はてなキーワード: 歴史的とは
これって名前付いてないのかな?
「私がAと思うんだから皆Aにするべき」とか
「このグループでは皆Aで揃えましょう」みたいな、差を許容しない同質化の考え方と
「私はAだけど、隣の人はBで構わない」とか、基本個人の自由で不干渉みたいな異質許容の考え方
世の中にある用語はどうにも歴史的に要らない意味が拡張されてて当てはまりづらい
どちらが良いかと言えば、正直どっちもメリット・デメリット出てくると思うんだけど
どちらをより好むかで、その人の性格が分かれる印象がある
規律・規範・ルールで縛る なのが同質化側、真面目で保守的でお硬い印象、和を大事にする、最たる例は学校や軍隊
自由で最低限のルールにするのが異質許容側、行き過ぎるとアウトロー、他人とは別の行動するタイプ
世界的には異質許容が主流なように見えてるがそうでもない
「『一部の異質なこと』を許容する」ことを同質化しようとする動きも多くて、あれは同質化側だと思ってる
これ厄介で、自分は異質許容だと思ってるようでいて、実はよりマイノリティーを許さない同質化側がいる
社会的に認められた「異質」は「許容を同質化」するが
社会的に認められていない「異質」は「排除を同質化」するタイプ
あれはやっぱり同質化
社会的に認められているかどうかってのは個人の観測になるから、ややグラデーションが存在するし、年齢によって下手すると真逆の答えを出す
だから一瞬その人がどっち側の性格なのか分かりづらくなるが、何個か話を聞いてみるとやはりどっちかに偏る
もちろん両方をバランスよく使ってる人も居ると思うんだけど、有能な経営者とか
___
我ながら説明がわかりにくい
言いたいことは「同質化タイプと、異質許容タイプの人が分かれているのでは?(名前付いてないのかな)」って主張
そして色んなラベリングをされながらお互い殴り合ってるけど、一個のルールで説明つくのではないかと
例えば
・「Bのグループは考え方Aになるべきだ」が同質化
・「Bのグループは考え方Aになるべきだ」は、同質化
に見えるけど、①が異質許容、②が同質化であるとすれば、それぞれ矛盾したことになり一貫性がない
主体が考えて決めたのか、社会のコンセンサスで決まったのか、誰かに影響されたのか、あるいはそれ以外なのか(感情的など)
もし、主体が考えて決めたのではないのであれば、「主張」はまだ成り立つのではないかと思った
例えば同性愛の話をすると
それをベースに考えれば
これを最近にすると、「同性愛は許容すべき」が社会的に主流だから
主張が逆転してるんだけど、考え方の根っこはお互い変わってないんだよ
最近は「◯◯の人たちが以前と逆のこと言ってる。彼らは本当に◯◯なのか?」みたいなことを言われるが、こういうからくりなんだと思ってる
そういう風なラベリングがされたら、話がスムーズなんじゃなかろうか
ていうか、同じ結論の中でも同質化/異質許容が混ざってると思う
どうしても「同じ結論」「同じ思想」でグループは分かれちゃうからしょうがないけど、内部でお互い仲悪い印象
__
こんな分かりづらい意見聞いてもらえて嬉しいのでもう少し書かせてくれ
差別なんかで
みたいな話がたまに出るんだが、あれの考え方もこの話に似てる
異質許容タイプってのはおそらく、世界を一貫性を持った小さいルールベースで理解したいタイプで
「差別はいけない」を「グループを作って排除する行為」と捉えている
そのため「差別するものを差別する」という行為が頭の中で矛盾してバグる
差別をもっと深掘りすれば「肌の色で差別してはいけない」「性別で差別してはいけない」みたいな社会共通認識があるが
何故それが特別化を理解できないので、異質許容タイプは受け入れられない
一方同質化側は、「差別」を特別ななにか(例外)だと脳内で定義できている
(ただ、「それは差別だ/差別じゃない」に揺れがあるのでボーダーラインで矛盾を起こす)
(どちらが良いという話ではなく、会話がぶっ壊れる理由の話)
2.同質化が嫌いで、異質許容を同質化したいタイプ(不寛容排除タイプ=寛容同質化タイプ)
3.同質化が嫌いだが、異質許容を異質許容するタイプ(関わりたくないタイプ)
それをもとに3タイプの人が嫌韓になったが、結局別々の道を辿っている
実は1は少なく、その後攻撃的になったのが2だと思う
最近の所謂フェミニストへの反発や、何か立法で制限を加えるといったときに反発するのが2だ
(これについては名前ついてそう)
よくそういう一群を指して「あいつら」とか言われるのは、思考タイプが同じだからではないだろうか
「ルール vs 定義は話が平行線になる」と言ったほうが説明しやすいかもしれない
消える内航船、静かに進む「海の物流危機」 船員の過半数が50歳超でも「外国人はノー」
https://toyokeizai.net/articles/-/245568
上記の報道に対して業界人としての所感を示すと共に、現時点でのブコメに一部理解が追い付いていない点があるようなので指摘しておく。
日本国内の物価に合わせた用船料の適正化は急務ではあるとは思う。
ただ我が国は国内の貨物輸送量の約3割〜4割を海運へ依存しており用船料の引き上げは我が国の物価上昇の遠因になりえることを国民は理解して置かなければならない。
経済成長には物価上昇が必須条件とは言え、急激な物価上昇へ国民経済が耐えうるのか?には注視して置かなければならず、用船料の引き上げを国民が求めておきながら「すべてはお上に任せておけば良い」とするような考えは我が国国民の悪癖であると強く訴えておきたい。
貿易輸送の99%を外航船に依存している我が国は、外航船員に外国人を既に多く採用している。
大手商船では外国人船員の労働に関するノウハウが蓄積されており、内航船において外国人船員を採用する分には内航船全体として大きな問題にはなりにくいと予測できる。
ただし全体としてはそうではあるが、中小企業1社単体とすると外国人船員と日本人船員の文化的衝突が少なからずあると考えられ、いくつかの中小企業ではその対応に困惑することが予測できる。
例を挙げるとするならば、外国人船員を採用する外航船では12月になると外国人船員不足が発生するという現象が度々起きる。
これはつまり外国人船員の母国の宗教的な重要イベントであるクリスマスに伴う母国帰省であり、信心深い外国人船員になると仮病を使ってまで下船するという暴挙に出ることがある。
当然ながらニューイヤーや旧正月、特定の国の文化的に重要な祝日などでも度々発生し、外国人船員に不慣れな日本人船員や中小企業が外国人船員のこういった行動に理解を示せるかが疑問ではある。
ちなみに外国人・日本人問わず船員は世界全体を見ても信心深い傾向がある。歴史的に危険な職業だったので験を担ぐ文化が形成されたためだ。
現在の船舶はオートメーション化が進んでいるので、大航海時代のイメージが根強すぎる船乗り=力仕事というのは誤りである。
ただし力仕事がゼロということはなく、船舶を港に停めるための係留索や、船舶を保護する塗料など重量物は必ず存在するので力仕事がゼロになることは無いだろう。
更には長らく男社会であったため女性船員用の設備を備えない船舶も非常に多く、直ぐさま女性船員を大量雇用できるか?と言われれば不可能に近い。
もっと言ってしまえば、女性に不人気な土木・建築・陸上輸送よりも更に不人気な海上輸送へ就職しようという女性自体が稀有である問題がある。
海運業界に女性を受け入れる準備がないから女性が来ないと断言してしまうのは暴論だろうというのは諸氏も理解していただけると思う。諸氏が来てくれるというのであれば両手を挙げて歓迎するが。
用船料の適正化にも関係はするが、船員報酬が高値である方が良い側面に救済がある。
正直に言えば私の生家は非常に貧乏であった。生活保護を受給してやっと生活できる家庭だった。
しかし私が船員になったことから私の生家は生活保護を脱却し、人並みに暮らせるようになった。
貧乏家庭の子の船員という選択肢は高級取りとして立ち上がれる日本社会が持つ救済の1つなのだ。
ちなみに「人並み」だが、私は生活保護で生計を立てていた頃を思い出せば生活保護は決して「人並み」ではないと思う。
いくら生活保護の受給金が高くなろうが生活保護は「人並み」ではない。国民の皆さまの厚意により生かされているだけだ。自立して生きているわけではない。
私は国民の皆さまへ物資を届け、社会から高給を頂戴し、税金を納め、恩返しができる今の自分に誇りを持っている。
社会は幼き頃の私が受けたように生活保護から脱却できる救済の選択肢を増やすべきでだ。
貧乏であろうが身体障害者であろうが高給取りとなり多くの税金を納められる選択肢が必要だ。
だからこそ私は船員という危険職業はより高給であるべきだと考えているし、島国日本の海運は重要であり、船員という選択肢があるということを子供たちに教育して欲しいと考えている。
