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2020-09-28

koki性格おもしれー

キリっとしている印象のkokiさんですが、どうやら言葉遣いが悪いことが文春オンラインで報じられてしまいました。

娘の世話に熱心だった工藤静香さんは二人に毎日オーガニック志向のお弁当を持たせていたそうですが、どうしても残してしまうことがあったようです。

学校の昼食はお弁当制だったので、毎日静香さんはオーガニック志向手作り弁当を2人に持たせていました。いつも2人は『今日も美味しかったよ。ありがとう』と言って空になったお弁当箱を静香さんに渡していたそうですが、少し残してしまうこともあった。妹さんは学校で残したおかずを捨てて空のお弁当箱を持って帰るのですが、心美さんは静香さんに残したことを正直に打ち明けてしまます。怒られる心美さんを見て、光希(Kōki,の本名)さんは『ドンくせー』とからかうこともあったようです」

『文春オンライン』より

cocomiさんは残してしまたことを正直に打ち明けていましたが、うまく隠せない姉に対しての言葉が「ドンくせー」とはボーイッシュ発言ですね。

また姉妹が特技としているフルートコンクールの一幕も・・・

コンクールだと1位の子名前最後に呼ばれるのですが、心美さんの名前がそれよりも前に呼ばれた時は、『マジかよ! 信じられねえ!!』と会場の後ろから静香さんの声が聞こえてきました。隣で妹さんも『何考えているんだよ、先生審査員がみんな悪い!!』と同調していた。人の親としては気持ちもわかりますが、そこまで言わなくても……」(コンサート関係者

『文春オンライン』より

工藤静香さんはcocomiさんを想うあまりに出てしまった言葉なのかもしれませんが、母親と一緒にいる時間が長いkokiさんにも言葉遣いうつってしまっているのかもしれませんね💦

そして中学生最後コンクールでは入賞まりだったことに激昂し・・・

妹の光希ちゃんも同じように入賞まりで、光希ちゃん入賞賞状を2つに破いて『もう二度と(コンクールには)でねえ!』と激昂。コンクール後に審査員先生がみんなの前で1曲吹いてくれたときも『ヘッタクソ!』と怒っていたと聞きました。光希ちゃんは翌年のコンクールにはもう出場しませんでした。

『文春オンライン』より

芯の強さを持っているkokiさんからすると、自分努力してきたことが認められなかったようで悔しかったのかもしれませんね。

どれもびっくりするような言葉遣いばかりですが、まだkokiさん本人が子どもだったこからついつい出てしまったものとも考えられます

今はメディアSNSでの登場も多くりっぱな有名人の一人なので、言葉遣いは改めているものと考えられますね。

koki性格の強さは工藤静香そっくり言葉遣いが悪くて唖然のまとめ

今回はkokiさんの性格について調査してみました!

kokiさんは「性格が強い」と言われているようですが、それは「芯の強さ」があるということで、母親である工藤静香さんの性格を受け継いだようです。

「芯の強さ」が強すぎて「性格が悪い」と言われてしまうこともあるようですが、芸能界のような場所活動するにはある意味必要なのかもしれませんね💦

もっと若い頃は言葉遣いが荒っぽくボーイッシュだったことが判明しましたが、こちらは現在は直っているのかと思われます

kokiさんは、これからも強い女性として活躍してくれることでしょう!

それでは今回も最後までお読みいただきありがとうございました☺

2020-09-20

anond:20200919212619

少し違う話かもしれないが、私は学会表彰式に呼ばれるはずなのがコロナオンラインになりました。

賞状トロフィーが郵送で届きましたがありがたみがありません。

みんなのいる前で送られるからこそ意味があって、

家に郵送で届くトロフィーダサい鈍器以外の何物でもありません。

学会の場ならではの箔というか、気持ちの高まりはあるのだろうなと思います

2020-08-30

読書できなくなった

から読書が大好きで、絵本児童書ラノベ小説と年齢によって読むものは変わるものの、学校休み時間には本を開き、夏休みなんかは1〜2日で1冊読破するペースで読書をしていた。小学校の時の「読書の記録カード」みたいなやつは、50冊で1枚埋まるのを年間で3枚とか埋めて賞状を貰うくらいだった。

が、ここ3年くらい、1冊も本を読んでいない。読書をまったく楽しめない。

本を手で持って、小さい文字を追いかけるのがどうにも億劫になってしまった。

たまーに「やっぱり本読みたいな」と思って、本棚からお気に入りを引っ張り出してきたり、本屋で目に留まったのを買ってきたりして読むのだが、本の数ページ読んだだけで疲れてしまって、飽きる。漫画もそうで、好きな作品をまたイチから読み返そうと思っても、なんか疲れてしまって途中でやめてしまう。

私が思うに、なにか知りたいことがあったらスマホ検索して、どうでもいい情報広告飛ばして知りたいところだけ読む、というような頭の使い方ばかりするようになったから、文学的表現や情景の描写が挟まるのがまどろっこしく感じるようになってしまったんだろう。

