はてなキーワード: 知識不足とは
丸投げ・外注依存・無責任体質の発注元企業の意識が変わらないと無理。
自社で何も出来ないんだよ。世の中の企画・キャンペーン・販促物なんて殆ど代理店等の他社が全部作ってるんだぞ。
自社で何も考えず、これくらいの予算で何かしてくれませんか?アイデア出して下さい。それが良いんですね。それでお願いしますってさ。
企業同士の共依存な関係なんだよ。直接電通に対して攻撃しても意味が無い。
まぁ、やるなら毒をぶつける感じで、シールズ連中とか焚きつけて騒いでもらうのが一番効果あると思うぞ。
一定の評価と意義の元、注目浴びて騒げれば良いみたいだし。彼らは異次元なほどの知識不足により不可解な行動が多いが、根底にある日本を良くしたいという気持ちだけは理解できる。
「電通反対!電通に発注している企業も同族だ!日本の評価は地に落とされた!」「電通にこれだけ払って、自社の社員には給料全然払わず奴隷として扱う企業を許すな!」とかさ。センセーショナルでネタも多く騒ぎやすいだろう。
そして、電通に発注している企業リストを作成し、不買運動、ブランド価値低下運動、歪な関係性やお金の流れの周知、という感じかな。まずは。
今まで電通を叩いていたネットの人達は、彼らにネタや資料等をどんどん提供していけばいい。
彼らはそれを使って騒いでくれるだけでいい。というか流れが出来れば情勢的にネタがありすぎて無限に騒げ支持もされるだろう。殆どのネタが電通を絡めて発信でき、大衆の敵として立て続けられる。
2014年6月、ある朝起きたら口内に違和感があった。つばを飲み込むと増す痛み。
口内炎が出来ちゃったか…と思って歯磨きする前に口を開いて覗き込むと、患部が少し見えた。白いものが見える。
私は体質的に口内炎が出来やすいタチで、ああまた憂鬱な日が数日続くのか、とがっくりきた。
とりあえず以前貰ったアズノールのうがい薬をして、朝食の支度をした。
その日は運が悪いことに、決まったばかりの短期バイトの初出勤の日だった。口内の違和感がやる気を奪っていくのだが仕方がない。
段ボール箱をひたすら積み込んでいく肉体労働のバイト。6月とはいえ暑い地域なので汗が流れ出る。休憩時に配布される水は、本来私の体力を回復させるためのものなのに、口内炎の痛みでそれほどでもない。
この日初出勤の仲間達はとても気さくで、今日よりによって口内炎になっちゃってさ~大変ね~口内炎ならチョコラBBが効くみたいよ、と雑談しながら仕事をこなす。
1ヶ月ほどの短期だが、楽しい仲間とやれるバイトに巡りあってよかったなとその日は終えた。
そんな日が3日ほど続いたある夜。
風呂に入ろうと疲れた体を起こしたところ、ものすごいだるさを覚えた。相変わらず口内炎は酷いし、この上風邪をひいたのかと熱を測ると38.5。
明日はバイト休みだしかかりつけの内科に行かなければ、とそうそうに床についた。食欲はあったので処方された薬飲めば治るだろうと。
この考えが間違っているのとも知らずに。
次の日朝から内科へ行った。土曜日だったので夫が仕事休みで送ってくれて楽だった、というかこの時点でも熱は38.9。まともに動けない。口内の痛みは増してる。
口内炎の薬は飲んでいたがまったく軽減されてない。幸い土曜日朝なのに患者は少なく、おまけに高熱だったこともあっていの一番に診察してもらった。
「昨日の夜から高熱がでて体がダルイです、3日前から口内炎もできてしんどいです」
とやっとの思いでいうと、先生はうがい薬と解熱剤を出してくれた。お腹はくだしてないか?などと聞かれたがそれらの症状はなかった。
この時口内を少し見てもらっている。私は自分の経験上で口内炎と申告していたが、先生は見ても何も言わなかったのでそうなんだと思っていた。
「3日間分だします、飲み終わっても改善されなかったらまたきてください」
り言われ、病院のすぐそばにいる調剤薬局で薬をもらい、家に帰った。
解熱剤の効果はすぐに出たのだが、薬の効果がきれる時間になると綺麗に熱が元に戻る。低い時は37.5前後、高い時は38.8くらい。
それまで熱が高いぐらいじゃそんなにしんどくないよねって言ってた自分を大いに恥じた。まず何をするにも体がビリビリしていうことを効かない。
そして肝心のうがい薬、アズノールという消炎鎮痛作用があり、一般的に売られているうがい薬とは少し違う。後者は殺菌作用があるが、処方されたものは文字通り腫れを軽減するものだ。
効能にも口内炎ときちんと書いてあるので、少しは効果を期待したのだが、こちらはまったく効いている様子がなかった。
うがいした直後は口内がスースーして気持よくても、途端に痛みが襲ってくる。
こんなに口内炎が酷いのも稀で、今までは何か食べ物や飲み物が当たると痛い程度だった私は恐れおののいていた。
しかしこの時点でもこの痛みは口内炎であることを全く疑っていなかった。これが大きな間違いの1つである。
経過は長すぎるので省くが、結果この2週間後私は口腔外科に緊急入院になった。
2週間の間、内科2つ合計4回通ったのにもかかわらず、熱も下がらず口内炎は喉全体の痛みに変わり、水どころかつばすら飲み込めなくなったのだ。
横になれば気管が圧迫され呼吸しにくく、体は当たり前だが極度の脱水症状に陥り、白血球数は通常の3倍に膨れ上がっていた。
気管が圧迫された日が運悪く日曜日で、寝ていられなくなったので救急病院へ行き、その時初めて私の病名が発覚した。
「急性扁桃炎」だった。
あの口内炎だと思っていた痛みは、扁桃腺が腫れたことによる痛みだったのだ。
ここで言い訳しておくと、喉に口内炎なんて出来ないやんけ!すぐわかれ!っていう話なのだが、私の場合最初に違和感を感じた患部が、片側の喉から少し頬にずれた場所なのである。
普段風邪をひいて喉が痛いときは片側だけ痛むことなどまずなく、これが喉の痛みとはわからなかったのだ。
厄介な場所に出来た口内炎だと信じて疑わなかったのは知識不足であった。
補足しておくと、熱が出始めてから1週間と少し経ったころ、1日だけ小康状態になったことがあった。熱も37度前半に下がり、口内炎(正しくは扁桃炎だが)の痛みがなくなったのだ。
治りかけてきた、とその日家事を初めて食べたいものを食べ始めたのだが、その次の日私は地獄を見た。痛みが喉全体に広がり、食べ物が受け付けなくなったのだ。
前日に2つ目の内科を受診した直後で行くのをためらったのも間違いであった。
その次の日はねどこから動けず、水も飲めなくなった。喉が乾いているのに水が飲めない。でも飲まなければ死んでしまう、限界になったところで激痛に耐え飲み込んではいたが、もはや限界だった。
救急病院を受診した次の日は運悪く夫は出張で、私は隣県の実家へそのまま運ばれていった。
そのまま入院することを薦められたのだが、何分夫がいないと私を世話するひとも入院手続きするひともいない。
処方された痛み止め(ロキソニン)は30分程度しか効かず、高速道路を飛ばして1時間半、それもまた地獄だった。
次の日飛行機での出張を控えてる夫が、夜中に往復3時間の距離を運転するなんて申し訳なかったが、その時は感謝もいえなかった。すでに口を開けることすら困難だったので、受診するときは筆談だったくらい。
月曜日、私は実家近くの耳鼻咽喉科へ受診し、前述したとおり今すぐ入院施設がある総合病院に紹介状をかくので入院しろと言われて、救急車で運ばれた。
体重は発症する前から3週間で6kg近く減っていたので、帰りに着る服はワンサイズ下のものだった(今は戻ったけど)
ここで題名の話に戻る。
今回急性扁桃炎をこじらせた私の最大の原因は「のどが痛いのに耳鼻咽喉科へ行かなかったこと」である。
普通、風邪をひいたな、と考えたら大体の人は内科を受診するのではないか。のどが痛い、お腹がいたい、気持ち悪い、たくさんの症状をカバーしてくれそうだからだ。
しかしそれは間違いで、のどが痛いと思った時点で耳鼻咽喉科へ行くべきだったのだ。餅は餅屋である。
もちろん内科が悪いわけではない、悪いのはのどの痛みを口内炎と間違い、先生へそのまま伝えていた私である。
口内炎が出来やすい体質と付け加えていれば、先生だってそりゃ口内炎だと思うだろう。実際2つ目の先生は口内をろくに見なかった。
これを読んだ増田各位におきましては、のどが痛いと感じれば是非耳鼻咽喉科へ行って欲しい。実際私は入院して点滴を打ち、座薬を投与された1時間後、熱は下がり1周間のめなかったペットボトルの水1本即完飲できるくらい喉の痛みが消えた。
その後私は扁桃炎を2度繰り返し、今度発症したら扁桃炎を切除する手術を受けなくてはならないらしい。
確実に1回目にひどくこじらせたせいであろう、再発しやすい病気なのだ。
だが1回目の経験により、のどが痛いとすぐさま耳鼻咽喉科へ受診するので、2回とも5日程度で完治している。熱が高いのは2日くらいだ。
小学校の円の面積の計算の問題でバズっているのを見かけたので便乗してみる。
初増田なのでなんかおかしなことがあったらごめんと先に誤っておく。
そして、わたしは計算が嫌いで物理と数学から逃げ続けた生物系研究者で、特に円周率に対して深い知識があるわけではないことも付け加えておく。
簡単に経緯を説明する。
「半径11センチの円の面積を円周率を3.14として計算した時の答えは、11*11*3.14=379.94は厳密には誤りで、
有効数字3桁で380の方が正しいのではないか?」
(ちなみに、半径11の円の面積を5桁の有効数字で表すと、正確には380.13である。)
円周率3.14は、実際には3.141592…という割り切れない値を3桁で表した概数である。
有効数字3桁で算出された計算結果は、やはり有効数字3桁であるから、正しくは小数点以下一桁目の9を四捨五入して380が正しい。
なお、379.94と回答した場合は、実際の円の面積とは異なる値となる。これをあたかも真の円の面積のように誤解してしまう可能性があるので、
小学生に有効数字の概念を教えるのは難しいので、設問に「上から三桁の概数で答えなさい」と入れれば万事解決
設問に「円周率は3.14とする」と書いてあるので、「円周率は3.1400000…」を仮定して解けば良いのではないか
あるいは、もう円じゃなくて円周率3.14000のなんかの局面を仮定すれば良いのではないか。
そもそも3.14だろうが3.141592(以下略)だろうが大して結果は変わらない(0.19なんて誤差)。これくらいの誤差は無視していい。
なんで理系はこういう細かいことを指摘してドヤ顔しているのか。こういうことをするから小学生は算数を嫌いになる。
私自身は「379.94は誤り」派です。おそらく理系の人の多くはそうだと思いますが。
「379.94でいいじゃん」派の意見もざっとまとめてみましたが、もし足りない点等ありましたら後で追記するので
教えて下さい。
以下に、「379.94は誤り」という意見を支持する理由を書きます。
円周率はπです。いつの時代も、どの世界線でも、関孝和が計算しようがアルキメデスが計算しようがライプニッツが計算しようがオイラーが計算しようが
そろばんで計算しようがスパコンで計算しようが円周率は割り切れません。
アルキメデスは古代ギリシア時代にあって、おそらく円に内接、外接する正96角形の周の長さを求める式から既に円周率が3.14の概数で表せることを導いていました。
しかし、古代から円周率の計算に取り組んできた誰もが、円周率を割り切れる数として扱った人はいないのです。
人類が何百年もの時間をかけて漸く得ることに成功したこの円周率を、「あ。3.140000でいいっすね」とか、たかだか小学校教諭の分際で勝手に変えることはできないのです。
ぶっちゃけ、言語は変わっても、数字の意味は不変です。これは自然界の法則だからです。
仮定はあくまで仮定です。それを元にした結果が解になることはありえません。
例えば、私は生物学者なのですが、「STAP細胞があると仮定して」実験を行って得られた結論は、信用に足るものになるでしょうか?
