はてなキーワード: 烙印とは
中学校の体育は男女別で先生も異なり、それは保健分野もそうだった。私が中3の頃の担当は男性で、30人の女子生徒の前で性教育の授業がされた。先生は運動部の顧問をしていて普段はハキハキ、生徒指導もビシバシタイプだったが、その日は中学生の目でもわかるくらい様子がいつもと違っていた。声がなんか途切れ途切れだし。別に聞きたくない先生の妻との性事情なんかも口が滑った感じで話していて、それがすごい印象に残っている。
当時を思い返すと、めちゃくちゃ先生頑張ったんだろうなと思う。尊敬している。いま先生やってる人が子どものころは性教育ってもっと隠されたものだっただろうし。恥ずかしがる必要はないとはわかっていても30代男性が中学生女子に性教育をするとなった時、ひとつ間違えたらセクハラ教師の烙印を押されそうなものだものな…。(そういう冷やかしをなくすためにも教育が必要なワケだが)
おおよそ保健体育の先生は、スポーツ教育への関心が高い人で、保健分野が教えたくて…ということを第一に挙げる人は少ないのではないかと思う。そういう意味では体育科の人も大変だなと思う。子どもによって持ってる知識も意識もまちまちだしなー。難しいね。
正しさで殴りつけてくる麗奈にめっちゃムカついてたので、(滝にフラれるとかして)コイツ1回ボコボコに心折られねーかなと思ってたら、自らの手で久美子をソリ落ちさせて死ぬほど凹むという、まさにそんな展開が飛んできたので麗奈を赦す気になれたの良かった(結論)。
色んな意味で話題になったシリーズ第3期12話で久美子と滝は以下の会話をかわす。
滝「そうですね。正しい人でしょうか。本当の意味での正しさは、皆に平等ですから」
滝「黄前さんは、どんな大人になりたいですか」
久「私は…。私も、そんな人になりたいです」
以下、アニメ『響け! ユーフォニアム』シリーズの感想を、物語が提示した“正しさ”に沿って述べる。
正しさを他人に押し付けるとき、そこには暴力性が宿る。久美子と麗奈はむしろそれを行使してきた側で、実力が上だからという理由で3年生の中世古香織をソリから追い落としたことや、家庭の事情で全国大会前に引退しようとしていた田中あすかを強引に引っ張り出したことは、まさにその典型だ。その時、久美子たちはまだ1年生で、責任を負わない立場だから好き勝手やって良かったし、正しさで相手をねじ伏せることは快感を伴うので、作劇上それらはむしろ肯定的に扱われていた。ゆえに正しさの中に潜む暴力性はこれまで適切に隠蔽されていたのだが、3期になってブーメランとして返ってきたことで、その問題点が一気に噴出した。そして久美子と麗奈では反応が違った。
久美子は下級生を指導する過程で黄前相談所という二つ名を得るほど面倒見が良く、そして部長になったこともあって精神的に成熟し、融和的なスタンスを取るようになった。一方の麗奈はなんら変わることなく正しさの信奉者であった。ふたりとも「北宇治は実力至上主義」というイズムを共有していたし、強豪校からの転校生である黒江真由が「(ソリを奪うことになるから)オーディション辞退しようか?」と何度も何度も何度も本当にしつこく何度言ってきても久美子は「上手い人が吹くべき」というスタンスを一度も崩さなかった。
ただ、全国大会金賞を目指すべくオーディションを大会ごとにしたことで緊張がずっと続いたことや、大幅に変わった編成への疑問、そして精神的支柱である久美子が本当にソリから陥落するに至って部の混乱はピークに達する。これに関しては仲の良い者の間でも意見が別れており、たとえば強豪校出身の川島緑輝が「実力は同じなのだし、それだったら部が落ち着く方が」と久美子を支持する一方で、高校から吹奏楽を始めた加藤葉月は「それだとオーディションが成り立たない」という意見だった。葉月は本当に素人からスタートしており、3年生になってようやく大会メンバーに選ばれた。しかしだからオーディションを肯定しているわけではなく、落ちていたとしてもおそらく同じことを言っただろう。彼女の言葉は真っ直ぐで、積み重ねてきた努力に支えられていることは明白だった。一方の緑輝も、強豪校でやってきた経験から、おそらくは部の空気が合奏に与える影響を理解しており、だから部がまとまることを重視していたのだと思われる。つまりどちらも「正しい」。しかしそうやって意見が分かれ、「正しさ」が衝突しあう只中で、久美子と麗奈は袂を分かつ。
久美子は、部の混乱を収めるには顧問の滝が編成の変更やオーディション結果に対する意図を説明することでみんなが納得することだとしてその道を模索するが、しかし麗奈は「そこに疑問を抱くと全てが崩れる。指導者の方針に従うのは大前提」と否定、さらにはソリ落ちした直後の久美子に「自分の努力不足を棚に上げて思い通りにならないってそんな言い訳か文句が大半」という正論を浴びせ、「部長失格」の烙印を押す。
このシーンに対する感想を言わせてもらえれば、「安全地帯から正論ぶってんじゃねえよ麗奈ァアッッッ!」である。心底ムカついたね。
高坂麗奈はサラブレッドなトランペッターである。父がプロの奏者で、家に防音スタジオを作れる程度には裕福で、幼い頃から音楽指導も受けてきた。彼女は学生離れした実力者で、当然のように大会メンバーはおろかソリストに選ばれる。環境だけが彼女をそうしたとはもちろん言わない。それに見合うだけの努力をしてきたのだろう。だから彼女が「自分の努力不足を棚に上げて指導者に楯突くなんて!」と言うのは“正しい”。目標を全国大会金賞に設定したのは部員たちだし、それに向けて合奏を作り上げるという意味で滝の指導力に疑う余地はないのだから、従うのは当然。麗奈が言うことは常に“正しい”。そして久美子も視聴者も、その麗奈の“正しさ”に一度は与したはずである。“正しさ”でもって中世古香織を追い落とし、田中あすかを大会に引きずり出し、劇的に描かれたそれらのシーンに感動してきたのだから。そこに潜む暴力性に気づこうともせず。だからいざその暴力性が自らに向けられたとき慌てふためくのは滑稽な話である。しかし感情は偽れない。“正しさ”で殴りつけてくる麗奈はやっぱりムカつくのだ。そのムカつくという感情がベースにあることは認めつつ、その上で言いたい。正しさは万能薬じゃない、と。
