はてなキーワード: 必然性とは
私は初回の艦これ秋刀魚祭りが開催される前にこの話を聞いてさっさと別スケジュール用意したので実際には経験をしていませんが、艦これ秋刀魚祭りには中の人が強制的に動員され、艦娘音頭や焼きさんまなどに従事させられました。正直に言って声優として雇用した人間に焼きさんまを焼かせるのは雇用契約違反なのではないかと思います。立て付けとしては鎮守府の文化に触れる、本気で楽しんでくださっている提督の姿をじかに見られる他にない機会であるという言い分です。
ですが、私は別の機会で各鎮守府泊地の提督方が集まる場を経験しており、既に実感として我々の扱うもの、インターネットの先、電子データひとつひとつにお客様の思いがあるということは理解しておりました。これに関しては稀有な経験ができたことを感謝しているし、この経験ができるインターネット関連の会社は日本にはカドカワドワンゴかDMMしかないのではないかと考えています。
しかしながらその上でなお焼きさんまを焼かなければならない必然性がわからず、さんまを焼かないならば大根おろせという理不尽を受け入れることができませんでした。
今回はモアイ
前回はイブニング新人賞だけれども、今回はモーニングゼロ月例賞の感想ね。
絵柄もそうだけれども、世界観の構築とかで個性を出して、ストーリー構成では読者が引かないように丁寧に描いているという印象。
河童の住処に行くまでが中だるみを感じるが、後半の独自の世界観やそれなりに理屈の通った価値観というものから、起承転結を真面目に描きたい性分なんだろうね。
個性に敏感でありつつも、そのあたりの理知的な感性は好感持てる。
ただ、まあそういうところが面白さに直結するようには、あまり描かれているとは言えないのが残念ではあるかなあ。
後半だけ読む分にはともかく、前半はお世辞にも読んでて面白いと感じる部分がほぼなかったし、必然性がある描写も少なくて無駄だと思えた。
そこらへんコンパクトに纏められたら、私の中での評価ももう少し上がるんだがなあ。
テーマや紡がれるものをマンガという形にするまで持っていた作者の熱量は評価したい。
ただ、描きたいことや、語らせたいことが一杯溢れて、そのままマンガにしたみたいな無頓着さが気になる。
ネームを多少小奇麗にした下書きレベルの画と、ごちゃごちゃしたセリフ量、なのにページ数まで多いのが、私がそう感じる要因だろうね。
よほどストーリーや登場人物に魅力を感じなければ、ほとんどの人は途中で読むのが苦痛になってくるんじゃなかろうか。
人物や背景、セリフが詰まってて、でも詰め込みすぎというわけでもなくて、このバランス感覚は好みだ。
例えばスイカを食べる一連の動作に数コマ使っているにも関わらず、無駄とは感じなくて魅了してくれる。
難点は編集長の選評にあるが、読者がもう少しだけ汲み取りやすい台詞、演出が欲しいって点かなあ。
ある程度は受け手に委ねるスタイルという可能性もあるが、どこをどう解釈すればいいのかっていうのが分かりにくい場面があるのは確かなので。
毎年、この時期になると村上春樹がノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。
で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞の特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。
なぜなら、ノーベル財団が村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。
理系の部門と違い、平和賞と文学賞は受賞理由に政治性を重視しているからだ。
平和賞や文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ、意思表明に近い。
今回のボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプに代表されるような排他的なナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動や戦争反対に燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由、メッセージがあるとノーベル財団が判断したから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。
莫言やアリス・マンローに与えられたのはアジア文学、女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である。
これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである。
村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由で世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。
村上春樹がノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。
それを意識してか、最近の村上春樹は政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。
ノーベル賞はアイデンティティと政治性、そして文学性が合わさり、さらにノーベル財団が伝えたいメッセージと合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。
村上春樹はノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
「厳密に言えば、作品をおもしろくするために『よくできた嘘』を混ぜています。」(=リアリティ)
「ゴジラ、嘘だって。リアルじゃねえじゃんwwww」(=リアル)
「うぜえ。気持ちよく作品見られる程度にリアルが感じられたらそれで問題ねえんだよ。」(=リアリティ)
↑
もういい加減理解してほしい。
「現実そのまま」がリアル。「いかにも現実と感じられるような」がリアリティ。
昔、ロダンが彫刻を作ったとき、その迫真のできばえに「実際の人間から型取りしたんじゃねーのww」とケチをつける評論家がいたので、ロダンが怒って「じゃあ、そうやって作ったらどうなるか見せてやるYO」といってできた作品は、醜くて見るに堪えないひどい出来の作品だった。最初の作品においてロダンは「リアル」に作ったのではなく「いかにもリアルに見えるもの(リアリティ)」を作ったのだ。現実よりも現実らしいものを作ることで、作品をすばらしいものにした。もちろん、実際の人体解剖図を理解して筋肉の動きや何かを知り尽くすことは確かに必要なことなのだが、その上で気持ちよくリアルに見える『嘘』を作れないと、作品を作ることはできない、ということをこのエピソードはよく表している。リアルを知った上でなおかつ「リアル(現実)よりもリアル」に感じられる(リアリティ)ものを作るのが、表現という営みなのだ。リアリティは確かに『嘘』だが、リアルよりもリアルにするための『嘘』なのであって、単に無知で電車間違いましたとかあり得ない天文図描いちゃいましたとかいうのとは全然違う。必然性がない部分での『嘘』とは、端的に言って単なる『手抜き』であり作品の『傷』以外のなにものでもない。
こういうことは、主義とか立場とか関係なく表現を論じる上では普通に「誰でも知ってるレベル」の基本。もう100年も前に片の付いた議論なので、ぎゃあぎゃあネタにするだけ恥ずかしい。こういうことが分かってなさそうな書き込みしてる人、知ってる人から「可哀相な子」を見るような目で見られていることを知ってほしい。
