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はてなキーワード: マゾヒスティックとは

2024-10-25

道徳心は育たない

から聞いて、マンガで読んで、教科書を見ても、大したものは育ってはいかない

ではなぜ人は道徳的振る舞うのかというと、社会の成員が道徳的であれば社会問題が起こらず面倒がないので、社会道徳的状態を崩さないために自分も守る、という考え方をするから

ゆえに、道徳から外れた振る舞いをすると、制裁され、あるいは自分理不尽な苦難が降りかかってきたときに助力してもらえなくなると薄ら信じている

から制裁うまいこと回避できる、あるいは他人の助けなんていらないしイザとなれば誰かが助けてくれるもんだとタカを括ってる人間は平気で反道徳的な振る舞いをするし、理不尽な苦難に見舞われている人間はしばしばマゾヒスティックなまでに道徳的であろうとし他者に対しサディスティックなまでに道徳的であることを要求する

そして、むしろ道徳によって世の中に面倒が生じるようなことがある場合、人はその道徳をあざ笑い、踏みにじるのである

2024-06-14

クレカ問題 メモ

漫画村広告を出稿する行為著作権侵害幇助に該当すると訴えて

裁判所は「被告サイト著作権侵害をしていると予見でき、違法行為への幇助回避できた」と認め、損害賠償請求を命じた。

Pornhubにクレジットカード会社収益の支払いを処理する行為侵害幇助に該当すると訴えて

裁判所Visaとその関連会社コンテンツ違法性認識しつつ、取引を続けたとしてVisa訴訟からはずれることを拒否した

Pornhubの裁判は結審していないが、MastercardVisaは「違法コンテンツ禁止する同社の基準違反が認められたためPornhubに対してサービスを停止」とした

元々アメリカ児童ポルノ禁止する法律があった。これは実在児童非実在児童区別せずに一律違法としていた

児童ポルノ法で非実在児童に対しても違法とするのは、連邦最高裁判決表現の自由に反するとして実在未成年者に限定されるようになった。

これを受けて非実在未成年者のそれを規制する法律が新たにつくられ、

その後、日本製アダルトアニメの所持で有罪判決が出ている。

第 1466A 条(児童性的虐待わいせつ視覚表現

生々しい獣姦サディスティック若しくはマゾヒスティック虐待又は同性間であるか異性間であ

るかを問わず生殖器生殖器、口と生殖器肛門生殖器若しくは口と肛門を含む性交渉を行って

いる未成年のものであるかそのように見える画像描写していること。


a. 著作物の無断コピー違法な国でその国に向けての漫画村のようなサービス自国広告配信会社サービス提供していた時、自国広告配信会社違法行為への幇助で訴える場合

b. 非実在児童性的虐待わいせつ視覚表現違法な国でその国に自国クレジット会社サービス提供していた時、自国クレジット会社違法行為への幇助で訴える場合

a. 著作物の無断コピー合法な国でその国に向けての漫画村のようなサービス自国広告配信会社サービス提供していた時、自国広告配信会社違法行為への幇助で訴える場合

b. 非実在児童性的虐待わいせつ視覚表現合法な国でその国に自国クレジット会社サービス提供していた時、自国クレジット会社違法行為への幇助で訴える場合

a. 著作物の無断コピー違法な国の広告配信会社が、漫画村合法な国にサービス提供しているとき国内から違法行為への幇助を問われないように他国に対してもサービスを停止した時

b. 非実在児童性的虐待わいせつ視覚表現違法な国のクレジット会社合法サービス提供している時、国内から違法行為への幇助を問われないように他国に対してもサービスを停止した時

a. 著作物の無断コピー幇助を問われないように他国に対しても広告配信を停止した時、広告配信の停止が違法に問われたされたとき

b. 非実在児童性的虐待わいせつ視覚表現幇助を問われないように他国に対してもクレジットを停止した時、相手国でサービスの停止が違法に問われたされたとき

2021-12-16

https://logmi.jp/tech/articles/325609

ReactNativeってむしろAndroid技術者iOS技術者それぞれを十分に集められない場合に使うもんだろ

十分に集められる状況でわざわざ使うとかマゾヒスティック会社だな

2021-09-24

フェミニズムエロへの扱いは「男が性欲を向けてると要警戒」になってる

エロ自己解放なので良いものか、消費される悪しきものなのかでフェミニストは悩んでいる。

自由意志が有るならOK区分しようとしても、その自由意志既存常識社会構造によって操られたものではないか、という議論が出てきてもはや線引きができない。

そんな議論を眺めてて思うんだが、実際にフェミニストWEB問題提起した物事を見れば、男が喜んでオナってそうだと厳重に警戒すべし、というのが率直な所なんだろう。

BLの性描写と、男向けエロ雑誌の扱い。抱かれたい芸能人ランキングはよくて、抱きたい芸能人ランキングは許されない。サディスティックな表情で壁ドンするイケメン絵はよくて、マゾヒスティックな表情で照れる美少女絵はよくない。

萌え絵表現少女漫画由来だし今でもほぼ同じ表現技法と言われればその通りだが、でも男性向け萌え絵気持ち悪いという感情は消えないのが本音、ってジレンマも、それは「男の性欲が想像できちゃうと警戒心が湧く」ってことで一貫してるんだよ。