長い時間待たせた事も、数が無いことも心苦しくて申し訳なくて、その気持ちだけで動いた。
結果としてまとめも作られ、最終日が歴史的な一日になってしまった。
翌2015年。数は充分だと思っていた。けど、それでも少なく感じる日が発生してしまい、申し訳ない思いがまた残ってしまった。
ちょっとしたプレゼントに一言添える事で待ち時間の厳しさが和らげば、と思いあのサービスを始めた。
折角集まるなら・・・と横の繋がりを意識したのもこの年から。Twitterでフォロワー増えた人も多かったんじゃないかな。
そして2016年。数は充分。やっぱりこれ位は数がないとね。
足を運んで写真に撮りたい場所も出来て、それを含めたイベントになったかな。
有名ブログで紹介されたのにはびっくりした。その反応を見て、この時間が特別なものだというのを改めて知る事が出来たかな。
2017年はまさかの2回。でも、もう数に関しては困る事はなかった。
3年前の険しい表情は無くなり、イベント参加を楽しむ素敵な笑顔で溢れていた。
今までの話題を聞きつけて飛行機で来た方も多くびっくりしたし、嬉しかった。
でも、もうあの通路で自分が皆をお迎えする事はないんだ。ごめんね。
今はあの場所を離れ、目標に向かって真っ直ぐ進んでいる最中だよ。
今まで、本当にありがとう。
と言うほど詳しくないし記憶と捏造で語る系譜だと最初に断っておく。
萌え絵の直接の親はアニメ絵である。なぜなら、80年代から90年代初頭くらいにはマンガ絵のイラストレーターというのはそれ一本で食っていくのは無理な状況というか歴史的にまだそういう仕事が確立しておらず、ゲームも含めイラストの仕事をやっていたのはアニメーター経験者ばかりだからである。マンガ家がイラストレーターを兼業していたのは寡聞にして知らん。
で、エロゲーの系譜と言うとまた古いのだけれど、グラフィック性能がそれなりになってちゃんとしたマンガ絵が最初に採用されたのはおそらく92年の「同級生」だろう。これもイラストピンの仕事であるので、アニメーターである竹井正樹が担当した。
しかし、これが萌え絵であったのかと言われるとやや疑問が残る。おそらく、その絵は今の人が萌え絵と言われて連想する絵とはだいぶ趣が違うはずだ。この絵はアニメの美少女絵であって、決してギャルゲー特有の絵柄ではなかった。
では、ギャルゲー特有の絵柄である萌え絵がどこから始まったのか?個人的にはなかむらたけし、CARNELIAN、みつみ美里、甘露樹のあたりが影響として大きかったのではないかと思う。彼らの絵は大きな目が特徴で、どちらかというとすらっとした体つきであった。
そこから樋上いたる、mooなどの丸みのある優しい絵柄も現れ、これらがミックスされて萌え絵のパターン的な絵柄が出来上がったのだと思う。
いわゆる、大きな目、低めの頭身、立体感があり、影には彩度が低い色を選び境界がボケた塗り方をする00年代オタク絵の王道パターンだ。
また、この頃になるとアニメーターがマンガ絵のイラストを担当するのではなく、マンガ絵イラストレーターという仕事が確立してくる。そこに萌え絵が導入されていくのもこの頃のことである。
そこからのマンガ絵イラストの進化は非常に早い。10年代に入ってくると、影の色に補色を加えた塗り方が隆盛し、目の大きさも00年代と比べると小さくなってきた。また、根本的な画力が足りない人たちはどんどん淘汰されていった。
これらを萌え絵として数えるかどうかは人によって変わってくると思うが、今のCGイラストで萌え絵の影響を受けていないものは探す方が難しいだろう。
大げさな言い方をすると、萌え絵は今のマンガイラストのデファクトスタンダードになった。
それどころか海外にも羽ばたいていき、アメリカでも萌え絵の描き方的な本が売られるほどになっている。俺がChristopher Hartの本を手にとって驚いたのはもう5年以上前の話だ。中国、台湾、韓国のイラストレーターも非常にレベルが高い。
出品者は数百万円を予想していた。
それを遥かに上回る値段がついた。
気になるのは、その次出されたAI絵画の値段はどうなるのか?ということだ。
絵画とはその絵自体に価値があるというよりも、投資資産としての側面が強いように思う。
ここで高額がついたことにより、2番目に出てくるAI絵画の値段が変わるのでは?という話。
そもそも絵に数億の価値がつきまくってる村上隆だって本人が執筆しているわけではなく、学生などのアルバイトがかなりの部分を担当して描いている。
村上隆は監督としての役割で絵画を制作し、出品しているだけだ。
そういうことで、数億の値段がつくのだ。
AI絵画も、AIを道具として捉えて、出品者が監督という立場ということか?
「何がどう描かれているか」の方に注目が集まるのか?
うーん
色々考えてしまう
街に外食が牛丼チェーンしかなかったら、つまりは女性向けの外食がなかったら、差別なんだろうか? 差別的なんだろうか? という思考実験をしてる。
ある男性主導の文化を持つ社会において、「女性は外食をすべきではない(はしたないとか、まあ思考実験なので適当な理由で)」みたいな行動規範があって、女性はそれに反抗しても変更不可能なら、それは差別に当たるんだろう。
一方で、そういう行動規範は別にないんだけど、ただなんとなくないだけなら差別じゃないよなな?(自信ない) でもそういう場合は、女性顧客の潜在ニーズがあるから、ビジネスとしてはブルーオーシャンになって誰かがコメダ珈琲をつくるように思える。
ただ、後者の社会においても、女性の収入が男性の1/10みたいな状況があったとして、その場合女性の消費力は男性の1/10なのだから顧客としては魅力的ではない。結果として女性向けの商品開発(とか店舗展開とか)が遅れることはあり得るだろう。
日本の近代史において女性はやっぱり男性より(1/10ってほど大げさではないけれど)収入が低い。それでもマーケティングは女性をねらえ! とばかりの風潮だったのは、理由としてふたつあると思う。①可処分所得は相対的に男性より低いんだけどそれ以前と比べれば格段に伸びてきていたので、女性向け商売は昭和以降「新しい市場」だった。②女性の可処分所得とは無関係に、男性の可処分所得の消費先決定権を女性が持っていた(デートやら家計やらで)。
最近は②が後退中に見えるので、市場における女性マネーのインパクトは低下していくんじゃなかろうか。つまりは牛丼Win。いや、女性の一人牛丼は美しいと個人的に思ってるけど(そこは本筋じゃない)。
なんでこんな思考実験をしているのかって言うと、例のアレのアレの影響は確実にあって、それについて考える仮定で、「女性は恐怖を感じてるんじゃなかろうか?」と思ったからだ。それは彼女らがいうような「男性は全部性の獣でわたしらを狙ってる」みたいな意見ではなく、もっとべつの、つまり「女性はこの社会の中でマーケットカラーの意思決定者という地位から追い落とされるのではないか?」とか、もう一段階抽象化すると「女性の意見が通らない社会になるんではないか?」みたいな。
その恐怖に対する抵抗とか、自分たちの「パワー」の確認のために、NHKに抗議入れようずとかラノベを撤去させようず、ってのは、もちろん頭がすごく悪いと思うのだけど、一方でその背景にある「社会において無視されるグループになってしまうのではないか?」という恐怖は、想像できなくもない。いっぽうで、オタクサイドもその恐怖(歴史的に見て無視され権利を踏みにじられて北側なので)があって、つまりは恐怖バトルになってたってのも、まあ分かる。
別に落ちはないんだけどね。あと、地方都市の話で言うと、牛丼チェーンのない街(っていうか駅前)って割と多くあると思うけれど、ファミレスのない地域って殆ど無いわけだから、心配無用だと思った。つまり未だにマジョリティは家族連れなんだね。ファミレスは家族連れという目的をわすれずに、なおかつ営業途中のぐったりサラリーマン(単独行動)や、早朝モーニングに集う近所の老人会朝会議や、幼稚園のこどもを連れたママ友会とか、あきらかに試験前の付け焼き刃勉強をする学生グループや、怪しげな不動産や暗号通貨の勧誘トークをする個人事業者などを受け入れる、懐の深い業態だということだ。最近擬似居酒屋みたいにアルコールメニュー増えたしね。
でもなあ、ラディカルなひとたちってファミレス行かなそうだしなあ。いいとこなんだけどなあ。
「肉体の寿命」もまた社会的諸条件によって規定されることは明白(でなければ国によって死亡率や寿命が相当異なることの説明がつかない)なので、その「社会的諸条件」の中に差別や偏見が入りうることもまた自明。ただ、平均寿命といった現実の社会的事象(結果)には当然ありとあらゆる要因が想定されうる(これまた、同じ国であっても時代によって死亡率や寿命が相当異なることから推定される)ために、因果関係を認定しづらいというだけ。
