はてなキーワード: デュシャンとは
佐藤は北予備で平成14年に稼働していた塩塚チューターを知らないわけですが、塩塚チューターは当時からの生徒の印象として頭がスカスカな刑務官みたいな人で
平成29年頃に、 東京大学のマルセルデュシャン研究者である岩佐哲男と一緒に死んだんですね。しかし佐藤は、北九州予備校も知らないし、マルセルデュシャンも
知らないはずですね、そういうのは流行していたので。岩佐哲男が駒場でフランス語を教えていた頃の、時代錯誤社の社員とかも凄いものがあったんだけどそういう層は
社会にはいなくて5ちゃんねるに居るなどして、近年は、銀歯が取れた祭りなどをしているのでなおさら、佐藤の埒外で、5ちゃんねるに居ること自体が気に入らないのではないか。
平成2年に南方小学校で教員だった長友久満がさっき夢に出てきましたがこれで2回目。長友は、平成2年当時から、君たちが30歳になった頃にまた戻ってくると言っていたので
確信犯ですね。佐藤の言動の凄いところは、平成6年に存したことも語らないし、平成11年および12年ならびび13,14年等に存したことも語らないところが凄いというか
晴生の頭の中にですね、結論としてその辺のものは既にないから絶対に語らないという結論があってそれをdeduceするための華麗な技術だけであると晴生の場合は天才的で既に
編み出して結論をdeduceしてるていうんですか、絶対に言わないことの技術的着想が驚愕的で、由緒正しくexactに、過去のことは言わないようになっているところの頭の良さが凄い。
ネイティブ香川民じゃなくて転勤で来た関東地方からの移住者だけど、香川で享受してる文化を挙げておく。
割と多い。もちろん京都・奈良の比じゃないけど、狭い県の割にはあちらこちらに文化財がある。やっぱりなんだかんだで讃岐国は中央に近かったからかな。四国遍路もあるし。
国宝も、建物だけで2件ある。増田の故郷の県は香川県よりずっと広くて人口も多いけど、建造物の国宝がないので、正直羨ましい。近所にある国宝も見に行った。京都や奈良で感じるような、荘厳! という感じではなく、地味な佇まいだったけど、ここで千年近くもの時を閲してきたんだと思うと自然と厳かな気持ちになる。
(追記)丹下健三の香川県庁東館忘れてたわ! 何も知らずに県庁に行ったときに「やたらと作りがオシャレだな???」と思って調べたら重要文化財にもなってる丹下健三作品でビックリした。初めて行ったときには渇水の注意喚起をする垂れ幕がかかっていてそこにインパクトを感じたんだけど、もっと建物自体を堪能すべきだった。
香川で外せないのはやはり金毘羅さん。参詣道にずらっと土産物屋が軒を連ね、色んな年代の奉納記録に出迎えられ、途中に戦後の掃海で殉職した人たちの顕彰碑があったりする。そっか、金毘羅さんって海の守り神だもんな。参道の途中にある表書院には円山応挙の作品もある! 応挙をじっくり見られるのは非常に嬉しい。そして奥社まで歩くとなかなかの運動になるし、何より奥社でしか売ってない限定お守りなんかもあるんで、ぜひチャレンジしてみてほしい。
屋島寺もいいよ。建物がすごい立派なのでそれだけでももう見る価値があるんだけど、宝物殿が地味に充実してて、立派な展示品に目を奪われてしまう。それに屋嶋城っていう、天智天皇の時代に作られた山城も残ってて、地味に観光地としてのポテンシャルが高いんだよな(屋島といえば那須与一、と思うかもしれないけど、古戦場がまったく古戦場感しないので……)。
