はてなキーワード: タイムマシンとは
かわいい人にかわいいと言えないのは、僕としては結構ありえない
https://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899
回りくどい文章だし、例えは似て非になるものばかり。歪んだ主観で全て判断しているし、なんでそれここで持ってきたんや!と思う部分が多く読んでて何度も悶絶した。
それでも女性の共感する部分を利用して、僕ならこうする!これがモテマインド!みたいなのが称賛されているのだから、筆者はさぞかし気持ちが良いんやろうな。
こんなんで女性層からの支持を得ていることや、他の男を下げ自分の立場を良く見せていることに、激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム状態になったこのワイが、勝手ながらnoteの気持ち悪い部分をピックアップして、細けえなと思うほどにツッコんで評価していく。
本文について賛同している人も、これ見れば割とフラットになるのでは?と思うわ。
ちなみにクソ長くなってしまったので、めんどくさい人は最後の方だけ見てもらってもまぁわかると思う。一応ちゃんと目を通してもらったほうが、noteの筆者が書いてることに疑問を持つことができると思うけどな。
頑張って面白くなるように書いたので、ワイの無駄な努力を汲んでくれるならできればちゃんと読んで欲しい。
以下では、noteの内容の一部抜粋を繰り返しツッコミを入れていくので、一度本文を読むか、照らし合わせて読んだ方がついていけると思うで。
それと、筆者に語りかけるような書き方をしているが、別に筆者に届いてほしいとかではなく、こう言いたいと想像して書いた結果なのでその辺は承知の上で見てほしい。
ではスタート。
男子の多い理系大学と女子の多い家政科系大学の合同サークルの新歓にふらふらと参加した。会は居酒屋2階のお座敷全体で行われ、20分もするとビール瓶を持った先輩たちが席を行き来し始めた。
僕がさっきまで話していた目の前の女の子のところにも複数人で来て「かわいいよね、言われるでしょ」と笑い「まあまあ」とビールを注いだ。別の席では胸の大きな女の子に「ってかスタイル良くね?」と、それまでの会話はどうでもよかったかのようなテンションで話している。
「胸の大きな女の子に「ってかスタイル良くね?」それまでの会話はどうでもよかったかのようなテンションで話している」
この書き方って、胸を見ていたお前さんだから出てくる言葉やないんか?
そいつらのコミュニケーションの取り方はあまり気持ちのいいものではないのかもしれん。お前さんの気持ちはめちゃくちゃわかる。
けど「スタイル良くね?」の発言は、ただただその通りの意味で、胸からきているものだと捉えているのは男性でも共通の感覚ではないやろ。
そんなつもりで書いたわけではないのかもしれんけど、胸を強調してしまっている書き方は読んでて気持ちが悪いので-5点
かわいいと言われても、そんなことないですと返せば「いやかわいいって」とゴリ押しを喰らい、ありがとうございますと返せば「調子乗ってる?笑」と餌食にされる。逃げ道がない。そういうことはふたりきりのときに言えばいい。
好意を持ってるからこその意地悪だと思うけど、確かにそうゆうやつは結構おるわな。
つっても、それは会話の切り口であって、基本的にかわいいについては二言三言とで終わるやろ、逃げ道がないって言葉で重く考えるのはちと考えすぎや。
仮にそうだったとしても、可愛いを言うのは二人のときだけにしようってのも飛躍しすぎや。
可愛いって伝えたい場合は、通路側までその子呼び出してかわいいねって言うんか?
それとも店の外にまで出るんか?二人きりの空間ならトイレの中か?
いずれにせよ、そっちの方がめちゃくちゃきもいし、めんどくさいわ。
女性側だって可愛いについてめんどくさいと思う人もいるだろうけど、言われなかったらそれはそれで悲しく感じたりもするやろ。
だからこそ言わないことにしようってゆう考えやろうけど、それは短絡的すぎや。
この人のエッセイによってアホみたいなハラスメントがまた生まれそうだし、そんなのできてしまったら、ますますコミュニケーションを取るのがめんどくさいから-5点
胸が大きい人に胸が大きいと言ったら、その人がキュンとするとでも思ってるのだろうか。下心があるからこその発言だろうけど、本当にやりたいならそんなことは言わないべきなのに。僕は背が高いけど、大きいねと言われてキュンとしたことは一度もない。会話のきっかけとしては仕方ないと諦めているが、もし「好き。だって背が高いから…」と告白されたら「キエエエエ!」と竜巻を起こしてしまう。天候を操る能力者の場合はだけど。
だから、どう考えても相手を喜ばせたくて「かわいいね」「胸が大きいね」と言ってるとは思えない。
本当に好きだったり付き合ったりしたいなら別の作戦を取るべきだ。
でも、その場の瞬間的な欲求に左右されてる。
ん?胸のくだりはどこから出てきたんや?お前さんはやっぱりおっぱいが大好きなんか?それとも書いてないけど新歓でだれか言ったんか?
だけど、それをお前の背丈と同様に考えるのは無理があるやろ。
胸について触れられたら不快感が生まれることがあると思うし、そもそも発言自体がセクハラに該当するのでタブー視されてるけど、身長ってそこまではいかんやん。
胸について話すことは構わないってゆうラフな人でも、どこまで話せばいいか難しいし、異性に幻滅されたり、同性からはビッチ扱いされることもあるだろうから、かなりセンシティブなことだと思うのに対して、やっぱり身長はそうでもないと思うわ。
それから、お前さんへの「大きいね」とゆう発言がキュンとしてもらうために言ってると思うんなら、自意識過剰の枠では収らないので早めに精神科への通院をオススメするで。
相手が好意を持ってると断定した上でのこととするなら、確かにキュンとはならないやろうな。
だが、身体的な特徴に対する発言でキュンとさせてくれるものってまぁ無いやん?そして相手もそうなると思って言ってるわけではないやろ。
彼女がそうゆうの求めるタイプやったらホンマにめんどくさいわぁ。
てかまず、なんやキュンって?
キュンってのは、ひょんなことで意識したり、しぐさや行動などで生まれるときめきだったりってゆう、だいぶ抽象的なものとおもうんやけどさ。
気合い入れておしゃれした日に、異性から「かっこいいね!、かわいいね!」ってゆう発言に嬉しさは感じたとしても、キュンってゆうときめきのようなものは滅多に感じないやん。
ポケットにどれだけのキュン詰め込めばそうなんねん。相手に求めるハードル高すぎやろ。
下手にキュンを求めているところと、天候を操るのくだりが何回読んでも意味不明だったので-15点。
いやお前さんも好感度稼ぎ大会に参加しとるやないかい。配慮しているように見せかけて、本当はあわよくばを狙ってたんちゃうんか?
さりげないようでゴリゴリに自慢をブチ込んでくるやつの話は大体つまらないから-10点
でも、仮に僕が優しいとして、それが姉妹に由来するならあまり嬉しくはない。
かわいいね、胸でかいよねと絡まれてる女性を見るのは全然楽しくないし、今からその人たちに年の近い姉妹ができるわけもないし。
絡まれてるのを見るのは大体の男が好かんやろな。ただあーゆうの自分がやる時は結構楽しかったりするんや。楽しいから何やってもいいわけではないけどな。
てかさ、初めからお前が止めればええやん。なにを「俺はこう考えている」「お前らとは違う」みたいなこと思ってんねん。実際被害が目の前で起きとるやんけ。
つっても、まぁそうだよな、「上級生だから、、」とか、「新歓からそんな動きは、、」とかいろいろと考えてしまうもんよな。すればいいやんでできるほど簡単なことじゃあないよな。
だから行動に移せないお前さんを責めたりはせん。
だが、こんなエッセイで自分を正当化しているのは気持ちが悪いから-15点
高校の放課後の教室で、よく話してた明るい同級生の女の子から、実は毎朝のように痴漢にあっていると聞いた。
痴漢を突き出せば数時間の拘束で遅刻は確定。毎朝声を上げるわけにもいかないと彼女は言った。
だからというわけじゃないけど、ほぼ初対面の女性にルックスのことばかり言うのは、好奇の目で見てますよと伝えてるようなもので、かなり抵抗がある。
かわいいも胸大きいもやりたいも同じ。全部「うっわ。いい女」と言ってるように聞こえる。
あのさ、関連しているわけじゃないのになんで痴漢の話出すんや?
仮にそれがあったからの話だったとしても、痴漢行為と外見についての発言って別問題よな?
なんだかずっと読んでて引っかかるんやけど、お前さんのルックスや外見に対する発言の解釈が=下心ありきの発言にだんだんなってるのが、読んでる側との認識にギャップが生まれて読みづらいんや。なんでそうなるんや?
「かわいい」って、好意を持った発言でもあれば、パリピがナンパで挨拶のように使うこともあるし、小さい子にだって「かわいい」って言うことだってあるやろ。
お前さんも何かしらがあって、かわいいなどの言葉をそう捉えてしまうようになったのかもしれん。それやったらさぞかし辛いできごとがあったんやろなぁ。
だが、その感覚が正当化されるように書くのは「は?」としか思わんし、伝えたいイメージを共有しにくくする文脈の書き方は、読んでて気持ちが悪いので-10点
僕も「背高いね」と言われるのは嬉しくないし竜巻は起こしちゃうけど、別にいい。「かわいい」と「背が高い」はそのくらい、性質が全然違う。
いや、十数行くらい前に、胸に対する発言を背丈で例えてたんだけど、、、、、、は?
竜巻で災害が起きると危険なので、むやみやたらに使うのは避けてほしい−5点
池袋で育ったから、「不良に絡まれた」という話は友達からときどき聞かされていた。中学生の頃の話だ。けど僕自身は一度も絡まれたことがない。どちらかといえば草食系だし体力にだって自信はないけど、たぶん背が高いから。
なるほど!不良でもそうするんなら、確かに女性はひどい仕打ちを受けてるよな!男サイテー!