そして同様に、「差別」という現実の社会的事象(結果)にもまたありとあらゆる要因が想定されうる。なぜある国にある差別が存在するか、原因は歴史的、文化的、遡れば風土的な要因も含めて簡単には述べづらい。「どこかに悪者がいて悪い差別を扇動している」のではなく、様々な要因から「私たちの中に容易に抜きさりがたい偏見が蓄積されている」という方が適切である。だから、差別という問題が歴然と存在しているときに、前者のような発想に基づく「誰が悪いのか」といった問いには残念ながら意味がなく、それよりも「どうしたら差別という問題を解決できるか」という問いの方が重要性が高い。
現代美術を理解してることと頭の良さは関係ないんだけど、なんでこういう人が多いんだろうね。
>一般人は印象派以前の藝術も理解できないんだけど、あれらはまだ大衆的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。
言ってることがよくわからない。理解っていうのは神話とかの寓意性のことかな?それとも絵画史の流れや歴史的な背景とかかな?研究者でもなければ解説で補えばいいんじゃないかな。
>それまで大衆的な要素+芸術的な要素だった美術絵画(彫刻)が、現代アートへと移行する時に大衆的な要素を切り捨てたのね。より純粋な藝術に進化するために。
さらによくわからない。コンセプチュアルアートやミニマルアートが派生してきたことについて言っているのかな。現代美術はどちらかというと、大衆的な美意識を取り込んできた歴史だと思うんだけどな。
>だから、それまで大衆部分だけを受け取って喜んでた一般人は急にわからなくなりヒステリーを起こした。
>だけど、藝術理解者は印象派以前にも藝術部分しか見てないから一般人が何を騒いでるのかわからない。
もっとわからない…。歴史的に見ても、新しい表現表現がでてきて反発するのはまず芸術家というか、君の言う「藝術理解者」そのものなんだよね。
>一般の人って、工芸品の凄いやつが現代アートになるとか勘違いしがちだけど(オタク=アート論もその変奏)、全く質の違うもの。
>工芸品って、部屋をひすたらゴミひとつなく綺麗に掃除するようなもの。クリエイティブじゃない。
>日本のエリート(東大京大文系理系とか)って教養がない極東の田舎者だから、クリエイティブを理解できない。すぐに「工芸品」を持ち上げる。怖いんだろう。自分に理解できない藝術が。佐藤可士和デザインですら大多数は理解できないんだもの。あんな教科書的なものですら。
うーん、話がごちゃごちゃだね。工芸品も現代アートになるよ。オタク=アート論は関係ないよ。工芸ももちろんクリエイティブだし、掃除とは関係ないよ。
ただ、役所的なところで工芸というかテクニック重視のものが持ち上げられるのは仕方ないね、わかりやすいし理解も得られやすいからね。
佐藤可士和デザインは受け入れられていると言えるでしょう。個人的に残念だったのはザハかな。
>とにかくアジアって文化後進国なのね。トップの日本ですらこうなのだから。東京"国立"博物館がデュシャンと日本美術を脈絡なく展示してホルホルしてるレベルだもの。
アジアを文化後進国と見なすような西洋中心的な視点から脱却しよう、というのがまさに今の現代美術のメイントピックの一つだと思うんだけど、大丈夫?
>まず日本に生まれた時点で、現代アートを理解するには圧倒的に不利。
それはそのとおりなんだけど、「アメリカに生まれた時点で萌えアニメを理解するのは圧倒的に不利」と言ってるのと同じなんだよね。それはそうでしょう。
? 例えば聖人の像なんかは大衆啓蒙用だよね。想定してる歴史の範囲が狭すぎるのかな。
>民主主義の恩恵で、一般人も美術館で億の作品を数百円で見れるようになっただけで泣いて喜ぶべき。
>そしてあれは、将来のお客さんとアーティストの入り口としてやってるの。1000人に1人、将来アートに貢献する人材がいるかもしれないと信じて。
そんなこと考えてる人いないと思うなあ。
>金持ちにもアーティストにもなれない一般人はまあ、おこぼれで"文化的"コスプレしてインスタグラムでもやればいいんだと思うよ。
肉屋を襲う過激派のニュースのせいで勘違いしてる奴がいると思うんだが、ビーガンはそもそも過激派でなんでもないからな。
ビーガンは頭おかしい滅ぼせって言ってる奴らは、イスラム教徒は全員テロリストだ滅ぼせって言ってるのと変わらないからな。
欧州じゃ人口的にも数%はいて、お前らがやってるのは、「ユダヤ教の教義ヤバイ、全員改宗か殲滅しなきゃ」ってのと同等。こっち来てビーガン滅ぼせ表明したら逆にナチスレベルの過激派扱いされても不思議じゃない。
ヨーロッパの大学の学食じゃ必ずビーガン向けメニューが提供されてるし、若い人にはかなり浸透してきている思想だ。(ビーガンと書かれた食べ物は必ずしもビーガンだけが食べるわけではなくて、欧州では肉を食べる量を減らそうと考える人は多い)
典型的な批判で動物を食べるなら植物を食べるのもおかしいってのがあるんだが、そういうのはあくまで線引きの問題で、「自分と近い命をどこまで尊重するか」という話に帰結される。歴史をたどればほんの少し前まで白人と有色人種の間に線を引く人間もいたし、戦争状態ともなれば自国民とそれ以外の間に線ができかける。
それにしてもビーガンは極端に思えるだろうが、伝統的にも欧州で言えば修道士、日本で言えば厳格な僧侶は実践すべきと教えられてきたことだ(実際はよく破ってたんだが、それは現代のビーガンにもいえるかもしれない)。歴史的にも何一つおかしい話じゃない。(ビーガン滅ぼせって言ってる奴らはもう一度比叡山でも焼くんだろうか?)
肉食わないと生きてけないみたいに言う人間もいるがビーガンよりマイルドなベジタリアンは卵とか乳製品食えるから栄養的には問題ないし、ビーガンも大豆由来のタンパク質なら食い放題、タンパク質の加工技術が上がってビーガン向けの肉料理もどき加工食品もラインナップが充実したことで、栄養学的にも健康に実践できるようになった生き方なんだよ。(多少平均寿命が縮むかもしれんが、こっちは肉の食い過ぎで太り過ぎてる人も多いのでなんともいえない。)植物由来でタンパク質をとれることを知らないレベルの議論してる人間がビーガンの栄養認識馬鹿にするとかどんな地獄なんだか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/newsphere.jp/national/20181019-2/
このブクマは偏見に満ちてるが、犬だって肉食性ではなく人間と同じ雑食性だと記事で説明されてるし(実際日本では犬に肉由来のペットフード食わせるようになったのは最近の話。)、動物愛護の観点っていうのは「現状ビーガンのドッグフードが栄養が足りていないor高価であり保護されるような貧しい犬に行き渡らないという」極めて論理的でまっとうな指摘であって、お前らが表明してるような「犬が肉食えないのかわいそう」みたいなそれこそ人間視点の見方じゃないわけ。
あと肉の生産に関する議論を補足すると、肉の生産には飼料コストがかなりかかっていて、地域によっては食料よりも飼料生産が優先されるせいでそこの貧困層の人間が飢えているって指摘があるわけ(実際肉の生産止めたところでそいつらに食料がまわるかは知らんけど)。実際ペットフードの生産地で餓死者が出てるんだとしたら、動物殺すのも植物殺すのも変わらんお前ら風に言うと、お前らの犬は途上国の貧困層の人間食い殺してるのも変わらんってことになるな。
ちなみに自分はビーガンじゃないし、欧州じゃ価格が安いのをいいことに毎日肉食ってるけど、自分がユダヤ人でも黒人でも朝鮮人でもないから差別してる奴らを無視するっていうのは違うと思うから怒りの増田を書かせてもらった。
追記:誤読している人がいるようだが、普通のビーガンは肉屋を襲わない。お前らの見てた海外ニュースには肉屋を襲う過激派をビーガンと呼ぶって書いてあった?度々引き合いに出してイスラム教徒にはすまないが、それは9.11の直後に「テロリスト=イスラム原理主義者」って誤解を広めたメディアがいたのと似たような問題。最近だと一部メディアの「インセル」の使い方もそうか。それにしてもいつもはマスコミ不信決めこんでるのに、何かを悪く言うレッテルのときだけは簡単に信じて扇動される層よくない。
もっといえば普通のビーガンは鬱陶しい街頭活動もしない。まあそれは言論の自由だけど。肉食について過剰に批判する層は表現規制フェミと一緒で一部の過激派という認識でよろしい。
ブコメに少し返信
ketudan
統計は知らんが欧州では明らかに多い。出羽守という指摘は正しい。
「我が国の事情も知らない物知らずが説教するな」っていうのは、ミャンマーやサウジアラビアや中国も弾圧する側は同じようなこと思ってるだろうね。実際のところほとんどの人はそのあたりの国の歴史的背景について詳しくないでしょ?
