おいおい。
「性格や情緒に問題を抱えている大人をなにかしらの形で減らさなければと思う」
って本気で言ってるの?
すごく恐ろしいことだと思うのだけども。
こういう「問題」があってもなんとかやっていける関係こそ、必要だろう。
それを減らすって、矯正なのか再教育なのか知らないが、気持ち悪くないか?
効用をあまり落とさず節約できる部分は消費資源を減らしたいものです.
仕事のために休んでいるのであって、休みのために働いているのではない。プレジデントで1500万の年収の人の記事を読んでどうすればいいのかさっぱりわからない。
各種クラスタオフ会に出てるのだけれど、みな趣味のために生きている生命力が強すぎて、平日の仕事に対して心配だけが募るようになってきた。圧倒的時間を消費し尽くすであろう仕事が幸せでないのはまずもって不幸である。平日を耐え週末の休みに取り戻すかの世に仕事を忘れる。没頭する。
彼、彼女らに触れると、仕事ができないオーラしか感じられない。趣味のためなら仕事はそれに影響を与えない範囲にとどめておく。違うんだ、仕事を幸せにしないとほかも幸せになれないんだ。そう叫びだしたくなることが多い。もっと仕事にまじめになろうよ。真摯になろうよ。趣味だけで生きても仕方がない。時間の差は圧倒的だ。だとしたらどうして仕事を幸せにしないんだ。それでいいのか。帳尻が合うのか。納得できるのか。
なつかしいな。社会に出て一度も使ってないけど、未だに覚えてるわ。
「ふっくらブラジャー愛の後」
「変なねーちゃんある日狂ってセ○○○乱○(自主規制)」
当たり前のこと。
親学は「先天的異常さえも、育て方が良ければ治る」というトンデモ。
ともすれば、元増田の発言は「親学にもいいところはあるんだよ」「対処法がほかにないからとりあえず親学に一回任せてみようか」という親学への援護、擁護につながりかねない。
中央線が止まったって、そこの区間が陸の孤島になるわけでもなしに、迂回ルートや代行バスがあるのに。
ちょっと違うな。幸せとか良い事ってあまり共感を生まないじゃん?でも、不幸とか嫌な事って誰しも経験あるし、感じやすいものだろ?
日本人はとかく協調性を重視する国民性だ。みんなと同じじゃなきゃ駄目なんだ。だから、「みんな一緒に不幸で辛いよね」を共感したいだけなんだよ。
一番指摘されたくないことだったんだね
<はじめに>
ヱヴァQが面白く無かった人の中には、どうしてそれが面白く無かったのか、
どうしてあんなに面白く無かったものをありがたがる人がいるのか、を理解できない人もいるかと思います。
(理解した上で嫌悪感を感じる人は本説明の対象外です)
そうした人達に向けてヱヴァQおよび旧作エヴァンゲリオンの面白さと面白く無さを説明してみます。
ただし、これは「説明」なのであって、ヱヴァQはだから面白いよねという「説得」ではありません。
理解できたからといってヱヴァQが面白くなるわけではありません。
<要約>
ヱヴァQはアンチorメタエンターテイメント的な構造=「期待を裏切られる楽しみ」を持っている。
(ここでいう「期待」とは「謎の提示→解決」「話のフリ→オチ」「主人公の苦難→成長」という、従来のエンターテイメントが持つ構造である)
「期待を裏切られたこと」が受け入れられない人は当然つまらなく感じるし、裏切られる楽しみを感じた人は楽しめただけの話。
これについては説明できません。「そう感じる」のだから仕方が無いありません。
ただ、他アニメに比べて単純にクオリティが低かったかどうかで言えばそんなことは無かったのではないでしょうか。
本説明は、こちらに関する説明になります。
通常、お話には各文章毎に意味があり、お話世界の設定を示し、物語が流れ、オチがつきます。
これが普通の「エンターテイメント」です。たとえばミステリを例にとってみましょう。
まず小説世界の設定が示されます。その示し方、というのは作者が見せたい示し方「ある視点からみた小説世界」です。
その世界には「謎」があります。クライマックスで作者は別方向からの視点を持ち込んだり、
視点の位置を変更することによって「謎の解決」をはかります。これがミステリです。
旧エヴァンゲリオンと新ヱヴァンゲリヲンには様々なエンターテイメント要素「純文学的」「SF的」「ミステリ的」な楽しみが入っています。
