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2021-03-01

必読書コピペマジレスしてみる・自分オススメ41冊編(1)

日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。

芥川龍之介河童

どの作品を入れるべきか迷った。古典翻案に見られる知性とユーモア晩年作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。

河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界架空言語に魅せられたのか、その理由はわからない。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン雪の女王

アンデルセン小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。

で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。

ところで、ディズニー作品価値貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニー普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)

グレッグ・イーガン祈りの海」

「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンニュートンアインシュタイン物理学自力発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者エンジニア最高、政治家宗教家文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。

そうしたえぐみ比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。

カズオ・イシグロ日の名残り

友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代適応できない英国執事物語である

彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものから登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。

カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。

ミシェル・ウエルベック素粒子

彼の作品不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテから思春期の頃には思いっきセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい

作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯思考した書物である

ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人

僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。

そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物意識から別の人物意識へと、外界の描写連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。

灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。

ミヒャエル・エンデはてしない物語

さえない少年万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれしまう。これは主人公異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式チートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白小説なのに、その小説現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。

ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆メッセージストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。

円城塔文字渦」

基本的自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉文字物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。

元々SFの人だけれども、最近日本古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。

遠藤周作沈黙

どうしてこれほどあなた信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやか奇跡あなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。

以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。

ただただ弱くて情けない人物遠藤周作作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。

イタロ・カルヴィーノ「冬の夜一人の旅人が」。

男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。

世界文学パロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマ物語レベルメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。

ダニエルキース「アルジャーノンに花束を

知的障害者チャーリーゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者セックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。

チャーリー女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。

天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか

ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」

素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。

アーサー・C・クラーク幼年期の終わり

子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。

人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙意味があるのか。

人類運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。


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2021-02-14

anond:20210214121736

議論するのは自由だ。意見、かな?

ただ世の中の意識の流れ社会的な常識って大河の流れのようなもので、一朝一夕で誰かが頑張っても堰き止められるもんではないんじゃないかな。然るべき影響力を持った人たちは確かにいるんだろうけれども。

そういう意味流行色とかファッション流行かにも似てるかもね。タピオカ流行った時に「なんでこんなもん流行ってるの?不味いじゃん。むしろ30年前に流行ったわ」と言っても全体の流れは変わらない。

長い年月をかけて大地が削られてできた巨大な地形が河の流れを決めているように、人の力大河の流れに及ばない。みたいな。

2019-02-26

anond:20190226190417

そういう社会全体の大きな意識の流れというのは、簡単根拠として示せるものじゃない。

それは、賛同意見が多数集まる様子から判断しましょう。

賛同意見が多数集まってる」という根拠は?

どの選挙の争点になってどのくらいの人が犠牲に賛成を投じたの?

君の錯覚に過ぎない。

てか、「社会道義的意味」って多数決なの?

だったら全てのマイノリティ意見黙殺が「社会道義的意味がある」ことになるなぁ?

支離滅裂

2018-02-21

anond:20180221195807

かにそういう統計があるなら意識の流れは分かるね!

でも、それって黒人犯罪率が高いか黒人を国から追い出すというのとどう違うの?

似た行為に思えるんだけど…

2017-08-29

Call Me By Your Name@miffレビュー

8月29日、思ったより拡散したため追記。自分ではネタバレなしのつもりで書いて、ツイートにもそう明記してしまったが、ネタバレという言葉には個人差があることをすっかり忘れていた。ネタバレ見たら死ぬタイプの風上にも置けない。地雷を踏んでしまったら申し訳ない。配慮したつもりですが、どうぞご注意ください。太ももの話以外もします。

なにせ太ももがすごいらしいのである

俳優アーミー・ハマーの太ももである

サンダンス映画祭直後、賞賛と祝福の声とともに、あまりの刺激のために悩殺されてしまったという感想ツイート散見されて、映画祭参加の幸運に預かれなかったファンはもどかしさに身悶えしたのであった。

Call Me By Your Name1983年北イタリアとある町のひと夏を舞台にした、二人の青年あいだの恋を描いた映画である。くわしくはimdbを参考にされたい。

http://m.imdb.com/title/tt5726616/

この映画2016年5月世界中の一部界隈にて話題になった。言わずもがなアーミー・ハマーファン界隈である。そのあまりに蠱惑的なあらすじにつられて手に取ったのが原作小説である

そんなごく軽くかつ不純な動機で読み始めたAndré AcimanによるCall Me By Your Nameだが、回顧体で描かれた物語に一瞬で虜になった。

冒頭のシーンからして心憎いのである

まりにも印象的な出会い、一生を変えてしまうたった一言から語り始められるその物語は、意識の流れを実に巧みに取り込んだ、プルースト研究者でもある著者ならではの文体で読者を陶酔させる。やがて語り手であるエリオと一体化した読者はオリバーの冷淡さに苦しみ、意外な素顔を見せられはっと息を呑み、ただ呆然と結末を迎えることになる。