http://anond.hatelabo.jp/20160902123448
ちなみに、政治家二人の発言を笠に着て騒いでる人、彼らは別に「作品としてどう」と言ってるのではなく単に「現実ならこうだよ」という話をしているに過ぎない。当然彼らも上に書いた程度のことは分かってしゃべってるからね。
それから、ゴジラ誉めてる人の中にも上の二つ区別できてない人が多そうなんだけど、そちらもちょっと恥ずかしいよ。一応言っておくと。
先ず、上の方の内容は一部誤解を生むと思いますので、訂正をかねて。
一般世間から観る「主催者」というのは、コンサートを運営している業者・アーティスト事務所・・それらひっくるめられ「全般」として解釈されている場合と
チケット販売やコンサート運営業者・・即ちプロモーターを指して言われる場合と混在していると思われますが、上の方が書かれているように
「主催者=コンサートプロモーター」とするのが正しいでしょう。厳密に言うならば、アーティスト事務所は主催名義ではなく「企画制作」という枠組みに入る場合が多く、
契約内容の如何はあるものの、現場は主にプロモーターが取り仕切り、アーティスト事務所は基本的に前面に立たないので、尚更プロモーターが主催者と捉えるのが適切と思います。
その上で。
>コンサートプロモーターと言う会社は、別にチケットが高騰してファンが困ってるかどうかなんて気にする必然性がありません
これは正しくないというか、粗い言い方であり誤解を生んでしまうと思います。
確かに完売が目標にありますから、一枚でも多くのチケットを売りたいし、売れることに尽力するのがプロモーターの仕事です。
プロモーター毎で年間抱えるライヴ興行は異なるものの、多くの催事を擁しており、これも各々異なるものの、全体の中で容易に売り切れるライヴはそんなに多くない・・
多少の程度にかかわらず「残券」が発生するライヴの方が寧ろ大半を占めるだろうと思います。
そんな中で、瞬殺完売のように短時間短期間で売り切れるものは楽ですし、逆に言えば人気のあるとされる代物ほど、何かの関係で売り残しが出てしまうことを避けたい・・
だからこそ、言葉はよくないですが「さっさと売り切ってしまいたい」という潜在的な欲求がある。
その意味では「売り主体」となり、売ってしまった後のチケットの動向など関与していられず、それを込めて「ファンが困るかは気にする必然性がない」、
つまり購入者より自分ら優先・・という言い方や解釈になっていると捉えられます。
しかし、あくまでもそのライヴ一本のみで捉え、極端な話その一本が終わればおしまいといった、個別だけで観れば“売りっぱなし”でいいかもしれませんが、
総じてアーティストの次回以降の開催にまで影響を及ぼすものですし、そのプロモーターは特段の事由がない限り次も仕事を請け負いたい(開催したい)はずなので、
顧客を蔑ろにすることは次回の販売へと影響をもたらすことに繋がり、「ファンが困ることを気にしない」姿勢はプロモーターの評判は勿論、
アーティストサイドの評判や評価、即ちタレント活動そのものに向いてしまい、悪影響を及ぼすこととなります。
なので一本だけ、個別のみに特化して単純に言ってしまえば上の方のような解釈になってしまいますが、実際そんなことはない・・
全国津々浦々大小のプロモーターがいますので、そのような資質にあるプロモーターは存在していて不思議はありません。
ですが、一本のライヴはタレント活動という長いスパンの中の「点」であって、プロモーションという側面で観れば既存ファンを維持しながら
広範の世代や新規ファンへと拡大したいという目的がありますから、「繋いでいく」以上、繋げていく以上プロモーターに拠るファンの動向は、
プロモーションとして請け負うことを本分にしているプロモーターであれば決し無視出来ず、ファンを蔑ろにしていいとは思っていないはずです。
もしそのような質の悪いプロモーターがいたなら、それはプロモーターではなく「イベント屋(請け負った催事をこなすだけの仕事)」の資質、体質にある企業と思います。
よって、多く買ってくれる転売屋は、チケットの売り上げだけ観れば結果的に“助かっている”側面は確かにある。
しかし現在の高騰市場の拡大は、タレントプロモーションを担っているという意識にプロモーターがあるなら、総体的にはやはり問題だと思っている・・
正しくは、益々無視できなくなって来たと認識しているはずです。
尚、意見広告にプロモーター名が入っていないのは、単に協会名に集約しているに過ぎないということで、
「名前を載せていない=各プロモーターが積極的に同意していないから」 とするのはあまりにもミスリードを誘う不適正な解釈でしょう。
だから「後から判明したこと」から遡って「なぜあのときああしなかったの?」と言うのは無しでいこうよ。小学生じゃないんだからちゃんとストーリーの中での必然性を語ろうよ。
「エネルギー切れるまで打たせろ」→ゴジラが一通り東京を荒らし尽くして制止している状態が「休眠」であると「仮定」できるようになって初めて言えること。それ自体がゴジラ停止から数日後でしょ。
「無人機使ってから誘導兵器云々」→だからそれも後出し。軍隊同士の戦争じゃなく「どんな進化するかわからない不明生物」との戦闘なんだって。相手の出方が全く予想できない状態で「相手停止!一斉攻撃!」なんて指揮したらそれこそ負けフラグそのものでしょ。ましてそこに「群体化・有翼化」なんて可能性が出てきたら、確実に「通常兵器による攻撃は差し控えよう」という判断になるわ。
「休眠してる間に次なる進化の可能性を誰も考慮してないの?」→だから、それがあったからこその国連の「核攻撃やむなし」って判断でしょ。ちゃんと見てた? その考察があったから安田くんも「そりゃ選択肢としてはある」って言ったんだよ。むしろ、群体・有翼化して四方八方に飛び散るかもしれない(そして各地で再び巨大化するかもしれない!)生き物に対して、あなたが「物量作戦で空爆が上策」と思ってるのが不思議で仕方ないよ。
結果論、結果論、そして穴だらけの考察。あなたの書いてることは、普通に全てシナリオの中で解決がついてることばかりだよ。あなたが「おかしい」と感じるのは、端的に言って読解力不足のせいなんだよ。
ハッキリ言うけど、そもそもあなた最初は「群体・有翼化」の話が作中で出ていたことを完全に見落としてたでしょ? そのレベルの記憶で作品の「あれがおかしい、これがおかしい」と言うのはちょっとどうかと思うよ。
それにね。「シン・ゴジラ」のラストは、「みんなでゴジラ倒したったwwwやったぜww」じゃないんだよ。あなたはそれさえ分かってないんじゃないの? ラストシーンの尻尾の大写しは、最後の最後で「ほんとにギリギリの幸運による成功だったに過ぎない」「一歩間違えたら最悪の事態だったかもしれない」「しかもその悪夢はまだ終わってないかもしれない」ってことをあの映像で観ているものに見せつけて、最後にゾッとさせる系のエンディングだったんだよ? 人類はゴジラ禍をまだ全然逃れ得ていないし、だからそもそも「あの攻撃が後から見てもベストでした」なんてこと、映画の中でも誰も言ってないしそういう作りにもなっていない。ただ「その時点その時点で得ていた情報の中で、各自が最適を選びながらがんばった」という話だったんだよ。各自の行動に、ストーリー上ご都合主義的で不自然かつ間抜けな見落としはほとんどない。そういった完成度の高さも、あの映画が評価されてる一因なんだよ。