あと、津嶋神社もレア度が高くてよい。沖に浮かぶ小さな島に作られた神社で、年に1度の夏季大祭(ちょうど今日だった! 忘れてたわ!)の日にだけ橋を渡って行くことができる。年に1度しか買えないお守りなので非常にレアだし、何よりその日だけは予讃線に臨時駅「津島ノ宮駅」が設置され、小さいお子さんを連れた親御さんと鉄道が大好きな大きいお友達がパシャパシャ写真撮影しまくっている。もちろん増田も撮影したよ! ミーハーだからね! 子供の健康と成長の守り神だから子供たちがいっぱいお参りに来ていてほっこりした気分になるし、海の上に架けられた橋を渡って参拝するという体験がもうたまらないよね。
(追記)お遍路さんもいいよね。白い衣装着てお経唱えてる姿を見ると、信仰が生きてるなぁって思って感動する。増田は信仰心薄いからお参りできれば満足なので……
香川県は、江戸時代、高松と丸亀にそれぞれ大名が封じられていた。なので高松と丸亀のそれぞれに当時の藩主の遺産がある。江戸まわりは天領のほかは小さい旗本領とかそういうのばっかりだったから、こういう「数万~十数万石の地方領主のお膝元」は逆に味わえないんよね。
高松の名物はなんといっても栗林公園。松平家のお殿様(水戸徳川家の親戚)が作らせた壮大な和風庭園で、「ザ・和風庭園!」って感じの景色が素晴らしい。秋ごろに行われる夜間ライトアップは絶景と言うしかない。園内にある掬月亭っていう茶屋には抹茶代を払えば入れるんだけど、ゆったりした畳の間で抹茶を飲んで菓子をかじりながら庭園を眺める時間は幸せ。あと、予約すれば手こぎの舟で園内の池を巡れるらしいので、優雅な殿様気分にひたりたい人はぜひやってみよう。園内の土産物屋が充実してるのもいい。「どうだ明るくなつたろう」グッズも置いてあるよ!(あれを描いた絵師は香川出身らしい。知らなかった)
丸亀城は……うん、遠くから見るとすごい立派だね! 松山城とか、他の天守閣と比べて明らかにサイズが小さいというか「大きめの納屋か?」という感じ。でも、よくよく考えたら香川県西部っていう狭い地域を統治してた藩の拠点なんだからこのくらいが適正サイズなんだろうな。全国各地にあったはずの小藩のリアルを今に残す貴重な建築だと思う。あとマジで実際のサイズと遠くから見たときの雄大さのギャップがすごいのでああいうトリックアートじみた建築を作れた江戸時代の職人さんすごい。登城しなけりゃ立派な城に見えるもんなマジで。
気軽に行ける離島が多い。そして離島にはそれぞれ独自の文化や趣がある。八十八ヶ所巡礼の島ver.ってのがあって、小さな島でもいくつもの寺が残ってたりする。これまで行った島で良かったのは以下。
次は小豆島に行ってみようと思ってる。地味に『からかい上手の高木さん』の聖地でもあるんだよね。楽しみ。あと離島が点在する瀬戸内海の景色美しすぎる。日本のアドリア海だろマジで。
意外と充実してる。香川県立ミュージアムは香川史に関する展示をわかりやすく纏めてくれてて満足度が割と高い。廃藩置県の時期に一時期愛媛県に併合されてたけど独立運動を繰り広げて置県を勝ち取ったあたりは溢れんばかりのパトスを感じられる。県庁、松山だったのか……そりゃ独立したいよな、四国の反対側だもん。高松市美術館はなぜか上田薫に力を入れていてよく展示している。デュシャンやらポロックやらはちっとも良さがわからん、という増田みたいな層にも魅力が伝わる絶妙なチョイスで良い。観音寺の道の駅には「世界のコイン館」という展示と大平正芳(香川選出なんだね。知らなかった)に関する展示が両方あって、世界各地のコインや日本の貨幣史を堪能したあと戦後自民党史が学べるという構成になっている。カネの意味が違ってくるでしょうが!