mori99
ビタミン剤が健康によくないという考えは、味の素が健康によくないというデマに近接するところにあるんだが、逆にそう思ってるエセ科学層とビーガンが被るところもあってそのタイプの人間が無知なまま子供育てると虐待まがいの結果を招くということはあるので難しい問題だとは思う。
verda
一応主語ははてブではなくて偏見のはずなんだが。はてブを場所ととるか人の集合ととるか。人の集合にしても思想が統一されてないのが当たり前だしなあ。タイトルで煽らないと人が釣れないと思ってたところは残念ながらある。
maguro1111
犬の幸せを特別視する思想いいと思う。やっぱり恣意的な線引きの問題ではある。犬は歴史的にも人にとって特別といえると思う。対立はいいと思う。非難されるべき偏見と無理解。あと自由主義を前提とすれば他人の自由を奪う押し付けもよくないとはいえる。そういう意味で嫌われるビーガンがたくさんいるのは知ってるが、おかしいのは押し付けあるいは個人の自由を軽んじる姿勢であって肉を食べない思想じゃない。犬が肉を食べる自由は、その犬の飼い主の自由なのか犬自身の権利なのかという議論はあるだろう。
家庭毎の事情だからこれは一人のオタクからの意見だと思って欲しい。結局決めるのは親だしな。
オタクは思うのだ、古典には古典の良さがあり、古典を知るということは古典の歴史的背景を知るということだと。
知ることが大事だと思うから、女優キーラ・ナイトリーが取った選択を、オタクらしく知識でマウントを取って否定してやろうと思う。
もちろんオタク目線からの否定を更に否定してくれても構わない。
例えば人魚姫を例に挙げると、人魚姫は文学上の分類で異類婚姻譚という人間と異類(人間以外の動物や妖精・神など)が婚姻する物語だ。
この異類婚姻譚の歴史は古く神話時代にまで及び、典型的な物語構成と言える。
人魚姫は西洋の文化・歴史的背景を考えればニンフと呼ばれる水の妖精がルーツであると考えられ、ニンフのおとぎ話や神話を紐解けば悲恋物語が多いというのはこのジャンルでは共通認識だと言える。
そもそも世界中を見てみても異類婚姻譚、特に水の精関連では悲恋が多いので、人魚姫は本当に典型的な物語構成である。
西洋以外の例を挙げるのであればインド神話の水の精アプラサスで、アプラサスは特にアジア圏の異類婚姻譚へ強い影響力を示しており、実は形を変えて後の時代に日本へまで伝わっており、アプラサスが鶴の恩返しや天女の羽衣、狐の嫁入りなどへ派生したという説もある。
更に日本では天女という概念自体が仏教をルーツとしたもので、愛の神マーラ・色欲の魔物マラ・飛天を経て伝わってきたという見方が根強いんだ。
マーラも翼を備えていた時期があり、翼を備えていたマーラがガルーダへ派生したという説もある。ちなみにガルーダは後の時代に日本で天狗として表現されるようになったらしい。
オタクらしい知識マウントをキメたところで最後の意見を言おうか。
ジェンダーやフェミニズムの歴史は女性の権利の獲得の歴史であると言って間違いはないはずで、その獲得した女性の権利には「学び」もあったはず。
個人的な主観だがジェンダーやフェミニズムは「女性にふさわしくない知識は学ばなくとも良い」という価値観を打破してきたものと感じているが、女優キーラ・ナイトリーが取った選択はジェンダーやフェミニズムの歴史と協調するものなのか?と疑念が尽きない。
シンデレラ1つ取ってみても当時の文化的事情などを考慮せずに現代の価値観でぶった切ってるんだもんな。
はっきりと言ってしまえば鼻で笑いたくなるクソみたいなジェンダーやフェミニズム観だと感じるのだが、まぁオタクの戯言だと思っていつも通りスルーしてくれや。
キズナアイがNHKのウェブサイトにおいてノーベル賞の解説記事に登場しておりましたが、そのことをきっかけに、千田有紀氏などが指摘をし、さまざまな方面から千田の議論に対する批判が寄せられ、さらには社会学そのものに対する批判もされているところです(これらをキズナアイ論争と呼びます)。
ですが、そのざまざまな批判を読んでいると、「これって実はコミュニケーション不足で、伝わっていないんじゃない?」と思うことが多くなりました。いろいろあって社会学を学んだ人間として、それはちょっと悲しいなという思いがあったので、千田氏の問題提起をちょっと分かりやすくお伝えできればと思います。
筆者は、社会学で修士号を得ています。今は大学から離れているのですが、離れてそう長くはありません。専門は千田とも重なる領域(家族やジェンダー)もありますが、教育やメディアでした。
あくまで、千田の問題提起がどのようなものに基づいて行われているのかを解説するもので、その意見の妥当性とかは議論しません。私個人としては、千田の立場に立てば理解でき一理ある議論ではあるが、だからといって、それは多くの人の理解を得る話法ではないし、その背景事情を一切踏まえていないのは、学術的に一定のポジションにある人のする作法としては疑問を感じているというところです。また、千田の学術的貢献はいろいろな批判があるようですが、私は一定程度は評価しています。
なお、アカデミックの作法は基本呼び捨てですので、ここでも、基本千田として書かせていただきます。
キズナアイ論争のはじまりは、千田の投稿記事です。https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/]
ちなみに、現在(10月13日)、追記もなされており、社会学者にはそれなりに分かる文章にはなっているのですが、一般の人はなおのこと分かりづらいことになっています。後に公表された、『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』記事による補足を踏まえて、まず、千田の議論の要点をまとめてみましょう。
(1) キズナアイはNHKの解説記事において「相づち」をする役割となっている
(2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である
(3) 従ってキズナアイの解説記事における役割は、従来の女性が担ってきた役割を担っていることになる
(4) そのことは、理系と呼ばれる分野で活躍する女性などに対して、好ましい状況を生むようなものになっていないのではないか
というところに整理できるかと思います。
社会学、特にジェンダーやフェミニズムを学んだ人だと、この4つの間を頭の中でこうかな?と繋ぐわけですが、普通の人はフェミニズムを体系立って勉強するわけでもないと思うので、「はて?」となるわけです。更にいえば、一つ一つの要点が「え?!」という感じになるかと思います。
千田の議論を理解するためには、とりあえず(1)は正しいものとして引き受けておいてください。そこが正しくないとなると、そもそも議論の前提が崩れてしまい、議論はそもそも成立しなくなってしまうので、ご理解ください。
千田議論を理解するためには、いくつかの知識が必要となります。一つは、千田の専門でもあるフェミニズム、もう一つは会話分析というものです。順に簡単に紹介しておきましょう。
社会学は、社会を対象とした学問です。といえば、早いのですがそれではよく分かりませんよね。社会学は、社会がどのように成り立っているのか、つまり、社会の秩序はどのような形で形成されているのかを探求する学問です。例えば、古典的な社会学、特に日本の戦後の社会学では「農村」が特に注目されました。農村における人々のネットワークや、家族の在り方、そういうものに関心を持っているのが社会学です。
フェミニズムを正確に定義することは困難ですが、フェミニズムを雑にまとめると、「女性の地位を向上させようとする取り組みであったりそれを支える理論」というような言い方ができると思います。歴史的には大きく2つのターニングポイントがあったとされています。それが「第1波フェミニズム」と「第2波フェミニズム」です。
第1波フェミニズムは、1900年代ごろ、19世紀から20世紀へ移りゆくタイミングに起こりました。西欧諸国で主に婦人参政権を獲得する運動が中心に展開され、1920年代にはイギリスやアメリカで実現をすることとなります。(ちなみに、日本はというと戦後に婦人参政権が認められるようになるのですが、新婦人協会や青鞜社の運動は同時代の運動です。)
第2波フェミニズムは、1960年代頃、社会運動が盛んになった時期に、女性らしさへの問い直しが運動として行われます。代表例ではキリスト教社会では長らくタブーとされていた中絶の合法化が挙げられます。また、この時代には女性が自らの自由に性を語るということが積極的になされるようになります。
いずれにせよ、その理論的根底には、女性は男性と同等の状況にないという認識に立っているということがあります。
第1波フェミニズムで焦点化されたのは、法律や社会制度というものでした。第2波フェミニズムはというと、法的制度は平等であっても、職場ではお茶くみに甘んじてしまっているし、男性と同じように性を語ることはできないというような、日常の性差別に特に焦点を当てていくようになるわけです。
