はてなキーワード: ヱヴァQとは
http://hirorin.otaden.jp/e437747.html
庵野総監督はこの映画を、右にも左にも偏向しないように配慮して作っている。露骨なイデオロギーなんか入れたら作品がつまらなくなると分かっているからだ。
3.11を模写した時点でそういう観方で見られるのは当然でしょ?としか思えない。
まして消費者の目線でそんな意見聞きたくないというのはまだいいんだけど、創作者がそれを言うのはあまりに無責任じゃないか?
「作者の意図」のとおりに作品を読み取ることを観客に強要するのってただの怠慢じゃん。
大体「怪獣」
これは自分も作品づくりに関わる人間の端くれだから切に感じるけど「作品」ってのは「作者そのもの」じゃなくて「作者の子供」。
それを分かったうえで「好きに」作品を作ったのだから、それを見てどう思われても、それは受け止めなくちゃいけない。
ヱヴァQのシンジ君の罪っていうのはまさにそういう性質のもので、
そんなつもりは全くなくても自分の作品(=エヴァ)で世界を滅ぼしかけてしまったら、それはやっぱりどうしようもない自分の罪。
現実には世界を滅ぼすようなことはないから勝手な勘ぐりをされる程度なわけだけども。
それは辛いことかもしれないけれど、それでも残したい意志があるから作品を作るわけだし、
一方で意図しない希望を見出してくれる人だっているかもしれないわけじゃないですか。
俺は庵野が実際どう思っていようが、旧エヴァから強い勇気をもらっているし、富野がどう思ってようとVガンは面白いと思うわけで、
それが創作物の可能性ってやつであり、作品を作ることの社会的意義でしょう。
仰りたいことは分かります。
そのうえで言い得て妙だと思った加藤ヨシキさんのツイートを引用します。
>「王様は裸だ!」と指摘するのは良いと思うんですが、「王様は裸だ!あの小さなチンポを見ろ!あれじゃ奥さんも浮気してるに違いないぜ!」まで行くと王様も怒りますし、なんなら奥さんも怒りますし、周囲もなぜそこまで言うのかと思いますよ。その辺の常識と礼儀は大事にしていきたいです。(https://twitter.com/DAITOTETSUGEN/status/699594948023181314)
どこの世界でもそうですが、ニワカは古参に叩かれます。文壇もスポーツも音楽もゲームも仕事も。先達に比べて知識量のない人が偉そうにしているのは、鼻につくものです。でもね、ニワカが罪を犯しているのかというと、そうではないと思うのです。
誰を傷つけたわけでもない。知識がないだけでアホ呼ばわりされて叩かれるのは、やはり不当で止めるべき悪習だと自分は考えます。(腹が立つのは仕方のないことなので、出来るだけそれを外に出さないよう心がけたいと思っています)
映画を羅列する意味についても、大本の記事には「私を構成する9枚のCD」という企画を読み、それに着想を得たとあります。羅列に意味はないとしても、実際に彼は羅列を面白いと感じ、それで記事を書いた。それは好みの問題に過ぎません。(パク……インスパイアの問題はあるかもしれません)タランティーノもよく映画ランキング作りますが、世界中のファンがそれを待っています。年間200という数字が、タランティーノの存在同様の重みを持つかどうかは、それぞれの読者が判断することです。
アクセス数云々も「彼には認められる記事が書けなかった」という意味で使用した表現で、記事の存在意義を問題にするのなら「彼には意義ある記事が書けなかった、以上」というつもりで書いたものです。分かりにくかったら申し訳ない。
興行作品である映画は、観客に受けるような工夫が(当たるかどうかは別にして)散りばめられています。玄人好みのものと、一般層に向けてのものはあるかもしれません。世間的に受けたとは言いづらいヱヴァQですら、スタッフロールに入った劇場内に立ちこめるポカーンとした雰囲気に「エヴァはこうじゃなくっちゃ!」とワクワクした人(悪いファンかもしれませんが)もいます。
表現規制の話とかでもよく出てくる話ですが、名作を排出するためには、ピラミッド的に数多くの駄作を必要とすると自分は考えています。多産とクオリティは比例の関係にある。ファッション映画が増えたからといって、名作が駆逐されるわけではないと自分は思います。ジャッキー・ブラウンがそうだったように、ファッション層ってすぐ離れちゃいますしね。ファッション的な映画がって、増えればすぐさまダサくなるし。(ホイチョイ製作映画も廃れました)カウンターカルチャーはそういう土壌で出てくるので、良い映画が無くなってしまうことはないと自分は思います。
