はてなキーワード: 社会化とは
メイクにはセルフケアの効能があるのだ、とこの素晴らしい慣習をなぜ旧弊な男どもは取り入れないのか?と不思議がってみせますけどね。傲慢すぎやしませんか
化粧の意味は一側面としてケアや自己表現である以前にずっと社会性のもので、ある種型にはまりにいく作業だってことは女性の皆さんの方がご存じじゃないですか。なんでそこを都合よく忘却するんですかね
そういう文化は別に片務的に女性だけにあるものではなくて、男性に対しては筋トレをしろとかがそうで、社会化圧力と自己実現の両義的な機能があるのも同じですね。両性に課されるものとしてはいい服を着ろとかね
現にメイクなどしなくてもマジョリティ男性は男性自身の文化を通じて自律的に振る舞ってきたのであって、化粧を自己表現ではなく社会適応のための謂われなき苦役として捉えている女性がいくらでも存在するように、男性のセルフネグレクトというのはすでにそういう適応から漏れた人間の問題なんすよ
男性が女性文化をミソジニーで退けてるなんつってますがこれは逆で、男性は何を通じてケアをするのか?というところへの無関心からこういうセリフが吐けるわけです。ケアの文脈においては女性的なコミュニケーションの仕方を「正解」としてるってだけの啓蒙しぐさですね
狭い層の男性に対して化粧は重量挙げのオルタナとして機能するかもしれないから一概に跳ねのける必要はないですけど、すべての男性が女性の慣習を見習ってハッピーでよかったですねって話では断じてないですよ
まあフェミニズムの従僕たる男性学の唱える男らしさの解体が画餅であり、実質的な男らしさ2.0でしかないことはずっと昔にバレてるんでいいですけどね
初任給が上がったのは労働人口が減ったからだし、子育て支援が充実するのも、氷河期世代が対象から外れてきたので、支援対象が少なくて済むからだ
「(子ども手当は)子育てを家族から奪い去り、国家や社会が行う子育ての国家化、社会化です、これは実際にポル・ポトやスターリンが行おうとしたこと」
これはその後に長期政権を築いた故・安倍晋三氏による2010年頃の発言だ。安倍氏としては、政権奪還を見据えて当時の政府の財政赤字を抑えようと考えたら、氷河期世代への子育て支援は断固として潰さなければならなかったわけだ
現政府も数字を出して少子化の進行具合にショックを受けてるけど、現状がそれほどショックなら何で2010年に手を打たなかったんだって話で、日本の未来を一番に考えていた故・安倍氏がそれを打たせなかったというのは、そもそも国が子育てを支援をしても少子化は改善されないという確たる通説があるからじゃないだろうか?
たぶんだが、今やってる子育て支援の拡充もバラ撒きの一環でやってることなのだろう
それはわからないけど、氷河期世代は自分達が受けられなかった支援のために、独居老人となった後もその財源の一部となって支援金を納め続けることになるのである
この映画についての物議・炎上はいくつかあって個人的にも嫌な印象しかなかったんだけど、どうせ自分一人が見ても見なくても日本での売上は芳しくはないだろうと思って見に行ってきた。
そうしたら頭の片隅でずっと考えつづける映画になったので、思うところを吐き出しとこうと思う。
深夜の書きなぐりだから色々お粗末だろうが勘弁してほしい。
長いぞ!あと普段このサイトをそんなに見ないので空気感も分からない。
一番面白かったのは、ケンがバービーをやっと惚れさせることができた!!と確信して2時間か4時間かギターで弾き語りしてたあたり。
理由はざっくり後述するけど、男社会化したバービーランドで自信満々に振る舞っていたケンが、歌詞では『こんなダメな僕でも愛してくれるかい』みたいな弱気なことを言っていたのが毒っ気があってよかった。
それで、語るに外せないこの映画の社会的な側面についてだけど、当然かなり強いメッセージが感じられる映画ではある。
興味深いのはやっぱり、この映画がフェミニズム映画として評価されているのと同時に、アンチフェミニズム映画としても評価されているところだろう。
実際映画を見てみて自分も納得した。監督は女性で、女性についての映画を撮ることが多いそうだが、実はアンチフェミニズムの厭世観たっぷりなオジサンが撮ってますと言われてもまあ分かるような映画だと思った。