本論ではミステリとしての切り口からエヴァ群およびエヴァQを読み解きます。
エヴァには謎がちりばめられています。南極で4体いた巨人は何なのか、槍とは何なのか、人類保管計画とは・・・etc。
通常のミステリ系エンターテイメントではこれらの謎には一応の説明=オチがつきます。
謎と回答がセットで用意されていることがミステリ系エンターテイメントの条件なのです。
謎に対する回答が論理的でないことはミステリ系エンターテイメントでは批判対象になります。
では、謎に対して論理的な回答が用意されていればいいのでしょうか。答えは否です。
当たり前すぎる謎への回答は「つまらない、面白く無い、想定の範囲内」としてまた批判対象になるのです。
ミステリ系エンターテイメントの歴史はこの矛盾した期待「筋道が通っているのに予想を外す」に応えた歴史でした。
エンターテイナーは密室を作り、アリバイをでっちあげ、人物を交換し、天狗の鼻の上でナイフを滑らせたのです。
しかし、読者には読書体験が蓄積されます。「密室もの」「アリバイもの」「島田荘司のいつもの」などのように予想は外れにくくなります。
ミステリ系が広まることがミステリ系の楽しみを成り立ちにくくするのです。ここでエンターテイナーはさらに頑張りました。
密室ものと見せかけかけた人物入れ替え(トリックをトリックとして使う)や、
文章を意図的に誤読させることで謎でないと感じていたものを最後に謎であったと提示する(叙述トリック)などです。
「読者の読書体験込み」の謎(トリックを知っている読者への謎)を作ったのですね。
しかししかし、それすらも読者の読書体験に織り込まれてしまいます。「ああ、これは叙述トリックもの」だね、という風に。
こうしてミステリ系エンターテイメントのパターンは全て出尽くしたように見えました。あとは各作家の文章力/味付けだけの世界になったように思えました。
しかししかし、そうではありませんでした。ミステリ系エンターテイナー原理主義者が考えた最後の兵器、最後の謎、それがアンチorメタミステリです。
アンチミステリ、メタミステリとは何か?それはミステリ系エンターテイメントの条件「謎には回答がセットで用意されている」という想定、
「これはミステリだろ、という読者の読書体験を裏切る」ミステリのことです。(読者体験を念頭に=メタ、解決の放棄=アンチ)
ミステリ的に提示された謎は解決、されません。貼られた伏線には何らかの意図があり、背景には脈絡が流れているにも関わらず永遠にそれが明かさないのです。
読者は怒りました。怒り狂いました。こんな本は狂っていると騒ぎ、壁に本を投げつけ壁に穴をあけ、火を付けてさつまいもを焼いたのです。
ただ、一部の読者は壁にめり込んだ本を再度開き、焦げた本を再度繋ぎ合わせ始めました。
何故か?永遠に解決されない謎がとても魅力的に思えてきたのです。
アンチorメタミステリがただの問答無用の「裏切り」だったとしたら、それはミステリでもなんでもありませんでした。
しかししかししかし!アンチorメタミステリはきちんと「ミステリ」でした。何故か?提示されない、収束しないだけで、回答らしきものは「読めた」からです。
作者はデタラメに謎を配置したわけではなかったのです。
謎の配置には意味がありました。完全に繋がっていない謎同士、明かされずぶち切れた伏線から、かすかな破線のような真実の輪郭はかろうじて読めたのです。
一部の読者たちは途切れた伏線をつなぎ、明かされない謎を照らし合わせました。そうしてできた回答は一つではありません。
読者の数だけ答えがありました。いや、読者が考える度に回答が産まれました。
作者の意図は完全にトレースあるいはサルベージできない(ようにつくられている)ため、当然のことでした。
本を拾いあげた読者たちは各々、自分の回答について話合いを始めました。そうしてまた、新しい回答群が産まれたのです。
それは他のアニメにも言えることかもしれません。ですがエヴァは思いつく限り全部入り、ぐらいの要素が入っているのです。
SFとしてのエヴァ、純文学としてのエヴァ、ミステリとしてのエヴァ、キャラ萌えとしてのエヴァ。
それぞれが本格的に作られており、それらが複合的に絡み合うことで色々な読みを許す懐の深いアニメです。
当時、それら本格的な要素を持つアニメとしてエヴァはそれなりに期待されました。