答えはわかりきっていますよね。
ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です。
あと、比較として用いられていた「摩擦係数を0として」というのは仮定ではなくて想定です。地球上では作るのが困難ではありますが、
摩擦係数を0.00に近似できるくらいの環境なら作れるでしょ?その環境を想定してるんです。
それをあろうことかそのまま解にするなど、あってはならないことです。
結論から言うと、私は、小学生が「どれくらいの精度で円の面積を求められるか?」を、
誤解してしまうという点が、「円周率を3.14として有効桁数5桁まで求めてしまう」ことの
最大の欠点だと思うのです。
「んー、円周率3.14。半径11の円なら面積は121×3で363。
これよりちょっと大きいくらいだからまぁ、370くらいかなー?(正確には380です。)」
これくらいの精度で良い人間にとって、0.19(380.13と379.92の差)の違いなんて
もう誤差でしょ。そこに異論は無いのです。
しかし、小学生にとって、小数点以下二桁ってそりゃもうすごい精度ですよ。
半径の長さ11.0 cmと!魔法の数字円周率3.14さえ用いれば!
なんとなんと、数十平方マイクロメートル単位で円の面積が求まってしまう!
→実際には世の中そんなに甘くないわけですよ。
では次に、半径1111 cmの円の面積を円周率3.14で求めてみよう。
すごいですね~、どれだけ桁が増えても小数点以下二桁まで求まります。
ってんなわけあるか!!!!
1111*1111*3.141592654=3877733.79
これが正解。 ね?だいぶ違うでしょ?
でも、有効数字3けたなら、3880000。これならまぁだいたいこんくらいかーってのがわかる。
④−3で、「うわぁ、こいつめっちゃ細かいコト言ってるよ、これだから理系は。。。」
緑色の背景に、なんか動物っぽい白いものが写り込んでいますが、何の動物だかよくわかりません。
円周率3.14を使って半径11の円の面積を379.92と主張することは、この白い物体を「絶対馬だ!」って言っているようなものなんです。
有りもしないもの、本当にそうなのかよくわからないものを「絶対そうなんだから!私見たんだから!」と言っているどこかのOさんのようなものなのです。
私は最初、このツイート見た時、「まぁそんな細かいコト言わなくても。。。」
って思っていました。「379.94でいいじゃん」派的な考えだったわけですね。
その一番の理由は、
「3.14の次の値が1である」ということを知っているからです。
通常の概数だと、「概数で3.14」と言うのは、「3.135から3.144」までを想定してるんだけど、
まぁ大体3.14ってのはあってるんですよね。
でも、読んでいるうちに考えが変わりました。何故かと言うと、
「結構多くの人間が、円周率、有効数字の概念とその問題点を全く理解していない」
ことに気づいたからなんです。
挙句の果てには円周率を「3.140000」と「仮定」すればいいじゃん。
という人まで出てくる始末。
それでこの問題についてよくよく考えてみた結果、
「これはやっぱり、小学校であっても379.94を正解とするのはよくないな。。。」
と思ったんです。
このエントリーを読んでよくわからなかった人も、これだけは覚えていってください。
I. 数学とは、科学とは、世の中の真理を追求する学問であり、
人間に都合よく結果や値を変えることはできない。
πは3にも3.14にもならない。
II. 仮説は検証とセット。検証できない仮説を設定しては行けない。
仮説に基づいた結果を解にしてはいけない。
逆に役に立てるかと思い、書かせていただきました。
オモシロイと思って読んでいただければ幸いです。
こういう議論ができるのって、素敵ですよね。
たくさん反応があって驚きました。読んでくださった方々、ありがとうございます。
いろいろご指摘があり、自分自身勉強不足を痛感した点もありますが、
反論できるところは反論しようと思います。スター多めなブコメ中心に記していきます。
『ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です』ここが違う。勝手に行間を埋めるのは科学者たる態度ではない。
違わないです。なぜなら「円周率」と書いてあるからです。そして、小学生は、「円周率」が割り切れない数であることを知っているからです。
もし、「円周率を3.14として」というのが「円周率を3.14と(近似)して」という意味ではなかった場合、
勝手に人間様が円周率を3.14ぴったりであると定義しなおしていることになり、それこそ数学への冒涜です。
そうですね。この表記をさせるのは流石に難しいです。
私は、「4桁目を四捨五入して3桁の整数で答えなさい」と、問題文に入れるのが良いと思います。
円の面積を求める問題ではなく、「11*11*3.14を計算せよ」というなら答えは379.94です。
でも、円の面積の求め方は、残念ながら小学校の先生が定義を勝手に変えられるものではありません。
真実は、この場合はたったひとつで、小学校の先生のほうが間違っています。
一辺の長さ3.14 cmの長方形を想定することはできますが、円周率3.14ぴったりの円を想定することはできません。
なぜならそれは円では無いからです。
じゃぁ円じゃなくて周率3.14ぴったりの変な局面を求めよといえばいい、と思うかもですが、
なんで小学生がそんなわけわからんものの面積を求めなければいけないのでしょうか?
私は、小学校で扱う整数は純数学的には整数だと考えていたので、11.00000…を想定していました。
もちろん11が有効桁数二桁の概数なら、380の3桁目を四捨五入することになります。
九九で扱う数は整数ですので、純数学で表すと、2.0000*6.0000…=12.0000…です。
「仮定」の結果得られたものが「解」になることはありえない→僕の好きな背理法を否定しないで。 理系といいつつ知識不足。中学生から勉強し直すべき。
私も背理法大好き。もちろん背理法も考慮に入れたうえでこの文章を書いた。
背理法では、仮定の結果得られたものが矛盾する→だからこの仮定は間違っているというプロセスをたどる。
仮定の結果をそのまま解としていないことに注意してほしい。
ルート2が既約分数p/qだと仮定して、結果的にはpとqが共通の約数を持つことで矛盾を証明する。
私は、例えば、
このまま「(2n+1)*(2n+1)=4n^2+4n+1 なので、奇数の二乗は必ず奇数。つまり4^2=16は奇数である」
この場合、間違った仮定から間違った結果が導かれているのがわかると思う。4も16も2で割り切れる偶数だ。
スターは少なかったがこれについてはぐうの音も出ない。
公理と仮定について理解が足りなかった。正直すまん。でも、やっぱりπを3.1400000と仮定するのはダメだと思う。
なぜなら観測的にもありえない上に、後から検証もされないから。
ただ、有効桁数3桁で算出される結果に5桁を求めるのは無意味だし間違っているという主張です。
「3.14と仮定して」とあるんだから、「3.14」の次の桁など問題文中の世界には存在しない。「3.14000」なんてどこから出てきた?
「a=3.14と仮定して11*11*aの解を求めよ。」だったらこんな議論にならないのよ。
円周率だから、3.14ぴったりじゃだめなの。ちなみに、3.14の次の桁は、あなたの頭のなかには存在しなくても、この世界には存在するのだ。残念ながら。
半径11の円の面積は12100だと主張するのか? 私は、あまり自身が無いけど、間違っているのはあなたなんじゃないかと思うな。
でも、円周率が100の世界を仮定して検証するとしたら、それはそれで数学への扉を開いているのかも。
もちろんそう。問で聞かれているのは公式を覚えているかどうか?
だけど、3桁目までしか信頼できなくて、残りの桁は全部意味がないことを、おとなになっても理解できない人がたくさんいることが分かったので、
問題だなと思ったわけ。
実際求められるよりも遥かに細かい精度で円の面積が求まると誤解するのが恐ろしい。
実際、多くの人が半径11の円の面積は?って聞いたら379.94と答えると思う。間違ってるのに。
おわりー!
結論としては、「3桁の概数で表わせ」と問題文に付け加えるのが一番しっくり来る。
これを小学生のうちに叩き込んでおけば、
中1の有効数字の概念もすんなり受け入れられるのではないかな?