ってのもさすがに短絡的すぎやろ。それどうゆう解釈なん?ワイにはその解釈の仕方がわからないわ。
不良が喧嘩を売る相手と、男性が卑猥なことをする女性の判断基準を一緒にするのは違うやろ。
まず暴力行為を行うことと不純な行為を行うことは目的が全然違いすぎる。
不良は自分より弱いであろう女性や子供に喧嘩売ったりすることはせんやろうし、卑猥な行為をする人はルックスや着ている服などその他もろもろの要素があって行為に走ると思う。電車内などは密着度が高いことが原因で、一過性の衝動に駆られ痴漢行為に走っていることもあるやろうしな。
まぁどちらも体力的に自分より弱そうが大前提だとは思うが、ただ入り口が似ているだけで、行動に出るかの判断材料は他にもあるはずなのに、それを「相手が体力的に弱いから行動するのだ!」と一緒くたにするのはさすがに無理があるわ。
なんでもかんでも取ってつけて、それっぽく出しているところが読んでて気持ち悪いので−5点
前にツイッターで「妻が池袋は人とぶつかるから嫌だと言っている」という投稿が回ってきたことがある。僕は当然意味がわからなかったが、後に確か別の人が後ろからその様子を撮影した動画も回ってきた。
その動画を見るまで、育った街ということもあって、渋谷より新宿より、池袋は過ごしやすいなぁとすら思っていた。
僕には到底分からない(と信じたい)が、背の低い中学生にしか絡まない不良も、女性に次々とぶつかる男も、弱いものを力で圧倒することに優越を感じているのだろう。
結局体力が物を言っている。どれだけ頑張って生きても。
実際、脳の構造上女性のほうが空間認識能力は低いと言われているんや(諸説あるがこっちの意見が多い)
「男性はぶつかってくる」は本当か
https://anond.hatelabo.jp/20201205155542
それだけが問題じゃないにしても、上の記事のように、反対側の考えを持っている人も女性の方におるんやで。(ホンマに女性かは知らんけど)
だとすると、そのツイッターの投稿だけ鵜呑みにして、男側がぶつかってくると考えるのは視野狭すぎるやろ。もうちょっと脳みそ使ってあげようや。
それとお前さんは、女性側の立場を少し知ったくらいで優越感を感じるんか?
お前さんもそうやってわからないことをSNSだったりで気づくわけやん。
気づいて、それを踏まえた上での行動や配慮することはいいことや。ワイもお前さんを見習うべきだと感じた。
けど、その行為で優越感を得たり、こんなエッセイで気づかない人を蔑むように書くのはさすがに心がすさんどるやろ。
実際お前さんも気づかない側におったはずやのにな。まるで童貞卒業したての男のようやな。
男はぶつかって優越感を得ているとか意味不明な結論を堂々と出したのにもかかわらず、結局しょうもない優越感を得ようとしているのは自分とゆう特大ブーメランがちょっときついので-10点
僕ら男だって、ドラえもんのタイムマシンで恐竜のいる時代に行き、大恐竜たちが次々と舐め回してきたら怖いに決まってる。ほんやくコンニャクで言葉の通じた恐竜たちが「大丈夫大丈夫!」「興味本位だから」「かわいかったからつい」「ちょっと触りたかっただけ」と言ってきても、なるほど!と納得できるだろうか。すぐそこで暴走した恐竜が別の男を食い千切ってても。
え?どうゆことこれ?、、、、、、、、、、、え?
マジでどゆこと?なにそのとんでもない例え方?え、ホンマに意味がわからん。
全然意味がわからないもんだから、試しに15回くらい立て続けに読んでみたけど、一ミリも意味が分からん。アカン頭痛くなってきた。
なるほど!と納得できないのはお前さんの例え方であって、恐竜の威圧的なコミュニケーションじゃないわ。
これ恐竜じゃないと無理か?トラやライオンでもいいやん。ゴリラだって一般男性より力強いやろ。
恐竜以外に例えらないのは知識的な問題であるのに、それを「恐竜以外に例えられないという事実自体が、体力差による不平等を既に示してる。」って置き換えるのはもはや天才なのか?ここまで責任転嫁が露骨に下手なのも珍しいと思ってしまったけど、ワイの様な凡人には理解できてないだけなのだろうか?
えっ、、、ほんとに意味がわからん。どうしよう、ゲボ吐きそうだ。
クロちゃんのわからないわからないがここで初めて共感できてしまった。
まず、そもそものパワーバランスがおかしい。男の人が襲ってきても女性側は抵抗の余地がある(武器なしの場合に限る)のに対し、恐竜なんて男が銃や刀持ち出してもどうすることもできひんやん。
その例えだとパワーバランスに開きがありすぎて、生まれる恐怖心の大きさが圧倒的に違うわ。
女性に恐竜と男の人どっちが怖いですか?のアンケートしたらそりゃ100パーセントに近い数値で恐竜やろ。
もしかして、ここでは恐怖心の大きさなどは考慮せずに、感じるものが似てるかどうかなのか?
わかった。じゃあそうゆうことにしとくわ。
それと、この時点でお前さんのnoteの内容は
・女性は外見の発言のみならず、視線や空間を共有するだけでも恐怖に感じていることを伝えたい
・自分は女性のためにいろいろやってんやで!すごいやろ?ってのを伝えたい
ってゆう複数の要素をごちゃまぜにしとることで、いろんな基準が飛び交い、そのせいで文章にまとまりが無く、読みずらいを超えてすごく気持ちが悪いんや。
そこに謎理論の例え話重ねるとかお前鬼か?
読みづらい文章、例えもひどい、男性嫌悪を無駄に助長している、恐竜大好き、以上の点を踏まえて-10点
時間を返してほしくなってきたので追加で-5点
勘の良い人なら「本当にやりたいならそんなこと言わないべき」ってことはお前が一番エロいだろと思ってるかもしれないし、その通りだと僕も思う。
ワイもそう思う。日本で一番エロイと言っても過言じゃない。おっぱい大好きそうやしな。自分を見つめ直すことはいいことや!+40点
https://anond.hatelabo.jp/20210320132031 (続き)
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。
この増田は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長である、森喜朗氏の問題発言についての所感である。
多くの人がこの問題に対して擁護や批判を述べているが、その中で、最も興味深い話は下記の記事にある経団連会長である中西宏明氏の話だ。
https://mainichi.jp/articles/20210208/k00/00m/020/164000c
この発言の興味深い所は「本音の部分での考え」と「本音に対する評価」が混じっている所にある。こういった本音であるという事自体がけしからんと思う人がいる一方で、事実としてこういった本音があることを認識しているのは、現状分析としては正しく、その部分においてのみ一定の評価をしている人もいるだろう。
(尚、私は中西氏の発言についてはこの記事しか読んでいない事はお断りしておく。)
私はこの発言を通じて、性差に関して言えば、本音に対しての評価が正しくとも、決してそれを吐露してはいけないという事を改めて感じた。本音がどうあれ、先ずは本音を隠して、形式的な振る舞いをする事が大事なのである。そして、形式的な振る舞いをするにあたっては、様々な困難もあるわけだが、その困難は絶対に限りなく近い相当程度、受忍されるべきである。
「三つ子の魂百まで」という諺もあるように、私は、人の持っている潜在的な感覚や価値観というのは、一度ある程度構築されてしまったらそれを変えるのは容易ではないと思っている。
先程の本音に対する批判にも様々なものがあるが、その批判が本音の是正を求めるという意味であった場合には、本音では女性軽視の気持ちがある人に心からのジェンダーフリーを求めるのは不可能なので、全く無意味な批判となる。
批判の対象は本音を出してしまった事に対して向けられるべきで、私なりに批判してみると、
といったところだろうか。
私はタイムマシンに乗ったことが無いので想像であるが、もしも明治、大正時代にタイムスリップして当時の人に「100年後には女性に参政権がある」という話をしたら、さぞびっくりされるのではないだろうか。
今では女性に参政権があるというのは当然だと思う人が、ほぼ全てと言って良いレベルで殆どだろうし、もっと言えばあまりにも当然すぎて、当然を当然と思うことすら無いだろう。
我々の行うべき事は現在を変えるというよりも、未来を変えること、それに尽きるのだと思う。先人が努力した様に、我々も努力をし、未来の礎となり、未来の人にとって男女平等を当然とさえ思わせないようにする事である。
そのためにはどうするか。
先程の女性参政権を例に挙げれば、我々がこれを当然と思っているのは生まれてきたときから女性に参政権のある国に生まれ育ち、女性参政権に対して反対する声を聞くことの無い環境にあるからではないだろうか。(世の中色々な人がいるので、女性参政権に反対する人も中にはいるだろうが、少なくとも私は聞いたことが無い。多くの人も同様ではなかろうか。)
少し話が逸れるが、女性参政権を例に出したのは、若干不適切だと思う。実際に権利を手にしたわけであって、純粋に「形」だけでは無いのがその理由だ。ただ、私が伝えたいことがより伝わると考えて、あえて例に持ち出した事をご承知いただきたい。
話を戻す。
この事から考えると、我々が出来ることは「形から入る。そして、その形が自然になるまで根気強く待つ。」これに尽きるのでは無いだろうか。
根気強く待つ期間が世代を超えるかもしれないので、その間に傷つく人も相当数いるであろう。
もちろん、今の犠牲を甘んじて受ける事は無い。むしろ、今大いに抗うことがより良い未来に繋がる。
もう一度言う。
女性蔑視発言をした者が会長職にいるのは、形として相応しく無い。この一言に尽きる。
余人を持って代えがたい等々、様々な擁護と会長を続けるための理由が出ているが、これこそが前述した、形式的な振る舞い、ここでは森氏が会長を退く事にあたっての困難であり、「調整力」「これまでの実績」程度の事ではお話にならない。残った者で何とかならなくても何とかしなければならないのである。
スピード違反をしたドライバーが普段どんな運転をしているのか、どれくらいのドライビングテクニックがあるのか、その様な事は関係なく、ある一定のスピードを超えたら違反は違反である。
所感は以上。
