はてなキーワード: 定年退職とは
専業主婦になったのは、なんとなく。20代後半になって結婚して、正直今の職業とか好きじゃなくて、子供ができて。
子どもと、特に好きでもない仕事だったらそりゃ子供を選ぶよね。
初めは子供がある程度育て終わったら職場復帰するはずだったけど、
案外子供は手間がかかると言うか、ある程度「ここまで」って割り切ればいいけど、手間をかけようと思えばいくらでもかけれる
結局振り返ると自己満足な手間なんだろうけど、楽しくて気付いたら10年ちょっと経っていた。夫も働けとは言わなかったし。
子どもが中学に入って、ふと気づくと「10年間無職をしていた女」が鏡の前に居たことに愕然とした。
なんのスキルもない。子育てや養育だって、その道のプロからすれば全然だし。家政婦の方がもっと家事を効率的にうまくやれるだろうし。たまに自分はサボるし。
「専業主婦は大変、偉い」とかバズるのはSNSや周りの専業主夫をやってるママ友だけで、自分でも偉くないって気付いてるからそういう「誉め言葉」が心にくるんだよね。
今まで親に褒められた経験より、「もっとできる」「これじゃまだまだ」みたいな育て方をされていたからかもしれないけど、「もっと上手くやれた」とこの専業主婦の10年思っていて。
正直食洗器もクックドゥもドラム式洗濯機もあるし、私のやってきた事って本当は無価値なんじゃないか、ただ自分で縛りプレイをしていたんじゃないかと思ってる。
一度ドラム式を買おうと思ったけど、それを買う20万を私がやることで節約できるなら……とか本当に考えていた。
「専業主婦は偉い!ママは偉い!」というtwitterの、2万くらいイイネを集めているツイートを見るたびに、逆にそういう空っぽな誉め言葉でしか褒められない「専業主婦」である自分を呪ってしまう。
「専業主婦は細かい名の無き仕事の集合」とか目も当てられない。それじゃぁ私が働いてる時にやっていたゴミ出しやコピー機の修理や諸々は何だったの?となってしまう。
専業主婦は凄い、偉い!なんて嘘じゃないか。だから現に専業主婦は減っていって、共働きで家事は機械に任せるのが当たり前になっている。
結局私は独身時代にやっていた家事を、ついでに子供と夫の分やっているだけでは?と思ってしまう。確かに赤ちゃんの頃は大変だったけど、幼稚園行ってからは暇な時間の方が増えたし。
「ママ友ランチ」も、昼間から酒を飲む定年退職後であろうおじさんを見ながら、ヒヤヒヤしてた。
私この人と同じじゃん、いや、彼はちゃんと現役働いていただろうけど、私は働いてないじゃんって。
よく子供を育てていない人はいつまでも子供っぽいって言う人が居るけど、嘘。ママ友は子供が幼稚園に入った時点で精神が止まる。話題はいつも「あんなに小さかった子が~」ばかり。
これなら思いっきり専業主婦をぶっ叩いて貰った方がよかった。無理に褒めなくていい。
とりあえず子供も中学に行ったし、プログラミングからはじめてある程度手に職付けて娘には背中を見せられるようにしようと思う。
【追記】
コメントで気づいたのだが、アラサーって20代後半からのことでもあるのですねもう数年経験してるじゃん私
てっきり30歳からのことだと思ってました
-----
初めてここに書きます
だが31になって、昨年までに感じなかった様々な変化が現れてきた
全部で5つ
まず体重。
20代の頃とおなじ食生活を送っていたのにこの1年で5キロ以上増えた
「子供でもいるのか???」と思うぐらいの体重の増加とお腹の脂肪にここまで太ったことの無い私は寧ろ感動した
脂肪の蓄積具合がやべぇすげぇ
胴体と二の腕と太ももはぶっといのに、顔と首と肘から先とふくらはぎはほっそりしてるんだよな
毎回鏡を見る度に、体のバランスの悪さがとても気持ち悪いと思う
次に肌の変化
肌の色は色白な方
そして私は元々、顔にできものやニキビができたら潰して白いのを出してしまう悪癖があった
そのせいか手穴は開き、潰した箇所にシミのような痣?がいつの間にか複数箇所できていた
日焼け止めを塗ったり化粧水をつけたり等スキンケアは最低限していたはずだが意識が足りなかったのだろう
あと、潰す悪癖を辞めるよう意識しようと思う