そして「四国村」は絶対に外せない。屋島にあるんだけど、四国各地から伝統的な民家とか農業用の小屋とかを移築してきてて、ぐるりと巡ることで四国各地の文化を体感することができる。一口に四国といっても、山岳部から沿岸部まで色々あって、それぞれの風土や生業に適した家屋の形があるんだな、という当たり前の学びをほんの数時間で得ることができるので、民俗文化とかが好きなら絶対に行くべき。
(追記)四国水族館のこと忘れてた。やっぱり地方の水族館はその土地の魚を展示してなんぼなところがあるけど、四国水族館は地元の魚の展示&解説が充実してるから好き。具体的には滋賀県立琵琶湖博物館の次くらいに好き。アカメの水槽はインパクトあるよね。こんなでかい魚が日本の河川に棲んでるのか……。あと琴平にある「金陵の郷」もいい。金陵っていう香川では有名な酒蔵が運営してるんだけど、日本酒の製造工程を原寸大の人形で再現してあって実質的に日本酒博物館。金毘羅参詣の帰りにふらっと寄って日本酒の歴史や製法について勉強したうえで美味い酒を直営価格で買ったり日本酒グッズを物色したりするの、最高ですよ。日本酒をあしらったマスキングテープ買っちった。
やっぱり何といっても瀬戸内国際芸術祭だろう。去年が開催年だったので増田も行ってみたけど、こんな小さな島にこんなに人が??? って感じになる。残念ながら増田にはあんまり魅力のわからない芸術作品もそれなりにあるんだけど、少なくともそれらが地元に根づいているのは感じ取れるし、国外からもアーティスト呼んできてるのは率直にすごいと思うんだ。外人さんもそれなりに見るしな……
オタク文化でいうと、上で書いたように小豆島が『からかい上手の高木さん』の聖地になってるほか、観音寺が『結城友奈は勇者である』の聖地なので、観音寺の観光案内所に行くとゆゆゆのパンフがもらえるしゆゆゆの絵が描かれた自販機もある。え? TVでアニメは見れるのかって? 聞かないでください……(『プリキュア』『鬼滅の刃』『進撃の巨人』『水星の魔女』は見れたよ!)。アニメ映画もなかなかやってないことがあるし、『プリンセス・プリンシパル』はわざわざ岡山まで見に行ったからね俺。あとやっぱり「仕事帰りにあの映画見てみるか」みたいなのは難しい。どうしても「今度の休日にイオンモールで映画見よう」になっちゃって、「空いた時間で試しに見てみる」的行動が取れなくなったから鑑賞本数は減った。
まあ……これは東京・大阪並を求めるのは無理ですわ。岡山と比べても明らかに書店の規模がショボい。書店めぐりはできるけど、池袋のジュンク堂みたいな大型書店めぐりは不可能。東京・大阪なら確実に置いてあって岡山でもたまに置いてあるあのシリーズが置いてないのか~! みたいなのがあるから、マイナーな本は諦めるしかない。もちろん売れ筋の本とか有名どころのシリーズを読む分にはなんも不自由はないわけだけど。
でもジュンク堂みたいな東京のチェーンよりも宮脇書店っていう地元チェーンの方が強いのは文化を感じる。ブックカバーのデザインと紙質はすごい好みだけど、文庫・新書のブックカバーは上下が固定されてない形式のやつだから、ハードカバーや選書を買うときは宮脇書店に行って文庫・新書が欲しいときはジュンク堂とか他の店に行ってる。宮脇書店は車がないと厳しい総本店と高松の市街地のド真ん中にある本店(いちおうビルがまるごと書店になってる)があるけど、総本店はまだ行ったことないんだよな。やっぱり総本店だと大都市顔負けの品揃えだったりするのかしらん。
