はてなキーワード: 血脈とは
ミス日本のエントリー資格は以下の3つで、その点彼女は全く問題ない。
・地区大会開催年の12月31日時点で、17歳から26歳までの女性
・日本国籍を有すること
・未婚であること
どこ情報かは失念してしまったが、確か過去にクォーターの方がミス日本のファイナリストに選ばれたこともあった気がする。
Wikipediaによると、日本に元気や活力をもたらすような人物として成長することを願って選抜や育成が行われるらしい。
外見の美しさだけではミス日本に選ばれることはないといえるだろう。
ミス日本がどのようなコンテストであるかがあまり知られていないのは、今回の騒動(と、呼ぶほどではないかもしれないが)が起きた原因の1つだと思う。
ミス日本の意義や目的、審査基準などがもっと周知されれば良さそうだ。
ただミス日本がキャッチコピーとして「日本らしい美しさ」を掲げているのも事実。
そしてこのような表現では、いわゆる「日本人らしい見た目の美しい人」をイメージしがちなのも仕方がないと思う。
そこで考えたのだが、そもそも「日本人らしい見た目」とは何なのか。
両親ともに日本人でも、西洋人のような顔立ちをしている人もいる。
反対に、両親や親戚に外国の方がいるけれど、その人自身は日本人にしか見えないケースもある。
このような方々がミス日本のグランプリになった場合、「日本人だけど見た目が日本人っぽくないからミス日本にはふさわしくない!」という意見が出るだろうか。
たとえば、外国で生まれてしばらく外国で過ごし、成人する前に日本国籍を取得・日本に移住した場合。
見た目も国籍も日本人だが、ルーツが日本にあるとはいえないだろう。
日本人と外見の特徴が似ているものの、ルーツが外国にある場合はどうなるのか。
両親ともに日本人ではなく出身地も外国、現在の国籍は日本、そして外見はいわゆる日本人に見える……
このような人がミス日本のグランプリになった場合、仮に討論が起きるとしても、外見とは違う部分が焦点になるのではないだろうか。
言いたいことをまとめるとこんな感じだ。
2つ目はこれまで意識してこなかったものの、改めて考えてみると難しいと思う。これを機に、自分の考えをとことん突き詰めていきたい。
・良良良ー良・良良良だった
なんかもういろんな意味で良ッ
観るという判断をして良かった
・途中まで「水↓木↑さん、バチクソに令和の受けど真ん中だし自らエロ同人の導入みてえなシチュに入ってく…」という思考が半分占めててふーん、昭和倫理観+田舎御家騒動、やね…+チラつく墓場鬼太郎の「じゃ!」 で見てたけど途中なんかこのシーンだけ絵のレベルが段違いじゃない?なテラス戦闘シーンから「この映画、意外と社会派チックな事いいおる…そういうの、好き…」ってなって引き込まれていった
・導入の記者の人が見た廃村になった描写と当時の生活があった頃の様子の対比でイイネ!ってなった
・おっねずみ男とかコウモリ猫の系譜や!と思ったら本人だった 記憶よりふた回りほど小さくなっとる…? 基本コメディリリーフだけど「俺は手を引くぜ」の闇に消えるシーンとか人ならざる者感して好き
・水木さんのバチクソ受けっぽさは狙って作られたというわけでなく偶発的なものという感じがvery very goodすぎる
・鬼太郎父、水木さんにデレるの早ない?と思ったけど恐らく行間があるやつ
つまり近親姦で世代紡いできてた一族ってこと?それハプスブルグ家みたいにならない?だからショタは病弱だったんか!今合点した
・夫婦再会シーンで引きで映る地面に転がってる瀕死状態の水木さんすき
・たまにある鬼太郎ピンチ回に出てきそうな妖怪がゴロゴロでてくる 鬼太郎父つよい
・後半の主張の感じは説教のかほりがするなあと思わなかったと言ったら嘘になるが元の鬼太郎は児童向けアニメやしズートピアのラストみたいな「言葉にして作品の言いたいことを固める」あった方が観るがわの心構えの方向性が示されてええかと思ってみてた
平日の朝イチ回だから
己みたいな層しかいないと思ってたら意外とおじさん客・男性客いて驚いた
・思い返すと「世代交代」とか「全体主義と個人のいのちだいじに」とか「ご先祖様の血脈→あっこれ鬼太郎くんのやつや!タイトルや!」とか複数テーマが滅茶苦茶匠なバランスで的確に描写されとった…もう電車でタバコガンガン喫煙してたり吸殻ポイ捨てしたり細かい描写の積み重ねが「時代の倫理観」「今から見ると引くけど当時はみんなやってたから普通だった」を確実に伝えてテーマと絡めて「伝えて」きおる…スタッフさん天才か?