バービーが住んでるバービーランドは、完全な女社会だ。もっと言えば、現実の(従来の、あるいは誇張された形の)男性社会の反転だ。
総理大臣、一番偉い検事、ノーベル賞受賞者、マスコミ、工事現場で働く人、幸せで自由な住民。そのすべてが女性、つまりいろんなタイプのバービー人形である。
バービーランドには男性もいる。いろんなタイプの、と言ってもバリエーションは限られ、全員若い男だけだが、ケン達も住んでいる。
しかし彼らはバービーのおまけだ。バービーににこやかに挨拶して、バービーにかっこいいところを見せて、バービーがいなくては生きていけないと言うためだけに存在している。
夜になって、メインのバービー(以後マーゴット)に、メインのケン(以後ライアン)がキス待ち顔をしてみたり一緒に過ごさないかと提案してみるけど、ライアンはマーゴットに気まずそうに追い払われる。ライアンはもちろん深追いしたりせず笑顔で去る。全く彼を顧みず女子会に赴くマーゴットにいい感情は抱いていないのだろうけど、その国ではそうするしかない。
そう。この映画はバービーの付属品のケンたるライアンの、口に出せない苦しみからはじまっている。
そしてその直後に描かれるのが、バービーであるマーゴットの、バービー社会での初めての違和感だ。
バービーが『死について考えたことは?』と口にした途端、鳴り響いていたEDMが止まりパーティーが凍りつく。バービーランドでは多分、深く暗く考えることは好かれることではない。ライアンも後々深く考えるマーゴットは好きじゃないなどと言う。
ギャグの文脈でもあるだろうが、ちらほら映っていた重役のバービー達の仕事っぷりもそんなに思慮深そうではなかったし。
そんなマーゴットが抱えた違和感を出発点にして、マーゴットは、勝手についてきたライアンと一緒に、バービーランドを出て現実へ旅立つことになる。現実とはそのまま、人間が暮らす現代の社会──もちろんアメリカだ。(この旅の最中も、例えばライアンが料理か何かをしている最中にマーゴットはのんびりコーヒーを飲んでいたり、ちょっとした違和感が散りばめられていた。それともこれを違和感と思う自分の認識の歪みに気付かされるギミックなのかもしれないが)
そこからはかなり端折って説明する。マーゴットが旅に出たのは自分に起こった変化を治すためだったが、マーゴットは事態を解決する人間を見つけてバービーランドへ戻る。ところがそこは、現実の『男が尊敬される』男社会に感銘を受け、一足先に舞い戻っていたライアンによってケンダム(ケンの王国)に作り変えられてしまっていたのだ。
バービーたちは軒並み『洗脳』されており、大統領がメイド服でビールを運んだり検事がケンにマッサージをしてたりなどなど、変わり果てた有様にマーゴットは絶望するが──『変化』が嫌だと泣きわめいて──しかし、連れ戻った人間がバービー達をその洗脳から解き放つのだ。
バービー達はケンたちによる憲法の改正を食い止め、バービーランドに平和が戻る。
これが大筋だ。
この洗脳の下りは紛れもなく『woke』の比喩。しかも2重に交錯させた比喩のはず。
wokeとはググっていただきたいが、ざっくり説明すれば、直訳で目覚めた人々を意味し、フェミニズムなどの活動家を指している。侮蔑の意味合いで使われることもあるようだ。
表層を見れば、ここで描かれるwokeはバービーたちの方だ。
人間は、ケンダムと化したバービーランドの『おかしさ』をバービーたちにぶちまけて洗脳から解き放つのだが、やってることはひたすら説得である。人間はひたすら女性の生きづらさ──家事や子育てを押し付けられながらも綺麗でいなくてはならないとか、そういう愚痴をバービー達に語りかける。それで、バービー達は突然ハッと目を見開く。まるで今ようやく目が覚めたかのように。それで洗脳はとけ、社会を変革しようと活動し始める。
でも、作品の中で一番最初に『目覚めていた』のは、きっとライアンだ。
ライアンは男が立派な仕事をし、女性に必死にならず、振り回されず、通行人が丁寧に時間を聞いてくる現代社会に感動して、現代社会を作っていると図書館の本に書いてあったらしい、『男社会』の概念をバービーランドに持ち帰った。それは日本で言うところの『海外を見て日本の異常さに気づいた女性フェミニスト』の反転ではないだろうか?
