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はてなキーワード: デュシャンとは

2019-08-10

はてサって盲目だわ

そりゃ口汚い言動はどうかと思うけど

あの政治プロパガンダしかないデュシャンの泉よりも芸術性を疑う展示作品

エヴァンゲリオンオネアミスといったその人が生涯を通して作り上げてよほど多くの人を感動させた作品とが

同じレベル芸術品と見えているとしたら、そりゃどうかしていると思うのがふつうだわ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/Y_Sadamoto/status/1159702101464776705

2019-08-05

anond:20190805002419

横だけど、あいちのやつはジャンルが「現代アート」なんで、それともちょっと違うと思う。

ピカソキュビズムにびっくりして単に上手いだけの絵が評価されなくなって、更にデュシャンみたいな変人がでてきたせいで、びっくりさせたもん勝ちみたいになっている。

アニメが「アート」じゃないとしたら、キモいからとかじゃなくて、単に上手いからだよ。

 

そういう意味で、もう一人の増田も言う通り、西洋人も「アート」なんて理解してないも思うよ。

一般人にははなからわからんし、わからせようともしてない奴らは。

2018-10-26

現代美術のわからなさって

たとえばデュシャン便器バンクシーシュレッダーアートなのに、草間彌生の偽物展覧会アートと見なされないことだったりする。

偽物展覧会だっていくらでも屁理屈つけて意義を見いだせるはずなのに(作者とは何かという根源的な問いだとか、資本主義に対する痛烈な批判だとか言えばいいんでしょ?)、便器シュレッダーにはやっても、偽物展覧会にはやらないんだよなあ。不思議

から見てると"誰がやっているか"が重要なんだろうなと思うけど、界隈の人は認めないわな。

2018-10-22

anond:20181022090735

なんでMAD動画持ち出したかはわからないが、現代アートギャグ漫画だというのはその通りだよ。

赤塚不二夫がやったこともほぼ現代アートと言えるしね。

ただ

>すぐに陳腐化する寿命の短い生

については百年経った今でも「現代アート」と言われるデュシャンの泉があるから同意はできないな。

anond:20181021093430

現代美術理解してることと頭の良さは関係ないんだけど、なんでこういう人が多いんだろうね。



一般人印象派以前の藝術も理解できないんだけど、あれらはまだ大衆的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。

言ってることがよくわからない。理解っていうのは神話とかの寓意性のことかな?それとも絵画史の流れや歴史的な背景とかかな?研究者でもなければ解説で補えばいいんじゃないかな。


>それまで大衆的な要素+芸術的な要素だった美術絵画(彫刻)が、現代アートへと移行する時に大衆的な要素を切り捨てたのね。より純粋な藝術に進化するために。

さらによくわからない。コンセプチュアルアートミニマルアート派生してきたことについて言っているのかな。現代美術はどちらかというと、大衆的な美意識を取り込んできた歴史だと思うんだけどな。


>だから、それまで大衆部分だけを受け取って喜んでた一般人は急にわからなくなりヒステリーを起こした。

>だけど、藝術理解者は印象派以前にも藝術部分しか見てないか一般人が何を騒いでるのかわからない。

もっとからない…。歴史的に見ても、新しい表現表現がでてきて反発するのはまず芸術家というか、君の言う「藝術理解者」そのものなんだよね。



一般の人って、工芸品の凄いやつが現代アートになるとか勘違いしがちだけど(オタクアート論もその変奏)、全く質の違うもの

工芸品って、部屋をひすたらゴミひとつなく綺麗に掃除するようなものクリエイティブじゃない。

日本エリート(東大京大文系理系とか)って教養がない極東田舎者からクリエイティブ理解できない。すぐに「工芸品」を持ち上げる。怖いんだろう。自分理解できない藝術が。佐藤可士和デザインですら大多数は理解できないんだものあん教科書的なものですら。