二年くらい前に、女の子主人公アニメがないみたいな話題が盛り上がった時に(https://togetter.com/li/1311690)、あれこれ挙げられてもそれはだめこれもだめって言ってたのは、作品内容だけじゃなくて男が喜んで見てそうな作品フェミ的にダメってこと。プリキュアセーラームーンCCさくらも、たとえメインファン女児女性だとしても、男オタクもシコりまくってるもんな。これは最初発言者がヘンな人ってだけではなく、この問題提起賛同してるフェミ垢も沢山あったので、特殊議論として片づけることはできない。

そしてもちろんVTuberも、プロジェクト責任者である女性社長、または演者である女性自由意志があろうと、喜んで見ている男性視聴者存在想像できるからダメ

anond:20210924083410

2021-05-19

彼とはSM関係でもあった。だから問題が難しくなった。

彼は私の裸の姿やフェラチオしてる写真写真に撮った。4Kのカメラ動画撮影していたこともあった。

私は彼に写真を撮られたくなかったが、徐々に許してしまった。むしろ、撮られて傷ついている自分マゾヒスティックに酔った。それでも定期的に、ことあるごとに絶対流出などしないように、と釘をさした。

彼はビットロッカーかけているから、大丈夫といった。保存用のPCを買っていいか聞いてきた。いつもお金がないと言っていたが、カメラPCを買うお金はたくさんあったようだ。

これは後で発覚したことだが、メンズエステなどにもいって、何人かの女性デートもしていたようだった。

私は彼がログインしっぱなしだったPCTwitterのぞき見たことがある。

彼は、ある性的写真を配布しているアカウントに私のフェラチオしてる顔の写真と引き換えに写真をくれないか、とやりとりしているDMログがあった。

彼が送った私の写真には

「ひでー顔wwww」

と返信が来ていた。

何年も信じてきた彼はそこにはいなかった。

離婚協議の最終日、最後に私の写真が残ってないか確認させてほしいと言った。この日は第三者にも立ち会ってもらった。その第三者は彼の親友だった。

私はもう彼のことを信用することはできなくなっていたので、彼がいくら写真はもうないと言っても信用できなかったのだ。

彼の部屋で、「本当にもう写真がないか確認して」というと「もうないって言ってるでしょ」と言って確認さえしない。

「じゃあ私が探すわ」というと印刷された私の写真がまだ捨てられずに残っていた。

「やっぱり、あるじゃない!」そう言うと、「俺はADHDなんだからしょうがないだろ!」といつもの調子で彼は怒り、悲しみ、涙ながらで言った。

口論になると、彼はスマホで録音をし始めた。

私が更に探そうとすると、「いい、俺が探す」と言う。散らかった彼の部屋の、物を足でめくりながら探していた。

PCの中は?」と聞くと、彼は断固拒否をした。

「俺の創作物があるから個人自由として、それは無理」というようなことを言って、20分ほど論争になった。

そのうちに彼が「見られるくらいなら死ぬ」といって、首吊りロープに首をかけた。立ち会ってくれた人が、「ここは俺に任せて」と私を逃してくれた。

結局私の写真はきちんと消されたのかわからない。

そして、彼がちょうど協議の最終日の数日前くらいに、女の人の裸の写真を撮っていたらしい形跡が見つかった。

しかに、それは首吊りレベルの恥だね、と合点がいった。

2021-05-16

弱者男性恋愛可能になると不幸になる人がいる

自身一介の弱者男性として最近弱者男性議論を度々心痛めつつも興味深く追ってきたわけだが、以前として誰もタイトル問題について言及していない様に思われたので俺が書くことにした。

まず前提としてここでいう弱者男性とは、

・同世代所得平均値以下の所得経済弱者

性的魅力が著しく低くて性愛対象にされない→恋愛弱者

少なくともこの二点を兼ね備えた男性のことを想定している。つまり俺のことだな。

加えて言えば経済能力恋愛能力に、恋愛能力経済能力にそれぞれ程度の差こそあれ相互作用していると思われるので、この二点は弱者男性弱者性の不可分な要素だと思っている。

で、こういう俺みたいな弱者男性恋愛不能から恋愛可能者にクラスアップするシチュエーションにおいては幾つかのイベントが想定されるわけだ。

例えば一部のブクマカ字面を見ただけで怒り狂うあてがえ論というハードイベントから官製非モテ合コンみたいなソフトイベントまで幅があるわけだが、ここで重要視したいのはあてがえ論にせよ官製非モテ合コンにせよ、

現行の自由恋愛市場における敗北者が恋愛可能になる

という事実なんだよね。

これってつまり自由恋愛市場で不人気だった為に売れ残った弱者男性の買い手(便宜的な表現)になる人間(主に女性)が想定されるわけだよね。

それって正直俺たちの買い手になる人間にとってはあまりメリットが見えない話じゃないか?というよりデメリットの方なら幾らでも発見できる。

弱者男性経済能力が弱いか経済甲斐性は期待できないし、性的魅力にも欠けるから日常コミュニケーションから性的接触に至るまで幅広いレベル癒し効果も期待できない。限りなく透明に近いデメリットだよ。

弱者男性恋愛可能になるってことはつまりこういうデメリットを引き受ける甲斐性を発揮しなきゃいけない人たちが出てくるってことだと思うんだよね。

それって凄い残酷な話じゃないか

こういうことを書くと「自由恋愛市場で戦えるように弱者男性をチューンナップすればいいじゃないか」と指摘する人もいると思うが、SSTや”クロワッサンを参考にした丁寧な暮らし”を通じて弱者男性恋愛可能になる様な甘い想定は現実弱者男性にはまず適用できないと思うんだよね。