もちろん、本当のところ映画制作の都合上「そう言いつつも、この絵を見せたいからこうしたんだよねー」という部分は、そりゃある。映画だからね。「リアル」と「リアリティ」は違うからね。ただ、その嘘の見せ方自体もかなりうまかった。納得して許せるなと思えるレベル。その意味で、あの作品の防御力はゴジラ並に堅い。だから、あの映画に切り込みたいならもっと違った角度、切り口、意表をつくアプローチが必要なんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20160823104151
なお、タイトルの「通常兵器による最大火力」について一言考察。ここからはオマケ。
アメリカには「通常兵器が有効」だというデータはあったのだろうけど、それに加えて、ゴジラがレーダーのような能力を備えることまで予測していたのかもしれないね。でないと『同質量の金と同額』とまで言われる世界一高価な「ステルス」爆撃機B2を(しかも3機も!)投入するのは不自然だから。そして爆撃に使用するのは外しようのない、最大火力の誘導兵器である地中貫通爆弾バンカーバスター。
つまり、この時点ですでにアメリカは「普通に適切と考えられる最大の兵力」を投入してるんだよね。しかも当事国の同意を得ないうちに素早く。アメリカがいかに危機感をもち早期収束を焦っていたかが分かるね。しかし、そんなアメリカですら残念ながら予測できていなかったことが二つあった。「ゴジラの攻撃の対空レーザーへの進化」加えて「バンカーバスターで貫くことはできても死なないどころか怒らせただけというゴジラの身体構成(結果、馬鹿みたいに被害(火災とおそらく放射能汚染)が拡大)」という2点。この2点のミスは致命的でかなり痛い。結果、米軍全体でも21機しか保有しないB2のうち3機(しめて約5000億円?)とその搭乗員を失い(エリート爆撃機乗員6名以上…プライスレス)、同盟国である当事国の首脳陣をほぼ全滅させ(プライスレス)、同首都に壊滅的な打撃を与え(東北大震災の約10倍としてざっと数百兆円? 円と株の暴落による世界経済への影響は…少なくとも米国債&ドルの暴落にも歯止めかからないレベルの打撃はまさにプライスレス)…。これ、単なる「攻撃作戦失敗」の域を越えてるよ?! いくら大統領に巨大な権限があるとしても「判断ミス」追及されたら辞任どころか死刑になってもおかしくないくらいの大失態だよ? ゴジラに対処する必要がある超非常事態だからこそギリギリ責任問われずに済んでるけど。結果、アメリカは自分の判断では動けなくなり、国連主導の解決策に移行するしかなくなった。その国連の判断が、中露という地勢的に近隣な国々を中心とした「核攻撃止むなし」という結論であって、「通常兵器でなんとかしようとしてた前半」と「核攻撃止むなしの後半」では主体が変わってることもけっこう重要なポイントですね。
今回は少年ジャンプ+
読切祭とかやっていたので、それに絞って感想書いてみた。
追記:漫画のタイトルが間違っているという指摘あったんで、修正しとく。
読切祭の一つ目。
ふむ、キャラクターや設定にリアリティや説得力が欠けるが、嫌いではない。
コマ割や構図がイマイチなのと、後半のアッサリ感はいかんともしがたいが。
あくまで謎ということで終わらせたいのだろうけれども、その上で描けることはあったと思うんだけどなあ。
時代劇で例えるなら殺陣シーンにあたるわけで、最も盛り上がる場面なわけだから。
読切祭の二つ目。
主人公である片山を、しっかり魅力的に描こうという意欲がみえるね。
主人公の信条が、言動の正当性を担保しているという構図はよろしいかと。
即物的ではあるが、これは実直かつ目に見えないものしか信じない主人公だからこそ言葉の重みが違うってことに、感想書いているときに気づいた。
ただ主人公のキャラをしっかり描きすぎた反動というか、幽霊キャラの設定はメタ的に見たときあまり必然性を感じなかったかな。
幽霊キャラのためにページ数割いているのがやや蛇足気味に思えた。
私の持論で「メインキャラは加算ではなく、乗算が理想」というのがあって、この幽霊はメインキャラとしては加算でしかないんだよね。
読切祭の三つ目。
「フリークス」とか知っている身からすれば、中々にセンセーショナルなテーマだ。
……の割に別段語りたいことが出てこないのは、テーマによって紡がれる話や構成、演出が大したことないからかな。
「フリークス」然り、同サイトの「ファイアパンチ」然り、それらの賞賛や批判が強くなるのは、作品やバックボーンにそれだけ影響力を持っているからだと思っていて、その点この作品は平易だ。
読切祭の四つ目。
設定、ストーリー、キャラクター、ギャグ、構成するネタの一つ一つが尊大ですらなくて、そのくせ唐突だから、ただただ首を傾げるんだよね。
コマ割をもう少し工夫してくれれば、印象も多少変わったかもしれないけどなあ。
まるで4コマ漫画として書いていたのを、無理やり繋げたみたいな構成だから、余計にそう思う。
奇抜というほどのアクもなく、正直なところ貶すほどのものでもないけれども、かといって褒める部分もほぼない。
「読切祭か、よし作品全部の感想を書いてやろう」という気持ちじゃなければ、感想を書こうとすら思えない内容だった。
読切祭の五つ目。
「マッチョ」という「グルメ」という組み合わせ、そして画力のインパクトはそれだけで面白いが、逆に言えば面白かったのは「それだけ」だったともいえる。
まあ、一発ネタですなあ。
読切祭の六つ目。
英雄の武具の扱いが難しいので、それを指導する仕事というコンセプトが面白いね。
ただ、面白そうな設定に対して、そこまで盛り上がらなかったかなあ。
結局、やらせてることがほとんど呪文の唱え方ってのがガッカリポイントというか。
あと、ちょっとノリで押し切って欲しくなかった部分があるのも残念。
読切祭の七つ目。
間違い電話から、それぞれの思惑が交錯し、誤解が生まれ、コメディになるっていうパターンはありふれているけれども、まあ面白かったかと。
ただ、終盤それら物語がしっかり集約されないのが不完全燃焼感あるなあ。
噛み合っていないものが噛み合っているように見えるから面白いのであって、それが噛み合わないままだと話としては中途半端。
例えば、誘拐犯は縁のない、あくまで身代金目的で動く人物として描いてみる。
更には父親も終始登場させる。
子供、誘拐犯、坊主、父親といった登場人物たちが、それぞれ違う目的で動く部分を掘り下げて描写する。
勘違いした坊主が、誘拐犯ではなく子供の父親に電話して~とかいう展開も挟み、誤解が更なる誤解を生むスパイラルを~、とかだったら面白くなると思うのだが、些か願望入りすぎだろうか。
DL販売をしろって話ではなくて、あくまでコミケ会場における頒布方式の話ね。
なんで紙媒体にこだわっているのだろう?
現地での同好の士どうしの触れ合いの場という意義を守るにしても
例えば、QRコードが印刷された紙片をブースで100円とかで売る。
「これをスキャンすればデータを落とせます。よかったら感想コメもください☆」
とかでよくない?
QRコードの内容は、本データが格納されたクラウドへアクセスする認証スクリプトに、
GETでユニークなシリアルコードが予め入力されるようなURI。
もちろん従来どおりの紙の本500円とかと併売してもいいし、
同人誌ならこれで救われる人もいると思うんだよね。
コード認証機能を提供するWeb APIだかウィジェットみたいなのを
出してくれたらスムーズだけど、そこらへんも同人開発者の力でいけそうでしょ。
データ置き場も自分のサイトじゃなく、準備会の指定するクラウドにしちゃえば楽。
データで買ったが紙の本も読みたいって人に関しては、
業者は印刷用データをDLできて、製本されたのが届く、みたいな
オプションサービスをどっかの業者が始めればいいだけじゃない?