あと、高松のアニメイト、ラノベのシュリンクが全ての本にかかってるわけじゃなくてすげえ牧歌的。まさかアニメイトでラノベを立ち読みして買うかどうか判断できるとは思ってなかった。東京だとそんな性善説運用は無理でギッチギチにシュリンクかけちゃうからなぁ。
(追記)ルヌガンガ、知らなかった! ありがとう! あと宮脇書店について書き忘れてたけど、地元チェーンだけあって香川や四国・岡山に関する書籍がものすごい豊富だし、県内のたいていの街に支店があるのもありがたい。香川の文化を支えてる企業だと思う。品揃えについて補足すると、本当に普通の読書ライフを送る上ではまったく支障はないよ! Y出版社から出てる◯◯学のガチ学術書シリーズが置いてない、とか、F社から出てる△△学のブックレットが見当たらない、とか、ぎゃああああ国内の××方言に関する本が2冊しかないじゃんジュンク堂書店池袋本店ならダース単位で置いてあるのに! とか、T大学出版会やH大学出版局の最新刊をちっとも見ないな……とか、そういう話だから。
ご飯はやっぱり、うどん! あちこちにお店があって楽しいし、セルフサービスの店に入ったらうどん玉を湯がくのも客がやるタイプの店で「セルフってそういう……」となったりした。あと釜揚げ専門店以外では釜揚げうどんを頼むべきではないという暗黙の掟もある(調理に時間がかかって他の客を待たせるので)。ただし基本的に地元民向けのファーストフードなのでまったく旅行者には向いてない。
旅行者向けなのは、むしろアレだろ、骨付鳥とかそういうのだろ。骨付鳥はやっぱり丸亀に本店がある「一鶴」。もちろん丸亀以外にも支店はあるけど、まあ一度は丸亀の本店に行っておきたいよね。鶏は雛が柔らかくてオススメ。ビール飲みながら骨付鳥食って、シメに鶏めしを食うのが最高。一鶴の鶏めしはマジで美味いから香川に行ったら絶対食ってくれレベル。一鶴以外にも骨付鳥の店は色々あるので、好きな店を開拓してみるのも楽しいぞ!
他にも、高松駅にある地元民向けの立ち食い寿司屋とか、三豊のラビオリ餃子屋とか(モチモチで超美味い。冷凍のやつを通販もしてるらしいよ)、香川産の食材を使った定食をお手頃価格で食べられるまいしょく家っていうローカルチェーンとか、色々美味しいお店があるので、ぜひ香川ごはんを味わってほしい。
そしてカフェ。香川県でカフェめぐりをしたらもう東京のカフェになんて入る気が起きなくなる。広々とした店内で好きに席を選べるスタバなんて初めて入ったわ……(丸亀のスタバは市民交流センターも兼ねてるから店内に本棚があって自由に本を取って読めるんだよな。最高かよ)。店主にとっては嬉しくないかもしれないけど、香川県の人口が「カフェが複数ある」「混んでない」を両立できる最適の人口規模なんじゃねーの感もあるな。あちこちに落ち着いて座れるオシャレな喫茶店がいくつもあって嬉しい。あと高松の商店街には和菓子屋さんが何軒もあって、そこの喫茶コーナーは和な甘味を堪能できてとてもよい。
イチオシは高松の片原町商店街にある「了見」。センスの良い家具が飾られた落ち着いた雰囲気の店内で窓際から商店街の行き来を見下ろしながらお茶が楽しめる。お茶も、ポットで出てくる紅茶以外に、県内産の緑茶を冷やしたガラス製の急須に入れて出してくれたり、県内産の緑茶を使ったソーダがあったり、と、独自メニューが色々あって飽きないし、スイーツも美味しい。そして特に混んでないので長居しても怒られない! 東京とか札幌だったらこんな店並ばないと座れず時間制限とかかかるだろ絶対。こんな良い店でのんびりできるんだから、やっぱ地方都市は住みやすいわ~。東京は人多すぎやきん、落ち着いて座れないんよ~。