年収選択肢の少ない生活の只中にあって、意中のジェンダーからまるで見向きもされずひたすら自尊心が摩耗していく日常を送る弱者男性にそんな選択肢適用できない。喉が渇きに渇いて今にも倒れそうな人に「数十キロ先にあるオアシス」を指し示したとしても彼らはそこまで辿り着くことはできないんだよ。

それに男女の非対称性も思い出してほしい。

男性は未婚、独身だと既婚男性に比べて著しく幸福度が下がる一方で、女性は未婚、独身でも既婚女性幸福度ほとんど変わらないか、むしろ高まる傾向もある。

そして女性には男性存在しない器官である子宮存在することも忘れてはならない。

弱者男性がわが子を希求するケースではパートナーとなる女性存在が不可欠となる一方で、女性においては精子バンクを用いた人口受精というオプション存在するわけだ。

以上を勘案するだけでも、弱者男性に比して女性は「自由恋愛のあぶれ者同士で結婚するメリット」が極めて希薄であると言わざるを得ない。

そしてここまで書き連ねてきた内容を総合すると、

弱者男性恋愛可能になると不幸になる人がいる

と言わざるを得ないのではないか、と俺は思うわけだ。

ただここまで書いてきておいてなんだが、俺の意見というのは詰まるところ「自由恋愛の敗北者に救いを与えるのは如何なものか」という、弱者男性の表明する意見としては余りにもマゾヒスティックものであるわけで、正直キーボード打鍵するそばからメンタルがどんどん悪化していくのを感じている。

正直俺だって恋愛してぇよ。25歳素人童貞でも恋愛してぇよ。でも、同時に25歳素人童貞恋愛する相手が俺にはどうしても俺の恋愛願望による犠牲者に思えてならないんだよ。

だったら俺は滅びゆくべきなんじゃねぇかってセルフネグレクトしてしまう俺がいるんだよ。どうしたらこ自由恋愛市場で俺たち弱者男性他者幸福にしつつ自身もまた幸福になる恋愛ができるんだよ。

誰かお願いだから俺たちを救ってくれ。

2021-01-18

なぜ私は聖地巡礼をするのか(の話をかくはずだったが)

聖地巡礼とは中世ヨーロッパ封建社会においてキリスト教徒あいだで流行した、キリスト教聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である

転じて、現代においてはアニメ映画などの熱心なファンが、創作物キャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。

私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組ロケで訪れたり雑誌メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。

大塚天祖神社バッティングセンター千歳船橋喫茶店ぱおーん、五反田デニーズ……

思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。

それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。

聖地巡礼には楽しさがある。

思えば私は日本史世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画ロケ地を訪れることもある。

(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)

今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代マゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。

そう、私はフランシス・ドレーク足跡を辿りたいのである

乃木坂メンバーが参詣した神社自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分バットを振るいたいのだ。

そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである

この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。

バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティング最中乃木坂のことは忘れて純粋ボールバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。

しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。

私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。

この違いは何に由来するのか。

まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼動機に深く関わっている。

私は何も藤田ニコル西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡自分足跡を重ねたいとは思わない。

フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)

では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。

これは極めて重要着眼点である

恐らくは、その人物との関係性および距離感聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ

想像するに乃木坂メンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地巡礼したいという衝動はなくなるだろう。

同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ

友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。

ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。

「手の届かない特別存在を思うこと」が聖地巡礼の肝なのだ

そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。

その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。

私は宮崎駿監督映画が大好きで、監督ハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。

フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周ロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。

しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼラン足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。

(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)

「手の届かない「聖なる存在である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。

ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂メンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。

一年彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアル追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為限定するべきだったかもしれない)

聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ち自分も受けたいかというと難しい。

例えばメンバーの誰かが過去イジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。

しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。

キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいねはい。))

体験総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。

心地よい感情が動きがあればよい。

郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。

いや、違うな。

上に述べたエモさは体験のものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。

例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為のもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋巡礼っぽい)

先例のイジメのように行為自体許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。

追体験行為包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼追体験包含する」よりも「巡礼追体験が付随する(ことがある)」が正しい)

距離重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理距離感である

遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。

「ここまで来た」という感覚聖地巡礼には必要である

私は電車移動含めて一時間もあれば十分であるしかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。

遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂メンバーが訪れた場所比較として、私の現在地から大塚バッティングセンターパリ街角にあるカフェとの物理距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。

これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂メンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェ目的渡仏する気にはならない。

いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為のもの乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋巡礼価値は何によって決まるのか。))

これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行のものに少なから体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。

でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフ聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。

眠いし目も疲れたので「過去自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。

おやすみなさい。

2020-06-28

寝取られ物は最高だ

男はシコる時射精が近づくにつれどんどんIQが下がるそうだけど

心が痛くてしょうがないのにちんちん気持ち良くてその苦痛が紛れるのが何ともマゾヒスティック快感

射精の余韻が無くなった後冷静になり心が痛くなり辛くてつらくてしょうがなくなるのもたまらない

こうやって反復と刷り込み寝取られ物は抜けると体に思い込ませるとどんどん心が傷付いて行くぞ

2020-02-17

MTR【めとられ】

ストーリー属性の一つ「娶られ」の隠語

意中のヒロインが男を娶ることを言うが、これにマゾヒスティック快感を覚える人もいる。

主人公ヒロインとの関係によって様々なバリエーションがある。

素人にはオススメできない。

2019-01-30

NTRの3つの楽しみ

個人的ヘテロ男性向けNTRの楽しみ方の整理

まずはNTR物語を「主人公男性と親密な関係にいる、または主人公がそのような関係を望む~恋人・幼馴染・友人・家族片思い等の関係の~女性が、別の男性性的行為を持ち、最終的にその男性の"モノ"になる」物語としておく。