ミステリー小説なら、登場人物達にどのような関わりがあるのか?犯人はどうして犯行に及んだのか?どのような方法被害者殺害したのか?場所は?道具は?時間は?…というのを、読み進めながら推理して楽しむものなんだろうが、私は「○○が△△を殺した」という事実だけを知りたいと思うようになってしまっているのではないかと思っている。

楽しめないのに無理に本を読むのはただ時間無駄にするだけなので、別に読みたくない時に進んで本を読もうとはしていないが、本がそこにあるのに開くこともしないのは結構寂しいな、と思う。

2020-08-15

8月15日に記しておきたい怖い祖父の話

大正まれ祖父は、坊主頭メガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子であるから聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。

対照的祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。

祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父遺影インテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真遺影の人でしかなかった。

そんな祖父遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父政府が贈ったものだ。戦後日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。

去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父戦後抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎山中にある村で、家業農家という典型的な家だった。時代時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。

その頃から興味が沸いていたんだと思う。

遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。

私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日実家終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。

兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要ものは、対象者が故人の場合申請者との繋がりがわかるための除籍謄本戸籍謄本といった、役所簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。

まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言事実のみであるのだから

待望の兵籍簿は一か月かからずに送られてきた。

当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。

読み解いてまず驚いたのが、祖父1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州国境警備をしていたらしい。大きな作戦戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。

次に驚いたのは1944年2月祖父除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父満州終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父人生はガラリと色を変えた。

千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。

千島列島といえば、日本降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。

お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島ソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前漠然としているだけで、よくわかっていなかった。

どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。

祖父のいた部隊結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。

得撫島はもとより、千島列島自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空から米軍攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれ沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。

得撫島ラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずはいられない。

兵籍簿には、祖父召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。

昭和20年

8月15日終戦

9月29日ソ連により武装解除

10月19日ソ連により得撫島出発

10月24日ソ連ポートワニー上陸以降土工作業従事

昭和23年

7月22日舞鶴上陸

古ぼけた紙は語っていた。戦争8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ祖父戦後も長らく闘い続けていた。自分血縁である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父存在への深みが増した。

シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。

祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。

ここでは政治的な話はしない。

兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父存在がぐんと近づいた。存在のものを実感した。祖父ちゃんと生きていた。過酷時代を生き抜いた。ドラマ映画主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和世界ツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。

兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。

仏間へ行き、再び祖父遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影漠然とした無機質なものではなく、凄惨時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。

2020-05-10

おじいさん

太平洋戦争満州に行ってたという私のおじいさん。

今はもう死んでしまったんだけど、戦争についてどう思っているのか、戦時下に何を思っていたのか、その時のことを今どう思うのか、知りたかった。

小渕さんから賞状をもらって部屋に飾ってあった。

拳銃を持った兵隊さんの絵が飾ってあった。(おじいさんは強い兵隊だと思っていたら、少し前におじいさんの弟におじいさんは満州で馬の世話をしていたと聞いてすこしがっかりした)

結局聞けなかった。というか死んでからそれが気になった。

もし、もう少しうまくやってたら今の日本はだいぶ違ったんだろうなあと思う。

もっとましになってたかもしれないし、もっとひどくなってたかもしれない。

今、新型コロナ非常事態において、自分は凄く無力だ。

非常事態と言われる状況下に置かれて、少しわかった気がする。

僕は今は非常事態だとは思っていないが、日本非常事態というのはこういうものだ、というのがわかった。

やっとわかった。

2020-03-18

役所電話したら「表彰式で今人がいない」と言われた

は?

ふざけんなよ。

俺たちの税金はお前らを身内で讃え合わせるために払われてるわけじゃねえぞ?

こう言うこと言うと「でも、それが市長クラス仕事から〜」とか言い出すトンチンカンがいるけどよお、俺が聞いた内容が正しければ単に公務員同士が公務員同士で褒めあってるだけで町内会すら参加してねえらしいぞ。

まり、ソイツらは俺たちが税金で雇ってやってる時間に「身内が身内に褒められるためのイベントに身内を駆り出して、そのあい仕事を止めていた」んだぜ?

許せるかよ。

許せねえよなあ?

アホかよ。


「ははー市長から賞状を頂けて感涙の極みーー」

「おお、なんと羨ましい」

「そちたち、誠の忠臣よの。これからも励むが良いぞ」

市長敬礼!」

「ビシッ!」

「ほほほ、そちたちこそ公僕の鏡であるぞ」

とかやってる間によお、公共事業の調整は遅れるんた。

それで余計な税金がかかったら、それは民間人が払うんだぜ?

市民が不便を被る時間が伸びても、お役所は「メンゴメンゴ(うっせーなー)」で済むんだぜ?