麗奈の正しさは(構造的に)滝の影響を強く受けている。北宇治吹奏楽部顧問の滝昇は若手ながら実力のある音楽指導者で、部員たちに「全国を目指す」か「楽しく過ごす部にする」かを選ばせた人物である。生徒の自主性を重んじると言えば聞こえはいいが、自分たちで選んだからには妥協を許さないという暴力性がそこにはある。確かに滝の指導力は本物で、北宇治はメキメキと実力をつけ、就任1年目にして全国大会に進出するほどの成長を見せた。しかし実力が上がれば目標が上がる。目標が上がれば部員たちにより負荷が掛かる。そうして発生したのが関西大会直前に発生した部の混乱であり、滝にはそれを鎮める力もその気もなかった。それは合宿中のやり取りに現れている。
滝「楽しむ、と書いて音楽、ですね」
橋「本当に分かってる?」
滝「(虚を突かれたような顔をした後)分かっていますよ」
場面としては関西大会直前の合宿で、部のピリピリした空気を感じ取った橋本(滝の音大時代からの友人で、北宇治の外部指導者)がジョークで和ませた後、軽く訓示しようとした時のことである。橋本に言わせれば、音を楽しむことが音楽だと本当に分かっていれば、こんな空気を放置しておくはずがない、といったところだろう。滝の、合奏を作り上げるという意味での実力は確かなのだろうが、その指導力が及ぶのは正しさが通用するところまでであり、それで解決できない問題にぶち当たったときは無力である。そして滝自身に解決する気がない。ただの外部指導者に過ぎない橋本が一瞬にして感じ取った「ピリピリした空気」を滝はただの一度も解消しようとしなかったのだから。滝には解決する能力がなく、その気もない。滝に無理なのだから、ミニ滝にすぎない麗奈にはもっと無理である。
そんな部のピリピリした空気を解消したのは久美子だった。思っていることを素直に打ち明け、解決したのだった。
「1年生も3年生も同じ土俵で競ってひとつの目標に向かえる北宇治が好き」 「その北宇治で全国金を取りたい。でも届かなかった」 「何かを変える必要があって、だから大会ごとのオーディション形式にした」 「間違っていたとは思わないけど、でも戸惑わせたことも事実。すみませんでした」と部長として謝ったあと、「納得できない人もいると思う。でも私は北宇治で全国金を取りたい」そう訴えた。「1年間みんなを見ていて思いました。こんなに練習してるのに上手くならないはずない。こんなに真剣に向き合ってるのに響かないはずない。北宇治なら出来る。私たちなら出来るはず」と。
この久美子の真剣な訴えが部員たちの心に響き、部は急速にひとつにまとまった。
さて、久美子は部長失格だっただろうか。その答えは言うまでもなく明らかで、失格なのは正しさを押し付けることしかできない顧問とドラムメジャーであろう。
このあと、久美子と麗奈は仲直りをするのだが、ハッキリ言って納得できるものでは到底なかった。久美子はあっさりと赦していたが、一視聴者としては、「ああ、麗奈を赦すことは絶対にできないな」と思った。物語としては、このあと黒江からソリを奪還し、全国大会金賞を取って大団円を迎えるだろうが、それはそれとして高坂麗奈というキャラクタを心底嫌いになったことだけは動かせないだろう、という結論に至り、そしてそうなるはずであった。
のだが、物語は急展開を迎える。
ここからは原作改変としてすでに話題になっている、ユーフォニアムのソリ奏者を決める公開オーディションについて、私が受けた衝撃を述べる。ちなみに原作未読である。
久美子にとって憧れである田中あすかを思わせる銀のユーフォニアムを携えた強豪校からの転校生で、実力は高い。つまり久美子を脅かすポジションを与えられたキャラなのだろう、ということはすぐに分かった。実際その通りの役回りで、「(私のせいで大会に出られなくなる人がでるから)オーディション辞退しようか?」 「(ソリを奪うことになるから)オーディション辞退しようか?」と本当にしつこいぐらい繰り返し久美子に訊ねるうっとうしいキャラでもあった。それはさておき実力は本物で、いち早く警戒感を露わにした麗奈は、当初「久美子の方が上手い」と言っていたのに、途中から「久美子の方が好き」とトーンダウン。さらにソリの練習に久美子を付き合わせて「私は全国も久美子と吹くつもりでいるから」と激励している。しかし関西大会でソリの座から久美子は陥落する。その際、麗奈は「やっぱり…」という表情を見せるため、滝の求める音を出せるという点で、黒江は明らかに上だったと思われる。
ただこの段階でのソリ落ちは明らかにそういう流れであったし、物語的には全国大会でソリ奪還して金賞の方が盛り上がるため衝撃は全くなかった。物語がそのラインに乗ったことで、そうなることはもはや確定的に明らかだとさえ思った。
関西大会は滝の一存で決まったが、全国大会は甲乙つけがたいとの判断で、部員投票による公開オーディションをすることが決まった。2年前、当時1年生だった麗奈と3年の中世古が競い合ったアレのリフレインである。しかし当時と違ったのは、奏者を幔幕で隠し、音だけで判断してもらうということ。奏者は視聴者にも隠されており、これには第四の壁みを感じた。つまり視聴者であるあなたたちも、音だけで判断してくださいね、という制作者たちの声が聞こえたのである。
音楽的素養は0で、細かいことなんて何も分からないが、確かに2つの音は違った。
1番目の奏者は音が小さく、2番目の奏者は大きく聞こえた。自分が部員なら2番目に投票しようと思った。
投票シーンに移り、2番目の奏者には緑輝、塚本、奏の手が上がる。やはり2番目が久美子だったんだと確信した。同時に勝利も確信した。しかし同票であるという。
滝「奇数のはずですが…」
麗「私が、まだです」
ここで2年前のトランペットのソリオーディションの回想が入る。「裏切らない?」 「もしも裏切ったら、殺していい」のやつである。そして――
麗「……1番です」
え、ちょ、待って。2番が久美子やろ、1番????????????
滝「分かりました。では1番の方は、前へ」
黒江の脚が前に出て、麗奈の顔がくしゃりと歪む。久美子が目を伏せる。
マジかよなんだこれふざけんなよ。
客席からざわめきが広がり、部員たちの困惑した表情が映される。
また正しさの暴力かよ! 誰が得するんだよ、この展開!