堀あきこ著「欲望コード」を参考に、どこに同一化しているかで分類した。

寝とる男性への同一化

性的行為において快楽という道具を暴力的に使って、女性を徹底的に客体化(主体否定、モノ化)して、その女性支配・所有する楽しみ方。また支配・所有と合わせて、その女性快楽に負ける"(非理性的な)劣った女"とみなすミソジニーが背景にあると考える。

読者の視線女性へ向かう

寝取られ男性への同一化

親密な関係(またはそれを望む)女性を別の男性寝取られる事の喪失感と、その男性に比べて、自分の(性的能力も含む)能力が低いことの無力感、の二つに快楽を覚えるマゾヒスティックな楽しみ方。

自分との比較対象である寝取る男性は、汚いおじさん(*1)など一般性的魅力に欠ける場合からイケメンの先輩など性的な魅力に富んだ場合まで様々である、どちらも寝取られる側の人間よりも女性性的に満足させるという点はほぼ共通している。

読者の視線女性と寝とる男性俯瞰する

寝取られ女性への同一化

女性へ同一化することで、セックスにおける男性ノブレスブリージュ的な奉仕役割放棄して、快楽を受けること・またその背徳性を想像する楽しみ方。

読者の目線女性へ向かう

考察

寝とる男性への同一化は、ヘテロ男性向けエロ漫画共通する読者と女性セックスする男性とが一致する見方で、フェミニズムがしているポルノ批判範疇にいるだろう「欲望コード」で挙げられている男性向けポルノコミックの<視線>と同様で、これには『男性身体の透明化』(*2)が寄与している。

一方、寝取られ男性への同一化では、寝取られ男性の目を通して女性と寝とる男性俯瞰し、かつ寝取られた後で自身俯瞰するという点で、上で挙げたエロ漫画での一般的な同一化・視線とは異なっており、「欲望コード」で提示されている男性向けポルノコミックス・レディコミ・ヤオイの<視線>のどれにも当てはまらない

俯瞰する視線という点ではヤオイ共通するが、その視線自身に返ってくる点がどれにもない

最後に、寝取られ女性への同一化は、「欲望コード」で提示されているレディコミの<視線>と同様である (お姉さん優位の)おねショタに見られるような、男性の性の主体性の放棄快楽への受け身と捉えることができ、おねショタと違う点として、女性(挿入される側)への同一化であり、この楽しみ方はトランスあるいはホモセクシュアルへの潜在的欲望と言える。またNTR女性快楽やそれへの戸惑いに表現比重が置かれていて、それが『男性身体の透明化』と組み合わさって、逆に女性への同一化を促進していると考える。意外とこの読み方は多いんじゃないか

快楽への受け身」ではなく「快楽主体的な獲得」と読み替えられたらポルノ批判をうまく躱せる面白い読みになるんじゃないかと思っているが、そのように女性の心情を表現した作品は知らない。読みたいので教えて欲しい

脚注

(*1)寝とる男性が汚いおじさんで、かつ読者がそのような要素を自身に認めているとき(つまり読者自身と寝とる男性が近い時)、寝とる男性に同一化して、女性を所有することを通じて、自分性的能力の誇示・確認をする読みもあり得そう

(*2)男性身体が半透明になったり、顔が描かれなかったりする技法のこと

2017-12-08

根拠もなく俺はいつか覚醒してラノベ作家になると信じていた

だけど実際はどうだ?

何か一作でも書き上げたことすらない。星新一サイズの掌編どころか、2chの1レス分に入るような小話やショートショートすらないんだ。もしもこんな俺がラノベ作家になったとしても幸福にはなれないだろう。なった所で締め切りに追われてつまらない毎日を過ごすだけだ。


といった感じのオタクが俺は好きなんだよ。

結果を出してるオタク薄い本を書き上げることが出来てしまったオタクブログ大人気のオタク。いつの間にかウェブライターになったオタクツイッターで皆のアイドルしてるオタクですら気に食わない。ツイッターで言えばフォロワーは3桁以内じゃないと駄目だな。4桁まで行ってるオタクは何かが違う。たとえそれがフォロー人数を4000とかまで増やしてフォロワーが1000になったという形であっても、俺のイメージするオタクとは違う。俺の好きなオタクプライドが高くて完璧主義からフォロー人数は400ぐらいで頭打ちになるんだ。全部読もうとしたり、こだわりに合致しない奴を次々リムーブしたり、理由はともかくフォロー人数を4桁まで増やしたりはしない。万一超えても1500がリミットかな。