表現の自由について論じたいわけでもなく、「老害になるのはよそうぜ」って自戒を込めて言いたいだけなんです。感じたことを書くことは自由で、だから自分も感想を書いているわけです。(『高知名度の漫画をドヤ顔で薦めてくる男たち』までくると「分かるわー」としか思えないんですが)
なのであなたが(なのかな?よく分からなくてすみません)そうなさったように、「自分はこういう記事の方が面白いと思う」って記事を書くのが、よりスマートでクリエイティブで良いと思うんです。でもそれにハリーハウゼンの名前も出てこないアホが……って言われるのはイヤじゃないですか。その名前を出さない理由だってあるかもしれないし。
より良いものを出せばいい。その方がかっこいい。他人を貶める必要は無いと思うんですよ。
と自分はやっぱり思うのです。世の中そんなもんでしょというのも分かるけど、やっぱりそれは変だと思うのです。前に書いたのと主張はほとんど変わらないから、蛇足だし、理解し合えるとは思わないんですけど、書かせていただきました。
あと話は移ってしまうんですが、「キル・ビルが駄目な人」ってのが自分にドンピシャで(文章からそういうにおいがしたんでしょうか?)、あれの楽しさが全然分からなくって……そうするとタランティーノ好きの話にも入れなくって、たいへん寂しい思いをしています。
ヱヴァQ見ました。アスカが女神過ぎて大変嬉しかったです。嫁にしたい。
この話は、誰に感情移入していたかで受け取り方が違いますよね。私はTV版旧劇でアスカとミサトさんに心奪われた口なので、新劇Qのミサトさんに批判が行くのがよく分からないです。むしろシンジにはいつも苛々させられてきました。
元々ネルフ自体がブラックで、しかもゼーレは人類補完計画というイカレたものを信じるカルト団体ではないですか。
皆さんは人類補完計画で死にたいですか? 死にたくないですか?
私は死にたくない。
ネルフにいても皆死ぬしかないのなら、新しい組織を作るしかないのです。例え体質的にはネルフと同じブラックでも、理念が違います。ネルフにいる碇司令の思惑に抗ってるのがミサトさん。
仮にそれをシンジに説明したところで、シンジの頭のなかは「ボクは綾波を助けられた?」で止まってるわけです。とてもムカつきますね。説明してやる気も失せます。
シンジを頼ることが結果的にサードインパクトを引き起こすのなら、もう頼らずに別のやり方を模索するしかないし、頼らないのなら一切の同情を与えてもいけないと思うのです。ミサトさんは情に弱いから。彼を信じていた過去の自分すら嫌悪してそうですし。
都合のいいときにシンジを利用して、都合の悪いときにシンジを捨てるのかとの批判は分かります。でも何を優先させるか、決断しなければならないのなら、シンジを捨てるべきでしょう。
そんなどうしようもなく生きる価値もないシンジを引き上げるのがアスカです。バカシンジ、ガキシンジと言いながら、見捨ててないのです。女神ですよ。
綾波とカヲルくんはよく分からないので、よく分からないままに放置。イケメンだから看過されていますが、カヲルくんはシンジを甘やかすだけですしね…宜しくないです。害悪です。
次作ではこのブラック対決の決着がつくと良いですね。
http://anond.hatelabo.jp/20130122212020
関係ないけどやっと紅の豚のBD化決まったね。やったね。当然買うよね。
で、買ってさっそく視聴したわけですが、あの時とちょっと違う印象を受ける場面がありました。
まぁ、ラストなんですが。
あの時俺は「2度も多大な迷惑をかけたにも関わらず息を切らして駆けつけて助けてくれる美少女が居る」と
シンジさんを妬んだわけですが、改めて見てみるとこれ、違うんじゃないか?と。
なんというか、シンジと再会するまではツンデレ美少女(28)さんも
しかし会ってみると、当たり前ではあるものの、その少年は己の責任の重さを
微塵も自覚していない14歳のガキでした。
しかも、あろうことかどれだけ諭しても過去の女の亡霊に取りつかれて
自分の方を見向きもしない。
そんなガキを、さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた28の大人の女性が
好きでい続けることができるでしょうか?
目の前にいない人なら妄想を膨らませて想い続けることも可能でしょうが、
そんな妄想を打ち砕くダメ人間を目の当たりにして、男として好きになることが可能でしょうか?
フォースインパクトを何とか回避し、もう13号機も使い物にならないとはいえ
シンジさんはまだ重要なキーであることに変わりはないはずです。
となると、ツンデレ美少女(28)さんが息を切らして駆けつけるのも、
自分のアホさ加減に嫌気がさして心がポッキリ折れてしまっているガキのお守りするのも
「女性としての好意」ではなく「大人としての責任」ではないのか?