ツルゲーネフの「はつ恋」やらナボコフの「ロリータ」やらをこよなく愛するわたしにとっては好み直撃ど直球であり、そのうえアーミー・ハマーの太ももやばいとあってはなにがなんでも映画を見なくてはという気持ちになった。

しかネタバレ見ると死ぬタイプオタクにつき、どうしても世界公開より先に見たいという気持ちを抑えられない。はたしてMIFF(メルボルン国際映画祭8月3〜20日、CMBYNは4日と6日上映)に飛んだのである

笑ってほしい。

かなり早い段階でチケットも売り切れ(一度キャンセルが出たが、最終的に上映日までには両日完売!)ていたため、予想はしていたが、当日は冬のメルボルンにて1時間から長蛇の列である

席は早い者勝ちなのでみんな普通に必死だ。特に二度目の上映での、劇場をぐるり半周する列は写真に撮らなかったのが悔やまれる。みんなが手の端末にQRコードを表示させ、南半球ならではの冷たい南風に身を縮めながら待機している。

2度のCMBYN上映の他は同じくアーミー・ハマー出演のFinal Portraitに参加したばかりだが、それに比べるとやや平均年齢が下がるかなという感じ。

それでも、老若男女ということばがふさわしい、実に幅広い客層。

そんなことより映画だ。ここからネタバレはなるべく避けて進める。なにせネタバレ見ると死ぬタイプなので安心してほしい。後日一部シーンバレ感想もあげるつもりでいる。万全の態勢です。

さて、本編はピアノ音楽によって始まる。

劇中曲について、MIFFのQ&Aにてルカ・グァダニーノ監督が語っていたことだが、基本的には登場人物が耳にした音楽……エリオの弾くピアノ曲ギターオリバーが身を委ねて踊るダンスミュージック家族が耳を傾けるラジオレコード……に限った、とのことである。それを知らされるまでもなく、最初楽曲から没入感があり、一息に世界に引き込まれる。

そしてオリバーが現れる。イタリア太陽である。明るい陽光主人公エリオのいる部屋の暗がりを際立たせる。

エリオを演じる当時弱冠20歳ティモシー・シャラメは終始少年健全さと病的な魅力をひとしくたずさえて美しいが、とりわけ夜、ベッドでのシーンでの肌は内部から光を放つようだった。

アーミー・ハマーが、その見せ場においてはつねにイタリア太陽に照らされて灼けたなめらかな肌とあかるい金色に見える髪を輝かせているのと好対照で、一場一場面が絵画を見るようだった。あるいは、冒頭でわれわれを一息に映画世界に引き込む、連続的な彫刻群のショットのようだ。

この対照関係意識されたものだと思う。

エリオオリバーに魅了されるのはかならず真昼の屋外だし、エリオオリバーを室内に引き込むと、オリバーは初めて(ようやく、と言ってもいい)エリオに見とれるのだ。

野外と屋内、昼のシーンと夜のシーンが交互にさしはさまれて、われわれ観客はふたりうつくしい青年に2時間超の間目まぐるしくも目移りしてしまうのだった。

そしてくだんの、アーミー・ハマーの太ももである

ももに殺されたひとびとのツイートがいまならよくわかる。

しかしいざ太もも談議をするとなると血で血を洗う戦争になるにちがいない。

短いショーツか、あるいは水着でのシーンが大半で、太ももは終始晒されているので各人のフェイバリットももがあることだろう。

マイフェイバリットももとある場面にてエリオとともに床にぺったりと座るオリバーの太ももである。だが自分多数派である自信はない。これについてはまたあとで。

オリバー原作よりもなお複雑で謎めいたキャラクターになっていると感じる。

原作では物語がすすむにつれ、読者はエリオとともにオリバーの知らなかった一面に驚かされるのだが、映画ではむしろ序盤からオリバー大人の男としての魅力と奔放な子どものような無垢さが入れ替わり立ち替わり現れてエリオないし観客を翻弄するのである

(シーンバレありの記事にでも書くつもりだが)序盤からオリバーエリオよりも幼い子どものようないとけない振る舞いを見せ、グァダニーノ監督言葉を借りるなら、エリオより「なおイノセント」だった。

アーミーハマーファンの同志は心してかかってほしい。奇声を発するか原作エリオ言葉を借りるならswoonに至らないよう上映中握りしめるなり揉みしだくなりできる柔らかい布など持っていくことをおすすめする手ぬぐいとか)