困惑と怒りの感情でないまぜになったが、まっさきに動いた久美子の言葉に背筋が伸びた。
久「これが! 今の北宇治のベストメンバーです! ここにいる全員で決めた、言い逃れのできない最強メンバーです! これで全国へ行きましょう。そして、一致団結して! 必ず金を! 全国大会金賞を、取りましょう!」
3年間やってきたことがある意味で潰えた直後にこれを言える久美子は本当に立派だと思ったが、脱力した。訳が分からないと思った。
呆然としたまま画面を見続ける。
場面は進んで行き、久美子が麗奈を探している。しかし先に帰ったという。大吉山で待ってるというラインの画面が映され、登りきった先にいた麗奈は背中で泣いていた。
それを見た瞬間、(上からで申し訳ないが)「赦せる」と思った。麗奈は分かってて久美子に引導を渡したんだと理解し、麗奈に対する怒りが氷解した。
正しさは暴力性を孕む。しかしその正しさが自らに向かうときのみフェアネスになる。日本語に直すなら公正さだが、ここは敢えて“正々堂々”という言葉を使いたい。
麗奈は黒江を選んだんじゃない。久美子より音楽を取ったんでもない。久美子との約束を果たしたのだ。
2年前。中世古香織をソリから追い落としたとき、そうけしかけたのは久美子だった。麗奈は「裏切らない?」と聞き、「もしも裏切ったら、殺していい」と久美子は答えた。ここで彼女が言いたかったのは、「自分の音楽に正直であれ」ということだったろう。そういうセリフがあるわけじゃない。しかし含意は明らかなように思われる。迷いを振り切った麗奈は実力を発揮し、ソリの座につく。
麗奈はその時の同じように、正々堂々と、胸を張った。
たとえそれが自らの心臓に刃を突き立てるほど辛いことであっても。
久美子は音大に行かない。公式大会でソリを吹くチャンスは最後だろう。海外の音大に留学する麗奈からすれば、肩を並べて吹ける最後のチャンスでもある。
でもそれを分かった上で、どちらが久美子でどちらが黒江か分かった上で、久美子を切って捨て、そのかわりに約束を、果たしたのだ。
久美子は言った。「私は、それが何よりうれしい。それを誇らしいと思う自分に胸を張りたい」
もし仮に、麗奈が久美子との約束ではなく、久美子を選んでいたら。麗奈はもちろんのこと、久美子も胸を張れなかったはずだ。最後の全国大会で一緒にソリを吹けたかもしれない。高校時代のいい思い出として残せたかもしれない。しかしあのときかわした約束を裏切り、その時の自分たちを殺すことになる。だから“正しさ”に傷つくことが分かっていても、麗奈は己を曲げなかったし、久美子はそんな麗奈を誇りに思うと胸を張ったのだ。
原作改変で賛否両論の展開であるが、私にとってはアニメ『響け! ユーフォニアム』が描いてきた物語の結末として、これ以上のものはないし、これ以外のものもないように思われる。私は私の感想が正しいとは思っていない。久美子と麗奈がソリを務める全国大会が見たかったし、今もまだ見たい。久美子がソリを吹けないなんて嘘だろう、とまだ思っている。だから原作改変に怒っている人たちを否定する気には一切なれない。それもまたひとつのあり方だと思う。でもだからこそ、正々堂々と胸を張る道を選んだ久美子と麗奈を、いち視聴者として誇りに思う。
余談。滝は「どちらも充分ソリが務まると考えています」と言って部員投票に委ねたが、ある意味で嘘だろうと思う。というのは久美子と黒江の音に明確な違いがあったからだ。どちらが上か下は分からない。でも違いがあった。久美子の音は大きく、黒江は小さかった。麗奈が選んだ今なら分かる。久美子のユーフォニアムは主張が強かった、ということなのだろう。あくまでユーフォニアムは影だ。スポットライトがあたるべきはトランペットであって、黒江のユーフォニアムは影に徹することでペットを際立たせる演奏だった(黒江の楽譜には「支える!」という書き込みが何度も現れる)。合奏で求められるのは、つまり滝が求める音を出せたのは黒江だった。
ではなぜ滝はソリオーディションを開いたのか。責任を投げたとは思わない。頑張ってきた久美子にチャンスを上げたとも思わない。本人が述べているように、久美子が部員からの信頼篤き部長であるがゆえに、部がまとまるにはそれが最善と考えたのだろう。
「私は、今の北宇治を高められるところまで高めたと、自負しています」。つまり本当に、久美子と黒江で大きな差はないのだ。どちらで臨んでも、金に届きうる。そのために必要なのはむしろ部のまとまり。そういうことなんだろうと思う。
余談その2。12話の放送直後、シナリオライターが原作改変を主導したのは自分だと告白していた。
https://x.com/oitan125/status/1804807383018795391
賛否両論になるのは間違いなかったから、その責任を一手に引き受ける、とそういうことだろう。アニメの中で、麗奈がやったのと同じ立ち回りである。これが正しい結末だと、原作を改変してまでそれを押し付けた。しかし同時にそれに納得のいかない視聴者からボコボコにされることを引き受けた。正々堂々と、胸を張ったのだ。いち視聴者として、制作スタッフの決断とそれを支持した原作者を誇りに思いたい。
長々とご苦労だけど一発目で論破されてるんだよね、これ
人に向かってポリコレ死刑を宣しておいて←誰も死刑にしろなんて言ってない
そこに反論を受けると「ただの感想だし!」「感想を言う権利はあるはずだろ!」まで後退する。←死刑にしろなんて言ってないので反論も存在しない。「ただの感想だし!」「感想を言う権利はあるはずだろ!」は正論。反論ではないので後退には当たらない
もう飽き飽きする変わらない小ズルさ。←で?上記二行が破綻しているので何が「小ズルい」のかが理解不能。正論に対して悪態をついてるだけ
こういうのって程度問題だし、ここから先は表現としてアウトみたいな線が決まってないグラデーションのようになってるってのが理解できないんだろうね
表現規制ってのはもともと公権力がやるもので、そうではない自主規制なんかは民間の我々が各表現に関して議論して社会的合意を形成するべきものだよね
駅に貼られたオタクポスターなんかはクソフェミが「性的だ!」といいオタクが「どこが性的?」と反応して、ある意味拮抗しているのだが、そのポスターのキャラが使用済みコンドームを口にくわえたりしたら、オタクでもさすがにダメだろこれっていう奴が出てくると思うよ
結局は程度問題であって、それを一人がけしからんと言っても覆らないが、大衆の多くがけしからんと思えばそれは表現としてまずいよねという合意が形成される。クソ共産党はそこに政党としてコミットしようとしてるので絶対にもう入れないけどね
別に、まずい表現を貫き通す自由もあるが、それを批判する自由ももちろんある。結果としてなんらかの烙印を押されてパージされるだろうが、その表現をしたければすればいい。大衆に受け入れられないってだけで、ショービジネスとかで食ってるやつには死活問題だろうけど