自分に自信がある理由説明出来るオタクは駄目だ。他人説明して恥ずかしくならないような経歴があるようでは駄目だ。せいぜいが小学校の頃学級員長だったり、高校入試で難関に受かったぐらいの所が限度だ。そっから先で東大に受かってたり、会社表彰されたりしたら駄目だ。年収も年齢*15を下回るぐらいじゃないと。年収があるってのは社会的地位があるってことだ。それじゃ駄目だ。オタクとして駄目だ。オタク負け組じゃなければ。燃えるようなルサンチマンの塊でなければ駄目だ。

今のオタクは豊かなオタクが多すぎる。まず友達がいる。オタク友達がいていいのは大学までだ。大学を出て3年したら友達の数が0になっていなければ駄目だ。そして金があったり能力が合ったり結果を出していたりする。駄目だ。駄目だ。オタクってのは消費する側で無ければ。消費しか出来ないのがオタクだ。何かを生み出しては駄目だ。ものすごーくたまにゲーム攻略WIKI更新するも、内容が使えなすぎるから一週間後にはまるまる書き換えられているぐらいを関の山とすべきだ。

黒歴史ノートを書いたことはあっても、それを人に見せるのは不可能じゃなきゃ駄目だ。オタクプライドが高くなければ。無駄プライドが高くそれゆえに失敗を恐れるし人とも関われずそれゆえに無能でなければ。そうでなければオタクではない。

そもそもオタクとは生まれ持ってして社会不適合でありいわば定型発達に失敗している※アスペ(※この言葉を使ってしまったのは屈辱だがこの言葉はこの場で私が表現したいものにかなり近いものがあり他の表現を使うよりも正確に意味を伝えてくれる。)でなければならない。そういった漫画ゲームが無ければ生きる希望の無さに耐えられず死んでいたはずの人間でなければいけない。本来世の中で生きる希望など一切なく中学高校まではまだしも三十頃になればいよいよ生きる事といつか人生好転する事を期待する事に疲れ果ててそうして苦しむことのマゾヒスティックな刺激にも飽きてしまって死を選ぶ以外の道を失うような所をオタク的な嗜好品によって何とか救われた生き物でなければならぬ。

オタク創作物によってかろうじて生かされていなければいけない。それは自分が生み出す物ではなく人が生み出すものでなければいけない。作る側に回った時オタクとそうでない消費するだけのオタクは別の生き物だ。同じ名前で呼ばれている別の生き物だ。オタクとは生まれたてチワワと鍛えたドーベルマンを丸ごと犬と呼ぶような大雑把な枠組みなのだ。そしてオタクの本質が宿るのは消費することしか出来ないくせに口だけは大きい極めて無能であり守る価値もないクズの方なのだ。そこから脱皮して進化したオタクそもそも別の所からやってきた外来種たる新型オタクオタクと呼ぶのが憚られるような代物なのだ

偽物のオタクばかりがオタクと呼ばれる時代にいい加減嫌気が指してきた。消費しか出来ない生まれついてのアスペに対する新しい呼び名必要ではないだろうか。

2017-07-22

今年よかった映画や本などのメモ

一時期赤羽の駅前を賑わせた男性がいる。彼はどう見ても普通の、背広を着てネクタイを外したサラリーマンなのだが、なぜか道行く人にノートを見せつけてくると言う。そのノートにはどれほど猥雑なことが書かれているのだろうかと怪訝に思われるだろうが、実はそうではなく、ノート手書きで書かれているのは

君の名は

に関するあらゆる情報。どうやら彼は映画館で観ていたく感動し、その作品を広く世に知らしめるべく行動に出たようなのだ。すごくないですか?このインターネット全盛の時代に。しかもすでにみんな結構観てるし。でもなんかいいなと思った。どうしても色んな人に観てもらいたかったのだろう。

今年観た映画には素晴らしいものが数多く、会う人会う人に、向こうのリアクションなどお構いなしに下を見ながらブツブツすすめ続けてしまう。わたしは何かを観たことによるマウントを行いたいわけではない、と思う。ただ、自分が今ラリっているブラントを配りまくっているジャンキーのようなもの。たぶん。ヘイ、ニガ!一緒に吸おうよ!みたいな。たぶん。知らないけど……。僭越ながら紹介させていただきます。とっておきのブラントなんだぜ、ニガ。

長い前置きすみませんでした。

◆超オススメ

①映画「お嬢さん」監督:パク・チャヌク

韓国鬼才によるエロサイコミステリーしか百合韓国映画敬遠しがちな人は度肝抜かれるので観てください……。戦時下、美しい日本庭園で美しい衣装を着て日本人のフリをする朝鮮人たちが騙し合うんですが、セリフがずっとカタコトの日本語。この時点でカルト映画だ!となるんですが、話の展開も予想だにしない方向へと引っ張られていき目が離せないです。しかも最後が爽やか。イェーイ!となるという。とにかくエロいんでそこ目当てでも観て欲しい。

公式サイト:http://ojosan.jp/sp/index.html

②映画「コクソン」監督:ナ・ホンジン

韓国の寂れた村に國村隼が住みついてから、村人が家族を惨殺する事件が相次ぐ……なんで國村隼?本当に犯人は國村隼?なんでフンドシで鹿の生肉食べてる國村隼?こう聞くとB級映画しか思えないと思いますが、カンヌ出品も納得のテーマへと迫っていく。何を信じるのか?終わり方は苦手な人もいそうだけど、でもそういう人こそ観るべきだと思う。途中、祈祷師なる人物がドラをジャンジャン鳴らしながらヤギの首をかっ切るシーンは尋常じゃない高揚感が得られます