現代は第2波フェミニズムの延長線上にあります。#Metoo運動を始めとして、第3波フェミニズムがやってきているというような主張も時折みるのですが、第2波フェミニズムより後のフェミニズムの運動について、多くの社会学者が納得しているような分類はまだ確立していないのが現状です。
上野千鶴子の理論などを理解する上で重要なキーワードが、マルクス主義フェミニズムです。そういう立場だと、だから上野千鶴子はそういう立場なのね、と理解できます。千田議論もとりあえず、マルクス主義フェミニズムで解釈すると、理解がしやすくなると思いますので、こちらを説明します。
(フェミニズムにはさまざまな立場があります。ラディカル・フェミニズムやリベラル・フェミニズム等です。フェミニズムも一枚岩ではないと、理解しておくと良いでしょう。)
マルクス主義フェミニズムとは、先ほど、フェミニズムが女性は男性と同等の状況にないという認識に立っていると説明しましたが、そのような社会状況を生み出しているのは、今日の資本主義社会システムなのであるといいます。で、これを理解するためには家父長制というキーワードを理解しないといけないのですが、本題より長い解説になるので、そこら辺は上野千鶴子の『家父長制と資本制』をとりあえず参照してください。
(上野理論を厳密に言うと、上野は、従前のマルクス主義フェミニズムは教条的であるということで、それを乗り越える必要があると、主張をしています。)
シンプルにいってしまいますと、そのシステム(資本制)の成立と密接に性差別を生む家父長制制度が続くため、性差別は再生産(半分マルクス主義用語ではありますが)されていくということになります。
会話分析というのは読んで字のごとく、会話を分析するというものです。まずは、社会学で会話分析がなぜ重要になってくるのかをエスノメソドロジーというワードを使って説明したいと思います。そもそも、社会学は社会秩序はいかにして可能かを明らかにする学問です。そこで出てくる問いの一つにこの社会で生活を営む人びとがやっていることを、研究者はどのように理解できるのかという問題です。
この問題に答えたのが、ガーフィンゲルという人です。ガーフィンゲルはエスノメソドロジーという手法を提唱しました。エスノメソドロジーというのは、日常で生活している人々が言動をどのように理解し、成立させているのかを、日常で生活している人々の視点に立って記述するという手法です。
エスノメソドロジーは、私たちの当たり前が、いかに「うまいこと」成立しているのかを見せてくれます。例えば次のような実験は非常に有名です。
A 「いや、元気かどうかってことだよ。」
B 「元気かどうかって? どういうこと?」
こんな調子で話されると、本当に調子がおかしくなりそうですが、こういう実験をします。ここで浮かび上がってくるのは「調子」という言葉が、体調や近況を意味しており、それをお互い分かっているという「期待」をもって、Aは会話をしているということです。このような形で、秩序が形成されており、それらは記述可能な形で示すことができるとするというのがエスノメソドロジーです。
会話分析の多くはこのエスノメソドロジーの考え方を踏まえて行われます。つまり、先ほどの会話のスクリプトのようなものを読んで、そのなかで、AとBはどのような「期待」をそれぞれ持っており、そこにどのような秩序があるのか? ということを考えているわけです。
冒頭で、千田議論を強引に4点にまとめました。ここまでの道具を用意すればある程度説明ができます。それぞれの項目ごとにみていきましょう。
そもそも、実在の人物は「先生役」とNHKのサイトでも記載がありますように、ここで想定されているのは「先生」と「生徒」というコミュニケーションです。したがって「生徒役」となるキズナアイは基本的に「相づち」をする役割に当然のことながらなるでしょう。そもそも「生徒」の方が詳しいというのなら、「先生」が「生徒」の役割を担うことになるはずですし、「先生」と「生徒」という形で双方「期待」をもっていることは分かります。別にこれが、男子生徒であろうと、まあこういう会話になるだろうなという感じではありますよね。
これは、先ほどのフェミニズムの議論が役に立ちます。お茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき、女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます。
そこでは、主役はあくまで知事です。アナウンサーが主役となって、知事をいじめていくというような内容になっていないでしょう。これが、でも、田原総一朗との対談だったらどうでしょう。一気に様相が変わってきますよね。また、地元財界と知事の対談だったらどうでしょう。そこに「相づち」はあっても、「相づち」をする役割を知事の対談者は決して担っていないと思います。会話の主体になっているわけですね。地元財界の人が女性でも、この場合だと「相づち」の役割はまあしないかと。
ここでポイントになるのは、知事が一方的に語るというような形式を取る時には、女性アナウンサーがその役割を担うことになり、他方、双方共にしゃべる場合には、女性の活躍機会が途端に減ってしまうというということです。これは、私たちのイメージレベルでも大体共通しているのではないでしょうか。(もちろん、個別具体で違う話も多く、徹子の部屋の黒柳徹子をどう評価するかは難しいところですが。)
もちろん、これは、女性が知事と同等の立場や役割を担っている機会が開かれていないから、そのようにならざるを得ないという側面も当然ありますが、男性アナウンサーがそうそうなっていないということは、一つこのことを証明するものであるとも言えます。
(「相づち」をする役割も高度な役割であるということは決して忘れないでください。)
ここで、議論はもどってきて、キズナアイは「生徒」役ではありますが、「先生」の発言を引き出すという意味で「相づち」をするということで、記事のトップにも出てくる主役のはずが、補助的な業務を担わされていることになります。このとき、キズナアイを女性と見なすと、これまで女性が置かれていた立場、女性が積極的に前に出られる環境に制度上はなっているにもかかわらず、結局はそうはなっていないという状況と重なる部分はあるでしょう。
再び、徹子の部屋の黒柳徹子をイメージすると良いかも知れません。徹子の部屋における黒柳徹子は独特の立ち位置で、徹子の部屋を見て黒柳徹子は単に「相づち」をうつ役割だけではない、ということが理解できるでしょう。なんなら、黒柳徹子の方が目立っていたりします。対談の形式が、黒柳徹子がお客様を招いて話をしてもらうというホスト側であるためであり、従属的な関係になっていないというところに、このキズナアイ対談と徹子の部屋の決定的違いがあるのだろうと思います。
そうして比べてみると、キズナアイは女性の役割を再生産するということになったというわけです。これは、性別役割分業を進めていくものであり、女性にとって活躍の機会が減ってしまうというのがフェミニストたちの主張と結びつけて考えることが可能なのです。
この時、女性は従たる役割を担わされるわけで、その期待が持たれます。そうなると、女性は、主たる役割を担える存在なのにもかかわらず、その期待から、従たる役割を担い続けなければならない、そういった状況にはまってしまうのです。そして、そうした悪循環から脱却しなければならない、というのがフェミニズムの基本的な主張です。
このような女性観で考えられると、女性にとって好ましい立場ではないという千田の主張はそう的外れなものではないということは理解できるでしょう。
千田は議論をするという状況を作り出したことでは成功していると評価できますが、その議論の中で、自らの論理の妥当性を提示し納得してもらえたかというとそうではないと思います。後の対応によるところも多いのですが、それは、実は最初のきっかけともなった記事の一番最後の文章であると私は考えます。
なお10月3日、9時の時点で、スマートフォンから見ると、キズナアイはバストショットしか見えない(パソコンでは、へそなどの下半身が見える)。
この一文が最後にあることで、キズナアイの見た目(容姿)を問題にしたいのか、と思ってしまう人も多いと思います。千田氏は、後の議論でも、キズナアイの役割に焦点を当てており、容姿を問題にしていないといっているのですが、冒頭の太田氏の議論とあいまって、多くの人が混乱したと推察します。そもそもキズナアイってあくまでAIであって性別を超越した存在なはずなのに、性別二元論に回収されちゃうのって、なんだかなと。
さらにいえば、表現の問題に回収してしまったのがかなり難しい問題にしています。表現の問題にすると、結局妥当な表現は何かということに行き着き、その線引きは複雑になってしまい、誰も理解できなくなるため、神々の審判でも仰がなければ、なんとも言えないと思います。
本人が個人的に自説を語るのは「自由」の範疇だが、それを公共空間に置いたらどんな意味をもつのか、少しは配慮すべきだったのでは?