こうなり始めてから洗顔はLUSHのブラックダイヤを使い始めてみた
今後に期待
そして睡眠不足
これは100%私の意識の低さが原因なのだが夜中までTwitterをしたり絵を描いたりぬいぐるみ作りをしているせいで毎日の睡眠時間が4、5時間はしょっちゅうある
その影響でクマができて肌は荒れるし仕事中も何度かうたた寝してしまった
社会人失格だ
と同時に20代の頃と比べて睡眠不足の状態が続くと肌荒れに直結したり休日の日に長時間寝ても寝足りない事案が発生している
若さは偉大
友人の結婚、出産にお金が飛び、それと同時に未だに子供や結婚どころか恋人すらいない自分に情けなくなった
結婚や出産した友達におめでとうの気持ちはあるが、子供にあまり興味は無い
でも幸せになって欲しいとは思う
けど、命の危険があるし怖い
それに痛いのは無理なので無痛分娩にしても出産後の育児にも継続して莫大な費用がいる
もし、無事に出産できたとしても私が結婚して子供を作る頃には両親はこの世にいないだろうし、子供を配偶者の親に頼みたくは無い
おまけに体力もない病弱な私は赤ちゃんの夜泣きやわがままに耐えられる自信が無いし、配偶者が家事育児ノータッチの仕事人間だったら子供を殺しかねない
今年で父は65歳、母は71歳だ
配偶者なし恋人のフラグもなし一人っ子親戚とも疎遠の私に前々から感じていた将来への不安が重くのしかかる
周りの友人知人も親の高齢化による病気や事故で亡くなる人が増えてきた
飼い猫達やリアルの友人、たくさんのネ友がいるとはいえ、両親が死ねば私は一人だ
おまけに貯蓄も不安
成人してから今まで働いた年数よりも親のスネかじって飼い猫達を世話しニートしてきた年数のが長いド田舎暮らしの私
今それをとても後悔している
2年前から会計年度任用職員というものになれたが、障害者枠で就職したので税金と交通費抜いたら手取りが10万にも満たない
さらに、昨年は飼い猫の手術や通院費で貯蓄のウン十万が一瞬で吹き飛び私の貯蓄はほぼゼロ
おまけに父は恐らく今年で定年退職だし両親達も通院や家の修理費などで貯蓄は期待してない
なので私のボーナスが非常に楽しみだし、来年は会計年度任用職員にも勤勉手当がつくので引き続き働けるよう頑張りたい
あと、ゴミ屋敷となった自宅をどうにかしないとな…
と、まぁアラサーというものを経験し始めてから感じた変化はこれぐらい
とりあえず、両親と飼い猫立ち寄り先に死なないように気をつけたいと思います
両方Yes。加えてフリーランスや定年退職という概念がない職業だから高年齢化しつつ引退年齢を伸ばして対応している。短距離Amazonの配達員みたいなのは大募集中だし開業支援とかもされてる、足りなけれ遅延するだけ。普通免許でOKだから誰でもできるが仕事をECサイトからの受注で握られてるからUberEatsみたいに稼げる時期が終わったらド貧乏になる可能性もある。長距離トラックドライバーは普通免許取得から3年たたないと免許取れない。一人前になるのに最低5年かかる。高齢者もたくさんいる。
足りてないけど、ぶちゃけトラック自体の大型化や自動運転規制がとれるの待ち。目端が利く経営者は自動運転のTeslaが完成するのを待ってる。
一番いい方法は家主は金を稼いで家にはシッター、ハウスキーパーを入れる。
シッター、キーパーは例えば定年退職した人間や、時間的物理的に定職に就くことが難しい人や
まぁそういうのが好きな人にやってもらう。
でも現実問題、バリバリ働いてもシッターやキーパーを入れるほどは稼げない。
だから共働きでも夫婦のどちらかが育児家事という無償労働に大きな時間をとられる。
結局、今の男性の有償労働時間がクソ長いのも、妻側の有償無償労働時間の合計が長いのも、
いっぱい有償で働いて、その上で無償でも働かないと生活にならない。
積極的に生産性あげて少ない時間で給料をもっともらえるようにしていかんと、
個人的にはもうちょっと日本人は完璧主義を捨てればいいとも思ってるけどさ。
例えば独身男性の7割くらいって無償労働時間けっこう少ないと思うんだよね。
洗濯は3日に一回とか、掃除は週何回やる?疲れて帰ってきたら自炊しないっしょ?