とりあえず、東京暮らしが長い関東出身者だけど、香川の文化を堪能してるよ、というお話でした。やっぱり東京のメリットは集積にあるから、マニアックな本がいっぱい並んでる大型書店に毎週通いたい! とか、東京国立博物館と国立科学博物館と国立西洋美術館を全部めぐりたい! とか、マイナー映画を劇場で見たい! とかの逸般的な文化的ニーズに応えるのは東京の方が上。仕事帰りにちょっと立ち寄る、みたいな気軽な消費もしやすいし。でも、忙しなかったり混雑してるのは嫌だ、ほどほどにのんびり文化を享受したい、というなら、香川くらいの地方がちょうどいいんじゃないかなぁ、と思うのですよ、はい。
(追記)住み心地でいうなら、「雨が少ない」。これ。マジで水害がほぼ絶無。去年関東が台風で大騒ぎになってたときも特に被害はなく「あ、なんか大雨降って早明浦ダム埋まったわw」くらいの感じだった(被災地の人には申し訳ないが)。もちろん雨が少ないから常に渇水の危機はあって、一昔前は一般人も取水制限とか受けてたらしいんだけど、少なくとも増田は住んでて水に困ったことはない。「水を節約してください!」っていう行政からのお知らせは色々来るけどね。雪も降らないから滑って転んでタブレットを台無しにしたりしないので、気候で言うなら多分岡山の次くらいに住みやすいのが香川なんじゃなかろうか(岡山は水あるからね……)。
デュシャンの泉でも見てみるといい。
前提として美術は自然そのものは扱わない。自然の景色が美しく、それに感動することは素晴らしい体験だが、それは美的体験とは異なる。あくまでも人が意図を持って制作したものを対象とする。現在では自然そのものの美しさを描き出そうという作品の評価は高くなりにくいが、自然を題材に人が意図を持って何かしら工夫して表現しているなら、それは高く評価される可能性がある。上述の話からの逆張りとして、「あえて意図を排除した作品」というものもある。つまり、「意図を排除するという意図を持った作品」として美術の概念に挑戦する作品である。
このように現代の美術はその概念の拡張の歴史によって形成された複雑なものとなっており、何がアートかは「アートワールド」が規定するという言説もある。
デュシャンは、レディメイドという、既製品を作品として示し、自ら手を動かして制作したものだけが美術ではない、美術の概念を拡張した。美術にとって「美しさ」はいまだ重要な価値のひとつだが、美しくなくとも重要とされる作品も誕生している。それに付随して、快だけでなく、不快さを抱かせる作品も評価の対象となった。作品は多様化した。一時は、作品の中で表現された情報だけから評価をすべきだという話もあったが、今は作家の意図や社会課題、美術文脈などを踏まえた評価が一般的になりつつある。評価は総合的だ。現代美術は右脳だけでなく、左脳も使って美的経験を得るゲームなのだ。人々の変化とともに現代美術も変わる。つまり、その時代に合った作品が評価される。評価は複雑で可変的で相対的だが、それを面白いと思うかどうかは、人によるだろう。
ちなみに、作品について、鑑賞者が見たいように見ればよい、という言説については、本人の中で完結する場合は、自由にすればよい。それが内心の自由だ。しかし、他者に作品について、感想を話すなど、表現する際には、描かれているものの認知、そこからの美的体験、作品の背景など適切に感じ・知ることが必要だ。正解はないが、押さえるポイントはある。それが話し合う土台になる。
マーベル映画シリーズの人気ランキングでもトップ3に入るほどとか言うので見たんだけどさ。
メインキャストみんな黒人だから云々とかに価値を感じない人から見たら、マーベル内では並の出来じゃない?