(https://twitter.com/chitaponta/status/1051615591004438529])
相手に向かって弓矢を射るスポーツってほとんどないのはなんで?ウィリアム・テルのあれくらいしかないじゃん、しかもあれは個人プレーだし。
歴史的には球技用のボールなんかよりも弓矢のほうが狩猟採集社会の時代からあるし遥かに古いと思うんだけど、なんで弓矢で団体戦をやるという発想にならなかったんだろう。
本稿では、下記ブログで軽妙に紹介される釧路市の停滞について歴史的経緯から振り返ってみようと思う。
https://www.kansou-blog.jp/entry/2018/10/18/173838
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.kansou-blog.jp/entry/2018/10/18/173838
近世期には、釧路は「クスリ場所」という漁場が設定され、松前藩から委託された業者がそこからの利益を独占していた。
そこでは鮭や昆布、鰊などの海産物のほか、内陸やその他獣の毛皮が収集されていた。
釧路には港がある。というか、大きな港を構築できた。これが大きかった。
函館から太平洋側に航路をとると、日高の小さな諸港を数えるばかりで、大きな築港ができない地形が続く。
例えば十勝国は広尾港の小港を除けばずっと遠浅の地形が続く。内陸に続く十勝川河口も例外ではなく、ついに十勝では大規模な漁港を構築しえないまま現在に至っている。
苫小牧港は、実は昭和の初めから計画されたもので、陸地を魔改造した港。自然にできたものではない。
釧路は道東の地域に程良く近い。厚岸にもいけるし、白糠にも近いし、内陸を通って今の北見国にも通ずる。
港を基点に色々なところに行ける。
近世末~近代初期にかけて、釧路では石炭が取れることがわかってきた。
そもそも北海道の鉄道の濫觴は、採炭メインで三笠市に小樽市とを接続したもの(ファンが多い分野だからあえてここでは雑に触れる)。
っつーことで、明治34年に釧路駅ができる。そこから十勝方面に鉄路が伸びて、日高山脈と言うでかい山脈越えるのが明治40年。
これで札幌・小樽・函館・本州方面に鉄路でモノを送れるようになる。
明治40年にここまで行けたのは結構重要。結果的に、大正3年~の第一次世界大戦の好景気に間に合う形になり、色々な階層を潤わせた。
となりの十勝の連中は昔から今まで農畜産物を本州に輸送し続けてやがる。
北海道は森林資源が豊富だが、でっかいどう過ぎて、山奥から運べないし、そもそも北海道から運べない。
鉄道ができたことで、山奥から何とか駅まで運べば何とかなることになった。
製紙業が発展するのが大正時代。第一次世界大戦の好景気後に「なんだ? 釧路に工場作って船や鉄道で運べば産業になるじゃん」と本州資本が本腰入れ始めるわけだ。
王子製紙、富士製紙なんかの巨大企業が木材の切り出しから工場生産まで取り仕切るようになる。つまり、カネを投下してゴリゴリ生産し始める。まぁ切出しは下請けに任せるんだが。
また、水産加工業もまた、この時期にこうした大規模化がはかられる。ビートやでんぷんの工場も本格化する。
昭和の初めになると、全国的に観光ブームになる。すごいね、JTB(の前身)。
そうなると、阿寒ですよ。成熟した鉄道路線の観光利用が始まる。
こうした中で、食品の釧路ブランド化の萌芽が見られる。最近のB級グルメブームまで尾を引いている。
さて、読んでいてわかる通り、釧路を支えてきた要因が全て転換期を迎えている。あるいは既に転換してしまっている。
魚は食が多様化してしまったし、石炭は使わねえし、紙はIT化で打撃を受けた。阿寒に行きたい? ちょっと一回くらい行きたいかなぁーーーくらいでしょう?
唯一の望みは工場敷設。釧路には、近隣の農水産物を加工する工場があるわけだが、そこも絶対的に振るっているかというとそうでもない。
輸送技術や輸送ルートも多様化して、釧路の固有性が薄れてしまった。この辺りは正直詳しくない。
最近、日本製紙の釧路工場が規模縮小するというニュースがあった。また人口が減るねえ。
https://www.fukeiki.com/2018/05/nippon-paper-stop-production.html
現代に生きる男性全ては、過去に存在したすべての男性の歴史的な意味での先端にいるわけ。
つまり、過去の全男性が作り上げてきたジェンダーロールという遺産の継承者であって、すべての利益(まあ不利益も)を得ているわけよ。
それは望むと望まないとにかかわらずそうであって、それら遺産をうけとったうえでその遺産を形成する上で過去におこなった戦いの遺恨だけは拭い去れってのは無理なわけ。
本人に責任のない親の罪で殴るのって近代法治国家の行いでしたっけ?
もちろんこのへんは男女主語を入れ替えても成立するから、それを理由に女性を殴っても(公平性の観点から言えば)問題ないよ。でも「おれは無関係だし、戦闘から降りる」だけは許されないわけ。
オタクは「男性ゆえのメリット」も受けてないんだから殴られるのは間違ってる。
反撃するのみ
いやいや関係あるのよ。
現代に生きる男性全ては、過去に存在したすべての男性の歴史的な意味での先端にいるわけ。つまり、過去の全男性が作り上げてきたジェンダーロールという遺産の継承者であって、すべての利益(まあ不利益も)を得ているわけよ。それは望むと望まないとにかかわらずそうであって、それら遺産をうけとったうえでその遺産を形成する上で過去におこなった戦いの遺恨だけは拭い去れってのは無理なわけ。
(↑コレは男性を主語にして描いたけど女性を主語にしても全く同じね)
増田は自分の受け取った遺産について都合よく忘れて「おれは無関係だし手を出したことない」と口清く言うけれど、現代に生きている現代人って言うだけで過去がべっとり全身にくっついてるわけよ。それを理由に殴られてるわけ。
もちろんこのへんは男女主語を入れ替えても成立するから、それを理由に女性を殴っても(公平性の観点から言えば)問題ないよ。でも「おれは無関係だし、戦闘から降りる」だけは許されないわけ。
聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。
分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくまで妄想ですので批判等はお控えください。
1.聚楽第とは
聚楽第とは豊臣秀吉が天正15年(1587年)9月に京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月に秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体は現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市立中央図書館所蔵蔵浅野文庫『諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。
元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイスは聚楽を快楽と歓喜の集まりを意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。
②尊経閣文庫本
③三井文庫本
①〜⑤は周囲の大名屋敷の名称にバラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成し明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉の居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁の役割であったと考える。しかし、秀吉は政治に関して大阪城と聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第は公家としての居城であり、大阪城は武家としての居城であると書いている。
聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である。
秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである。秀次は秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山に追放。高野山を人質に切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉は親族の切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉の秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史上から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。
2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史的重要点
今回のイベントに於いて歴史修正されたのは豊臣秀次の生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。
まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである。