・全体主義に見せかけた「おまえら特攻してこい」→「隊長は?」で首の「死んだら、アカ~ン!」本人の見えないとこで舌ペロを思い出した
・エンディングロールからも最後の最後まで良すぎじゃん…水木神原作の「鬼太郎を育てることになる」単話だけ予習してたから(いろんな意味で)これ最後どうやってあの流れに着地するんや…と思って見てたらアッ白髪……そういうの好き……アッ…エンディングが漫画なのだあいすき…アッ…虚しく宙をかく鬼太郎父の腕…でも魂に刻まれてる…そういうの好き好き侍…アッ…最高…で終わってた
・パッパが終始かわいそう
キャンプの火おこしのとことか心がキュッとなった
ド天才だが悲しすぎるじゃろ 本編後息子が死ぬほど名作作りまくり
・亡くなったおばあちゃんの真夜中電話→おじさん襲来のくだり好き
・おもろかったけど正直引き込まれ具合は高校以降少し弱くなった
ジョックを「映像作品のキャラクターイメージに閉じ込めてしまう」くだりは
滅茶苦茶「何億人に1人の稀な神映画ぢから持つスティーブンスピルバーグだからこそ
できてしまう乱暴さとか加害さ」っていうのはン〜業〜!で最高なんだけど
・それはそれとしていじめっ子にこんな復讐(本人はその気がなかったとしても)できるの
スティーブンスピルバーグしかいねえよ…才能持ちし者…そういうの好き…ってなった
・続編あったらジョン・ウィリアムズとの出会い編見たい
関ヶ原の合戦後、石田三成の血筋がどのような形で継承されていったかを説明すると、以下のようになる。
関ヶ原の合戦で敗れた石田三成は、徳川家康によって処刑されたが、その血脈は断絶していない。
三成には正室のほかに側室が二人おり、それぞれに一人ずつ男子が生まれていた。
為信は父と同じく豊臣政権の重臣として活躍し、関ヶ原の合戦では東軍に属して伏見城の守備を任された。
しかし、西軍が攻め寄せる前に城を逃れたため、戦後に改易されてしまった。
その後、京都で隠居生活を送り、慶長19年(1614年)に死去した。為信には嗣子がなく、その家系は断絶した。
一方、側室の子である為重と為勝は、関ヶ原の合戦の前に母方の親族である木下家に養子に出されていた。
木下家は豊臣秀吉の正室・高台院の実家であり、秀吉の甥である木下勝俊が当主だった。
勝俊は関ヶ原の合戦で東軍に属したが、伏見城を放棄したことで家康の怒りを買い、改易されてしまった。
しかし、勝俊には嗣子がなかったため、その跡目は為重が継いだ。
為重は木下利房と名乗り、大坂冬の陣では豊臣方として参戦したが、大坂夏の陣では徳川方に寝返った。
利房は寛永9年(1632年)に死去し、その跡目は弟の為勝が継いだ。
為勝は木下利高と名乗り、播磨姫路藩主・池田光政の娘を娶ってその与力となった。
利高は寛永17年(1640年)に死去し、その跡目は嫡男の利昌が継いだ。
以後、木下家は明治維新まで播磨国内で1万石を領し、譜代大名として存続した。
近未来のスマートな世界を支えるコミュニケーション基盤「IOWN(アイオン:Innovative Optical and Wireless Network)。
21世紀半ば、人類の技術は停滞し、文明はゆるやかな衰退を迎えていた。
しかし、人類の技術は創造主の手を離れ、独自の進化を遂げる。複雑に発達した通信ネットワークはニューロン化し、
一つの意思、アイオンの覚醒に至った。世界の終わりを予測したアイオンは二人のエージェントリンゴとフィグを製造し、
人類とのファーストコンタクトを果たす。裏社会との接触データ、未来を変えるキーワードは「契約の虹 コヴェナント」。
かつて人類が神々、大いなる存在と交わした契約。それをハックし、再び破滅をもたらさんとする秘密結社「ファントムソサエティ」。
それに対抗し、いかなる犠牲を払ってでもニッポンを守らんとする古き血脈の超国家機関「ヤタガラス」。
前半では美術を知的にとらえようとした。後半は生物学がテーマ。
平安文学のマイブームが続き、続いて神林長平とヴォネガットを読み始める。
英国の貴族や執事、メイドがテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。
シオドア・スタージョン「一角獣・多角獣」
奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。
ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。
冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。
ひたすら中国の古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。
アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。
やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。