そうするとシンジさん、救われなさすぎるよなぁ。
そんなことを妄想するともう次が待ちきれないわけですよ。
ヤバい、俺見事に売り手の術中にハマってる。
次は2015年でしたっけ?
どこの集計かもよくわからんのですが、ヱヴァQの評判が悪いそうで。
そう思う人が多いのも仕方ないとも思うのですが、個人的には楽しめたのでそのあたりについて
「ヱヴァ解釈論ブーム」が落ち着いてきた感のある今頃になって適当に書き綴ってみる。
ヱヴァQを語るうえで前作とのつながりについては言及しないわけには行かないですね。
たぶん今回ヱヴァQでがっかりした人は結構な割合でヱヴァ破のラストにグッと来ていたと思います。
かくいう私もグッと来ました。シンジさんかっこよかったっすね。
でも、あれってヱヴァQ見てから再度見直すと、シンジさんのちょっとしたミスが気になってしまいます。
それは、
「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」
これがシンジさんをシンジさんたらしめているセリフなんですが、ここに含まれるちょっとしたミスが
そうです。「世界がどうなったっていい」という部分は口にしても願ってもいけなかったんです。
だって、ヱヴァ初号機とシンジさんの組み合わせではその願いが具現化してしまうんですから。
シンジさんの願いを叶えるべく、初号機さんは世界を犠牲にしてでも綾波を救おうとしちゃうんです。
ここでのシンジさんの不幸は、己の力量を正確に把握できていなかったことでした。
己の何気ない考えや言葉が世界に及ぼす影響をまったく考えていなかったことでした。
あの時のリツコさんの言葉が本当なら、とことん貪欲に「世界も綾波も救って幸せに暮らしてやる」って願えば
世界への甚大な影響はなかったんじゃないんでしょうか?それとも「古い生命体は滅ぶ」の方が優先されるんでしょうか?
そんなのみんなで新しい生命体になればいいじゃん!Yes貪欲!No More 遠慮!
そしてヱヴァQの序盤です。
我らのヒーローであるシンジさんが周りからひどい拒絶を受けてしまう序盤ですが、これもこの時の状況を考えると
だって、シンジさんのせいで被害を被ってない第三者である我々視聴者はともかく、ヴィレの面々はシンジさんが
間違った方向に全力出しちゃったせいで甚大な被害を受けた被害者なわけです。
それだけでも拒絶するに十分な理由なのに、あろうことかサルベージ計画実行中に覚醒してます。
回収後の調査で科学的には14年前の碇シンジという個体と同一である可能性が非常に高いという結果が出てるとはいえ、
世界を犠牲にして綾波を救おうとした生命体が情報収集のために碇シンジという生命体に擬態している可能性もあるわけです。
おいそれと警戒を解くわけにも、情報をべらべらしゃべるわけにもいかないのは、ヴィレ側の立場としては仕方ないのではと思います。
いつまた世界を犠牲にして綾波を救い出そうとするやもわからない生命体に心を開けという方が無茶です。
まぁ、結果としては「綾波なんて救えてないよ」という絶望的な現実をシンジさんに伝えてしまうわけですが。
外見や声だけはまるっきり同じの綾波モドキがシンジさんを悲しい現実から救いに来てくれちゃったおかげで
シンジさんは現実から目をそらして綾波モドキと一緒に逃亡します。
「やっぱり綾波は救えていたんじゃないか」という自分の信じたい現実(虚構)が目の前に現れてくれたおかげでシンジさんは
まだ何とかポジティブです。しかしそれも徐々に揺らいでいきます。
自分が救ったはずの綾波(モドキ)が自分の知ってる綾波と違うことが徐々に露わになり始めますが、シンジさんはその現実からも
目をそらしてしまいます。その現実逃避がよく表れているのが「綾波の段ボール小屋の前に積まれた本」ですね。
「お前は俺が救った綾波のはずだ」という願望の押しつけを積み重ね、それでも無視する綾波モドキに対してついには「もういいよ!」と当り散らして
積み上げた本を散らかしてしまいます。高く積まれた本が崩れる様は、シンジが「自分の努力は徒労どころか害悪でしかなかった」という
つらい現実をやっと受け入れたことを表していたように思います。
この綾波モドキとのやり取りと並行して描かれた、ヱヴァQで評判の悪い真夏(かどうか不明)の昼の淫夢にも触れなくてはならないでしょう。
つらい現実から目を背け続けるシンジさんをカヲル君は優しく慰め、つらい現実を優しく噛み砕いてシンジさんに受け入れさせようとします。
拒絶と無関心しかない世間で唯一自分を認めてくれる存在が目の前にあれば、だれでもそれに縋るでしょう。ほかに縋れるものなんてないから。