そのような差異こそあれ、アーミー・ハマーオリバー原作を読みながら夢想していたオリバーほとんど完璧に一致していた。

この結論にはアーミーハマーのじつに感情たかな目の表現が大いに寄与しているのだと思う。たとえば「J・エドガー」でのクライドトルソン役において彼が見せたような目つきだ。沈黙の場面で熱っぽく目が話す。このものを言う目がとくに生きるのは、逆説的だが目の映らない場面で、たとえば映画の中でもひとつクライマックスにあたる戦争慰霊碑のシーンがその一例だ(トレーラーにも引用されていた)。

もうひとつ、結末に近い重要な場面でピントを外したカメラオリバーをとらえる。オリバーの顔が長く映されるのだけれど、けして鮮明な像を結ばない。観客は食い入るようにスクリーンを見つめてはじめて、自分エリオと同じようにオリバーの目に浮かぶ表情を読み取りたいと熱望していることに気づかされる。

目について語るならばティモシー・シャラメにも言及しなくてはならない。

ティモシー・シャラメは今後少なからず目にする機会が増える役者だとつくづく思いしった。身体の使い方が素晴らしく、手足の隅々まで神経を張り詰め、あるいは意図的脱力し、髪の先まで演技していると感じさせる。(この先エリオ面影を振り払うのが難しいのではとも感じるが、むしろその印象を己に利するものとして使ってほしいしこの期待は報われるにちがいない)

だがなによりも、その目つきである! トレーラーにも含まれていた、踊るオリバーをじっとりと見つめるあの目が全てではない。映画から小説通底する一人称の語りが省かれているものの(あれば安っぽくなり得たと個人的には思う)それを補って余りあるティモシー・シャラメの目つき。

まさに小説が羨む技法で、文字で書かれたフィクションを贔屓しがちな身としては、こういった映画化を見せられるとただひたすらに喜びを感じてしまう。

さてトレーラーといえば、あの実に夢見心地で幻惑的で、緊張感とせつない予感に満ちた映像を、わたしだってリリース直後には再生する手が止まらなかったほど熱愛しているが、 本編とは少しトーンが違っているとも思える。

トレーラーから、そして原作から想像していたものにくらべると、より明るく、ユーモアがあり、笑いだしてしまう瞬間がある。

かなりの頻度で笑いが起こっていたが、これは映画祭だったのと、おそらく英語圏中心とおもわれる観客層も関係してくるのかもしれない。

ただ、エリオ食卓でのとあるシーンについては国内映画館でも笑いが起きると予想できる。そしてその直後におとずれるエリオオリバー官能的な接触に息をのむことになることも。(さてくだんのマイフェイバリット太腿はこの場面で登場する。すくなくとも個人的にはこの場面はお祭りだった。細いのに肉感的な大腿部に釘付けになるあまり台詞をごっそり聞き逃したのだ……)

こういった感覚の急激な転換は映画全体を通して言えることで、一瞬たりとも気を抜けないと感じた。ほほえましく口元を緩めた直後に、心臓が指でひっつかまれるように締め付けられる。

ところどころに埋め込まれた、笑える箇所について、今ふと思ったが、これは原作にて重要役割果たしているが本来映画だと表現しにくい「時間性」をどうにか持ち込もうとした結果なのかもしれない。

10代のころの恋愛とか、恋愛でなくてもエモーショナルなやりとりは当時は必死真剣なんだけれど、そのときの行動を大人になって振り返ってみると、わがことながらおかしくて笑ってしまう、あの感じがよみがえるみたいだ。

そのようなノスタルジーを引き起こす展開に身を委ねるうち、二度の上映は割れんばかりの拍手でしめくくられた。自分も同じように手を叩きながらLater、と軽やかな別れの言葉脳内で繰り返していた。原作で読んで想像していたよりもなおあっさりと、冷淡で、なのに奇妙に耳に残るオリバーの声。

一夏の客人のその挨拶を、エリオが、母が、父が真似たように、自分もつい口にしたくなるはずだ。

じつは原作を読んだ時から自分は最適な読者じゃないと思っていた。

小説として心から好んではいものの、「この物語自分物語だ」「この物語によって救われた」「こういう物語が描かれるのをずっと待っていた」と感じる人がいることを、一行読むごとに、確信し続けたからだ。

この映画現代を生きるごく若いセクシュアルマイノリティに届くことを願っている。

キャロル』がそうであったように、相手性別特別なのではなく、ただその相手特別だっただけ、ということを描いた映画。だが一方で、両親という存在の描かれ方において、この作品はこれまでのクィア作品と一線を画している。