蛇足になるが、別な側面から考えると、森喜朗氏を擁護する面々も、あえて氏を批判する必要は無い事を付記しておく。
失言の是非や氏の思想に対して批判したく無ければしなくても良い。形から入るという考え方に立てば、失言をしてしまったので会長職を退くという形が重要なので、氏のこれまでの実績や、(擁護する人から見た)人柄を否定しなくても良い。
先程、スピード違反の例を出したが、ドライバーがどの様な人間かは関係ないので、そのドライバーに対して「素晴らしいドライビングテクニックだ!」「普段は安全運転をする人だ」などの感想があっても良い。
私は本音の発露は良くないとしているが、感情が湧き出ること自体を否定しているわけではない。
彼女とは友達で、といっても一目惚れだったので好きになってから友達になった。たまたま共通の友人がいて、たまたま趣味もあったので仲良くしていた。
中学を卒業したあともSNS等でちょこちょこ繋がりがあって、大学進学を機に上京したこともあり、大学時代は何度か2人で遊びにもいった。誘うのはいつもわたしからだったが。
理由は、彼女と付き合うことが正解だと、幸せだと、思えなかったからだ。
彼女のセクシャリティはほぼ間違いなくヘテロ(異性愛者)だけど、そこはあんまり関係なかった。正直な話、優しい人なのでゴリゴリに押せば付き合ってキスのひとつくらいはできたと思う。
でもそうしなかったのは、彼女が人生の平穏として、異性と結婚して家庭を作ることを求めていたからだ。
セクシャリティとか性欲の話ではなく、精神的な安心として、異性と結婚している状態を求めていた。世間から浮かない、外れない、平穏に祝福されて世間に馴染む生き方を。
ハッキリとそう聞いたわけではない。
中学生ながら将来の話をしたときには、「結婚はどっちでもいいけど、子供は欲しいかな」と言うようなことを言っていた。
でもなんとなく分かる。彼女の心の平穏が、異性と一般的な結婚をしている状態にあることを。
それに、他ならぬわたしが思ってしまったのだ。あ〜この人、お母さんしてるの似合うだろうなぁと。それがいちばん、この人にとって自然な姿なんだろうなぁと。
それでも人として、友人として好きだったし……いやいや。そんな綺麗事ではなく、恋愛として好きだったので、役に立ちたかったし、感謝されたかった。せめて、「わたしの友人にこの人がいて良かった」ぐらい思って欲しいと、思っていた。だから友人を続けようとしていた。友人でいることが目的じゃなくて、せめて彼女の人生の欠かせないピースになりたくて、友人でいた。
中学の頃のわたしが想像したとおり、彼女はわたしの友人の中でもかなり早めに結婚した。
結婚するという話はSNSで聞いて、その時におめでとうと、コメントしたと思う。それなりにダメージは受けたが、まあでも「おめでとう」くらいは言えた。予想はしていたので、予定通りの返しができた。
結婚式はあげなかったらしく、出席していない。というか結婚してから一度も会っていない。
いまだに彼女はわたしのなかで一つの特別だが、じゃあ今のわたしが今の彼女を恋愛感情として好きか、と聞かれると、それは違う。
大人になってから、彼女に会うたびに思う。もうそういう「好き」ではないと。
残っているのは彼女を好きだった気持ちより、諦めたときの傷と痛み。
自分ではどうあがいても手に入らないものがあると、あげられないものがあると自覚した痛み。それが残っている。
自分でもびっくりしたのだが、これがなかなかダメージをくらった。しばらく現実逃避するくらいには痛かった。ショック、だった。想像したくないとすら思った。SNSの投稿にコメントも、いいねも出来なかった。
おかしいことに、母親をやっている姿は想像していたのに、妊娠と出産は想像していなかったのだ。
結婚までは、わたしでもその気になればできたからかもしれない。だから想像ができた。
でも子供は。妊娠は、出産は。どうあがいても無理だ。だから、痛くて怖かった。
これを書いている今も、内臓がキリキリと痛む。
子供の頃、どうしても欲しかったのに、絶対に買ってもらえないと分かっていたから、買ってと言えなかったオモチャなのだ。わたしにとっての彼女は。
どこが好きで、なんでそんなに欲しかったのかなんてもう覚えていない。でも、子供ながらに冷静に「諦める」という選択をしたこと。そのときの妙に冷たいこころの痛みだけが強烈に残っている。
この先の彼女は、絶対に、なんど時間を巻き戻してやりなおしても、わたしとではできないことをしようとしている。それが恐ろしい。わたしの知らない彼女になってしまう。
いまが妊娠何ヶ月かはしらない。予定日もしらない。
近々彼女は引っ越すかもしれないらしく、もしかしたら出産するときにはもうこの辺りには住んでいないのかもしれないと。
それが分かった時に、少しだけほっとした。このご時世もあいまって、たぶん、「子供が生まれたからお見舞いに来て」と気軽には言われないだろうと。
旦那は(会ったことないが)彼女が選んで結婚するだけのひとだ、しっかりした人なんだろう。彼女に好きになられるだけでスゲエな、と思うし、相手がだれであろうと数年付き合って結婚するという偉業をなしたのだ。素直に尊敬する。
でも子供は、なにもしていない。
ただたまたまそこに、命として生まれたのが彼女の腹の中だったというだけだ。
たったそれだけの偶然で、その命はこれから数十年の間、彼女の愛情を一心に受けて育つのだ。
憎らしいとしかいいようがない。
生まれてきたその姿をみて、自然に笑える気がしない。かわいいと思える気がしない。
うっかり「抱っこしてみてよ」と言われて抱いた時に、そこが3階で窓が開いてたら、わたしはソレを外に放り投げてしまうかもしれない、と思う。
そのくらい、いまわたしの心は痛い。
わかっている、旦那ではなく子供に嫉妬している時点で、恋愛感情としても歪んでいることを。ぜったいに手が届かない、もはや空想上のものを羨んでいる。手を伸ばそうともしなかったくせに。
こんなことを思っている時点で、友人としても破綻しているのだ。
考えてみれば、共通の友人は彼女の旦那に会ったことがあるらしいのに、わたしは一度も会ったことがない。会う?と聞かれたことすらない。
そもそもわたしは彼女の友人にすらなれていなかったんだろう。友人になることが目的でないことを、うっすら彼女も気づいてたのかもしれない。
それでも、いやだからこそ。こんなにわたしのこころが痛いからこそ、中学生のころのわたしがした選択を、わたしだけは褒めたいと思っている。
あの頃のわたし。わたしが想像したとおり、彼女は結婚して、お母さんになる。とても幸せそうだ。1人で暮らしていた時より人生は充実していて、とても満足しているように見える。
わたしがあのとき、ダメ元で告白していたからといって、今の彼女と違う彼女になっていたとは正直思えない。振られていた、あるいは奇跡的に付き合えたとしても確実にどこかで別れているだろうし、彼女は異性と結婚しただろう。でも、もしもわたしが告白していたら、彼女の心には「同性の友人に告白されたから振って、相手とは微妙な関係になった」という小さなトゲが刺さっていたと思う。そのトゲを刺せば良かったとは、いまのわたしはまったく思っていない。
だから、これで良かったのだ。
これで良かったんだよ、14歳のわたし。わたしが、学校で彼女に会うのが痛くて、だから朝が来るのが怖くて夜寝たくなくて、でもご飯を食べると眠くなるからと夕食を抜いて泣きながら決めたことは、正解だった。
他の誰が知らなくても、今のわたしが知っている。
タイムマシンがあればよかったなぁ。
◎前置き
X日後に死ぬことが分かっているとしたら、僕は残された日々をどう過ごすだろうか。
いくつかの仮定を置いたうえで思いついたことを書き連ねてみる。
・X日後に死ぬことは確実であり、僕はその事実を受け入れている
この前提がなければ、僕は何とか生き延びる手段を探すだけで、残りの時間を使い切ってしまうかもしれない。
何か災害や天変地異で多くの人が死ぬわけではないということだ。僕以外の人々や環境は、僕の死以外は何一つ変わらず日々が続く。そのため、他の人を救うために時間を費やす必要もない。
この2つの前提を置くことで、僕は残りの時間を純粋に自分が満足するためだけに使うと想定する。
◎1日後に死ぬ僕
平日なら、仕事を休まなくてはならない。仮に大事な仕事があったとしても、何かと理由をつけて休むだろう。残念ながら、僕にとって今の仕事は、24時間しか残されていない状況で時間を割くには及ばない。事情を説明して別れを惜しむほど、会社の面々とは親しくない。みな僕の死を知ったら驚くだろうと思いながら、事務的に部長に有休申請を行うまでだ。
明日死ぬと思って毎日を生きよう、そんな格言を聞いたことがある。そう思うことで、本当に望むことに取り組むことができるという意味だそうだ。しかし、本当に1日しか残っていないとしたら?できることはあまりに少ない。選択肢はとてつもなく刹那的になってしまいそうだ。僕には好きな友人や家族はいるが、特別日々を一緒に過ごす類のパートナーはいない。仮に恋人や妻がいれば、最後の1日を普通に過ごして見送ってもらうだけで終わるかもしれない。だが、そんな相手はいない以上、個人的に満足に過ごす方法を考える必要がある。
僕はきっと24時間を一人で過ごすだろう。もうすぐ死ぬことが分かったうえで、友人を呼びつけて一緒に過ごしてもらう気まずさには耐えられそうにない。両親との関係は悪くないが、この状況では会うには気が引ける。そんなことができる距離感の相手なんて、それこそ恋人か妻か子供ぐらいしかいないのではないか。残念ながらそんな相手はいない。誰かに電話くらいはするかもしれない。でも、友人には普段電話などしないので、何か問題ごとでもあるのかと勘繰られてしまいそうだ。何かの用事にかこつけて、母親の声でも聞ければそれで十分だろう。
最後の1日を刹那的な快楽のために使うか、何か意味のあることに使うか、悩むところだ。刹那的な快楽を得るならば、とにかく美味しいものを食べるとか、綺麗な景色を見るとか、性欲を満たすとか、そんな過ごし方になるだろう。できるなら最後の食事は美味しいものが食べたい、でも一人で食べるなら何でも一緒に感じてしまう気もする。そもそも残り時間を考えれば、栄養にもならない食事に時間と労力を割くのはもったいない。食事に限らず、もう何も思い残すことがないと思えるほどの快楽なんてあるのだろうか?どんなに刹那的な快楽を満たしたとしても、最期の1分1秒には、どこか虚しい気持ちになってしまうのでは?