そしてカヲル君はこのどうしようもない現状の打開策(とカヲル自身が信じている事)をシンジに伝えます。
そりゃやるでしょう。受け入れがたい現実を受け入れたことでシンジさんは自分にとてつもない力があることだけは自覚できたからです。
「自分には力がある。前回は使い道を間違ったけど、今回は道しるべを示してくれる人がいる。これはいける!」
この時点で道しるべを疑うことをシンジさんに期待するのは酷というものです。
不吉な番号が付いた13号機に二人で乗り込み、汚名返上のため再度やる気120%のシンジさんは、視界に入る大好きだった綾波と似て非なる生命体を
そこで、自信満々でシンジさんを導いてきたカヲル君が異変に気づきます。
「何かがおかしい」
でもシンジさんは止まれません。
目の前に広がるクソッタレな現実から逃げられるまであと一歩というところまで来てるんだから。
船頭が迷い始めているのに漕ぎ手が止まりません。
もうすぐ答えに手が届きそうなときに「なんか不安だからやめよう」なんて言われても止まれません。
なぜならこの言葉はシンジさんにとっては「このクソッタレな現実ともうしばらく付き合おう」に等しいからです。
「もうすぐでこのクソッタレな現実から逃げきれるのになんでわざわざつかまってやらなきゃいけないんだ」
と考えてしまうのも無理はない。止まれない。
せっかくやる気を出したにもかかわらず2度やって2度失敗してしまったシンジさんは絶望してヒキニートに戻ります。
仕方ないことですね。頑張っても無駄だったんだもの。むしろ害悪だったんだもの。2度やって2度とも。
「自分が頑張れば頑張るほど他人が迷惑する」というつらい現実と2度も直面させられては、こうなってしまうのも無理はない。
だってこんだけ迷惑かけても、息を切らして自分に駆けつけてくれる絵にかいたようなツンデレ美少女が居るんですよ?
ふざけんな、何がシンジさんだこの野郎。かわいそうな自分に酔ってんじゃねぇぞ。
こんなに幸せな物語ありますか?超絶ご都合主義なアニメじゃねーか。
映画の感想を分かち合う友人もいない、人生の伴侶もいない、電話の着信履歴が1年近く残る、メールが来るのはスパムだけな俺より全然マシじゃねーか。
いっちょまえに絶望気取ってんじゃねぇぞ。どんだけ幸せなんだこの野郎。
シンジさん改めボケカスヒキニートシンジの心の変遷をたどりながら2回見ました。
同じ映画を2回見たのはこれが初めてです。
世間的にはクソ映画なのかもしれませんが、俺にとってはかなり満足度の高い映画でした。
まぁ、こういう意見もあるってことで。
<はじめに>
ヱヴァQが面白く無かった人の中には、どうしてそれが面白く無かったのか、
どうしてあんなに面白く無かったものをありがたがる人がいるのか、を理解できない人もいるかと思います。
(理解した上で嫌悪感を感じる人は本説明の対象外です)
そうした人達に向けてヱヴァQおよび旧作エヴァンゲリオンの面白さと面白く無さを説明してみます。
ただし、これは「説明」なのであって、ヱヴァQはだから面白いよねという「説得」ではありません。
理解できたからといってヱヴァQが面白くなるわけではありません。
<要約>
ヱヴァQはアンチorメタエンターテイメント的な構造=「期待を裏切られる楽しみ」を持っている。
(ここでいう「期待」とは「謎の提示→解決」「話のフリ→オチ」「主人公の苦難→成長」という、従来のエンターテイメントが持つ構造である)
「期待を裏切られたこと」が受け入れられない人は当然つまらなく感じるし、裏切られる楽しみを感じた人は楽しめただけの話。
これについては説明できません。「そう感じる」のだから仕方が無いありません。
ただ、他アニメに比べて単純にクオリティが低かったかどうかで言えばそんなことは無かったのではないでしょうか。
本説明は、こちらに関する説明になります。
通常、お話には各文章毎に意味があり、お話世界の設定を示し、物語が流れ、オチがつきます。
これが普通の「エンターテイメント」です。たとえばミステリを例にとってみましょう。
まず小説世界の設定が示されます。その示し方、というのは作者が見せたい示し方「ある視点からみた小説世界」です。
その世界には「謎」があります。クライマックスで作者は別方向からの視点を持ち込んだり、
視点の位置を変更することによって「謎の解決」をはかります。これがミステリです。
旧エヴァンゲリオンと新ヱヴァンゲリヲンには様々なエンターテイメント要素「純文学的」「SF的」「ミステリ的」な楽しみが入っています。
本論ではミステリとしての切り口からエヴァ群およびエヴァQを読み解きます。