うーん、話がごちゃごちゃだね。工芸品も現代アートになるよ。オタクアート論は関係ないよ。工芸ももちろんクリエイティブだし、掃除とは関係ないよ。

ただ、役所的なところで工芸というかテクニック重視のものが持ち上げられるのは仕方ないね、わかりやすいし理解も得られやすいからね。

佐藤可士和デザインは受け入れられていると言えるでしょう。個人的に残念だったのはザハかな。


>とにかくアジアって文化後進国なのね。トップ日本ですらこうなのだから東京"国立"博物館デュシャン日本美術脈絡なく展示してホルホルしてるレベルもの

アジア文化後進国と見なすような西洋中心的な視点から脱却しよう、というのがまさに今の現代美術のメイントピックの一つだと思うんだけど、大丈夫


>まず日本に生まれた時点で、現代アート理解するには圧倒的に不利。

それはそのとおりなんだけど、「アメリカに生まれた時点で萌えアニメ理解するのは圧倒的に不利」と言ってるのと同じなんだよね。それはそうでしょう。


アートって歴史上一度も大衆相手にしてないので。

>昔は王侯貴族宗教的権威で、今は超金持ち美術批評家

? 例えば聖人の像なんかは大衆啓蒙用だよね。想定してる歴史範囲が狭すぎるのかな。


民主主義恩恵で、一般人美術館で億の作品を数百円で見れるようになっただけで泣いて喜ぶべき。

? 民主主義関係なさすぎて泣いた。


>そしてあれは、将来のお客さんとアーティスト入り口としてやってるの。1000人に1人、将来アートに貢献する人材いるかもしれないと信じて。

そんなこと考えてる人いないと思うなあ。


金持ちにもアーティストにもなれない一般人はまあ、おこぼれで"文化的"コスプレしてインスタグラムでもやればいいんだと思うよ。

おこぼれ?文化的?の意味がわからないけど、コスプレいいよね。



アート勉強し始めの高校生とかかなあ。頑張ってね。

2018-10-21

anond:20181021093430

アジア文化後進国というが、既に中国アートシーンが世界を席巻したのすら10年は経過している

今、中国が来てる!なんて言ったところで既に周回遅れなのだが、

日本はそこから更に周回遅れ状態なので、今だにデュシャン展なんか見て喧々諤々やっており、

ゾゾの前澤ごときが一番有名なアートコレクターと目されている

一言言っておくと、前澤はアートコレクターとしては3流以下である

バスキアピカソウォーホル。既に評価の確定した前世代の作品を高い金出して買ってるだけで、

欧米の一流アートコレクターのように、積極的若いアーティストを発掘したり、

従来のアートに新しい価値文脈を生み出すようキュレーションができていない。

如何にもアート後進国教養なき成り上がりアート趣味という感じが薄ら寒いばかりである

現代アート世界は、金の流れと密接に結びついている

現状だとBRICSあたりの金の流れの速い経済成長国家アートキャッチアップできていないようでは、

アート世界現在を把握できているとはとても言えないだろう

しかし、30年にも及ぶデフレ不況によりすっかり貧乏国家となった日本では、

現代アートなんか扱いには荷が重すぎるのである

文献もほとんど既に死んだ潮流となった欧米アーティストのものばかりで、

BRICSあたりのアートを本格的に扱ったものなどほとんどないだろう

現時点で、現代アート理解できている日本人などほとんどいないのである

2017-12-22

デュシャンはあちゅう

 おお、はあちゅう。君は僕のミューズ美術館に囚われし姫。白鯨の住む大海原を優雅に泳ぐ人魚姫。清らかな、泉のような流れに逆らい、君を辿ればあたりは異臭。水は目に見えて濁りゆく。あたりは糞尿まさに下水。たどり着く先は便所小屋。きっとそこは、君が見たアンモニア香る素晴らしい景色が広がっているんだね。

 おお、はあちゅう。君は知っているか桜の樹の下には屍体、枝の先には熟れに熟れた実がたくさんたくさん実っていることを。傍ら君は、満開のサクラ色めくサクラ通りを、電気仕掛けの華やぎで演出することに勤しんでいたね。知ってるよ。その下にも屍体が埋まっているんだ。君はその屍体を、屍体たちの透明な苦しみを、海の巫女として色めく言の葉にして拡声器に載せ、またたく間に大海原をその言の葉の色で埋め尽した。ほんとうに圧巻だった。

 おお、はあちゅう。君がその傍らで、手に取り玩んだのは、大海原に映った桜の実の影だろう。それが象徴する苦しみは限りなく透明に近いブルーチェリー記憶を持つものしか真っ赤に見えない。おお、はあちゅう。僕はその色のない影に、色を、限りなく目立つ彩色を試みたんだ。おお、はあちゅう。君はやっぱり気づかなかった。僕は、君の知らないところで大海原に流れ薄れ溶けて消えていくその悲しみをぼんやり眺めていたんだ。

 おお、はあちゅう。君は清らかな海の巫女。君を取り巻く警備員が、拡散された言の葉の色の濁りをたしなめたね。それは僕の、僕たちの悲しみの色だったんだ。おお、はあちゅう。君は眩しい。目を覆わんばかりさ。君と僕たちが生み出す摩擦は火花を放ち、みるみる海を漂う言の葉を真っ赤に染め上げた。

 おお、はあちゅう。君は炎の歌姫。君の鎮魂歌虹色原油。おめでとう。君は油田を掘り当てたんだ。いつ海の奥底で地盤が動いたのかはしらない。たまたまそこから溢れたのが糞尿まみれの原油で、本当にたまたま君の真下だったんだ。君は、限りなく透明に近いブルーだったチェリーの悲しみが誰の目にもわかる熟れた警戒色に変わったのは何時?と歌う。コウモリのように、君を断罪する理由が黒い灰になって宙に舞い、空を覆い、世界太陽の光を失いほの暗くなった。悲しみと怒りと煽りが雑じったショッキングピンクグラデーション超音波、高音波、波と波がうねりぶつかりくだけ、大荒れが君の歌声を掻き消す。灰色が充満する世界で炎に照らされた君。おお、はあちゅう。君は、もう、真っ黒。

 おお、はあちゅうクー・クラックス・クランナチス・ドイツ。君もすっかり差別主義者。信じられるかい。君たちは、かつて私を悪から守るヒーローだったんだよ。黒人ユダヤ人童貞。その他、たくさんの悪を教えてくれたね。私は彼らを人間と思わず、ムチで打ち、十把一絡げに大量虐殺したんだ。でもね。海の底地盤が動いたんだ。こくじんはにんげん、や、ゆだやじんのくるしみ、そして、どうていのかなしさ、は鮮やかに色づいたんだ。一方、クー・クラックス・クラン白衣は黒衣に。カッコいい正義軍団ナチス・ドイツは糞尿まみれになった。はあちゅうは真っ黒。海の底の亀裂から海上に、吹き出した糞尿臭い原油の黒さは、君たち差別主義者を見分ける目印さ。

 おお、はあちゅう。君は知っているかライトポリティクスナイト存在することを。誰かの祈りの言の葉呼応して、どこからともなく現れて、海の底伝説の棒でぶっ叩くのさ。おお、はあちゅう。君が悪いのさ。まさか糞尿くさい原油溢れる亀裂の真上に君がいるなんて思いもしないじゃないか。君もびっくりだろう。でも警告はした。そしてそれは君に届かなかった。おお、はあちゅう。でも安心して君をひとりにしないよ。今、君を嘲笑して、バカにして、消えろって言っている私たちの内の誰かも、人間人間と思わず無知でムチを打ち、大量虐殺を楽しんでいるんだ。でもね。またいつか海の底地盤が動くんだ。きっとまた正義騎士が軽い感じに(ライトナイトライトに)伝説の棒で海の底をぶっ叩いて、吹き出した原油と糞尿がそれまで高らかに正義を掲げていた誰かの頭に直撃するんだと思う。