マイティソー、スパイダーマンホームカミング、ドクターストレンジ、インフィニティウォーくらいの出来。
(ちなみにそれ以下はソーダークワールドとエイジオブウルトロン。
俺のトップ5はエンドゲーム、アイアンマン3、ウィンターソルジャー、シビルウォー、アントマン&ワスプ)
なんかブラックパンサーって、化学調味料不使用で作ったラーメンです!(味は微妙)とか、デュシャンの泉とか、絵の具に血液を混ぜて乳首で書いた絵とかそういう系な気がすんだよね。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 50 | 8710 | 174.2 | 66.5 |
01 | 33 | 3450 | 104.5 | 44 |
02 | 43 | 9031 | 210.0 | 42 |
03 | 34 | 3520 | 103.5 | 45.5 |
04 | 9 | 1144 | 127.1 | 80 |
05 | 6 | 259 | 43.2 | 31.5 |
06 | 19 | 6321 | 332.7 | 59 |
07 | 56 | 5180 | 92.5 | 42.5 |
08 | 45 | 5080 | 112.9 | 30 |
09 | 66 | 3977 | 60.3 | 32 |
10 | 90 | 6664 | 74.0 | 40 |
11 | 84 | 4453 | 53.0 | 31.5 |
12 | 101 | 11540 | 114.3 | 36 |
13 | 108 | 6956 | 64.4 | 36 |
14 | 64 | 5403 | 84.4 | 37 |
15 | 92 | 4924 | 53.5 | 28 |
16 | 81 | 12389 | 153.0 | 26 |
17 | 89 | 4807 | 54.0 | 31 |
18 | 145 | 6457 | 44.5 | 29 |
19 | 178 | 11704 | 65.8 | 33 |
20 | 193 | 10773 | 55.8 | 31 |
21 | 133 | 6685 | 50.3 | 29 |
22 | 122 | 8364 | 68.6 | 33 |
23 | 86 | 8058 | 93.7 | 34.5 |
1日 | 1927 | 155849 | 80.9 | 33 |
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現代美術を理解してることと頭の良さは関係ないんだけど、なんでこういう人が多いんだろうね。
>一般人は印象派以前の藝術も理解できないんだけど、あれらはまだ大衆的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。
言ってることがよくわからない。理解っていうのは神話とかの寓意性のことかな?それとも絵画史の流れや歴史的な背景とかかな?研究者でもなければ解説で補えばいいんじゃないかな。
>それまで大衆的な要素+芸術的な要素だった美術絵画(彫刻)が、現代アートへと移行する時に大衆的な要素を切り捨てたのね。より純粋な藝術に進化するために。
さらによくわからない。コンセプチュアルアートやミニマルアートが派生してきたことについて言っているのかな。現代美術はどちらかというと、大衆的な美意識を取り込んできた歴史だと思うんだけどな。
>だから、それまで大衆部分だけを受け取って喜んでた一般人は急にわからなくなりヒステリーを起こした。
>だけど、藝術理解者は印象派以前にも藝術部分しか見てないから一般人が何を騒いでるのかわからない。
もっとわからない…。歴史的に見ても、新しい表現表現がでてきて反発するのはまず芸術家というか、君の言う「藝術理解者」そのものなんだよね。
>一般の人って、工芸品の凄いやつが現代アートになるとか勘違いしがちだけど(オタク=アート論もその変奏)、全く質の違うもの。
>工芸品って、部屋をひすたらゴミひとつなく綺麗に掃除するようなもの。クリエイティブじゃない。
>日本のエリート(東大京大文系理系とか)って教養がない極東の田舎者だから、クリエイティブを理解できない。すぐに「工芸品」を持ち上げる。怖いんだろう。自分に理解できない藝術が。佐藤可士和デザインですら大多数は理解できないんだもの。あんな教科書的なものですら。
うーん、話がごちゃごちゃだね。工芸品も現代アートになるよ。オタク=アート論は関係ないよ。工芸ももちろんクリエイティブだし、掃除とは関係ないよ。
ただ、役所的なところで工芸というかテクニック重視のものが持ち上げられるのは仕方ないね、わかりやすいし理解も得られやすいからね。
佐藤可士和デザインは受け入れられていると言えるでしょう。個人的に残念だったのはザハかな。
>とにかくアジアって文化後進国なのね。トップの日本ですらこうなのだから。東京"国立"博物館がデュシャンと日本美術を脈絡なく展示してホルホルしてるレベルだもの。
アジアを文化後進国と見なすような西洋中心的な視点から脱却しよう、というのがまさに今の現代美術のメイントピックの一つだと思うんだけど、大丈夫?