エヴァには謎がちりばめられています。南極で4体いた巨人は何なのか、槍とは何なのか、人類保管計画とは・・・etc。
通常のミステリ系エンターテイメントではこれらの謎には一応の説明=オチがつきます。
謎と回答がセットで用意されていることがミステリ系エンターテイメントの条件なのです。
謎に対する回答が論理的でないことはミステリ系エンターテイメントでは批判対象になります。
では、謎に対して論理的な回答が用意されていればいいのでしょうか。答えは否です。
当たり前すぎる謎への回答は「つまらない、面白く無い、想定の範囲内」としてまた批判対象になるのです。
ミステリ系エンターテイメントの歴史はこの矛盾した期待「筋道が通っているのに予想を外す」に応えた歴史でした。
エンターテイナーは密室を作り、アリバイをでっちあげ、人物を交換し、天狗の鼻の上でナイフを滑らせたのです。
しかし、読者には読書体験が蓄積されます。「密室もの」「アリバイもの」「島田荘司のいつもの」などのように予想は外れにくくなります。
ミステリ系が広まることがミステリ系の楽しみを成り立ちにくくするのです。ここでエンターテイナーはさらに頑張りました。
密室ものと見せかけかけた人物入れ替え(トリックをトリックとして使う)や、
文章を意図的に誤読させることで謎でないと感じていたものを最後に謎であったと提示する(叙述トリック)などです。
「読者の読書体験込み」の謎(トリックを知っている読者への謎)を作ったのですね。
しかししかし、それすらも読者の読書体験に織り込まれてしまいます。「ああ、これは叙述トリックもの」だね、という風に。
こうしてミステリ系エンターテイメントのパターンは全て出尽くしたように見えました。あとは各作家の文章力/味付けだけの世界になったように思えました。
しかししかし、そうではありませんでした。ミステリ系エンターテイナー原理主義者が考えた最後の兵器、最後の謎、それがアンチorメタミステリです。
アンチミステリ、メタミステリとは何か?それはミステリ系エンターテイメントの条件「謎には回答がセットで用意されている」という想定、
「これはミステリだろ、という読者の読書体験を裏切る」ミステリのことです。(読者体験を念頭に=メタ、解決の放棄=アンチ)
ミステリ的に提示された謎は解決、されません。貼られた伏線には何らかの意図があり、背景には脈絡が流れているにも関わらず永遠にそれが明かさないのです。
読者は怒りました。怒り狂いました。こんな本は狂っていると騒ぎ、壁に本を投げつけ壁に穴をあけ、火を付けてさつまいもを焼いたのです。
ただ、一部の読者は壁にめり込んだ本を再度開き、焦げた本を再度繋ぎ合わせ始めました。
何故か?永遠に解決されない謎がとても魅力的に思えてきたのです。
アンチorメタミステリがただの問答無用の「裏切り」だったとしたら、それはミステリでもなんでもありませんでした。
しかししかししかし!アンチorメタミステリはきちんと「ミステリ」でした。何故か?提示されない、収束しないだけで、回答らしきものは「読めた」からです。
作者はデタラメに謎を配置したわけではなかったのです。
謎の配置には意味がありました。完全に繋がっていない謎同士、明かされずぶち切れた伏線から、かすかな破線のような真実の輪郭はかろうじて読めたのです。
一部の読者たちは途切れた伏線をつなぎ、明かされない謎を照らし合わせました。そうしてできた回答は一つではありません。
読者の数だけ答えがありました。いや、読者が考える度に回答が産まれました。
作者の意図は完全にトレースあるいはサルベージできない(ようにつくられている)ため、当然のことでした。
本を拾いあげた読者たちは各々、自分の回答について話合いを始めました。そうしてまた、新しい回答群が産まれたのです。
それは他のアニメにも言えることかもしれません。ですがエヴァは思いつく限り全部入り、ぐらいの要素が入っているのです。
SFとしてのエヴァ、純文学としてのエヴァ、ミステリとしてのエヴァ、キャラ萌えとしてのエヴァ。
それぞれが本格的に作られており、それらが複合的に絡み合うことで色々な読みを許す懐の深いアニメです。
当時、それら本格的な要素を持つアニメとしてエヴァはそれなりに期待されました。
TV放映の途中まで庵野監督は概ねそれに応えていたといっていいでしょう。
しかし、最終的には庵野監督は視聴者の期待をことごとく裏切ります。
TV版エヴァでは最終二話にはエヴァはほとんど登場せず、伏線は回収されず、ただ主人公が救われたという心象風景だけが提示されます。
旧映画版。今度こそ、と期待されたものを再び庵野監督は裏切りました。