 ねぇ、はあちゅう。この現代アートバカみたいで笑えるだろ。もし君がこの額縁の中に真っ黒、糞尿まみれで存在しないならば。でも、だからこそ笑えよ。君を人とも思わない未来差別主義である私をも。

2017-09-18

anond:20170918034231

確かに、言われる通りピカソビートルズ過去オリジナルの上塗りだと思う。

ただ、悲しいがなそれらは時代が進むにつれてオリジナルからコピーへと進化し続けるしかない。

現代技術発達に伴いもうオリジナルがどうとか盗作がどうとかい時代ではない。

過去トリスタン・ツァラが唱えたダダイズムからまれた、デュシャンレディメイドにしても既製品という概念オリジナルと捉え、それを開き直って芸術しか呼んだ。創造概念として独り歩きし始めたのだろう。ましてや写真映画は複製芸術という言葉通りオリジナル芸術作品なんてものは、今の現代はほぼ存在しない。ご存知の通りそれらを皮肉ってアプロプリエーションという表現もある。

オリジナルが正しいという概念を捨て、オリジナル過去の作者の人生観経験普遍的観察を植え付けて概念を形や文章にして創り上げていくことが現代創造である個人的には考える。


コピーすらも創造だと思う、自分も親のコピーもの

2016-12-13

こいつとはアートの話とかできねーなと思った話。

http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556

  

  

>当然だが作品をつくる作家けがいてもアートは成り立たない。

>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品アートとして成り立つ。

作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、

李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、

デュシャンの泉はもちろんただの便器になる。

  

もっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、

一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが

真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。

  

作家作品場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対必要?本当に?

他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャン作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?

  

芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で

芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。

結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから

  

アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身作品との戦いがある。

アーティストアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、

ダミアン・ハーストの『ナチュラルヒストリーホルマリン漬けサメ)』なら、

それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに

そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、

それらは偉大な現代アートなのだと思う。

  

しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。

>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。

芸術というもの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。

  

結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、

それならば彼女就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身出来事記述に終始してることに納得できる。

でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論

芸術というもの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。

  

こいつとはアートの話とかできねーなと思った次第である

2015-01-13

エクスキュースとしてのリベラル

http://anond.hatelabo.jp/20150111070135

少し話が違うけれど、年末ネタのような話題があって

を書いたものです。

その記事はてなブックマークに、

mahomi4 全く的はずれすぎ。

というコメントがありまして、この人の見る当を得た見解ってのはどういうものなんだろうとブックマークをたどったところ、

http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0

フランス新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について

という記事にたどり着きました。扱っている事実が同じなのに見解正反対というのもなかなか面白いのですが、少々以上に気持ち悪いと感じたのも事実です。

その気持ち悪さを説明するのも手間がかかるのですが、やってみますと、

さて、そのアンテグラシオンやら政教分離があるので、

親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として

平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、

住む場所や肌の色、名前判断されていないかといえば

実際には「平等」なんて言えないだろう。アンテグラシオン

うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に

適応できないこともある。フランスは今でも階級社会の名残が

あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ

様々な葛藤感情を抱いて育つ人がいるのは想像できる。

(今朝のLe Mondeにはシャルリーの絵に対して今でも怒っている

イスラム教徒中学生の話が載っていた。)

アンテグラシオンやライシテの実態について、その限界認識しながらもルソーまでひもといて、全体的にはフランス万歳!とまとめている点です。ベルばらオスカルでしょうか。

私がすごく気持ち悪いと言うのは、こういうことをフランス人が言うならまだわかるのです。マジョリティの側にはどうしても見えてこないものというものがあります。それは善悪問題ではなくて立場問題です。

有働出人みたいな人がそうでしょう。まあ、あの人の活動はそれなりに有意義な部分がありますが、あの人に代表されるような白人マイノリティは、有色人種の国、それも支配階級にはならない日本韓国に来て、初めてマイノリティ性というものを味わうことになります。そうすると見るものさわるものすべてが刺々しく感じられる。

アメリカにいる時は警察官黒人を狙い撃ちにしてもあまり気にもしていなかったような人が、職務質問日本警察官にされると激怒する。年間何十人と言うレベルで何とかバッシングで死者が出ているオーストラリアから来た人が、じろじろ見られるくらいで韓国レイシストと騒ぎ立てる。

こういうことは日本では私たちマジョリティから言われて初めて気づくという面もあります。言われてもただ反発するだけということもあります。自らがマイノリティとなった時に、マジョリティである時の視線・態度をかえりみるにまでなれればいいのですが、残念ながら、女性暴力を振るう黒人男性同性愛者を差別する女性は珍しくありません。

そしてそれを更にマジョリティの側が、見ろ見ろ、連中はこんなに野蛮だぞとはやしたてる。

あるドイツ人と話していた時、我が国民主的リベラルで、世界に冠たる我がドイツ、みたいな話になって笑ってしまったのですが、まあそれはその人個人の話なので、ドイツ人って全然変わっていないよねとは言わないでおきましょう。ただその人には人種差別はどこにでもあるけれど、東洋人がしつこくチンチョンチャンとまとわりつかれる国はドイツ以外ではそんなにはない、年間百人以上ヘイトクライムで殺されている国はそんなにはないということは「見えていない」のですね。

リベラルであると言うことが、他者を見下すこと、見ろ見ろ連中はこんなに野蛮だぞってなることが、リベラルがそのためのエクスキュースになることがあるのです。

リンク先の記事の何が気持ち悪いかと言えば、日本人で、パリに住んでいて、未だにシャルリー・エブドに怒っている中学生新聞記事しか見たことがなくて、見えないゲットーに守られていてマジョリティのような顔をしている、それがすごく気持ち悪いのです。

