして綾波を救おうとした生命体が情報収集のために碇シンジという生命体に擬態している可能性もあるわけです。

おいそれと警戒を解くわけにも、情報をべらべらしゃべるわけにもいかないのは、ヴィレ側の立場としては仕方ないのではと思います

いつまた世界犠牲にして綾波を救い出そうとするやもわからない生命体に心を開けという方が無茶です。

まぁ、結果としては「綾波なんて救えてないよ」という絶望的な現実シンジさんに伝えてしまうわけですが。


無い勇気を振り絞って頑張った結果が徒労だったという現実直視できない中盤

外見や声だけはまるっきり同じの綾波モドキがシンジさんを悲しい現実から救いに来てくれちゃったおかげで

シンジさんは現実から目をそらして綾波モドキと一緒に逃亡します。

「やっぱり綾波は救えていたんじゃないか」という自分の信じたい現実(虚構)が目の前に現れてくれたおかげでシンジさんは

まだ何とかポジティブです。しかしそれも徐々に揺らいでいきます

自分が救ったはずの綾波(モドキ)が自分の知ってる綾波と違うことが徐々に露わになり始めますが、シンジさんはその現実から

目をそらしてしまます。その現実逃避がよく表れているのが「綾波段ボール小屋の前に積まれた本」ですね。

「お前は俺が救った綾波のはずだ」という願望の押しつけを積み重ね、それでも無視する綾波モドキに対してついには「もういいよ!」と当り散らして

積み上げた本を散らかしてしまます。高く積まれた本が崩れる様は、シンジが「自分努力は徒労どころか害悪しかなかった」という

つらい現実をやっと受け入れたことを表していたように思います


この綾波モドキとのやり取りと並行して描かれた、ヱヴァQで評判の悪い真夏(かどうか不明)の昼の淫夢にも触れなくてはならないでしょう。

つらい現実から目を背け続けるシンジさんをカヲル君は優しく慰め、つらい現実を優しく噛み砕いてシンジさんに受け入れさせようとします。

拒絶と無関心しかない世間で唯一自分を認めてくれる存在が目の前にあれば、だれでもそれに縋るでしょう。ほかに縋れるものなんてないから。


そしてカヲル君はこのどうしようもない現状の打開策(とカヲル自身が信じている事)をシンジに伝えます

そりゃやるでしょう。受け入れがたい現実を受け入れたことでシンジさんは自分にとてつもない力があることだけは自覚できたからです。

自分には力がある。前回は使い道を間違ったけど、今回は道しるべを示してくれる人がいる。これはいける!」

この時点で道しるべを疑うことをシンジさんに期待するのは酷というものです。


また間違った方向に全力で頑張って、たった一人の友達を殺してしまった終盤

不吉な番号が付いた13号機に二人で乗り込み、汚名返上のため再度やる気120%のシンジさんは、視界に入る大好きだった綾波似て非なる生命体を

疎みながらも目的のために前進します。

そこで、自信満々でシンジさんを導いてきたカヲル君が異変に気づきます

「何かがおかしい」

でもシンジさんは止まれません。

だってもうすぐ汚名返上できるんだから

自分努力した結果が正しい方向に修正されるんだから

目の前に広がるクソッタレ現実から逃げられるまであと一歩というところまで来てるんだから

ここまできてもシンジさんの行動の原動力は「現実逃避」です。

船頭が迷い始めているのに漕ぎ手が止まりません。

もうすぐ答えに手が届きそうなときに「なんか不安からやめよう」なんて言われても止まれません。

なぜならこの言葉シンジさんにとっては「このクソッタレ現実ともうしばらく付き合おう」に等しいからです。

「もうすぐでこのクソッタレ現実から逃げきれるのになんでわざわざつかまってやらなきゃいけないんだ」

と考えてしまうのも無理はない。止まれない。

そしてまた世界に多大な迷惑を及ぼしかけてしまます


2度も多大な迷惑をかけたにも関わらず息を切らして駆けつけて助けてくれる美少女が居る幸せに気づかないニブチン

せっかくやる気を出したにもかかわらず2度やって2度失敗してしまったシンジさんは絶望してヒキニートに戻ります

仕方ないことですね。頑張っても無駄だったんだもの。むしろ害悪だったんだもの。2度やって2度とも。

自分が頑張れば頑張るほど他人が迷惑する」というつらい現実と2度も直面させられては、こうなってしまうのも無理はない。


しかし、俺はシンジさんが羨ましくて仕方ない。

だってこんだけ迷惑かけても、息を切らして自分に駆けつけてくれる絵にかいたようなツンデレ美少女が居るんですよ?