復活したヒロインは次の瞬間無惨に食われ、主人公は最後の最後まで成長らしきものをせず、謎らしきもの回答は完全には示されませんでした。
たくさんの視聴者が失望・・・しませんでした。これこそがエヴァだと叫び、糞だ糞だと拍手喝采褒め讃えたのです。
エヴァがいかに糞でその糞が何を描いていたのかについて各々語り始めました。
何故か?視聴者は「裏切られることを予期していた」からなのです。
TV版最終二話でなされた裏切り。庵野監督が持つオタクへの自己嫌悪から発生したと言われるファーストインパクト。
これはうんこでした。ただただ庵野監督がうんこをしたかった。とてもうんこがしたかったことが原因で産まれた巨大なうんこでした。
しかし、これが偶然にもアンチエンターテイメント、アンチミステリの形式を踏んでしまうことになります。
「開示される予定だった真実が巨大な庵野のうんこによって適度に隠される」ことで良質なアンチミステリとなってしまったのです。
デリヘル・ガイナックス♪で嬢呼んだらいきなり罵られた挙げ句勝手に帰ってしまったんだけど、そういうプレイだと思えば良質だったみたいな感じです。
この放置プレイが評判を呼び、放置プレイマニアがこぞって映画館に行ったのですから、文句の出ようがありません。
いや、息子のわがままで映画館に連れてこられた私の家族など、一部、可哀想な人たちがいたことは事実です。歴史の裏にはいつも悲しみがあります。
庵野監督は10年くらいたったから、そろそろうんこ溜まってきたし、うんこしよう。するなら、前回よりもおっきいのを、だ。と考えました。
巨大うんこのために作られたより巨大な謎、セカンドインパクト、それが新劇場版ヱヴァQでした。
序、破は伏線でした。庵野監督は旧エヴァの制作/公開体験を、そして視聴者の視聴体験を利用します。
つまりメタミステリとしてのヱヴァ「第一の裏切り=お、これ、前と違ってまっとうなアニメじゃん!」です。
旧劇では糞が半分読まれていました。
旧劇を超えるためには、序、破、でエヴァが糞で謎を隠す形式のミステリである視聴体験を払拭する必要があったのです。
普通の糞好きに普通に映画館にきてもらっても、もう、庵野監督は満足できない。
訓練された糞好きでも楽しめる、よりアクロバティクなうんこを魅せるとともに、
中年男性がうんこを放り出したとこをみたこともない女子高生にうんこの素晴らしさを伝える、という庵野監督の願い–––––––人類補完計画。
この発動を目的として作られたため、序、破は精巧に綿密にまっとうなエンターテイメントをしていました。
そして、ヱヴァQ。やってしまいました。満を持して登場した監督はヴンダー=希望に糞を放り出す12使途(ネタばれ)として登場。
観客を糞塗れにします。
君の言っていることはほとんど意味が分からないよカヲル君、それどころか肝心なことは何一つ言わないよシンジ君以外のみんな。
これが第二の裏切り=
一人じゃないんだ、と思ってたら「孤独でしたー」
前に進めたんだ、と思っていたら「進めてませんでしたー」
槍でやり直せると思ったら「やり直せませんでしたー」
です。
救われるべきものが救われないアンチエンターテイメント、開示されるべき謎がほったらかしのアンチミステリこそがヱヴァQなのです。
つまらないのは当然なのです。まっとうな反応なのです。面白いとみせかけて面白く無く作ったのですから、面白いわけが無い。当然のことです。
ただ、「期待を裏切るという形式のエンターテイメントが面白さを期待されたら、最終的には<面白いことを裏切る>しかない」んです。
一度は必ず「面白く無いという面白さ」へ行き着いてしまうものなんです。これはもう、ある程度しょうがない。
問題は次回作シン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越されました。
ここできちんと伏線が回収される!と見せかけて回収されない!謎が開示される!と見せかけて開示されない!のか、どうかは分かりません。
アンチ的構造の最終回だったとしても、ある程度、おぼろげながら真実が見える形には仕上げてくるのではないでしょうか、というのが僕の予想です。
ある一つの解を持つミステリは、ネット社会においては瞬時に消費されます。
AはBだったんだ!以上!という情報は急速に読者や読者ですらない人間に行き渡ります。
「なあんだ、Aは結局Bだったのね。あーあれね。昔あったA=B型的カテゴリのやつね」というふうに。
物語の延命をはかろうと思うとメタorアンチミステリの形式をとらざるをえないのです。