>まず日本に生まれた時点で、現代アートを理解するには圧倒的に不利。
それはそのとおりなんだけど、「アメリカに生まれた時点で萌えアニメを理解するのは圧倒的に不利」と言ってるのと同じなんだよね。それはそうでしょう。
? 例えば聖人の像なんかは大衆啓蒙用だよね。想定してる歴史の範囲が狭すぎるのかな。
>民主主義の恩恵で、一般人も美術館で億の作品を数百円で見れるようになっただけで泣いて喜ぶべき。
>そしてあれは、将来のお客さんとアーティストの入り口としてやってるの。1000人に1人、将来アートに貢献する人材がいるかもしれないと信じて。
そんなこと考えてる人いないと思うなあ。
>金持ちにもアーティストにもなれない一般人はまあ、おこぼれで"文化的"コスプレしてインスタグラムでもやればいいんだと思うよ。
アジアは文化後進国というが、既に中国のアートシーンが世界を席巻したのすら10年は経過している
今、中国が来てる!なんて言ったところで既に周回遅れなのだが、
日本はそこから更に周回遅れ状態なので、今だにデュシャン展なんか見て喧々諤々やっており、
一言言っておくと、前澤はアートのコレクターとしては3流以下である
バスキア、ピカソ、ウォーホル。既に評価の確定した前世代の作品を高い金出して買ってるだけで、
欧米の一流アートコレクターのように、積極的に若いアーティストを発掘したり、
従来のアートに新しい価値文脈を生み出すようキュレーションができていない。
如何にもアート後進国の教養なき成り上がりのアート趣味という感じが薄ら寒いばかりである
現状だとBRICSあたりの金の流れの速い経済成長国家のアートにキャッチアップできていないようでは、
しかし、30年にも及ぶデフレ不況によりすっかり貧乏国家となった日本では、
文献もほとんど既に死んだ潮流となった欧米アーティストのものばかりで、
おお、はあちゅう。君は僕のミューズ。美術館に囚われし姫。白鯨の住む大海原を優雅に泳ぐ人魚姫。清らかな、泉のような流れに逆らい、君を辿ればあたりは異臭。水は目に見えて濁りゆく。あたりは糞尿まさに下水。たどり着く先は便所小屋。きっとそこは、君が見たアンモニア香る素晴らしい景色が広がっているんだね。
おお、はあちゅう。君は知っているか。桜の樹の下には屍体、枝の先には熟れに熟れた実がたくさんたくさん実っていることを。傍ら君は、満開のサクラ色めくサクラ通りを、電気仕掛けの華やぎで演出することに勤しんでいたね。知ってるよ。その下にも屍体が埋まっているんだ。君はその屍体を、屍体たちの透明な苦しみを、海の巫女として色めく言の葉にして拡声器に載せ、またたく間に大海原をその言の葉の色で埋め尽した。ほんとうに圧巻だった。
おお、はあちゅう。君がその傍らで、手に取り玩んだのは、大海原に映った桜の実の影だろう。それが象徴する苦しみは限りなく透明に近いブルー。チェリーの記憶を持つものにしか真っ赤に見えない。おお、はあちゅう。僕はその色のない影に、色を、限りなく目立つ彩色を試みたんだ。おお、はあちゅう。君はやっぱり気づかなかった。僕は、君の知らないところで大海原に流れ薄れ溶けて消えていくその悲しみをぼんやり眺めていたんだ。