以下おまけ
半径2、または1をピッタリ2.000、または1.000と答えるなら、
半径2の面積は12.56の6を四捨五入して12.6。半径1なら3.14と記すべき。
1とか2を一桁の概数として表すなら、
半径2の円の面積は10。半径1の円の面積は3と記すべきだとおもう。
知りませんでした。もっと知りたいのに検索かけても出てこなかったので、
ソースいただけると嬉しいです。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160219013645
まとめサイトで取り上げられたこともあって多くの意見が寄せられているこの話題だが、このエントリーの筆者(以下筆者)の考えはおよそ普通の女性(筆者が本当に女性かは、そもそも釣りかもしれないとかキリがないのでさておき)が陵辱という言葉に対して抱くであろう普通の考え方だと思う。
さて事の発端は女子差別撤廃条約の定例報告会が2月16日に行われたが、この条約の批准状況を検討する同条約委員会から今回の報告会のテーマの一つ(しかもまとめサイトの見出しにあるような筆頭扱いではなく実際の質疑項目としては7番目)として女性に対する性的暴力を伴うビデオゲームや漫画の販売を「禁止」することを求めたものが波紋を呼んだことだ。
まず念頭に置きたいのは、この委員会には安保理決議や国連総会のような権限は無く数多ある国連関連機関のひとつに過ぎないことと、国際的な批判だとかの重々しい話ではなく委員会を構成するのは各国から選ばれた弁護士など専門家であって国家の代弁者が集う場ではないということだ。
また定例報告会とあるように日本だけが特別に呼びだされて叱咤されたのではなく、直近ではアイスランドやスウェーデンを含めた数か国が同様に報告会を行っている。
そして日本においてはゲームマンガの話だけでなく雇用や年金での男女格差など複数の議題があったものだ。
この委員会がどういうところに突っ込むかを言えば、アイスランドに対しては最高裁判事が男性しかいない点や強姦事件での有罪の少なさを指摘する。スウェーデンに対しては割礼と強制結婚の防止に関するデータの提出を求めるなど、一見してかなり細かい。つまり女子差別と見なせるものは手当たり次第とも言えよう。
話を戻そう。政治的には無視できないものの影響力は微々たるもので昨日と変わらぬ明日が来る程度の見解というのが今回の報告ということになり(国連の威を借りたい各種団体はいるが)しかしこういったことをきっかけに色々と考えるのは良いことだ。
冒頭リンク先の話はまさにそうで、ひとまずリンク先筆者の意見を要約すると以下のようらしい。
妄想は自由だけど、形にして世に流通させるのはまた別だよ。そんなもんはせめて、裏の世界で超高額で売買するか、無償でひっそりとやり取りしてほしい。
その理由は、そういった表現まで法で肯定されていたら、怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」この3つが揃った時、その作品は表現の自由の範疇を超えてしまう。ゆえにそれなりの規制はあってしかるべきということ。
中略省略は挟んでいるが概ねこうだ。特別な意見という感じではなく、ごく普通の感覚と言えるだろう。
しかしこのような普通の感覚とされるものが本人が想像しない危険性をはらんでいることに注意したい。
憲法で保障されている表現の自由だが、古くはチャタレイ事件でわいせつの定義が成され、公共の福祉のためにならわいせつ物の規制は妥当であるとされた。つまり公共の福祉に反しないということが表現の自由の大前提にある。
近年でそれを強く受けているのが松文館事件で、成人向けマンガにおける消し処理の甘さを指摘したものだが、どのような成人向け作品もいつ告訴されるかわからないしされれば有罪は免れないことを改めて認識させられたものだ。
定義そのものは変わらないが社会の変化とともにわいせつの要件に合致するかは変わる。チャタレイ夫人の恋人にしろ悪徳の栄えにしろ現在は文庫化され気軽に手に入る。つまり今現在悪だとされたものが数十年先にどう判断されるかはわからないのだ。無論、今は悪だとされれば裁判にかけられれば有罪になることに変わりはない。
怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから表現は規制されるのではない。公共の福祉に反するから規制されるのであって、法的には代表的なのはわいせつ図がに当たるから違法となる。誰かが不快だからという理由で規制してしまうことは表現のみならずあらゆるものを違法としてしまえる危険な考えであり、この先も健全な法の精神がある限りそれは守られるだろう。
先述したようにあらゆる成人向け作品は現在でもいくらでも禁止できる。だがそれは陵辱物に限ることではないし、また販売を特定の書店に限るなどの規制ではなく違法な出版物として流通そのものを禁止することになる。いくら筆者が「全面禁止しろよ」とは言ってないとしても、法で規制しろということは即ち禁止しろということになる。
現在は法ではなくその下の条例単位で成人向けとそうでない作品が分かれている。先述したように作品のジャンルではなく性的表現そのものが法的に重要なのであって、陵辱も純愛もそこには関係ない。この手の話は東京都青少年健全育成条例改正や児童ポルノ法改正などで過去に各所で散々出尽くしているが、行政も出版社もすでに作品のジャンルではなくもっと大きな単位での区分けがされている。コンビニで成人向け雑誌が他の雑誌とは別に置かれているのはそういう理由だ。
コンビニ雑誌の表紙やスマホ広告に載せるなよという筆者の言葉には、最近もコンビニにおける成人向け雑誌の表紙に女子高生が~という似たような話題があったと思う。これに関しては出版社や広告代理店などが対応する問題であって難しい。スマホに関しては広告表示に関する設定やアプリを導入する自衛策があるし、コンビニ雑誌についてはコーナーが明らかに区分けされている以上、不快なら見るなというほか無い。存在自体が不愉快だというのであれば、それは行き着く先はやはりそういった出版物そのものを禁止するべきだという論になるだろう。なにしろ全てのコンビニや書店から撤廃され特定の小さな通販サイトでしか買えないとなって筆者がそれに満足したとしても、世の中には筆者より恐らく強力で熱心な団体が存在する。今回の女子差別撤廃条約委員会の見解についても各種民間団体が絡んでおり、そもそも今回の見解では規制ではなく女子に対する性的暴力ゲームマンガの廃止を求めている。筆者は廃止された所で安全安心な世の中が得られるだけだろうが、それは当初のこっそりやれという目的から外れているが、筆者は何ら疑問の声を挙げないだろう。結局は自分の不快なものを消し去りたいだけと言えてしまうのだ。そうではないと言うのなら、ならば筆者は禁止すると法が言い出した時に「そこまではしなくて良い」と声を上げられるだろうか?
そりゃいろんな嗜好があるから、中には、対象を虐げたり傷つけたりしないと駄目な人もいるかもしれないけど、それって異常者か精神疾患ではないの?病院行けよ。
筆者は最初には嗜好と言いつつ特定の嗜好については健常者ではないとしている。性的嗜好というのは千差万別だがある種の思想を持っている場合は矯正するべきだ、というのは他者に対する尊厳を踏みにじる行為だ。50年前のアメリカならば白人に逆らう黒人は矯正するべきだとなるし、50年前の日本なら夫に逆らう妻は矯正するべきだとなる。いずれもその時代には当たり前のことであり、しかし現代人から見ればひどく差別的だろう。だからといって他者を傷つけるという行為が50年後に許容されるとは思わないが、しかし現代でも黒人差別や亭主関白を頭の中で考えることを誰が違法にできるだろうか。
特にこれは性的嗜好という、教育的思想などと違い本能に関わる難しい問題だ。法では正しい性道徳という考えがあるが、これを基本にして正しい嗜好を持つように義務付けられるような世界が筆者は望ましいのだろうか。無論、そんなことになれば事態は正しい性道徳に限らず、正しい社会規範や正しい労働者など、あらゆる面で模範的で優秀たる人間性を義務付けられるのは想像に難くないが、まさか筆者に都合の悪い趣味嗜好だけ消える世の中になると考えるほど筆者は愚かではないだろう。
いずれはこうした性的嗜好も脳機能の解明によりそのプロセスが明らかになるだろうが、まだ犯してもいない罪に対し犯罪的思考を消し去ることを是とするならば、それは個々の人格を倫理的かつ道徳的に操作しても良いということであり、当然筆者もその対象として正しい真人間にされる覚悟はあるだろうか? 少なくともこの筆者には、他者の人格を一方的に精神疾患と判定するという独善的な思想を治療する必要あり、と判断されるのではないだろうか。
現実的に、女性が男性に性的虐待を加えるというのは、①腕力・体格差があるので〈無理矢理〉が成立しにくい。②女性が見ず知らずの男性をいきなり襲っても、反撃されて傷つけられる可能性が高く、現実の犯罪率から言っても一般の男性にとってリアリティが無い。③むしろやってほしい、多少痛くてもご褒美、という嗜好の男性も散見される。
まず①に関しては、近年強姦罪が男性被害者に適用されないことが問題視されているように男性の女性からの性的被害については筆者のような「ありえない」という考え方が男女ともに強いので泣き寝入りするケースが女性の性的被害より深刻である。さらに女性被害者のような支援も充実していない。②も同様だが、犯罪率という観点について指摘がある。犯罪における男女比は細かく分けるとだいぶ違うが、総じて女性が20%ほどである。無視できるほどの数字ではなく、具体的には平成26年の殺人犯967人のうち227人は女性である。これをリアリティが無いという数値とは言えないし、また最近ではデートDVに関する大阪での調査で女性から暴力を受ける男性が倍以上の率であることが明らかになるなど、暴力で女性が敵わないからリアリティが無いというのは例え話の喩え話にしても筆者の知識不足である。③にも関連することだが、筆者自身は陵辱系ゲームマンガに対して怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから規制して欲しいと語るのに、ならば男性の性的被害者に関してはとなるとリアリティの無さやあろうことか一部の男性は好むからという理由で蔑ろにしている。
このことから
や
などの言葉に一切重みを感じられない。
筆者が女性として一般的な恐怖を感じるのと同様に、また筆者は女性として男性に対する陵辱などに想像が及ばないし世の男性が実はBLゲームの表現に恐怖しているかもしれないなどという考えもない。故に男性に対し筆者は、思慮が足りないなどということは出来ず、陵辱ゲームに対する意見も自身の嫌悪感からの消し去りたいという個人的要求が第一であると知るべきだろう。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」
を筆者は規制されるべきものとしている。二番目でちゃっかり同性愛物を省いているのはわざとか天然かはさておき、いずれもどうとでも解釈できるものであり、極めて危険極まりない規制理由である。
まず第一の
被害者という言葉について、そもそも創作表現上の被害者とはなんだろうか。作中で犯罪被害に遭う存在だとして、それを現実の法で守れというのはナンセンスな話だ。大体被害者の定義はどうするのか。家が燃えたら家は被害者だから作者は建造物放火罪になるのだろうか。人間だと限ってもその属性は幅広い。誰かを殺せばその人物の役職が大統領だから実在する特定の属性になるから規制だと出来てしまう。性別に限らず年齢も服装も人種も、なにもかもが属性である以上、そもそも創作表現で一切の犯罪被害者は出せないことになる。ミステリーでも刑事物でもだ。
第二に
は、これこそ差別的だ。男性が男性を殺すのは良いが男性が女性を殺す表現は駄目だとか、それに属性の定義が難しい。男性同士の殺人であっても片方が日本人で片方がアメリカ人なら属性を持ってないから規制対象だろうか。双子であっても服が違うから駄目だとか、どうとでも言える。
第三に
これもまたどうとでも解釈できる。大体だ、その描写によって誰が快楽・興奮を得るのかが不明だ。推測するに筆者にしてみれば病的な嗜好を持つ読者なのだろうが、表現規制より悪質な思想規制がここにある。なにしろ読者が興奮すればすべてアウトにできるわけだが、虫オスがメスを組み伏せる交尾の動画に興奮する人間がいたらそれはアウトにできるのだろうか? アウトに出来るのならこれほど馬鹿げた話はないが、出来ないというのならそれは筆者の嫌悪感に基づく趣味嗜好の篩分けを是とする危険な考え方だ。「普通の人は虫の交尾に興奮しない」を後者の定義としてセーフの条件にするならば、同様に「普通の人は陵辱物に嫌悪感を抱くので興奮しない」と出来るのだが、そこを捻じ曲げてアウトにしたいならば「こういうのに興奮する人がいるから」や「これだけは例外」など法に頼らない独善的な判断でなくてはならない。
仮に筆者の希望通りに陵辱物といえるものが規制され目につかなくなったとして筆者は満足するだろうか? 一時的には満足するかもしれないが、まず一度自分の願いが達成された万能感と高揚感、そして正義感は覚え続けることだろう。そしてそもそも筆者は女性を性的対象とする作品に目をつけるだろう。なにしろ成人向け作品そのものが性的にかつ男性向けとしてあるならば、当然そこに映る女性は純愛にせよ男性にとって都合の良い女性に違いない。それを筆者は不快だと言わないでいられるだろうか、それとも女性が現実味のない都合の良い存在として描かれておりそういうのを好む男性がいるのだと不快を覚えるだろうか。私はきっと次の規制対象に選ぶだろうと推測する。
そうやって限りない規制を繰り返しついに女性を性的に取り扱うことも差別的に取り扱うこともない輝かしい作品ばかりになったとしよう。筆者はようやく安堵するどころか、さらに不安を募らせるのではないのだろうか。なにしろ事の発端はそういった陵辱物を好む男性がいることであり、そこに恐怖や嫌悪を覚えていたのである。たかが創作表現で描写されている行為にすら嫌悪していた筆者が、果たして我慢できるだろうか。
人格改造か、去勢義務化か、男性の隔離か。筆者は妄言だと笑い飛ばしたいだろうが、筆者の考えの行き着く先はこうなのだと私は言いたい。筆者がなにかに恐怖を抱き続ける限り、目に見えなくなったからといって安堵することはないし、対象を滅ぼしたとしてもまだ生き残りがいるかもしれないと恐怖し続けるだけだ。
程々で良い、少しで良いなどという考えは行政や国といった単位に上がった時、当初の理念とは大きく外れてさらに巨大な制限となる。最近も児童ポルノ法改正で様々な規制への波及を危ぶむ声が出ていたのは、つまり個人での裁量によるあれは良いこれはダメという基準は法律に存在しないということだ。
最初の話になるが、女子差別撤廃条約委員会は陵辱ゲームマンガの「禁止」を求めている。これを錦の御旗として掲げ、その通りだと禁止を呼びかけることはできるし、この先にそういった団体が動くことは目に見えている。だがその禁止が成った時に、一つの創作表現が失われることに筆者は恐らく何も抱くことはない。むしろ嫌悪するものが消え去って小躍りしたくなるだろう。だが筆者の語る所の病気である嗜好の持ち主たちは悲しむだろう。そんな奴らが悲しんだ所で筆者は何も困らないが、しかし筆者が趣味嗜好とするものが何らかの形で規制を受ける時、彼らは味方することはないしむしろ仕掛け人かもしれない。
筆者は自分が悲しむ対象になるようなことは無いと思っているだろうが、表現の自由に手をかけるとはそういうことだ。たかが創作物というものに負の感情を根底とした規制をかけられるということは、創作物以上に影響力のある現実的存在にも同様に手をかけられるということだ。筆者が好む筆者が健全で正しいと思う存在が、誰かにとって不快で汚らわしい存在でないと言い切れるだろうか?