言いたいこと:「少女小説をラノベに含めても無視してもボコボコに叩かれる」という難しい状況がある。
いま、ライトノベルのオールタイムベストを選出する作業が進められている。
ラノベが社会に認められるためには、売り上げだけが唯一の評価軸である現状では差し障りがある。文化としての成熟には体系化と批評の存在が必須であり、その一歩としてたいへん意義のある活動と言えるだろう。
あくまで叩き台であり、作品数的にもより拡張した形を目指していくようだが、現時点でも各年代に目の行き届いた、ラノベの歴史の流れを俯瞰できる内容となっている。
ただ、この手の企画はどのような基準で選んだとしても、あれがないこれがないという不満はどこかから出てしまうものだ。ラノベ150選も例外ではない。
その中で今回特に目についたのが、「女性向け作品がない」という声だ。
これに対する企画者の返答は、女性向け作品については単独のガイドブック等が先行して存在しているから、というものだった。
合理的な判断だと思うのだが、これでも納得していない人は多い。少女向けをないがにしろにするのか?と憤慨し、容赦なくボッコボコである。
増田は、ライトノベルや少女小説(もしくは「女性向けライトノベル」)の歴史そのものについてはともかく、ライトノベルと少女小説との関係性についてはちょっとした知識がある。
今のままでは企画者氏があまりに不憫なので、これについて簡単に解説しておこうと思う。
ニフティサーブのSFファンタジー・フォーラム内で増えてきたある種の若者向け小説の話題を別会議室に独立させるにあたって、管理人の神北恵太氏が命名したものである……
もちろん名前はそうでも、ジャンルとしてのラノベ自体が90年に突然生まれたわけではない。起源をいつとするかは諸説あるものの、ラノベ的作品はそれ以前から存在していた(存在→命名の順であってその逆ではない)
そのようなラノベ的小説群は「ライトノベル」が定着する以前には、個人やコミュニティごとにさまざまな呼ばれ方をしていた。そのうちの一つに、ジャンルの代表的なレーベルから取った「ソノラマ・コバルト系」というものもあった。
言うまでもなく、コバルト文庫は少女小説の代名詞というべきレーベルである。つまり、命名の時点では「ライトノベル」は少女小説(の少なくとも一部)を当然に含むような形で規定されていたということだ。
(ここでの「少女小説」とは当時のコバルト文庫やティーンズハート文庫などのことであり、たとえば吉屋信子や創刊直後のコバルトシリーズなどは当然ながら想定していない)
以後、他メディア化の機会などの関係で男性向け作品の方が存在感はあったものの、ライトノベル(的なもの)は女性向けを含めたひと塊のカテゴリとして扱われていく。
2000年代に入り、語としての「ライトノベル」が一般に定着して以降も、この認識はそれほど変わっていなかったはずだ。
この状況に大きな変化をもたらす出来事が、2010年代前半に起こった。
まずは2013年、とある文学研究者がツイッターでこのような発言をしている。
少女小説・ラノベそれぞれのジャンルについての価値判断を含んでいるとまでは言わないが、これが少女小説の側に立った発言であることはまず間違いないだろう。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
それが正式な形で世に出たのは、2014年のことになる。著書としての刊行である。
この本で研究者氏は丹念に事実を積み重ねた論証により、まさに「少女小説が歴史的にライトノベルではない」ことを証明してしまったのだ。
詳細は省くが、
少女小説は戦前からの少女文化独自の伝統を直接的に受け継ぐ文学ジャンル、ライトノベルは戦後のマンガ文化等の影響から新たに生まれた新興の娯楽であり、その出自からして全く異なる別物である
ということだ。
この、市井のオタクではとうてい太刀打ちできない完璧な形の少女小説≠ラノベ論の出現により、少女小説⊂ラノベ派の多くは白旗を上げて沈黙することとなる。逆に、少女小説がラノベの枠内で扱われることに不満を感じていた少女小説業界関係者・読者は、我が意を得たりと快哉を叫んだ。
日本文学研究者による恐らく初めての本格的なラノベ論ということもあり、この本はもともとラノベや少女小説に興味のあった人間にとどまらず、幅広い層の人々に読まれていった。今やラノベ関連の研究ではほぼ必ず参照される一冊となっており、アマチュアでもラノベの定義や歴史を語るなら必読と言っていいだろう。
これによりパラダイムが決定的に転換し、少女小説をラノベに含めるような人間は、もはやそれだけで時代遅れな「分かってないやつ」の烙印を押されるまでになったのだ。
(フェミニズム的な意識の高まりにより、女性文化(少女小説)の功績を男性側(ラノベ)が都合よく収奪してきた、という構図に気まずさを強く覚えるようになったのも、この傾向を後押しした)
この空気の変化は以前/以後と呼んでいいほどに劇的なものであり、刊行から10年経った2024年の現在にいたっても、更新される気配は特にない。
お分かりだろうか。
つまり、少女小説は「ライトノベル」ではない、というのは、もともと少女小説サイドが言い出した主張なのだ。
現在では、ラノベの定義・歴史との関連で(特に男性の論者が)少女小説に触れる際には細心の注意が要求されるし、実質的にはほぼタブーに近い。
企画者氏がラノベ150選から女性向けを除外したのも、世間のその暗黙の風潮におとなしく従ったという側面がやはりあるのではないだろうか。
加えて企画者氏の場合は、かつて不用意にレジェンド少女小説作家を「ライトノベル作家」と呼んで、少女小説側から激しい批判に晒された当事者でもある。そのため今度は、なおさら慎重に配慮したつもりだったのだろう。本人としては。
結論として今回の件は、気遣いがすれ違ってしまった悲しい事例ということになる。
少女小説読者といっても一枚岩ではないし、自分はそんな配慮ぜんぜん嬉しくない。多数派がどれだけ否定していても自分は少女小説もラノベに含めるべきだと言い続けるぞ。という人もいるだろう。その気持ちもよく分かる。
分かるが、少女小説をラノベに含めても無視しても必ずどちらかからボコボコに叩かれることになる、板挟みの苦しい立場のことも少し考えてみてはもらえないだろうか。
オールタイムベストの企画者氏は現在、文化としてのラノベ保全のため「ライトノベル図書館」の設立計画を進めており、クールジャパン予算を獲得すべく自民党の国会議員に働きかけている。ラノベオールタイムベストはその陳情の材料にもなる予定らしい。
こうした活動の文化的な意義を踏まえた上で、できれば多少の意見の相違は呑み込み、振り上げた拳をどうかそっと下ろしてはくれまいか……
長え! 一番言いたいことを最初に置いとけよ。
追加しときました。
核心部分が何で匿名やねん
「ラノベのルーツの1つは少女小説である」と「少女小説はラノベである」は意味が全然違うと思うが(後者を主張してる人いる?)