バービーランドで無価値だった自分に気付かされた、ライアンもまたwokeだったのだ。
ライアンが短時間に実際どうやって、ケンたちはともかく、バービーまで男社会に染め上げることができたのか映画の中ではハッキリとは描かれていなかった。(とあるバービーが、バービー達は耐性が無かったのでケンに洗脳されたとは言っていたが、曖昧だ)
正直なところ、ここの急展開は若干違和感だった。まるでこの映画を、フェミニズム映画に仕立てるために無理やり男社会と女の生きづらさのエッセンスを詰め込んだシーンのようにも見えて、見ている間はずっと、制作陣はこれを皮肉のつもりで撮っているのだろうか?と勘ぐっていた。
それに、その違和感は多分全く見当違いなものでもなかったと思う。
結局ケンダムの夢は崩れさったわけだが、マーゴット(それか人間だったかも)は今までのバービーランドに戻るのではいけないと他のバービーたちを諭す。
その中で初めてバービーたちは、ケンたちがどこに住んでいるのか自分たちは知らないという事実に気づく。まあ多分、バービーシリーズの商品展開について詳しくないけど、ケンの家は存在しないんだろう。
その結果、バービーたちはケンたちの人権を認めると言う。ケンたちは大喜びだ。ある一人のケンがバービーに言う。『おれも最高検事になってもいい?』バービーは真顔で即答する。『それはだめ。でも下級検事ならいいよ』ケンはそれに喜び、ナレーションが入る。『ケンたちはまだまだこれからのようです…』
かなりの皮肉だよね?
口では権利を認めながら、実際は希望の職につけるかどうかは既得権益者の許可制なわけだ。明示的なwokeとして描かれた、女性の象徴であるバービーたちがその矛盾、つまり性差別をやらかしてる様をバッチリ描いている。結局変わらない憲法も、制限された自由に気づかず喜ぶ被支配者たちも、いびつだ。
これは、目覚めた過激なフェミニストたちがこのまま突き進んだって女尊男卑が訪れるだけですよ、なんてメッセージなのだろうか?
支障がなければいろんな人にこのシーンを見てほしい。これは、おそらく確実に、どちらとも取れるシーンだ。そしてその違いはきっと、その人が、今世間にあるフェミニズムをどう捉えているのかにかかってくる。
このシーンは現実の『行き過ぎた』フェミニズムの本末転倒差を指摘するものであるとするものと、あくまで現実の女性の苦しみのメタファーであるとするものだ。
前者は先程書いた通り。こういう見方をする人は、きっと『何でもかんでも男女差別だという今のエセフェミニストどもにほとほと嫌気が差している』という昨今なのではないだろうか。正義棒を片手に暴れ回る人々の脅威を感じているので、このメタファーが真に迫って見える。
後者は、きっと現実にはこんな女性優位の場所は存在していない(あるいはひょっとして存在し得ない?)と思っている人だろうか。だからこのメタファーがフィクションとして見れる。現実の女性と男性をただ反転させて描いただけだと読み取れる。性別を反転させて世の歪さを描こうとした作品はそう少なくはないだろうし、その系列だとも十分読み取れると考えられる。
結局変わらないルール。相変わらず性別の偏った管理職の面々。覚えのある話だろう。
はっきり言って、まるで分からない。そして(驕りかもしれないが)分からないのはきっと自分だけではないと思った。現に全く真反対の2つの陣営で評価されているのだし。
映画『バービー』は絡み合った皮肉だ。ただのフェミニズム、もしくはアンチフェミニズム映画だったとして、ここまで現実と比喩とを交錯させる必要はないんじゃないか?制作陣が描きたかったのは果たしてそのどちらかの主張なのか?