ふざけんな、何がシンジさんだこの野郎。かわいそうな自分に酔ってんじゃねぇぞ。

こんなに幸せ物語ありますか?超絶ご都合主義アニメじゃねーか。

映画感想を分かち合う友人もいない、人生の伴侶もいない、電話の着信履歴が1年近く残る、メールが来るのはスパムだけな俺より全然マシじゃねーか。

いっちょまえに絶望気取ってんじゃねぇぞ。どんだけ幸せなんだこの野郎。



シンジさん改めボケカスキニートシンジの心の変遷をたどりながら2回見ました。

同じ映画を2回見たのはこれが初めてです。

世間的にはクソ映画なのかもしれませんが、俺にとってはかなり満足度の高い映画でした。

まぁ、こういう意見もあるってことで。

2012-11-25

アンチエンターテイメントとしてのヱヴァQ

<はじめに>

ヱヴァQ面白く無かった人の中には、どうしてそれが面白く無かったのか、

どうしてあんなに面白く無かったものをありがたがる人がいるのか、を理解できない人もいるかと思います

(理解した上で嫌悪感を感じる人は本説明の対象外です)

そうした人達に向けてヱヴァQおよび旧作エヴァンゲリオン面白さと面白く無さを説明してみます

ただし、これは「説明」なのであって、ヱヴァQはだから面白いよねという「説得」ではありません。

理解できたからといってヱヴァQ面白くなるわけではありません。


<要約>

ヱヴァQアンチorメタエンターテイメント的な構造=「期待を裏切られる楽しみ」を持っている。

(ここでいう「期待」とは「謎の提示→解決」「話のフリ→オチ」「主人公の苦難→成長」という、従来のエンターテイメントが持つ構造である)

「期待を裏切られたこと」が受け入れられない人は当然つまらなく感じるし、裏切られる楽しみを感じた人は楽しめただけの話。


ヱヴァQ面白くなさのパターン

1.アニメの絵、動き、音楽が嫌い。

 これについては説明できません。「そう感じる」のだから仕方が無いありません。

 ただ、他アニメに比べて単純にクオリティが低かったかどうかで言えばそんなことは無かったのではないでしょうか。

 

