はてなキーワード: プロプライエタリとは
反反AIで特に絵に対して文句をいっている人って、絵描きに対してコンプレックスがあるか、AIで絵を描いて儲けたいとか何かのポジショントークとしか思えないところがある。
例えば DeepL とかの AI ベースの製品も入力内容を学習に使わないオプトアウトができるようになっている。
X とか SNS に載せたらそれは学習に使いますと言われたらそのSNSを使わないという選択があってもよい。
そこを学習は合法だからと連呼するのは、会社のデータをなんでもかんでも外部のサイトに提供してお漏らしすることが許されている会社なのかな?AI の発展のためにおまえのデータをすべて開示すべきとかいってる奴は働いたことがないか、やっかみか何かか?と思ってしまう。
クロール防止を避けられてしまうならウォーターマークなどで自衛するしかないだろう。これは生成AI以前でも行われていたこと。難易度を少しでもあげLORAされにくくする、学習に時間がかかったり手間がかかるので悪用する利益に見合わないと思わせるようにするというのは問題ない。
現代の暗号化も素数とか計算に時間がかかることに依拠しているものもあるように、現実的な時間というのは重要なファクターなのだ。
これは絵だけでない。声やテキスト全ての学習されたくない情報をどうやって学習させないかをちゃんと考えて一般の人に広めるのは個人情報保護のように今後リテラシーになっていくのかもしれない。なので学習されないようにしていると冷笑するのではなく、安全な公開方法を用意したりする仕組みを考えるべきなのだろう。
あの法律、生成AIをあまり想定してなかった、かつ一度決めたら引っ込められないお役所仕草が相まってると思うのだよね。
AI にも色々あって画像認識、背景削除など色々使える。GenAIと違いこれらのAIは基本的に学習した結果がそのまま出力されない。このように使われるなら納得されるだろう。
一方GenAIは学習結果から同じフォーマットの成果物を出してしまうのが問題。画像生成は学習したデータを元にした画像しか生成しない。LLMもニュースや過去のデータを元に回答している。それらには本来権利があるのに無視してしまっている。
声優の話や、海外の getty やニュースサイトの訴訟とか、今後法律も変わってくると思う。
EU なんかは学習元データ開示させようとしてるし、アメリカのエンタメ界隈のロビー活動によってはディズニー法みたいに変わることもあるだろう。
特許や著作権同様、国際協調して進めるべき案件だろう。盗まれるならやはり保護技術や法律が必要ということ。
学習速度と生成速度が全然違う。前述のとおり暗に現実的な時間というものが守ってくれていた部分がとっぱわれてしまった。
活版印刷の時に著作権ができたように何らかの制限ができてしかるべきだと思う。
横道にそれるが量子コンピューティングなりで暗号鍵やHashが推測できるようになったら暗号化はどうなるのだろうね。パスワードの解析も人間が考えたものだから解析するのは問題ないとか言うのだろうか。すでに不正アクセス防止法があるが。
そこは同意だがライセンス、特許はあるよね。ライセンス違反をしてコピーをしたら訴えられる。プロプライエタリな製品のEULAだと大体リバースエンジニアリングも禁止だ。
プロプライエタリの製品のソースコードをすべてオープンソースにせよとかおもってるのかな?
音楽は消費するのに少なくとも一曲3分以上かかるし、小説、動画だってもっとかかる。
一方、絵というのは一目で個人的な見解のレベルでは良し悪しがわかる。そのため消費するのに時間がかからない。それなのに人間が作成するには時間がかかるという非対称性がある。
そういうものをAIで数秒に一枚生成されてしまうのだから反発が大きい。
声もそう、その人の声でなにかするというのは一瞬で消費される。一度学習されてしまえば再利用に歯止めが利かない。
消費するために公開せざるを得ないものについても保護できるようにすると言うのは必要。それが著作権以外でもいい。
何でも学習合法にするとDeepFakeや類似作品が溢れかえる。しかも生成は数秒。
それをすべて被害者が訴えて回るのはフェアではない。学習、生成段階で歯止めをかける仕組み、法制度が必要になってくるだろう。
それを合法だから!反AIは異常とか言ってるのはそれはそれで思慮が足りない。
一方、合意して学習した内容を使ったAI、例えば自分の作品を自分で改善するといった分野に使うなら否やはないだろう。
無料のAPIをサービスとして公開しているとして、それに依存するコードを書いたとする
例えば翻訳APIを無料で公開していたとして、あとから有料になるということだ
有料になってコストがかかると、そのAPIへの依存度が高ければ高いほど、ビジネスとしての損失につながる
プロプライエタリAPIに依存しそうになったときは、それを自前で実装できないかまず考えろ