そして、『ムーンライト』があまりにも普通恋愛映画であるという事実特別だったのと同様に、Call Me By Your Nameエリオの一夏の恋愛は美しいと同時に「ごく普通青少年悶々とする」という部分が色濃くて、その事実をとにかく祝福したい。

自分はこの映画クィア映画だとは思っていないのだとグァダニーノ監督がQ&Aで語っていたが、この言葉がすべてだと思う。

10代の頃に出会ってたら人生が変わっていたなと確信を持つ映画はいくつかあるけれどCMBYNはそのトップに躍り出た。

現在のところレーティングはR18のようだけれど、そこまで直接的なショットはなかったように思う。

何かが起こったこと、そして何が起こったかから目をそらすという悪い意味での曖昧さは無いが、物語破綻させないように、そして必要以上にセンセーショナルに煽らないと努めての結果なのかもしれない。

からこそ、PG12かR15バージョンが作られるといいなと思っている。エリオと同年代の、この映画肯定感を本当に必要としているひとたちに見てもらいたい。

キャストきっかけに興味を持ったCMBYNだが、自分の中にそびえる金字塔を打ち立てた。日本に来た時にも従来の俳優物語ファンに愛されるのはもちろん、新しい映画として多くの観客に愛してほしい。そして本当に必要としているひとにぜひとも届いてほしいと思う。

ちょうどこのレビューを書いている最中8月23日)にMIFFの観客賞が発表され、Call Me By Your Nameが晴れて1位を獲得した。http://miff.com.au/about/film-awards/audience#

もちろん自分も最高点の星5つで投票したし、あの盛り上がりを考えると納得の結果だ。

アジア内では台湾映画祭での上映が決まっているCMBYN。東京国際映画祭に来ないはずがない、と信じている。

お願いします。

邦訳本もどうぞよしなに。

2017-06-02

意識とは何か理解できた

人の脳は脳細胞同士が連結、通信しあうナイーブ電気パルスから離れ、高次思考言語で行うことに成功した。それが人間と他の動物の間にある知性の差であり、ナイーブ電気パルスイミテーションにすぎないディープラーニング人工知能未来永劫知性に達しない理由でもある。

人は言語により思考意思決定し、本を読んで学習し脳をプログラミングすることも出来る。言語電気パルスを離れ安定したテキストデータとして脳に貯蔵しておくことも出来、それを外部に文書として記述することで知識を共有し後世に伝えることも出来る。

脳は各部機能を持ったパーツとして存在していて、特定の箇所を傷つけると特定機能消失することが知られているが、各部位で行われた電気パルスによる思考の結果は高次脳領域言語データとしてエンコードされ、意識に送られる。意識言語データを受け取り、口に出すかどうかを決定する。口に出さな場合は心に思うだけにする。そして必要場合言語データループバック回路に送り返す。ループバックされた言語データは新たに入力された感覚器官から電気パルス信号とともに再び脳に入力されて処理され、また意識言語データとしての処理結果を返す。

意識的思考というのはつまり、脳から出力された言語データを何度も脳に送り返すことで言語データ熟成させるプロセスのことだ。思考自体意識が行っているわけではなく、脳細胞電気パルスによって行っている。意識の働きは脳から出力されてきた言語データ評価し、口に出すかどうか、あるいは思考継続するために脳に送り返すかどうかを決定している。そこで流れた言語データ電気パルスデコードされ記憶領域に複製されていて、後から思い返すことが出来るため、そこに意識の流れが出来、時間感覚自分意識を持ち生きているという認識が生じる。

脳内思考活動脳内で閉じていて、外部から存在実証できないため、意識があるとかないとか自由意志があるとかないとかいった問題が生じているが、意識はあるし自由意志もある。意識は考え続けるか、考えるのをやめるか決定し、自ら行動を変化させることが出来るので、自由意志存在するといえる。もちろんそれは決定論矛盾しない。

追記:つまり実際の思考を行うのは各部位で行われる電気パルスであるが、意識はその言語化された出力を脳に戻すことで何度も思考ループさせ、それによって思考を高度化させている。その機能は、「言葉を口に出すかどうかを決定する」回路から進化したもので、「思ったことを口に出さずもう一度考える」という能力を獲得したことが、人と動物を分けた、という話。意識言葉を口に出すかどうかだけでなく、言語思考した内容を実際に行動に移すかを全般的制御出来るが、言語によらない思考から発生した行動は制御できない。それが、意識言語を処理する機能だという証拠になるだろう。

追記2:「自分には意識があるという実感がある」というのが不思議な感じがするのだろうが、事実として意識はあるし、実際に脳内で行われた思考の結果である、出力されてきた言語データの内容を記憶していて思い出すことも出来るから自分はずっと意識を持ち生きているという実感があるのは当然である意識はそういう機能からだ。それは幻覚でも何でもない。