読者が謎と真実について語り合うことで新たな謎が生まれ、語りが語りを呼ぶことで物語はかろうじて生きながらえるのです。
だから、今は普通のエンターテイメントにもアンチ的要素は含まれます。
ある物語できちんとオチがつくものの、別の読者を引きつける開示されない大きな謎がシリーズを繋ぐとみえる、などベタな展開ですね。
ちょうど、TVゲームがネットゲームになったことにそれは少し似ているかもしれません。
ゲームの攻略そのものではなく、攻略について語り合い、次アップデートへの期待について語り合うメタな楽しみ。
ラスボスを倒しても終わらないその営みこそがネットゲームの醍醐味です。
エヴァンゲリオン、一体、どうなってしまうんでしょうね、楽しみですね。
こちらからは以上です。
私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。
というのも、まどかマギカもヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。
ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。
だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。
ところがヱヴァQでは、シンジはアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように
ほむら=カヲルと言われるけど、むしろほむら=Qシンジだと解釈した。
同性愛に近い友情を抱いてたたった一人の友達(まどか・カヲル)が、
セカイを滅ぼす存在(クリームヒルト・第13使徒)になる前にこの世を去り、
残された救いようのない新世界に取り残され、変な化け物(魔獣・インフィニティ)と戦い続ける運命だけが残され
手を取らなければいけないのは、今まで敵対していた人物(QB・アスカ)しか居ない
だが、ほむらとQBが手を組むこと、シンジがアスカに引っ張られること、そのものが「希望」であると。
新世界で生き抜くためには優しくしてくれる同性愛に近い友人(まどか・カヲル)ではなく、旧世界では殺そうとしたほど憎んでいた存在(QB・アスカ)だ
ただ虚淵玄が言うほどほむらとQBの折衝には中間がないのがネックである。
結局、魔法少女がこの世から去らなければいけない存在になるのは新世界でも変わらない事はさやかが証明している。
しかしシンジとアスカは破で絆っぽいものを結んでいて、それがQでも残っていたことに希望がある。
まどマギの新世界も描写が足りず、またほむらの心境もまどかが概念になってからあの黒い翼を発現させるまでの空白が描かれていない。
それは14年の空白を経て、なんかたくましくなったアスカに近いのかもしれない。
これはただ女の子の強さを庵野も虚淵も信じているからだろうか。
ちなみに庵野はニュータイプでまどマギを評価するコメントを残しているが、注目しているのはほむらとQBらしい。
「ループ」ではなく「新世界でかつての敵同士が手を取り合うこと」というテーマがシンジとアスカと一致してるのも大きいのかもしれない
だからここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず。
キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。
私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。
というのも、まどかマギカもヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。
ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。
だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。
ところがヱヴァQでは、シンジはアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように。
あれから14年経ったのだ。
「おおかみこどもの雨と雪」は見ての通りの物語で、ぶっちゃければ何もない、人々に感動を与えるためだけに作られた物語。そして東はこれに感動したのだという。
もちろんおおかみこどもとヱヴァQでは扱おうとしているテーマがまるで違うから、前者に感動して後者に感動しないというのは当然なのだが、ことさらにヱヴァQを詰まらないというのは、単に14年分の変化が東自身にあったというだけではないのか?