公式サイト:http://kokuson.com/sp/

③映画「くすぐり」監督:デイビット・ファリア

Netflix話題を呼んでいるドキュメンタリーニュージーランド記者が「くすぐり我慢大会」なるものを見つけ取材を申し込むと「オカマ野郎には関わって欲しくない!てめーはクソだ」のような攻撃的な返事。調査を進めるうちに、まるでゲイポルノのようなくすぐり動画を撮影し、恐喝に用いていたことが判明する……。

実話であることが恐ろしすぎる!見ず知らずの若者を支配し人生をぶち壊すことにしか興味がない恐ろしきサディストの話。こんな怖い話があってたまるか……。ゾワゾワしたい人は是非観てほしい。すごく怖い。

参考サイト:http://cinemandrake.blog.jp/くすぐり

④本「勉強哲学 来たるべきバカになるために」著:千葉雅也

勉強するとはどういうことか?勉強するとはキモくなることである勉強すると100%キモくなる。なぜなら周りのノリに対し浮くからだ、という箇所に大納得。でもそれでも勉強してしまう。なぜなら自分が変わっていくマゾヒスティック快楽があるから。勉強とは、今までわからなかったことがわかること。言葉自分のなかで血肉を持つこと。でも言葉自分環境を一度切り離し、客観的に捉え直すことが必要自己啓発書風だけど中身はすごくわかりやすいドゥルーズだった。わたしがなぜ学生の時にドゥルーズに心惹かれたか、腑に落ちた。とても平易な言葉で書かれているけれど、勉強のものに切り込んでいくのでスリリング。名著だと思う。……伝わってますか?すごく読みやすいのに考えさせられる、とてもよい本。

テレビシリーズ「ル・ポールドラァグレース

こちらもNetflixにて。アメリカンドリームを夢見る、人種バックグラウンドも様々なドラァグクイーンたちがバトル!ル・ポールの前で1番を競い合う。カーテンドレスを作ったりものまねショーをしたり。あれ?意外に予算がかかってない?しまむらチックな私服を着た屈強な男たちがメイクと豪華なドレスで美しく変身する様、見習わないといけないなと思わせます。そしてなんてったってル・ポールが美しい!普段はダンディなスキンヘッドの50代のオジさま(声だけ女)なのに、ひとたびドレスアップすると193センチの美女!日本の番組ありがちな、 「でも実はオッサン」的ないじられ方をすることなく、ただただ美の化身として存在するル・ポール尊いです。あと発音がわかりやすくてリスニング力を鍛えることができる。

⑥映画「モアナと伝説の海」監督:ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー

海、砂、黄金テクスチャーが本物以上。海洋スペクタクルアドベンチャーモアナプリンセスというよりかは立派な施政者。16歳なのにあんなにしっかりしているなんて……。話の説明パートは歌かギャグが入るので飽きることがない。オチ完璧だったし、この映画を観て育った子供は絶対に自然環境破壊しないと思う。ホントか?半神ムアイは全身タトゥーだらけで顔もいわゆるディズニーヒーローとは違っているけど、とても愛らしい。ディズニーは反ルッキズムへと舵を切っているのかも。人間に御礼を要求する歌がいいです。派手なカニやココナッツマッドマックスも必見。

⑦映画「レゴバットマンムービー」監督:クリス・マッケイ

今激激激激オシしている映画。なぜなら全然流行ってないから。でもそれはどう考えたってオカシイだってこんなに面白い映画そうそうない。映画館で終始ニヤニヤ、たまにゲラゲラ、笑いすぎてむせてしまったかと思えばしんみりさせてくれる。バットマンでかつレゴ、でもどちらも必然性があるストーリー。レゴがとにかくかわいくカラフルで魅せられるんだけど、話は意外に考えさせられる。

ダークナイト」では、悪に対し私刑を加えるにすぎず、その行動がより悪を増長させ自らもまた悪の似姿となるバットマンが、アメリカオーバーラップさせる形で描かれた。奇しくもジョーカーを演じたヒース・レジャーの死によってダークナイト問題提起に答えが与えられることはなくなってしまったが、その答えを与えるのが「レゴバットマン」。まじです。しかも子供も楽しめる。すごい。ウォルデモート卿やマトリックスエージェントキングコングまで。騙されたと思って観てください。

公式サイト:http://wwws.warnerbros.co.jp/legobatmanmovie/

オススメ次点

⑧映画「アシュラ」監督:キム・ソンス

韓国ノワール。人がイヤな死に方をすることでは天下一品韓国映画にまた一作、観ていて痛そうな映画が。サイコ市長に飼い犬のように使われるダーティ刑事が牙を剥く。観終わったあとに結局なんだったのか?感が否めないが、市長がフルチンでキレたり、やたら痛そうな拷問など、観ると楽しい。主演が西島秀俊に似ている。

公式サイト:http://asura-themovie.jp/

⑨映画「ムーンライト」監督:バリージェンキンス

閉鎖的な黒人社会でセクシャルマイノリティとして生まれたこと、というよりかは孤独な子供あるあるとして観た。静謐さ、不安定な視界、不安げな表情、どれも既視感のある普遍的ものだったので、不器用な子供だった人にすすめたい。また、車、言動、振る舞い、筋肉、どれをとってもギャングスタに憧れないわけにはいかなかった。