そうだとしたら、死ぬ瞬間に満たされた気分になる1日の使い方とはなんだろうか。やはり「善いことをした」「この世界に良い影響を残した」と思うことで、自らの人生を肯定できるようになることではないか。残念ながら、僕が仮にこの文章を書いている今この瞬間に死ぬとして、僕は何かこの世界のために役に立ったのかと問われると、自信をもってイエスとは言えない。たいして他人に迷惑をかけずに生きているという自負はある。しかし、周囲との干渉が少ない故、特別人助けをしているわけでもない。仕事だって、給料に見合う働きを提供するだけの等価交換で、社会に対してプラスを与えている気はしない。そんな認識を塗り替えるようなことが、24時間で成し遂げられるだろうか?
一つ、すぐに取り組めそうで最も「自分が」やる意義がありそうなことは、近しい友人たちに手紙を書くことだ。僕は29歳で、同年代の友人たちの多くは、若くして死ぬということに実感がないと思う。僕自身もそんな実感はない。そんな友人たちに向けて、身近にいる人間として、心を込めたメッセージを残せば、きっと彼らは限られた生を実感して、より有意義に過ごしてくれるのではないか。そう思いながら昇天するのは悪くない気がする。
一応、死因は自殺ではないことが皆に分かるように手配しておきたい。僕の世代の死因に占める割合は自殺が多いはずなので、事情を知らない人には勘違いされる可能性もある。僕自身はこの際どう思われても構わないが、勘違いのせいで周りの人が嫌な思いをしてしまう事態は避けたい。
◎1か月後に死ぬ僕
1か月は新しいことを始めるには短いが、1か月はちょっと長い。休まず有意義に使い切ろうとしたら息が詰まりそうだ。それでも、1日でも労働に費やすのは惜しいと思ってしまう。やっぱり仕事は無理やり辞めるしかない。お金が必要でないのなら、働かないに越したことはない。そもそも現状で何故僕は、嫌だと感じている労働に多くの時間を割いているのだろうか。
別に誰かに命令されるわけでもなく、僕は自分の意志で一挙一動を選択してきたはずだ。その積み重ねで生きてきたはずなのに、何故不本意な結果となっているのだろうか。僕は必要に駆られて働いているのであって、労働から精神的な充実を得られると期待するのが筋違いなのかもしれない。とはいえ、身の回りを見渡してみれば、仕事を楽しんでいる人はそれなりにいる。今の職場に就職した理由に思いをはせると、僕は仕事の内容や会社の状況について多くの誤解をしていた。さらに言えば、自らが求めているものもよく理解できていなかった。分からないものが多すぎたので、正しい選択ができていなかったのだ。そして、今も自分が求めているものはよくわからない。
1か月もあるのなら、できるだけ面倒を残さないように、いろいろな手続きを済ませておきたい。仕事を辞めて、部屋を片付けて、もろもろのサービスを解約しておけば、あとに残された人も困らない。ついでに恥ずかしい日記を処分しておこう。あと、年に1度ぐらいしか帰省はしていなかったが、顔ぐらいは見せておこうと思う。
口座に200万円はある。これを一体何に使えばいいだろう?1週間で使い切るとすれば、なかなかの贅沢ができる。どうせならぱーっと使ってしまいたい。僕の貯金は社会に影響を与えるには雀の涙すぎるし、このお金を寄付するほどの聖人ではない。それに、個人的に残してあげたい相手がいるわけでもない。しいて言えば、会社勤めをしながらイラストレーターの夢を追う弟にはちょっと残してあげてもいいだろう。全部残すと重たいし、あぶく銭は彼のためにもならないかもしれない。残高を気にせずに、旅行したり、いいものを食べたりして、残った分は弟に渡すくらいでちょうどいいかもしれない。
僕はかねてから死ぬ前に一度バンジージャンプに挑戦してみたいと思っていたが、1か月のうちの半日ほどを費やすに値するほどではなさそうだ。リストに入れるべき項目は、手紙を書くよりは重要でなくて、バンジージャンプよりは重要なことにしよう。残り1か月があるなら、無理を言ってでも友人たちに会って、直接思うことを伝えることができる。
そういえば、残り24時間しかない場合を考えているときは、お金のことには思い至らなかった。僕にとってお金は最優先事項ではないのかもしれない。ある程度長い期間生きるとして、なくてはならないものであって、それ以上のものではないのだろう。少なくとも、残されたお金の使い道を考えながら死にたくないとは思う。
◎1年後に死ぬ僕
1年残っているなら、少しはきれいに仕事を辞めてもいいかもしれない。2週間ぐらいは引き継ぎに費やしてもいいし、そのほうが残りの1年間をすっきりした気持ちで過ごせるだろう。残りの期間で仕事の関係者に出くわす可能性が上がるので、あまり気まずい思いをせずに済ませたい。これくらいの長さがあると、「将来のために今は多少我慢をする」といった発想が生じてくる。
きっと、仕事を辞めた理由を誰もに聞かれるに違いない。親しい人たちには正直に話すほうが良さそうだ。残り1週間ならともかく、1年間あれば段階的に別れを受け入れることができる。何度か会ったとしても、そう重苦しい雰囲気にならずに済みそうだ。でも、どうやって伝えたらいいのか分からないし、伝える瞬間の気まずさに耐えられなさそうだ。Twitterにでも書き込もうか。
貯金を取り崩すだけでも、何とかやりくりして生きていけるだろう。まず、会社に行かなくていいなら、家賃はできる限り節約しよう。決して余裕があるわけではないので、計画を立てて、慎重にお金を使っていくことになるだろう。食事だってそんなに贅沢はできない。それでも、僕にとってはお金よりも時間のほうが大切であって、贅沢をするためにより長く働こうという発想にはならない。
1年もあるならば、全く新しいことを始めたとしても、何かを成し遂げられる気がする。果たして僕は特別に何か成し遂げたいことがあるのか?と考え始める。そして、今までの日常の延長線上でしか考えられないことに気づく。思うに僕は無趣味なのだ、無趣味な故、急に働かなくてよくなったら、何をして過ごしたらいいのかわからなくなる。働きながらだって休みはあったけれども、寝て体力を回復したり、家事をしたり、友達と遊んだり、ランニングしたり、漫画やアニメをダラダラと見たりしていたらあっという間に時が過ぎた。漫画やアニメを見るのは好きだが、あと1年で死ぬとしてずっとそれに時間を費やしたいとはあまり思いつかない。それはリラックスを兼ねた娯楽であり、積極的に取り組んでいるというよりは、消去法的な時間の過ごし方だった。
もともと、人生を捧げられるような対象が欲しいと思っていた。しかし、そんなものは見つからず、とにかく生活のために労働し、疲労と惰性で考え事をするのもままならず、暇な時間ができたら途方に暮れる有り様だ。そんな対象がなくても、愛すべき人がいて、その人と過ごすだけで楽しく満ち足りた日々になるなら、それまた幸福だ。しかし、1年しか残されていないのが分かっていながら、新しく親密な関係の相手を探すのは残酷めいている。残される相手のことを考えると、残り1年で愛すべきことを見つけるなんてハナから期待すべきでない。
愛する人もいないし、やりたいこともない。そんな自分の現状は不甲斐ないが、ないものはないので仕方ない。とにかく何がしたいのか考えてみよう。かといって急に机に向かって考え始めたからといって、何か思いつくわけではない。12か月もあるのだから、1か月ぐらいは思い切って、考えるために時間を使ったっていいではないか。いったん、何もかも放り出して、どこか海沿いの旅館にでもこもって何をしたらいいか考えることにしよう。それ以上のことは今は思いつかない。
10年間生きるならば、すぐに仕事を辞めるわけにはいかない。自分がやりたいこととは別に、生活費を稼いでいくということを主軸に据える必要がある。仕事をどうすべきか、という問題に正面から向き合わなくてはならない。この問題については、大きく二つの方向性を考えることができる。一つは、多忙でもハードでも、とにかく給料の高い仕事に転職してお金を稼いで、一日でも早く仕事を辞めようとすること。もう一つは、仕事をしている時間を無駄と感じずに済むくらい、意義のあるものにすることだ。残念ながら、現状の仕事はどちらにも当てはまらず、ただ金を稼ぐため、辞めて履歴書に傷をつけないために惰性でぶら下がっている状態だ。よって、残り10年間を前提とするならば、すぐにでも転職活動をして、より有意義な時間を過ごせるようにしたい。
例えばかなり無理をして、3-5年間ハードな場所で働いて、残りは働かずに暮らせるのなら、悪くはない。この選択肢は、どう転んでも仕事をすることは苦痛なので、とにかく短期間で済ませるという考え方に基づく。貴重な10年間のうち多くの時間を割くに値するような労働はあるのだろうか?そんなものが見つかりさえするのなら、すぐにでも飛びつきたい。そもそも、そんな仕事があれば、残り10年とか関係なくやってみるべきなのではないか。
10年あれば、適当な理由をつけて別れることを前提に、恋人を作ってもそこまで罪深くはないだろう。すべてを語るような深い関係にはならないかもしれないが、一人で過ごすよりは日々に彩りが生まれそうだ。それとも、ふとした瞬間に虚しい気持ちになるだろうか?