自身が自由でありたいと思うのならば、他者の自由も許容しなければならない。それは現在のこの国において公共の福祉という最低限度の規制を受けるが、それ以上に自分自身の負の感情を理由とする個人的要求を、同様の理由で合致した他者と共謀して排除しようという試みは慎むべきだろう。現実に犯罪を犯せば処罰される。逆に言えば犯罪を犯さないかぎり自由であり、それを無理矢理に犯罪者に仕立てあげて住み心地を良くしようなどという考えを持つならば、あなたもまた誰かに犯罪者として告発され自由を奪われることを許容しなければならない。
世の中には不快と思えるものが多くある。しかしそれをすべて排除して生きたいというのは無理のある話だし、かといってすべて許容するのも無理な話だ。
しかしコンビニ雑誌の表紙が不快ならば、あなたは見ないでやり過ごすことが出来る。 Permalink | 記事への反応(3) | 09:02
女性、という設定です。やってみたいけどとても面倒そうなので、メモだけ残します。
最近はそれっぽい人がちらほらいますが、実際はどうなのでしょうか。
→特に実年齢と大きく離す場合は、演じる年齢の言語チョイスをよく調べておく。 ※
・Twitterアカウントがあったほうが望ましい。
→複垢してる場合はクライアントなどに注意が必要。本垢バレぬよう。
→写真などの用意するなら、カメラ機種・位置情報などに注意が必要。あらかじめ準備しておくのが無難か。
※これを利用として「若い設定だったのにババアだった」という演出をするのもよいかもしれない。
※一般的な要素
・特徴的な語句の誤用(炎上時、コメ欄でおもわずつっこみたくなる感じのやつ)
・激しい知ったかぶり
※対女性向け
・中途半端なおしゃれ感(これでイケてるつもりかよ層のツッコミ待ち)
・もてている感(これで以下略)
・「あからさまでなく、さりげなく男がいる演出」をしているのが「あからさま」な写真。
※対男性向け
しかし、オタ系男でも界隈有名人には媚びる姿勢。そしてサブカルは逆に崇める姿勢。
・童貞風味の男性のキョドリ具合について煽る(あからさまにではなく、苦笑ってかんじにする)
・男は女に○○すべき系(これ系は難しそう。モチーフを選ばないとわざとらしくなる)
・男に○○させた系(同上)
メモ:あまりあからさまだと狙いがバレるため、頻出炎上課題は避けたほうが無難か。
・有名人を煽る(ハゲの方あたりが食いついてくれそうなかんじのもの)
※忘れたけど誰かがすごいウエメセでやっていたような。そして本人が出てきたら急に謝罪しだしたと記憶。
・まりさアイコンの方は常に(しかし、これを真似するのは多分相当高度な技術が必要)
・要検討
メモ:補助としてやっていきたいが、時間的コスト高し。出現時間帯もプロフにあわせスケジューリングしたいところ。
出現時間帯の演出を利用し、社会で活躍してると見せかけて無職、と匂わすのよいかもしれない。
↓
上記を受けての記事を追加。煽る。Twitterでも煽る。紹介されたら積極的にうざ絡み。
↓
↓
ネタかとすら思われていたが、真性だった!という感。
↓
逃亡。捨て台詞も用意。
メモ:これは練り込みが必要。ウォッチャーのためにも起承転結にあふれるものとし、エンターテイメント性を高めていきたいところ。
Twitter界隈はウォチってないので知識不足です。うざい絡み方について一家言ある方はコメント頂けると幸いです。
「過去に学ぶ」についても観測不足の部分もあるので、近年で印象的だった話があればお聞きしたい。
レ○プではないので期待した方はごめんなさい。
そう言えるのは、指や小さいおもちゃを一度使用したからなんていう軽いものではなく、
最高何本ペンが入るかを試したレベルの自慰行為を何度もしてしまっていたからです。
具体的に何本入れたかの記憶はないのですが、少なくとも十本は優に入れていましたし、その頃には既に血も何も出ない、手遅れの状態でした。
血が出た記憶があるのもその行為より随分前で、偽物のパールでできた子ども用のネックレスを全て入れ、取り出そうとした際に、白かったはずの物の要所要所が赤色に染まっていた時にはもう、処女膜を傷つけていたか破っていたのかと、今になって振り返るとそう思います。
当時はそういう知識に乏しく、処女膜の存在すら知らなかったので、恥部を傷つけてしまったという恥ずかしさや焦りしかありませんでした。
恥ずかしい上に、怒られるのが怖かったので両親に言えませんでした。
もし言えてたら、どうにかして行為を止めるように言ってくれたのかもしれません。
処女膜を失ってしまったことは全て自業自得であり、知識不足でした。
小学生にネットを与えた親の責任だと言われるのも一理ありますが、見てはいけないサイトを見てしまった自分の所為であること、そして興味を持って軽い気持ちで真似してしまったことに大きな責任があると思います。
思い返せば、家にあった子供向けの性に関する本には、処女膜の話はなかったように思えます。
もしかしたらあったかもしれませんが、そもそも性行為の図すら正しく認識できていなかった年齢だったのですから、どちらにせよ処女膜の概念は理解できなかったと思います。
処女膜を保つことが重要なことなのか、もしくは重要ではないことなのか、到底自分ではまだ判断できない年頃でした。
何が怖いかと言いますと、今の若い女の子たちはスマホでそういう知識が昔よりも更に手に入れやすいのでしょう。
それが避けられないことであるにしても、まだ知識がない女の子たちが処女膜を自分で破ってしまうような悲劇はもう起こらないでほしいと心底願っています。
もしかしたら私がただ性欲が強かった異常な女児だったのかもしれませんが、失ってしまった数年後に後悔しても後の祭りなので、もし女児がいる親御さんが読んでいるとしたら、記憶の片隅に入れていただけたらいいなと思って書きました。
というのも、自分だけがおかしかったのか、もしくはありふれたことなのか未だに分からなくて不安に思うのです。
"処女膜を自分で"や"自分で処女膜を"と検索しても似たような具体例は多くは見つからず、外国語で検索しても上手くいかず。
処女膜というデリケートな話題についてなんて現実世界では中々語り合えません。
これは完全に私の経験による思い込みなのですが、大学に入っても未経験の子は本当にピュアで、他人が言った下ネタが本気で分からなくて私に意味を聞いてくるような子たちでした。
だから普通の女の子であれば、自分で性器の中まで弄らないのだろうか?弄ったとしても軽度なのか?と不安でたまりません。
自分の道筋が見えていれば、イラつく発言は無視して良い、自分の方向が正しいと確信に近い気持ちがあれば
心は乱れないはず。結局はここなんだな。
だから上司の陳腐な煽りにイラつくのは、どこかしら確信が持てないところがあるのだろう。自分の道筋に。
しかし見えていないなら見えていないなりに怒らないで済む心の持ち方あるはず。
しかも既知の問題を指摘され、そこをほじくり返すような煽りだったのだからなおさらスルーできたはず。なぜだろう。
自分が相手の話を真剣に聞いてるから(真剣に聞きすぎていたから)、と納得していたがそうではないのかもしれない。
相手に
仕事の進め方などがまだ身についてなくて、その情報源が上司だからというのがあるか?
うーん、ここから先に進まないな。ここで筆を置こう。おやすみなさい。
今後取るべき動作としては
■背景と問題点
SI業界におけるシステム開発のプロジェクトでは、ソフトウェアの品質が問題になることが多い。
問題点は、知識不足や経験不足な人間が大量に放り込まれたプロジェクトでは低品質なクソコード(※1)を大量生産してしまう事にある。
※1:クソコードとは、可読性の低さ、保守性の低さ、コーディング規約違反、テストが不十分、静的解析の指摘結果が多い、命名の悪さなどが該当するコードである。
■解決方法
真っ先に思いつく品質向上手段としては、レビュー、指導(教育)が考えられると思う。ただ、コストがかかり浸透するまでに時間がかかるのが欠点だ。
そこで、人間の感性に訴える「羞恥心」をうまく利用する方法はどうだろうか?
クソコードの基準を作り、基準に満たないソースコードをコミットした人物を徹底的に「晒す」ことで、
危機意識が高まり、クソコードをコミットする前に見直しする結果、品質が上がると考える。
「晒す」とは、クソコードをコミットした人物の所属会社名と所属プロジェクトと氏名を館内放送するなどプロジェクトメンバーが一目瞭然で分かる公知の事実にすることである。
月末にクソコードコミットワーストランキングを作成し、食堂、トイレ、休憩スペースなどの目に付くあらゆる場所に掲示することで危機意識が生まれるだろう。
人月単価交渉の際にも基準値に満たない数値が出ていることを示すことで、具体的な根拠を持った単価の切り下げ交渉も可能だろう。
朝会・夕会があるのであれば、クソコード作成者を読み上げて周知の事実とするべきだろう。
請け負った会社単位でのクソコードコミットワーストランキングも作成し、会社ぐるみでの取り組みも強化させることで品質が向上するだろう。
■まとめ
プロジェクトメンバの意識が「クソコードをコミットすると恥をかく」を徹底させ、
きちんとしたものを作らなければならないという意識を芽生えさせる事が一番重要である。
ソフトウェアは目に見えないものなので、品質が分かりにくいが、
物作りの現場だとクソな部品を渡されれば次の工程の人間が困るのは目に見えている。
物作りの現場では、誰が不良品を作ったか?を特定されて、詰められるのは当たり前だろう。
だが、ソフトウェアの現場では未だそれを見ない。そろそろやっても良いのではないか?
読者の皆様はいかが考えるだろうか?
女子高生が痴漢防止バッジを考案、というニュースに端を発したこの男女の認識のミスマッチはなぜ生まれるのか。
について考えた。
.
学者さんの意見がもちろん正しいんだろうが、女性の皆さんに男性の意見の一つとして知ってほしいのでこの増田を書くことにした。
.
通学、通勤と電車を利用し、いわゆる満員電車も数多く経験しているが一度も痴漢をしたことはない。
最近ではいやらしく女性を舐め回す視線も痴漢の一種であるというが、もちろんそんなことした覚えもない。
(接触と違い明確な基準がないため、勘違いされている可能性もないことにはないが、電車の中では本、スマホ、タブレットを凝視する日々を過ごしている)
.
さて、僕個人の話になって申し訳ないが、痴漢に対する意見を語る男性のパーソナリティとして僕の個人情報について書かせて頂きたい。
僕は中くらいの人間だと思う。
ありがたいことに友人、恋人にも恵まれて、いろいろ悲しいこと悩むことはあったけど、大きな病気も怪我もなく実りある人生を送ってきた。
先述の痴漢以外にも、犯罪を犯し警察のお世話になった経験も一度もないし、これからも恐らく無いだろう。(ないと信じたい)
.
・事故
・病気
・痴漢冤罪
.