国民戦線ルペンだって、アンテグラシオン同化政策と言う意味で、ライシテはイスラム強制的に同化せしめると言う意味で大賛成なのですからね。

歴史をひも解いて言うならば、フランス革命以後、フランスは確かにリベラル原則を打ち立て、それを徹底してきた歴史があります。公平を期して言うならば、第一次世界大戦後、日本列強要求した人種平等原則英国アメリカは反対しましたがフランスは賛成したと言うことも付け加えておきましょう。

しかし同時に、そのリベラルでライシテな共和国下においても、フランスもまた数々の非道をなしてきたことは忘れてはなりません。

フランスでは支配層の横の流動性が高く、文化人メディア関係者政界に横滑りすることも珍しくはありません。新聞人であったクレマンソーが第一次大戦期のフランス首相であったように、エリート層は全体として支配階級形成していますポールデュシャン二十世紀半ばのジャーナリストで、第四共和政期にアルジェリア行政官に就任して、監獄を視察しています。その時、アルジェ独立派囚人たちの身体に、拷問の後があるのを見て首都に報告しています。その拷問の傷跡は、デュシャン自身の身体にもありました。ナチスに捕らわれていた時に拷問された跡です。

パリ解放の日の記録をサルトルが書き残していますルクレール将軍に率いられた自由フランス軍の入城をもってしてナチスパリ占領は終わりを告げて、自由だ!自由だ!というはじけるような喜びを書いています。そうして成立した自由フランス、ライシテなフランスの下でアルジェリアでは拷問が行われていたのです。

インドシナでのフランスの動きも決してほめられるようなものではありませんでした。フランス当局もいちまいかんで行われた人身売買ナチスから解放された人たちの手によってなされたものですし、フランスインドシナ独立を抑えるため、アメリカに対して原爆の使用を執拗に求めています。これも、自由なるフランス言論の自由フランス体制下でなされたことです。

はいちいちフランス過去の悪行をあげつらって、批判したいのではありません。フランスリベラル諸制度国家制度の補完部分であるにすぎず、国家制度のものを、相対化して批判するようにはなっていないということを言っているのです。フランスの内部にいるシャルリー・エブドは水の中にいるため水の重さを知りません。自分がネジであるに過ぎないことを理解できていないのです。それは結局、彼の中にマイノリティ性がないからであってマジョリティ側の暴力について無自覚であったからです。能力問題ではありません。性格問題です。

批判と言うもの嘲笑侮辱にならぬよう、あるいはそうなっても構わないのは権力の側に対してのみ、その注意深さが必要です。風刺画というメディアは明らかに全方位になす批判方法にはむいていません。

2015-01-06

http://anond.hatelabo.jp/20150105231945

市場評価される作品が良い作品」が、いまの現代美術評価軸。

そして「アートマーケット観点からは、作品の値段はほとんどの場合キャンバスと絵の具代や労働時間などではなく『コンセプト』の値段なのです。」( http://www.amazon.co.jp/dp/4902078171/ p.182)で、村上隆はコンセプトで勝負している。

批判者の批判の一つに「村上隆作品には絶対的な美がない」というのがありそうだけど、そこを問われるゲーム村上隆はしていない。

「あんなのパクりだ」も同様で、作品自体はパクりでもなんでも良くて、そこにどう「コンセプト」を見出すかが重要

「あんなのパクりだ」論法でいくんなら、デュシャンの便器はどう解釈するのか?

美術とは綺麗な絵のこと。それがない美術館おかしい。だから21世紀美術館は駄目」という考え方と、「アートとは絶対的な美のこと。それがない作品おかしい。だから村上隆は駄目」という考え方が似てると思いました。

2013-06-18

http://anond.hatelabo.jp/20130618121335

そんなもんはデュシャンの泉で終わった話だ。

個々人の創作性なんぞ大量生産の公衆便器と同じ程の価値しかない

2013-02-18

レスリー・キー逮捕にみる日本幼児

スルーしそうになっていたのだけれど、我慢できないのでやっぱり書いておきます

ガガ撮影写真家逮捕 レスリー・キー容疑者男性写真集”販売

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/02/05/kiji/K20130205005128840.html

わいせつ芸術か……有名写真家レスリー・キー容疑者逮捕で物議

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130204-00000036-rbb-ent

【衝撃事件の核心】「紀信さんに憧れ…」越えた一線 ガガさんら撮影、有名カメラマン写真集男性器のオンパレードだった

http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/130216/crm13021618000012-s.htm

写真家猥褻罪での逮捕は十年一日のごとく繰り返されているけど、そのたびに「あの写真集にチンポが写ってた!」「マン毛が写ってた!」と中学生のごとく大騒ぎ。まるでアホです。

そのつど繰り返されるのが、お馴染みの「これはアートなのかポルノなのか論争」。しょうもなさここに極まれり。

いいですか。

今回の逮捕要件になった写真集は「アート」です。

なぜなら、レスリー・キー写真学校写真の訓練を受けて、ギャラリー個展を開き、問題の写真集も、ギャラリーで販売されたものからです。

ギャラリーに置かれたもの美術館に置かれたものは、アート作品です。これは自明です。便器に「泉」って書いて置いてあってもアート、缶詰めのパッケージプリントしたやつがあってもアートなのです。

別に、俺はこんなものアートとは認めない! っていう人がいてもいでしょう。しかし、俺は蕎麦は手打ちしか蕎麦と認めない! っていう人がいても、実際に流通し消費されている手打ちじゃない蕎麦存在し、蕎麦であるように、アートも、美術館ギャラリーにあるもの、またはそれら周辺の制度で評価されているもの、ぐらいの定義しか、もはやできないんです。象徴的にいうと、デュシャン以降、ウォーホル以降は。

