はてなキーワード: アメリカ映画とは
日本人が鈍感なのもあると思うが、発言しようにも難しいところだと思うよ
「アジア系の起用について一昨年から泣きながら声を上げていた」のが反感を買った可能性はあるだろうね
要するにポリコレでアメリカ映画会を歪めた人間という見方もできるわけだ
アジア人だから、黒人だから、女性だから、障害者だから、という理由で役に抜擢され、実力以上に評価された人たち
で、日本はどちらかと言うとそういうポリコレには反対派の立場なんだと思う
アニメなんかは特に顕著だけど、ポリコレにとらわれない素直な創作が世界で支持されている
「日本の高校生を描いたアニメに黒人がいないのって別に普通のことだよね?」
「特に理由ないけどバーのマスターをオカマにします、雰囲気です」
ってスタンスでやってきてるわけ
んでそれが成功してるわけ
打算的に行くならもちろんアジア人の地位向上を叫びながら、なおかつポリコレにとらわれない創作を貫くべきだ
でもそういうチグハグなことしたくない人が多いんじゃないの
『ルディ/涙のウイニング・ラン』(Rudy)は、1993年に製作されたアメリカ映画。実在のフットボール選手ルディ・ルティガー(英語版)の経験を元に制作されている。
ルディはフットボールチームでのトライアウトを受ける。猛烈なガッツが買われなんとか合格するが、常に優勝を狙うチームにあって、小柄なルディに出番はまったくない。練習相手を務めるだけの日々であったが、チームのためと熱心に役目をこなすルディはやがて選手たちに仲間として認められる。しかし、ベンチ入り60人のメンバーには一度も選ばれることなく、ついに大学最後となる試合を迎える。最終戦のベンチ入りメンバー発表で、ここにもルディの名前はなかった。ところが、この最終戦を前にレギュラー陣が監督室を訪れ、「自分の代わりにルディを出してほしい」と直訴が行われた。そのおかげもあって出場ユニフォームを与えられベンチ入り選手の一人となる。ノートルダムの勝利が確実な状況となり、出番のなかった四年生が次々とフィールドに送り込まれるが、それでもルディにだけは声がかからない。残り時間が1分を切り、コーチから時間稼ぎの攻撃をしろとの指示が出るも、選手たちはあえてディフェンスに出番を作るため、一発でタッチタウンを狙うプレーを選択し、成功させる。ディフェンス選手であるルディの出場機会を捻出するためのチームワークであった。ついにルディはフィールド出場を果たし、公式戦の試合記録にその名を残す資格を得た。そして試合終了間際に、ディフェンスライン最高の手柄とされる、相手QBを潰すQBサックを決め、チームはそのまま勝利。大歓声の中、仲間たちに担ぎ上げられてフィールドを去るのだった。
人生を変えるほどに大きな影響与えてくれた本は少なからずある。この本がなければ読んでいなかったならば、現在の私はないと言い切れる本も数冊ある。ところが映画にはそれがない。もちろんテレビにもない。
確かに面白かったと言える映画もある。テレビ番組もある。ただしそれだけである。あー面白かった。それだけなのだ。
映画に熱狂する人々を見るに、どうやら私の理解が及んでいないところがあるようだと思い。意識的に多くの映画作品に触れるようにしてきたのだが、結局のところ結論はそういうことである。人生を変える映画などと言うものはない。
それどころか、気持ち悪い、人を洗脳する意図を持ったとしか言いようのない作品が少なくない。トップガンマーヴェリックとか、そもそも前作品の無印トップガンからしてそうである。臨場感を持って劇場で上映される映画作品、何が善で何が悪なのか、浅薄な善悪二元論を唱えるような映画が多くなっているようにも思われる。アメリカ映画に多いような気がする。気持ち悪い。
彼氏はまったく食に興味がないんです。
お互い一人暮らしをしているんですが、彼の部屋に初めて行ったとき絶句しました。
まずガスコンロが無くてガス栓にキャップがついたまま。鍋も包丁もまな板もない。冷蔵庫も昔のアメリカ映画に出てくるようなちっさいのが一つ。そしてカロリーメイト的な栄養バーがダンボールで二箱。