マジで糞だよなあ。

許せねえよ。

2020-01-22

anond:20200122211839

いろんな記録や賞状もとるから

でもちがうんや

ひつようなものは、糖分が多いという意味でのアルコール飲料

そんな感じや

死にたいとおもうきもちをけしてくれるもの

こうはなるな。事故が起きる要因はすこしづつでもつぶしてる。

でもな、それをやったら事故が起きるというのことほど復活させたいやつはいっぱいいるや。

2019-12-21

名前を間違えられる

私の場合部首が同じ別の漢字に間違えられるか、同じ漢字でも丶が余分に付いていたり細々間違われる。

全校集会で別の名前を読み上げられ、別の名前が書かれた賞状を受け取ったり何かと悲しい思いをする。

DMも間違えているのが多い。

そこまで変な名前でもないのに、同じ部首の違う名前メジャー過ぎるばかりに。

2019-08-20

お母さん、ぼく初めて賞状もらったよ

脱水しょうじょう

2019-08-12

anond:20190808183457

校長室入ったことない奴っているのか?持ち回りで掃除当番回ってこないか掃除がない私立にしても、校長室で叱られたり、賞状受け取ったり、記念写真撮ったりで全校生徒一度は足を踏み入れるとは思うんやが。

2019-07-14

大嫌いな父親が亡くなった

父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。

私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。

例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。

父親典型的クレーマーでもあった。理髪店自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。

そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。

小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まり旅行など、温泉に一度行ったきりだ。

今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。

子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。

私には兄がいる。私とは違い、高校大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。

そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。

そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。

私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。

社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。

その頃父との関係冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶からであり、家ではとても口が悪く我儘だった。

父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。

家を出てからほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。

その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから

今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。

退職から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。

それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。

担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。

モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。

私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。

寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。

父はその後、壮絶な苦しみからようやく解放された。

から電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。

父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。

それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯タブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。

今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。

葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。

きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。

生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。

今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。

この複雑で纏まらない気持ちを、ここに書き捨てていく。

2019-07-09

税金貰ってる奴らが「儀式」をやるの禁止して欲しい

俺たちが何に金を払っているのか分からなくて気が狂いそうになる。

朝の庁舎国旗に向かって並ぶ禿頭、その輝きを守るために俺たちの税金が使われているんだぞ?

想像しろ

俺は闇のジョンレノンだ。

想像しろ

ある昼下がり、会議室に詰め込まれた公僕共、誰それが頑張りましたと賞状渡すその静寂に俺たちの血税が捨てられていく。

想像しろ

お前は地獄オノ・ヨーコ

想像しろ

2019-06-24

闇迫すぎてワロタ

責められるのはオレオレ詐欺集団のほうであって芸人はなにも悪くないでしょ

謹慎処分て厳しすぎる

誰がこんなに芸人に対して怒ってるんですか

まああれだけの舞台が用意されててよくもカラオケの帰りに寄っただけとか大嘘つけたもんだわ

厚顔無恥すぎる

反社からカネ貰ってんのに、謹慎が最終処分

営業やらない方が損やな

でも謹慎中は闇営業で稼ぐしかないじゃん?

あっ 謹慎中はむしろ営業

吉本芸人ナマポ不正受給ときも思ったけど、あの会社しろ推奨してんだろ

だいたい興業ってついてるからやくざ暴力団絡みだろ?

詐欺で上位は表彰されて、亮が賞状渡しているじゃないか

最初から口裏合わせてたんだな

汚い奴らだよ

これ脱税だよね

今までこんなん見逃してたとか

税務署も甘っちょろいのぅ

ギャラ貰ってない

→実は貰ってた

反社会的勢力とは知らなかった

→どうして信じられるのか

反社から金貰っていながら嘘ついて謹慎程度の処分とか会社ぐるみなんかよ?

反社会的勢力からカネ貰ってんのにクビじゃないとか

コンプライアンス遵守体制どうなってんの?って話だよな

2019-04-21

食品企業職人世界

まず大きな組織になると長く場に勤めた人が実権を握り権力をかざすイメージがあった。昨晩、Aさんという職人に会う機会があったので飲みに誘ったついでに聞いてみた。

だが意外回答、新参や部外から怒られる(?)事もしばしばあるらしい。Aさんも権力もあり班の仕事を仕切る立場であり社長にも発言力もあり賞状も得ている。

言っちゃ悪いけどヤクザの組員みたいな顔つきで、その班を完全に支配している風貌だった。

最初は酔っているのかと思ってだが派閥争いやら臭い話が匂ったのでそれ以外聞くのはやめた。相手暴力団だろうとキレて胸ぐら掴んで叱咤激励する謎のパワーが『働く』という行為に発生するらしい。(正直わからん

まあ会社職人界によって異なるが経験や実績で権力や実権が握れない可能性もあり正攻法正論じみて仕事しても、よくわからんから滅茶苦茶に怒られることも多いのだ。色々と記事をまとめている途中だが本当に働くのは難しい…