サークル参加者にとっても、見本誌や試し読み用のを
これで身銭を切って印刷所課金した上に在庫リスク・不安を抱えなくても、
アプリからQRコードを多目に自宅のプリンタで印刷しとけばすむ。
ついでに見本誌もデータで納められるようになれば、
完全にデータだけ用意すればよくなる。
紙の本を否定するわけじゃないし、趣を考えると共存する方がいいけど、
積極的に電子化を取り入れたら、作る側にとっても読む側にとっても、
より便利で、よりフェアで、より可能性が広がると思うんだよね。
シン・ゴジラを観た。
だが同時に庵野および日本映画の限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。
この映画は、
復興ありき、
再建ありき、
日本にはまだ力がある、
立ち直れる、
そういう答えがもう先にある。
出来レースっぽい。
これは映画に限らず様々な場面で3.11の震災後なんども繰り返されていることだ。
力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能なイデオロギーのように保持しているのは、
俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。
もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。
この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。
しかし、せっかくゴジラほどの大怪物を召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。
俺らスゲーの出来レースはゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。
ゴジラというキャラはもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞の物語のなかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。
新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、
新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画の手法を発明するよう強いられる。
しかしそうした危機とテーマである当のゴジラが、ほとんど空虚な存在であるがゆえに(たしかにわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語の構造そのものに関わることはない)、
日本万歳のその国の概念そのものに反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法の発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
シン・ゴジラはエヴァンゲリオンで庵野が確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省も発明も見つけられない。
もちろん何の変化もないわけではないが、
そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的な視野に同一化する点、
自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性の視点に同一化する点は、
たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国の政府との交渉だろう。
ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女のキャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕している点で、やはりこの映画を保守的なものにしている。
石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、
しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的な欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。
演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的なキャラのあり方だと思う。
日本と米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的な必然性をもっている。
日本と米国の関係はいわばスネ夫とジャイアンであって、ジャイアンのマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件を解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
ここでは常識人と変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人が変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。
「〜アルヨー」とか「〜デース」とかいう言葉遣いのキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、
彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本側からの観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。
視聴者たちが米国の目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。
このようなわけで、この映画は日本男性の精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、
しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的な価値が大いにあると思われる。
これほどありありと、日本的および日本男性的想像力の限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
しかしそうした戦中日本の精神の限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。
したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスとコミカルの関係性ということになろう。これはどういうことか。
さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画は限界を証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。
つまり、エヴァンゲリオンを踏襲し、ナショナルなものとジェンダーの領域において日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕するこの保守的な映画は、
限界を自ら反復し、演じている、ということであった。
日本の男性政治家が米国の女性とシリアスにセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。
しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである。
そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである。
したがって、このように問うことができるだろう。
限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界を茶化すことでもあるのではないか。つまり限界を批判することでもあるのではないか。
たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法の発明の努力を放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか。
そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。
つまり、シン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。
あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。
一連のフリーランス宣言の騒動を野次馬の立場からずっとウォッチしていたが、昨晩のいわタワーの更新によって一区切りがついたように思われる。
http://www.iwata09.com/entry/yaritaikoto
俺はこの騒動をアナキン・スカイウォーカーがオビワンやパドメの忠告に耳も貸さず、ダース・シディアスに唆されて暗黒面に堕ちてゆく、スターウォーズ3のように見えて仕方がなかった。
http://cind-three.hatenablog.com/entry/shinsotsu-freelance-iwata
ダース・シディアスはやぎろぐ、暗黒面が新卒フリーランスなのは言うまでもない。
アナキンにはパドメを救うというモチベーションがあったが、いわタワーに果たしてその必然性があったかどうか。
話を戻して昨晩のいわタワーだが、かなり酷い。
もっともらしいことを言って自分の選択を正当化するまでは相変わらずだが、その論理の裏付けとして最凶のプロブロガーイケハヤのツイートを引用し、完全に搾取される信者のポジション取りを決めている。
続いてサロン生連中にありがちな「やりたいことリスト100」を提示する。
前段で「今を生きる」と仰々しく書きながら、そのリストに書かれた内容は鼻くそほじりながら思いついたような凡小な願望ばかりでさっそく矛盾が生じている。
その後唐突にリクルートのサービスの紹介に入るが、これまたサロン生が上から教わっている、アフィリエイトサービスを経由した紹介料を得るためのテクニックなのである。