「栄養はちゃんと計算してるから大丈夫」と言っていますが、そういう問題では・・・
もちろん職場は別で、デートのときに入った居酒屋やレストランでは普通に食べていたので気づきませんでした。
私が「ここに行きたい」と言うこともありましたが、彼の方で抑えてくれていたことのほうが多かったです。
これはしっかり確認しなくては・・・と思った私がその日から今に至るまで観察・ヒアリングした結果、下記のことが分かりました。
彼は別に異常に暗かったり感情表現が死んでたりするわけではないです。むしろ明るく温和です。
この前も新しく買ってきたカロリーバーを手に「○○はボソボソで結局水分取らないと食べられなかったんだけど、これはしっとりしてて良いんだよ!これだけで食べられる!」と熱弁されました。内心、私は頭を抱えました。
思い返せば交際前から「この店に行きたい」「これが食べたい」と彼が主張してきたことは一度もありませんでした。
「食には興味が無い」けれど「私といるのは楽しい」というので、外食にも(少なくとも見かけ上は)喜んで付き合ってくれます。
でも、この関係に甘んじてしまっていていいのかと思ってしまいます。
食べたいものがあるのは私だけ、というところがどうしてもモヤモヤします。
彼のことは好きですし、将来的には結婚を考えてもいますが、このままでいいものか・・・と葛藤を抱えています。
ここまで極端でないにしても、食に興味の薄い恋人や配偶者をお持ちの方はいませんか?
もしいたら聞きたいのですが、普段の生活やら自分の気持やら色々なものにどう折り合いをつけているんでしょうか?
追記:
思った以上にトラバやブコメをいただき恐縮です。ありがとうございます。
→少なくとも私が出会ってからは一度もないですが、器用な人なのでやればできそうな気はします。ですが、なんだか申し訳なくて頼めないというのが正直なところです。
・短期的にハマってるだけでは?
→年齢後出して恐縮ですが彼氏は28、増田は26です。大学生の途中からもう10年弱いまのような食生活らしいです。
・食物繊維は?
→いまのは分からないんですが、ちょっと前に食べてたスローバーってやつには食物繊維入ってるみたいです。あとは時々食べるサラダで補ってるらしいです。
・食よりなにを優先してるの?
→特にこれってものは無いようです。一人で食べる時間そのものが無駄だと言っていて、準備したり食べたりに時間かけるなら漫画読んだりスマホゲームをやっなりしてるほうが楽しいとのことです。だから水分無しで食べられるやつに感動してたのも「いかに早く食べられるか」を重視してるからのようです。
・結局なにが言いたいの?
→分かりづらくてごめんなさい。彼氏に変わってほしいとかではないんです。家族になったり子どもが生まれたときにどういう風に生活に落とし込むのがいいんだろうみたいな漠然とした不安があるというか・・・
ミスドじゃないぞ
ミストだぞ
霧の中から現れる未知の怪物を相手にサバイバルしていく映画だが、描かれるのは主人公が逃げ込んだスーパーマーケットの中ということだ
普通アメリカ映画なんだからもっと壮大にバトルしろよという感じなんだが、慎ましくスーパーマーケットでの群像劇が主になる
勇敢さを示して死ぬもの、絶望して自死するもの、神に祈るもの、神に祈るのを馬鹿にするも結局神に祈るもの、子供の為に何としても生きる道を探るもの
結果、スーパーマーケットから逃げ出した主人公の立ち位置も本来のアメリカ的大団円映画からは一線を画す秀逸なものとなってる
お前ら、教養ある感じアピールしながら一つの芸術作品としてこれをフィーチャーしないって、そりゃあ見る目ないって
見れよ
でもオリジナル設定がもやもやした、私の知っているマリオはブルックリンに住む冴えないキノコ嫌いの青年じゃないし、家族達も知らん人ばかりで誰だよそれ、マリオが父親との折り合いの悪さに悩んでいるがこの設定いるか?