2018-10-17

部活で優勝できなかったら顧問賞状を破ったという記事

朝日新聞が伝えてるけど、

http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY200807210149.html

賞状を破ったのを美談みたいに伝えてる朝日にも責任の一端があるのでは。

2018-07-30

息子との2人旅行が楽しみで仕方ない

来週から中2の息子と私の2人で父子のふたり旅に行くことになった。

去年の夏の終わり頃に私が思いつき、ついに実現の日が近づいてきた。

初日は、関西から山形まで深夜バスで一気に移動。

そこから青春18きっぷを使い、のんびりと移動しながらこちらへ戻ってくる計画

移動時間がどうしても多くなってしまうので、なにか新しい3DSゲームを買っていくことを息子と相談し、昨年リリースされたがまだ手付かずになっているドラクエXIをやることになった。息子がドラクエをやっている時間は息子のオススメゲームを借りてやってみることにしよう。

秋田では10年以上ぶりに会う知人と昼食をし(息子とは初対面なので会わせるのも楽しみだ)、岩手ではわんこそば蕎麦が大好きな息子のリクエスト)と中尊寺寺社仏閣好きの息子にこれは見せねばなるまい)、東京ではVRゾーンゾーマを退治すること(私は戦士をやりたいが息子に譲ることになりそうだ)、あとは宿泊地くらいしか決まっていない。

息子は「一度カプセルホテルに泊まってみたい」と言っていたので東京ではカプセルホテルを予約した。

帰ってくる頃にはクタクタになってそうだけど、息子は来年受験で忙しいだろうし、今年の夏を全力で楽しむことにした。

息子が大人になって夏休みの思い出を思い出すとき、その1つにしてもらえるような旅行にしたいと思う。

追記

中2の息子とどんすればそんな関係になれるんだってコメントをいただいたので、自分なりに今までの子育てを振り返ってみました。どんな子供に対してもそれが有効だとは思わないし、子どもによっては逆効果になることもあると思いますが、私は以下のようなことを心がけながら子育てをしてきました。

子どもに対する愛情表現は大げさなくらいしっかり伝える。

私は毎晩眠る前に息子も娘もハグする時間を確保するようにしてます。その時に「今日も◯◯(子ども名前)に会えてよかったわぁ。嬉しいなぁ。また明日も元気に会おうな」と言ってからおやすみ」を言うようにしてます毎日会えるなんて最高に幸せなことじゃないですか。これをちゃんと伝えないともったいない。「うちに生まれてきてくれてありがとう。隣の家に生まれてこなくてよかった!」って言ってよく笑いあってます

子どもの話しをしっかり聞く。

仕事から帰って子どもがまだ起きていたらその日のうちに、眠っていたら翌朝などにはよく聞くようにしてます。「最近学校どう?」「何か困ってることない?」「何か困ったことあったらすぐに言ってや。何があってもお父さんとお母さんはお前の味方やからな」と言うのを何回も伝えるようにしてます

子ども感情に寄り添う。

悲しいことや悔しいことがあったら一緒に悲しんだり悔しがったりするようにしてます。でもそのな中から本人が気づいていない前向きになれるポイントや、違う視点で考えれば見えてくる別の考えなども、気持ちが落ち着きつつある時に伝えて心の重りを少しでも軽くできるようにしています

たくさん褒めて一緒に喜べることは全力で喜ぶ。

マラソン大会で学年10位以内に入る!」と目標を立てて練習に取り組んでいた子どもが惜しくもその目標に届かない結果だった時も、まずは子どもに寄り添って悔しいね、とは言いますが私としては最後まで元気に走りきれたことだけでも万々歳なので、「でも途中でリタイアもせずに最後まで走り切れたのが最高に嬉しいよ。目標に向かって頑張ってたのはちゃんとわかってるから無駄じゃない。何の努力もせずに1位を取っちゃうより、10位に入れなかったとしてもそこに向かって努力したことの方がお父さんは嬉しいって思うよ」って本人がわかる言葉、ペースで伝えるようにしてます。また、漢検など学年のレベルからしたら取れてしかるべき級のものであっても取れたら全力で喜びますハイタッチしてハグして「よくやったなー!すごいやん!」って言って写真を撮っておじいちゃんおばあちゃんたちに即送信。みんなからおめでとうを言ってもらえるようにしてます賞状を飾って何回も嬉しいなぁ、嬉しいなぁって言ってます子どもはそんな私の姿を見て誇らしい顔をしてくれます

