はてなキーワード: 亭主関白とは
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IT業界は先進的な企業が多いから、思想的にもリベラルで旧態然とした差別はかなり少ない。
などと、シリコンバレーの一部企業を見て幻想を持ってしまった可哀想な人が観測されたので、実際のところを記す。
IT業界の一部では、確かに異常なまでにポリコレ道を邁進する企業がいる。しかしそれをIT業界に当てはめるのは間違いである。
特に日本ではごく普通に性差別が残っており、多くの人がそれを(しぶしぶ)容認している状態である。
見方によっては九州の亭主関白のような地域に根ざした性差別であり、おかしいと思う人もいるものの慣習として残っている。
具体例を挙げよう。日本のIT業界には、女性しか参加できない勉強会が一般的に行われている。
これは「生理が齎すコード品質への影響」というような女性特有のものではなく、
例えば CTF for Girls という、セキュリティ関係のコミュニティは女性限定である。
なお念の為明記しておくが CTF for Boys のような男性限定コミュニティは存在しない。
他にもたくさんある。例えば Java 女子部というコミュニティがあり、ここも女性限定である。
男性がここで Java の勉強をすることは許されない。Java 男子部は存在しない。
他にも枚挙にいとまがなく、性別によって区切られた閉鎖的なコミュニティが一般的に存在するのである。
なおこういう状況を記すと、底の浅いブクマカが「アファーマティブ・アクションだから仕方ない」というブコメをすることが想定されるが、これはアファーマティブ・アクションではない。
アファーマティブ・アクションは格差是正を第一目標に置いた取り組みを指す。例えば大学入学者に黒人が少なく、人種に偏りができるため一時的に黒人を優遇するというような措置だ。
例えばだが、スタンフォード大学が性差別に対するアファーマティブ・アクションとして、スタンフォード女子大学を作るわけではない。
あくまで優遇するという措置であり、女性限定や黒人「限定」の大学を作るわけではないのである。
IT業界は先進的な企業が多いから、思想的にもリベラルで旧態然とした差別はかなり少ない。
などと、シリコンバレーの一部企業を見て幻想を持ってしまった可哀想な人が観測されたので、実際のところを記す。
IT業界の一部では、確かに異常なまでにポリコレ道を邁進する企業がいる。しかしそれをIT業界に当てはめるのは間違いである。
特に日本ではごく普通に性差別が残っており、多くの人がそれを(しぶしぶ)容認している状態である。
見方によっては九州の亭主関白のような地域に根ざした性差別であり、おかしいと思う人もいるものの慣習として残っている。
具体例を挙げよう。日本のIT業界には、女性しか参加できない勉強会が一般的に行われている。
これは「生理が齎すコード品質への影響」というような女性特有のものではなく、
例えば CTF for Girls という、セキュリティ関係のコミュニティは女性限定である。
なお念の為明記しておくが CTF for Boys のような男性限定コミュニティは存在しない。
他にもたくさんある。例えば Java 女子部というコミュニティがあり、ここも女性限定である。
男性がここで Java の勉強をすることは許されない。Java 男子部は存在しない。
他にも枚挙にいとまがなく、性別によって区切られた閉鎖的なコミュニティが一般的に存在するのである。
なおこういう状況を記すと、底の浅いブクマカが「アファーマティブ・アクションだから仕方ない」というブコメをすることが想定されるが、これはアファーマティブ・アクションではない。
アファーマティブ・アクションは格差是正を第一目標に置いた取り組みを指す。例えば大学入学者に黒人が少なく、人種に偏りができるため一時的に黒人を優遇するというような措置だ。
例えばだが、スタンフォード大学が性差別に対するアファーマティブ・アクションとして、スタンフォード女子大学を作るわけではない。
あくまで優遇するという措置であり、女性限定や黒人「限定」の大学を作るわけではないのである。
とにかく
・犯罪者
・移民
・慎みと弁えのない女性
以上の6つのタイプの人間が大嫌いで大嫌いで、あまりに不快なので最近ではワイドショーもネットも注意しながらじゃないと見られない。
日本人男性がコメンテーターとしてLGBTへの不理解や政治への懸念を示すのは何も思わないし真っ当な意見なら「うんうん」となるんだけど、同じことを外国人コメンテーターや女性コメンテーターがやった瞬間虫唾が走ってチャンネル変える。YouTube(Abemaの社会問題扱ってる動画みたいなやつ)だったら即低評価押す。
自分の感覚は現代日本では異常らしいんだけど、どうしてこうなったのかわからない。生まれ育った家庭が亭主関白だったとか外国人嫌いだったわけでもない。外国人や女性に何か嫌なことをされた過去もない。普通に小、中、高、大学を卒業して鉄鋼メーカーで働き、主婦の妻と小学生の娘と幼稚園に通う息子と暮らす可もなく不可もない人間のはずなんだけど。
私はWEB広告屋の端くれで、広告とはジョン E ケネディがいう「Advertising is salesmanship in print」精神でいる。しかしこのような態度では文化の一端を担う広告を作ることは到底不可能だということを私は知っている。
個人的には大成建設の「地図に残る仕事」のCM・コピーは大好きだ。最高だ。直近では湖池屋ポテトチップスのCMなんかも心にグッと残るものがある。
「子供でいたい ずっとトイザらスキッズ」や「オブラディオブラダがかかったホンダ ステップワゴンのCM」なんかも良い。楽しさが伝わる。
「おーいお茶」のネーミングなんか最高じゃないか。亭主関白な昭和の頑固親父が母ちゃんに向かって「おーいお茶」と言ってる姿、あるいは、部長など偉い人がOLに向かって「おーいお茶」と言ってる姿が容易に想像できる(今だとパワハラ・モラハラになりそうだ)
パワハラでいえばリゲインの「24時間 戦えますか」はバブル時代を一言で凝縮した伝説級のコピーだろう。他にも「そうだ京都、いこう。」「まずい!もう一杯!」「ピッカピカの1年生」「すぐおいしい、すごくおいしい」「生きろ。」など挙げたらキリがない。
これらが文化かどうかは知らないが、私の脳裏にこびりついて離れない。私のようなWEB広告屋の端くれには、このような(文化的価値がある)広告は到底作れない。
親が亭主関白で、母親に仕事はさせないという家だった。今の時代もあるし、自分もそこまでとは思っていないが、料理もできて家も綺麗な彼女には、今のホワイトな会社のまま仕事をしながら、家事を中心的にやって欲しかった。
→まずここが虫が良すぎる。自分より年収高い女に家事もやらせて、じゃあお前はなんなの?女側の負担が増えるだけなのになんで結婚してくれると思ったの?
