おお、偉大なる主よ
慰められることよりは 慰めることを
愛されるよりは 愛することを
わたしがもとめますように。
わたしたちは与えることの中で受け
許しの中で許され
私はキリスト教徒ではないけど、数年前から上記のことを心がけている。
でも難しい。それぞれの実践具合はこんな感じ。
●慰められることよりも慰めること
実践できてない。
一応、誰かに慰めてほしいとは思わないから、そこはできてる。
でも他人を慰めるのは苦手。ぐずった子供を慰めることは多いけど、
そういう意味じゃないよなぁ。
他人を慰めるには、共感や理解が必要だと思うけど、それって普段から仲良くしてないと無理だよね。
自分の周囲に慰めてほしいと思っている人を見かけない。。。つもりだけど、気付いてないだけかな?
明日から、自分の周りに慰めてほしそうな人がいないか注意してみよう。
(職場の他の人は、明らかに私よりメンタル強そうな人達ばっかりだけど)
これは比較的頑張ってる。
よくよく観察していれば、相手が間違った考えをしていても、その理由がわかるときがある。
例えば週刊誌に書いてることを真実だと思い込んでいたり、尊敬すべきでない人の言葉を鵜のみにしていたりとか、とか。
あとは、そもそも知識不足とか、そうなった背景の経緯にまで思い当たっていなかったり。
そーゆー勘違いについては、かなり許せるようになったと思う。
あ、でもネット上では理解できない人は多すぎるから、それは諦めてる。これは改善するつもりないかなぁ。
現実世界での知り合いを理解できるように、明日からもアンテナを張ろう。
意味不明な発言や行動も、きっとその人にとっては妥当な理由があると信じるようにするわ。
精神構造が近い人は理解できるけど、そうじゃない人が苦手なんだよなー
●愛されるよりは 愛すること
今、誰かに愛されないとは思ってないかも。
というかすでに十分愛されて育った実感がある。
じゃあ、誰かを愛するとはどういうことか。
前に本で読んだのは、「自己境界線を相手にまで広げる」だった気がする、
相手が痛いと思えば自分も痛い、嬉しいならうれしいみたいな感覚らしい。
正直、私は他人が痛いと思っていても、自分が痛いと思った経験はない。
基本的にリベラル寄りの個人主義だから、自己境界ははっきりしてるし、自分のことは自分でやれよと思ってる。
愛が足りないのだろう。
逆に、本や作品を愛することはあるかも。
好きな作品が攻撃されていると自分のことのように悲しいことはある。
ただ、悲しいかな、それと同じ程度に人を愛した経験はないなぁ。。。
自分にとって完璧な作品は存在するけど、それと同じ意味で完璧な人っていないから愛するの難しいわ。
どうしても損得勘定や、批評者の目で欠点を見つけてしまうと思う。
きっと愛するってのはそーゆーことじゃないんだろーなーとは思う。
愛なんて、本能に支配された人間の、脳内物質のジャンキー状態じゃないの?としか思ってないからなー
精進しよう。