公式サイト:http://moonlight-movie.jp/sp/

⑩映画「湾生回家」監督:ホアン・ミンチェン

台湾で生まれ育つも敗戦により引き揚げざるを得ず、しばらくかの地に足を踏み入れることのできなかった日本人を追ったドキュメンタリー故国ではないところに故郷がある人の、心はいつだって異邦人という言葉に痺れる。人の優しさと詩情に満ちている。

公式サイト:http://www.wansei.com/

11映画「スウィート17モンスター」監督:ケリー・フレモンクレイ

とにかく女の子ダサい二日酔いから覚めると一人しかいない親友といけすかない兄貴がウチでヤッてた!?最悪な気持ちのまま適当アジア系のイケてない男の子デートしたり先生悪口言ったり、ジタバタ。パーティで人に話しかけることができなかったり、目も当てられないが、それはまごうことのなきいつかの自分。近頃よく見るイケてない青春ムービー一角だが、大した事件が起きないのにしっかり成長するので見ごたえがある。サントラがいい。

公式サイト:http://www.sweet17monster.com/

2014-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20140402155345

でも深層心理では年増女性性的に執着しているのですよね?

そして年増女性にすら相手にされず、金銭をむしり取られるだけで捨てられたいという、

非常にマゾヒスティックな願望があるのですよね?深層心理では。

2014-01-13

冬馬かずさを待ちながら

きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版テレビ放送だった。

悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったかなのだ

起こったのはごく単純なことで、僕はネットたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。

そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みゲームクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。

冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここからWHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマ想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンド二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。

ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲー歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマ積極的表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞わずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマささやか心理学物語還元するのに対し、先の3作品は、トラウマ表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。

さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭きっかけとした主人公ヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。

大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやか日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間

ーーそして、唐突に、"coda"が始まる。

冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグ強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年ものピアノ毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまる馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷リアリティをもたらすために。

"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまりほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年ファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。

顔が好みだったからだよ!

一目惚れだよ!

これが、この巨大な地獄起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、

* * * * *

ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティック主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップ機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎ものがあろうか)し、CGコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。

ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、

2012-12-13

http://anond.hatelabo.jp/20121213155647

それが本当なら電子化後にはマゾヒスティック趣味流行るかもしれないな。

自傷をしても女王様に鞭で打たれても傷はすぐに治せる。存分に苦痛を味わえばいいさ。

2012-08-03

書を捨てよ走りだそう ~皆さんに本当に必要なのは筋肉ではなくラン

気が向いたらスニーカーを履いて、Tシャツ短パンの軽装で玄関を出る

あとは走るだけだ

嫌になったら バスにでも乗って帰ってくればいい

ここ5000年くらいの話

ぼくらは毎日12時間くらい草原を駆けまわったり 毎日12時間くらい畑耕す生活をつづけてきたのだ

この体は一日12時間椅子に座り続けるようにできていないし

一日12時間光る板を凝視するようにはできていないし、一日300歩しか歩かない生活なんてなかった

それは20万のアーロンチェアに座ったって、JinsPCをかけてブルーライト防いだって

エスカレーター階段に変えたってなんの足しにもならないくらい

「人体の構造根本的にかけ離れた生活」を送っているんだ いまのきみみたいに

それが ここ100年も経たないくらいのおはなし

みんな そのことにびっくりするくらい無自覚で無頓着

原始的な生活にもどりたいっていう話じゃないよ

でもそんなんじゃパフォーマンスが下がる一方だ

きみの肉体は大事商売道具じゃないのかい

お金があるなら整体でもジムでもご自由にどうぞ行ってらっしゃい

でも解決策はそこにはないんだよ

0円でいまからはじめよう

ランニング

なぜランニング

安いスニーカーと Yシャツの下に着るようなペラペラシャツを着て

これを読み終えたら外に出てみるといい

走るくらいしかやることがないし

走って走って 嫌になったらバスにでも乗って帰ってくればいい

辛くなったらやめるのがコツ

限界まで追い込まないのがコツさ

ジム通いを試した人はいるかもしれないけれど

なぜかみんな続かないよね

それは 体を痛めつけるのはただ辛いだけだから

有酸素運動なんだよ 本当に必要なのは

ランニングは長い時間を掛けるもの

かつてぼくらの先祖毎日イノシシをおっかけていたみたいに

一歩一歩が糧になる カロリーを消費して未来がやってくる

ランナーズハイじゃないけれど いちど走りはじめたら辛いことなんてないし

むしろ日々のつらい仕事を忘れて 頭からっぽで無重力みたいな開放感が得られるんだ

からみんな 疑ってもいいけれど

一度でいいかスニーカーを履いて 玄関から出てみて欲しい

ほとんどの精神上の問題 肉体的な問題は

ランニングが解決してくれるんだ

ほんとうだよ

お気に入りの曲をiPodにつめていくと さらにいいとおもう

それは100万のアンプよりも

走る衝撃で イヤホンが踊り 風がおこり タッチノイズにまみれた128kbpsの音楽

きみの集中力によってどのオーディオルームよりも音がクリアに 今までにないほど綺麗に聞き取れる

音の粒ひとつひとつが 直接シナプスに流れ込んでくるような

はじめての感覚におちいるんだ

湿度や温度をきにしながら 座布団感覚すら余計だったきみのオーディオルームを一回でひっくり返す

最強のオーディオルームがきみんちの横の道路にあるんだよ

これは 本当にくせになる

ヨガやら何やら

もしかして ぼくが感じているような集中や開放感は

ほかの何かでも得られるものかもしれないけれど

あえて何故ランニングなのか

ただ ジムに7000円と入会費を払ってやるのもしゃくだとおもっただけだ

イニシャルコストゼロからおすすめしているだけなんだよ

たとえばきみが ジム筋肉質なオトコ(コウチとかいうヤツ)にマゾヒスティックになじられるのもよし

たとえばきみが 座禅組んでハゲタマのオトコにはたかれるもよし

たとえばきみが ヨガでアロマでロハスするもよし(ただ新興宗教に気をつけて)