みたいなさ。
まぁでもなかなか結婚して子供が生まれてってなると絶対的作業量が増えちゃうから、
それでもかなり苦しいよねぇ。
2015年問題:「団塊の世代」(1947年〜1949年生まれ)が2012年から65歳を迎え始め、2015年にはすべての団塊の世代800万人(※出生数)が65歳以上になる
↓
2010年問題:「団塊の世代」が2007年から60歳を迎え始め、2010年にはすべての団塊の世代が60歳以上になる
:
「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」により60歳未満定年制が禁止されており、60歳が日本の標準的な定年であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1986年[注釈 2]の高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の改正で60歳定年が企業への努力義務に、1994年[注釈 3]の改正で60歳未満定年制が禁止(1998年[注釈 4]施行)されたことで60歳が日本の標準的な定年になった。2000年[注釈 5]に企業に対して、65歳までの雇用確保措置を努力義務化された。2004年[注釈 6]に企業に対して、65歳までの雇用確保措置の段階的義務化(2006年[注釈 7]施行)、2012年には企業に対して、希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが義務化がされた(2013年施行)[9]。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2000年までは7年後という近い将来に大勢の社員が60歳で定年退職するので人手不足が予想されていた。
なぜ「お笑い」は右へ行くのか
https://anond.hatelabo.jp/20230408014727
これに関しては自分にも「たぶんこうなんじゃないかな」という予想はあるが、この増田とはわりと根本的と言っていいところから認識に違いがありブコメに収め切るのはしんどいので増田に書く。
まず第一に、お笑いが右に行っているという認識自体に疑問符が付く。実際、吉本と維新は距離がかなり近い(元増田では吉本が自民党とべったりと書かれているが、これは自民党内でも特に維新に近しい安倍晋三や菅義偉がトップだったゆえにそう見えただけで、直接距離が近いのは自民ではなく維新だろう)ものの、これに関しては右と左で語るよりも大阪と東京で語ったほうがいいように思える。要するに、維新は「大阪」というアイデンティティに訴えることで大阪において盤石の支持基盤を獲得しているし、大阪の吉本芸人たちもこの大阪アイデンティティに呼応している。
対して、この大阪アイデンティティを離れてもお笑い界全体が右傾化しているのかというと、自分の感覚としては別にそんなことはないんじゃないかと感じている。そもそも大半の芸人は炎上リスクのある政治的話題に首を突っ込みたがらないし、元増田のブコメでいくつも指摘があったように左派的立場を表明している芸人も複数存在する。ほんこんが積極的に右派的発言を繰り返すのが他の芸人から強く支持されているという様子もあまり見られない(むしろ、白眼視されている感すらある)。
ではなぜお笑いが右に行っているという認識が発生するのか。ひとつには前述した吉本と維新の距離の近さがあると考えられる。別の理由としては自分と全く違う意見は印象に残りやすいというのも挙げられる。なぜお笑いは右へ行くのかという疑問を呈したのは坂本龍一だが、左派である坂本龍一からすると芸人が左派的発言をしていてもまるで気にならないが、芸人の右派的発言は強く印象に残ったのではないか。右派的発言をしたのが松本人志のようなお笑い界の代表的人物の場合、実際のお笑い界全体の傾向とは関係なく全体が右に寄っているように見えてしまうというのもあるかもしれない。
ただ、ここまで書いておいてなんだが、お笑いが全く右に行っていないかというとそうでもないかもなとは思っている。正確には、お笑いが抱える本質的特徴ゆえに特別にお笑いが右に行っているということはないだろうとは思っているものの、世間並みに右に行ってはいるだろうなとは思っている。