“ラノベのオールタイムベスト”に、ある少女小説を推すとした場合、(少女小説全体やレーベル全体ではなく)少なくともその作品は「ラノベ」で(も)あることが自動的に前提となるのでは。
逆に言うと、ラノベではないがラノベのオールタイムベストに入れろ、は通らない。
排除ではなく、少女小説の側がラノベに括られることを拒否した運動があった、という話です。
クール・ジャパンから公金を引っ張るために少女レーベルや未分化期を無視するのは仕方ないキリッ されて、納得は出来ないですけど………
リストから少女向けを除外した理由(と思われるもの)と、批判のトーンをなるべく抑えてほしい理由は、別々に書いたつもりです。
wikipediaより「1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において〜「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まり」コバルト入ってるやん
はい。
その話を本文に書いています。
その、とある文学研究者って誰だよ。名前を出してくれないと分からないよ。2013年の事なら記憶にありそうなものだが思い当たる人がいない。
ツイートの件はともかく、著書の話を見ても心当たりがないなら、たぶんそもそも知らないんじゃないかな……
その「知らん研究者のお気持ち」が定説化して力を持ってしまっているという現実があるのです。
たとえとして適切か分かりませんが。
ナンパを不快に感じるA子さんと、女をナンパしない男は無礼だと信じるB子さんがいるとします。二人のナンパに対する意識は、事前に外からは判断できないものとします。
客観的にみると、私はそれなりに優秀な人材だ。それなりの大学の修士卒で、かなり大手の企業に就職し、それなりの給料も得ている。
しかし、年々自分の自己評価と客観的な評価とのギャップに悩まされるようになってきた。「もっとあの時うまくできたんじゃないか」 「もう愛想つかされたんじゃないか」そんなことで四六時中頭の中がいっぱいであり、ここ数年、ぐっすりと眠れた記憶がない。
これは謙遜ではない。真に自分は仕事ができない。資料はどんなに時間をかけてもきれいにならないし、人前で話させれば噛みまくる。自分で自分が何を言っているのかわからないほど、筋の通らない話しかできない。準備すればするほどドツボにはまっているかのような感覚になる。
自分のやった仕事に一切自信が持てない。自信が持てないというより、全然いい仕事ができてないことに自信がある。そういったことを同僚や上司に正直に告白することができる年次はとうに過ぎてしまった。年々焦りが強くなる。
本当につらいのは、人事評価という点ではなんとなくごまかせていることだ。他人のやったことをさも自分がサポートしたかのように取り繕い、自分の実力をアピールする。ヒルみたいな性格だ。
たとえば1950年代において、女性は家庭的であるべきとされた
つまり
現代人はAを支持できるか(Aを否定するのを我慢できるか?)で多様性に対するスタンスが変わると思う
まあ昔(1950年)は「主義Bなんてとんでもない」が主流だったので分かりやすかったんだけど
現代は多様性の時代とされてるからややこしいんだよね、偽物の多様性主義者がたくさんいる
ちゃんとした多様性主義者は、どの時代、どの場所、どの立場でも「AもBも認める」というべきだけど
偽物の多様性主義者は、ポジションや現代の価値観に引きづられる
この人たちのことを同調主義者(Conformity)と呼ぼう
同調主義者が多様性を支持しているのは、あくまで現代において多様性がメイン主義だからだ
でも偽物だからボロが出る
非常にめんどくさいのは、多様性をアピールしている企業や団体が、単なる同調主義者であることが多いことだ
よくよく見ていくとそれは多様性ではなく、メイン主義への同調と、メインがどれになるかの争いでしか無い
なんかもう取り敢えずで掲げやすいの掲げてるだけで、これじゃ全然効果ないでしょ。
ちゃんとしてたら全部達成可能なんだから、逆に「うちはこれが出来てませんでした!次回は頑張ります!」って言わせるほうが効果的よ。
たとえば時給換算すると最低賃金未満となる企業や、それを見過ごした自治体は「逆SDGs1 貧困を助長」という烙印を押されるわけ。
若年人口が減り続けていたら「逆SDGs11 住み続けられないまちづくり」を食らうし、役員の女性比率が低い企業は「逆SDGs5 ジェンダー不平等」とされる。
17の項目による強烈な外圧を受けて、グローバルをやってる企業は大幅な変革をすることになるし、中小企業であってもHPや看板にデカデカと逆SDGsを5個も10個も並べるのは流石にしんどいんじゃないかな?
オタクになりたい!
オタクになりたいなと思う。ツイッターを見てても思うし、友達と話してる時でも。
まあ確かに、自分はオタクだとは思う。なぜなら二次元キャラを好きだしアイドルが好きな頃もあった。二次創作もしてるし...
何より、仕事とか恋愛とかそういう”普通の人”ができること、どんなものより志向が向いているものに対して、自分は全く向いていないから。
でも、しかし、中学生頃に抱えた気持ちがいまだに全く薄れず、二十近くなった今でもまだ私はオタクになりたいと思っている。
田舎の子供だった。小学校入学と同時に違う地域から引っ越してきて、保育園からそのまま持ち上がりのような形で小学に上がってきた同級生達にうっすら疎外感を感じたまま遊んだ。運よく虐められるとか小学校六年間ぼっちで終了とかはなかったけど、みんなのノリに無理やり合わせていたとかが正しい表現かもしれない。でかい道路沿いの、都会と田舎の中間のどちらかと言えば田舎寄りで、遊ぶところも大して無く、親は仕事で周りともノリが合わない。そんな(まあ、普通にぼっちだね)子供だったので、案の定インターネットにはまり込んだ。ちっさい白色のノーパソで初音ミクの消失を聴きまくった。本当に幼少期の記憶はYouTube、3DS、着せ替えゲーム、あとマジックキャッスル(ドットの方ね。懐かし!)とかしか思い出せない。で、順当に行けば普通にオタクになる。ゆっくり実況、音楽はボカロしか聞かない、パソコンのタイピングがなぜか比較的早い、絵を描くのが好きではあったので、コピックも買ってもらった。小学校高学年から中学にかけての私は、その趣味に、...
その自分に、オタクであることについて、誇りを持っていた。インターネットだけが居場所だったしアイデンティティだった。めちゃくちゃ孤立してたわけでもないのになんでだろうとも思うが、めちゃくちゃ孤立してたわけでもなかったから気づけなかったんだろうなとも思う。
で、オタクっていうのは、固まる。中学美術部女子が教室の奥の方で腐オタトークをするように、私にもオタクの友達ができた。そこら辺からか、だんだん気付き始める。
というのも、私は全くと言っていいほど、アニメも漫画も見ないのである。
幼少期からのめり込んだのはYouTube、唯一読んだことがあるのは日常とドラゴンボール、それだけだった。
アニメを観まくり、商業BLを読み漁り、これこそオタク、女オタクの教科書みたいなオタク友達と、趣味が合わなかった。シンプルに言うとただそれだけなんだけども、
私は自分がオタクではないという烙印を押されたような気分になった。今でもそう思っている。
だってオタクが観るのはYouTubeじゃなくてニコニコ動画で、深夜アニメは録画して全部観て、たくさんの漫画を読んでいてその話で他のオタクと盛り上がれる、それをオタクと言うんだから。(今はちょっと違うだろうと思う。自分のトラウマの話をしています)私はオタクじゃなかった。
それと同時にオタクのことも少しずつ嫌いになり始めた。私個人の僻みもあるだろうけど、私が好きなもののことを他のオタク友達に話すと酷いことを言われたり、(例えば私が昔から好きなボカロpの話をしたら「まだ好きなの?」って言われたり)同じグループを推してる友達に私の好きなアイドルを「でもダンス下手だよね」って言われたりした。(トラウマすぎて涙出てきたw)こんなことみんなは言われ慣れてるのかもしれないけど、私は自分の好きなものを面と向かって小馬鹿にされたのがかなりショックで、しかもそれをパンピーじゃなく、仲間だと思っていた同じオタクに言われたもんだから、裏切られたとかではなく、ああ、私オタクじゃないんだ、って思った。逆に全然オタクじゃない、パンピーの友達の方がひどいことも言わずによく聞いてくれたと思う。
そんな感じだったので、元々早口オタクの話を聞く側の人だった私は、ますます自分の好きなものの話を他人にするのが怖くなった。もう否定されたくなかった。自分自身のことを否定されるより自分が好きなもののことを否定される方がきつかった。
で、今。私は女オタクという括りになるんだろうけど、そういうオタクへの憧れは女オタクへの憧れに変わっていった。正直満足に女オタクできてるわけじゃない。というかできてない。
誰かとぬいを持ち寄って写真撮ったり、ヌン活したり、アクスタと飯を撮る、新調したネイルの画像をあげる。私は現代のオタクに必要な『グッズが欲しい』という欲さえ持ち合わせていない。貢ぎたい欲もない、タイムライン上で名前を呼び合ったり、一生誰かとスペースしてたり。私はそのどれもクリアできていない。オタクになれない、オタクできてない、オタクとして失格。私は、オタクとして、女オタクとしてのノルマを、何一つとしてクリア出来なかった。私は女オタクにもなれずに、当然パンピーにもなれない。
じゃあ私は何の人なんだろう。私は何に属している人なんだろう。私は誰の話もわからない。誰にも私の話をわかってもらえない。私もみんなみたいに、誰かと好きなものを分かち合ってみたかった。結局何かのコミュニティに属してみたかっただけ。私はずっとひとりぼっちで...