多分違うんじゃないかというのが、前置きが随分長くなったが、自分の考えだ。
映画バービーの締めくくりは、なんとマーゴットが人間になるというものだった。
変化の兆しを見せつつあるバービーランドに、マーゴットは上の空だった。あれだけ戻りたがっていた、バービーらしい日常に帰れることへの喜びは見えない。そこへ(詳しくはかかないけど色々あって現実で出会っていた)バービー人形の生みの親、ルースが現れ、マーゴットに手を差し出すのだ。
変化するのが嫌だ!と泣いて嫌がっていたマーゴットが──今思えばこの変化を拒む仕草も既得権益者側の改革を拒む姿勢のメタファーかも──考えが刻々と変わり、喜び、悲しみ、老い、変化していく『生き物』である人間になることを考える。
マーゴットは人間社会に飛び込んだとき、トレーラーにあるとおり警察に捕まったり、男にセクハラされたり、バービーランドとはまるで違う現実の荒波に揉まれるわけだが、その後、座ったベンチから、人間の生活のさまを広く見渡して涙を流すシーンがある。
公園の遊具で遊ぶ子供たち。親子。親密そうに語り合う若い男性二人。老人も。
マーゴットはそこで初めて、人間というものの理解の第一歩を踏み出したのだ。
そしてふと目を開けて、隣に座っていた老女と見つめ合うと、『あなたはきれいだ』と言って涙ながらに笑ったのだった。
流し見たインタビュー記事によれば、ここは監督が決して譲らなかったシーンなのだという。少なくとも監督のコンセプトにおいてかなり重要なウェイトを占める場面のはずで、実際演出も印象的だった。
映画のラスト、マーゴットはルースとの対話の末、人間になることを選ぶわけだが、その決断のときにも、人生というものがとても美しく描かれた。
笑顔の子どもたちが映るホームビデオ風の映像がいっぱい流れたのだが、最近こういうの全般に弱くて泣きかけた。
人生に起こるいろいろな問題に苦悩しながらも、人生の素晴らしさについて描く映画は一種のジャンルだろう。この映画はきっとそれに位置する。
男女差別についてかかれていたのは、勿論テーマ自体は主役扱いで、不誠実な描かれ方はされていなかったが、他の映画における、例えば叶わない夢の話や、恋、はたまた自然環境、仕事、社会問題など、『現代社会に生きる人々において共感を得る悩みごと』としてのテーマでもあったのではないか。
だってそうじゃないと、マーゴットは、他のバービーたちに背を向けて、バービーランドを抜け出さない。理想郷に永遠に住み続けていればよくて、いずれ死を迎える人間になんてならない。この映画が、女性は女性の理想郷で生きる権利がある、なんて事だけを説く映画なら、そんなエンディングにはしないはずだ。
いま分断社会に生きる我々は日々大いにストレスに晒されている。その中でも、人生が素晴らしいのだと思えるようであってほしいと伝える映画だというのが自分の所見だ。
少し話は戻るが、最後のマーゴットのルースとの対話の中で、細かい流れはうろ覚えだけど、特に印象に残った言葉があった。
人間になりたい気持ちの間で揺れるマーゴットが、バービーとして生まれた自分が人間になっていいのか、と産みの親に訪ねる。それに、答えるルースの言葉が、
さっきこれは単なるフェミニズム映画というわけではないとか力説したばっかりだが、テストで作者が考えるフェミニズムとは何ですかなどという設問があったら、自分はこれを抜き出して回答する。
男女差別と、人間賛歌という2つのテーマを包括する答えでもあるだろう。
フェミニズムが女性のためのものか、男性含む人間のためのものなのか。どちらと答えても炎上する今の世の中で、論争を煙に巻いて、たった一つの単純明快なフレーズを残したようなコメディ映画だった。
自分が何を言ってるか理解できるようになった方が生きやすいと思うぞ
まぁ『DQNコミュニティに篭ってるから問題無し』なら『そう・・・』と返すほかない
マジで貧困層とそれ以外が分かれて暮らすのは合理的というのがわかる話題のひとつだと思うの
まぁ正確には貧困層(INが少ない人)ではなく、DQN・生きづらいちゃんくんかつパブリックルールを守る気がない人たちですけどね
自己中というよりも断絶を感じる、社会化に失敗したDQNとふつうの人々との
こういう生きづらいちゃん・くんは自分がDQNって自覚が悲しいくらいにないよね
パリピ・クソオタ・自称陽キャ・自称陰キャ・そこそこ高所得・低所得、ぜんぶ関係ない
共感性ゼロで社会道徳ゼロ、社会化に失敗したマイルドサイコパスな真性DQN、それ以上でも以下でもないのよね
ふつうかつ庶民と呼ばれる人々は、自分のことを"大したものじゃない"と考えているし、自分のおつむを"ポンコツ"だと思ってるので、
知能・所得で階層間が断絶していると言っても、『自称エリートが自分のことをどの位置に置いてるんじゃい!』って反応になるが、