◎30年後に死ぬ僕
10年ではなしえず、30年かけてしかできないものというのはそう多くはないはずだ。仮に僕が職人か何かで、同じことを一筋やり続けるのであれば、その時間の差は歴然となって現れるのだろうか。そんなことを考えると、今すぐ何かの道に入門して、極めてみたいものだという気持ちが湧くが、僕は飽きやすい人間であることをすぐに思い出す。僕はタイムマシンがあればすぐに30年後に行って、知識と経験の蓄積による果実を得たいと思う怠惰な人間だ。その蓄積の過程自体を楽しみ、こなしていくことができるなら、とっくに僕は何かを身に着けているはずなのだ。
残念ながら職人道を極めることはできなさそうだが、それでも少なくとも2つほどは新たな可能性が思いつく。まず、結婚して子どもを育てることが選択肢に入る、30年あれば、子どもが成人するまで面倒をみることができる。そして、家を買うかどうかも真剣に検討する必要がある。
僕は子どもが欲しいのだろうか?正直、残りの人生の期間について考えなければ、そんなことをまじめに自分に問う機会もなかった気がする。具体的に結婚するような相手ができて初めて、欲しいかどうかを考えればよいと思ったのだ。しかし、成人するまでは面倒を見ておきたいという条件を付ければ、残された時間は結構短い。相手ができたとして、すぐに子どもができるかどうかだってわからないのだから、30年のうちの最初の5年くらいで、一連の仕込みを済ませておく必要があるだろう。そのような前提を置くと、恋愛や結婚は残り時間から逆算したうえで、極めて計画的で無駄のないプロセスで行う必要がある。そう考えると窮屈に思えてきたが、女性であれば出産できる年齢が限られている故、同じような考えを持つのだろうか。一通り考えを巡らせたところで、そもそも子どもが欲しいかどうかすら分からないことに気づく。別に、残りの30年を考えたうえでそれが最優先事項というわけでは無ければ、窮屈な思いをしてまで計画的に「仕込み」を行っていく理由もない。
30年もあると考えると、途端に今すぐには現状を変えなくても良いかという思いが芽生えてくる。僕は現状の生活に満足しているわけではない。それなのに、変えなくてよいと思うのはなぜだろうか?変化にはきっかけとエネルギーが必要なのかもしれない。そこそこのストレスや孤独があるにせよ、安定しており、ある種の均衡状態となっている僕の生活を変えるには、何らかの外的なショックが必要なのだろう。
◎53年後に死ぬ僕
今29歳の僕は、52年後に日本人の平均余命といわれる81歳になる。すなわち、52年後くらいに死ぬという前提は蓋然性が高く、それをもとに人生の計画を立てることはひとつ筋が通っている。しかし、正直なところ、年老いた自分がどう過ごすかなんて、今から計画を立てるのは馬鹿げている。そこに至るまでの不確定要素が多すぎる。
とはいえ、一つ考えるに値することは、日本にずっと住み続ける前提で人生を考えるか?ということだ。何せ、この時期までに日本の人口は2-3割くらい減る推計になっている。今だって、社会保険料と所得税と消費税が大きな負担になっているが、今後ますますその負担が増えることは間違いない。5-10年先の未来だけ気にすればよいのなら、別に自分にとっての影響は大きくない。でも、より長い期間を考えると、例えばまともに医療が受けられなくなったり、預金が没収されたりするリスクだってあるかもしれない。少なくとも、今現在の高齢者が受け取っているのと同等の価値の年金をもらうことは全く期待できない。
僕は家族や友人たちがたくさん住んでいて、最高のアニメや漫画を生み出す日本が大好きなので、できることなら日本に住み続けたい。しかし、生活があまりに苦しくなるようなら、泣く泣く国を離れるというのは、世界中のどこにでもある話だ。かといって今すぐに海外に移住することが賢明というわけではない。とにかく英語くらいはできるようになっておき、いざとなればよその国でも食べていけるような能力は身に着けておく、それくらいの「投資」は残り53年くらい生きるなら、多少今を犠牲にしてでもやっておいたら老後の安心に繋がるかと思う。
◎あとがき
現在僕は、感染症が広がり外に出られない状況で、友人と会う機会も減り、社会とのつながりが徐々に切れていく感覚を味わっている。もともと、仕事に追われて、生活のために生きているような感覚を覚えていたが、そこから抜け出すことを難しく感じていた。一日中家で仕事をして、終わっても何もしたいと思えることがない。あまりに空虚な自分の生活に一種の絶望を感じている。
そんな中いつものようにTwitterを目的もなく眺めて時間をつぶしていると、「友人は少なくていい、3か月後に死ぬとしたら一緒に過ごしたいと思えるような相手さえいれば十分」というような記事にたどり着いた。そこから着想を得てふと自分の生活を振り返ってみると、3か月後に自分が死ぬのならやらないであろうことであふれていた。短い間に自分が死ぬことを考え出すと、僕は気が楽になった。これは僕自身にとってのセラピーになった。ある種のミニマリズムや断捨離に近い感覚で、「3か月後に死ぬのであれば不要」と思えることを生活から切り捨ててみる。例えば僕はいつか読んでおこうと思っていた大量の本をその基準に従って捨てた。すると、僕の人生は前よりも少し方向性が定まったように感じたのだ。
とはいえ、それと同時に、自分の空虚さを改めて実感するきっかけにもなった。自分の寿命の想定をどんどん伸ばしていくほどに、可能性は広がっていくはずなのにやってみたいと思うことが思いつかないのだ。まるで、遠方ほど霧が濃くなっていくような感覚だ。この問題は僕が、「いつかは役に立つだろう」と思われる仕事や資格の勉強に時間を費やしがちだったことと関係があるかもしれない。その時々に自らの欲求に耳を研ぎ澄ませてこないできたら、欲求をとらえることができなくなってしまっていた。
平均寿命から想定して、老後の安心や家庭を持つ可能性なども考慮した貯金やらライフプランとやらをある程度は考えなくてはならない。それでも、僕のようなタイプの人間は、3か月後に死ぬというぐらい過激な想定をしてでも、素直に最もやりたいと思えるようなことを考えていくべきでは、というのが今のところの結論だ。
僕の文章は思いつきを並べただけでまとまりのないものになってしまったが、もっと多くの人にこの思考実験をやってもらって、その結果を読んでみたいと思う。ぜひこれを読んだあなたも試しに3か月後に死ぬとしたら何をするか考えて、記事を上げてみてほしい。
いまのパンピーが持ってる古典教養、枕草子と平家物語の一部を覚えてる程度でしょ
いち教科として何百時間も割いてその程度しか頭に残ってない時点でゴミであることは明白
・古文は内容のないカスみたいな恋愛小説、つまんねえ説教くさい話ばっかり読まされる最悪の教科
・漢文は簡単だし内容もまだ面白いがわざわざ習うほどではないし、返り点を読解できるようにならないといけない意味が本当にわからない 新たに漢文書くことなんてないんだしもう全部書き下せばいいだろ
まあ名作古典の存在くらいは知ってていいけども、わざわざ原典を読まんでよろしい そんなことやってられるほど余裕ねえだろ
ウンチみたいな内容のカス文章を読みやすいって理由だけで教材にして時間を空費するくらいなら、名作の内容をつまみ食いしたほうが絶対マシ
これ苦しい言い訳だよなあ!