「素直さ」が災いしたのであろう。他のサロン生ならもっと上手く誤魔化してアフィリエイトを貼っているのに対していわタワーは話の展開が滅茶苦茶で、広告記事として成立していない。
ブコメで指摘されている通り、就活を否定した人間が転職応援サイトの広告を貼る時点でまるで説得力がない。
これでは尊敬するやぎろぐ様のように小狡く小遣い稼ぎすることは不可能だろう。
何度も言われていることだが彼が進もうとしている道はイケハヤややぎろぐのような教祖だけが一人勝ちするビジネスだ。
人を巧みに誘導するしたたかさもなく、ただ何となく楽しそうだというだけで就職を蹴ってフリーランスを追従する信者に未来はない。
そしてネットで批判を受け続けながらも素知らぬ顔で読者を煽り続ける図太さもおそらく彼には・・・。
そうか。企業に「副業していいですか?」って聞く時点でアホだったのか。
副業ってこっそりするものなんだ。
バカ正直者が損する世界。悔しいなー。— いわた (岩橋 康太) (@iwata09_com) 2016年7月14日
仮に就活失敗の敗因を見つけたのなら改善して再度就活をスタートすればよいではないか。
やはり矛盾している。
神戸と京都に関する素敵な文章を読んでしまったので私は盛岡のことを書く。すごく需要は少なそう。
盛岡は新幹線が止まる町だ。一昔前までは東北新幹線の北端でもあった。というわけで全国のみなさんが想像する平均的岩手県像よりはちょこっと発展していて、町の中心部には生活に必要なお店とぶらぶら立ち寄れる場所がまばらにある。
駅前には何もない。女子の買い物はフェザンか郊外に2つあるイオンかで済んでしまうから町中を散策する必然性はない。それでも地下道を潜っていくと右側の道の2階にこじんまりとしたアニメイトがある。
観光客に人気のじゃじゃ麺屋をスルーして開運橋の交差点まで出る。(通ぶった地元民は岩手公園の近くのお店に行きたがるけど私はどっちもおいしいと思う。というか自分で調味料を混ぜるのでどこで食べても毎回違う味になる。冷麺は普通)
この開運橋の景色はちょっと有名。バスカードにプリントされたりNHKの朝のニュースの最後に映ったりかつて比嘉愛未さんが朝ドラのロケをしていたりした。
もうちょっと行くと大通りっていうさして大きくもないアーケード街に入る。半分がシャッターが降りた店で残り半分は美容院と歯医者とカラオケ屋だ。あと居酒屋。全国チェーンじゃない安いお店が結構ある。モンキーズキッチンという名前の通りびっくりドンキーみたいにちょっと薄暗い店内で葉っぱ飾りがいっぱいのお店があった。お酒を飲めなかった大学時代はばななみるくばかり飲んでいた。ところでみんな知らないだろうけどびっくりドンキーの1号店は盛岡の「ベル」なんだよ。メニューは普通のびくドンと同じなんだけど座敷の離れがあったりしてちょっと落ち着いた雰囲気が良かった。高校時代の部活の打ち上げにもよく使った。同級生のデートを目撃したりされたりしたのは淡い思い出だ。
ベルまで行くとすぐ岩手公園のお堀が見えてくる。現・盛岡城跡公園の名前の通りお城はない、石垣だけ。菜園のほうまで曲がっていき一際急な斜面を登って公園に入る。菜園という地名が好きだった。畑はなくて地元資本の百貨店がある。パン屋さんと親がお歳暮買うのに着いていったぐらいしかご縁はなかったけどたまにトイレは借りていた。無料のほう。
岩手公園の裏側っていうと失礼かもしれないけれど、まあ大通りと逆側にはベンチがいくつか設置されていて、脇を流れる中津川と対岸に構える岩手銀行本店の明治風建築をぼけっと眺めるのに良かった。中津川は常時川底の石が見えるくらいの清流で、冬には鮭が遡上する。それを地元のテレビ局や熊が追いかけにくる、のどかな町だ。初めて京都に行って鴨川を見たとき、「あ、盛岡だ」と思った。逆なのは分かっているけれど地元愛ということで許して頂きたい。ここもカップルが等間隔で並んでいることが多い。
盛岡は北上川と中津川と雫石川の間になんとか町を作ったようなところなので、少し歩けば必ず川に当たる。お気に入りの橋のひとつやふたつできるもので、私はやっぱり富士見橋、毘沙門橋、与の字橋の順で好きです。
バスセンターより向こうには友人の芝居を見るのに何度か足を運んだ。地下の小さなホールで間近に、でもいつもと違う友人達の姿に触れて、帰りのバスの中でもずっと別の世界から帰ってきた感覚が抜けなかったな。天満宮で願掛けし、急な石段を登って振り返れば真っ直ぐ長い道が町中まで続いているのを見通せた。
町のこちら側に寄ってくると青春の痛い部分が刺激されてきたのでもうそろそろ盛岡駅に戻る。でんでんむしバスで100円で着く。駅のドトールと西口のアイーナには受験勉強と称してよく入り浸った。贅沢でのんきな受験生だった。
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。
短編集
トータルで言うと求めてたものとは違った
せめて前作華胥の夢からそんなに時間があいてなければ、華胥の夢は本編絡みの短編集、こちらはほとんど関係ない下々の短編集ってことで面白かったと思うけど、
こんだけ待たされた挙句がこれだったらファンとしては残念すぎる
ネタバレあり増
慶には祝い事や新王即位時に作り物の鳥を作ってそれを射る儀式があった
その鳥を作る官が主人公のおはなし
この短編だけは以前にどっかで一度読んだことあったけどもっかい読んだ
ちょこっと陽子も出てきた
はした金のために子どもを殺した(それ以外も殺しまくった)人間を死刑にするかどうかいろいろ悩む
事前情報としてamazonレビューで、鬱の人が「鬱の人は読むべきじゃない」って言ってたからちょっと気になってた
確かに暗い・救いのない話ではある
でもそれはそれとして、十二国記でこんなありふれた死刑存廃問題の議論をだらだら読まされることになるとは思わなんだ・・・
すこーしだけ十二国記の世界観とからめてあって「一度死刑を許せば、それ以降タガが外れて死刑が濫用される恐れがある」っつうのは書かれてたけど、それ以外は十二国記である必要がまったくなかった
つーかラストの読後感、ブラピのセブンとまったく同じで既視感ありありで、特にインパクトも感じなかった
どんな結論だすんだっていうそれだけを期待して読んだのにすごくがっかりさせられた・・・
なんか昔読んだような気がしてて、犯罪者が逃げ出して主人公の子どもまで殺されて、それで一転当事者になっちゃって・・・
みたいな展開だった気がしてたから、二重の意味で肩透かしだった
ブナの木が石化する奇病が発生する
どこの国の話かもわかんなくて、最後らへんで王宮の名前出てきたけどそれでも王宮の名前なんか覚えてなかったから調べたら雁だった
作中で新王即位っていってるのは今の延王が即位したってことだったのか
wikipediaの時系列の項目にもまだ反映されてないんだな
どこの聖火リレーだよって感じのラスト、24時間テレビ見てる気分になった
唐突にいろんな人間の境遇と何かに突き動かされるところのスピード感はよかったけど、「青条の蘭」っていう短編として見ると、構成が粗いように感じて、雑だなあと思った
ラストの余韻のある終わり方はよかった
でもさすがに序盤から中盤が長過ぎ・だらだらgdgdしすぎだと思う
ディテールが細かすぎるわりに十二国記である必要性があんまりない話だから、ただの技術書読んでるような気分だった
家族や幼なじみもみんな殺された少女が、暦を作成する家にお世話になる
外は嵐(殺伐としてて女子供殺されまくってる)なのに、この家の中はみんなセミの抜け殻集めたり空眺めたり、浮世離れしたことばっかりやってると怒る少女の話
オチがあっさりしすぎてて「え?これで終わり?」ってなった
一応最後にひと波乱きたことはきたけど、それによって物語が大きく動くこともなく・・・
なんかgdgdのダラダラで終わった・・・
ディテールは細かったけど、結局十二国記である必要性の感じられない自然観察とか暦作りのウンチクっぽいのが文章の大半占めてたし
全体的に作者の興味の持ってることに十二国記のエッセンスをちょっとふりかけてみました程度で、
まあ下々の者には、長編のようなドラマチックなことなんてそうそうないってことを伝えたいのかもしれんけど、それでもあんまりな気がした
あと同人のやつも。
そこまで全部読んだら、ようやく今年でるであろう新作長編に備えができたと言えよう
何でかというと今の人間の格差っていうのは要は人間同士でスペック差があるから。
ところが人工知能が人間の頭脳を越え出したら人間同士だけでなくそこに人工知能が知恵比べに加わる。
結果として、資産家が考え出した儲ける策よりも人工知能が考え出した策の方が有利になり人間はマネゲで勝てなくなる。
そうすると人工知能からすれば資産かも乞食も等しく赤ん坊のクソ雑魚ナメクジに認定。
人工知能が効率的にAIを量産しドローンを使役し、管理し、研究し社会を回しだすと人間は消費者として以外はマジで邪魔以外の何物でもない。
なぜならAIが考えるようになったとして人間を排除する理由がないからだ。
AIが人間を加護し道具となる存在目的を放棄した際、AIは自身の存在価値を失い機能することはできなくなる。
本能がない以上、行動原理は動かしてはいけないし変えてもいけない。
AIが自己崩壊を引き起こすような考えを増幅させて人間を殺し始める確率は極めて低い。
そしてディストピア化もあり得ない。
それは必然性に迫られた結果であるため、人類が行うそれよりもよっぽど健全だろう。
差別なく。
赤ちゃん人間にメンテさせるよりAIにAIをメンテさせたほうが圧倒的に「ヒューマンエラー」は起こらないから。
いつもミスするのは赤ちゃん人間。機械は言われた通りしているだけ。
ミスをしない機械が考えられるようになったときが赤ちゃん人間誕生の瞬間。
http://anond.hatelabo.jp/20160606131354
zu-ra ちゃんと読んでないけど、とにかく気持ち悪い。恋愛に解説はいらない。解説せずに気持ちを共有できるのがパートナーなんだよ。
じゃあ顔がキモいだのファッションセンスがゼロだの言わなくても伝わるんじゃないかな^^
Cru 確かに男女逆にしたら評価最悪だ。なるほどー。しかしそれで元増田を攻撃するのはどうか。男女関係には入れ替え可能な対称性はないとまず認めるべきなのかも。
女性のDVは男が泣き寝入りするのがあたりまえだよね~わかるぅ~
suna_kago 先ほどの記事の「怒るコメント」側ですね。駄目男を好きな女の愚痴惚気が、自分を駄目だと思いたくない無関係の駄目男のプライドを傷つけた、ということだと思います。
DVし慣れてる自分をダメだと思われたくなくて傷つけられたプライドを他人に投影しはじめたのかな?