アートの枠組みを問うこと自体がアートになり、行き着くところまで行った結果こうなりました。

理想化された神話的なヌードから、生身のネイキッドへの転換という美術史の流れで起こった論争など、はるか昔の話しなのです。

生身の裸がエロティック表現されていたからといって、アートではないといえたのは、近代以前のことです。

無論、ここでの「アートである」とは「アートとして優れている」ことを必ずしも含意しません。

アートからすべて偉い、崇高なものなんだ、というのは単なる権威主義です。

アートというのは、単にアートである、ということでしかない。

作者の慰みにしかならないような、誰にも評価されないクソみたいなアート作品もあれば、社会人間に対する深い洞察を含んで、歴史的な鑑賞に耐えるポルノもありうるのです。

純文学ライトノベル、どっちが素晴らしいのかを問うようなもので、しょうもない純文学もすごいライトノベルもあるに決まっている。

なので、アートポルノかなんていうのは、どうでもいいです。

警察は、チンポが写った写真集が売られたら捕まえる。これは、まあ、当たり前です。そういう法律があるんだから

夜中にクラブで客踊らせたら逮捕されるのと一緒で、そういう法律があるんだから逮捕も起こりうるでしょう。法治国家なんだから

しろ警察芸術か否かを判断して法律運用することのほうが不当なのではないかとも思います

アートポルノかなんて警察に判断できるわけがないし、されるべきでもない。

では、どうすべきか。

この場合、真に批判され、変わるべきは警察ではなく、こんなカビの生えた法律放置している日本国民意識である、と私は考えます

根本的に間違ってるのは、警察ではなく法律なんです。そして、アート/ポルノ論争とか始めてしまう、ダンス健全文化なのか論争とか始めてしまう、幼稚な日本人です。

どれだけ俗悪で、低劣な表現であっても、被害者がいない限りは、ある朝突然、国権に身柄を拘束されることがないのが民主主義なのではなかったのでしょうか。

タテマエでは日本では猥褻ものは売られていないことになっている。これが欺瞞でなくてなにが欺瞞なのでしょう。

アダルトビデオモザイク入れて、警察天下り機関でチェックして、これはモザイク入ってるのでポルノじゃないです、猥褻じゃないですって、これが茶番でなくてなにが茶番なのでしょう。

ポルノ大国の日本で、写真集外国人写真家逮捕されたというニュースは、海外からはどう見えるんだろう。

ちなみに、私はレスリー・キー写真が低劣だと言いたいわけではないです。むしろ写真集持ってるぐらいには好きです。腕もあると思います

彼の仕事は、LGBTアクティビズムとしても、アートとしても、ポルノとしても、素晴らしい価値のあるものだとおもっています

実は、ヌード撮るのってすごく難しいんですよ。嘘だとおもった人は、手持ちのカメラ自分の裸を撮ってみてください。立体感も質感もなんもない、みすぼらしい写真のできあがりです。

実は、ただのゆで卵でも、陰影をつけながら、その白さや丸さを撮影表現するのすら、すごく技術経験のいることなんです。いわんや人間を美しく、そして自分表現になっている写真にすることはとても難しいことなんです。

写真というのは、見たものが見たまま写るというものではないです。たとえば、見慣れた花が、写真家写真でみると、とんでもなく艶かしく、エロティックに写されたり、グロテスクに写されたり、ロマンティックに写されたり、こんな世界見方があったのか! と驚嘆できるのが写真です。

当然ヌードも、そこには様々な解釈があり、無限の文脈があるものなのです。そこにモザイクという検閲が入ると、文脈は抹消され、猥褻ものがそこにはあった、という意味けが立ち上がってしまます性器を隠した不自然ポーズトリミングも同様です。

もちろん、春画などの例をだすまでもなく、ポルノアートとして制度に回収され、認められる場合もありますが、現状、猥褻の線引きは、鑑賞者や捜査員がエロいと思うか、勃起するか否か、メールヌードに至ってはペニスが写っているかで判断されてしまます。この思考停止

ポルノは(特に性的少数者のそれは)作者が自分自身にとことん正直な、まさにパンツを脱いだ嘘のない表現出会える数少ないジャンルです。どれだけ反社会的に思われ、政治的に正しくないものでも、実存の奥底にある、どれだけ押し込めても潰しきれない、人間のどうにもできないもの表現されてしまうのがポルノです。その凄みや執念は、アートのそれを上回るとさえ思えます

我々は、アートポルノ健全さや猥褻さの枠組みの中で表現を擁護するのではなく、そして巧拙で擁護するのでもなく、低俗か高尚かで擁護するのでもなく、すべての表現を、すべての表現者を守るのだ、と宣言するべきなのです。

しかし、このニュース関連のツイートや、ダビデパンツ履かせろクレーム会田誠騒動などをみていると、法律を変えるなんて、あと数十年は無理っぽいですけどね。

ややこしい国に生まれたなあ……。

2011-06-19

カオスラウンジ界隈雑感

http://togetter.com/li/151267

Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀村上隆の対話。」

http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267はてブ


この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。

n次創作著作権

なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります

極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないかケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。

人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。

まり量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。

まり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます

繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです

むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしていますふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。


引き合いにだすなら

たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです

今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?

作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL

そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)


今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思いますデュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャン意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムから反動ガチ保守村上隆さえも。

最近の騒動界隈に対する雑感

このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。

これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。

しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。

藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)

そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがいから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです

それ自体はひとつリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです

(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応矮小化だ」とこきおろしますが、彼は矮小化意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)


まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です

2009-01-13

自分語り(了)

DENPA!!!行って来ました。

ここ5,6年で一番いいpartyでした。

掛け値なしに楽しい!!!