古文で学んだ方法論が英語学習で活きた!と思ったことなんて一回もねえぞ そもそも語派とかガッツリ違うし、厳しいですって
俺はスペイン語やって英語力もなんとなく伸びた感じがあるので、外国語学習がどうこう言うなら古文なんて捨てて素直にフランス語なりスペイン語なりをやったほうがいいと思う
特に古文の内容がクソすぎてむしろ日本文化がかなり嫌いになった感じがあるんだよな
キショいんだよ古文 感情が昂ったところで和歌詠み始めるのが本当に気持ち悪い ぶっ殺したくなる つか、詠んでねえだろ?ホントは ホントは「う、う、」とか言ってアタフタしてただけの陰キャがあとからカッコよく詠んだ風に書いてるんだと思うとマジで鳥肌モンなんだよな
事件当時ロマン・ポランスキー監督は不在で(映画でもその通り)、犯人たちに襲われていない。
現在も存命で去年も作品を出している。(少し昔の作品だが、戦場のピアニストはかなり話題になった作品)
しかも殺人犯とは何ら関わりがなく、以前に引っ越した住人と勘違いされて彼女らは殺された。監督らの素性は事件に関係がない。
この映画が救ってみせたのは監督ではなくその妻、シャロン・テートだ。
劇中でも説明される通り、当時売り出し中の女優で、監督との子供を妊娠中だった。
この映画ではシャロン・テートの魅力的な姿が何度も描かれ、しかし最終的にディカプリオが彼女の家に招かれる場面ではインターホン越しでのみ会話し、ディカプリオと同じフレームには映らない。
とても誠実な描写だと思う。
実行犯に殺害を指示したチャールズ・マンソンは額に鉤十字のタトゥーを入れているが、タランティーノは過去のイングロリアス・バスターズで憎きナチの額に鉤十字を刻んだ。(ちなみにこのナチ将校役の俳優がポランスキー監督の映画おとなのけんかで主演してる)
そしてイングロリアスバスターズでは「映画を使って」ナチどもを焼き殺したように、この映画でもマンソンの手下を「映画の小道具を使って」焼き殺す。
1969年は「ロックが死んだ年」ともいわれ、アメリカにとって大きな節目だったことには違いがない。
しかし監督のタランティーノは「ハリウッド監督」ではないし(アメリカ映画=ハリウッド映画ではないのがややこしい)、彼はハリウッドやアメリカなどメインストリーム以外の映画も浴びるほど見ていて、それこそ中国や香港や日本などアジアの映画に多大な影響を受けた人間である。
キルビルが急遽テイストの違う二本立てになったのも、チャイニーズ・オデッセイという香港映画の影響である。(チャイニーズ~は一作目がコメディで、二作目が恋愛もの)
(タラがオールタイムベスト一位に挙げている続・夕陽のガンマンもイタリア産のマカロニウェスタンでアメリカ映画ではない。ちなみに監督のセルジオ・レオーネが撮ったワンスアポンアタイムインアメリカも長いけど大変な名作。セルジオ・レオーネ監督の大ファンでもあるし、タイトルからもわかる通りタランティーノはかなり影響を受けている。~インアメリカについては、ラストのデニーロの微笑みの解説を見ると、また味わいが増す)
ブルース・リーの話が出てきたが、タラはキル・ビルでは死亡遊戯の衣装を真似し(何の説明もなく出てくる「カトーマスク」も、グリーンホーネットでブルース・リー演じるカトーがつけていたマスクのこと)、主人公ブライドの使う技はブルース・リーのワンインチパンチで、必殺技は(ブルース・リーに影響を受けた)北斗の拳の技のようだ。オーレン石井へ敬意を示す闘いは、ドラゴンへの道のチャック・ノリス戦を思い起こさせる。
キルビルで描かれる復讐や暴力の虚しさは、燃えよドラゴンでブルース・リーが奇妙な泣き顔で表現したのと同じものだ。
そして敵役のビルには、ブルース・リーのドラマ企画を奪った俳優デヴィッド・キャラダインを配している。
タランティーノは、そういう監督なのである。ちなみにブルース・リーの主演が叶わなかったドラマ企画が、ちょうどワンス~の時代の頃の出来事でもある。
ちなみに、キルビルが前後編になった元ネタのチャイニーズ・オデッセイの主演はチャウ・シンチー(少林サッカーが有名)であるが、彼もまたブルース・リーマニアだったりする。(ドラゴン怒りの鉄拳のパロディや、少林サッカーやカンフーハッスル等、ブルース・リーネタ多し)
少し脱線するが死亡遊戯という映画もまた、「ブルース・リーという俳優の死後に、彼が生きているかのように撮られた」特別な作品で、その点がワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドと共通している。
(すでに香港ではスターだったが)ブルース・リーもハリウッドでの売り出し中にこの世を去った人なのだ。(ワンス~劇中でシャロン・テートが自分の映画を見るシーンがあるが、ブルース・リーは燃えよドラゴンの公開やそのヒットを目にすることがなかった)
ちなみに作中で喧嘩していたブラピ本人もブルース・リーおたくである。楽しかっただろうなあ。(ファイトクラブでの物真似が彼のアイデアというのは有名)
あとワンス~作中のブルース・リーが調子こいてるのは、実際の彼がああいうキャラだったためでむしろファンとしては大喜びするポイント。(ブルース・リーの物真似をするときは、顎をしゃくって半目で相手を文字通り見下したように眺める。服のセンスも、実際にああいうチンピラのようなダサいファッション)
何より、タランティーノは「超」がつく映画狂で、大げさではなく映画から人生のすべてを学んだような人間だ。
あらゆる映画を吸収し、現実にはモテないスーパーボンクラだったくせに、(映画からの知識だけで)玄人好みの渋い「中年の恋愛映画」すら物にしてしまう監督である。
落ち目だった俳優を「自分が好きだから」という理由で起用し、劇的にカムバックさせたりと、フィクションの力で現実を変えたこともある。
(※ネタバレ注意:この俳優とはジョン・トラボルタのことだが、タランティーノの好きな某映画ではヒロインを救えず、せめて「映画の中だけで生かす」ことを選ぶ。言うまでもなく、ワンス~を思い起こす)
(というよりもともと映画そのものが、亡くなった俳優の生きている姿を見られるタイムマシンのような装置なのだろう。そういう評論はよく見る)
そして、前述のイングロリアスバスターズではユダヤ系の、ジャンゴではアフリカ系の観客の心を、荒唐無稽なフィクションで熱く揺さぶった。
ヘイトフル・エイトでは差別主義者と黒人の和解をそれこそ「フィクション」という小道具を介し、素晴らしい形で描いてみせた。
日本ではネタにされがちなキルビルも実に真面目な女性映画である。「五点掌爆心拳」などという冗談のような技で、男女の歪な恋愛関係を誠実に描いたのだ。この映画では男はみな弱くて使えず、女性は強く逞しい。
(タランティーノは「強い女性」を描く監督としても有名だ。殺人鬼の変態スタントマンが、女性スタントマンたちにボコボコにされる映画デス・プルーフも撮っている)
タランティーノはフィクションの虚しさも当然知っているだろうが、同時にフィクションの力を強く信じている人間でもあるのだ。
(ちなみにデス・プルーフの主演であるゾーイ・ベルはキルビルでユマ・サーマンの「スタント」をしていた女性で、ワンス~にも出演。例の「ブルース・リーとの喧嘩」で車を壊されたひと。死亡遊戯→キルビル→ワンス~と考えてみても面白い)
(ディカプリオについては、ある種かなり本人に近い役。若手時代から演技力が高かったのに、レヴェナントで受賞するまでアカデミー賞からは長年ずっと無視され、色んな人に揶揄されてきた。アカデミーに無視されてきたのはタランティーノも同じ)
もちろんワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは、ハリウッドやその他の「アメリカ黄金時代」への郷愁が詰まったお伽噺ではある。
そういう話聞くとタイムマシンでクリスマスプレゼント持っていってやりたくなるわ
まず、コンピュータゲームがほとんど巷に存在しない時代にPongが登場すれば、そりゃみんなゲームにワクワクしたはず
アメリカにアーケードゲーム筐体だってそのものがない時代なんだから
だからスティーブ・ウォズニアックだってApple IだのIIだのでPongの実装はやっていたはず
それもスティーブ・ジョブズは売りにしてたはずだ
Pongが動作すると、次はブロック崩し(Breakout)が作れる
プログラミングのコツの一つは他人のプログラムを改変することだ
Pongが動くなら、そこからドットやドットの塊をVRAMに描画することは可能だと気付くだろう
でも、単なる壁打ちや対戦ゲームだったPongのゲーム性を大きく変えることになる
日本のゲーム企業タイトーは、このブロック崩しをインベーダーゲームに「再々」発明した
これも実現可能であることは誰でも分かるが、ゲーム性を大きく変えることはある種の発明だと思う
ちなみに、孫正義はタイムマシン商法が得意で、このインベーダーゲームをアメリカに輸出し大儲けした
相変わらず、左から右、右から左に他人のものを移動して儲けるのが上手い(いや、本心から褒めてるんですよ
インベーダーゲームでは、ブロックは上から段々と降りてくることになる
また、ブロックが左右に動く、UFOは高速に動く、手前のバリケードがありドット単位で破壊される
プログラミングのコツの一つである、他人のコードを改造する、は本当に素晴らしい再発明を起こしてくれる
Pong → ブロック崩し → インベーダーゲーム → ギャラクシアン → ゼビウス → グラディウス → 斑鳩だの東方だの弾幕避けだの何だの
に繋がっていくわけだが、
この矢印での「パラダイムシフト」の段差が高いほど、ゲームに対するワクワク感が増すと自分は考える
つまり、ギャラクシアンのようなグラフィックからゼビウスが登場したときは、
安っぽい言葉で形容するなら一大センセーションというかエポックメイキングという感じだったわけだ
しかし、今の時代、2Dシューターにそんなにワクワクはあるだろうか?
というか、マニアでない奴が口を挟むな、と言うぐらいタコツボ化しているように思うのだが、
寧ろ、様式美とかお約束が守られてることがプレイヤーの安堵感につながる
2Dシューターができれば3Dシューターが作れるのも自明である
ただ、マシンのグラフィクスの能力が低かった時代にはリアルタイムでの3次元CGの実現が難しく、
アメリカではベクタースキャン、つまりオシロスコープやブラウン管テレビの走査線方式が主流だった時期もあったが、
アメリカではワイヤーフレームの3Dゲームが実現していた時代、日本はファミコンに向かっていた
自分にはハードウェアによるスプライトに固執し、束縛され過ぎているかのように今からすると思える
一方、ファミコンのスプライトの数はMSXと比べると段違いであったが、
ファミコンは2Dスプライトベースのゲームだけを前提としていた
つまり、ファミコンでブレゼンハムのアルゴリズムによる直線を引くとか困難だったのではないだろうか
自分はファミコンの開発はよく知らないのだが、ファミコン版のテグザーは酷すぎると思った
MSXの方がファミコンよりもトータルのグラフィック性能が劣るにも関わらず、
こうやってだらだら書き連ねてみると、
つくづくワクワクするのは何だってアーリーアダプターの段階であって、
そのあと結婚だって何だって倦怠期?ワクワクが減少する時期がやってくるのである
何もない状況にパラダイムシフトを起こす何かがやってくるとワクワクするのであるならば、
乳児はこの世界の何もかもにものすごくワクワクしていると思われる
乳児でなくなると、この世界の変化しないものは常識として脳に定着して、つまらないものにさえなる
でも、若ければまだまだ体験していないことはあるわけだ
若ければギャラクシアン → ゼビウスがどれだけスゴかったかなんて知らんし、俺も知らんw
でも、ギャラクシアンより先にゼビウス見た世代だけど、凄いなあとは思ったんだよな
だって、自分の場合はギャラクシアンを飛び越えてゼビウスだったんだから
逆にギャラクシアンの方を後から知って、古臭いゲームだなー、レトロだなーと思ったんだから
(ただ、ギャラクシアンの曲線的な軌道はゼビウスなんかより凄い発明に思うんだが。整数演算なんだよね?