2.ストーリーが嫌い、よく分からなかった。

 本説明は、こちらに関する説明になります


メタorアンチミステリとしてのエヴァ群>

 通常、お話には各文章毎に意味があり、お話世界の設定を示し、物語が流れ、オチがつきます

 これが普通の「エンターテイメント」です。たとえばミステリを例にとってみましょう。

 まず小説世界の設定が示されます。その示し方、というのは作者が見せたい示し方「ある視点からみた小説世界」です。

 その世界には「謎」がありますクライマックスで作者は別方向から視点を持ち込んだり、

 視点の位置を変更することによって「謎の解決」をはかります。これがミステリです。

 旧エヴァンゲリオンと新ヱヴァンゲリヲンには様々なエンターテイメント要素「純文学的」「SF的」「ミステリ的」な楽しみが入っています

 本論ではミステリとしての切り口からエヴァ群およびエヴァQを読み解きます

1.ミステリ歴史

  エヴァには謎がちりばめられています南極で4体いた巨人は何なのか、槍とは何なのか、人類保管計画とは・・・etc

  通常のミステリエンターテイメントではこれらの謎には一応の説明=オチがつきます

  謎と回答がセットで用意されていることがミステリエンターテイメントの条件なのです。

  謎に対する回答が論理的でないことはミステリエンターテイメントでは批判対象になります

  では、謎に対して論理的な回答が用意されていればいいのでしょうか。答えは否です。

  当たり前すぎる謎への回答は「つまらない、面白く無い、想定の範囲内」としてまた批判対象になるのです。

  ミステリエンターテイメント歴史はこの矛盾した期待「筋道が通っているのに予想を外す」に応えた歴史でした。

  エンターテイナーは密室を作り、アリバイをでっちあげ、人物を交換し、天狗の鼻の上でナイフを滑らせたのです。

  しかし、読者には読書体験が蓄積されます。「密室もの」「アリバイもの」「島田荘司のいつもの」などのように予想は外れにくくなります

  ミステリ系が広まることがミステリ系の楽しみを成り立ちにくくするのです。ここでエンターテイナーはさらに頑張りました。

  密室ものと見せかけかけた人物入れ替え(トリックトリックとして使う)や、

  文章を意図的に誤読させることで謎でないと感じていたもの最後に謎であったと提示する(叙述トリック)などです。

 「読者の読書体験込み」の謎(トリックを知っている読者への謎)を作ったのですね。

  しかしかし、それすらも読者の読書体験に織り込まれてしまます。「ああ、これは叙述トリックもの」だね、という風に。

  こうしてミステリエンターテイメントパターンは全て出尽くしたように見えました。あとは各作家文章力/味付けだけの世界になったように思えました。

  しかしかし、そうではありませんでした。ミステリエンターテイナー原理主義者が考えた最後兵器最後の謎、それがアンチorメタミステリです。

  アンチミステリメタミステリとは何か?それはミステリエンターテイメントの条件「謎には回答がセットで用意されている」という想定、

  「これはミステリだろ、という読者の読書体験を裏切る」ミステリのことです。(読者体験を念頭に=メタ、解決の放棄アンチ)