昼間っからやってるのも健康的(←こう書いて「おっさんに優しくて」と読む)で◎。

内容、客層、ロケーション、料金すべてに満足できる、レベルの高いイベント

ここまで"熱い"のは昨今ではかなり珍しい。マジおすすめ。ちょっとでも興味のある人は、一刻も早く行くべき。

とまぁ、ここまで書いて小休止。

自分は↓これ書いた人。

自分語り

http://anond.hatelabo.jp/20081223011009

自分語り(補)

http://anond.hatelabo.jp/20081223215937

自分語り(転)

http://anond.hatelabo.jp/20081224054429


「良いイベントだなー。こんな良いイベント久しぶりだー」と強く思ったのですが、

どうも悶々とするものがあり、それをこの2日間考えてました。

んで、marquee ( vol.70「次世代ファンタジー特集」に電刃の特集あり) とかユリイカ増刊号『初音ミク』とか買って

まだわからなくて悶々としてたんですが、主催者の"点と線"さんのブログを見つけてちょっとわかった気になったのでコメントします。

以下はアリバイとして書き残したい文章。もしかしたら読む人によっては不快に感じるかもしれません。

でも、申し訳ないけど気分を害すような文章をアップします。

(なので過去の『自分語り』で不快に思った人は読まないで下さい。)

ユリイカ増刊号『初音ミク』はほとんど読んでないのですが、

冒頭の佐々木渉氏へのインタビュー『生みの親が語る初音ミクアングラカルチャー』が抜群に面白い。

これだけで1,200円出す価値があります。今現在初音ミク関連の資料として最も価値のあるものじゃないでしょうか)

あと、情報量が多いのでメモ書き(コメント)でとどめます。

きちんと書いてる暇がないので。

では先に進みましょう。


//////memo//////

[前提]

テクノウチさんのブログ

自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説

http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html

自分語り134 - 「超ライトオタク」 で何が悪い

http://www.technorch.com/2008/12/134--.html

自分語り135 - 「超ライトオタク」 ゆっくりした結果

http://www.technorch.com/2008/12/135--.html


電刃主催者の点と線さんのブログインタビュー

ライトオタク

http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html

慟哭 (3)

http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/11/post-15.html

点と線インタビュー

http://besidegames.com/feature/024-01


竹熊健太郎大泉実成の「おたく/オタク」に関する対話

第3回 オタク密教オタク顕教竹熊健太郎氏との対話(1)

http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1019.php

第4回 オタク自意識竹熊健太郎氏との対話(2)

http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php

第17回 オタクだけが残った〓竹熊健太郎氏との対話(3)

http://web.soshisha.com/archives/otaku/2007_1220.php


栃内新,左巻健男 編『新しい高校生物の教科書講談社ブルーバックス,71頁より

生命】 = 【生きている細胞】 - 【壊された細胞



[目次]

1.「慟哭 (3)」を読んで

2.装置(罠)-学校。その後は?

3.人類知に帰ろう

4.あなたはどう思ってるの?

5.ブクマコメに対する返答

6.参照元

------

1.「慟哭 (3)」を読んで

慟哭 (3)

http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/11/post-15.html


「あー、デュシャンか。理解理解納得納得」って感じです。

こう言ったら失礼(ネタバレ)かもしれないけど、電刃はデュシャン - ウォーホール - 村上隆のラインの音楽ファッションverなのねと。

この流れだとたしかに「○○論」は確かに意味を成さないっす。「意味を成さないように働く機構」という罠・舞台装置だから。

(便器語ってもしょうがないし。まぁ、人類史上もっとも「すごい」便器なんだけどw)

次のエポックメイキングな事象はアキバのホコテン復活の時かもーとか妄想しちゃいました。

(補)

レディ・メイド

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89

「泉」に関する個人的な解釈は、「心のヒダへの"effect"を芸術とするなら、

便器にサインして展示会に出しても芸術作品として"アリ"なんじゃね?」と提案している作品

デュシャンは「美術を"effect"とするなら、『美しい』でも『怒り』でも『恐怖』でも何でもいいじゃん」と

美術芸術)」を「拡大解釈」できる素地を作っためっちゃ偉大な人。

(それまでは「真善美」を追求するファインアートが主流だった)

ファインアート

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88


ウォーホールは「キャンベル缶も芸術作品じゃね?」と言った人。

(余談ですけど、村上隆美術史的「文脈」をきちんと押さえてるから海外で評価が高い。

作品オタク的である・でないとかは関係ないです。

美術史をちゃんと踏まえ、理論として一貫しており、装置として実際に働くから「海外美術界」では評価されています)

村上隆「これも芸術作品じゃね?」

ガイジン「あー、そうかもそうかも!!」


(電刃は村上隆と違って商売っ気が今のところなさそうに見えるから、反発(というか"やっかみ")も少ないかもしれないですね。)

ニコニコではちょっとあるみたいだけど)

(補の補)

電刃は「オタク等々を拡大解釈させる"装置"である」と言いたいだけ。

電刃を「芸術作品だ」とは言ってない。「芸術作品」という評価は「解釈が拡大する運動性」において無意味


2.装置(罠)-学校。その後は?

ライトオタク

http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より

庵野監督が『気持ち悪い』でEVAを終わらせた心境から遠くはないです。

はてな民に対しては「気持ち悪い」かもしれませんが、

ホントは「パラレルワールド幸せそう?に学校に行くシンジ(を描いた庵野監督)」が正解じゃないですか?