元々ノンポリや無関心層だったのにあっという間に右に行ってしまうことが近年多く観察されるケースが存在する。それは、定年退職等で時間に余裕ができた結果インターネットに触れる時間が増えた高齢者である。Youtubeでオススメされる中から興味を引く動画を辿っていくと、やがて虎ノ門ニュースやその他ネトウヨ向け動画に行き着く。そして、免疫のない高齢者はどっぷりとハマってしまう。
当然お笑い界にも同じようにネトウヨにハマる人物は出てくる。その代表例がほんこんなのだろう。
ここで疑問として浮上するのが、なぜネットで政治にハマると決まってネトウヨになりがちなのかということだ。なぜYoutubeの政治動画やまとめブログの政治エントリはネトウヨ向けばかりなのかに言い換えてもいい。
自分はこれを面白さの差だと考えている。左の言説はつまらない。対して右の言説は面白い。
元増田に「文化や価値観や道徳の面では左派が強くなっており権力者側である」とあるが、権力という言葉の使い方が比喩的すぎるという点を除けばそう外した認識ではないだろう。現代の(国際)社会は平和、自由、平等、人権、といった普遍的価値を尊重する方向性へと進歩を遂げてきた。だから今では奴隷制は否定されるし、女性や貧乏人にも当然に選挙権があるのである。我々が部外者であるにも関わらずロシアのウクライナ侵攻や中国のウイグルやチベットといった少数民族への迫害を非難できるのも現代社会は普遍的価値を尊重するからだ。もしもその前提がなければ、中国の少数民族迫害の件であれこれ言うのは内政干渉ということになってしまう。
一時的な揺り戻しこそあれど一貫して普遍的価値を尊重する方向へと進歩を遂げてきたのが人類の歴史であり、そして普遍的価値の尊重を中核的価値観とするのが左派である。そうなるとどうなるか。左派の言説はただの常識的なお説教になってしまうのだ。
社会的立場の高いところ、つまり大新聞や地上波テレビなどの既存マスコミであれば常識的であることはむしろ好ましい。しかし、とにかくネットで再生数や閲覧数を稼ぐということを目指す上では、つまらないものはゴミだ。
よく小説の宣伝文句に「最後にすべてがひっくり返る」だのなんだのといったものがあるが、ネトウヨ言説にはコペルニクス的転回というかパラダイムシフトというか、そういった類の面白さに満ちている。
例えば、「これまでの常識:日本は太平洋戦争で朝鮮半島を侵略した加害者である」に対して「真実:韓国は捏造された被害や解決済みの問題を蒸し返し続けて日本にたかっている」が提示されるというのは、従来の加害ー被害の関係性が正反対に逆転するものであり、目が覚めるような面白さがある。自分も子どもの頃オカルト番組の「実はアポロは月に行っていない!」という内容を見てワクワク心躍らせていたが、それに通ずるものがあると言っていいだろう。
しかもこれは単に面白いだけではない。ネトウヨ言説においてほぼ必ず語られるのが既存マスコミや教科書、教師への批判だ。ネトウヨにハマれば、「世間の連中はマスコミや教科書に洗脳されて間違った常識を信じ込んでいるが、自分は真実を知っている」という圧倒的情報強者感覚を得ることができるのだ。これは実に気持ちがいい。専門家のアカウントに突撃して「もっと勉強してください」とか言ってしまえるほどのものすごい自己肯定感を得られる。
左派言説だと「マイノリティは困っていてマジョリティは配慮すべき」というマジョリティとしてはいささか居心地の悪い認識が語られるのに対し、ネトウヨ言説なら上記のひっくり返しを発動して「マイノリティがマイノリティ特権をゴリ押ししてくるのでマジョリティである我々はそれに抵抗しなければならない」という具合にむしろマジョリティこそが被害者であると言ってくれるというのもいい。自分が加害者側にいるように言われるよりも被害者側にいるように言われた方が誰だって気分がいい。
以上のように、ネトウヨ言説は面白いし気持ちいい。対して左派言説はつまらないし自分が責められてるような居心地の悪さすらある。
インターネットという、正しさや妥当さという基準がまともに機能せず、どれだけ多くの人間に受け入れられたかという数字こそが重要な真に「民主的」な空間において、どちらがより良いものなのかは火を見るより明らかであろう。
なので、インターネットが大衆化した現代において世間はいくらか右に行くし、お笑い界の芸人たちも特別な人間ではなく世間のひとりひとりである以上、お笑いもいくらか右に行くことになる。