例えば事前訓練済みモデルであればhuggingfaceが使える場合があるだろう
損益が利益を大幅に上回る場合に、huggingfaceでモデルが見つからなかったり、代替策がない場合は、関係各位に相談し「機械翻訳を使うことをやめる」ことを検討したほうが良い
追記: jparacrawlは商用利用が不可らしい
プログラミングだったら今やWindowsやmacでも、超快適な環境を超簡単にセットアップできる。
だからプログラミングの道具としてデスクトップLinuxを選択する理由は全くない。
そもそもLinuxはプログラミング以前に、MSOfficeもPhotoshopも使えないじゃん。
代替ソフトが使える?品質が低すぎて全然解決になってないから。
果たしてデスクトップLinuxのユーザに、ソフトウェアがオープンソースかプロプライエタリかが問題になるレベルで使っている人間がどれほどいるのかっていう。
CLIを経験できる?経験できたらなんか凄いの?それだけのために他の全てを犠牲にするとか意味がわかりません。
あるいは
プログラミングだったら今やWindowsやmacでも、超快適な環境を超簡単にセットアップできる。
昔ながらのviやemacsが、現代的な開発環境より使い勝手に優れるとか絶対にありえないし。
それにLinuxなんてプログラミングどうこう以前に、MSOfficeもPhotoshopも使えないじゃん。
こっちが問題にしているのはあくまでMSOfficeやPhotoshopが使えないことなので、完成度低すぎな「なんちゃって代替ソフト」があっても全く解決にならない。
あと、Linuxがオープンソースというのは確かに特徴っちゃ特徴だけど、果たしてデスクトップLinuxのユーザに、OSがオープンソースかプロプライエタリかが問題になるレベルで使っている人間がどれほどいるのかっていう。
そうなると結局、デスクトップLinuxユーザというのは今も昔も
あるいは
以前このようなエントリを投稿したのだが、このエントリの文脈を前提にColabo騒動を考えるのであれば「自由を得るため皆で関わろう」という考え方になる。
ボクのような性質を持った人間は情報がオープンであることが望ましいと考えるし、その観点から言えばColaboは保護している女性に危害が及ばないよう慎重になりながら情報を可能な限りオープンとし、我々市民は自治体や団体と連携しつつオープンな情報を活用してデバッグ(検証)とリファクタリング(最適化)を行えるような体制を築いたほうが良い。
そのようなものは理想論だと言いたくなる人も居るだろうが、我々は理想を実現するためにFLOSSやGNUを標榜しているのでは無かったか?
理想論、それは褒め言葉だろう感謝する。
GNUはそもそも、製品を無償で提供しサポート業務を有償で請け負うと言ったビジネスモデルが提唱されている。
そのような中で発展したGNU/Linuxはプロプライエタリの代表格であったMicrosoftがWindowsのサブシステムとしてGNU/Linuxを取り込むといった成果が近年見られるし、より一般大衆目線で事例を挙げるのであればAndroidスマートフォンはGNU/Linuxベースだ。
FLOSSやGNUの事例を参照し、女性の保護は無償で請け負いつつも生活のサポートは有償で行うというような、無償を支えるための有償ビジネスモデルとして様々な無償-有償パターンを洗い出し・議論し・試験し・実現していくことこそ、女性が、そして我々が自由を得るために必要な行動なのではないかと皆さんへ問いたい。
ボクは以前のエントリで語ったように思想には詳しくない。
しかしボクがよく知るハッカー文化は、万人が自由にアクセスできる環境や道具や制度を揃え、万人が自由にそれらを選択し活用し好きなものを好きなように好きなだけ生産できる社会を是とする。
様々な事情により不自由であった女性が保護された先で、自由に使うことが可能な選択できる環境や道具や制度が社会にあることを知り、好きなものを好きなように好きなだけ生産できるようになることは素晴らしいことじゃないか。
更にその生産するまでの過程がオープンであるのならば、それを見て憧れ、1人2人と自由に至る女性が増えていくことへ繋がる。
「失敗したらどうするのか?」と言いたくなるだろう。
そんな意見への返答は「動かせばバグ出る!ボクたちはそれをよく知っている!」だ。
バグを恐れるな先ずは動かせ!壊れたら、落ちたら、問題が見つかったら検証し取り除こう!
それがボクたちのやり方だし、だからこそ検証可能性は担保しておかなければならない。だからこそブラックボックスではいけない。
Colaboだけでなく全ての団体へ言おう!
自由でオープンな社会を目指そう!自由でオープンな団体となろう!
ボクはそうなれるようこれからもColaboだけでなく全ての団体を応援し、FLOSS活動を通してColaboだけでなく全ての団体へ貢献していく!