あとピーチの性格がよく見るタイプのアメリカ映画ヒロインそのもので、可愛いけど少し違う。
最後ブルックリンでクッパに勝って、親に認められてブルックリンのヒーローになっていたがいらんだろ。
ブルックリン関連は萎える要素なので、ここに尺を割いてほしくなかった、最初からキノコ王国住人でも普通に話作れただろう。
最後を見るにヨッシーを目玉に追加して2をやる気満々ぽいので仕方ないが、ヨッシーの活躍も見たかった。
あと音楽、ゲームからのアレンジが微妙にやり過ぎ感あった、もう少し原型を残してくれたほうがキタキター!って嬉しくなると思う。
昔ニコニコ動画で流行ったヒャダインのウエスタンショーを思い出した。
ひたすらネガティブに振り切れたサイコなチコも、僅かな出番で深い爪痕を残していくほど異彩を放っていて可愛いが、マリオギャラクシーやってないからしらんけどこんなキャラなの?
樽を投げるドンキーコング、猫マリオ、たぬきマリオ、アイスフラワーで戦うウエディングドレスのピーチ、ジャングル王国でどんどん組み上げられていくカートに、マリオカートでの派手なカーチェイス、臆病ながらやるときはやるルイージ、キノコ王国の移動手段になってるマリオの数々のギミック。
ここで十分映画代の元は取れた。
まずマリオとルイージが元々キノコ王国の住人ではなく現実世界の人間でキノコ王国にワープする設定がもう論外。
ゲームで一度も出てこないマリオブラザーズの両親や親族もオリキャラで出てきやがるけど、マリオブラザーズはコウノトリが運ぶ途中でヨッシーアイランドに落っことしてヨッシー達に育てられたはずだろ。矛盾してるやん。
赤キノピオのキャラもゲーム完全無視。何だよあのひょうきん野郎は。
ピーチは助けに行く側でやけに気が強いし、マリオ顔負けの身体能力だし。
スマブラやカートみたいな番外編はともかく本編のピーチともう別人だろ。
CGのタッチも何かキモいし、BGMでやたらマリオと無関係な洋楽流してくるし、ブラックジョークをしつこく挟んでくるし…。
ようはこれ「親に見放された無能な主人公が別世界の住人と出会い世界を救ってヒーローになる」っていうベタなアメリカ映画を無理やりマリオでやってるんだよな。完全な原作レイプ。
本当に任天堂が監修したの?ちょっと信じられないくらい酷いんだけど。
あんな内容なのにやけに売れてるし、マリオファンや任天堂ファンにもすげー好評みたいで不思議。
ネットでボロクソ言われてたSTAND BY MEドラえもんとやってることはほぼ一緒だろ。
少なくとも俺はマリオファンとしてこの映画は自分の記憶から抹消したい。
予告の時点で嫌な予感は薄々してたけど、やっぱり観に行かなきゃよかった。
そんな映画。
自分から積極的に見る事は無かった映画だけど友人に誘われたので他の複数の友人と一緒に見てきたので感想とか思った事を書く。
「マリオの映画」というコンセプトであろう映画で、そのコンセプトに対しまあちゃんと仕事をしている映画であると思った。
マリオと言えば任天堂の色々なゲームで登場するキャラクターでありドンキーコングが最初で映画のタイトルにもなっているスーパーマリオブラザーズで爆発的に有名になり、他作品だとマリオカートあたりが有名で他にも色々なゲームに登場している。その色々なゲームでのお約束・ネタふんだんに取り入れており冗談でなしに1分に1個とかそういうレベルでネタが出てくるので元ネタを知っている人ならば終始ニヤニヤできるだろうしそのネタを探す楽しみもあるのではないかな。そういった元ネタをふんだん使用した上でストーリーは良く言えばオーソドックスとか王道の話にそつ無くまとめているので安定感があったのではないかな。なので、好きなゲームメーカに任天堂を屈託無く挙げられる人ならば傑作として楽しめる映画なんじゃないかなと思う。