ただ、レトロレトロとバカにする人はプログラマーでないとかなんだろうけど、
ゼロからコード書くって、何もないところから作ることを考えさせられるわけで、
それはゲームのプログラムを書くならば、ゲームの基本のPongから考えさせられることになる
例えば、ゲームプログラムを書くときSDLとかSFMLみたいなライブラリは使うかもしれないけど、
自分も何か新しいゲーム開発のライブラリとかフレームワークとか検証するときは、
から始めて、次に倉庫番、簡単なブロック崩し、テトリスを実装するとかやることにしている
そこで開発の大まかな進行とかフレームレートとか、色々分かってくるわけだ
ジョン・カーマックがどこで語ってたのか忘れたけど、最近のFPSは完全にMOD開発になっていて、
そのMOD開発の費用はどんどん膨らんでいっていると言ってた気がする
つまり、レベルエディットとかキャラクターだアイテムだとか、そういうコンテンツの緻密な開発だけが進んでいる気がする
GTAみたいなゲームもFPSとかで培った技術の集大成にすぎない
可視領域をどう区切るか?遠くの建物にLODを使うか?インポスターを使うか?とかそういったゲームエンジンの話は、
マシンパワーの向上やUnityなどのゲームエンジンの登場であまり議論する意味がなくなってきている感がある
もっとも、Unityなり導入すれば簡単に作れるという話ではないと思う
思うが、もうゼロからチマチマCのベクトル計算のコードを書く時代ではなくなっているのは確かだろう
カーマックはその高騰するMOD開発をマインクラフトは意図的に安価にしたと言ってた気がする
つまり、マインクラフトであれば子供でもゲームを改造する体験ができるようになる
それはマインクラフトの開発者であるnotchがそういうゲーム開発に対する思想を持っていたからだ
私はnotchはシンプルなものを積み上げるのが好きなように思っている
ただ、jsdo.itだかに投稿していたソフトウェアレンダリングのコードは北欧のメガデモっぽさがあって、
読もう読もうと思って未だに読んでいないことを今思い出した
文章書き直す気がないまま、だらだら書いてみたが、読み返して自己分析するに、
まず、ゲーム開発でなくてもそうだが、
まず何かがあって、それをコピー改造した何かが生まれる、この連続で物事は進化していく
手塚治虫があって、それを高橋留美子がコピー改造して新しい漫画が生まれ、
次に若い漫画は高橋留美子の漫画をコピー改造して、また新しいものが生まれていく
開発する側も消費者もワクワクするのは、この改造して新しい何かが生まれる、守破離の離のインパクトであろう
黎明期はその離のインパクトが大きいが、どんどんそのインパクトは小さくなっていく
そして、ありふれたものが溢れるようになっていく
これが成熟期と言える
しかし、その成熟期に溢れるものは様式美であり、お約束であり、マンネリズムである
あの時代は3DOが先行したがコケたり、ドリキャスも登場してコケたり、面白い時代だったのである
ただ、今の時代にああいう群雄割拠というか、戦国時代というか、そういう活気がゲーム業界にあるようには思えない
VR元年って毎年言ってない?というツッコミは分からんでもないが、まだまだVRは伸びると思う
物体を触れないなんてのはまだまだVR市場が伸びる余地があるということだと思っている
あと、FPSみたいに走るゲームだと自分も走るのか?ということになるけど、うーん、ルームランナー方式はなあ…
あと、これも自分は専門でも何でもないので、
というか、この文章自体がダニング=クルーガーなのは認めざるを得ないわけだけど、
敵というかNPCというか、今の時代だったら高度な汎用性のある人工知能をゲームでも実現するべきだと思うわけで、
そうすれば当然、同じセリフを延々と喋るドラクエの村人みたいなのは笑い話にしかならなくなる
ゲーム内に高度な人工知能が実現すれば、それらと会話したり、それらとマルチプレイと同様の感覚の連携プレイが可能になる
今までと同じことを繰り返しててもワクワクしないし、
じゃあタイムマシン返せよぉ~(泣)
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a3ecc5d86ac23bc40fe3438fb41c10a4604fdf6
「もしドラえもんのひみつ道具を買えるとしたらいくらまで出せる?」
って話なんだが、
「とうめいマント」約1億4900万円
「どこでもドア」約1200万円
「タイムマシン」約3500万円
「もしもボックス」約9000万円
「アンキパン」約8万円
だそうだ。
お前ら秘密道具ナメてんのか。
アンキパンは、まあ妥当な所かも知れんが、他はお話にならんだろ。
どこでもドアが約1200万円? ランボルギーニ・アヴェンタドールの4分の1?
ちなみに地球から最も離れた人工物は、ボイジャー1号で既に太陽系内にいないが、それでも1光日に達してない。
火星どころか、別の恒星系であるケンタウロス座アルファ星であろうと5秒で到達できるんだぞどこでもドアなら。
1200万で買えると思ってんのか?
ソノウソホントも「宝くじで100億円当たる」と一言で100億円手に入るんだが、出せる金が7億3900万円だと?
どんだけケチなんだよお前。
「そもそも哲平はタイムパラドクスゴーストライターとは言えない。この漫画のタイトルは間違っている」
「タイムパラドクスゴーストライターとは未来のアイノイツキである。そして佐々木哲平はタイムパラドクスゴーストライターのタイムパラドクスゴーストライターとなる」
タイムパラドクスゴーストライターという言葉を読み解くには、この漫画には2つのホワイトナイトが存在するという事に目を向ける必要がある。
10年後の未来で藍野伊月が描いた「初代ホワイトナイト」、そしてそれを哲平がコピーした「2代目ホワイトナイト」である。
初代ホワイトナイトは藍野伊月がアイノイツキ名義で作った作品であり、これは純粋に藍野伊月一人の手による作品だ。
では、2代目ホワイトナイトはどうだろうか?
哲平が多少の改良を加えはしているものの、基本的には「初代ホワイトナイトを再現しようとした作品」である。
成分分析をするのならば、アイノイツキが60%哲平が10%哲平なりに再現しようとしたアイノイツキ30%で、ほぼほぼアイノイツキ分で作らえた作品である。
言うなれば、アイノイツキが10年後の未来から哲平に干渉することで、哲平の名義で描かせたアイノイツキの作品と言える。
ゴーストライターを、作品の名義人ではないがその作品(の全部もしくは大部分)を本当に書いた人物と定義するのならば、2代目ホワイトナイトのゴーストライターはアイノイツキとなるだろう。
言うまでもないことだが、10年後の作品である初代ホワイトナイトの影響によって10年早く2代目ホワイトナイトが産まれているのは紛れもないタイムパラドックスである。
タイムパラドクスゴーストライターとはアイノイツキに他ならないのだ。
後半、フューチャーくんの力で世界の時間を止めた状態でm哲平は2代目ホワイトナイトを完成させている。
初代ホワイトナイトは未来におけるアイノイツキの過労死によって途中までしか描かれていないが、哲平は2代目ホワイトナイトを精神と時の部屋の無限の時間を利用して完成させている。
さてここで一つ疑問が生まれる。
果たして、2代目ホワイトナイトはどこまで佐々木哲平の作品なのだろうか?