たとえばきみが 早朝から皇居を周回して意識高いひとたちと共に陛下の気を高めるもよし

やり方はきみしだいだ

でもね

ランニングはいからできるからいいんだ

で 走り終わったきみへ

おつかれさま きみはよくがんばった

走り終わったら、水分をとって日陰か家かでゆっくりすること

さっきまでとは違った充足感がきみを包んでいるはずだ

頭の中にこびりついていた仕事の悩みや 人間関係のドロドロしたやつは

コースにポロっとおきわすれていて 心臓が全身にここちよいリズムで血流を遊ばせているはず

どれだけたくさんライフハックを齧っても手に入らなかった自己変革感が

得られましたよね

まり

そういうことです

2011-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20110111120128

ラムちゃん

そのような手垢にまみれた例や話は勿論知っている。

だがあれは電気を流されることやぶたれる事が重要なのではなく、

「1話完結形式」「少年誌」という条件となにより高橋留美子の作風に要請された暴力であって

大多数の読者にマゾヒスティック趣味があったわけではない。

連載中に恋愛関係が進展してはいけないあたるとラムの間で

コミュニケーションイチャイチャの代わりになるのが

「おっかけられる」「電気攻撃」というテンプレートだったのであって

それを楽しむ読者は「男性女性に肉体的攻撃をうけている」ことを楽しんだわけではない。

また、あたるは展開の短縮や極端化の為に女性キャラ条件反射セクハラに及ぶので

殴られないと釣り合いが取れないとか事態が収拾しないという作劇的な理由が大きい。


表層ではなく含有する中身を見て語れるようになって欲しい

2009-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20090617144121

C/C++CPU依存性を減らしたアセンブラで、面倒くささを耐える代わりに速度を稼ぐという特殊用途言語なんだから、「プログラミングは面倒だ」の例としては局所的すぎるなー。大量のバッドノウハウを楽しんで乗りこなすマニアどもが、ゲーム組み込み検索エンジンあたりの開発に使うプロ向けの道具で、間違っても「プログラミングの細かいところが嫌い」なんていうライトプログラマが使うようなものじゃない。

もっとチャラい言語使いなよ。RubyとかActionScriptとか。よりによってPHP/C/C++とか選択がマゾヒスティック過ぎ。仕事だか学生課題だかで無理矢理使わされてるの?

2009-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20090404115824

『なんで、休ませないんだろう。『脳を』

 筋肉と同じく、細胞の集合体に過ぎないというのに。疲れないわけが無いのに。』

↑おい、ちょっとまて。筋肉超回復では、断裂した細胞の復元を待つ必要がある。

だが、脳のシナプスは使ったら断裂するというわけじゃないぞ。

頭を使った後で疲れるように感じるのは、それまでの記憶に無い不自然パターンを強制的に繰り返されたからだ。

・・・とはいえ、確かに「体育会系学習」で本質的ダメパターンは、疲労すること自体を目的とし始めて、マゾヒスティックな満足感を勉強勘違いするタイプだ。「わからない」ことに慣れてしまうと、いつまでもわからないままだ。

まあ、俺自身はあんまり特別な受験勉強とかは、しなかったけど。(つうか、大学入ってからの方がよっぽど勉強するだろ)

怠け者の俺としては脳を休ませるコト自体には賛成だ。

2008-12-08

何で意地悪ないいかたをわざとするんよ。それって気持ちいいのからやっているのか。なんとなく文脈や行間から本心じゃないように見える。あるいは斜に構えているのか。わからないけどさ。でもとにかくそういうのやめようぜ。お前が意地悪なことをするとさ、傷ついたり嫌な思いした人たちがまた、誰かに冷たくしたり意地悪してしまうわけよ。それで悪循環はたぶん早周りで、お前ががちょっと弱音は来たくなったりしたとき、なにか助けが欲しいとき、冷たくされたり意地悪されてダメージ受けるんだよ。で、嫌な雰囲気になるじゃないか。マジでマゾヒスティックならそれもやむなしかも知れない。でもそうじゃない人が大半だろ。たぶんお前も。いやわからんけど。持ち出すともめそうな言葉だけどマナーというか、人情というか。まあ俺も必要もないのにバッサリ切り捨てる様な物言いしてしまうこともある。もちろんはっきり断言することが必要なときもある。議論の場とか。なれ合いすぎる井戸端会議に一席投じたい気持ちになることもあるな。あとは何気ない一言が相手にとっては一刀両断される言葉だったなんてこともあるな。だが、俺は正しい俺は負けない俺の一撃を食らって痛み苦しめ、みたいな、まあ人間的と言えば人間的だがそんなに褒められたものじゃない感情から発する攻撃もあってだ。いっている俺もまだ気をつけているレベルだ。愛想はいまにも尽きそうだけど、まだ俺は俺とお前に期待するよ。

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