僕の人生に起こりうるリスクはこれ以外にはパッとは思いつかない。
本当に痴漢の加害者の断定が冤罪である可能性が他の犯罪に比べて多いのかすら知らないが、
映画やネットの誇張された情報、そして痴漢冤罪をでっち上げて恐喝をしていたという犯罪があるという事実。
これらが自らは積極的加害者でないと信じたい僕のような男性にとっては大きな恐怖なのだ。
女性はこの僕の文章をみて「でたよ、また冤罪冤罪って言って痴漢加害者の味方をする男が」
と考えるかも知れないが、もうちょっと我慢して続きを読んで欲しい。
.
さて、僕は一度も実生活で痴漢にあった。もしくは痴漢をしたという話は聞いたことがない。
当然のことだが、だからといって僕の周りの女性に痴漢被害者が居ないと考えている訳ではない。
ひょっとすると電車を日常的に使っている女性の殆どは被害にあった経験があるのかもしれない。
痴漢に限らず、性的犯罪の被害者が「私は被害にあった」という話は他人にしたくないだろう。
僕だって自らそんな悲しい話題に踏み込んで、女性の傷口を広げるようなマネはしたくない。
きっと僕に打ち解けていないだけで、痴漢被害の女性は多く苦しんでいるのであろう。とても悲しい話だ。加害者にももちろん怒りを覚える。
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そして加害者の立場になることが多いであろう男に視点を切り替えても
やはり痴漢の関係者(この場合、加害者)になった友人は一人も居ない。
これに関しては、申し出ていないだけでなく痴漢の加害者になるようなやつなんて居ないと信じている。(信じたい。が正確なのかもしれない)
誰だって自分の友人が「ひょっとするとこいつ痴漢してるんじゃないか?」なんて疑いたくないであろう。
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ここまで長々と文章を続け、一体何を僕が言いたいのかというと、それは結局
「自分を女性に対して無害な男性だと信じたい男性にとって、痴漢はとても身近とはいえない犯罪なのである」ということである。
.
.
結局、今のところ痴漢加害者でない男性の痴漢に関する知識はゼロに等しく
また、平和な人生を歩みたい男性にとって痴漢冤罪というリスクの脅威だけが悪戯に巷に溢れている。
故に多くの無知な男性は痴漢に対して、まるでアレルギーの様に拒否反応を持ってしまうのである。
.
自らを積極的加害者でないという自負があるからこれらの男性はまた質が悪い。
もちろん冤罪を防ぐのはリスク回避として当たり前の権利であるが、その権利を過保護に守るために
女性の痴漢を防ぐという当然の権利を踏みにじるような思考、発言をすることは「消極的加害者」の行いといっても過言ではない。
のだが、「積極的加害者」ではないという自意識がある男性は、自らが「消極的加害者」と呼ばれることに我慢がならない。
自らを攻撃する前に、実際に痴漢するやつを攻撃しろよ。俺は痴漢はしてない。と、腹をたてるのだ。
だが女性からしたら、痴漢(予備軍)と無害な男性の区別がつかない。男たちがあるかもないかもわからぬ痴漢冤罪を恐れるのと同じように
痴漢が怖いのだ。当たり前だ。
つまり痴漢をしない男性は、「痴漢、自分たち痴漢をしない男性、女性」の3つのグループを見て話をしているのに
痴漢を恐れる女性は「女性、痴漢なのかそうでないのか見分けがつかない男性」の2つのグループを見て話をしているのだ。
.
.
男性側
・自らの痴漢冤罪を防ぐという権利を守るためとはいっても、当然だが女性の痴漢を防ぐ権利を踏みにじってはいけないことを認識する。
・自らが痴漢をしてないからといって、痴漢加害を防ぐために協力する必要はない、なんてことはないと認識する。
.
女性側
・ネットに蔓延る消極的被害者は無知故の暴言を行う(消極的被害者)であることを認識し、先に排除すべきなのは実際に痴漢を行う
・(勇気を出して被害を訴える等)痴漢防止に積極的に参加する。
.
と僕は考える。
.
皆さんはどうお考えだろうか?
ぜひご意見を頂きたい。
この一連の騒動の中で気になったのが、大阪芸術大学教授の純丘曜彰氏である。
反「佐野エンブレム」の急先鋒としてメディアで派手に〝活躍〟した人物だ。
エンブレム問題の経過をつぶさに見てきた者、デザイン周辺の知識をもっている者で
純丘氏の発言に疑問を持った人も少なくないのではないだろうか。
筆者の感じた純丘氏への疑問とは、
そして「独りよがりなデザイン論」「デザインに関する知識不足」である。
http://www.insightnow.jp/article/8591
瞬く間にメディアのあちこちに取り上げられ、反「佐野エンブレム」への動きを活気づけた記事である。
デザインに関して識者といえる人物がここまであからさまにエンブレム下ろしを唱えたのは初めてであり、
純丘氏が五輪エンブレム問題の御用コメンテーターになるきっかけともなっている。
以下は、佐野氏のデザインしたトートバッグに関する部分である。
ニーチェの独文の警句を英文で引用して、名前の綴りがコピー元のままに間違っていたり
(page:2 より)
Pinterest に一枚の画像として存在していたニーチェの一節、
その最後の名前部分に綴り間違いがあり、佐野氏が孫引きしたために同じ箇所で間違えている、
すなわち佐野氏が Pinterest を利用していた証拠である、という論旨だ。
Pinterest に綴り間違いの画像などなく、佐野氏のほうだけがたまたま書き間違えていたのだ。
ここで問題なのは「佐野氏が Pinterest を利用していたかどうか」ではない。
この純丘氏の記事が出たころにはもう2ちゃんねるの当該スレは自らその事実誤認に気づいており、
ニーチェの一件は「佐野氏が Pinterest を利用した証拠」としては除外の方向へ向かっていた。
純丘氏は、佐野エンブレム下ろしに使えるものはなんの検証もなく使っていたのである。
最低でもその誤字があるとされる Pinterest の元画像をその目で確認してから記事を書くべきだろう。
「大阪芸術大学教授」の肩書きで公にされてしまえば、何も知らずに読んだ人は事実と思い込んでしまう。
論文というのは人文科学であろうと事実を積み重ねなければならないものだが
こんなお粗末な方法で文章を書いている人物が学生に論文の指導をしているのはいかがなものだろう。
あんな黒いゴキブリ印は、生理的に無理。とても嫌な感じがする。汚らしい。穢らわしい。なにより不潔だ。あまりに不吉で、自分まで不幸に呪われそうな黒いゴキブリ。金と銀の足が夜中にカサコソと動き出して、きみの手の上に登り、パジャマの中にまで入り込んで来る。きみに、多種多様の救いがたい病原菌をなすりつけ、触覚をピロピロさせる。おまけに、突然に羽を広げて飛び上がり、きみの顔をめがけて襲い掛かる。考えただけでも寒気がする。あまりに気味が悪い。
およびそこに貼られた画像は、読む者をいやな気分にさせる。
まるでいやな気分にさせること自体が目的のひとつにもなってしまっているようだ。
純丘氏の「佐野エンブレムが嫌いだ」「黒が嫌いだ」という気持ちはよく伝わってくる。
だがそれは個人的な感情であり、公にするにしてもせいぜい個人のブログにとどめるべきだ。
大学教授、美術博士という肩書き付きでオピニオン系サイトに開陳するようなものとは思えない。
識者なら事実を元に冷静に分析し、問題を明らかにする役割を担うべきだろう。
騒動の中、感情のほとばしる文章で純丘氏は何を訴えようとしたのか。
これ以降、掲示板でもエンブレムをゴキブリ呼ばわりする人が一気に増えていった。
http://www.insightnow.jp/article/8644
ひたすら駄作である、見るに堪えない、と力説している。
疑惑があるとはいえ、多くの人が関わって世に送り出されたものを
「超弩級の駄作」「ゴキブレム」「梅干」と品なく形容する姿勢にもあきれてしまうが、
デザイン制作とは無関係な経歴(専門は哲学)と関係あるように思う。
むろんそれ自体は問題ではないが、次章の「デザインに関する知識不足」も含め、
己の手にあまるデザインに関する解説を、あたかも〝識者〟として発表するのは
この一文の含まれる段落を「デザイン論」として理解できた人がいたら
「9分割を元にフレキシブルな組み替えが可能」というアイデアを否定するのが目的のようだが
9分割の真ん中に必ず弧の中心が来なければならないデザイン上の理由とは?
さまざまな大きさ・形でさまざまな場所に弧が立ち現れていた、
黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス的悪趣味。
解釈はさまざま可能なのでナチスフラッグとみる者がいてもいい。
エンブレムを仮に芸術のひとつとするなら、芸術はさまざまな解釈に向けて開かれたものだ。
しかし、これは誰もが知っているようにオリンピックのために施された「デザイン」である。
アートのように何ものからも束縛されない自由な意志で構成、配色したものではない。
見る者も「日本」で開かれる「五輪」の「エンブレム」であるという情報とともに接する、
そのような場、コンテクストにおいて機能するようにあつらえたものだ。
佐野エンブレムがスポーツを感じさせないとか、祝祭感が足りないとかいった批評は可能だ。
が、「ナチスフラッグ」である、「ゴキブリ」「致命傷」であるなどというのは
エンブレムの出自、コンテクストを無視した悪意のあるミスリードでしかない。
ゴキブリの画像同様、ナチスの絵まで用意して独りよがりな解釈を
強くイメージとして植え付けていこうとする純丘氏の手法には疑問を禁じえない。
どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視のRGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷のYMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり
この部分を読んで頭の中が「?」でいっぱいにならない人がいるだろうか。
この2行だけでも純丘氏が自分の手にあまること、自分のよく知らないことを
結論ありき、佐野下ろしを目的に書いていることが明らかである。
純丘氏のこの不案内な言説はさまざまな場所で〝プロ〟のそれとして引用されてしまっている。
発表されたエンブレムは RGB ベースでできていて、CMYK ベースではないらしい、
佐野研二郎氏は、デザイナーとしてはひどく低いスキルのまま今のボジションに祭り上げられ、
あたわない五輪エンブレム設計者の大役もしくは影武者の役を任されたようだ……
RGB ベースというのはモニターなど映像における混合方式であり
CMYK ベースというのは紙媒体など印刷で用いられる混合方式である。
RGB と CMYK は、媒体に応じてふさわしいデータを用いる、ただそれだけである。
ポスターやプログラムに印刷するなら CMYK のデータを用意する。
純丘氏の中で佐野氏は、この知識としても初歩の初歩、
デザイン業務上、日々出くわしてはそれに従って作業している単純なことをまるで知らないという設定らしい。
特色というのは印刷インクの一種で、
通常のプロセスカラー(CMYK インク)で表現できない色をカバーするためのものである。
エンブレムに特色の指定がしてあったというのはどこからの情報かわからないが
(筆者は見たことがないので、まずはそのソースが問題である)、
それだけをとれば、企業ロゴなどにおいては珍しいことではない。
RGB/CMYK と同様、特色を用いるかどうかは運用の現場に応じて「自然に」決まるのであって
雑誌のカラーページなら金は4色分解(CMYK)で表現されるだけである。
金や銀を特色にすることも、黒や赤を特色にすることも可能だ。
特色で刷るならばここはこの色(PANTONE 、DICなどの番号)、
そしてディスプレイ用にはこの RGB 値というように、列記されているのがふつうだ。
・特色番号(印刷用)
純丘氏の言葉を再掲する。
以下のような色指定を同一の紙の上に記すデザイナーを想像できるだろうか。
すなわち、これが「ワンセット」になっていて、それ以外の指定(CMYK 値)のない、
純丘氏の作為の産物か、氏がまたネットかどこかで拾ってきてしまったデマではないのか。
このような「物理的に」とすら言っていいほど存在しえない〝キャラ設定〟をすることも
デマを拾ってきて書き写すとこともありえないのだが。
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の言葉は、目くらましのように効果を発揮してきた。
「佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作!」での、ルネッサンスからフラットデザインへ至るくだりなど
エンブレムとはデザイン論において爪の先ほども関係ないが(ゴール地点のフラットデザイン自体なんの関係もない)、
このペダンティックな解説や周辺タームは、氏の肩書きと一緒になって人々の目にもっともらしく映り、
芸術・デザインの「専門家」(日刊ゲンダイ)と目される社会的影響力のある人物が、
この混乱の中で、明らかに事実に反すること、半可通なことを、
己の求める結論「佐野エンブレム下ろし」に向かって品のない言葉と作為的イメージを用いて
流布してきたことには、疑問を通り越してあきれてしまった。
おお、偉大なる主よ
慰められることよりは 慰めることを
愛されるよりは 愛することを
わたしがもとめますように。
わたしたちは与えることの中で受け
許しの中で許され
私はキリスト教徒ではないけど、数年前から上記のことを心がけている。
でも難しい。それぞれの実践具合はこんな感じ。
●慰められることよりも慰めること
実践できてない。
一応、誰かに慰めてほしいとは思わないから、そこはできてる。
でも他人を慰めるのは苦手。ぐずった子供を慰めることは多いけど、
そういう意味じゃないよなぁ。
他人を慰めるには、共感や理解が必要だと思うけど、それって普段から仲良くしてないと無理だよね。
自分の周囲に慰めてほしいと思っている人を見かけない。。。つもりだけど、気付いてないだけかな?