そうなると当たり前だが、多少ブラックでも、自分が高年収の仕事に就く必要がある。
→わかってるんだったらやれよ無能!
父みたいな何もしないタイプにはなりたくなかったので、自分も家事育児は手伝うつもりでいた。
お前みたいに低スペック無能の癖に家事の負担も女側にやらせようとしてるうんこ野郎と誰が結婚するか!結婚しなくて大正解なのでこのまま孤独死してください😊
義父(夫の父)は東大を出て大手企業に入り、取締役まで勤め上げて定年退職した。
夫が小さい時は忙しくて子育てに関与できず、中学受験も大学受験も義父の思い通りにはいかなかったらしい。
なので、孫は絶対に東大に行かせる!俺が関与すれば間違いない!そのためには幼少期が大事!と生まれた時から鼻息が荒かった。
金はいくらでも出すから!と、赤ちゃんの頃から小学校受験をさせなさい、公立なんて動物園だ!と言い放ち、夫もどうすることもできず、3歳からお受験塾や公文に通わせることになった。
お金も送迎も義父がやる、というのだから私もどうしようもなかった。
義父の都合が悪い日があり、お受験塾の様子を見る機会があった。子供は明らかについていくのが精一杯で、これは厳しいのではと思った。
公文も、同じ単元を延々と繰り返す(次に進めない)ようになり、そのうち公文の日になると頭が痛い、お腹が痛いというようになり、義父も子供の体調不良をおしてまでやらせることはできず、辞めざるを得なくなった。
それだけやっても小学校受験のご縁がなく、公立に通わせることになったが、義父は中受で挽回だ!SAPIXに入れろ!金は出す、送迎もする!とさらに意気軒高となり、夫も私も止められなかった。
止めようものなら「お前たちは子供に愛情がないのか!後で苦労するんだったら今のうちに頑張らせるのが親心だろう!お前たちは何にもわかってないのだ!」と猛烈に叱責された。
義母は小学校受験に懐疑的で、夫(私立小出身)の時にいろいろと嫌な目にもあったらしく、最初から私に対しては「受験にこだわらなくてもいいんじゃないかな」と言っていたが、昭和の亭主関白家庭であり義父に逆らうことができないため、何の抑止にもならなかった。
そして何が起こったか。
保育園はご機嫌で通っていたのに、小学校はわずか1年しか適応できなかった。
つまり、能力的に学習が難しい特性の子に、ハードな学習を幼少期から強いていたわけだ。
そりゃバグる。
いくら義父に叱責されても、過去の経験からこの方がいいのだと言われても、自分の直感を信じるべきだった。
学校にも行けないままだ。
子供の学習障害が分かった時点で、夫と私は義父に子供の教育に関らせないよう、連絡を絶った。
こちらから連絡はしないものの、義父からは不登校やギフテッドについての訳のわからないYouTubeのリンクをメールで頻繁に送ってくるし、中受の本や教材を勝手に送りつけてくる。公立に行かせたからこうなったのだ、と本気で思っている。まだ諦めていないらしい。
見もしないで即削除しているが気が滅入る。
夫はもっといろいろ言われているらしい。
増田に言いたいのは、この手の孫に干渉してくるジジババとはできるだけ早いうちに没交渉にすべきだ。百害あって一利なしだ。
とても難しいと思うが、縁を切る勢いでNOと言わないとどんどん立ち入ってくる。実親は子に対して厚かましいし、子育ての先輩面してくるからたちが悪い。
物心ついたときから私には母と兄しかいなかった。母はまだ幼い兄と私を連れて父と離婚した。暴力を振るわれたとかで離婚したと言っていた
狭いアパートに家族3人で暮らしていて、深夜に仕事をしている都合上、夜になると兄と私は同じアパートに暮らす母と同じ国籍の夫婦に預けられた。
今では真偽は不明だが、母は私達を預かる代わりにその夫婦にお金を渡していたらしい。ほんとうに苦労して育ててくれていたと思う
兄と私が園児になったころ、その夫婦のところに預けられなくなった。トラブルか何かがあり、母はその夫婦に私達を預けることをやめたらしい
母は私達にゲームを買い与えたりして手間を省いてたかもしれない。他にもおもちゃは買い与えられたが、私達が欲しがったのはわかりやすいゲーム機で遊ぶことだった。
家に子供だけがいる状況で、その頃から私達はおかしくなっていたのだと思う
やんちゃする兄を母は躾としてハンガーで叩いたことがあったらしい。当時はまだ体罰が許されていた時代だったかもしれない。そしてまだ幼い兄はそれを真似て、私が言うことを聞かないときにハンガーで叩いて言って聞かせた。
兄は母がいるとき私に躾をすることがないので、私は夜になるのが怖くなっていた。
すぐに言えばいいものを、子供ながら母が苦労していることがわかっていたので言えずにいた。自分だけが我慢すればいいことだと思っていたかもしれない
兄の行動は徐々に歯止めが効かなくなり、ある日、本当に怖くなってしまったから泣きながら母に兄のことを話した。