①朝鮮出兵
それでは順に述べていこう。
①朝鮮出兵
朝鮮出兵は聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である。大陸の領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。
(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸の出来事のためあくまで私的な妄想の範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵は関係ないと思います。歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)
②秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界。理由としては前項で述べた聚楽第が歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第が存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば
しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。
大失敗に終わった東京五輪から10年、日本の人口が3ヶ月の間に1割近く減った。
東京五輪の際、国内外のフェミニストたちによる精力的な活動により日本のオタク文化が世界的に批判された。初めはゾーニングの問題から始まったという。世界中から、そして国内から批判を浴びた業界人たち(すなわちアニメ、ゲーム、漫画、ラノベ、特撮、アイドル、声優等)はまず自分たちの正当性を主張した。ポルノではなく文化であり、芸術の一形式であると。しかし反論すればするほど批判の声は高まり、圧力に負ける形でゾーニングせざるを得なくなった。オタク文化は18歳以上のものとされたのである。
ゾーニングによってオタク文化は守られ、それ以上存続に関わるような決定的な批判を浴びることは避けられた、業界人たちはそう思った。しかし事件が起きた。20年代に頻発した女児殺害事件である。最初の事件はセンセーショナルに報道された。犯人がオタクだったからだ。犯人の家にはアニメキャラクターのポスターやタペストリーが飾ってあり、性器剥き出しのアダルトフィギュアが部屋中に溢れていた。フェミニストがこの事件に食いつかないわけがなかった。事件とともにオタク批判が盛り上がった。さらにオタクにとって不運だったのは似たような女児殺害事件が再び起こったということである。フェミニストはオタクという存在の危険性を主張しはじめた。この二番目の事件において犯人はオタクではなかったが、フェミニストたちの激しい主張により、いつの間にか世間の認識は「犯人はオタクである」となっていた。
悪意というものは一番弱いところに向かうものだ。東京五輪の失敗を受け、多大な負債を抱えた人たちが次々に女児を殺害していった。20年代の女児殺害事件は常軌を逸していたと言っていい。今一度確認しておくが、20年代の一連の女児殺害事件において犯人がオタクだったのは最初の事件だけである。しかし20年代の痛ましい事件はすべてオタクの責任ということになった。話がやや複雑になるが、中には「俺はオタクだ」と名乗った犯人もいたが、実際に捜査してみるとオタクではないというケースもあったようだ。精力的に活動する反オタク主義のフェミニストたち、彼ら彼女らに賛同する一般市民、自暴自棄になって事件を起こす犯人たち、国内のマスコミ、そのすべてが全責任をオタクに負わせようとした。
そしてオタク絶滅法(「オタクと判明した場合、即座に死刑に処する(その場での殺害も可)」)の登場である。世界的に死刑が廃止されていく中で信じがたいことだが、2030年代の日本は完全に狂っていた。東京五輪の失敗というトラウマからいまだ回復していなかった。日本全体が生贄を求めていた。何かに責任を負わせてすべてを清算したかった。ゾーニングによって世間の表舞台から消えていたオタク文化が再び掘り起こされていった。すべての業界関係者、業界を支えるファンたちが問答無用で連行され即日処刑、あるいは抵抗する場合はその場で殺されていった。多くの血が流れ、あっという間に日本からはオタクと名乗る者が消えた。フェミニストたちは最大の功労者として権力を握った。これで日本は復活できる……人々の熱狂は大変なものだったそうだ。
しかしこのゆがんだ悪法が人々を本当の意味で幸せにするわけがない。日本人が反オタク主義に慣れきったころ、一つの事件が起きた。ある会社で働く女性社員が上司に叱責された。同僚のインタビュー記事などによれば、叱責はどの会社でも日常的にあるような軽いものだったという。しかしその女性社員は叱責されることに慣れておらず、ものすごいショックを受けたらしい。鬱病になって会社をやめることになった。歴史的に大きな事件が起きるときには様々な要素が偶然絡み合うものだが、この場合もまさにそうだった。女性社員はフェミニストだったのである。
彼女はもちろんフェミニストの栄光を知っていた。誰もが絶望しきっていた東京五輪の失敗からフェミニスト主導のオタク絶滅政策によって日本が復活するという栄光の歴史を。無職になっていた彼女はある日会社を訪れ、自分を叱責した元上司に向かってこう言い放った。「この人、オタクです」
周囲にいた人たちは青ざめた。それが意味することを理解していたからだ。しかしまだ事の重大さを真に理解していたわけではなかった。彼はオタクではないのだから、そんな言いがかりだけでどうすることもできないだろう……。監視装置が「オタク」という言葉を感知すると自動的に通報され、すぐさま警察がやってきた。取り調べが行われ、元上司のスマホが調べられ、自宅に向かった捜査員はあらゆる端末のデータを調べた。数時間しても彼がオタクであるという明確な証拠が見つからなかった。警察はフェミニストの女にこの男が本当にオタクであるのかと確認する。そこで女はただこう言ったそうだ。
「私はフェミニストです」
その場で元上司は「オタクである」という理由で射殺された。フェミニストの女は死んだ元上司の顔に唾を吐きかけると帰っていった。
この一件はマスコミによってオタク絶滅政策の一環であると報道された。しかし職場の同僚たちは反論し、事件の真相はネット上で速やかに広がっていった。「オタクという明確な証拠がないにもかかわらず、フェミニストにオタク認定されただけで殺された」 フェミニストは理論上誰でも好き勝手に殺せる……
反オタク主義に固まっていた日本が少しずつ揺らぎ始める。それは反フェミニストという形で現れた反動である。フェミニストの大物が暗殺されると、オタクを名乗る集団による犯行声明が動画サイトに投稿された。地下に潜っていたオタクたちが立ち上がったのだ。オタク絶滅法の施行された30年代は高度な監視社会だった。だが監視社会はテロを防ぐことができず、フェミニストは次々に殺されていった。
やがて人々は東京五輪の失敗はオタクだけのせいではなかったと気付き始める。たしかに東京五輪を契機に世界的なオタク批判が巻き起こった。しかしオタク絶滅法は人道に反すると諸外国から批判を受けたことも事実であった。それでも当時の日本にはもう一度立ち上がるための生贄が必要だった……
私は日本州に生まれたことを嘆いてはいない。この島には悲しい歴史がある。私たちはそういった負の側面を背負っていかなければならない。オタク絶滅法以降、日本の少子化、人口減少はさらに進み、今や人口は3000万人程度だ。最近、愛国者たちによる独立運動が盛んで、毎日どこかで集会が行われているが、私たちはかつての日本国を美化するようなことがあってはいけないと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20181013125559
IT業界は比較的新しい仕事で、エンジニアに女性を受け入れる事に抵抗はないし、無制限に門は開いてるけど、社会的に成功している技術者の男女差を見て見ればいい。
この増田の主張のうち、女性比率が少ないと挙げられている医者・学者・政治家あたりは古代からある伝統的な職業ということで、歴史的な性差別の積み重ねで女性が入りづらい強固な差別構造のようなものがあるのでは、という反論はできそう。
しかし、IT技術者だけは、以下の通り、女性に向いている職業なのにこの女性比率の低さは不思議に思っている。
・筋力はいらない
・若手のエンジニアに求められる長時間集中力を保つ持久力は必ずしも女性が男性に劣るわけではない
・学校で優等生タイプだった女子のように勤務時間外に真面目にコツコツ勉強を続けると報われる
・入り口はそもそも相当におかしな経歴の人間でも受け入れているので性別による参入制限は無い(もちろん日本の文系出身ITエンジニアの枠の話)
・経験者であれば、出産育児で数年のブランク程度なら今の人手不足なら大歓迎される
・転職だけでなく、派遣やフリーで家族のライフステージに合わせてかなり融通が利く働き方ができる。
(少なくとも、大企業事務系総合職を出産育児で退職した後に類似の待遇・業務内容のポジションに戻ることの困難さに比べれば、遥かに女性が生涯にわたるキャリア形成をしやすい)
・比較の問題ではあるが、伝統的なメーカー・商社・金融の男性よりはITはリベラルで男女の社会的役割分担意識の弱い男性が多い。