これが現実なのよ
知能・所得が違って住む世界が違うのでリアルでは見えないが、社会化に失敗した常識の通じないDQNが世の中にはいるのだ・・・
それをどうしていくか?が真のポリコレやね
>■子供産まなくてよかったです、マジで https://anond.hatelabo.jp/20230604131352
日本が人口増やさないと困るのは、年金とか労働とか主に「経済社会をどう回すか」のシステム部分なので、人口増政策を考えるのと両輪で「少ない人員で回る仕組み」を考え作ることも政治の仕事じゃないんでしょうか。
労働はまだしも、年金などの社会保障で「少ない人員で回る仕組み」に移行しようとすれば、現役世代から保険料をより多く徴収するか高齢世代への給付を削るしかない。どうやってもそうなる。
するとどうなるか。
現役はどんどん手取りが減って生活が苦しくなり、高齢者は年金だけで生活できなくなる。
医療費の自己負担も増えるので、ちょっとした病気やけがで蓄えが吹っ飛んで生活が詰みやすくなる。
こうしたリスクを低減するために、世代を超えて相互扶助できる家族という存在の重要性がどんどん増していくことになる。
子は働きながら親と同居して生活や育児のコストを下げ、親は子や孫の面倒を見ながら年金だけでは足りない生活費を子に援助してもらわなければやっていけなくなる。
子どもはどんどん少なくなっていくのに、子どもがいないと老後は満足な生活が送れない社会になっていくだろう。
昔は、各自で老いた親の面倒を見るのが当たり前だったので、資産のない一般庶民にとっては子どもをたくさん産むことは老後の保障を手厚くすることだった。子育てにかかる費用は、年金保険料を支払うようなものだったわけだ。
子どもがおらず、老後の蓄えも十分にない人は、それはそれは悲惨な老後を送るしかなかった。だからこそ子どもを作らない選択などあり得なかった。
年金はこれを社会化した。「あらゆる人が、あらゆる人の老後の面倒を見る」という仕組みに変えたわけだ。これによって子どもを持たない庶民でも老後が困らない社会が史上初めて実現した。
家族がいないと悲惨極まりない老後を送るしかなかった昔に戻りつつある。
そんな時代がすぐそこまで見えてきている中、一人で生きていく選択をするのはとても勇気が要ることだ。さぞすばらしい資産形成戦略があるに違いない。
知的に社会的にアレしている元増田みてーなDQN夫婦に辛辣になる気持ちは非常にわかるが
だけどそれで被害を被ったり最悪死んじゃうのはペットじゃなくて人間の子どもだからな
運良く死ななくても社会化されてないDQNやメンヘラがまた世に放たれることになる
地域にある公費で利用出来るベビーシッター(東京は24/365)や育児ヘルパー、ホームヘルパーを積極的に利用し、
それらだけでどうにもならなければ、夫は、休職、離職して、必要なら生活保護を受けて妻と子どもの面倒をみるべきですね
でもその覚悟なさそうなんで養護施設が回収するのがほんとはベストよな
つか、子ども庁はこういう虐待や不適切な養育環境を匂わせる投稿を諸外国のように通報できる窓口作るのが最初のお仕事だと思うわ
ダブスタじゃなくて、
リアルでは遭遇しない社会化に失敗したマイルドサイコパスな真性DQNが<ネットだと目に入る>だけだぞ
おっかねぇよな・・・
まぁ知的に問題があって自分が何言ってるかわからない系だと、同一人物が矛盾する発言している場合もあるだろうけど、
関わりたくないっていう点で一緒だわな
一言一句その通りだけどそれで死んじゃうのはペットじゃなくて人間だからな
運良く死ななくても社会化されてないDQNがまた世に放たれることになるからな
自己中というよりも断絶を感じる、社会化に失敗したDQNとふつうの人々との
こういう生きづらいちゃん・くんは自分がDQNって自覚が悲しいくらいにないよね
パリピ・クソオタ・自称陽キャ・自称陰キャ・そこそこ高所得・低所得、ぜんぶ関係ない
共感性ゼロで社会道徳ゼロ、社会化に失敗したマイルドサイコパスな真性DQN、それ以上でも以下でもないのよね
ふつうかつ庶民と呼ばれる人々は、自分のことを"大したものじゃない"と考えているし、自分のおつむを"ポンコツ"だと思ってるので、
知能・所得で階層間が断絶していると言っても、『自称エリートが自分のことをどの位置に置いてるんじゃい!』って反応になるが、
これが現実なのよ
知能・所得が違って住む世界が違うのでリアルでは見えないが、社会化に失敗した常識の通じないDQNが世の中にはいるのだ・・・
それをどうしていくか?が真のポリコレやね
blogは読んどらんが、母親がただのクソDQNだと思うんだよな。なぜ立ち往生する(子どもの安全が確保できない)状態になって開き直ることが出来るのか?