「お笑いとはこういうものだからお笑いは右に行くんだ!」というふうに考えるよりも、このように考えた方が実態に近いのではないかなと自分は考えている。
自分は93〜97のどこかで生まれた(無駄な年齢フェイク)人間。初めてのポケモンはピカチュウ版。幼少の頃、アニメポケモンは空前の大ブームで友達も兄弟も皆ポケモンが好きだった。
勿論自分も例外ではない。特にアニメの世界観、サトシとピカチュウそして仲間達がポケモンの世界を旅する姿を見ているのがとても好きだった。
ポケモンアニメを見た夜は、布団の中で自分もポケモンアニメの世界でポケモンと一緒に旅をする夢想をしていた。欲しいドラえもんの道具はもしもボックスで、理由は「ポケモンの世界」を現実にしたかったから。
ポケモンという存在は、ポケモンアニメでは動物としていうにはあまりに人間に都合がいいほど、人間の言葉を理解し、友達でいてくれる。まさに、自分にとってサトシとピカチュウは子供のための夢の世界だったのだ。
しかし、子供は成長する。ポケモンアニメはAG中盤くらいで自然に卒業した。
しかし、生まれた時からクソオタクだったのと、ポケモンコンテンツが巨大な供給力をもっていたことにより、ハマり具合に波はあるものの、なんだかんだゲームは大体全部プレイするなどして、ずっと自分はポケモンという存在と付き合うことになった。そして、歳を重ねるごとにポケモンとの思い出も増えた。
ポケモンシリーズをプレイした時の楽しかった記憶、交流サイトでポケモンの絵を描いたら褒められた思い出。ポケモンの漫画を友達に借りた記憶、友達とゲームの感想を語ったり、交換して初めて自分のゴーストを進化させた記憶……。
気づけばポケモンアニメもサン&ムーンシリーズから見出していた。たまたま観た回が面白く(21話)、その後の話もキャラとポケモンがわちゃわちゃして楽しい話が多く、飽きずに見続けていた。けれど、ジャンルとしては「日常学園もの」となっていたので、初代とは大きく雰囲気が異なっており別物として見ていた。
ポケモンのアニメにどうしようもない「懐かしさ」を感じ、自分の中の温度感がおかしい感じになったのは、初代ポケモンアニメのリメイク映画「キミにきめた!」がきっかけだ。
上映時、仕事で大きな報告会があり疲労困憊だった帰り道のたった1回見たっきりなので内容をあまり覚えていない。観た理由も、ポケモンが好きだからなんとなくだ。
けれど、所々の初代でなんとなく見たシーンのリメイクに懐かしさを覚え、ピカチュウがサトシに何かを伝えるシーン(数年経った映画のネタバレ防止)にグッときた。そして何より、「サトシがポケモンのいない現実世界、という夢を見るも最後は夢から覚めてピカチュウと共に旅を続ける」という展開に無性に心が揺さぶられ、上映後ぼろぼろと泣いてしまった。
このサトシがポケモンがいない現実世界に存在行く話は、今は亡き初代アニメのシリーズ構成の方がアニメ最終回の時に考えていた案だ。(そのシリ構さんが書いたブログも随分前に読んだっきりなのでうろ覚えなのだが)このポケモン映画はその案を部分的に取り入れている。
シリ構さんとしては、子ども達が夢の世界からちゃんと大人になれるように…みたいな意図があって考えてた案らしいのだが、まあこの映画ではそれを取り入れつつも最後にサトシとピカチュウの旅は続く。
この時、なんとなく「自分はまだポケモンや他のコンテンツを拠り所にしていいんだ」と安心した記憶がある。社会人になりたてで、仕事も会社が辛くてしょうがなかった時だった。この会社は一年後くらいに辞めた。
それくらいからか、たまに無性に昔のポケモンのアニメが見返したくなる衝動に陥り、ミュウツーの逆襲〜ジラーチ辺りの見たことある映画を見て懐かしさに浸っていた。時にはそれじゃあ飽き足らず、観てない映画を開拓しては、やっぱり自分が1番観てた頃が面白いよなあとか思う夜もあった。
劇場版も、みんなの物語やココと言った作品は映画館で観るようになった。
過去の映画や、キミきめ以降の映画を見ていた時は大人になっても楽しむと同時に、子ども時代の楽しかったあの頃を思い出すように観ていたんだと思う。
そんなことをしては、もう2度とその時間には戻れないという現実に直視して憂鬱と諦観に苛まれるのだが。