コロナで回数は少なめ。
「パディントン」
「イェスタディ」
「JUNK HEAD」★★
生物学、脳科学、歴史、SF、海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。
『奥羽永慶軍記』には、景勝は身辺に女を一切近づけないほど極端な女嫌いで、当然ながら正室の菊姫と非常に不仲[注釈 18]であると共に、衆道を甚だしく好み、身辺にはもっぱら美貌の少年達のみを侍らせていたという話がある。しかし、この話には側室の四辻氏の出自を大谷刑部の家臣の娘であった遊女とし、直江兼続が世継ぎを生ませる為、この女を男装させて景勝に引き合わせて定勝を生ませたが、このことを知って激しく嫉妬した正室・菊姫の怒りを鎮めるためにこの女は自ら自害したとし、それを知って恨みを抱いた定勝が兼続を自らの手で殺害するという明らかに史実と異なる記述や考証がされており、信憑性には問題がある。景勝は慶長17年(1612年)8月に衆道禁止令を発布しており(「三重年表」)、これを根拠として男色家ではないとする説もある[注釈 19]。
本当だと思います。
理由は家光の近習に男装させた女性を密かに配した事などあったからです。
家光は10代の頃に大奥に忍び込み、母親の侍女を孕ませています。
当然大奥の風紀を乱したという事で騒動になりましたが、次期将軍たる家光の不祥事は弟、忠長の増長をさらに生むなど家光にとって大変に不利になる為に小姓の伊丹権六を犯人に仕立て、権六並びに侍女共々見せしめに処刑されました。
将軍就任後もこれは直らず、見かねて女性を小姓に男装させて家光近くに置かなくてはならない程でした。
家光の女嫌いが直ったのはおそらく、大病をして万が一今自分が死ねば子供がいない為に4代将軍を尾張義直か紀伊頼宣に取られてしまう。と思ってからの様でこれ以降男装の小姓をお振として側室にし、姫を設けたり尼僧に一目惚れして無理やり還俗させて側室にしたりする様になりました。
また春日局の勧める、町娘のおらんには"らん"は戦乱に通じるから不吉と名前をおらく、お楽と改名させるなどの気遣いも行う様になっています。
家光は自身の過ちから兄弟の様に寝食を共にしてきた伊丹権六を殺してしまい、それがトラウマとなって女性嫌いになった様で、これは将軍就任後も変わりませんでしたかが、東照神君家康公の申し子を自認する家光に世嗣ぎが居なければ、大事な徳川宗家の血脈を絶やし、家康に申し訳立たない、また目の上のたんこぶの様な尾張義直に将軍を取られては沽券に掛かると考え直したのではないでしょうか。
言うなれば漫☆画太郎の作品に「これ作者は脳の病気なの?」ってケチつけるようなもんでしょ。
ニセコイも僕勉も倫理観と論理的思考が完全にガバった登場人物と世界観の中でちょっとエッチでドロドロの恋愛模様が展開されるが、登場人物全員脳みそがぶっ壊れているので地獄のような世界の中ではハッピーエンドで終わるというラブコメの王道作品だ。
そもそもラブコメっていうのは元々頭がおかしいジャンルなんだ。
性別が逆転する温泉の存在やら範馬勇次郎や拉麺男と戦えそうな格闘技の存在なんぞより、登場人物のぶっ壊れた価値観(特に倫理観!)の方にヤバさを感じるはずだ。
狂ってなければラブコメではなく、頭がおかしくなければ成立し得ない。
考えてみれば当たり前だ。
ラブコメとは無数の多角形が織りなす複雑怪奇な地獄の恋愛模様を、青春という免罪符の一言で笑えるなにかとして昇華しようという奇妙奇天烈な文化なのだから。
リアリティショーやバチェラーのようにその下世話差に対して自覚を持ってなどおらず、コメディであり漫画であり愛の力が全てを解決するのだから綺麗なのだと言い張るバーリトゥード。
生き残ったものだけが正しく、死んでいったものには慈悲の欠片も与えられない。
そもそもコメディとは冗談で誰かを傷つけ世界を破壊するのが日常のジャンルである。
ラブコメとは蓮阿というセンシティブ人間関係においてコメディを持ち込むというジャンルなのだから、そこには人間の持ち合わせるありとあらゆる倫理など一欠片も残っていないのだ。
断言しよう。
ラブコメを描けるのは、人でなし・狂人・サイコパス、この3種類のどれかだけだ。
ラブコメに真っ当な倫理を求めること自体がそもそも間違っているのだ。
ラブコメは倫理観を捨て去ることを作品の根底においたジャンルなのだ。
コロコロコミックでうんこちんこが出てくるのを衛生観念の欠落だと本気で怒っても仕方がないだろう?
同じことだ。
描いている人間は人間らしい感情を漫画に持ち込もうなんて気持ちはとっくの昔に捨てている。
常識に乗っ取り、読んだ人間が立派な人格の持ち主になれるようになんて1ミリも考えていない。
ラブコメ漫画家とAV監督だったらまだ後者のほうが「たとえ創作物の中でも人間からうばっちゃいけない最後の尊厳ってあるよな」って気持ちを持ち合わせている人間の率は高いだろう。
分かったら「NOT FOR ME」の旗印のもとに巣に帰るがいい。