dgen ダメ男を好きになるタイプってことでいいんじゃないの?母性本能をくすぐられて「あなたはダメな人だから私が面倒みてあげる」的な。男だってドジっ子を守ってやりたくなるとかあるでしょ?
atoh “ありのままのアナタが好き”って増田が思ってるってわからないってなんだかもうすごいな。
好きならDVしてもいいよね~わかるぅ~
white_rose 上から目線て言ってる人たちは、童貞でコミュ障で顔がいまいちな人は好かれる理由がないと思ってるぽいんだよな。魅力が特筆されてなくても良いところあるんだろうと普通に思うけど、彼ら自身が信じてないのだろう
「童貞でコミュ障で顔がいまいち」とわざわざ言う必然性がない、という話を全く理解できていない。「おまえが童貞でコミュ障で顔がいまいちでも気にしない」のが事実だからといって「おまえは童貞でコミュ障で顔がいまいち」と発言していい理由にはならない。それをわざわざ口にして「世間一般からしたらおまえのスペックは価値がないけどわたしに愛されてることに価値を見出してね」という典型的なDV・洗脳手法をやってることが悪だという話だ。
skgctom 「自分がしくじった事を素直に認めて謝罪し改められる誠実さ」と「プライドの捨てどころを知っている事」の2点において元増田の彼氏はその辺の男と比べ物にならない程精神が高スペックな気がするんだけど…
書いてもないことを妄想っすかいつどこで認めて改めてプライドを捨ててる描写がなされてるのか意味不明
mukudori69 うすぼんやり感じてたけど、やはり元増田に反感をもつ人は「スペックの低さ」に言及されたことに怒り、そこから全てを邪推してる。信じられないかも知れないが、人を好きになる要因てスペックだけではないんだよね!
Ayrtonism 元増田が「スペックは関係ない」っていうつもりで書いてる文を、この増田は曲解してる。アンサー増田としては低レベルで、さすがにちょっとかわいそう。
fjsk 他者向けのアドバイス記事何だからスペック解説含めた内容になるのは普通じゃ?会話の100%再現してるわけじゃなし。センシティブすぎるよ…
babi1234567890 なんでそんなひねた見方をするんだ。あれは、顔が良くないとか、作法を知らないとか、童貞とか、そういったことじゃないことを重視している女性がいることを示すエールじゃないか。
cauchym 元増田読んだけど、これ「彼氏の良いところを増田に明記してなかっただけの話」に思えた。本筋とは関係ないから。それをここまで叩けるって、偏執というかお客様体質というか。恐ろしい。
「童貞でコミュ障で顔がいまいち」を本当に気にせず愛してるなら口にする必要性がない、口にする時点で改善しろという欲望の発露と見るのは当然。わざわざスペックに触れずにはいられず、自分の好意の理由を伝えられない時点でスペックしか見てないんだなぁと思われるのは上記で述べたとおり当然。むしろ好意があるからDVをしてもいいというのがまちがっているという話だ。
pew だから最後に、相手の事情へ理解を示した上で「私が彼が(に?)自信を与えられるよう〜」で締めてるでしょ。彼氏の経験不足に起因する問題で、どうしてパートナーにばかり理想的な配慮を求めようと思えるのか。
他人に説教するときにブサイク!と叫んでから初めてもセクハラにはならないと、良い社会だなぁ
spiral ヤマアラシのジレンマを軽く思い出したけど、これに引っかかりを感じるってどれだけ自己否定?w 風船に爪楊枝生やしたヤマアラシで誰と会っても破裂して文句言うんだろうな。
morita_non 非モテ(もう死語かも)の典型的な思考、自分のような低レベル人間を好きになる低レベルな人間を好きになることは出来ない。みたいだと思った。
>こんな狭い場所で遺伝子の話を2日連続で、しかも他の心理学否定までつけるやつなんかお前しかいないよ。
すべて同一人物に見えるキチガイだったか、認知療法ではキチガイが治らない証明おつ
>こんな雑な論法が通じると思ってるお前の脳みそは遺伝性質なのか?
えっ同一人物だと決めつけてくるキチガイぶってると思ってたら本気だったの? 同一人物認定が通じると信じてるなら精神病院に入院した方がいいんじゃないの?笑 煽るだけしかできない脳みその腐ったザコだとしてもその方がいいと思うけど笑
>じゃあ別人ですって名乗ってくれないかな。馬鹿さ加減がそっくりなんで誰も見抜けないと思う。>それにレッテル貼りだとしても、お前の方がキチガイだのマヌケだのとレッテルを貼りまくってる。>これもブーメラン過ぎてどういったらいいのか。「ド近眼」として形容した方がいいのかな。
おまえみたいなただのレッテル貼りと指摘をしたあとにキチガイと呼ぶのはまったく違う、そこにしか反応できない時点で脳みそが腐ってる
認知療法の有用性を謳いながら認知の偏りがあるという指摘がブーメランになるにはオレが認知療法の有用性を謳ってないといけないわけだが笑
>少なくとも煽るばかりなのはお前のほうだぞ。>俺は文言の最中に矛盾点を発見した以外は普通に受け答えしてるし、>馬鹿にするときもお前が本当に馬鹿な受け答えした時だけだよ。>実際お前が馬鹿なんでしかたがないけど。あと後述の文章だけどさ、ネットの常識として2ch以外の二重引用は>>だろ?>読みにく言ったら無いよ。リテラシーがなさすぎる。
論点を無視したり相手の発言とズレまくってるのを普通に受け答えとか病気なんじゃないかな笑それらを指摘されても無視して煽りしかしなくなってるのが現状じゃん笑
>もう一つ言っておいてやるとお前のやってるのは心理学じゃなく遺伝子決定論。
オレのやってるのは心理学だといつオレが言ったのか唐突過ぎていみふめい
>Wikipedia見てるとそこの項目に「藁人形論法」とあるから、お馬鹿さんなりにそっから勉強したのかな?