  ミステリ的に提示された謎は解決、されません。貼られた伏線には何らかの意図があり、背景には脈絡が流れているにも関わらず永遠にそれが明かさないのです。

  読者は怒りました。怒り狂いました。こんな本は狂っていると騒ぎ、壁に本を投げつけ壁に穴をあけ、火を付けてさつまいもを焼いたのです。

  ただ、一部の読者は壁にめり込んだ本を再度開き、焦げた本を再度繋ぎ合わせ始めました。

  何故か?永遠に解決されない謎がとても魅力的に思えてきたのです。

  アンチorメタミステリがただの問答無用の「裏切り」だったとしたら、それはミステリでもなんでもありませんでした。

  しかしかしかし!アンチorメタミステリはきちんと「ミステリ」でした。何故か?提示されない、収束しないだけで、回答らしきものは「読めた」からです。

  作者はデタラメに謎を配置したわけではなかったのです。

  謎の配置には意味がありました。完全に繋がっていない謎同士、明かされずぶち切れた伏線から、かすかな破線のような真実の輪郭はかろうじて読めたのです。

  一部の読者たちは途切れた伏線をつなぎ、明かされない謎を照らし合わせました。そうしてできた回答は一つではありません。

  読者の数だけ答えがありました。いや、読者が考える度に回答が産まれました。

  作者の意図は完全にトレースあるいはサルベージできない(ようにつくられている)ため、当然のことでした。

  本を拾いあげた読者たちは各々、自分の回答について話合いを始めました。そうしてまた、新しい回答群が産まれたのです。


2.旧エヴァ歴史メタorアンチミステリ

  エヴァにはたくさんの「読みかた(視聴の視点)」があります

  それは他のアニメにも言えることかもしれません。ですがエヴァは思いつく限り全部入り、ぐらいの要素が入っているのです。

  SFとしてのエヴァ純文学としてのエヴァミステリとしてのエヴァキャラ萌えとしてのエヴァ

  それぞれが本格的に作られており、それらが複合的に絡み合うことで色々な読みを許す懐の深いアニメです。

  当時、それら本格的な要素を持つアニメとしてエヴァはそれなりに期待されました。

  TV放映の途中まで庵野監督は概ねそれに応えていたといっていいでしょう。

  しかし、最終的には庵野監督視聴者の期待をことごとく裏切ります

  TVエヴァでは最終二話にはエヴァほとんど登場せず、伏線は回収されず、ただ主人公が救われたという心象風景けが提示されます

  旧映画版。今度こそ、と期待されたものを再び庵野監督裏切りました。

  復活したヒロインは次の瞬間無惨に食われ、主人公最後最後まで成長らしきものをせず、謎らしきもの回答は完全には示されませんでした。

  たくさんの視聴者失望・・・しませんでした。これこそがエヴァだと叫び、糞だ糞だと拍手喝采褒め讃えたのです。

  エヴァいかに糞でその糞が何を描いていたのかについて各々語り始めました。

  何故か?視聴者は「裏切られることを予期していた」からなのです。

  TV版最終二話でなされた裏切り庵野監督が持つオタクへの自己嫌悪から発生したと言われるファーストインパクト

  これはうんこでした。ただただ庵野監督うんこをしたかった。とてもうんこがしたかったことが原因で産まれた巨大なうんこでした。

  しかし、これが偶然にもアンチエンターテイメントアンチミステリの形式を踏んでしまうことになります

  「開示される予定だった真実が巨大な庵野うんこによって適度に隠される」ことで良質なアンチミステリとなってしまったのです。

  デリヘル・ガイナックス♪で嬢呼んだらいきなり罵られた挙げ句勝手に帰ってしまったんだけど、そういうプレイだと思えば良質だったみたいな感じです。

  この放置プレイが評判を呼び、放置プレイマニアがこぞって映画館に行ったのですから、文句の出ようがありません。

  いや、息子のわがまま映画館に連れてこられた私の家族など、一部、可哀想な人たちがいたことは事実です。歴史の裏にはいつも悲しみがあります


3.新劇場版ヱヴァメタorアンチミステリ

  作家は挑戦をせずにはいられない生き物です。

  庵野監督10年くらいたったから、そろそろうんこ溜まってきたし、うんこしよう。するなら、前回よりもおっきいのを、だ。と考えました。

  巨大うんこのために作られたより巨大な謎、セカンドインパクト、それが新劇場版ヱヴァQでした。

  序、破は伏線でした。庵野監督は旧エヴァ制作/公開体験を、そして視聴者の視聴体験を利用します。

  つまりメタミステリとしてのヱヴァ「第一の裏切り=お、これ、前と違ってまっとうなアニメじゃん!」です。

  旧劇では糞が半分読まれていました。

  旧劇を超えるためには、序、破、でエヴァが糞で謎を隠す形式のミステリである視聴体験を払拭する必要があったのです。

  普通の糞好きに普通に映画館にきてもらっても、もう、庵野監督は満足できない。

  訓練された糞好きでも楽しめる、よりアクロバティクなうんこを魅せるとともに、

  中年男性うんこを放り出したとこをみたこともない女子高生うんこの素晴らしさを伝える、という庵野監督の願い–––––––人類補完計画

  この発動を目的として作られたため、序、破は精巧に綿密にまっとうなエンターテイメントをしていました。

  そして、ヱヴァQ。やってしまいました。満を持して登場した監督ヴンダー希望に糞を放り出す12使途(ネタばれ)として登場。

  観客を糞塗れにします。

  君の言っていることはほとんど意味が分からないよカヲル君、それどころか肝心なことは何一つ言わないよシンジ君以外のみんな。

  これが第二の裏切り

  一人じゃないんだ、と思ってたら「孤独でしたー」

  前に進めたんだ、と思っていたら「進めてませんでしたー」

  槍でやり直せると思ったら「やり直せませんでしたー」

  です。

  この、完全なる王道エンターテイメント期待への「裏切り」。

  救われるべきものが救われないアンチエンターテイメント、開示されるべき謎がほったらかしのアンチミステリこそがヱヴァQなのです。

  つまらないのは当然なのです。まっとうな反応なのです。面白いとみせかけて面白く無く作ったのですから面白いけが無い。当然のことです。

  ただ、「期待を裏切るという形式のエンターテイメント面白さを期待されたら、最終的には<面白いことを裏切る>しかない」んです。

  一度は必ず「面白く無いという面白さ」へ行き着いてしまものなんです。これはもう、ある程度しょうがない。

  問題は次回作シン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越されました。

  ここできちんと伏線が回収される!と見せかけて回収されない!謎が開示される!と見せかけて開示されない!のか、どうかは分かりません。

  アンチ構造最終回だったとしても、ある程度、おぼろげながら真実が見える形には仕上げてくるのではないでしょうか、というのが僕の予想です。



4.インターネット世代メタorアンチミステリ

  最後に、ミステリの形式とネット社会について述べておきます

  ある一つの解を持つミステリは、ネット社会においては瞬時に消費されます

  AはBだったんだ!以上!という情報は急速に読者や読者ですらない人間に行き渡ります

  「なあんだ、Aは結局Bだったのね。あーあれね。昔あったA=B型カテゴリのやつね」というふうに。