その点でデスクトップLinuxとAndroidは、WindowsやmacOSやiOSと比べてダメすぎ。
まず、デスクトップLinuxとAndroidは、UIをディストリビューターやスマホメーカーがカスタマイズ可能だけど、それがUXの向上に全く寄与していないどころか、質の低さから抜け出せない原因になってるわけで。
せめてどれか1つのUIだけを認めるようにして、そこに開発リソースを集中させろっての。
とはいえUI系のソフトは、未だにLinuxカーネルのようなバザールモデルの大々的成功例がない分野だから、そもそもオープンソースで、プロプライエタリとシェアを二分するほどイケてる代物ができるかどうかすら怪しい。
(強いて言うならChromeと、あとは最近やっとVSCodeが頭角を現してきたくらいで、今なおMS OfficeやAdobe Creativeに対抗するようなオープンソースソフトなんて皆無だし)
あと、うまく動かないときの対処法がディストロやスマホの機種ごとにバラバラなのも、ユーザにとっては苦痛以外の何物でもない。
これもLinuxディストリビューションというものが出来た頃から散々言われているけど全く改善しない。
それどころか、それがそのままAndroidの機種別対応に引き継がれたんだから、その時点でAndroidスマホは価格以外でiPhoneに勝てないエビデンスの1つになってしまった。
元増田です。
なんか、大人しくUbuntu使っとけば問題ないみたいなブコメがあったけど、Ubuntuだって初心者には普通に難しいからな?
それこそWindowsやmacと比べたら、明らかに高頻度で躓くケースが多いね。
だからサポートする方も大変ってか、Windowsやmacよりも手がかかるのが現実。
「お前、Linux使っててそんなとこまで訊くんだったら帰れよ」
と何回思ったことか。
そんな感情を押し殺して
「(しょうがねえなあ~)○○って知ってる?勉強しとけよーw」
で済ますが、正直言って全く気分は晴れない。
何がモヤモヤするって、Linuxを始めとするOSSに馴染んでいる人間ほど、
「確かに取っ掛かりは難しい。でもそれを乗り越えた後に、素晴らしい『自由な世界』があるんだ」
「どのソフトも時に使いにくいとさえ思うくらい個性的な手触りだけど、それこそが多様性であり、善なんだ」
という主旨の内容を、マントラかよって勢いで唱えるわけだが、まあ正論だけどズレてんなーって感じるんだわ。
アレっすか、一億総ハッカー社会を目指してるんですか?あるいはポール・グレアムの言うようにいっぱしの画家気取り?みたいな。
そりゃ、職業プログラマーとかがここらへんの話を知らないとなると、確かにヤバい。
あと、今のソフトウェア開発はほぼネットワークと不可分だったりするので、Linuxを含むUNIX系OSもろくに扱えないレベルの人間が、ネットワークの専門的知識を得ることは不可能という意味で、開発者ならUNIXくらい使えんだろって話もある。
でもさ、そんなんパソコンを仕方なく使ってるような「普通の人」にはどうでもいい話なわけ。
それこそ多様性云々にしたって、例えばTeXやgnuplotやPerlやsendmailやbindといった、便利である以上に、その複雑怪奇な仕様で長年に亘ってユーザを苦しめ続けてきたことの言い訳にはならなくね?
あと日本語処理が、結局Googleが本気でLinuxに肩入れするまで、UNIX系OSでは(少なくともWindowsと比較して)まともに動作していなかったことも知ってるからな。
それにMS OfficeとAdobe Creativeの代替足りうるOSSは、未だ登場していないし。
鼻につくってそういうとこだぞ?わかる?
一般的に、自由であることと快適であることは全く関係ないけど、これはソフトウェアにもまんま当てはまる話だと思うね。
これまたブコメに「Androidは世界で最も成功したLinuxディストロ」とあったから言うけど、Androidよりも、そのパクリ元かつプロプライエタリでクローズドなiOSのほうが、ごくごく普通にスマホ使ってるぶんには遥かに快適だからな?