30年間童貞として歩んできて、ようやく得た気付きをここに記そうと思う。
童貞とは?
→ ①自己変容を極度に恐れる者(ネガティブ面)②無知が故の空想世界の覇者(ポジティブ面)
この2つの要素に大別できると考える。
①童貞が恐れる変化とは何か?
例:異文化に触れたり、世界標準的な考え方を学んだりすることで、
旧来の日本的な価値観・考え方が上書き、抹消されるのではないか?という恐れ。
<変化に対する望ましい受け取り方>
→ 既存の価値観が無くなるのではなく、新しい情報と融合して進化する、
あるいは、新たな価値観と自身の価値観を照らし合わせ、適切な取捨選択が行われる現象と捉える。
・経験の不可逆性
例:その行為を行うことで、行う前の自分に戻れなくなるのではないかという恐れ。
自らの手で人を殺めてしまった、過ちを犯してしまった、女性を汚してしまった etc.
<変化に対する望ましい受け取り方>
→ 性行為は必ずしも男性側が(女性の何か神聖さを)搾取する行為を意味する訳ではない、と捉える。
(特に取り沙汰される)男性の性欲を悪とする風潮に流されない。
②未経験、無知が生み出す無限の想像/創造力 (ただし、百聞は一見にしかず)
例:目の前にニンジンが吊るされた状態ゆえに走り続けることができる
体験・経験したことがないからこそ「知りたい、理解したい」と想像を膨らませ、興味が持続する。
経験による固定観念、先入観を持たないニュートラルな視点で物事を考えることが出来る。
<注意すべき受け取り方>
→ 得てして美化されたイメージを抱きがち。
男性向け性的商品は反道徳的みたいな烙印を押されるのは男性の方が失うものが多いんじゃないかな?って思ったので男性側のデメリットを強調したのよ。
まるで今現在の男性向けポルノ作品が反道徳的だと思われていないかのような物言いだな
ごめん、一点言わせてもらうけど私ポルノ業界や男性向け性的商品の完全壊滅望んでるわけじゃないのよ。不可能だし。ポルノや男性向け性的商品が非難されるエビデンスとして、法曹や心理学の一部は男性向け性的商品の要素に不可欠であろう「女性のモノ化」思想を原因として挙げてて(もちろん女性向け商品も「男性のモノ化」が主要素)、規制派の人のエビデンスになる可能性は高いんで、ポルノ擁護派の人はそこは意識した方がいいんじゃないか、って趣旨なのよ。
一応元記事で「ポルノも酒と同様に、禁酒法のように全面的な規制が闇に潜り犯罪化を促す可能性があると思う。」と男性向け性的商品の壊滅が性暴力撲滅にならないって認識はあるのよ。
で、あなたの意見として「まずはお互いに一度痛い目を見ようや そして今までのやり方が間違っていたことを身を以て経験しよう」て意見に対して、「性犯罪撲滅」って目標で、手段が間違ってたとして両方陣営失うものはあったとしても、女性は既に性被害という結構大きな実害あるので、あんま変わんないけど、男性向け性的商品は反道徳的みたいな烙印を押されるのは男性の方が失うものが多いんじゃないかな?って思ったので男性側のデメリットを強調したのよ。
私としては酒やタバコみたいに、男性向け性的商品どこまで規制するかしないか?どこまでの双方が落とし所があるか、そこは議論せなあかんとは思ってるのよ。
増田元記事のような「話し合いは成立しないのでなるようになれ」スタンスは主に男性側が損するしか思えないのよ。なぜなら女性は昔は、性暴力受けたら被害者にも関わらず「傷物」って結婚しにくいなど社会的にも重篤なハンデ背負ってたけど、そうゆう性暴力にNOいう女性団体のおかけで、実名顔出しで性犯罪告発できる現代にはなってる。主張することで利は得てるんよね。
「なるようになれ」は損すると思うけどなあ。
https://note.com/sws_jp/n/n6c66ebe6aa8f
ローリングはトランス差別的なことは何も言っていない。彼女は性別不合の存在に異議を唱えてはいない。証拠に基づく治療と医療のもとで性別移行が認められていることに反対したことは一度もない。トランスジェンダーの賃金や住居の平等を否定していない。彼女がトランスジェンダーを「危険にさらしている」という証拠はなく、彼らが存在する権利を否定しているわけでもない。
彼女のかつての批判者の一人を例にしよう。以前ローリングをトランスフォビアだと非難したジャーナリストのE.J.ロゼッタは、昨年 『J.K.ローリングによる20のトランス差別発言』という記事を書くよう依頼された。12週間の調査の後、ロゼッタは 「真にトランスフォビックなメッセージは一つも見つからなかった」と書いている。そして「人々は間違った魔女を燃やしている」と宣言した。
例えば最近、レズビアンでありフェミニストでもあるスコットランド国民党の議員ジョアンナ・チェリーは、トランス女性としてたった3ヶ月生活すれば性別違和の診断を必要とせず、申告だけで女性であることを法的に証明できる「self-ID」法のスコットランドでの可決に公に疑問を投げかけた。彼女は職場でのいじめや殺害予告に直面し、国会での最前列議員連から外されたことも報告した。「この議論に参加することを恐れている人もいると思う。発言すればトランスフォビアの烙印を押されることが多いから」とチェリーは言う。
ローリングの率直さは、まさにこうした目的のためにあるのだとフェルプス=ローパーは言った。「多くの人がローリングは自分の特権を利用して弱い立場の人を攻撃していると考えている。しかし、彼女は弱者の権利のために立ち上がっている」
でもSTEAMやニコニコ大百科でこんな話したら可愛そうだからココに書くことにする。
最初に逝っておくが、俺は最初の10人だけ対応した所で愛想が尽きたので「それ、後半になるとタネ明かしされるよ?」ってことなら誤る。
カメラを止めるなを10分の所で退場したアホと一緒だという烙印を押してくれていいよ。
マジでコレ。
俺がこのゲームに不満がある最も大きな所はコレ。
怪奇現象だって相談されて、本当にごく一部の違いを当てるゲームなんだけど、その違いを当てたら相手が素直に引き下がってお礼を言うんだよね。
相談ダイヤル「 ”メリーさん”じゃなくて”メアリさん”と名乗っていたので、それはただのストーカーですね」 ←え?これで納得できる?