明日から、自分の周りに慰めてほしそうな人がいないか注意してみよう。
(職場の他の人は、明らかに私よりメンタル強そうな人達ばっかりだけど)
これは比較的頑張ってる。
よくよく観察していれば、相手が間違った考えをしていても、その理由がわかるときがある。
例えば週刊誌に書いてることを真実だと思い込んでいたり、尊敬すべきでない人の言葉を鵜のみにしていたりとか、とか。
あとは、そもそも知識不足とか、そうなった背景の経緯にまで思い当たっていなかったり。
そーゆー勘違いについては、かなり許せるようになったと思う。
あ、でもネット上では理解できない人は多すぎるから、それは諦めてる。これは改善するつもりないかなぁ。
現実世界での知り合いを理解できるように、明日からもアンテナを張ろう。
意味不明な発言や行動も、きっとその人にとっては妥当な理由があると信じるようにするわ。
精神構造が近い人は理解できるけど、そうじゃない人が苦手なんだよなー
●愛されるよりは 愛すること
今、誰かに愛されないとは思ってないかも。
というかすでに十分愛されて育った実感がある。
じゃあ、誰かを愛するとはどういうことか。
前に本で読んだのは、「自己境界線を相手にまで広げる」だった気がする、
相手が痛いと思えば自分も痛い、嬉しいならうれしいみたいな感覚らしい。
正直、私は他人が痛いと思っていても、自分が痛いと思った経験はない。
基本的にリベラル寄りの個人主義だから、自己境界ははっきりしてるし、自分のことは自分でやれよと思ってる。
愛が足りないのだろう。
逆に、本や作品を愛することはあるかも。
好きな作品が攻撃されていると自分のことのように悲しいことはある。
ただ、悲しいかな、それと同じ程度に人を愛した経験はないなぁ。。。
自分にとって完璧な作品は存在するけど、それと同じ意味で完璧な人っていないから愛するの難しいわ。
どうしても損得勘定や、批評者の目で欠点を見つけてしまうと思う。
きっと愛するってのはそーゆーことじゃないんだろーなーとは思う。
愛なんて、本能に支配された人間の、脳内物質のジャンキー状態じゃないの?としか思ってないからなー
精進しよう。
まずサッカーに関してはほとんど無知だった。ウイイレでやってたくらい。7とか8とか。
なので、久しぶりに2008とかを友人宅でやったとき、クリロナとか知らなかったくらい。ユナイテッドも知らなかった。ロナウジーニョとかロナウドは知ってた。
本田も知らなかった。7とか8でユニフォームカッコいいなとインテルとミランよく使ってた。マルティンスだっけ、速いやつが好きだった。
そんで、2010の南アフリカワールドカップを何故か興味がわいて、大半の試合を見てみたらサッカー面白いんじゃね?と思った。
それから海外サッカーを見るようになった。そのとき香川がドルトムントやら内田がシャルケやら行ってたし、見たり。
あと、バルサレアル、ミランとかインテルとか、シティとかアーセナルとかのビッグマッチだけは見る感じ。ケーブルテレビに加入してな。まあ、見れないのはネットとか色々して見てた。
で、2013年くらいまでそんな感じ。だから、インテルが弱くなっていく過程とかユーベが強くなっていく過程とか、バルサが四年目から綻びが出てくるとことか。
モウリーニョのバルサ対策をネットの記事で見たりね。スペインでサッカーの監督やってる人が個人ブログしてたりするから、雑誌より詳しかったりするし。
試合見て、ネット見て、雑誌みて、代表戦みて、、みたいな。FIFAサッカーゲーム買っていろんなチームでやって、選手の名前は覚えた。
で、柿谷フィーバーあったやん。その辺りから2013?4? そのときからJリーグもちょくちょく見るようになった。セレッソ、広島、柏、とか。ガンバが落ちた年かな。
東京に住んでいるんだが、FC東京つまらんし、東京にそこまで郷土愛ないし、見てない。味スタ行ってみようかなとは思ったことはある。行ったら変わるか?
で、最近Jリーグ見なくなった。なんというかセリエ、リーガ、プレミア、ブンデスの強いチームの試合しか見てないからか、Jリーグの弱点が気になるというか、飽きるというか。
そもそも海外の試合でもハイライトでいいかなーって時があるしな。まあ、こないだの広島対柏は良かった。マジで良かった。
弱いから見なくなったという訳ではない、Jリーグが、日本が、強くなるビジョンが見えなくなったからというか。。
播戸さんがブログで日本のサッカーにJリーグに足りないことを書いていたけど、レフリーとか芝とかサポーターとか、カメラアングルとか。なんというか弱点に向き合わないというか。直視しないというか。現実のサッカーを理解していないというか、トップのサッカーがどんどん変わっているのを眺めてもいないというか。
フィジカルじゃ勝てないからパス回しで勝とうとか、スピードで勝とうとか、ああいう話。バスケでもラグビーでもそういう流れだったらしいが、結局フィジカルもそうだけど、基本のパス回しから負けてるんだよね。バスケはアメリカ、スペインと比べてボールを止める、離すという基本技術が足りないって話だし、ラグビーは日本代表の監督が変わって、フィジカルでもある程度対抗できるようにしようってなってるらしいけどな。NUMBERで読んだだけやけど。バスケに関しては本を何冊か読んだ。
で、日本サッカーは現実を直視していない。身体をぶつけることを、Jリーグから、もっと言えばユースの頃から逃げているから、海外いくと歯が立たない。アジアでさえフィジカルコンタクトで負ける。この前の東アジア大会は別にどうでもいいけど、日本サッカーの方向性が間違っていることは認識しないと駄目だと思うわ。
審判が簡単に笛を吹く→フィジカルコンタクトをDFがしない→フィジカルコンタクトに対応できるFWなりMFが育たない→海外いくと話にならない
この流れな。
クロスが日本サッカーって下手じゃん?ユース世代から短いパス回しばっかりやってるから、狙ったところにパス出せないんだよ。
クロスをピンポイントで上げる技術がない→ピンポイントでボールがこないので、CBはFWに対して距離をつめる必要がない→FWはプレッシャーを受けない→FWは駆け引きを学ばない
この流れな。セットプレーに日本は弱いとか曖昧なことをサッカー記者が言っているが、まずクロスをきちんと上げられるやつを育てないと駄目だよ。記者もボンクラ。
川崎対ドルトムントで簡単に香川がクロスをヘッドで決めただろ?川崎が守備のこと考えていないクソみたいなチームだったとしても、CBがマークもしない、身体もあてないってのはあれ酷いわ。現実を見ろ。セットプレーで得点の三割を占めるんだぞ。アンチェロッティもハリルホジッチも言ってるだろうが。
言いたいことたくさんあるけど、箇条書きにするわ、何かあればブコメでもtwitterでも書いてくれ
1、フィジカルの話。ハリルがもっとボールホルダーに近づけって言ってるけど、FWが手を使ってプレスをいなすこととかもな。アグエロとかテベスとか手本がたくさんいるだろ。まあ、テベスがJリーグに来たらカードの嵐でしょうが。
2、守備(FC東京のイタリア監督がゾーンしっかりやるだけで上位にいるけど、日本サッカーってゾーンディフェンスの基礎も出来てないってFC東京の監督にもトルシエにも言われてるからな、サッカー雑誌でイタリア人のユースの監督とかがかなり駄目出ししてる)の話。アルゼンチンとかオランダとかスペインとかからコーチ取ってきて、ユースから教えないと駄目だと思うわ
3、パススピード遅い 速いパスをトラップできない→パスを遅くしろと要求→パスがちんたら遅くなる(日本代表でさえ)。あのなロッベンがパスを受けるとしてパス速いってだけで、早くトラップできるから前を向く時間ができるんだよ。パスが遅いとディフェンダーにつめられるんだよ。だから、ブラジルとかと試合するとパスサッカー通用しないの。Jリーグが当然のように距離をつめない、なんちゃってディフェンスやってるから問題にならないけどな。川崎がドルトムントにパス回し通用しなかっただろ?川崎はパスのスピードはまだしもトラップが下手。あと、トラップする前に周りをみてディフェンス来てるか、距離はどれくらいか見ろ。
4、判断が遅い あのーずっと話が繋がっているんだけど、ディフェンスが距離つめないから、前向けるって話をしたけど、それプラス考える時間があるんだよね。ディフェンスが距離つめると早く判断しないと間に合わないんだ。つまり、パスもらうまえから何をするか考えないといけない。Jリーグだとなんちゃって守備だから、トラップして、パスの出す先を考えて、パスをだしても間に合う。プレスに来ないから。だから、パスもらってから考える奴が多いんだよね。
あのねーペップバルサが凄いのは凄いんだけど、薄っぺらい表面だけ見過ぎ。パススピードも判断の速度も、守備もちゃんと直視しろよ。スペインドイツアルゼンチンオランダブラジル辺りのサッカーと比べて圧倒的に知識不足だってことを理解しろよ。勉強し続けろよ。人生学ぼうと思わなかったら成長なんて簡単に止まるんだぞ。
5、審判
なんというか審判に限らず日本全体だと思うんだけど、ルールを守るために審判やってるよね。なんというか何のためにルール守ってるの?プレミアだったら試合をスムーズにスペクタクルにするためにルールを守っている。日本はルールでこうなっているから駄目。西村さんのインタビュー読んで絶望したわ。選手が倒れるから笛を吹かざるをえないって。なんというか、日本サッカーを強くするために笛を吹けないんですか?プレミア基準と言わず、ブンデスセリエリーガの基準で吹いて、そうすれば日本でやっていても、海外でやっていても違いに悩まされないだろ?日本サッカーはフィジカル弱いから、ある程度フィジカルコンタクトを許容する。それが日本サッカーが強くなるためだと思うんですがね。