そりゃAndroidはスマホというハードウェアを自由にいじり倒すには最適なんだろう。
でも多くの人にとっては電話とメールとWebとLINEとゲームとオーディオと写真や動画の鑑賞・撮影くらいがサクッと使えれば良くて、そういうありふれた用途に限定される反面、それらの使い勝手をパッキパキに洗練させた、iOSのほうが使いやすいわけで。
まあ、AndroidスマホがiPhone買えない貧乏人のイノベーションとして、特にまともな回線の整備がおぼつかない開発途上国の通信環境を、少なからず改善したことは大いに意味があるので、まあ認めて「やるか」って感じだけど。
話を戻すと、ぶっちゃけソフトウェアの場合は、自由になるために要求される水準が高すぎるんだわ。
それに無自覚、あるいは気づかないフリをしているOSS論者の多いこと多いこと。
そんなんだから、お前らの言ってることは
という風にしか聞こえないんだよ。
そこも含めて、OSSは思想そのものからして途方もなく左巻きってことには、もっと自覚的になるべき。
まあでも、なんだかんだ言って世の中は左翼によって良くなってきたことも事実なので、それだけでもOSSの意義は十分にあると思うけどね。
MSが恐れていたLinuxは今はもう無く、サーバ市場でMSに利益をもたらす家畜になった。
そして今となってはデスクトップOSとしての可能性がMSによって摘み取られようとしている。
WSLでGUIアプリが動くようになることで、GPUメーカーは最新チップのドライバをLinuxに提供する意義を少し失う。
LinuxのOS自体もデスクトップOSとしてベアメタルに載せる意味が薄くなっていく。
Linuxがwindowsに浸食しているのではなく、Linuxがwindowsの単なるコンポーネントの一つになりつつある。
UEFIの為にプロプライエタリという毒を喰らわざるを得ない状況もWSL向けディストロなら不用だ。
MSに飼われ続ける限り、最新GPUの性能を活かしたプログラムを動かせるし、そのほかのデバイスもどんどん使えるようになるだろう。
windowsのコンポーネントの一つになった方がデスクトップOSとしてLinuxの価値が上がってしまうと言うのはなんとも皮肉な話だな。
プロプライエタリなアプリがLinux版とかなかったりするから、
WindowsやMacで開発みたいになる一因だったりする気もするんだけど、
Appleの場合、自分はPowerPCのもの(Painterとか)は無駄になって、今回はIntelのものも無駄になりかねない、
仮面天使ロゼッタは愛あるかぎりは戦ってくれるかもしれないけど、動作を完全に保証するわけではないわけで、
PS4のゲーム数本はPS5では動きません、みたいになるわけで、
なんだかんだWindowsの方が後方互換で動くじゃないか、なんで十数年間Mac OS X使ってたんだ、俺は?
となるわけだけど、64bitどころか今度はWindowsもARMになっていったりするわけで、
Intelで操作するアプリやゲームもAMDで動作しなかったりするわけで、
でも、ネイテイブアプリ書く側としては最近はアーキテクチャを問わなくなってきているわけで、
どうするよ、どうするよ、どうするよ、M1買うの?買わないの?みたいに思うわけで、
結局、各学校が採用した端末というか、OSのシェアに関するデータはあるんだっけ?
国の補助金を使って、学校を舞台にこれまでと同様の大手ベンダー同士のシェア争いが展開されたようにしか見えなかったのだが、その後どうなったのだろうか。勝者はいたのだろうか。
GIGAスクールの話が始まったときから気になっていたのは、一人1台の端末が生徒のITリテラシーを高めると同時に、結局特定ベンダーのプロプライエタリな技術に依存してしまうベンダーロックインを国ぐるみで(国の金を使って)強化しているだけではないのか?ということだった。
Windows端末を全校で導入するにせよ、iPadを与えるにせよ、Chromebookにするにせよ、一私企業が作って所有している技術(知的財産)を使って何かをやることを子供に教え込むわけで。
iPadを与えられた中学生がいかに上手に、クリエイティブに使いこなしているか、みたいな話ばかりが話題になっていた記憶があるけれど、それって結局、iPad OSを使って何かをやるという考え方を教え込んでいるわけで。大人になるにつれてそこから離れることをかえって難しくしてはいないか。
つまり、特定の技術を使って客を囲い込んでいる私企業にたいして、今後どんなことがあってもお金や自分のデータを渡すことを疑問に思わない人間を育てているのではないかということ。
Wordが使えなければ仕事にならないから、デファクトスタンダードの技術を使いこなせるよう教え込むことが結局、子供のためになるのだという議論も成り立つように見えるが、問題の本質は同じだろう。
文書作成にWord「しか」使えない人間、そのことを疑問に思わない人間を増やす、つまりマイクロソフトの固定客を増やすだけではないのかということ。
台湾のオードリー・タン氏がタッチスクリーン式にしない電話をわざと使っているという話を最近読んで、特定のテクノロジーに依存しない、ベンダーに支配されない生き方とか考え方みたいなものを子供に早くから教えないと、今後大変なことになるんじゃないかと思った。
テクノロジーに依存しすぎず、一定の距離を保つ方法を学校ではどう教えているのだろうか、そもそも教えようとしているのだろうか。
自分も含めてだけれど、電車やバスの中でずーっとスマートフォンをいじっている人ばかりだということに気づくと、テクノロジーに依存しているということは無自覚、無防備で、ようするに教育を受けていないっていうことなんだよなと最近思う。