追記3:動物意識はあるかという問題について。動物意識はない。ハイデガーいわく「動物は私と言わない」というが、「私」が「思考している」という文を組み立てられるだけの言語的複雑さを動物の脳は持ち合わせていないので、「思考している私が存在する」という認識、つまり意識認識動物は至れない。

追記4:計算機が「私」や「思考している」という概念理解し、「思考している私が存在する」という認識に至る可能性は当然ある。ディープラーニング人工知能の延長線上では無理だと思うが。

追記5:この機構計算機上のニューロンだけで成立するかという話。まず、電気パルス言語データに変換するアルゴリズムは、人類DNAハードコードされている。人の知性はニューロンに由来するのではなく、DNAに由来する。人間より脳細胞が多い動物はいくらでもいるが、人間のように知性がある動物は他にはいない。人間という生物種全てに知性が存在する以上、その人間定義するDNAに知性の根幹があるのは疑う余地が無いだろう。人間であれば基本的言語を操る力を身につけることが出来る。それは人類DNA言語を操る基となるプログラム記述されているからだ。

からこのシステム必要なのはディープラーニングによる学習ではなく、DNAの解読だ。学習動物であれば誰もがしているが、言語自由に操れるのは人間だけだ。学習から言語にも、知性にも到達することは出来ない。学習によって知性や言語を得ることが出来るように、脳細胞構成しているDNAが、知性の発現のための必要条件となっている。

しかし、DNAを解読して得た 電気パルス言語 変換のアルゴリズムが、計算機上のニューロンもどきで実行できるかはまた別の問題だ。適用できたとすれば、この機構計算機上のニューロンでも実現可能なはずだ。

DNAの解読以外で、ニューロンに知性を発生させるメカニズムを実現するのは不可能だと考えている。大自然が何億年とかけて最後に到達した脳というハードウェアプログラミングに、人類が独力で到達できるとは思えない。

追記6:なぜそれが意識であるといえるのか、について。それはもちろん、あなた意識であると考えているものがなんであるのかによる。私は「人に動物にはない知性がある理由」と、「人が自分思考している内容を言語理解し、そこから思考している私が存在している』と認識している理由」について語った。あなた意識定義がそれに含まれないのなら、もちろんそれは、あなたの考える意識存在する理由にはならない。あなたの考えている意識がどのようなものであるのか聞いて、それについて考えてみたいと考えている。

追記7:私が「意識は脳の外部にあると規定している」という指摘があるが、それは当たらない。脳はただ情報を処理し、その処理した結果として「思考している私が存在する」という当たり前の事実を見て、私には意識存在すると認識しているだけだ。脳の中の通常の情報処理過程、たとえばそこに石がある、とか、そこに月が浮かんでいる、とかと同じように、「思考している私が存在する」のを見て、「私には意識がある」と人は結論している、と私は規定している。

追記8:言語を伴わない音楽絵画を通じても、情報処理過程は変容する。視覚聴覚情報処理意識的情報処理によらず変化する。その変化によって、新たな音や色彩に対する感覚を得て、それを言語化し、意識することができるようになることもある。それは意識の変容ということが出来るだろう。

言語を伴わない芸術から深いショックを受け、寝込んでしまったという経験が私にもあるが、それは意識を経由せず直接脳の情報処理過程を揺さぶることで発生したのだと思う。それにより脳内情報処理過程が大きく変わってしまったり、トラウマになってしまったりということもよくある。それを意識の変容ということも可能だろう。

追記9:チンパンジー鳥類等のコミュニケーションについて。上にあるように、私はチンパンジー鳥類が伝えようと思ったことをやめて心に思うだけにすることはなく、思考ループしないので知性に到達できないのだと考えている。もちろんそれだけでは足りず、自分思考をより正確に言語表現し、言語情報を受け取ってその思考をより正確に再現出来る個体が、狩りのコミュニケーション等で有利になることで、言語能力の高い個体が子孫を残していく。思考言語の変換で損なわれる情報が少ないほど、ループの中での思考も正確さを増し、複雑な概念理解に到達できる。それを言語表現する進化過程で、複雑な発声を獲得し、それを聞き取る聴覚も発達していく。

複雑な発声聴覚を獲得する前は、思考言語表現しようとして歌を歌っていたのではないか妄想している。人類は歌でコミュニケーションし、脳内独り言も歌で行って思考ループさせていたのではないか。歌を歌うと気持ちいいのはそのころに培われた本能に由来しているような気がする。頭の中で歌が流れて止まらなくなる現象もその辺に由来しているのではないか