まあ、色々書いてきたけど、不満があって、その不満はネット上やらサッカー選手のブログやら、雑誌(にいくらでも書かれていて、サッカー批評かフットボール批評か忘れたがコンフェデとかワールドカップでの日本代表の守備のどうしようもない下手さ、を書いている。イタリアでは15までに全部習うとか)にあるのに、それが改善される気配すらない。なので、Jリーグに魅力を感じづらくなった。
ああ、あと!柴崎!まあ、すごい選手ではあるとは思うんだけど、例えば海外に行きました。運良くリーガセリエブンデスの下位チームに移籍できました。となったとする。間違いなくボランチでは使われないんだよね。まず身長が求められる、守備が求められる。恐らくトップ下になる。
小さいボランチだとPSGのベラッティ。ただ、PSGは3ボランチだし、守備に走るし、ボールを狩る力もある。メッシからボール取ったり。
守備のできないボランチと言えばピルロ。ただ、ピルロは遠藤ヤットや柴崎と比べて、中盤やCBがボールを持った際にFWへのパスが通らないようにパスコースをふさぐことができる。守備力は無くても守備に対する理解度があり、それを行う実行力がある。イタリアで守備戦術はガッチリ教わっているだろうし。
そういったボランチとしての守備力は足りなくても最低限はできて、尚且つボランチとして非常に優秀であるからベラッティやピルロは使われている。遠藤も海外からオファーがあったというから、移籍先で守備に関する理解度を深めていたかもしれない。
で、柴崎はパスも上手いし、たまに前線に顔をだして攻撃面では素晴らしいが。守備はバイタルエリアをあけるし、パスコースを切ることもできないし、身体を当てることもしない。何よりボランチに必要とされる守備を理解していない。そのような選手をサッカーライターが絶賛し、ネットでは柴崎を手放しで褒めている。どうしようもない。柴崎がいつかネイマールやエルシャーラウィなど凄い人と比べて凄くないだの、ブラジルは凄かっただの言っていたが、見るべきはモドリッチ、シャビアロンソ、ブスケツ、ピルロだったな。
現代サッカーに求められていることが分からない、チームに求められていることが分からない、監督に求められていることが分からない。それではどうしようもない。海外に移籍したら、言語の問題がでてくるのは、そこ。宇佐見は理解できていないし、理解しようとしなかった。最近守備もするようになったが、プレスにいくべきときに行っていないし、追わなくてもいい場面で無駄に体力を使っている。まあ、ガンバユースが現代サッカーに求められていることを理解できていなかったのだろう。
恐らく、宇佐見は2トップのチームでないと海外では活躍できない。守備に貢献できないからだ。宇佐見があれ程の能力があって、サッカー人生で失敗となれば、日本サッカーもさすがに気づくだろう。宇佐見はホッフェンハイムの前にリバプールにいっておけば良かったかもね。オファーあったんでしょ?スターリングだって、守備下手くそでやる気なくても使われていたしね。
なんというか、海外のサッカーは見ていませんってアホなこと言ってるサッカー選手が多いけど、プロのサッカー選手として生きていくのに、レアルバルサユーベシティチェルシーバイヤンドル辺りのサッカーを見ていないってのは、センター試験の過去問見ないで模試も受けないで、テストに臨むようなもん。
とりあえず、Jリーグはお金がないからしょうがないだろとか、弱いんだからしょうがないだろってのは分かるんだけど、強くなるよう努力はしてるんですか?強いサッカーの中身を直視しないんですか?ってこと。
まあ、私みたいのは珍しいだろう、テレビで放送して、ネットで色々twitterだのfacebookだの露出を増やして、アジアのスター選手を取ってくれば人もみるようになるし、お金も集まるようになるだろう。ただ、日本サッカーがよくなる希望を見たい。アメリカのサッカーが盛り上がっているのは露出が多いのもある、ネット戦略が上手いのもある。だけど、アメリカのサッカーが上昇していくって感じられるから魅力があるんじゃないかな。なので、お金ないならないで、セリエとかリーガの安い給料で中堅クラブのエースとかやっている選手を取ってきてほしいけどね。30超えていてもな。
無能派遣の書き捨て。現在の職場に来るまではデータ入力や資料発送をやってた。
前の派遣先がシステム入れ替えのごたごたで地方撤退ってなったもんだから、転職。
ほとんど間が空かなかったことだけは良かった。
派遣された会社は組織改革の最中で、3年くらいかけて旧式から新式に変えていくのだという。
その移行作業の大体を任されることになった。この時点で逃げれば良かった。
既に新体制に移行が完了した部署があるので、そこの人に都度聞きながら仕事を進めている。
そこは物理的に距離があるから、電話、メール、時にはこちらから出向いて相談。
そうやって確認しながら仕事を進めていっても、現状旧体制で仕事をしている人たちからは非効率とか、
そんなやり方は認めない、間違っているなどと批難される。
最近は自分の知識不足が目立ってきて、状況が複雑になると対応しきれず、いつもいつも不安。
せめて、新体制か旧体制かのどちらかである程度の期間、仕事をしていたなら
もっとスムーズにできたかもしれないのに、といつも思っている。
今まで確実な答えがあって、(性格等に難があっても)教えてくれる上司がすぐ近くにいたから、
答えのない仕事がこんなに恐ろしいとは思わなかった。
仕事できなくてごめんねー☆ 穴が空くけど私ごときですのでちっぽけなもんだと思うし
あとパソコンのことなんでもかんでも聞くのやめてね! 目の前にあるのはただの箱なんですかね?
明らかな人不足で残業が多いのは別にいいけど、同じ立場の人がいないのが本当に辛かった。
誰にも愚痴が言えなくて、でも憎悪を撒き散らすのが嫌だったから1年くらいずっと溜め込んだら爆発しちゃったよ。
爆発してから知ったけど、同じくらいの時給で、責任とかストレスを感じずに働けるところが結構あるみたいだから、
わたしそっちに行きま〜す!
恨まれるかもしれないけど、それに同じ部署の人たちはみんないい人たちで何一つ返すことが出来なくて申し訳ないけど、
もう限界でーす!無理でーす!この縁が切れたら終わりなのが悲しいけど会わせる顔もないしな。
今まで色んなところに行ったけど、一番尊敬できる人たちだったから、裏切る形で去ってしまうのが心残り。
欲を言うならば、もう少し、なんとかしてほしかったな。
※マネージャを多少悪者気味に書いていますが、マネジメントの大変さはわかっているつもりです。
マネージャ「たぶん2週間ぐらいでできますよ!wordpressなら学生のころバイトとかでもよくインストールしてたから楽勝です!」
デザイナ「完全オリジナルのwordpressデザイン2週間か、なんとかなるかな?」
.... 略 ....
上司「あれから2週間だけど、こんなにバグ多すぎじゃリリース無理じゃない?」
マネージャ「違うんですよ!デザイナーが全然テンプレートの使い方覚えてくれないし、あのプログラマ人PHPわからないとか言って仕事中にPHPの本とか読んでるから遅れたんです!たぶん自分だけだったらこんなに時間かなりませんよ。」
デザイナ(「XHTMLになってない!」とか余計な所に口突っ込んできやがって!)
プログラマ(PHPなんて簡単だよとか言ってJavaプロジェクトからコンバートさせたのテメーだろうが!)
原因
マネージャ「このスケジュールなんだけど、テスト期間長過ぎじゃない?」
プログラマ「え、でも機能もこれだけありますし10日程度は妥当かと」
マネージャ「いやいや、画面たったこれだけじゃない、通しのテストなんてみんなでやれば1日ぐらいで終わるでしょ?」
マネージャ「俺がレビューしてるんだからそんなでかいバグ出るわけねえだろ。ナメてんのか」
.... 略 ....
プログラマ「セキュリティ周りのバグもあるので、修正には3日程かかると思いますが」
マネージャ「ふざけんな!テストは今日で終わるスケジュールだろ!」
原因
プログラマ「前のプロジェクトでgitを使って便利だったので、今回のプロジェクトでも使いたいのですが…」
マネージャ「バージョン管理とか使ってるの?あんなの効率悪くなるからやめたほうが良いよ」
マネージャ「前に俺がやってたプロジェクトではフォルダで日付ごとに管理してた。同じ風にすれば大丈夫だろ」
マネージャ「古いフォルダからファイルをコピーすればいいだけだろ。馬鹿か」
.... 略 ....
デザイナ(間違ってファイル上書きしたのは黙っておこう)
プログラマ(ローカルにgitリポジトリあるのは黙っておこう)
原因
マネージャ「何このCodeIgniterっていうの?」
プログラマ「あ、それ最近流行ってるPHPのフレームワークで、URLのルーティングが…」
マネージャ「はぁ!?フレームワークとか使わないと開発できないわけ?これだから最近のゆとりはダメなんだよ。」
プログラマ「でも、便利ですよ?」
マネージャ「俺のプロジェクトではそういう怪しいやつは使わないから。バグがあったらお前責任取れるの?」
.... 略 ....