「ちょっと決め台詞や名前が違ってたからって何だよ!俺は呪われそうなんだよ!」ってなりませんか?
イタズラ電話でやってたにしても、そこら辺は食い下がったりしません?
じゃあどうしたらいいのかって?
たとえばその場では「は!もう相談しません!呪われたらお前を呪ってやる!」→後日「ごめんなさい。友達のイタズラでした。相談ダイヤルを試してみたくて俺を巻き込んだんだってよ。一発殴ってやったよ。疑って悪かったな」みたいな感じでもよくありませんか?
なんかこう入り込めないんですよね世界観の作り込みが雑だと。
怪奇現象だということを肯定したらしたで、証拠情報の集め方が足りないとキレられるんですよね。
別によくない?
「そっか!やっぱり怪奇現象なんだ!早くプロにお祓いを頼みますね!」みたいになりません?
なんなん?
たとえばですよこれだって「専門家に行ったら全然違うって言われて恥をかいたぞ!相談料もちょっとかかった!授業料だと割り切って弁償しろとは言わないでやる。でも、お前らは信用できないって言いふらすからな!」みたいに後から言わせるとか出来るんじゃないですか?
いやマジで謎。
本当に怪奇現象なのかどうか知ってるなら相談ダイヤルにかける必要なくないですか?
なんで相談者のほうが正しい答えを知ってるの?
元ネタの『Papers, Please』の場合は通して良いか悪いを誰がいつどう判定したのかはブラックボックスになってるんですよね。
監視カメラとかダブルチェックとか業務日誌を見られているとか警察が捕まえてから判明とか色々考えられますけど、とりあえず何が起きてるのかはわからないんですよ。
対してこのゲームは「怪異かどうかを外すと依頼者が怒り出す」という形にしてる。
ええええええええええええええええええええ?????????????????????
そうなっちゃ駄目でしょ。
なんかもうちょいどうにかならなかったんですかね?
『Papers, Please』のマネっ子で、判定成功失敗についてはその場ですぐ分かるようにしつつ依頼者が怒る演出は次の日の新聞だけで済ますとかでもよくないですか?
相談ダイヤルで判定に失敗したら妖怪に襲われる仕組みになっているとかそういうのでも別にいいです。
「なぜか自分が怪異に本当に遭遇したのかを依頼者が知っていて怒り出す」はマジで意味不明。
結局のところ、このゲームの何がよくないって、『Papers, Please』からの換骨奪胎が上手くいってないことなんですよ。
『Papers, Please』のゲームシステムはあの設定だから成立してたし、それで成立するように細かい味付けを調整してるわけです。
でもこのゲームは『Papers, Please』のシステムを踏襲したうえで「怪異に遭遇したかどうかを判定する電話相談」という設定にそぐわないようなシステムになってるんですね。
その矛盾を埋めようとせず、むしろ矛盾をさらに広げるような方向にシステムを調整してしまっている。
ぶっちゃけね、ちょっとしたスパイスを加えれば十分解決できるよなものを放置しまくってるんですよ。
依頼人が何故か結果を既に知っているというシステムになんてしなくても「怪異相談ダイヤルに住み着いてる妖怪がいて結果だけを教えてくれる。失敗した時に嘲笑うために」みたいな設定をひとつまみ加えるだけで私の不満点は解消できたわけです。
そこを掘り下げれてないのが本当に気に食わない。
お前本気でこのゲーム作り込む気あったのかよと思ってしまうわけです。
そもそもをして『Papers, Please』の次々にルールが増えていって煩雑になっていく馬鹿馬鹿しさと、無数の怪異がいて検索をかけて調べなきゃいけない面倒くささってなんか一致してないんですよね。
『Papers, Please』の何を面白いと感じてこの形にしたんだよと。
メリまで入れたら「メリーさんの電話」が出てくるようにしろと。
そして、序盤のうちは出てこない怪異なら序盤は検索に引っかからないようにしろと。
段々と面倒になる『Papers, Please』の面白さを再現するならそこだろと。
序盤はあんまり種類の多くなかった怪異がドンドン増えていって、ドンドン考えることが増えていく、そもそも怪異がドンドン増えている事自体がなんか嫌な予感がすると思ったら、悪いやつが都市伝説を広めることで恐怖を煽り集合無意識の力で怪異が量産されていたのだー!みたいな流れを作れと。
ほんまなんなん?
『Papers, Please』の何が好きでこのゲーム作ったんだよと言いたくなりすぎる。
と俺は思ったけど、好きな人は好きなんじゃないですかね。
じゃあ成仏するわ。
www.huffingtonpost.jp/entry/work-20180814_jp_5c5aa05fe4b0de0c47e4bca9
ロンドンの住人のうち「白人の英国人」が占める割合は44・9%とすでに半数を切っています。
また、ロンドンの33地区のうち23地区で白人は少数派になっています。
ブレグジット前に知っておきたい 「怒れる白人労働者」とは限らない英国の実像
首都ウィーン市の場合、非ドイツ語圏出身の生徒数は全体の51%(11万8693人)と遂に過半数を超えた。
tinyurl.com/imin-shougakusei
オックスフォード大学のある研究者の予測では、2060年までにはイギリス全体でも「白人のイギリス人」は少数派になると危惧されている。
2016年にイギリスに生まれた男児のうち、最も多かった名前は「モハメッド」であった。
tinyurl.com/4ervashj
今では260万人。
50年で1千倍以上に増えた。
tinyurl.com/4rjmrfn6
オランダの原住民の人口はすでに大半の都市で劣勢に立たされている
x.com/Tamama0306/status/1788496930424901702
英国内務大臣「多文化主義はヨーロッパで「失敗」し、国民国家の社会的結束を脅かしている」と移民政策を否定
tinyurl.com/mr3mnpwb
「並行社会」を生み出した
tinyurl.com/tabunkakyousei
tinyurl.com/eikoku
「Multikulti(ドイツ語で「ダイバーシティを尊重する態度」の意)は全くの失敗だった」
tinyurl.com/tabunka-kyosei
Finland Passes Law to Turn Away Asylum Seekers at Border
www.nytimes.com/2024/07/12/world/europe/finland-asylum-russia-border.html
「難民ようこそ政策」で治安が急激に悪化…警官殺害のアフガン移民を毅然と批判できないドイツ政府の大迷走
25秒の間に6人が重軽傷を負う大事件が発生
埼玉では病院周辺にクルド人100人の異常事態。難民受け入れで「ナイフ犯罪」激増のドイツは近未来の日本か?