逆にサンムーンのアニメは楽しく観ていたのだが、終盤チャンピオンリーグに差し掛かる頃から話が当然日常系ではなくなり、同時期に仕事のストレスがMAXとなった結果、観る気力がなくなってしまった。今では非常に後悔している。いつか観たい。
新無印は序盤がなんだか面白くないな…(個人の感想)と思い早々に見なくなった。
そしてつい3ヶ月前ほど、サトシとピカチュウがポケアニの主人公ではなくなるということが発表された。
この発表を知った時は、「そうか…」という微かな寂しさも感じたが、「まあそりゃそうだよな。長くやってるし、何よりよく知らないけど凄い最終回みたいなチャンピオン戦やったらしいしなあ」という納得のが大きかった。
しかし、それを機にサトシとピカチュウの冒険を締めくくるシリーズ「めざせ!ポケモンマスター」を見始めたこと、そしてなんとなく初代アニメを見返し始めたことで再び温度感の狂った懐かしさが爆発し始めた。
子供の記憶力とは恐ろしい。昔の回を見ているだけでリアタイ時の感情が生々しく蘇る。
また、配信も恐ろしい。本来記憶の中で朧げに美化され遠くなり、いつかは思い出という存在になっていくはずの現実に、いとも容易く触れられる。
そのせいで時間感覚が一瞬バグった。初代アニメをこんなに見返して、その時の感情も覚えているのに、もう20年以上も経っているだなんて……。
クレヨンしんちゃんのモーレツ!オトナ帝国でひろしが「懐かしさで頭がおかしくなりそうなんだよ!!」と叫ぶシーンがあったがそれに近い。流石にあそこまで切羽詰まってはないが。
そう、あそこまで切羽詰まってはいない。社会人になって数年経ち、仕事も転職し、今はキミにきめた!の時よりかは精神状態は落ち着いている。
でも、凄まじく人生が好転したワケでもない。仕事は毎日疲れるし、けれど稼いでるわけでもない。人生に目標があるわけでもない。夢もあったが、自分の限界に数年前に気づいてからは一層やる気がなくなった。自分には才能も、努力できる根気もなかったのだ。
趣味は程々に楽しいが、そもそも週5・8時間くらい働かないといけないのでそれにずっとかまけてもいられない。
数少ない友人はそのうち結婚や仕事等で自分から離れていくんだと思っている。
結婚願望はそもそも24時間人と関わりつづけたくないという思いから、特にない。
動物好きでペットは飼っていたが、数年前に看取った時とても悲しかったのと、また再び世話をする気力がわかなくて手を出せないでいる。
精神状態は落ち着いてはいるが、停滞した人生に倦んでいるだけかもしれない。宝石の国の月人みたいだ。(月人の説明をしようと思ったけどネタバレになりそうなので読んでください)
父親は定年退職して趣味に謳歌して楽しそうだが、コロナ禍とか物価高とか少子高齢化とか世界情勢も相まって、自分の明るい未来など想像できない。
別に死んだって構わないが、死の恐怖を乗り越えられるほど劇的な実行理由もない。
こんなうだつのあがらない自分の諦観に包まれていると、一層ポケモンアニメに浸っていた頃の自分が眩しくなってしまうのだ。
しかし、無情にも時間は進み、サトシとピカチュウの冒険はアニポケのカメラからは姿を消す。
大人の世界に辟易し、虚構の世界と思い出に夢想する人間だけを置いて。
サトシとピカチュウというキャラクターに凄まじい愛着があるわけでもない。
それでも彼らの別れが辛いのは、ただ、自分の子供時代が本当に遠くなるという事実、結局昔からほとんど変わっていないという現実が突きつけられることがやるせないからなのだろう。
多分、ひろしみたいに今が充実している人間はこんな気持ちにならないんだろうな。
いやでも最近アニメを見ていたらピカチュウが一周回ってすごく可愛く思えてきたので、それがいなくなるの普通に辛い。新しいシリーズにも別ピカチュウが出るみたいだが……。
財産も上手い具合に消費して、財産分与が及ばない婚前の分だけ残す
言い渡した時の相手の驚く顔が楽しみだ
話し合いのテーブルにも付かず、一方的に唾棄した結果位は受け入れてもらわないとな
資格職だから、一人食べて生きる程度の仕事は続けられるし、生い先も短いだろう
相手は知らんけど
と考えるくらい、精神的にやられている
今はこちらの収入で生計を立てているのだが、捨てられる心配なんて全くないようだな
正職についている状態で無職の相手と離婚する場合、ものすごく面倒で金もかかる
退職金の分配はあるだろうが、大手でもない限り、1千万もないから問題ない