父は山に囲まれた田舎に住んでいた。亭主関白そのもののような人だと思う
私は父が何をしている人なのか職業以外なにもしらないまま育った。それより父を父親だと思うことができなかったのでどうでもよかったまで思っている
まだ読み書きもできなかったころ、母がお父さんと話してほしいと言って電話をわたしてくれた。父とは物心ついたときに父親だと言われて会ったことがあったから、電話先にいる人物を父親だと私は認識して話していた。
そしてある時、父にお金がほしいと頼むように母に「おねがい」された。私達は教えられたとおりの内容を電話で話した。
例えば、お母さんがお金がないって言ってるからお金ちょうだい。といった子供が言える最大限の言葉で父に頼むのだ。
そして頼むことができれば褒められ、父が無理だと言った日にはもう1回電話して頼むように言われることもあった。
まだクレヨンとかで絵を描く子供が5万円ちょうだいなんて言うのだから、ほんとうに今考えると気持ちがわるいと思う
もうその時点で母に合わせないといけないと思っていたかもしれない。そしてこれは19歳になるまでやっていた。
たぶん離婚したとき養育費について具体的に決めていなかったのだと思う
父から父親らしいことをされた記憶は私には数えるくらいしかない。それも本当にたまに会ったときにだけだった。10代半ばあたりからはお金を頼む相手としか見てなかった
まだ園児だったころから、私は自分が他の子たちと違うことを認識していた。
母は日本語の読み書きができないのだ。だから私達が通う場所のことなどを理解するのに苦労したのだと思う
持っていく必要なものや行事などは、私はいつも忘れていたしできなかった。兄もそうだったのか今では過ぎたことなのでわからない
しかし他の子が不自由なく過ごしていて、自分にできないのはなぜかわからなかった。
それと母が昼間に働くようになったときは、いつも私達の迎えだけがすぐには来なかった。
兄が小学生になったあたりで、静かになる施設の中ひとりで迎えを待つ時間が途方もなく感じたのを覚えている。
小学生になった私と兄は多少物事を理解するようになっていた。引っ越しして前よりもまともな生活ができた。
ここから母は私達の教育を学校に任せるようになった。元々、教育などされていないかもしれなかった。教えられたことと言えば、母が帰ってくるまで家事をすることだったかもしれない。
今でも母が仕事から帰ってくる時間あたりから何かしなきゃいけないとか、待たなくちゃいけないとか焦ったりする。怒られないようにしなきゃいけないと考えていたと思う
仕事をしなければいけない母は日本語を勉強する時間は無い。大きくなったらお母さんを支えてねみたいなことを言われた覚えがある
厳密には仕事で疲れて日本語を勉強することができないのが正しいかもしれなかった。
勉強を教えられなかった私達は学校へ行って授業を真面目に受けても、勉強をするということがわからないのだ
宿題をやってくるように言われて家へ持ち帰っても、宿題をするということを教えられていないからやれなかった。
兄もそんな感じで、私達が自分から勉強することができたのは高校生からだったかもしれない
学校関連の保護者が処理すべきプリント用紙や、家での細々とした書類なんかはその頃から兄と私がやるようになっていた。
ここまで読めば予想できるとは思うが、もちろん学校行事に母が来れるはずもなく、私達も親が日本語を理解するのが難しく仕事で参加できないのをわかっていた。
それだけはさすがに保護者が必要なので仕事を休んでもらって来てもらっていた。
先生に宿題や成績のことを言及されたとき、私を責めるような辱めるようなことをその場で母から言われたのを覚えている。
親が外国人の教え子なんて当時はまだまだ珍しかったのだろう、私の担任になった先生たちはあまり触れないようにしてるよう感じた。
勉強ができなかった私は高校生になり、片道1時間弱かけて偏差値の低い高校に通っていた。
1年生の時はまったく勉強ができなかったのと、いじめられて孤独だった私は深く傷がついている状態だった。
それでも周りに心配させないように隠して過ごしていたが、途中から環境が良くなったこともあり卒業するまでは一般的な高校生だった。
変わらず母は私達に教育などしてくれなかった。私達は家事を手伝っていたが、それは怒られるからやるといった感じでしていた。
私はその頃には周りの顔色を伺ったり合わせようとするような人になっていた。自分さえ我慢すればいいと思っていたのだ。
ある時死にたいと母に泣いて告げたときすごく優しくしてもらったことを覚えている。
兄が成人して家から離れるまで、まだ私達は家族でいたのかもしれない
大学生になった私はいなくなった兄の代わりに家のことをやるようになった。私には無理だった
兄と私は違うのだ。それなのに母と兄は私にも同じように立ち回ってほしかったらしく、できない私を責め続けた。