「ありがとう」をたくさん伝える。

「パパー、コーラ飲むー?」と息子はよくコーラペットボトル冷蔵庫から取り出し、グラスを片手に来てくれます(私は下戸コーラが大好きです)。そう言われても喉が乾いていなくて、いらないときでも「いや、今はいいわ。でもありがとう」と、何かにつけて「ありがとう」と言ってます子どもたちもそれに慣れて「ありがとう」と言うことに照れなどの感情はなく、小さなことでもお互いに「ありがとう」を言い合える関係になりました。私の父のお見舞いに行ったときにも「おじいちゃん回復の一番の薬は君たちの笑顔だよ、一緒にお見舞いに行ってくれてありがとう」、一緒に近くの公園に出かけた時も「一緒に公園行ってくれてありがとう。たのしかった〜」って事あるごとに「ありがとう」を伝えています

してはいけないこと、気をつけないといけないことは前もって伝える。

騒ぐのが好ましくない場所にどうしても子どもも連れていかなければならない場合もあります。そのような時は家を出る前など、落ち着いた時間に前もって伝えるようにしてます。「今日電車に乗るからね。お仕事に行く人もたくさん乗ってるから大きな声で話したり走り回ったりしたらあかんよ。」とか、「今日はお父さんがお世話になってる人に一緒に会うからね。会ったらちゃん挨拶せなあかんよ?」というように言うようにしてます電車に乗ってテンション上がってからだと伝わらなかったりするので、家を出る前、そろそろ電車に乗る前などに段階的に伝えてます。もしちゃん約束を守れたら全力で褒めます。「電車の中でちゃん大人しく乗れたやん!やるやん!めっちゃ助かった、ありがとう!」って言うようにしてます



他にもあるような気もしますが、上記のような感じです。私はもともと子どもと遊ぶのが好きなタイプ人間なので、割と子ども普通に遊ぶ中で、人生において好ましいこと、好ましくないことを少しずつ伝えることができたように思います

子どもと遊ぶのが好きかそうでないか、など子どもに対する考え方は人それぞれですから参考にならないことも多いかもしれませんが、うちの場合上記のような感じで子育てをしてます

(嬉しいことも困ったことも)想定外のことしか起こらなくて毎日楽しい

2018-07-19

子供を産んだって良い(追記

産んでも負担が一切無く、多少優遇されるならね。

子供の面倒は国が見ること(女は一切金を払わない)

妊娠から出産に関わる費用は国が負担すること

一定期間、一定額の資金提供すること(子供を産む前の環境に戻るまで、一定給付保証

・産んだ人数によって、給付額が変わる

・5人産めば賞状をもらうことが出来、買い物が少し安くなる

別に産まないとは言ってない。

「今産んでも何もメリットが無い」ってだけ。

自分時間は一切なくなるだろうし、趣味だって何もできなくなるし

色々と制限されまくりの「自分人生」を生きるのは辛い。何かメリットが無いと。

2018-05-26

オタクグッズの保管で最近知った知見

2018-03-25

anond:20180325155227

しろペン1本という極小サイズで済んでる事に感謝すべきでは?

盾とかトロフィーとか額に入った賞状とかよりマシじゃないですか

2018-02-26

anond:20180226062543

この問題はすでに決着がついている。と理解している。

結論から言えば、「令」の字の下は「ア」「マ」どちらでもよい。

両者は同じ字だ。

「令」は、活字では「ア」のようになるが、

手書きでは「マ」と書く。

もともと手書き「マ」だったのだが、

活字「ア」を目にすることが増えたため、

「ア」(だけ)が正しいと思って(誤解して)いる人が多い、

というのが現状。

従って手書きでは「マ」と書いて当然。それが本来正しい。

それを「ア」と直す役所おかしい。

もちろん「活字では「ア」になっちゃうけど、同じ字ですから

同じ字なんですよ。ご了承くださいね」というならわかる。

手書きで「ア」と書いている人は本来おかしい。

「ア」は活字のための字形から

でも別に間違いではない。趣味問題。そう書きたいなら書けばよい。

ただ、手書き「ア」派の人が、賞状とかの手書き名前

「「マ」は間違い」と言い出すと面倒。

戸籍は「ア」になってる」とか言い出す。

今の戸籍活字なので、確かに戸籍は「ア」になっている。

だが、手書きで「ア」と書くのは間違いではないし、本来「ア」が正しい。

まあ、当人が言うんだから、と筆耕の先生手書きで「ア」と書くことになる。

それで間違いではないし。

ただ、そうこだわる時点で「ア」「マ」を別字だと思ってるわけで

その人は誤解をしている。

わかった上で「ウチの字は「ア/マ」だ」と言っているならいいんだけど。

●参考

常用漢字表字体字形に関する指針(報告)」(文化審議会国語分科会)の概要

http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2017/08/10/2016022902_besshi01.pdf

上記文化庁の報告だけど、

ずっと前に文科省から漢字指導について通達が出ているはず。

間違いがあったら指摘よろしく。

2018-01-28

anond:20180128103254

女に限らず人助けなどしても良いことは何もない

医者自衛隊みたいな権力者がやった場合にお礼と言って賄賂を渡してコネを作りたい人がいるだけで

人畜無害庶民が誰かを助けても交番賞状どころか当人からのお礼の言葉すらない

何か人にやってもらった時にお礼を言わないといけない文化日本にない

何かしてもらった時はそれは自分相手から見て立場が上で相手自分ビビって忖度して勝手にやったんだ

2018-01-07

やっぱちゃんとしてないとダメなんだよね。

おじさんになって一番思うのは、やっぱしちゃんとしてないと言いたいことを言えないんだってこと。

例えばさ、こんな口語体うんこみたいな知識を書くとするじゃん?