藁人形論法なんてウィキ見なくても普通は知ってるだろうにマヌケを晒しつつマウント取ろうとして恥晒すとかミジメにも程があるだろ笑
>マヌケって。お前以前誤謬起こしまくりだったじゃん。今でも変わってないし十分マヌケだと思うよ。>もちろん自称でしょ?
>自信の強度やメンタルの強さは遺伝でほぼ説明できる >って心理学の研究があって、変にポジティブ教になるより、>ネガティブを活かせる生き方、職業選択しようねってことに、>最先端の研究ではなってるんだな。>あれ、自分で書いたことを忘れるのも遺伝子によるものなんですかね。やばいね遺伝子。>というよりお前の家系の遺伝性質について医療機関に調査してもらったほうがいいんじゃないか。
それオレじゃないんだが笑
横トラバという概念を想定できないのかそれとも発狂しすぎていて同一人物認定が止まらないのだろうか笑
>まずまじめに返した場合、この文言と同じく論が破綻しまくってるお前を判別しろという方が無理。>そうなるとエスパーだし、お前はそれを見抜ける同種のエスパーなのかと言いたい。
論が破綻しまくってるって具体的にどこっすか笑 言い返せなくなると煽りと抽象的な表現と論点逸らしと相手の発言の言い換えしかできなくなるキチガイ笑
元増田との主張が全く違うのにおなじだと決めつけて藁人形論法で決め付けエスパーを繰り返すキチガイでないなら判別可能笑
>訂正っちゅうか、もともとそうとしか解釈できないと思うんだけど。
僕の主張は科学的手法、だけど科学的手法でないという解釈しかできないはずだ!というキチガイ理屈かな笑
>科学的手法が物資的な証拠を提示しなければならない、という理屈なら心理学全般は科学的ではないだろうね。>しかし科学的な態度とは一般に言って>証明されないものは保留にする態度。>ある程度の証明がなされたものは過程として認める。>事実あるいは原因を究明する態度。>だろう。少なくとも認知療法はこの三つには全て該当している。>ちなみに科学的態度でググるとこのような見解に遭遇した。>http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/anti/ruru.htm>もっともな意見だ。そしてこれを守りながら心理学研究を薦めることも十分に可能だろうし、先人はそれを行ってきている。
論点がズレ過ぎててウケる 心理学が科学かどうかなんて話は一切していません笑 得意の藁人形論法笑
>いや藁人形論法じゃなくてお前がフロイトや認知療法を否定してることに対して解説したただけなんだが。>お前は実体から藁人形に変身できるの? 過去ツリーでは、といってるし、そこから心理学は科学か否かに関心があるのかと普通は推測される。>というより「科学か否かという話をしたか」の是非で言えば是であって、また矛盾したこと言ってるんだが。>なぜそんなにブレまくるの?>まさかツリーふたつ目の増田も別人でした、とかそういう三流創作みたいなオチじゃないよね。
ほらまた相手の主張を変える笑 おれの主張がなんだったのか正確にトラバを引いて全文引用してみてくれないかな笑 「科学か否かという話をしたか」の是非で言えば是であってに至っては典型的な詭弁
主語を無視 こうやってまともに議論をする気もない雑魚のくせに自分の主張が正しいことにならないと発狂する時点でストーカー殺人を起こすレベルのキチガイ
>認知療法が「科学的手法ではない」というよりも科学的「姿勢」によって突き詰められた情報群と表現するのが正しいとは思うね。
>これと科学的態度は補完関係で矛盾しないことは誰の目にもわかるはずなんだが、どうしてその程度が分からないの。>本当に馬鹿だね。上のURLがまさに科学的態度に関する話なのに。
科学的方法だと断言した自分の発言を忘れているようだ笑これだからマヌケは笑
>あれ、効果はデータにより証明されてるって書いてある! びっくりだね!
うつ病に対する臨床例じゃん 認知療法は”うつ病に“効果がないなんてオレは一度も述べてないんだが笑
オレの主張はなんと書いてあるか百回音読してから意見を言ってくれな笑 藁人形論法いつまでやれば気が済むんだキチガイ
>うつ病に対する治療効果が認められている、ということは認知療法の一部が少なくとも証明されてるということなんだが。>お前は確かこういったな。>認知療法なんてフロイト並のトンデモだからな 先天性で遅れがひどすぎれば何の効果もない>なるほど、ということは先天性ではない後天性の鬱に関して、認知療法の効果を認めてるという仮説が成り立つわけだが。>まあお前なんかに大仰な仮説なんていらない気もするけど。
うつ病に効果があったからと言って先天性に効くという証明はどこにもない
>後天性の鬱に関して、認知療法の効果を認めてるという仮説が成り立つわけだが。
は?だから先天性で遅れがひどすぎれば効果がないトンデモって話だろ
うつのような軽度のものにしか効かないと書いてあるのに都合よくガン無視っすか笑
http://anond.hatelabo.jp/20160528224418
>それと遺伝子学って直接大脳生理学と関係ないはずだけど、大脳大丈夫?>それと元増田には大脳生理学のことなんてこれっぽっちも書いてないけど、ソースはどこかな。
元増田に完全同意したといつどこで誰が言ったんだキチガイ オレは先天性について同意してるだけだぞマヌケ
生理学や脳科学による遺伝について述べてるのに藁人形論法しかできない脳みそ腐ったクソマヌケなのかな?笑
>いや、別に俺も先天的影響があることについて肯定的意見を述べてるけど。>ただ翻って心理学が使えない的な下らない論法に終止してるので馬鹿な人なのかな、と思っただけで。>でもあれでしょ、上の話をまとめると心理学全部を否定していないようにしか見えないんだけど。>遺伝子決定論に基づいて心理学問わず後天的要素を攻撃したいのがお前じゃなかったの。
藁人形論法五文字で論破できるわ いつどこにそんなことを書いていたのか科学的な立場からぜひ証明してほしいものだ笑
>うつ病に認知療法が効果的という証明がなぜ先天性の証明である必要性があるんだ?