昔から私は泣き虫だったのだが、感情を出すのを悪いことだと捉えているかもしれなかった。
怒るときも悲しいときも泣いてしまうし、自分の気分が落ち込んでいるときは自分を責めていた。
母はそんな私に向かって泣けば済むと思っているとか、もう今じゃどんなことを言われたのかここに書けなくなってしまった。
そして悪い出来事が積み重なっていたときのある朝、玄関のドアノブに手をかけた時、開けられなかった。まだ1年生の夏休みすら過ごしたことがなかった
私が引きこもってる間に母はなにもしてくれなかった。普通は親とかが休学手続きなどをしてくれるだろうが、私の母はそんなことわかるはずがなかったのだ。
そして一切大学に連絡がいかない状態が続き、ある日家に届いた退学通知を見た時から、私はそれまでの自分が失くなったように感じたのを覚えている。
兄もたまに家に帰ってきていたが、私が何もしてくれなかった周りを責めたときから帰ってくることはなかった。
それからは半年か1年引きこもって半年アルバイトをするかしないかみたいな生活をしている。友達もいなくなってしまった。
引きこもりから脱せた時、低賃金でも収入を得てやり直そうとしている私を見て、母は応援してくれていた。正確には何も言ってこないようになっただけだったが。
仕事をするようになっても上手くいかないことが多かった。馴染めなかったり体力的にも向いてないのに無理やり働いて続かなかった。
まだ家から出れないときから、母は光熱費などの支払いを忘れることが多かった。口座引き落としにすればいいと思われるだろうが、母がそんな手続きできるわけがない
電気やガスが止まるとさすがに私も困るので、何も話し合いをせずに自然と私が家の支払いの一部を負担するようになったのだが、私の貯金はたまることがなかった。それよりも本当に忘れているんじゃないかと思うくらいだった。
さらに私からお金を借りていくことが多かった。ある時、私の貯金がたまらないことと支払いについて母に言ったことがあったのだが、今まで世話していた分やるのは当然で一緒に住んでいるのだから当たり前といった感じで喧嘩になった。
私はこの時点で支払いのことや諸々の家のお金にまつわることが嫌いになっていた。喧嘩をしたくないので母が忘れている支払いを全部していたのだ。
働けるようになったのだから私が負担することは自然な通りかもしれないとは思うが、先に進むためのことがなにもできなかった。
安定した収入を得る仕事をする必要があるのはわかっていたが、自信がなくなっていたのと自分はなにがしたいのか今でもよくわからない。
私は甘ったれなんだと思う
母とはいつも喧嘩しているように思える。昔と同じで家事をやらなかったりすると怒るのだ。
一緒に住んでいるならして当たり前だと思うだろうが、感情が爆発してから何かをやろうとするのが本当にできなくなってしまった。私自身もこういうことはできなくちゃいけないと思っているのに上手くできなくなってしまった。
私は母を話が通じない相手として見ている部分があるのでこの家には異常者しかいないんじゃないかと思うことがある。
1年前、心療内科に通うようになってそこで初めて私には精神疾患があることがわかった。処方された薬を服用するようになって母にそれを説明したのだが理解されなかった。
そして私自身ただ薬を服用してるだけで次に繋がっていかないことを自覚してしまって数ヶ月前から通院をやめた。
また半年前にアルバイトをやめてしまったので少しだけの貯金を切り崩しながら家の支払いをしていたが、もうその貯金もなくなってしまって今に至る。
よくある親エピソードなんだろうと書いてて思うが、日本語を理解できる親というのが私には羨ましかった。
私の母はコミュニケーションがとれるくらいには日本語が扱えるが、ひらがなとカタカナの一部を除いて日本語の読み書きができないのと難しい言葉などが全くわからない。
故に学校で勉強した自分の子供だけが頼りということだ。そしてそんな私がいつまでも家にいるから生活できているんだろうと思うことが何度もある。私の人生は母のためだったかもしれない
わかりやすく言うなら宗教的な考え方を持っていて、科学を話すことができない人だといえばいいのだろうか。言語さえまともに通じる相手ならここまで苦労しなかったのかなとか、こんなふうになることがなかったのかなとか気休めに考えてしまう
ほんとうはもっと筆舌に尽くし難いエピソードが多くあるのだが、書いていたらきりがないのでここで終わりにする。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
父が死んでちょうど一年になる。
この一年は家族と宗教について、父について考えざるを得なかった。
考え出すと、寝れなかったり不安定になることがあるので、節目に吐き出したい。
というのも、元首相の殺害や、菊池真理子氏の「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~ を読み、