でもさ、昔のどっかのお偉いさんが四文字熟語とかでさ、古典とかひっぱってきてさ、

かっこよく賢そうに達筆で額なんかにして飾ってたとかだったらさ、

座右の銘だーとかいってたらさ、なんかすげえ良いこと言ったみたいにかっこいいじゃん?

でもさ、「やっぱしちゃんとしてないと言いたいことを言えないんだよー」って

酒金女に溺れたおっちゃんが夕刊フジを読みながらワンカップひっかけつつ増田書いてもさ、

そこまで感動しないじゃん。

あとさ、黒塗りの怖そうな車に乗ってる粗暴そうなオジサマが「この代金おかしいやんけ」っていうのと

よれよれの長袖ポロシャツインしてる松方弘樹メガネのオジサマが「この代金おかしいやんけ」っというのとさ、

求める力が違いすぎるでしょ。

説得力に差がありまくるでしょ。

それって結局のところ偏見なわけよ。先入観っつうかさ。

あるのよねえ。

 

理想を持って希望に満ち溢れて社会を良くしていこうって、変えていこうってさ、”先入観をなくそう”とかね。

夢膨らんでる若者はさ、輝いてるよね。素晴らしい。

でもね、やっぱしいろんな意味でちゃんとしてないと、伝えたいことって聞いてもらえないのよ。

ちゃんとするってね、社会マナーを守るってことね。

マナーってのは、村のオキテってやつ。不文律の。

おじさんたちはね、そのオキテに逆らう恐怖を知ってるの。

みんな守りたいものがあるからね。ちっぽけなものかもしれないけど、それぞれが守る価値があると信じてるものね。

たか必死にオキテを守るし、守らない人から自分たちを守ろうとするんだ。

それって悪いことじゃなくない?みんなそうするのは利益があるからだしね。

自分を守ることの善悪めんどいから置いとくか。ここで大事なことはオキテ、逆らう、良くない。

 

まあ、だから、オキテやぶりをするなら、それなりにちゃんとしてないといけない。

ちゃんとするには、おおざっぱに言って2種類あって、難しい方法と、簡単方法がある。

難しい方から説明すると、みんなの「ちゃんとしたい」とか「守りたい」って気持ち

全部まるっとうまくすくい上げること。あんたらに悪いことしませんよーって納得してもらうこと。

これめっちゃ難しいけど、うまくいくとめっちゃ気持ちいから。いいよ。

簡単な方はね、これズルいんだけどね、脅かすの。嫌なことするぞーって。

もちろん最初から全部この方法を使うわけじゃなくて、こっちの方では嫌なこと我慢するから

あんたらはここで我慢してくれよ、みたいなね、別にこっち嫌なこと我慢するわけじゃないのに

嘘ついたりごまかしたりしてね、いじわるするの。そうするとね、お願い聞いてもらえるのよ。

後味悪いよさすがに。そりゃ酒飲むよね。歌っちゃったりするよね。

でも、話を聞いてもらうにはちゃんとするしかないんだよね。

難しい方法ばっかりしてたら体壊したり無理しちゃったりするんだよ。早死にしたりね。

から簡単方法もした方がいいのよ。

 

でもね、難しい方法をね、少しずつだけど簡単にしていくこともできるんだよ。

それはね、肩書とか、賞状とか、そういうやつをいっぱい持つこと。

そういう「ちゃんとした」ワッペンがついてるとね、いろいろ聞いてもらえるんだよ。

東大卒、とかもそうだし、征夷大将軍、とか、代表取締役共同COO、とか、フォロワー数4.8M、とか、

読モ?とかもだし、いろんな意味のワッペンがたくさんあるんだ。

分かる人にしかからないワッペンもあるしね。バイターモリモリ不死マラソンスプーン余裕でした><とかね。

からワッペンたくさん持ってる方がいいよ。ちゃんとしたやつ。ちゃんとしてる風でもいいよ。

ちゃんとしてる風なワッペン付けてると、ラジオ番組持ったり政権に入り込んだりできるよ。

余談だけど、自分らしく生きたいとか思ってるなら、自分と大切な人にだけ通じるワッペンを付ければいいよ。

生体エロウィキペディアでもいいし、セクシーソムリエでもいいし、

ちゃんとしたやつじゃなくていいよ。てきとーで。

そんで周りの友達がそのワッペン気に入ってくれたら、そのワッペンが好きになってくるんだよ。

まあその話はいいや。長くなってめんどいから

 