(「気持ち悪い」は悪い意味ではない。↓参照)

映画エヴァンゲリオンの最後、「気持ち悪い」ってどういう意味

http://news4vip.livedoor.biz/archives/50801624.html

俺は電刃行って目の前ですんげぇかわいい長門がぴょこぴょこジャンプしながら踊ってて、

それ見ながらガン踊りできる幸せに絶頂を迎えそうになったけどなー。

現実」を住みやすくする手立ては、陳腐な言葉(≠「仲良く」)の中にすでにあるのになぁと。

アメリカヲチしようぜ!!」でいいような気がする。オバマ的な意味で。

(別にEUヲチでも構わない。もちろん)




3.人類知に帰ろう

ライトオタク

http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より

正直なところ、その違いって、テクノウチ君の考察のように参加者が共通してポジティブかどうかじゃないかなとw

それで終わりじゃ駄目なの?むしろw。

(中略)

僕や参加者がそうだと言ってるんだからそれでいいじゃないと思うんだけども、

それでも解釈知的経験の枠)の媒介を人は要求する社会学囚人なので、

僕なりにそれ用の答を探求してみたんですが、もとよりそんなつもりはないので嘘はつけないなあというどうしようもない始末。

庵野監督が『気持ち悪い』でEVAを終わらせた心境から遠くはないです。

関係ないけど社会学部だった僕の卒論は「社会学永遠に社会そのものを追い越せない」というものでした)

(中略)

これは大変ありがたいことですが、DENPAはアカデミックな言説に幽閉されるよりも、ただ好きなものを好きという幼児的で野蛮で原始的な本能に基づいているのも事実です。それもコンプレックスをいだかず堂々と。

僕らは学論の探求ではなくエンターテインメントの探求をしている。

不恰好でも感動はほんものだ。

そのシンプルな行為がこんなにもやりにくく、珍しがられる時代になってしまったんだなあ

と感慨深くなりました。


marquee(vol.70)「次世代ファンタジー特集」より

文字打ちが大変なので割愛。

アート引用者注:「学問」という意味多分に含まれてる)はどこに行き着くために問い続けてるかわからない」というインタビュアーの質問に対し

点と線さん、「ポジティブエネルギーと、それを循環させる回転運動がコンセプト」と返答

点と線さんが社会学フレームで世の中をすっきり見れるように、

若い子にもその手段をゲットできるような仕組みを作ってあげたいなーと思ってみたり。

年下の子に「学問楽しいよー。いや、むしろキモチイイとすら言える!!」としか俺はまだ言えてないけど。

カウンターカルチャーであるはずの「学問」が、「幽閉」する機構として働く日本の異常性がアレなんだよなぁ)

あと、社会(工)学とかの立脚点がないままのポジティブって、

学生運動とか創価学会とかオウムとかプロザックとかと変わんない気がします。

(「社会工学」について否定する意見もありましょうが、

最近は「死なない程度の失敗ならおk(死なない程度に納めよう)」という考えの人多し)

鶴見済ですら

リタリン規制はやむを得ない

http://tsurumitext.seesaa.net/category/3920016-1.html

と言ってるのだから、たとえ手詰まりでも「ポジティブであればいい」とは言わない方がいいんじゃないかなーと思ってみたり。

まぁ、アメリカとかEUは全然手詰まりに見えないので、「手詰まり」こそが共同幻想な気がしますが。

(個人的にはバンクシーみたいな手法が好き。愛しつつコケにする系。音楽だとBUBBLE-Bさんとか)

バンクシー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC

BUBBLE-B / アムロケット

http://jp.youtube.com/watch?v=54L9vxwpzN8

BUBBLE-B / バブルBのゆく年くる年

http://jp.youtube.com/watch?v=54L9vxwpzN8




4.あなたはどう思ってるの?

オタクって何?

オシャレって何?

大事なものは 何?過去現在未来歴史教養情熱創造破壊

疑問に疑問でお返しします。


----------------------------

5.ブクマコメに対する返答

「面白い」とか「なかなかのもの」とか言ってくれた人ありがとう

レスすると「キモイ」とか言われちゃうので、指摘してくれたコメにのみ応答。

自分語り』のブクマコメ

clonicle 言っていることはまっとうだが、「ジャンクフード」(=人によっては取るに足らない虚像)だと発言することでテクノウチ決断主義者に仕立て上げるのは悪質

決断主義」って言葉意味を調べましたが、よくわからなかったです。

購入厨」みたいな言葉

fuldagap「「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?」が微妙に誤読な気も。「化学調味料うめえ」じゃないかなーとか。総じて現役/引退オタク自己正当化合戦に見える

そうです。たしかに「化学調味料うめえ」なのですが、

化調まで抽象化しちゃうとかえって伝わりにくいかなーと思い「ジャンクブート」にしました。

(「化調」に対応するのが「ビート」だけになっちゃうので。音楽的広がりが欲しかったので「ジャンクフード」と表現しました)


自分語り(補)』のブクマコメ

fuldagap 「全員「アツイ」から、濃淡は金・環境時間の差でしかなかった」ってのは「アツ」くない人が見えにくかった時代がゆえの偽史だと思うなあ

「『おたく』とアイデンティファイされるようなファナティックな人々」が母集団ですから。

熱くない人たちは隠れキリシタン的に「おたくではなかった」。

y_arim ぼくの知る限り、昔だってヌルいひとはいた。だけど時間の経過とともに彼らは「卒業」し、一貫して熱かったひとのみが生き残った。すると「昔は誰もが熱かった」という言説が生まれる。「元ヌルオタ」をどう語るか?

(『タイムマシン』のエロイ的な意味で)幸せで「語り」に対してモチベがない人々に無理に語らせなくていいのでは?