私自身、宗教2世として記録と想いを書き残しておこうと思った次第である。
【創価学会と私】
私は幼少期に早い段階で、「あれ、家の家族は周りと違う」と気づき、
思春期には、親への反抗と同時に学会への不信感を募らせていった。
小学生の頃から月に何度か、知らない大人が集まる場所で連れていかれ勤行をしたり、
意味の分からないビデオを見せられたり。胸糞悪い記憶が残っている。
「新聞取ってもらえませんか」
と言いに来る。
”お母さん恥ずかしいからやめて”
田舎の小学生にとって、周りの友達との関係が崩れていく事がどれだけしんどかったことか。
普通の家ではないということを、表に出さず、隠しつつ、とはいえ田舎だったので周知の事実だったと思うが。
幸い友人に恵まれ、勉強も少しはできたので、いじめも無く、表向きは周りの子供と変わらない様に過ごせたと思う。
同じ中学から進学した同級生で親友になった子も、私の家族について良く知っていたが、一度も嫌な顔をせず私に付き合ってくれた。
なるべく親の世話にならず一人で生きていきたいという気持ちが学会のせいで強くなり、
部活をせずバイトをフルでいれて(貧乏というのもあったが)、奨学金とバイト代で授業料を支払っていた。
そしてここから成人して、就職、都会へ引っ越し、出来るだけ家族と離れることで、学会と距離を取ることができた。
【父と家族】
私の父は、生まれつき心臓の病を持っていた。学会とは関係無し。
忘れもしない小学低学年、夜中に居間が少し騒がしく、トイレに起きた私は母に慰められながら号泣する父を見た。
バブル崩壊後の不況の中、持病持ちの父は会社から要らない人間扱いされたらしい。
そこからの我が家は、どん底だったとのこと。父は病気のせいで再就職もままならない。
子供が4人(兄、姉、私、弟)。今思えば、生きて大人になっているだけで儲けもんではあるが、
母は強かった。
朝から晩まで、仕事を掛け持ちして皆を食べさせて、学会の活動も、勤行も欠かさずやっていた。
朝は清掃のアルバイトで、私が朝起きて登校するまで家にいることは稀で、
母が夜にアルバイトしていた工場の冷凍肉まんをチンして弟と食べて学校に行っていた。
昼間は保険の営業をしていたらしいが、学校に行っている間なので詳しくは知らない。
たまに学校から帰って家にいるときは、内職や家事の合間に勤行をしていた覚えがある。
父は弱かった。
私が幼い頃は絶対的な存在として、一家の主として君臨していた。
家族を養えなくなり、酒に溺れ徐々に精神的にも肉体的にも弱っていった。
私が思春期の時には、何度もぶつかり合った
「なぜ仕事をしない」
「酒をやめろ」
私は父が病気だと知っていてもなお、問い詰められずにいられなかった。
そのある夜に、父が紫色の顔で鼻血を垂れ流し、シャツを真っ赤にして救急車に運ばれた。
兄は優秀だったが。
私とは別の私立高校を特待生で通っていたが、すぐに不登校になり、ここから10年近く表に出なかった。
これは原因も私には分からない。ただ精神的に不安定な人間だった。やはり家庭が関係するのだろうか。
そしてその間、私と弟は良く兄と仲違いした。
姉は男を追って遠くへ消えていた。家族の中で私と弟はこの兄が大嫌いだった。
そして私が都会に出た数年後、弟から兄が創価学会に入信したと聞いた。
私は信条の自由だとその場は笑い飛ばしたが、笑い事ではなくなった。
「いつかお前にもわかる」
「幸せとは何か」
私は本当に何度も実家に帰りたくなくなったが、それでも会いたいという父や母の為に顔だけ出していた。
それだけで息子として顔を見せるくらいは何も苦痛ではなかったが。
【父の死】
そしてちょうど一年前、父が亡くなった。
数年前に心臓病とは別にガンを発症、末期になり3月から緩和ケアに入る。
コロナで面会が難しく、5月中旬になら会えるとのことで、連休をずらして規制予定だった矢先に。
墓も遠方の学会の墓に建てるそうだ。もう兄を止める者はいない、
【最後に】
私が見てきた限り、一度も勤行をしたこともない。
けれど父は、もっと言えば母も学会にのめりこんでいたが宗教というフィルターを通さず、
兄はそんな父をなぜそのような扱いにしたのだろう。
本当に父が思っていることを聞けなかったことを後悔しているのかもしれない。
私は宗教で苦しみました。
兄は宗教で救われました。
おそらく私は一生この問題と付き合わなければいけないとも思います。
あなたがそうしたように。
【】
吐き出したいことをだっーと書いていったら、ある程度言いたいこと言えたっぽいのですっきりしました。
明らかに「小さい男はいじめていい」というメッセージを発してるやん。
ああいうの見てクラスの男を「いじられ役」とかにして本人が不快なのを見ないふりしてみんなで笑ってるんしゃないの?
家族の父親をバカにしていいものと見て笑いものにしたりバカにしたりするようになるんじゃないの?