父親もおそらく同じレベルなのだろうし、親として不適格な人をバンバン通報>親権停止に出来るシステムが日本にできればいいんだけどなぁ
ただ現実はどんなに幼稚で親として不適格な人物であっても、事件が起こる前、明確な虐待がない場合は、通報できないので、
周囲が子どもを危険から守るために出来る事としたら、親に地方自治体がやっているベビーシッターサービスを勧めるくらいか
公費で毎月特定の時間まで無料で24/365で預けることが出来るので、
とかするといいと思います
一例↓↓↓
ベビーシッター利用支援事業(一時預かり利用支援) 東京都福祉保健局
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kodomo/hoiku/bs/bsitijiazukari.html
かわいそうな子どもを危険な目に遭わせないために、根性論ではなく、こういうサービスで積極的にフォローする必要はあるが、
DQN親を教育しないとマジでダメだぞ。萎縮させたらかわいそう><とか寝言言ってる場合じゃない
毒親に育てられた子どもは、無就業者になったり、最悪は犯罪者になるし、
人に好まれない要素が多い人はコミュニケーション不全を起こす可能性は高いですが
まともな環境に所属している場合や政治力がある場合はいじめられません
逆にまごうことなき上級国民でもおとなの理論を持ち込めないところでは
大人が介入するまで上級国民の御息女御子息がいじめられたりします
学習院初等科のニュースにもなった某エピソードは有名な話ですね
つまり、いじめとは、他人に好まれる好まれないの話ではないのです
政治などを含めたヒエラルキー+強いストレス環境+社会化されていない(サイコパス含む)人間がその空間に多い
この3つがすべて重なった時に発生します
かつて行われた魔女狩りと同じ話です(そのほとんどが教会の主導ではなく市民による言いがかりの私刑)
逆にまごうことなき上級国民でもおとなの理論を持ち込めないところでは
大人が介入するまで上級国民の御息女御子息がいじめられたりします
学習院初等科のニュースにもなった某エピソードは有名な話ですね
つまり、いじめとは、他人に好まれる好まれないの話ではないのです
政治などを含めたヒエラルキー+強いストレス環境+社会化されていない(サイコパス含む)人間がその空間に多い
この3つがすべて重なった時に発生します
かつて行われた魔女狩りと同じ話です(そのほとんどが教会の主導ではなく市民による言いがかりの私刑)
人に好まれない要素が多い人はコミュニケーション不全を起こす可能性は高いですが
現実的な話をしてるんじゃないの?
自らを性獣と称する人でも、常識/共感性/知能のいずれかが生きていれば、全裸の痴女・痴漢に対してドン引きするだろうし、通報するだろう
しかし、世の中には常識/共感性/知能のすべてが死んでる社会化に失敗した人間が存在するし、
セックス依存症になっている人や病んで自暴自棄になっている人間がいる
そういう人が全裸の痴女・痴漢みたらこれ幸いと何をやらかすか・・・という話だよね
窃盗をする方が悪い(それはそう)と我を通すのは結構だけど、容易に予測される危険を無視すると共感は得にくいよね
名前が出るとこなら、悪い方(犯罪者)のみを糾弾するだろうが、まぁ本音はそうなる
<保護犬、雑種犬を迎え入れ、人権飼育している人だけ石を投げなさい>
ブリーダー商法とアニマル系YouTuberよりも闇深い商売ねーから、な?
あとお前ら油断すると犬が人語を喋らないことをイイことに、
犬と一緒に遊ぶ時間を削る(『子どもができましたーw😊』『仕事が激務😭』)どころか、
『うちの子は散歩ノリ気じゃないんです』とかなんとか言ってヘーキで散歩サボりますやろ?
一応、散歩に連れて行ったと思ったら、飼い主の都合で歩きたい場所をスタスタ歩いてさっさと切り上げる
ついでに、『うちの子は飼い主以外の人間と犬が嫌いなんですぅ〜』って社会化もサボりますやろ?
更には、『犬にはそれぞれ性格がある』とかドヤ顔で言いつつも、犬も人間と同じレベルで性格・性質の違いがあることを認めないし、
おだかやな気質の犬同士を掛け合わせても生き物なので、異常に興奮しやすかったり(カッとなりやすい)、異常に支配的(ボスと振る舞おうとする)な子が生まれる認識を持たないやろ?
ほんで、手に余ったら飼育を投げて何故か被害者面で犬を処分しようとしたり、
一般人だけど、お金と時間とプロの手も使って、そういう気質を持つ犬に寄り添おうとする飼い主に、『甘やかしたからこうなった』とヘーキで石投げますやろ?
そもそもペットを飼うこと自体が動物虐待なのだが、そこは『人間は同じ人間の幸せを最優先すべき』でスルーするのだとしたら、