なんかあずまんにつぶやかれたしQ見て良かったわ。
https://twitter.com/hazuma/status/270937897249693696
https://twitter.com/hazuma/status/270943010051719169
それはさておき、庵野はひどい。
ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。
ひどいのであって、凄いのかどうかは判断が別れる所だと思う。
座談会でも言われていたけど、なんの理由があってシンジにこれだけのものを背負わさせるか…
共同戦線はっていたはずのミサトやアスカは勝手に成長して実年齢的に大人になってしまうし。(アスカは精神だけだけど、それがまたキツい。グロい。
90~00年代のセカイ系の覇者であるエヴァがこれだけまっすぐに残酷なセカイ系的いじめをシンジに押し付けるというのは、ある意味では圧倒的に正解。
「君を失いたくない、そのためにセカイが滅びてもかまわない!」という無茶な行動に普通のセカイ系作品ならハッピーエンドで答える。
破で新鮮だったのは「それをあのエヴァがやるなんて…」という意外性に尽きる。その意外性に大して庵野がどう答えるか?これはもうわからんね→といった所でこの裏切り。また旧エヴァかよ!この構造はたしかにシビれる。坂上がシビれるのもわかる。圧倒的な新規切り捨て、古参いじり。
さておき、ヱヴァQおよび庵野が凄いorひどいのはセカイを代償にレイを救わせようとしておいてセカイもだめになっちゃったしレイも違うレイになっちゃったしと、ALL代償をシンジに押し付けたその点に尽きる。このひどい代償、並のアニメがやっていたら一笑に付されて終わりだろう。そんな壮大なおしつけ成立するはずないだろ!と。だがエヴァの場合これが成立する。なんといってもセカイ系の覇者なのだから、これくらいの壮大さじゃないとむしろ釣り合わないくらいだ。
そう考えると、「庵野監督が旧エヴァの狂気に対抗するために理詰めで導き出した回答」という点はかなり納得が行く。庵野さんは狂気と理論を同等に扱うことができる天才なのだろう。
だからここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず。
キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。
「おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。
普遍的なものとはつまり、親であるかそうでないかなどに関わらずすごいと感じられる作品だ。
「おおかみこどもの雨と雪」は一見すると親である人間のほうが多くの感動を得られるが、そうではない。
では何が良かったのか。人間と自然の関係か。はたまたジブリ的な「生きる」ことの素晴らしさか。
俺はそれらのどれでもないように感じた。あくまであずまんのツイートからだが。
おおかみこどもの何が良かったのか、ヱヴァQには何が足りなかったのか。言葉にするとそれは普遍性、または世界に通用する何かなのだろうけど、あずまんの口からそれはまだ具体的に語られていないように思う。ていうか正直よくわからないのでゲンロンカフェとかで語ってくれたら嬉しいです。
これを読んで思ったのは、東って幼児が画用紙にグチャグチャの絵を描いたのを芸術だって言うような人なのか、統合失調なんかで神の啓示だって描いた絵をこれは過去の巨匠にも匹敵するなんて言っちゃうような人なのかってことだ。
旧エヴァは間違いなく怪作で傑作で、庵野監督が本気で狂ってた作品であることは間違いない(完成度が高く辻褄が合っているのは狂いながらも計算されているってことだ)。
でもそれはどうやったって2度は作れないし、作ることを望んではいけないものであるはず。2度作ることを求めたら今度こそ死ぬか完全に狂うんじゃないか?
で、ここで否定に入る。
確かに旧エヴァは怪作で傑作だったわけだが、庵野監督が狂っていたがゆえに個人的問題から外には出られなかった。
最初はネルフ以外の人が描かれていてトウジやケンスケといった友達が描かれていたのに、話が進むにつれシンジと誰か以外の部分が削り落とされていって、最後はシンジの隣にアスカ一人という結末になってしまった。
なぜか分からないが、シンジが「また会いたいと思った」という気持ちによって、世界が完全に終わってしまう事態は避けられたらしい。
ゆえに旧エヴァはセカイ系の走りとなったわけだけど、旧エヴァにおいて完全に抜けていた問題が一つある。
それは、旧エヴァにおいてシンジは常に被害者であって加害者にならなかった、常に周囲から苦しめられ傷めつけられる存在だったってことだ。
例えばトウジが足を失う結果になったバルディエル戦、この時シンジは父親ゲンドウが稼働させたダミープラグの凶行を見せつけられ、ゆえに父親を殺人者と罵る権利を有する被害者だった。
旧エヴァにおけるシンジは結果として他者を傷つけることもあったかもしれないが、同時にその他者から傷つけられていた。
更にシンジは、ネルフ、ゼーレ、戦自といった巨大な組織による荒波に翻弄される立場であって、こんなの14歳の自分にはどうしようもないよ、どうやっても解決なんてできないよと言っても、まあ許される立場だった(現にミサトはシンジに対しエヴァ量産型の殲滅以外求めていない。それしかシンジにできることはないと分かっているため)。
ところがヱヴァQにおいて、シンジは明確に他者を傷つけ苦しめた加害者であり主犯の立場に立たされることになった。それも人類を壊滅させるほどの加害なのだからもう立派と言わざるをえない。
その上、カヲルやアスカの制止も聞かず行動した結果がフォースインパクトに繋がりかけたのだから、もう弁解などできる立場でない(せいぜい知らなかったと言うくらいだろう)。
この、自身が加害者になるというテーマは00年代に少なからず見られるのだが、自分は○○のために加害せざるを得なかったのだ、自分は○○の目的を達するために加害したのだといった言い訳がついて回った。
シンジも現実を見せられた時そうだった。自分は知らなかった、綾波を助けたいと思っただけだ、それなのに僕のせいだと言われてもどうしろって言うんだと。
だがその言葉が何億の死者と滅茶苦茶に破壊された世界に果たして届くものなのか。
ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。