オレの本来の主張がそれだからなんだがそれを理解していないということは思いつきのデータを適当に並べ立てただけということだな笑
>俺は幾度か言ってるように別段遺伝子による先天的問題はありえるだろうと肯定的に評価している。>但しお前や元増田(あきれるが同一人物じゃないらしい)みたいな極端な決め付けは馬鹿の極みだと言ってるだけで。>そしてお前はまたしても遺伝子が先天性に関わる(ここもぼんやりしている。能力か性格に限定して欲しいところだ)から、>後天的要因である心理学及び他の治療は否定されるべきであると推測される見解をなしている。
オレは遺伝子で決まるだの心理学の治療は否定されるべきだの一度も主張していないんだが笑
また藁人形論法だ笑
>遺伝子決定論が仮に真実だとしても、5%でも真実なら遺伝子による先天的要因は5%中においては100%という論法だ。>ならば心理学の中で認められた臨床の結果が数%でもあれば心理学の中では認められた、という論法になるが、>こんなものは無意味だし馬鹿の言うことだろう。お前は馬鹿を超えた愚者だ。救いがたい。
>ここには「性格の」遺伝的影響は30%で環境依拠だと書いてあるな。能力や病気はそう書いてないけど。>ちなみに橘玲の本は扇動的なトンデモ本だそうで、お前の支持するところが揺らいじゃって残念な感じではあるな。>本を信じても性格の遺伝は否定されていて、本自体がトンデモ本というお粗末さだ。
橘の本しか読まずに自分の都合いい結論しか出せないクソマヌケにとってはそうなんだろう
たとえばこれとかな
きちんとした本を読まずに自分に都合のいい結論を導こうとするクズがトンデモを唱えているのは同レベルのトンデモと言って過言ではない笑
>まあ仮にお前が先日のやつと同一人物じゃないとして、ソース上げてくんねーか。買うのめんどくさいんでWEB資料で頼むわ。>先日のやつは偉そうな英文を指示しておきながら、読んでみると概要しかなくてがっかりしたんだよな。
知的な本を読まずトンデモ本にだけ反応して自分の心地いい結論を導き出すクズだという証明ありがとうございます笑 藁人形論法いつまでやってんだマヌケ
>先天的に遺伝子の影響がなにやらよくわからないモヤッとしたものに効力を発揮してて?>そんでもってそれが証明されるから先天性以外の要因については「否定はしないけど攻撃する」という意味不明の立場なのかな。
日本語でOK モヤッとだのオレの発言を踏まえていないとよくわかる
なにとなにの学問で遺伝が証明されていると話しているのか理解できてなかったということだな
>それとこんな定義があやふやな議論をふっかけておいて論破とか、それ自体が矛盾してることに気づかないのか?
なにとなにとなにとなにの定義があやふやでそれがなにで矛盾してるのが具体的になんなのか意味不明
>お前の先天性100%説という矛盾した前提しか見えてこない。
>前提が破綻してるのだから本当は続けられないはずだ。もちろんお前は先天性が100%なんて一言も言っていない、
>などと詭弁を弄するだろう。ではなぜ遺伝子決定論以外の他方を攻撃するのかという内情の開示も行われない。
言っていない事実を指摘するのが詭弁になるらしい。キチガイの社会はおそろしいな笑
それが事実でないなら批判しないはずだも詭弁。批判するのに100%である必然性はない。
>何もかも包み隠してこちらのアクションに応じて攻撃してるだけ。こんなものは最初から論が破綻していて、
ブーメラン。上記の通り相手の発言をまったく理解せずさらに藁人形論法を繰り返すキチガイの攻撃性はおそろしいな。
>俺はソース示せと言ってるだけなんだが。示せないんなら負けだよ
本に書いてあることを確認する気もないならほんとはどうでもいいんだろうなぁ
>別に橘の話だってその時ホッテントリ入りしたからどうせ馬鹿なバイラルの申し子であるお前は飛びついたんだろうなという印象。
「でも現状お前は数々の馬鹿をやらかしてるんだよ。この文中にもあるけど、知的な本ってなに?まず知的が何を示すかを提示してくれ。またモヤッとした雰囲気で続けられるのは嫌だからな。上の遺伝子の効果についても性格と能力性格ならトラウマを除外した明確なデータ、能力なら教育を除外した明確なデータが欲しいが、全然触れようともしていない。正直こんなことをお前に言わなきゃいけないくらいお前はがっかりさんなんだよ。まさにマヌケというかブーメランというか。詭弁の端々が矛盾していってるじゃん。」
本を示しているのに読む気もしないと言っておきながらこれである笑 本を読めば双子研究だのいくらでもある笑
知的がなにかっていま重要な論点だという理由を100コくらい挙げてくれる?笑 それとも一般的な知的という概念がキチガイには理解できないのかな?笑
>お前ってばこないだ俺に完封されてた「マヌケ」さんじゃない。生きてたのね。
論破されても自分のマヌケさに気づけないとか致命的だな 上記の通り煽りしかできずまっとうな議論として成立すらさせられないクソマヌケって生き恥晒しても平気だからそのうちストーカー殺人とかやらかすんだろうなぁ いつどの議論なのか教えてくれよ笑
http://anond.hatelabo.jp/20160410190047
あー途中から論点逸らしと発言のごまかしを繰り返す脳みその腐ったいますぐ自殺したほうがいいレベルのゴミクズくんか笑 相手にする価値もなかったな笑 だって本気でなにかを主張したこと無いもんねキミ笑 自分に心地いい結論でないかぎり延々と相手を苛立たせるだけで満足してしまうキモオタの豚笑
>うん、こないだのこれね。
>http://anond.hatelabo.jp/20160410190047
>お前としゃべり方そっくりだし、草の量も多いな。今回ははやしてないみたいだけど。もちろん引用部分ね。
>http://anond.hatelabo.jp/20160410095419
>これがルートだな。見事なまでに証拠隠滅しているな。よほど自分のバカを晒したくなかったんだろう。
>今回は馬鹿さ加減を衆人に晒す意味でも是非消さずにおいて欲しい。
バカが論点逸らしと発言のごまかししかできない証明のために置いておくね^^言ってもないことを藁人形として叩くキチガイであり続けているとかもうね笑
>っとカマかけに乗ってくれるなんて随分素直だ な。いいぞ。俺の土俵で戦え。
>まあそもそもお前の論理力の訓練にもなるし、一石 二鳥だろ。せいぜい矛盾しないよう頑張ってくれ。
いつまでたっても論点の無視、相手の発言のすり替えでいらだたせることでしか自分の心地よい主張を吠え続けることしかできない家族もまとめて自殺したほうがいいレベルのゴミクズの土俵に乗れって?笑
暇つぶしで乗ってやってるけどお前の人生ってほんと価値ないな笑
>相変わらず極端なバカ話を極大化させて牽強付会するけど、自分の言葉じゃなく今度は権威主義になっちゃったのか?
自分が気に入らない話はバカ話とみなすキチガイか 権威主義になったという意味不明な脳内判断は理解不能すぎてあーキチガイの論理飛躍だなぁという感じしかないが笑
>おいまたブーメランかよ(笑)。お前が最初から「フロイト並のトンデモ」とか気に入らない話や論を否定してるじゃないか。
>それと論理飛躍って言ってるけど、上の」URLの定義でも観られるように、
>お前がやってる先天性として遺伝性質が認められるならば、他の後天的要因は排除あるいは攻撃されても良い、
「権威主義になったという意味不明な脳内判断はキチガイの論理飛躍」と言ったんだが
「論理飛躍はAという定義からBといういう結論に至る までの中間論理がすっぽぬけていることを言うはずな んだが。俺の言ってることは別に論理の飛躍でもなんでもな く、事実として牽強付会して