  物語の延命をはかろうと思うとメタorアンチミステリの形式をとらざるをえないのです。

  読者が謎と真実について語り合うことで新たな謎が生まれ、語りが語りを呼ぶことで物語はかろうじて生きながらえるのです。

  だから、今は普通エンターテイメントにもアンチ的要素は含まれます

  ある物語できちんとオチがつくものの、別の読者を引きつける開示されない大きな謎がシリーズを繋ぐとみえる、などベタな展開ですね。

  ちょうど、TVゲームネットゲームになったことにそれは少し似ているかもしれません。

  ゲーム攻略のものではなく、攻略について語り合い、次アップデートへの期待について語り合うメタな楽しみ。

  ラスボスを倒しても終わらないその営みこそがネットゲーム醍醐味です。

  エヴァンゲリオン、一体、どうなってしまうんでしょうね、楽しみですね。

  こちらからは以上です。

2012-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20121121063529

私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。

というのも、まどかマギカヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。

ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。

だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。

ところがヱヴァQでは、シンジアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように

ほむらカヲルと言われるけど、むしろほむら=Qシンジだと解釈した。

同性愛に近い友情を抱いてたたった一人の友達まどかカヲル)が、

セカイを滅ぼす存在クリームヒルト・第13使徒)になる前にこの世を去り、

残された救いようのない新世界に取り残され、変な化け物(魔獣・インフィニティ)と戦い続ける運命けが残され

手を取らなければいけないのは、今まで敵対していた人物(QBアスカしか居ない

だが、ほむらとQBが手を組むこと、シンジアスカに引っ張られること、そのものが「希望であると。

ラストシーンテーマまどマギヱヴァQで類似している。

新世界で生き抜くためには優しくしてくれる同性愛に近い友人(まどかカヲル)ではなく、旧世界では殺そうとしたほど憎んでいた存在(QB・アスカ)だ

ただ虚淵玄が言うほどほむらとQBの折衝には中間がないのがネックである

結局、魔法少女がこの世から去らなければいけない存在になるのは新世界でも変わらない事はさやか証明している。

しかシンジアスカは破で絆っぽいものを結んでいて、それがQでも残っていたことに希望がある。

28歳設定もあってアスカは昔に比べて別人であるからだ。

まどマギ新世界も描写が足りず、またほむらの心境もまどか概念になってからあの黒い翼を発現させるまでの空白が描かれていない。

それは14年の空白を経て、なんかたくましくなったアスカに近いのかもしれない。

これはただ女の子の強さを庵野虚淵も信じているからだろうか。

ちなみに庵野ニュータイプまどマギを評価するコメントを残しているが、注目しているのはほむらQBらしい。

ループ」ではなく「新世界でかつての敵同士が手を取り合うこと」というテーマシンジアスカと一致してるのも大きいのかもしれない

余談だが、あずまんまどマギにも「狂気が足りない」言うてるんでヱヴァQ絡みも多分そういうことだと思われる。

http://anond.hatelabo.jp/20121121041529

からここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず

キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。

おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。

私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。

というのも、まどかマギカヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。

ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。

だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。

ところがヱヴァQでは、シンジアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように。

あれから14年経ったのだ。

おおかみこどもの雨と雪」は見ての通りの物語で、ぶっちゃければ何もない、人々に感動を与えるためだけに作られた物語。そして東はこれに感動したのだという。

もちろんおおかみこどもとヱヴァQでは扱おうとしているテーマがまるで違うから、前者に感動して後者に感動しないというのは当然なのだが、ことさらヱヴァQを詰まらないというのは、単に14年分の変化が東自身にあったというだけではないのか?

http://anond.hatelabo.jp/20121120232557

なんかあずまんにつぶやかれたしQ見て良かったわ。

https://twitter.com/hazuma/status/270937897249693696

https://twitter.com/hazuma/status/270943010051719169

それはさておき、庵野はひどい。

ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。

ひどいのであって、凄いのかどうかは判断が別れる所だと思う。

座談会でも言われていたけど、なんの理由があってシンジにこれだけのものを背負わさせるか…

共同戦線はっていたはずのミサトやアスカ勝手に成長して実年齢的に大人になってしまうし。(アスカ精神だけだけど、それがまたキツい。グロい。

90~00年代セカイ系覇者であるエヴァがこれだけまっすぐに残酷セカイ系いじめシンジ押し付けるというのは、ある意味では圧倒的に正解。

「君を失いたくない、そのためにセカイが滅びてもかまわない!」という無茶な行動に普通セカイ系作品ならハッピーエンドで答える。

破で新鮮だったのは「それをあのエヴァがやるなんて…」という意外性に尽きる。その意外性に大して庵野がどう答えるか?これはもうわからんね→といった所でこの裏切り。また旧エヴァかよ!この構造はたしかにシビれる。坂上がシビれるのもわかる。圧倒的な新規切り捨て、古参いじり。

さておき、ヱヴァQおよび庵野が凄いorひどいのはセカイを代償にレイを救わせようとしておいてセカイもだめになっちゃったレイも違うレイなっちゃったしと、ALL代償をシンジ押し付けたその点に尽きる。このひどい代償、並のアニメがやっていたら一笑に付されて終わりだろう。そんな壮大なおしつけ成立するはずないだろ!と。だがエヴァ場合これが成立する。なんといってもセカイ系覇者なのだから、これくらいの壮大さじゃないとむしろ釣り合わないくらいだ。