2代目ホワイトナイトは、言ってしまえば初代ホワイトナイトの模造品である。
終盤の展開も、アイノイツキが倒れたことで回収されなかった伏線や布石を随所に活かして展開されることになるだろう。
見方によってはこれは二次創作とも言えるが、他人の手を借りて初代の続きが描かれたものとも言える。
たとえば、ゼロの使い魔などはまさにその「作者が死んでしまったあとに代筆者の手を借りて完成された作品」である。
2代目ホワイトナイトの完結は、初代ホワイトナイトを知らないものから見ればオリジナル作品の完結だが、初代ホワイトナイトの模造品であることを知るものからすれば、代筆者の手を借りた初代ホワイトナイトの完走とも言えるのだ。
実際、哲平が目指したホワイトナイトは「もしもアイノイツキが最後まで書き上げられたならば世に生まれていた作品」がベースにある。
つまり、イツキが初代ホワイトナイトを通して2代目ホワイトをゴーストライターした後、その続きを引き継いだ哲平は2代目ホワイトナイトのゴーストライターとなっていたアイノイツキのゴーストライターをすることでホワイトナイトという作品を完結させているのだ。
まず、ゴーストライターが実は主人公ではない所から始まり、その後終盤で主人公が本当にゴーストライターになる。
しかもゴーストライターのゴーストライターであるし、タイムパラドックスも二重に起きている。
これでもまだ「タイムパラドクスゴーストライターというタイトルは間違っている」という主張をすることは、出来る。
することが出来るのがタイパクの懐の深さだ。
この漫画を題材にして「哲平のやったことは盗作と言えるのか」「ジャンプ爺さんがやったことは正しかったのか」「この漫画はメタフィクションだったのか」と多くの議論ができる。
タイパク、なんて奥が深いんだ。
久しぶりにタイパクが盛り上がってるようで何よりだ。
ホッテントリや増田に踊るタイパクの文字を見て、私の心もウッキウキである。
さて、今回増田を取らせてもらったのは他でもない。
「みんながタイパクをちゃんと読めているのか心配になった」からにほかならない。
タイパクは、作者ですら後日談を通して設定が斬新すぎて誰もついていけなかったとフォローを入れなければいけないほどの作品だ。
ファン~アンチまで幅広い層に、ちゃんとタイパクを読めていない読者がいるという悲しい作品である。
今回はこの場を借りて、タイパクの「基本」をおさらいさせてもらった。
しかも14話という短い話数ながらページの多くは哲平が良心の呵責や無茶振りに振り回されてはその度に屁理屈をこねて乗り越える描写に使い込まれてしまい設定は投げっぱなし気味である。
だが、ジャンプの紙面で未来のジャンプを盗作するという斬新過ぎる物語、その過程を補強するために繰り返される設定の増改築は、まさに打ち切り漫画界の九龍城砦。
珍味中の珍味と言えるこの漫画を、ただ駄作だから流し読みして、盗作してるしてないの論争だけで終わらせてしまうのは勿体ない。
この増田で「基本」を抑えた皆には、是非もっと高い次元でタイパクを語り合ってもらいたい。
読者の集合無意識、連載レースの具現化、作者の命さえ軽んじる市場原理、様々なものに結びつけていくらでも考察ごっこが出来る。
主人公。「皆が楽しめる漫画を描きたい」が口癖だが、あまりに没個性で誰も楽しめない漫画しか描けない。多分特技や好きな食べ物を聞いたら「いろいろ」とか答えるタイプ。20歳の時に新人賞で受賞してそれからずっと泣かず飛ばず。続けてたので絵はそこそこ描けるのでエロでもやれと言われている。ある日自宅の電子レンジがタイムマシンになり未来のジャンプが届くようになったので、そこに載っていた未来の傑作をパクる。
マシュのパチモノ。天才漫画家の卵。幼少期に上位存在(通称:ジジイ)と接触し、「皆が楽しめる漫画を描く」という夢を与えられる。その夢に振り回され、人類全員が楽しめる漫画という無茶な目標達成を目指すあまり、10年後の未来でジャンプの連載中過労死する。
10年後に藍野伊月が作る超名作。実際にどういう作品なのかはイマイチ読者に伝わってこないが、若干ダーク寄りのバトル漫画らしい。ワンピースと鬼滅の刃を足して1.5で割ったぐらいの作品だと思うといいはず。
哲平の最初の編集。哲平がホワイトナイトをパクって持ち込んだ時に作風の違いに気づく程度の眼力はあるらしい。
哲平や伊月の編集になる人。ホワイトナイトすげーと感動してるだけで、これといってなにかするわけではないネームドモブ。
創刊号から現在までのジャンプを公園で売っていた不審者。幼少期の藍野伊月に夢を託し、結果的に藍野伊月を呪い殺すことになるが、そのくせ悪いことしたなあってヘラヘラしてるサイコパス。
上位存在のジジイが送り込んだわけではなく、勝手に世界に干渉してきた上位存在の下僕。哲平の家の電子レンジと融合することでタイムマシンとなり、ホワイトナイトをパクって藍野伊月を破滅の未来から救えという頓珍漢な事を言い出す。哲平が漫画をパクってどうやって過労死を食い止めようとしたのか自分でもよくわかってないポンコツ。マクガフィンとデウス・エクス・マキナが融合した究極の舞台装置。
そんなタイパク(タイムパラドクスゴーストライター)の第2巻に載っていた後日談がジャンププラスに掲載され、今空前の第2次タイパクブーム!
これを読んだ君ならもう大丈夫!
https://anond.hatelabo.jp/20201026003439
バズってる増田を読んだ。
日本海側の3万人クラスの田舎出身の人間としては共感しかないのだが、嘘松扱いしている人がいるのがなんかむかついたので、私のエピソードも追加して地方の状況を広めたい。個人的には下記の3つが地方の不利さだと思ってる。
元増田も挙げていたが、地方に住んでると高等教育を受けた後に就ける職業のイメージが全くわかない。なんていうか、大学進学率が2割台で大卒の仕事自体があまりない町なんで、両親や親類、先輩と言った周囲の大人にロールモデルとなる人が全然いないのだ。うちの家族も俺がはじめての大学進学者だったりする。そんな俺の10代の頃のイメージはこんな感じ。
研究者→少年マンガのサポートキャラ、コナンの阿笠博士的な発明家ぽい人
その他商社マンや広告代理店とかの文系花型の仕事や司法書士、公認会計士等の仕業→そもそも大学行ってから存在を知ったぜ!
見えてる世界が狭かったんで、将来像がそもそもはっきりしないんだよな。俺は結局地方の国立工学部に行ったんだけど、箔のついた工業高校だと思ってたから授業で微積をまたやるのに驚いた。なんせオープンキャンパスでは面白理科実験的なことしかしてなかったんで。今となっては笑えるエピソードだけど、地方の高校生の認識ってマジでこんなもんだと思うよ。
個人的にはこれが地方の最大の問題点かなと思ってる。3万人の地方の田舎町でも、高校には進学コースがあってそれなりにレベルの高い教育を受けられた。ところが中学校がダメダメ。動物園状態。英語のリーディングで笑われるのはまあデフォルトとして、廊下を自転車で走るヤンキーがいたり、冬場にストーブで教科書を燃やしたりする馬鹿とかいてしょっちゅう授業が中断して学習できる環境では無かった。だけど義務教育なんで進度別のクラス分けとかあるわけもなく、校区制なんで学校の選択肢もなく。先生も進学熱が無いというか、金八先生に憧れてるようなタイプが多くて生徒指導のことしか頭がない。もしもタイムマシンで過去に戻れるなら親に無理を言って県庁所在地の中高一貫を受験してるだろうな。だけど地方で育つと中学受験という選択肢に思い至らないんだよな。そもそも田舎には通学1時間圏内に進学系の中高一貫高自体が無かったりするのがザラなんで。
コレは最初の項目と少し関連してるかもしれない。Amazonが普及した現在でも、参考書は実際に手に取って使ってみないとわからない部分が多いものだが、地方だと蔦屋併設の本屋が町に一軒だけ見たいな事が多くて置いてあるのがせいぜいチャート式と赤本だけだったりする。この選択肢の少なさは正直キツかった。もちろん予備校とかも無いので、入試対策は全面的に高校教師を信頼するしか無かった。幸い俺の担任は地方国立の数学科院卒の経歴で、難関大学の入試問題もスラスラとけるような頼もしい人だったんですごく恵まれてたんだけど、一つ下の学年は教育学部出身のちょっと頼りない先生だったんで、教師ガチャの要素がデカいなと思えたのだ。
まあ同じ地方でも、県庁所在地まで行けば話が変わってくるもしれない。紀伊国屋やジュンク堂的な大型書店があって多種多様な参考書を手に取って見れらし、進学校が存在してるから、実際に使ってる友人に見せてもらったりできるんでハンデは小さいかもしれない。周りにも県立なんたら大に通うような大学生があるから、それこそ友達のお兄ちゃんとかが自宅から通ってたりして、ノウハウやエピソードを聞いたりできそうだし。
昨日、子供とドラえもん見てたら出てきたあるシーンでずっとモヤモヤしているのでここに書く。
話は少年誌をのび太とドラえもんが読んでいるシーンから始まり、二人のお気に入りの漫画は、主人公がピンチに陥り次号に続く形で終わる。二人は続きがどうなるのかと話し合うのだが、結局答えは出ず、ドラえもんは気になって眠れない夜を過ごすことになる。
続きがどうしても気になるドラえもんはタイムマシンで一週間後へと向かい、本屋で立ち読みして続きを知るが、本屋の店主に叱られ途中までしか読むことができない。それでも大体の話は知ることができたので、のび太やスネ夫、ジャイアンたちに話してやっていると、その漫画の作者が現れ、続きが描けないから君のその素晴らしいアイデアをもっと聞かせてくれ!と詰め寄ってくる。あなたが描いたんでしょ!と言いながら逃げ惑うドラえもんに、作者は必死に追いすがるのだった。
というあらすじなのだが、この場合漫画のアイデアはどこから湧いてきたのだろうか?作者はドラえもんの言葉から発想を得て漫画を描き、ドラえもんが未来で見た漫画を描くのだろうが、このドラえもんの言葉は未来で見た漫画のあらすじをそのまま話しているだけである。作者もドラえもんも漫画を考えてはいない。じゃあ何処から湧いてきたんだよ漫画、っていうのを昨夜からずっと考えている。どうでもいいんだけどすごいモヤモヤするんだよな…。
予想外に伸びててびっくりした。ちょっと気になったのと、子供に「これ考えたのってどっちなの?」って聞かれて答えられなかったのが悔しかっただけなので、結末にケチを付けたいわけじゃないです。
ドラえもんに詳しい人や、SFに詳しい人も答えてくれてかなりスッキリしたし、子供にも簡単にだけど教えられた。皆さんありがとう。
従来のタイムマシンは、過去に戻るときにほぼ一瞬で戻っていたけれど、
TENETの世界では、過去に戻る時も世界に干渉しつつ同じだけ時間を掛けて逆行して戻る。
未来から過去へと歩く人は、普通の人にはまるでビデオの逆再生のように見える。
これを映像化したというのだから、SF好きなら観ずにはいられないだろう。
…という訳で観てきました。
友情とか努力とか勝利はどうでもよくて、ただ、どんな風に映像化されたのか?だけを観たかったので、
事前にネタバレサイト読みまくって予習してから行きましたけど、これは面白い。
最後に溶鉱炉に沈みつつも親指を立てるシーンは本当に泣けました。まぁ、ウソなんですが。
時間を逆行する人には、同じく時間を逆行する空気が必要という設定にすることで、
一方で、催涙ガス、消化ガスから身を守るための、本来の目的のガスマスクを着用するシーンを設けることで、
上手くミスリードされる。