さてそこで自分にとってはどうだったのかという話になるのだが、自分は任天堂に対してまあこうなんというか複雑な感情を持っており「好き」かと言われたら確実に「好きじゃない」とは言えるがそう単純なものじゃなくてですね。小学生の頃にファミコンが出てきてからゲームが趣味だった自分は当然スーパーマリオは遊んでるし面白くて良いゲームだし、最近だってスプラトゥーンとかゼルダとか(自分は遊んでないけど)素晴らしいゲームを出しているメーカだって事は認める。認めるんだけどなんか任天堂とは合わないんよねえ。なので、まあ「なんで見たんですか?」と言われるかもしれんが見て思ったのが「マリオの映画だなあ」という感じ。
さてここでマリオを知らない人が楽しめるような映画だったのかを考えてみた。そんなやつ居るんか?と感じる人も結構居るかもしれんが、例えば自分はファミコン世代でゲームも漫画もメジャーなのだったら履修してきた感はあるんだけど、ポケモンが微妙に世代が違くて学校の同級生の友人達も現役でポケモンをやってた人がほぼ居ない感じであった。なので自分はポケモンの知識はピカチュウは電気鼠、モンスターボールに収容する、進化する、ぐらいしか無い。なので世界的に有名なマリオも自分の少し上(具体的に言うと50代以上)の世代だとマリオについての知識が、ゲームのキャラ、キノコを取ったら大きくなるぐらいしか無い人も結構多いと思うんよね。で、そんなマリオを知らない人がこの映画を見たら考えたのだけど、マリオのお約束ってゲーム的に見たら受け入れられるんだけど映画的に見ると結構違和感があるんじゃないかなと思ったのよね。例えば土管が異世界を繋ぐトンネルってのは良かったと思うのだけど、王国の城への道で迷路のように繋がっているってのは良くわからなかったのではないだろうか。他にもゴリラの国の案内人(ゴリラ)がバナナの皮を捨てて後ろに居たカートがその皮で滑って事故を起こしてしまう場面もマリオカートのお約束を知ってれば理解出来るが知らないと只のクソ描写になってる気がする。こんな感じでゲーム内のお約束を再現した場面はいくつかあってゲームを知ってるのなら良いけど知らなかったら「?」が出るような場面が結構あったのではないだろうか。自分はマリオを知っていたので断言はしにくいのだが。
あと、気になったのが最近のコンテンツでは少なくなった謎に不快なことになる場面がいくつかあって、例えば序盤のマリオの扱いが軽視されている点で辞めた会社の社長から軽視されるのはまあ良いとしても、実の父親からダメ息子扱いされるのは確実に年齢が20代は行っているマリオに対する態度としては結構キツかった。まあアメリカ映画の「ダメな僕が頑張って活躍する」の前振りなんだろうけどさ。あと前述のゴリラの国バナナの皮事故もマリオカートのお約束を知っててもレースでやるならともかく普段の時でも只のクソ描写なのでは感ある。あと、ゴリラ国の王様が普通に不快な嘘をつくもの意味がわからん(元ネタからしてそういうキャラ?)。
あとは、コメディがベースだけどアクションも描きたいってなった結果なんだろうけどデフォルメ気味のキャラで可愛い感じなのに割と暴力描写がしっかりしてるのでなんかエグさが逆に強調されてる気がする。(誰がやってたか忘れたけど)馬乗りになってマウント取って殴る描写があったんだけど、効果音とかもバシッとリアル系なので割とエグい感じになってたと感じた。他にもそんな感じで暴力描写がわりとエグくね?と感じることがあったと思う。
まあだいたいこんな感じで終わりかな。最後に、映画前にやってた任天堂のCMで、子供を中心にいろんな人がswitchでゲームを楽しんでいるのを延々と写してたやつ、ありゃ酷いプロパガンダだなって友人と一緒の感想になったのは面白かったわ。