追記10:囲碁AIについて。AIコンピュータから囲碁のようなゲームが強いのは当たり前である。何も絶望することはないように思う。グーグルの子会社が仕掛けているのはHypeから、真に受ける必要はないと考えている。彼らがそのHypeを本物だと主張するなら、囲碁AIソースコードを公開するべきだ。

追記11:思考ループ言語はいらないのではないかという指摘について。脳内の何百億という脳細胞で発生している電気パルスは、そのままでループさせることは出来ない。言語に一旦エンコードし、それをもう一度デコードして、思考再現を行うことでループしている。また、思考の内容を言語として記憶し、思い出して思考を再開することで、移ろいゆく電気パルスによる無意識思考とは違って、同じテーマについて何度も長時間考えることが出来、思考を深めることができるようになる。

追記12:夢について。夢は動物も見ている。動物人間脳内では出来事記憶されている部分があり、そこに電気パルスが流れると追体験する。人間場合でも、それが嫌な記憶だとふとしたきっかけで蘇り、叫んだりしてしまうのだが、そういう意識コントロールしがたい無意識的な思考だ。睡眠中にはそこに電気パルスが流れて出来事が蘇り、いろいろな出来事が繋がった追体験が起こる。そうして出来事出来事を並べて、因果繋ぎ、ある出来事の後に起きることを予測できるような形で整理している。それによってパブロフの犬のようなことが動物でも起きる。しかし、出来事を並べるだけで、言語的な論理性を持たなければ、たいした知性には到達できない。

追記13:意識とは、言葉を口に出さずにもう一度考える回路から発達したもので、思考の内容を言語として受取り、もう一度考えるため脳に戻すことで思考を深化させる機能だ。そのループの中で言語能力が高まり、「私」が「思考している」という概念を獲得し、「思考している私が存在する」という文が脳内で紡がれて意識に送られた時に、意識は己の存在気づき自意識を持つ。

追記14:匿名ネットレスバトルで見られる、用語適当に用い、反論のように見えるが無意味な文を書いて、無意味ゆえの反駁不可能から自分への反論を避けつつ、用語意味を知らず文が無意味と気づかない人には、相手の論に反論できているように見せかけようとする手法が私は大嫌いである。

追記15:意識物体なのか、について。

こちらにちゃんと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170607213657

2017-02-20

明晰夢の見すぎで、現実と夢の区別がつかなくなってきた

いや、正確にはつくよ。今が現実ってことは。やり方は千差万別あるので割愛

今日見た明晰夢はヤバかった。隣の家に迷惑をかけて謝るって内容なんだけど、

から覚めても「あれ現実だったのか、夢だったのか」の判断がつかなかった。

いまだに「まぁ、あれは9割夢だっただろう」ということで納得してる。

映画インセプションに出てくるトーテムを用意しなきゃと思ったくらいだ。

明晰夢のやりすぎはマジでヤバいわ。ていうか怖い。

追記:

何人かの人が指摘してるが、明晰夢自覚している夢。確かにそうだ。

その段階に慣れ過ぎて、夢を現実として認識し始めてるのがヤバい

明晰夢を見るときのクセで、幽体離脱的にとらえてるから余計にそうなったかも。

現実→夢 「夢だ」

夢の中 「リアルな夢だ」

夢の中 「リアルだ、現実か」

現実  「あれ、現実か夢か?」

意識の流れが、夢→現実になりつつある。

2014-11-12

エスパーというほど超自然的な何かではなくて

国語リーディングが極まってくると、共感覚的な何かに触れることって、あると思う。

身近な例で言えば、

 ・小説を読んでいると、リアルに音声(会話だけでなく、砂利道を走る音、ざわめき、等々)が再生される体験をしたことがある。

 ・評論を読んでいると、キーワードが「光って」見える。

 ・文章を読んでいるとき、ふと気づくとあり得ないような速度でページをめくっている。ものすごく集中しているとき。そういうときは、

  どうやら、一語ずつを目で追っているのではなく、それを書いていた筆者の「意識の流れ」のようなものを追体験しているみたいな感覚

 ・短歌とか俳句に、ときどき「あり得ないほど」感動する。一瞬で映画を全部体験するみたいに、一瞬で感動が押し寄せて、去っていく。

 ・びっしりと文字が書かれた書類の一箇所のふっとした誤字に一瞬で目が止まる。「多分この辺にあるだろうな」と思ったところに誤字がある。

  音楽不協和音が一瞬にして感知できるように、言葉の波の乱れが一瞬で感じられる。

…などなど。せいぜい「セミプロクラスくらいの自分でもこういった感じはあるので、多分「プロ」の人なら、もっとすごいエピソードがあるんだろう。たぶん。

http://anond.hatelabo.jp/20141111133031

2013-10-29

死にたさ

自分日常生活を送っているとたびたび死にたくなる。ツイッターアニメを実況しながらその日三杯目のカップ麺を食ってるとき記憶の底に押し込めて門外不出にしておきたいような恥ずかしい記憶が何かの拍子にふっと思い出されたとき、とてつもない失敗をやらかしとき、何もかもうまくいかないとき。例を挙げれば数限りないが、共通しているのは大抵の場合「死にたさ」は唐突に湧き出してくるということだ。勿論ポジティブな気分でいるときに死にたくなるわけはない。何となくネガティブな気分でいて、自殺なんかとは全然関係ないこと、例えば明日までに仕上げなきゃならない課題の山や、こじれまくった人間関係の修復方法について考えているときに、突然強烈すぎるくらいの負の願望が意識に浮かび上がってくる。そして即座に消えていく。

仲間がいれば安心するってわけでもないが、この唐突な「死にたさ」の襲撃を受けたことがある人間大勢いるようだ。インターネットによって手軽にそれを調査できる。一日ツイッタータイムラインに張り付く根気と暇があれば、必ず一個は死にたいツイートを目にすることができるだろう。ツイッターを「死にたい」で検索すればそれこそ秒単位で発言があるのを確認可能だ。勿論ネット全体の人口に引延ばせば1割にも満たない人数だろうが、それだけ集まれば「死にたさ」の存在証明するには充分だろう。それどころか、かつて人がここまで「死にたさ」を前面に出してきた時代があっただろうか。自分はこの現象を、即時的なメディアであるツイッターの登場によって、以前から我々の意識の流れの中に存在していた「死にたさ」が可視化されたのだ、と考える。自分にそれを検証するだけの心理分析の知識はないが、状況証拠から判断すれば「死にたさ」は普遍的存在する、と言っていいだろう。

自分がしばしば感じる「死にたさ」とそうした普遍的な「死にたさ」が同じものだと仮定して話を進めると、この「死にたさ」は、より本来の性格に即して表現するなら、「消えたさ」になると思う。あるいは「病死したさ」。さらに言えば、それは「消えたさ」「病死したさ」であって、「自殺したさ」ではない。自分だけかもしれないけど、その言葉が与える印象は厳密なところでちょっと違っている。消えるのも病死するのも、自分意思とは無関係に起こることだ。自分意思存在が消滅したり病死したりできる、というのはちょっと面白いけど起こりえない。消滅も病死も、己以外の何かの力によって命が奪われる、という性質を持つ。対して自殺には意思必要だ。自殺したい、ってワードを言葉通りに解釈すると、その人は、消えてしまいたいという意思と、練炭やらロープやら自殺の予定地やらを準備する意思を同時に持っているということになる。その点、「死にたさ」におそらく意思は、「死んでやろう」みたいな感情はない。「消えたい」と表記する方が「死にたさ」を表すにはより的確、というか純度が高いと自分は考える。

自分にとって、これらの単語区別しているのは積極的意思存在だ。「死にたさ」はあらゆる意味受動的なものだ。消えてしまいたい。急病で突発死してえ。あくまでも消極的に、実行する意思はないままに自分存在がこの世界から消滅することをちょっとだけ望む。「死にたさ」に意思存在する場合、そこで初めてそれはより強く、より持続する「自殺したさ」へと変化するはずだ。「死にたさ」は思いつきのようなものに過ぎないため、意識が次の事柄に考えを集中させればすぐに消えうせる。その字面が与えるインパクトより、実際の「死にたさ」とはライトで軽微なものなのだ

なぜ人は「死にたさ」を覚えるのか?「死にたさ」とは、存在の消滅を望む消極的で突発的な感情だとこれまで書いてきた。分析する手がかりになるのが、「死にたさ」が己の意思とは無関係に、脊髄反射的に意識に浮かび上がってくるものだということだ。ここから、「死にたさ」は思考や意識よりも、心の持つ基本的な働きに起因するのではないかという仮説を立てられる。それを明らかにするために、ここで我々がどういう時に死にたさを覚えるのか、その具体例を検証してみたいと思う。