結局言いたいのはね、ちゃんとしてないとダメってことよ。

ちゃんとしたワッペン付けてるとか、体力か良心犠牲にするかしないと、

言いたいこと言えないから守りたいものを守れないってことですね。

明後日から仕事やだよー。

2018-01-04

頑張らないことは悪いことなのか①

何で頑張らないんだと怒られたことが数回だけある。

正月早々、暗いことを思い出してしまった。

これから始まるのは、私が20数年抱えているコンプレックスの話で、楽しくもなんともないし、甘えてるとか批判が来るかもしれぬが、自己承認欲求の塊が喋ることとして、許してほしい。

論理的構成もクソもない殴り書きであることを承知してほしい。

私は今大学院生である。この時期田舎では人権のない大学院生である

大学院の話について詳しくはそのうち気が向いたら書きたいと思う。

さて、私には妹がいる。妹は、ザ・下の子で、そりゃあもう家族に可愛がられ育ってきた。彼女は今でこそ社会ではそこそこ高い大学に通っているが、幼い頃は何事もあまりできるほうではなかった。一方私は、運動以外はそれなりにできた。幼稚園でも、先生に色々任されていた。

そんな姉妹の扱われ方が違うのは容易に想像がつくだろう。ここが私のコンプレックスの出発点である

エピソード1

二人とも小学校入学したあとのお話

父は、私に厳しかった。テストで5枚100点を取ろうが、1枚98点があれば、怒られた。75点でも取れば、しばらくテレビを見るのが禁止になる。

妹は、甘やかされていた。75点とったら褒められる。理不尽を感じた私は、母に思い切っていってみた。母は、妹はあなたと違うからあなたはほめるとつけあがるでしょう、と。父にも言ってみたことがあるが、ほめるとつけあがるからと言われた。(ちなみに、両親にほめられたことは記憶の限りでは高校合格したときの一回しかない。笑止。)

まぁなんというかテストに関しては理不尽は感じつつも自分100点とらないで怒られるのは嫌だったのと勉強が好きだったのであまり追求はしなかった。(これにより姉ちゃんは出来て当然という認識が作られる)まぁこテストの成績の"区別"は高校まで続いていくのだが。

エピソード2

小学校には、秋、絵画習字展覧会がある。小学校うまい人が選ばれて市内の展示会に出され、そこからまた県の展覧会に行くというあれだ。小学生にしてはそこそこ絵と習字のうまかった私は、一年生のときから市内の展覧会に出してもらえていた。この展覧会に関しては小分けエピソードが3つほどある。

まず、小1のときである。初めて賞状というものをもらった私は、るんるんで家に帰り、母に賞状を見せた。すると母は、妹が羨ましがるから、うかれるのはやめなさい。見せびらかさないの。と言った。これは私にとって非常に辛かったようで、今書いていて目が潤んでくる。

次に、小4のときである。この時は、県展に入選した。1年生の出来事学習していた私は、浮かれることはしなかった。問題展覧会に行ったときのことである。それはもう両親に作品ケチをつけられた。ここのハネがなんとかだとかバランスがどうだとか。悲しかった。しかもそのとき幼稚園の知り合いの子のことはすごい褒めたのだ、親が。これも10年以上前ことなのに書いてて泣けてきた。幼少期のダメージよくない。

最後は中1のときである。妹が絵で県展に入選した。前年、私の絵も県展に出してもらっていたのだが、落選したのである自分より絵が下手くそな妹が入選したことがショックだった。聞けば、妹は図工専門の先生に相当つきっきりで見てもらい描いたのだという。自分より能力の低い人間が、他人からの助けを得たことで自分を追い越していく現実を、この時初めて知ったのである。そしてこの現実は、今に至るまで、幾度となく降りかかる。

字数制限こわいのでこの辺で次につなげる。増田を書くのは初めてなのだがここでリンクするやつがいるのかよくわからない、、、

まぁいい。

2017-12-29

3年間限定の友人関係

 大学三年生。もうすぐ院試やら研究室配属が決まり楽しみでもあるがまた友人関係ゼロから作らなきゃならないのかと思うと嫌になる。

 ‎

 ‎思い返せば昔から友人はいたが皆中途半端な関係だった。頻繁に話す友人も間に一人を挟まないと会話が続かなかった。今もそう。

 ‎小学校の頃は三年生まで同じ子とばかり話していたのに四年以降お互い好みが変わり全く違う子と遊んでいた。

 ‎中学は町内の小学校数校の児童が集まる様なところだったので小学校クラスメイトといつでも会えたのにまた全然違う子達と仲良くしていた。

 ‎高校に入ると車で一時間かかるような所に通っていたから当然の如く中学の友人と話す事はほぼ無くなる。ただ高ニの時始めて親友と言えそうな友人が出来た。

 ‎

 ‎で、大学入学。その親友とは夏に下宿先に泊まりに行って以来連絡先すら分からない。

 ‎ 

 ‎大学でもぼっちにはならなかったが変わらず仲のいい二人のおこぼれに預かるような形の中途半端関係を構築。サシで飲んでくれそうな子は一人もいない。四ヶ月後同じ研究室に配属される友人はいないだろうからまた1から友人を作るのだろう。大学でも三年限定の友人関係は続く。