toyokeizai.net/articles/-/758850
もはやテロ…「総勢50人の大家族が集まり病院で警察官と乱闘」世界2位の移民大国ドイツで起きていること
アフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が市内で発生して多数の死傷者を出し、
w.wiki/AZJy
アフリカ系アメリカ人を中心とする群衆と警察との間で
生じた小競り合いが瞬く間に拡大。
数千人規模に膨れ上がった暴徒が
w.wiki/Ad6A
スウェーデン政府が増加する移民犯罪に対処する為に、移民政策を変更して移民削減政策を進めています。
tinyurl.com/seiboukou
盗みを繰り返していた
羽交い締めにして
顔を殴ってけがをさせたとして、
議員を威嚇
tinyurl.com/giin-ikaku
tinyurl.com/shirobai
職質されたら警察署を包囲
tinyurl.com/shokushitsu
tinyurl.com/taishikan-rantou
少年逮捕…父の車で死亡ひき逃げ 車体は大破損、ガラス割れるも「事故していない」…出国しようとしていた
川口市
tinyurl.com/hikinige
「中国人は制度調べ尽くして、本国の家族呼び寄せて、書類用意して半ば強引に健康保険を通し日本の医療を受けさせる。
tinyurl.com/kazoku-yobiyose
埼玉・川口市がクルド人めぐり国に異例の訴え なぜ?現場で何が?
その中に仮放免のクルド人の治療費も含まれているとみています。
tinyurl.com/iryouhi-mibarai
tinyurl.com/26000000yen
tinyurl.com/ukeire-teishi
tinyurl.com/kawaguchi-shi
無免許で廃棄物2.6トンを不法投棄、トルコ籍の男性など2名逮捕
sanpai-media.com/news/4549
tinyurl.com/2n5azte2
川口市
tinyurl.com/5fv62ve4
川口市内の
tinyurl.com/saitamaken-kawaguchishi
埼玉県川口市長「中国には訪問・視察などで30回以上は行っています。」
tinyurl.com/china30times
<独自>「犯罪外国人は強制送還を」 クルド人問題の川口市長、法相へ要望
2023/9/1 19:37
tinyurl.com/kyousei-soukan
それは日本の方から『迷惑』『悪いこと』と見られる意識はないと思う
ただ自分らしく生きているだけだと思う」
寛容のパラドックス
「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」
w.wiki/3eAN
同性愛を禁じるイスラム教の国出身の男性に大阪地裁が「難民に該当する」との判決
tinyurl.com/5n7wewtz
コ●ラ● 9:5 あなた方はどこであれ、多神教徒を見つけ次第●しなさい
コ●ラ● 4:34従わない妻は●て
tinyurl.com/mr5h2us3
石打ち刑
tinyurl.com/ishiuchikei
イ●ラ●教徒の土葬墓地計画、住民から反対相次ぐ…予定地の550mに水源
tinyurl.com/dosou
tinyurl.com/yrvetymj
5年以上の長い時間を要し
tinyurl.com/2cjsu8pa
tinyurl.com/4a9j9n34
w.wiki/AMDo
tinyurl.com/tokutei-ginou
tinyurl.com/ynb6nrcd
特定2号の拡充に反対
僕一人ぐらい
「極右」
「排外主義者」
といった烙印を押して
tinyurl.com/seiyo-no-jishi
移民制度(技能実習・特定技能・育成就労など)は、日本人賃金の上昇ではなく、外国人低賃金労働者を欲する財界のレントシーキングです!
西洋は、naiveな人達が夢見た共生に失敗して、治安悪化・ホワイトフライト・セグリゲーションが起きています。
⻑い⻑い文になってしまった。
と文に続いて画像が送られてくる。
だいぶ彼も慌てていたのだろう。
ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。
Facebookの投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。
そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。
LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。
とはいえ、彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。
彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。
その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。
本当は大笑いしたかったのだ。
私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。
当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。
そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。
彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。
そういう微妙なバランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。
そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。
まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧に無視されていた。
理系の大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。
大学を中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)
ただの恋敵から、マウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。
その願いは数年後に叶うとも知らずに。
その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から、彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。
大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。
そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇のシンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。
私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。
彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。
そうして、今回の訃報に至る。
彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。
勝った、と思った。
私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。
後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。
多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。
駅から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。
バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。
彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。
けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。
穏やかな顔で私は嘘をついた。
割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。
何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。
どうしても彼女を恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。
そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。
これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。
そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。
けれど、彼女は死んでいる。
だからこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。
そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。
草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。
それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。
あんなに学歴や彼との距離感でマウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。
もう彼女には何もない。
入った大学のキャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。
そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。
何よりもそれが嬉しい。
彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。
リビングには薔薇のドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースのクロスが敷かれていた。
演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。
くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。
悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。
仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分は我慢 しよう、という気概を感じ取れた。
男子だからこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。
リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。
「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」
彼女の母と、私は目で訴え合う。
それを聞くのか?という母親の目と、
死因を教えて楽しませろという私の目。
たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつの親なのだと感じてしまっ た。
あの、喰えない女を産んだ女だ。
「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」
脳浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。
ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。
けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。
彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。
話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。
脳浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。
けれども、脳浮腫は医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。
脳浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である。
それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。
たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である。
そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。
まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。
脳浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。
けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。
だから、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。
脳浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものである。くも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。
そして、私はふと思い出すのだ。
彼女は大学入学前からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。
そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。
もちろん七割は、私の願望なのであるが。
帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。
その煌めきの中に、彼も共にいる。
その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。
だから、いいのだ。
彼の口から、今の彼女との結婚のプランの話が出てきたとしても。
彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。
この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。
だから、その今の彼女の名前を、今回死んだ彼女の仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。
来年の今頃、彼は式を挙げる。
彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。
それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。
そして、もうひとつ、彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。
彼女は、どのように死んだのだろう。
微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?
それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。
ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。
けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。
首吊りや飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。
ああ、彼女は、世界に絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。
今までの努力が全て無駄になった上、 彼からは彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望の最中で彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。
そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。
駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。
「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。
来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。
そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せな人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。
死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。
やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。
その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。
この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。
こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。