(というかオールドエコノミーに就職した学生時代の友人たちの「俺はジェンダーロールを疑問無く引き受けるし他人にも押し付けますよって」方向の人格の変貌は恐ろしい……)
・飲みニケーションでホモソーシャルな派閥を作るタイプの男性は少ない。飲みニケーションに参加しにくい/したくない女性でも不利な取り扱いをされにくい。
この記事は少し前置きが長いが読んでくれ。NY市場の歴史的株価下落により、世界的なリセッション入りは近い、多くのアナリストはそう考えている。しかし、長期金利上昇以上に問題なのが(2つは関連しているものの)失業率だ。アメリカではもう失業率は下がりそうにない。ギグエコノミーなどの構造的要因によってNAIRUが上昇している可能性がある。U-6失業率を見ると、アメリカ経済は完全雇用に近いが、以前の水準から言うに、ケインジアンは完全雇用ではないと言うだろう。原油価格は上昇しており、ギリシャ危機当時のインフレ対策としての緊縮(当時ほど過激ではないにしても、ギリシャはやりすぎたが、ベルギーなどは適切だった適度な緊縮)が必要になるかもしれない。スタグフレーション対策としてだ。中国の経済統計は悪化しており、グローバルな貯蓄バランスの不均衡によって国際通貨市場の不安定化、新興国(途上国)からのドルの逃避(アジアは比較的貯蓄率が高いためリスクは低いだろう)、構造改革の余地の減少、石油、穀物価格や株価下落に伴うコモディティへの投機により、中央銀行はスタグフレーション回避のためにさらなる引き締めが必要になるかもしれない。全世界でレジームチェンジが必要になりそうだ。具体的にはシムズ理論による財政出動(拡張的緊縮論にはシムズ理論で対抗)、投資減税(資本の利潤率低下の法則と金融緩和の代わりにリスクプレミアムに働きかける政策)、穀物投機を減らすための利上げと新興国(途上国)への一時的な融資、バイオマス燃料の規制、トービン税、中小企業の金融円滑化のための財政支出としての支援が必要だろう。また、国有化された金融機関の役員報酬の規制法も必要だ。政府は、学資ローンを買い入れるべきだ。新卒者の消費が増えないバランスシート不況を阻止するためだ。投資減税、雇用補助金によるリストラ阻止、長期的には過剰資本解消と合理化計画、(アメリカ民主党の主張するしかもインドで実験された)雇用保障制度と福祉分野での雇用創出、ワークシェアリングの柔軟な対応(所得税などの控除なども盛り込まれるかもしれない)を行い、長期的成長に配慮するコーポレート・ガバナンスの推進(ドイツ型に改革)、401kやヒラリークリントンの主張していたプロフィットシェアリングを支援する必要がある。また、国際的な穀物およびエネルギー支援の枠組み協定も必要だろう。IMFのSDRのような制度かつ現物に裏付けられたIMFの保証する国際仮想通貨ベースで現物で短期融資するのだ。インフラ投資を推進し、石油を(あまり)使わない分野での雇用創出(製造業の国際分業による世界的レベルでの石油生産性の向上)、おもに途上国への石油生産性向上のための技術支援、投資ファンドの設立、一帯一路の推進によるグローバルサプライチェーンの再編、輸送の効率化、現地雇用推進と輸送コストを抑える手段としての薄く広い国際合意に基づいた関税によってコモディティ価格上昇によるコスト・プッシュ・インフレおよびスタグフレーションを阻止できるだろう。(特にアメリカではトランプ減税の延長ともに)株式の所有構造の再分配、株式保有への課税もおそらく必要だ、金融のイノベーションと金融市場のダイナミズムを維持し、債務を持続可能性を高めるには、資産や貯蓄の不均衡の是正が必要だからだ。とくにアメリカでは、貯蓄率が低すぎる。家計のバランスシート改善と不況のクッションとしての貯蓄が必要なため、定額給付金という画期的な政策は必要である。底辺層への支給は、再分配にもなる。合理的期待形成論によれば、消費は生活必需品のみで消費を減らし貯蓄を増やす(逆に言うと、必要以上の消費が抑制されるので資源や食料価格が低下し、貧困層には良い)(有効需要の下限を管理し、スタグフレーションを防ぐにはちょうどよい)。また、貯蓄率上昇による金利低下や穀物価格上昇のリスクはトービン税や金融引締めで対応すべきであり、自営業者向けなどの金融円滑化、地方自治体の債務負担軽減のための補助金も必要だ。政府の進める生産性向上促進税制や障害者の労働参加率上昇のための支援(スウェーデンのサムハルのような)、職業訓練プログラム拡充により、生産性向上(潜在成長率上昇)で、世界的人口増とオイルピークと戦う必要がある。また、サブサハラアフリカでの農業生産性向上への国際的支援、土地なし農民などへの国際的な支援策、先進主要国はアフリカなどの農民を失業させないように、棲み分けなどで農業生産性を向上させるための各国の強み、地形や気候にあった政策を国際的協調のもと、行なうべきだ。過度の農業のグローバル化はサプライチェーンの冗長性を損なうため長期的には東日本大震災のようなサプライチェーンの分断、気候変動による凶作などによる飢饉の発生など、長期的には政治的安定性の低下(それによる経済政策の整合性低下)、グローバルな秩序の不安定化、長期的な潜在成長率の低下や、構造改革の遅れなどの問題が生じるため行うべきではない。また、牛肉などの需要抑制のための消費税の見直しや石油税についても国際協調をもって行うべきだ。ニート対策として、欧州諸国などは徴兵拒否の対価としての労働をふやし、労働供給の安定化、人手不足の解消を行うべきだ。韓国のように、中小企業に就職した場合、補助金を支給することもよい。役に立たない職業訓練をへらし、見習い雇用を支援し、正社員化による精神的安定や安定的な消費拡大を目的とした正社員化促進税制、ESOPの推進、また、雇用拡大として内部留保を減らすため法人税を大幅に増税、そして、社会保険料をかなり軽減(廃止)により中小企業の負担を減らすといったことも重要だ。また、投資減税や401k年金の推進などにより資本市場の活性化と(過度な内部留保によるゾンビ企業)淘汰も行うべきだ。間接金融と直接金融はゼロサムゲームではなく、補完し合うように政策的に金融機関再編をすすめるべきである。投資のための内部留保も課税し、資本市場により調達することを税制上促進し、投資の効率化や過剰投資抑制(不良債権抑制)、時限的な消費税、投資税の減税により、消費と投資のリバランスをすすめ、マクロ経済環境の安定化をすすめるべきである。R&D予算には競争的メカニズムを導入し、政府の研究所ではなく民間のR&D控除を推進すべきだ。特許などが会社に帰属するような改革は働き方改革(ポストフォーディズム的労働需給の柔軟化としてのフリーランス化)に逆行し、インセンティブやマクロ的な労働生産性向上に悪影響を及ぼすため、行うべきではない。教育のきめ細かな支援と、ゾンビ大学の淘汰や整理、合理化が求められる。航空宇宙産業は民営化すべきである。(予算を減らせとは言ってない)安定的な消費がなければ(消費期待)、企業経営の消極化により潜在成長率が低下するため、好ましくない。産学連携や起業家育成を推進すべきである。(社会的流動性の保全)消費税増税と保育無償化は一見矛盾するように思えるが、インフレや労働需給、国債金利(金融抑圧)、消費の安定化にともなう企業投資の安定化(そして民間委託による消費の国有化)としては一定の合理性がある。小泉進次郎の言うように、ゼロサムゲームではない(幼児教育無償化)。高齢者就労控除制度を創設し、高齢者障害等就労不能最低保証年金制度を創設し、いまある年金制度をマクロ経済スライドのアルゴリズム見直しにより、年金給付の実質抑制を図るべきである。失業手当(給付期間を延長し、給付額が段階的に減少)に職業訓練や就労インセンティブを課し、失業用貯蓄口座を創設するべきである。手厚く細かい職業訓練プログラム(生産学校など)とそれよりも強い雇用インセンティブ(見習い雇用)拡大、再就職や新卒者の就業祝い金支給、給付付き税額控除(EITC)を推進し、大学や専門学校を無償化(もしくはかなりの低料金)(予算の少なすぎるリカレント教育、いわゆる生涯学習の拡充)、社会的包摂のための協同組合などへの税優遇強化なども必要である。職業訓練はブッシュ政権で試みられたバウチャー方式がインセンティブ強化のために一般的に良いと考えられるだろう。わたしはローレンス・サマーズとおなじバブル必要論者なので、ドットフランク法廃止を支持する。わたしは完全雇用は履歴効果を阻止し、労働力を維持し、長期的な労働生産性向上と潜在成長率向上を引き起こすと信じる。また、マイナス金利や量的緩和などの金融緩和策が失業率を低下させ(賃金は下がるだろうが)、心理面の改善や消費拡大による雇用拡大、最終的には家計所得押上げに繋がると信じる。最後に
日銀は株価ターゲット政策を採用し、ETF、国債買い入れ額を増やすべきだ。貸し渋り貸し剥がし防止のため金融機関に法人税などを特例として減税(免除)し(ただし免除の条件として役員報酬の上限を法律で定める)GPIFは民間投資家と日銀や産業革新機構、預金保険機構などを株主とした機械化自動化AI開発投資ファンド(仮称)に投資し、技術革新の果実を年金の原資とする富の再分配(現役世代には保険料や消費税負担の軽減)をおこない、リスクマネー供給策とあわせて行うべきである。また、ベンチャーキャピタルの投信などに所得制限付きの税額控除を行い、持ち株政策と富の再分配、市場形成を推進すべきである。なにが言いたいかって、政府はこの内容を盛り込んだ経済緊急安定化法を成立させるべきだ。ありがとう、広めてくれ。