ジャンプの発行部数見れば、「いた」ことはわかりますから。

mkd5 オタクおたく」のうち岡田氏の守備範囲が「オタク」となったってことかなあ/「(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)」これがヌルオタなのでは

「ヌルおた」は言語矛盾引き起こしますが、「ヌルオタ」は新語なので好きに定義しちゃってください。

kanose 面白い。けど、ぬるオタ的なバッシングが昔はなかったかといえば、そんなことはないと思うなー。

ミーハーという言葉などで批判されていたんじゃないかと

竹熊健太郎氏との対話(1)』での解説が一番しっくり来るのかなぁ。

個人的には「ミーハー」ってバカにする奴を馬鹿にしてたので、

おたく全般」にまで広げちゃっていいのかどうかはまだ自分として決めてないです。

6.参照元

は文字数制限を避けるために↓こっちに移動。

http://anond.hatelabo.jp/20090115000935

おまけ

TRANCEジブリミックス集(修正版)【トランス

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1756156

フック

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF

ギミック

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AE%A5%DF%A5%C3%A5%AF






(追記)

ああ、そうかそうか。書きたいこと書き殴ってたらレポ忘れてた。

"DENPA!!!"に行ってきたよ。

http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090113/p1

[音]DENPA!!!には超ライトオタクはいたんでしょうか

http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20090111#p2

[オタク]オタク!! DENPA!!! イエ!!!!

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20090113/1231821064

お三方とそう変わらない印象。

3Fではアニソン流してカラオケノリでオイオイって感じ。2Fと3Fの交流はぼちぼち。曲や3Fの込み具合次第かな。

ロンドンナイトは行ったことないけど、普通ライブとか新宿で昔やってたグルービー・ロックキャラバンとかと相似。

僕は2Fで「普通に」踊って楽しんでました。

テクノウチさんの時間は、3Fのお客さんが大挙していらっしゃいましてまったく踊れなかったので、僕的には一番…w

NHKの方(ETVカメラマンさん)は「アンディー」かなーっとちょびっとヲチしてました。

(こっそり追記)

metamix   きちんとオーガナイズされてる良イベントだっていうのは分かったけど、

その先があるのかどうかをもっと知りたい/クラブピーポーには文化考証なんてどうでもいいんですよ。

要はその現場があるかどうかだから。

「その先」「現場」ってのがどんなものをイメージしてるかにもよるなぁ。

Dir en grey」なのか「RYUKYUDISKO」なのか「初音ミク/ニコニコ」なのか「third summer of love」なのか。

「超ライトオタク」や「越境」云々は主催者も意図してない(?)「バズワードでのプロレス」(@inumashさん)なんで、

どの層がたくさん「ひっかかる/ひっかかってる」かにもよるかと。

(まぁ、お客がみんな「かっこいい/かわいい」と書かれているってことは、

ちょっとキモ目の"いわゆる"「おたく/オタク」はあまりいないってことでもあるような気がするのはきっと気のせい。)

(昔に比べて非寛容な人が減っただけのような気がするのもきっと気のせい。)



(おまけその2。佐々木渉さん、かなりクールです)

佐々木渉】  三年くらいしたら「初音ミク?そんなのもあったね」で良いんですよ。(中略)

まあウチも営利団体なのでもしかしたらヴァージョン・アップ版とか出すかもしれませんけど(笑)

ただ、引くタイミングは考えないといけませんね。初音ミクにまで泥を塗って、

グダグダと退いていくようなやり方は、やっぱり不味いので。

ユーザーさんからも「『ぷよぷよ』を作った会社株式会社コンパイル)が辿った末路を、よく調べておいて下さい」という

有り難いご意見をいただきまして(笑)。良いこと聞いたなぁと。

ユリイカ増刊号『初音ミク青土社、17頁)



(独り言)

ディスコクラブライブハウスイベントホール使用料、全部「ハコ代」って言うよね。

2008-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20080617100229

だらだらと続けてごめん、嫌だったらとめてね。

オレも誤解してたんだけどさ。

ただの便器に名前付けて作品として出した、デュシャンみたいなもんなんかな。

これって狙いとしては、当時、芸術大量生産される時代に入っていて(アールデコだかアールヌーボーだっけ?)、「だったら工業製品として作られたものが芸術になるんですか?、じゃぁこれの便器を芸術ってことにするから芸術は終わりにしようぜ!」っていうメッセージだったんでしょ?

んで、それを取り巻きが面白おかしく囃し立てたって構図に見えるんだよね。まぁ、おれ芸術方面疎いから実際のところ当時の当事者がどういう解釈をしたのかわからんけど、ちょっと調べてみたいな。

http://anond.hatelabo.jp/20080617091235

一つ目の理由に対しては、俺はよく美術館に行って、いい展示だと衝撃を受ける(感動する)んだわ。

江戸時代水墨画なんかが今に伝わってること自体すごいんだけど、その絵が21世紀に生きてる俺に感動を与えてくれる。

それを俺は、たとえば俺の子供にも味わってほしいと思うんだわ。

絵画とか彫刻って、基本的に「ひとつ」しかないのね。印刷されたものなんかじゃ味わえない本物の力があるんだ。

だから、そいつを爆弾なんかで吹っ飛ばされたら困るの。

あ、ちなみに俺が後世に残すべきだと思ってるのは、評価の定まってる古い作品ね。

フェルメールやらレンブラントやら印象派やら江戸時代水墨画やら。

村上隆は・・・しいて言えば、日本サブカルが、西洋に受けてるっていう構図で、

江戸時代浮世絵海外で評価されてたのと同じよーなもんかと諦めてる。

彼の場合は作品以前に、作品をアートとして認めさせるだけの力があったのは、評価せざるを得ない。

やったもん勝ちになっちゃうけど、どんなもんだろうと、ウン億で売れるだけの商品価値をつけたってのは、すごい実力。

ただの便器に名前付けて作品として出した、デュシャンみたいなもんなんかな。

ただ、純粋に作品としてみたら、ぶっちゃけ萌え系のフィギュアのほうがスゴイんじゃね?w

ただし「芸術」といっても世の中には「商業活動としての芸術」と「人の性(さが)的な営みのしての芸術」があるように感じてしまう。

とりあえずは、売れなきゃアートとして認められない。

売れる=価値がある、わけだから。

村上なんかは、「売る」ことを前提にした商業的な芸術で、

描くことを前提にした「表現としての芸術」とはちょっと違う気がしないでもない。

 
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