昔から男の性役割の一つに笑いものにされるってあるよね。笑われても強く生きよ!とかさ。現代においてもいまだにそれがそのまま、全然解消されてない。
亭主関白なんて昭和だって全体の何割よ。レアだから亭主関白なんて名前がついてんじゃないの?たいていは「カーチャンの尻に敷かれる笑いものにしていい男」だとされてきたんじゃないの?
「セクシーなネーちゃん」が出てくる百倍実害を伴っているんだけど、なんでそれを問題視しないのか意味がわからない。
男は辛さに鈍感だからバカにしていいみたいになってんの?「男さんのプライド大事にしてあけまちょうね〜」みたいなの、いや普通に尊厳を踏みつけといて本質的に男のお前の無駄なプライドが悪いみたいなのはなんなの?
あれ見て誰も何も言わないんだもの、ちゃんと「男女」の平等について語ろうよ。なんか偏ってない?アメリカが悪いの?アメリカ行って大統領になればいい?ちゃんと見てくれよ。俺は「女だから出世できない」とか試験の点数引かれるとかセクハラされるとか、そういうのは反対だよなくなれと思ってる。でもなんで性別の一方ばかりになるの?なんで政策に一方の性別しか書かれないの?おかしいと思うんだけど。
【追記】
朝起きて、俺の懺悔がこんなに伸びると思わなかった。せっかく長文書いたから、反応欲しいと思っていたので嬉しいけど。
悔しいし悲しいし不甲斐ないしで、自暴自棄になっててボロクソに言って貰いたくて書いたんだけど、優しいコメントも多くておじさん泣いちゃうよね。
2023…今
2019…嘘がバレる。彼女に怒られて、本気で転職を目指し始める。
2018…転職活動は少しだがしていた。思ったところが受からず、彼女に転職できたと嘘をつく。
2018年のあたりでちゃんと頑張れば…ということで、5年前というタイトルにした。
当時、彼女からは源泉徴収も見せてもらって、たしか400くらいだった。
俺…育休的な福利厚生なし(あるにはあるらしいが、女性でもとってる人いなかった)、残業少しある、320万円
彼女はまさに先日話題になった1500万円の人のような生活を夢見ていたんだと思う。
親が亭主関白で、母親に仕事はさせないという家だった。今の時代もあるし、自分もそこまでとは思っていないが、料理もできて家も綺麗な彼女には、今のホワイトな会社のまま仕事をしながら、家事を中心的にやって欲しかった。
そうなると当たり前だが、多少ブラックでも、自分が高年収の仕事に就く必要がある。父みたいな何もしないタイプにはなりたくなかったので、自分も家事育児は手伝うつもりでいた。
④祝福するつもりはないのか
正直今でも捨てられたという気持ちがどこかにあって、祝福はできない。
あり得ないと思いつつも離婚しないかなとか、戻ってこないかなと、彼女のTwitterをたまに鍵アカウントで見てしまう。
付き合ってた頃はよくゲームの事とか呟いたり、フォロワーと遊びに行ったりしていたのに、最近はたまに料理の写真くらいしか上げていない。
【本文】
今年、とうとうアラフォーと言われる年齢になり、5年前に努力しなかったことを、本気で後悔している。
独身。趣味はゲーム、YouTube(見る専)、テニス(最近はほとんどご無沙汰だが)
5年前に、人生で一番大好きだった彼女に別れを告げられた。5年付き合った彼女だった。
付き合って2年経ったあたりで、彼女はこれからのお互いの関係をどうしていくか、考えようと言ってきた。
正直言って、自分はまだ30前半だったし、結婚をするのにはまだ早いと思っていたし、挨拶とか結婚前の準備とかを面倒だと思っていた。真剣な話はできるだけ避けたかった。彼女も20代後半だし、焦りすぎだと話半分に聞いていた。
それから1年後、付き合って3年経ったあたりで、周りが結婚し始めたり、Twitterやまとめサイトでも結婚の話がよく上がるようになって、自分もそろそろ結婚を考えてみようかと思い、彼女に未来に向けた話をしたいと持ちかけた。
彼女は喜んでくれたが、暮らしていくためにはただ一緒にいて楽しいだけでは駄目で、価値観のすり合わせや、お金の話は避けられないと言う。
正直、自分は彼女に年収や職業の話はぼかしていた。でもどうしても彼女とこれからの人生を歩みたかったから、年収は320万円だと伝えると、彼女の顔が少しだけ曇った。まあでも、まだ30代前半だしこれから出世すれば変わるよね、と彼女はフォローしてくれたが、正直俺の会社で、俺の今の評価だと、50くらいしか上がらないだろうと言うと……その時の彼女の暗い顔は忘れられない。
彼女が言うには貴方が絶対に都心部に暮らしたいと主張するなら、その年収では厳しいと言う。自分は通勤は無駄な時間だと思うので、都心の会社まで30分圏内でなければ嫌だと前から主張していた。
もうこの時点で、彼女から馬鹿にされたような気がして、もう別れようかと思ったんだが、彼女を愛する気持ちが勝って別れられなかった。転職するから待って欲しいと言い、その日は話が終わった。