そう考えると、「庵野監督が旧エヴァ狂気に対抗するために理詰めで導き出した回答」という点はかなり納得が行く。庵野さんは狂気理論を同等に扱うことができる天才なのだろう。

からここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず

キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。

おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。

普遍的なものとはつまり、親であるかそうでないかなどに関わらずすごいと感じられる作品だ。

おおかみこどもの雨と雪」は一見すると親である人間のほうが多くの感動を得られるが、そうではない。

では何が良かったのか。人間自然関係か。はたまたジブリ的な「生きる」ことの素晴らしさか。

俺はそれらのどれでもないように感じた。あくまであずまんツイートからだが。

おおかみこどもの何が良かったのか、ヱヴァQには何が足りなかったのか。言葉にするとそれは普遍性、または世界に通用する何かなのだろうけど、あずまんの口からそれはまだ具体的に語られていないように思う。ていうか正直よくわからないのでゲンロンカフェとかで語ってくれたら嬉しいです。

2012-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20121120205715

これを読んで思ったのは、東って幼児が画用紙にグチャグチャの絵を描いたのを芸術だって言うような人なのか、統合失調なんかで神の啓示だって描いた絵をこれは過去巨匠にも匹敵するなんて言っちゃうような人なのかってことだ。

エヴァは間違いなく怪作で傑作で、庵野監督が本気で狂ってた作品であることは間違いない(完成度が高く辻褄が合っているのは狂いながらも計算されているってことだ)。

でもそれはどうやったって2度は作れないし、作ることを望んではいけないものであるはず。2度作ることを求めたら今度こそ死ぬか完全に狂うんじゃないか

で、ここで否定に入る。

確かに旧エヴァは怪作で傑作だったわけだが、庵野監督が狂っていたがゆえに個人的問題から外には出られなかった。

最初ネルフ以外の人が描かれていてトウジやケンスケといった友達が描かれていたのに、話が進むにつれシンジと誰か以外の部分が削り落とされていって、最後シンジの隣にアスカ一人という結末になってしまった。

なぜか分からないが、シンジが「また会いたいと思った」という気持ちによって、世界が完全に終わってしまう事態は避けられたらしい。

ゆえに旧エヴァセカイ系の走りとなったわけだけど、旧エヴァにおいて完全に抜けていた問題が一つある。

それは、旧エヴァにおいてシンジは常に被害者であって加害者にならなかった、常に周囲から苦しめられ傷めつけられる存在だったってことだ。

例えばトウジが足を失う結果になったバルディエル戦、この時シンジは父親ゲンドウが稼働させたダミープラグの凶行を見せつけられ、ゆえに父親を殺人者と罵る権利を有する被害者だった。

エヴァにおけるシンジは結果として他者を傷つけることもあったかもしれないが、同時にその他者から傷つけられていた。

更にシンジは、ネルフ、ゼーレ、戦自といった巨大な組織による荒波に翻弄される立場であって、こんなの14歳自分にはどうしようもないよ、どうやっても解決なんてできないよと言っても、まあ許される立場だった(現にミサトはシンジに対しエヴァ量産型の殲滅以外求めていない。それしかシンジにできることはないと分かっているため)。

ところがヱヴァQにおいて、シンジは明確に他者を傷つけ苦しめた加害者であり主犯の立場に立たされることになった。それも人類を壊滅させるほどの加害なのだからもう立派と言わざるをえない。

その上、カヲルアスカの制止も聞かず行動した結果がフォースインパクトに繋がりかけたのだから、もう弁解などできる立場でない(せいぜい知らなかったと言うくらいだろう)。

この、自身が加害者になるというテーマ00年代に少なからず見られるのだが、自分は○○のために加害せざるを得なかったのだ、自分は○○の目的を達するために加害したのだといった言い訳がついて回った。

シンジ現実を見せられた時そうだった。自分は知らなかった、綾波を助けたいと思っただけだ、それなのに僕のせいだと言われてもどうしろって言うんだと。

だがその言葉が何億の死者と滅茶苦茶に破壊された世界果たして届くものなのか。

ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。

そしてこれは、庵野監督が旧エヴァ狂気に対抗するために理詰めで導き出した回答なのだろう。

2012-11-18

ヱヴァQ

アスカが破の時から比べてよりセックスしたい感じになっててよかった

 
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