マネージャ「どう、俺の書いたURLルーティングライブラリすごく便利じゃない?」
マネージャ「あー、それは仕様だからしょうがないよ。mod_rewrite使えば問題無いでしょ?」
プログラマ(他人が再発明した車輪のバグを修正するのって本当に不毛だな…)
原因
「ファイト!戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」とはアメリカ大統領の誰かの遺言だったと思うが、戦うのがダサい痛いとされる今時じゃそんな言葉は流行らないだろうな。
ジャンプ黄金時代とは違って90年代以降ポストモダンが浸透し明確な善悪の区別がすっかり消失したこともこれに起因する。ほとんど全ては善なのだ。みんな違ってみんないい。
では多様性ある今の時代何が重視されているかと言えば答えは簡単コミュ力である。我々(脱)ゆとり世代の日本人は義務教育課程でスクールカーストの洗礼を受けてお勉強よりも何よりもコミュ力の重要性を学ぶ。
しかしコミュ力という言葉は甚だ曖昧でそこには自信のなさから来る人見知りが多分に含まれる。要は日本語能力とか言語的知能の問題よりも対人緊張や受容的態度などの気持ちの問題が大きい。
なるほど確かにコミュ障が多いとされるオタクと言われる人達は排他性が著しく異質な人間たちとのコミュニケーションには困難をきたすが、対立感情のない仲間うちどうしでは円滑に交流しているように見える。
それで満足に生きていけるならわざわざ異質なものと交流する必要などないというのもポストモダンな現代社会における道理であろう。換言すればコミュ障それ自体には全く問題がないのである。
自分の幸福にとって必要な他者受容のレベルがどの程度かそれを見誤っていなければ、何らかの自分とは無関係なクラスターでコミュ障と非難されても気にすることはないのである。
しかし一方で気持ちの問題を度外視した純粋なコミュ力、これをトーク力と名付けるが、トーク力が無い人間はこれからの社会死滅していく運命なのである。
気持ちというのは(対人不安障害でもない限り)相手によって大きく変わるが、トーク力は誰が相手でも基本的に共通しているから大事なのだ。
聞き手の年代・性別・人種などで話題の展開しやすさに違いは生じるが、そこは知識ですぐに補完できる部分であり本質ではない。
話すべき相手なら当然事前に知識を入れてるはずであり、知識不足でうまく話せない相手というのはあまり関わる必要のない相手だから気にしなくて良いと割り切って考えることもできる。
ではどうやってプロはトーク力を磨いているのかという疑問が当然わいてくる。トーク力といっても様々な状況があるが例えば友達3人以上で話すときにはテンポの良さが特に重視される。
多人数であるほどあまり独りよがりに話を拡げることは出来ない。中身のある込み入った話が求められることも少ない。となれば自ずとテンポが最重要になるわけだ。
誰かが何か発言した瞬間に話をほんの少し拡げるような一言ボケを入れる。そんなスピード勝負になるから場をリードする人間であるにはスピードが命。瞬発的なトーク力のない人間に発言権はない。
瞬発力ない人間は発言権がないからなかなか多人数の会話でのトークスキルが磨かれないという負のスパイラルに陥る。でも作文の瞬発力は何も多人数のトークだけで鍛えられるものではない。
いやむしろ人との実際の会話よりも多くの時間を毎日費やしている日頃の思考のほうが大事なのだ。日頃見聞きしたものを独自の着眼点で吟味して話の引き出しに入れておく。
そしてここが重要なのだが引き出しを人との会話だけでなく自分自身の思考にも積極的に活用せねばならない。日頃使っているから素早く引き出しに出し入れできるようになるのだ。
さて話者が二人である時には、互いの興味をかなり具体的に想定できて共通の話題を見つけやすいため突っ込んだ話が可能になる。話題をテンポよく変える必要もない。
ここで重要になるのはスピードよりもバラエティである。バラエティと言っても娯楽番組じゃなくて多様性な。柔軟に変幻自在に話題を拡げられること。
結局これも日頃の思考がベースになってるんだよね。話題が広がらないと会話が途切れるのは誰しも経験したことがあるだろう。なぜ話題が広がらないかというと
話題の引き出しの少なさも勿論あるんだけど、それ以上に引き出しが乱暴にしか整理されてないのが大きい。例えば、トーク力が致命的にない人間に限って
大抵「女は馬鹿」みたいな凝り固まった考え方にとらわれている。過度な一般化と断定口調とそれを強弁するための乱暴な言葉遣いが特徴だ。
これでは浅い会話しかできず表面でしか繋がりのない人間関係しか構築できないのは当然である。そしてその原因は物事の認識が曖昧かつ大掴み過ぎることにある。
何も天才的頭脳なんて必要なくて普通に日頃から色んなことをまんべんなく考える癖があるかどうかの話だ。それが出来てる人ほど頭が柔らかく、話をしてても会話が広がりやすい。
信託銀行に対する自分の知識不足が原因で相手をウソつき呼ばわりするって、とっても頭悪そうに見えるよ。
まず、信託銀行は「運用の専門機関」としての面も含めていろいろな業務を行える信託銀行(みずほ信託とか)と、マスタートラストとかのように「保管・決済等の資産管理業務」だけしか行えない信託銀行に分かれる。
ちなみに後者の業務をカストディーという。そのため後者のような保管決済業務しか行えないマスタートラストとかはカストディアンと呼ばれる。
保管業務を行っている、つまりその結果として株を大量に手元に持ち大株主として出てくる「保管・決済等の資産管理業務」だけをやっている信託銀行は運用業務をやっていないので運用受託機関にはなっていないし、そもそもなれない。
運用業務と保管決済業務を分けて運用機関による不正な使い込みなどを防ぐ、あるいは運用機関が倒産したときに運用資産を借金のカタとして持っていかれないよう守るのが、わざわざ手数料を掛けてまで保管会社を使っている目的だから。同じところにやらせては意味がない。
つまり「保管・決済等の資産管理業務」だけを行っている信託銀行は議決権の行使を決定する立場にはない。
マスタートラストとかはこの「保管・決済等の資産管理業務」だけを行っている信託銀行の側だから、議決権の行使に関する決定権は一切持っていない。
運用受託機関に信託銀行が含まれるからといって、信託銀行がすべて運用受託機関なわけではない。論理の「基本のキ」だよね、これ。公式HPに書いてあるのは「信託銀行=運用受託機関」なんて意味じゃない。
その人達の統計を取ってみるとおそらく自己嫌悪している人が多い。
そして人の心情を読もうとし過ぎている人が多い。
自己嫌悪について…
嫌いな自分(例えば話下手、知識不足)を悟られたくなくて、防御(話している最中に心の中では人を見下したり)に走った結果、
それから、「うまくコミュニケートしている自分」(理想)をガッツリ固めていて、スマートにコミュニケートしようとし過ぎていることがある。
人の心情を読もうとし過ぎている点については「自分だったらこんなの言われたら嫌だなリスト」があって、コミュニケートの際にそれを避けようとしていることに疲れている。
人とコミュニケートする時は事前にシミュレートしたり、うまく出来なかった時に人と比べて落ち込みが激しかったり、
「今の大丈夫だったかな?」などと後で過剰に反芻したりしている。結果、気疲れによって一人でいた方が良い、と結論づけてしまう。
このような自体に陥ってしまうのは、結局「コミュニケートによる成功体験」が少ないからだと思う。
「対話」と「理解(する・される)」という部分の「理解(する・される)」の経験が足りないということだ。
思い出してみて欲しい、幼少期に人間不信に陥ってしまう事件があったり、親と会話が少なかったことなどは無かっただろうか。
自分の心情を察してくれる理解のある人間と対話した経験があるだろうか?「対話」が無いと「理解」も無いのだ。
これは、成人してから解決するのは大変難しい。まず話す前に相手も多様な心情を持っているために、
その多様な心情を考えないこと(度胸や勇気と言い換えてもいい)も必要になってくる。
解決策としては、自分に自信をつけることで精神的な余裕をもち、相手を「理解する」下地を自分の中に整えることだと思う。
シャイな人は「(自分が嫌いで自分自身と向き合っていないため)自分自身すらあまり理解ができていないのに、相手を理解する余裕がない」
と本気で考えている。
ここからは自分の話になるが、自信をつけるために自分に効果があったのが「パックじゃない海外旅行に一人で行く事」「体を鍛えること」がシャイや人見知りの改善に効いた。
前者は恐らく、ネットも街中では繋がらない、頼るのはガイドブックのみという状況で必死にコミュニケートし、
もっと根源的な「対話」と「理解」の経験を積んだために、度胸がついたのだと思う。
自分は特に異性と会う前には100m程度を全力疾走している。これが結構効くのだ。
これだけでも効果があるので騙されたと思ってやってみて欲しい。
最近はナンパしてセックスという過程を踏めばシャイが改善するのではと考えて、
追記:「シャイは異性と会える状況にそもそもならない」と言われるかもしれないが、何故か女友達の方が一緒にいて楽でそんな事になっている。
有益な話だし、GPL関係でググってこのページを見た人のために勝手に補足と個人的な疑問を放流してみる。
適当に調べてた知識を記憶をたよりに書いているので、間違いがあれば容赦なく指摘して欲しい。
# どうでもいいけど、元増田の話でOSがLinuxだったりしたら笑うw
GPLは元増田で書かれている通りで、WEBシステムを閲覧しただけではソースコードを請求することはできない。RMSらもこれには気づいていて、この穴を塞ぐためにAGPLというライセンスができた。このライセンスのソフトウェアを利用した場合、WEBシステムであろうと利用できる人はソースコードの請求を行えるようになる。
これは別にWEBシステムに限らず、ユーザーが何らかの形で利用できるシステムなら、ソースコードの請求が行える。
申し訳ないが詳しい所は知識不足でよくわからない。だけど、下記の記事の通り現在の開発元のOracleの見解である。すなわち、MyODBC(GPLのMySQL用ODBCドライバ)を使わず、GPLでないドライバを用いて接続してしまえば、開発したソフトウェアがGPLにならない。
http://plaza.rakuten.co.jp/matsunopage/diary/201011300000/
# 個人的にGPLがRMSの著作権Hackなら、OracleのコレはGPL Crackだと思っている。「GPL汚染が嫌なら有償ライセンスで契約しろ」と言われた話を聞いた事があるからだ。
おそらく持ち帰れないのではないかと思う。なぜそう思うかというと、普通、プログラマが書いたコードの著作権は会社に取られるし、GPLでライセンスされたソフトウェアを受け取ったのは会社であってプログラマ個人ではない。GPLでライセンスされたソフトウェアを物理的にもっていく事は可能でも、きちんとライセンスを受けた訳ではないので機密情報の漏洩にしかならないと思う。
単純な興味なのだけど、例えば最初はGPLだったが途中からはプロプライエタリ(ないし、GPL非互換なライセンス)に変更可能なのか知りたい。個人的な考えでは、著作権者全員の合意がとれれば可能という結論。著作物をGPLに書かれた通りに扱ってよいとしただけで、著作権者によって著作物の扱い方は変更可能だという考えから。無論、GPLでライセンスされたプログラムを受け取った人はソースコードの請求は依然として可能。
http://nippondanji.blogspot.jp/2010/06/gpl.html
http://d.hatena.ne.jp/karasuyamatengu/20110126/1296004598
なんで、グレーなのか。なんで、無理なのか。どのような考えでグレー、無理という結論を出しているのかきちんと書いてもらえますか? 私の考えが間違っているならなぜ間違っているか指摘していただけますか? あるいは、下記の増田さんのように具体事例を出してもらえますか? プロプライエタリに戻せないというのなら下記の具体事例はどのようにお考えですか?
http://anond.hatelabo.jp/20140722071548
とした場合に、PHPを飛び越えて(間接的にしか接続していないにも関わらず)開発したシステムにGPLが適用されるということですか? その場合、PHPにもGPL汚染が発生するということになると思いますが、間違いありませんか?(FOSS除外規定を設けているのはMySQLであって、FOSS除外規定と無関係な開発したシステムがGPLになってしまうと、開発したシステム側からGPL汚染が発生するという考えから。)
元のパラグラフは下記の通りです。
あと、MySQLのデータベースサーバに接続しただけではGPL汚染は発生しません(AGPLはそのためのものなのは前述の通り)。また、PHPは接続するクライアントになりますよね。ということは、MySQLと一緒に開発システムを一つのパッケージとして納品しない限りはGPL汚染は発生しないのではないでしょうか?(WEBシステムでそんなこと普通しませんよね。yumとかでインストールするし)
根本的な問題として、FOSS除外規定はGPLソフトウェアと他のFLOSSをリンクする際の問題を解決する物であって、MySQLのデータベースサーバに接続する場合には関係のない話だと思います。おそらく、問題だとお考えなのは、PHPのドライバがOracle製のGPLプログラムをリンクしていたためPHPのドライバを利用すればそのような問題が発生するという事だと思います(さらに追記。この通り書かれていますね。よく読んでおらず、失礼いたしました)。現状、PHPライセンスとなっているMySQL Native Driverを利用すればそのような問題は発生しないはずです。
http://php.net/manual/ja/mysqlnd.overview.php
かりに、おっしゃる通り、開発システムもFOSS除外規定に含まれるFLOSSにしなければGPLになってしまうとした場合、それはMySQL独自の問題であり、他のFLOSSに一律で当てはまる問題ではないということでよいでしょうか? なぜこのような質問をするかというとMongoDBが同じような問題を抱えているからです。下記のURLの通り、MongoDBのコアサーバはAGPLですが、ドライバにApache licenseを適用し、開発システムにAGPL感染が発生しないようにしています。
http://www.mongodb.jp/mongo/licence
上記の様なケースにも実用的に対応する為、(AGPLを採用しつつも)我々はあなた方の(MongoDBを利用する)クライアントアプリケーションは(MongoDBとは)別物扱いする事を約束します。これを円滑に行う為、mongodb.orgサポートのドライバー(あなたのアプリケーションとリンクする部分)はApache licnese(コピーレフト)の元公開します。
返信お待ちしております。
冒頭に書いた通り、間違いがあれば容赦なく指摘してください。