その後転職をしようと思ったが、今の会社は楽で、強い責任も必要ないので辞めたくなかった。そのままずるずると1年経ち、何も成果がないと彼女に呆れられてしまうのではないかと怖くなって、500万円の会社に勤めることになったと嘘をついてしまった。そして新しい会社に慣れるまで1年待って欲しいと言い、そのまま付き合い続けた。
1年経って、彼女がそろそろ結婚に向けて同棲をしたいと言い始めた。彼女の親にも挨拶に行き、同姓の許可をもらい、諸々の契約書関係を書こうとした段階で転職していないことがバレた。
同棲云々はその場で解消。本気で転職すると言い、別れたくないと主張し、彼女には毎月の進捗報告をしていたがコロナで転職に影が出始める。
心配する彼女を大丈夫だと宥め続けたが、とうとう別れを告げられた。
その後、元彼女はすぐに婚活を始めて半年程度で結婚してしまった。性格の悪い俺は彼女の婚活が失敗して、すぐに自分の元に戻ってきて欲しいと願っていた。でも自分のスペックには勿体無いくらいに素晴らしい彼女が失敗するはずないんだよな。若くて美人で話が面白くて料理もできて正社員で働いてて、周りも放っておくわけがない。
それから、元彼女を見返したくて始めた婚活も、何人かの女の子と一瞬だけ付き合ったり、映画に行ったり食事に行ったりしたけれど全く長続きしなかった。そして年収も案の定全く上がっていない。むしろ減った。
昨日、アラフォーの年齢に差し掛かって、ああもう俺は結婚できないんだなと、誰からも求められてないんだなと、急に悟ってしまった。
元彼女が何年も待ってくれている間に、あの時になんで俺は頑張れなかったんだろう。なんで何もせずに嘘をついてしまったんだろう。後悔しても遅い、遅すぎる。残りの人生を一人で生きて行かなければ行けないと悟ってしまい、勝てないゲームをやりながら一人で絶望している。悲しい。
元自衛官で肉体だけが取り柄、借りた畑での野良仕事が趣味だった親父。
古希を迎えてすぐ、膝を悪くしてろくに散歩もできなくなると一気に衰え、
帰省するたびにどんどんショボくれていき、筋肉など見る影もない枯れ木のようなジジイになっていく。
関節だけでなく度重なる飲酒と喫煙のダメージで内臓もボロボロらしく、
透析寸前で好きなものも食えないということで精神的にも弱っているようだ。
とはいえ、昔気質で亭主関白な親父、昭和生まれの元自衛官なんて、
今風に言えば「有害な男らしさ」を煮詰めたような環境でサバイブしてきた男だから、
かといってリハビリに精を出すわけでもなく、座して死を待つがごとく寝たきりに近い生活になっているらしい。
この間話した時は頭がまだはっきりしていたのが幸いだが、そんな生活を続けていればボケるのも時間の問題な気がする。
体がダメになるのが先か、頭がダメになるのが先か、いずれにしてもあと数年で今生の別れがやって来そうな予感がする。
そんな予感をヒシヒシと感じつつも、じゃあ生きてる間にたくさん親孝行だ、とはなかなか思えない自分がいる。
まだ小さい子供と、ウチの実家を敬遠している妻、安月給なのに忙しい仕事を抱えて、自分の生活を維持するので精一杯な部分も大きい。
しかし、それ以前に俺は父親のことを人間として知らなさすぎた。
それは父親自身の気質ゆえに、父親というロール以上の人間性を自分にあまり見せてこなかったというのもあるかもしれない。
あるいは、俺自身が父親に人間としての興味をそこまで持たずにここまで来てしまったからかもしれない。
母親曰く、父親は息子である俺にいい面だけを見せようとしていると。
俺には、借金だけはするなと言っていたのに。
でも俺は俺で、父親のいい面だけを見ていたかったのかもしれない。
母の苦労は想像するにありあまるが、それでも愚痴を聞きたくはなかった。
18で家を出て以来、実家に帰るのは多くて年に二度。酒を飲める年齢になっても、結局父と2人でゆっくり盃を交わしたことはなかったな。
どこかで腹を割り切れないというか、親父は親父、倅は倅、そういう立場を超えて本音を話したことがなかった。
今からでも遅くない、という思いもあるし、いや、このままでいいんだと思う自分もいる。
息子にいい面だけを見せようとしていたなら、いい面だけを思い出にして綺麗にお別れしたいと思う。母親には悪いが。
あと数年、年老いた母に父親の介護を押し付けて、老々介護を見て見ぬ振りして暮らすのは忍びないが、せめて役所手続きしたり保証人くらいはやるので勘弁してくれ。
父も母も、一人の人間としてみれば、毒親とは言わぬまでも問題の多い人たちだったと思う。正直友達にはなれなかっただろうな。
でもやっぱり自分も親になってみて、二人の子を育て上げたことのすごさは尊敬に値するし、感謝の念は抱いている。主に苦労したのは母親だと思うけど。
でもレールを敷こうとする過干渉気味の母親を制して、父が生きたいように生きることを支持してくれたことは心底ありがたかった。
そういうとこが母からしたらいいカッコしやがって的にムカつくポイントだったんだろうけど。
学生の頃、仕送り散々もらって、働き出したら返すなんて言って、結局全然返せなくてごめん。
大学まで行かせてもらって、好きなように生きて、結局大して稼げなくてごめん。
19歳から地元を離れて県外の大学に通っている。大学院に進学したため、一人暮らしは6年目を迎えた。