 ‎

 ‎ひとりぼっちでないだけましなのかもしれない。しか研究室配属、大学院と進み卒業した時。3年語の4月。連絡を取り合い続ける友人がいるのだろうかと思うと絶望する。

 ‎

 ‎Twitterを見てると誰かと忘年会をしている画像が流れてくる。俺は忘年会に参加していないどころか今月一滴も酒を飲んでいないというのに。

 何故こんなことになったのだろう。

 ‎

 ‎人に認められたことが無いかなのだろうか。確かに人生でただの一度も賞状は一度ももらったことがない。だから自信が持てない。サシで話すに値する話力、知識があると思えない。だから自然積極的に人と話しかけることはせず聞き手に回ってしまう。こちから話を振らないので向こうは俺と話していても楽しくないと遠ざかってしまう。余計自信を失う。悪循環。皆どうやってプライベートで会う友人を作り話しているのだろうか?もう何も分からなくなってきた。

 ストロングゼロ飲んで寝たら実家に帰ろう。全てを受け入れてくれる愛犬が待っている。

2017-12-15

替え歌の作り方

替え歌をつくるには、歌詞のほんの一部を変えるか全体を完全にまるっと変えるかのどちらかがいい。一部を変えるのは大喜利みたいな感じで変え方よりお題のほうが大事。歌との出会いが大切。全体を変えるのはもう何でもありなので高尚な趣味の一つとして毎日たしなめばいい。一年続けると気が付けば替え歌を作っている状態になれる。今年一年でいうと一番欲しかったのは田口ジャパンタオル。四歳の娘は「オスプレイさんがんばれー」と応援してる。よくわからん。それにしてもエんエんニコリは怖い。雨の中泣き叫ぶニコリはどこにあるのかわからない自分の罪悪感を強制的に刺激してくるようなインパクトがある。おかあさんといっしょハイポーズくらいこわい。ハイポーズ太極拳モチーフらしい。そういえば何年も前に定年退職したうちのおやじ太極拳を習ってると聞いて爆笑した。実家にその賞状が飾ってて吹きそうになったが自分もさすがにいい大人なのでこらえることができた。結局バッタは食していたミントの葉がなくなったタイミングで手放した。あいつら雑草なら何でも食うもんだと思ってたけど全然食わん。飛び散らかすうんちの謎は解明されず。今年は家にアシダカグモが二回出た。二回とも捕獲できた。個人的にはゴキブリは嫌いなのでできれば共生したいが家族コンセンサスが得られない。行きつけのペットショップデュビアを売り始めたのでこれもぜひ飼いたいんだがやはり家族コンセンサスが得られない。そういえばFBデュビア飼いたいと書いたら妻にデュビアが何か知らない人が見たら検索してギャーってなっちゃうでしょとたしなめられた。なるほどその発想は本当になかった。ということは喜び勇んでアップした軍曹写真をみてギャーとなっていた人も少なからずいたのかもしれん。ごめんなさい。話は変わるがキッチン戦隊クックルンはよくできている。なめてた。アニメ上の会話のテンポが心地いい。あずきがアヒル口練習をしているシーンを見て、してやられたな、といった感じだ。でももうあきた。やはり「キッチン戦隊クックルン 跳頭」で検索しても有益情報は出てこない。子供を笑わせるにはつまるところああいう突発的な動きなんだろう。静と動でだいたいなんとかなる。個人的にも「おっとっと」「わきー」などの技を開発した。やりすぎるとねだられつづけて休日に消耗するのでセーブ必要

最後になりましたが、数年前から後半が作れないまま放置されている替え歌を二つ書いておきます。だれか続きを作っていただける方を探しています不適切表現は一部●で伏字にしてあります。ご了承ください。

とんちは鮮やかだよ一級品
度胸は満点だよ一級品
いたずら厳しく一級品
だけど●●●はからっきしだよ三級品
あーあー●●だー
●●●●●●、●●、●●、気にしない
きにしないーきにしないーきにしないー
(ここまで)
日曜日、レグのハートが盗まれた !みつけなきゃ!これは小さな大事件!
月曜日、●●●さんに聞いてみた。ハートはね●●●●●●でできるよ。
火曜日に●●●●に聞いてみた。俺だってハートの音は聞こえない。
水曜日、●●●●の●●に聞いてみた。ハートより僕は制服とりたいなー。
誰に聞いてもろくでもない。
(ここまで)
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