時間は深夜4時を既に回った。とっくに就寝しなければいけない時間は過ぎていたのに、男はキーボード打つ手を止めることができずにいた。文章のテーマは「死にたさの分析」。男はその時間になってようやく後悔しつつあった。なぜ俺はこんな課題でもないし、お金が貰えるわけでもないもの生活リズム崩してまで書いてるのか。俺はバカか。平日だぞ。明日ちゃんと早起きしなきゃならんのよ。昨日遅刻してるからもう絶対今日時間通り起きなきゃならないのに…後悔の言葉空虚に響いた。もう何を言っても遅い。遅すぎる。最低でも午前二時には寝なきゃならんかったのだ。途中トイレに立ったところで止めとくべきだったのだ。バカだ俺は…物事の優先順位も分からずにクソが…。じわじわと後悔は絶望に変わってくる。いっつもこうだ…後先考えずにどうでもいいことおっぱじめて、やるべきことは放置して…あっそういえば明日までにやらなきゃいかん奴全然仕上げてねえよ…ああーもう間に合わねえかな、やる気も出ないし…ああー明日行きたくねえなあー…「死にてえ」……男にはやるべきこと、時間をそれに費やしていれば実りある成果を得られただろうことが他にいくつもあった。それらを全て無視し、「死にたさの分析」を書きあげるという選択をしたのである無意味に。男が遅刻を避けるため、とりあえず徹夜する覚悟を固めて顔を洗ったとき時計は5時を示していた。」

以上の挿話の流れは、おおよそ次のように分解できる。自分責任でどうにもならないバッドな事態へ落ち込む→絶望して自分を責め始める→さら絶望する→死にてえ…

上述したように、「死にたさ」が論理的な思考の流れとは無関係に出現していることが分かるだろう。ここで鍵となるのが、「死にたい」と感じることによって一連のネガティブな思考に決着が付いていることだ。バカだとか物事の優先順位分からんかいった自己欠点をあげつらってみたり、いっつもこうだ~によって自分自身を悲観してみたりしたあげく、どうにもならない現実を確認した上での「死にたい」。確かに、「死にたい」って言葉ほどパンチ力のあるネガティブ言葉存在しないだろうし、「死にたい」と思ってしまった時点でそれ以上に自分を責めることも、現実を悲観することもとりあえずは打ち止めになる。「死にたさ」は自己否定がそれ以上深化することを防ぐための防衛機能なのではないだろうか?

「死にたさ」が同じような働きをしている例は他にも存在する。屈辱的だったり恥ずかしかったりして思い出すのに抵抗があるような記憶が、何かの拍子にふっと思い出された時、反射的に「死にたい」と感じてしまったことはないだろうか。恐らくそれも自己防衛機能を持った「死にたさ」だと考えられる。精神負担がかかるような経験をし、自己存在が揺るがされたとき、程度によりけりだが、その記憶を思い出して客観的事実である認識することが難しくなってしまう。記憶事実ストレートに認めることによって、再度自分自身に精神負担がかかってしまうことを防ぐためだ。「死にたい」と感じることが思考を打ち切る機能を持つことは既に書いた。軽度のトラウマ的な記憶を思い出してしまった場合に感じる「死にたさ」もまた、精神自己を守るために、それ以上記憶を探らせないため意識に発した救難信号だとは考えられないだろうか。

このように考えてくると、思考を中断するために「死にたさ」を発する人間の心がなぜ「死にたさ」というものを発しなければならなかったのか、その理由をなんとか推測することができそうである人間は生きている限り、起床時であればほとんど間断なく思考することが一応は可能である。これを逆に言えば、人間の思考が完全に中断するのは、就寝と死亡、二つの機会をおいて他にない。意識の消滅した状態を欲求するということは、とりもなおさずこのどちらかの状態を欲するということだ。就寝を欲求するのは人間本能の部分なので、本当に眠たくて寝たい時ならともかく、精神が「眠たさ」の発信を思考を中止させるためだけに行うことは、そういうこともあるとは聞くけど、普通の状況では起こりえないだろう。本当に寝てしまって一時的に活動を停止してしま危険があるからだ。しかし、「眠たさ」が発信されているとき人間はまともに考えることが難しくなるということは誰もが首肯できる事実だろう。一方、意思の部分が欠けているために肉体的な死とは繋がっていない「死にたさ」は、思考を一時中断する機能を持つと同時にどれほど濫用しても対象の肉体が危険に晒されることがない。

自己防衛するために一時的に「死にたさ」で頭を一杯にさせ、思考のそれ以上の進行を食い止めるという心の働き。所詮は仮定と推測の寄せ集めでしかないが、「死にたさ」の正体としてはこの辺りがありそうなところではないか自分は考えている。「死にたさ」は救難信号である。それが発信されているということは、自己精神面が危険に晒されているということを意味している。もしこうした突発的な「死にたさ」に襲われたなら、それは己を否定することをやめ、あるいは記憶直視すまいとすることをやめて冷静に状況を判断し、それを好転させる絶好の機会といえるだろう。精神もただ苦しませるためにあなたを死にたくさせているわけではないはずなのだ

 
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