TV放映の途中まで庵野監督は概ねそれに応えていたといっていいでしょう。
しかし、最終的には庵野監督は視聴者の期待をことごとく裏切ります。
TV版エヴァでは最終二話にはエヴァはほとんど登場せず、伏線は回収されず、ただ主人公が救われたという心象風景だけが提示されます。
旧映画版。今度こそ、と期待されたものを再び庵野監督は裏切りました。
復活したヒロインは次の瞬間無惨に食われ、主人公は最後の最後まで成長らしきものをせず、謎らしきもの回答は完全には示されませんでした。
たくさんの視聴者が失望・・・しませんでした。これこそがエヴァだと叫び、糞だ糞だと拍手喝采褒め讃えたのです。
エヴァがいかに糞でその糞が何を描いていたのかについて各々語り始めました。
何故か?視聴者は「裏切られることを予期していた」からなのです。
TV版最終二話でなされた裏切り。庵野監督が持つオタクへの自己嫌悪から発生したと言われるファーストインパクト。
これはうんこでした。ただただ庵野監督がうんこをしたかった。とてもうんこがしたかったことが原因で産まれた巨大なうんこでした。
しかし、これが偶然にもアンチエンターテイメント、アンチミステリの形式を踏んでしまうことになります。
「開示される予定だった真実が巨大な庵野のうんこによって適度に隠される」ことで良質なアンチミステリとなってしまったのです。
デリヘル・ガイナックス♪で嬢呼んだらいきなり罵られた挙げ句勝手に帰ってしまったんだけど、そういうプレイだと思えば良質だったみたいな感じです。
この放置プレイが評判を呼び、放置プレイマニアがこぞって映画館に行ったのですから、文句の出ようがありません。
いや、息子のわがままで映画館に連れてこられた私の家族など、一部、可哀想な人たちがいたことは事実です。歴史の裏にはいつも悲しみがあります。
庵野監督は10年くらいたったから、そろそろうんこ溜まってきたし、うんこしよう。するなら、前回よりもおっきいのを、だ。と考えました。
巨大うんこのために作られたより巨大な謎、セカンドインパクト、それが新劇場版ヱヴァQでした。
序、破は伏線でした。庵野監督は旧エヴァの制作/公開体験を、そして視聴者の視聴体験を利用します。
つまりメタミステリとしてのヱヴァ「第一の裏切り=お、これ、前と違ってまっとうなアニメじゃん!」です。
旧劇では糞が半分読まれていました。
旧劇を超えるためには、序、破、でエヴァが糞で謎を隠す形式のミステリである視聴体験を払拭する必要があったのです。
普通の糞好きに普通に映画館にきてもらっても、もう、庵野監督は満足できない。
訓練された糞好きでも楽しめる、よりアクロバティクなうんこを魅せるとともに、
中年男性がうんこを放り出したとこをみたこともない女子高生にうんこの素晴らしさを伝える、という庵野監督の願い–––––––人類補完計画。
この発動を目的として作られたため、序、破は精巧に綿密にまっとうなエンターテイメントをしていました。
そして、ヱヴァQ。やってしまいました。満を持して登場した監督はヴンダー=希望に糞を放り出す12使途(ネタばれ)として登場。
観客を糞塗れにします。
君の言っていることはほとんど意味が分からないよカヲル君、それどころか肝心なことは何一つ言わないよシンジ君以外のみんな。
これが第二の裏切り=
一人じゃないんだ、と思ってたら「孤独でしたー」
前に進めたんだ、と思っていたら「進めてませんでしたー」
槍でやり直せると思ったら「やり直せませんでしたー」
です。
救われるべきものが救われないアンチエンターテイメント、開示されるべき謎がほったらかしのアンチミステリこそがヱヴァQなのです。
つまらないのは当然なのです。まっとうな反応なのです。面白いとみせかけて面白く無く作ったのですから、面白いわけが無い。当然のことです。
ただ、「期待を裏切るという形式のエンターテイメントが面白さを期待されたら、最終的には<面白いことを裏切る>しかない」んです。
一度は必ず「面白く無いという面白さ」へ行き着いてしまうものなんです。これはもう、ある程度しょうがない。
問題は次回作シン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越されました。