6年目にして、初めてホームシックになった。
小学生から不登校を繰り返して、高校も中退し、親との関係が安定してきたのはだいたい7〜8年前。
小学生の時からかなり自律神経がしっちゃかめっちゃかで、最近はプレッシャーを感じると何もできなくなってしまう。
11月にあった学外発表で無事に力尽きてしまい(発表前は60時間起きてた)、毎日18時間寝る生活になった。その後、修論に全く向き合えなくなり、バイトにも行けず、ゲームもできず、ただひたすらYouTubeと小説でやり過ごす日々。流石に指導教官から実家に連絡が行き、母親に帰ってこいと言われ実家に帰った。
私(長女)の経験を生かし、不登校に関するNPO法人を立ち上げたり、放送大学に通い心理学を学んだりと、母親が学び続けたおかげで関係が改善したと思っている。
そんな母のことは嫌いでない。好きだし、尊敬もする。
それでもこの歳になるまではとにかく家を出たくて、一人暮らしも楽しく満喫していた。
小学2年生から不登校だった。幼少期は引っ越し続きで、父は九州の田舎の亭主関白、母は全く周囲に頼れる大人がいない状況だった。その上、父は単身赴任(本社勤務とのことで家を買ったが、その後転勤が決まったらしい)。私と、弟たちを母1人で育てていくのは今思えば本当に大変なことだったと思う。
それでも、小学生の私にとっては、母が子育て等に不安を感じ続けている生活で不安を感じないわけがなく、学校で周囲と衝突し、家では激しい反抗期、とにかく攻撃によるストレス発散が多かった。
よく父に怒られて家の外に出されていたが、その時は泣きながらどうしたら死ねるだろうと、塀(といっても1m)から飛び降りるか迷っていた。飛びおりなかったが、人生で初めての自殺未遂は今でも鮮明に覚えている。
ご飯を食べなくていい、と父に子供部屋に閉じ込められたこともあった。内開きのドアの前に重たい家具を置かれて、ドアノブを紐で繋いで開かないようにされ、水も飲めないトイレも行けない状況で一晩を過ごしたこともある。
大喧嘩した時、私がダイニングテーブルをひっくり返して破壊したこともある。15万くらいするかっこいいデスクトップpcも壊したことがある。
流石にいいところも書いておく。
ピアノを小学1年生から始め、2年生の時には100万の中古のグランドピアノを買ってもらった(欲しいとは言ってないけど)。水泳やそろばんなど、習い事をたくさんさせてくれた。クリスマスや誕生日には欲しかったゲームをくれた。高校では50万の管楽器を買ってくれた。行きたいと言えば海外研修にも行かしてくれた。母は料理が上手(だと思っている)で、3食手作りしてくれたし、時にはお菓子も作ってくれた。裁縫もうまい。父も農家出身で未成年喫煙するような不良だったが、国立大学に行き20代で1000万プレイヤーだ。
やりたいことをやらせてくれる家庭だったと思う。
今は母も穏やかになり、自分のやりたいことを見つけて人生を楽しんでいる。父も亭主関白はなりをひそめ、週末は単身赴任先から帰ってきていろいろ料理をする。私が帰省するとリクエストを聞いてくれる。私がお金の心配をしなくてもいいのは絶対に父のおかげだ。
とにかく小学2年生から5年生までは攻撃的な子どもだったし、両親だった。家庭内の情緒が最悪であった。(1番の被害者は弟たちだと思っている)
私は部屋に閉じこもり、昼夜逆転生活を送り、どうしたら死ねるかを考え、なぜ生きているのか悩み、母が書いてくれた私の0ヶ月から1歳半までの育児日記を読んで母の愛を確認していた。こうして振り返るとかなり寂しい子どもだと思う。
中学生になってからは、かなり落ち着いたと思う。母が支援に繋がれたことが大きい。
そんな家庭で、形や中身は変わりながら高校まで過ごしていた。
大学はとにかく県外に出たかった。高校中退で学歴コンプレックスがあったし、弟たちがいるので国立しか視野になかった。将来の夢があり、養成の名門と呼ばれる大学を目指した。
5年半、ずっとホームシックになることはなかった。
一人暮らしは本当に楽しい。自分のペースで生活できること、家にいる限りだれも私のことを知りようがないことがよかった。今でもそう思う。
それでも、ホームシックになった。
実家から帰る日、予定があったのでどうしてもその日に帰らなければならなかった。帰ろうと朝起きて、起きた瞬間涙が止まらなかった。8時半くらいに起きたと思う。18時まで泣き続けた。結局予定はキャンセルした。
18時に、今帰らないとずっと帰れない、と覚悟を決めて帰る準備をした。泣きながら準備をした。
それを見ていた母に、抱きしめてもらった。頭を撫でられながら、がんばってるね、えらいねと褒めてもらった。頑張りすぎなくていい、いつでも応援してると慰めてもらった。
1、2分だったと思う。
そのあと、やっぱり泣きながら車を運転して帰った。
母が持たせてくれた沢山のご飯を食べながら生きている。ジップロックに書かれた母の文字を見ては泣いている。
修士論文にはまだ向き合えていない。
就職が決まっている。
なにもできない日々を過ごしている。