ここできちんと伏線が回収される!と見せかけて回収されない!謎が開示される!と見せかけて開示されない!のか、どうかは分かりません。
アンチ的構造の最終回だったとしても、ある程度、おぼろげながら真実が見える形には仕上げてくるのではないでしょうか、というのが僕の予想です。
ある一つの解を持つミステリは、ネット社会においては瞬時に消費されます。
AはBだったんだ!以上!という情報は急速に読者や読者ですらない人間に行き渡ります。
「なあんだ、Aは結局Bだったのね。あーあれね。昔あったA=B型的カテゴリのやつね」というふうに。
物語の延命をはかろうと思うとメタorアンチミステリの形式をとらざるをえないのです。
読者が謎と真実について語り合うことで新たな謎が生まれ、語りが語りを呼ぶことで物語はかろうじて生きながらえるのです。
だから、今は普通のエンターテイメントにもアンチ的要素は含まれます。
ある物語できちんとオチがつくものの、別の読者を引きつける開示されない大きな謎がシリーズを繋ぐとみえる、などベタな展開ですね。
ちょうど、TVゲームがネットゲームになったことにそれは少し似ているかもしれません。
ゲームの攻略そのものではなく、攻略について語り合い、次アップデートへの期待について語り合うメタな楽しみ。
ラスボスを倒しても終わらないその営みこそがネットゲームの醍醐味です。
エヴァンゲリオン、一体、どうなってしまうんでしょうね、楽しみですね。
こちらからは以上です。
アメリカに5年住んでたことがあるが
>ところがある国では満員のバスで赤ちゃんが泣き出すと、その母親とはまったく関係のない
>初対面の男性の乗客が抱っこしてあやしてくれる。しかも、他の乗客も交代して
>赤ちゃんをあやしてくれるので5時間の長距離バスを母親はゆったりと過ごせたという
http://japan.techinsight.jp/2012/11/kuwabatarie-famires-situke20121123.html
どこの国だよこれ?そんな光景なんて一度も見たこがないし、
おお! よろしかったら書名をぜひ…
最低5万は、パチスロに使うためのお金を確保してください。理想は10万です。これが用意できない場合は用意できるまで絶対に打たないで下さい。これは失われることを前提としたお金ではなく、バッファとしてのお金です。また、チャンスを逃さないためのお金でもあります。一勝負終わって設定した金額を下回ったらその日は帰りましょう。
雑誌などを参考にして、期待値がプラスになる立ち回りをします。これには様々な方法があり、どれも一言で説明できるものではないので各自勉強してください。方法がわかったら必ずそれを守って下さい。また、その裏にある理論も理解していれば、応用が利きます。なお、閉店時間には注意してください。最近の台はコインの増えるスピードが著しく低いので、閉店までの時間を考慮しないと、取りきれないパターンが増え、期待値がマイナスになります。
特殊景品を現金化するのが前提なら、現金投資時点でその換金差相当が生じることを覚えておきましょう。いわゆる5.5枚交換という店では、1000円投資するごとにだいたい100円損していると考えて下さい。コイン単価の高い立ち回りをする場合に、この差が大きくなってきます。
1枚のコインも無駄にしないようにしましょう。「期待値がプラスの立ち回り」をした後に残った数枚〜数十枚のコインを根拠のないジャグラーに飲ませたりクレジットに残したりするのは辞めましょう。あなたの立ち回りではせいぜい時速70枚くらいしか稼げないのです。恥ずかしがらずにジェットに流しましょう。
貯玉、再利用ができる会員カードのシステムがあれば、必ず入って下さい。
打つべき台がない時は徹底して打たないようにしましょう。やむを得ず打つ場合でも、他人にも薦め、説明できるような客観的な根拠が必要です。
創価学会にでも入れば?「俺は変われた」らしいよ?
お前は一周遅れてる。拙速をもって是とする(嘘)増田界において致命的な遅れだ。
http://d.hatena.ne.jp/the-world-is-yours/20121125/p2
結論だけ言うと、元の女はただのビョーキだし、論理性のカケラもないから、まじめに取り合うだけ無駄。
頭抱えたくなるのは、元の女の書き込みに賛同してるクズどもだな。