おお、はあちゅう。君は清らかな海の巫女。君を取り巻く警備員が、拡散された言の葉の色の濁りをたしなめたね。それは僕の、僕たちの悲しみの色だったんだ。おお、はあちゅう。君は眩しい。目を覆わんばかりさ。君と僕たちが生み出す摩擦は火花を放ち、みるみる海を漂う言の葉を真っ赤に染め上げた。
おお、はあちゅう。君は炎の歌姫。君の鎮魂歌は虹色の原油。おめでとう。君は油田を掘り当てたんだ。いつ海の奥底で地盤が動いたのかはしらない。たまたまそこから溢れたのが糞尿まみれの原油で、本当にたまたま君の真下だったんだ。君は、限りなく透明に近いブルーだったチェリーの悲しみが誰の目にもわかる熟れた警戒色に変わったのは何時?と歌う。コウモリのように、君を断罪する理由が黒い灰になって宙に舞い、空を覆い、世界は太陽の光を失いほの暗くなった。悲しみと怒りと煽りが雑じったショッキングピンクのグラデーション。超音波、高音波、波と波がうねりぶつかりくだけ、大荒れが君の歌声を掻き消す。灰色が充満する世界で炎に照らされた君。おお、はあちゅう。君は、もう、真っ黒。
おお、はあちゅう。クー・クラックス・クラン、ナチス・ドイツ。君もすっかり差別主義者。信じられるかい。君たちは、かつて私を悪から守るヒーローだったんだよ。黒人、ユダヤ人、童貞。その他、たくさんの悪を教えてくれたね。私は彼らを人間と思わず、ムチで打ち、十把一絡げに大量虐殺したんだ。でもね。海の底で地盤が動いたんだ。こくじんはにんげん、や、ゆだやじんのくるしみ、そして、どうていのかなしさ、は鮮やかに色づいたんだ。一方、クー・クラックス・クランの白衣は黒衣に。カッコいい正義の軍団ナチス・ドイツは糞尿まみれになった。はあちゅうは真っ黒。海の底の亀裂から海上に、吹き出した糞尿臭い原油の黒さは、君たち差別主義者を見分ける目印さ。
おお、はあちゅう。君は知っているか。ライトポリティクスのナイトが存在することを。誰かの祈りの言の葉に呼応して、どこからともなく現れて、海の底を伝説の棒でぶっ叩くのさ。おお、はあちゅう。君が悪いのさ。まさか糞尿くさい原油溢れる亀裂の真上に君がいるなんて思いもしないじゃないか。君もびっくりだろう。でも警告はした。そしてそれは君に届かなかった。おお、はあちゅう。でも安心して君をひとりにしないよ。今、君を嘲笑して、バカにして、消えろって言っている私たちの内の誰かも、人間を人間と思わず、無知でムチを打ち、大量虐殺を楽しんでいるんだ。でもね。またいつか海の底で地盤が動くんだ。きっとまた正義の騎士が軽い感じに(ライトのナイトがライトに)伝説の棒で海の底をぶっ叩いて、吹き出した原油と糞尿がそれまで高らかに正義を掲げていた誰かの頭に直撃するんだと思う。
ねぇ、はあちゅう。この現代アート、バカみたいで笑えるだろ。もし君がこの額縁の中に真っ黒、糞尿まみれで存在しないならば。でも、だからこそ笑えよ。君を人とも思わない未来の差別主義者である私をも。
確かに、言われる通りピカソ、ビートルズも過去のオリジナルの上塗りだと思う。
ただ、悲しいがなそれらは時代が進むにつれてオリジナルからコピーへと進化し続けるしかない。
近現代の技術発達に伴いもうオリジナルがどうとか盗作がどうとかいう時代ではない。
過去にトリスタン・ツァラが唱えたダダイズムから生まれた、デュシャンのレディメイドにしても既製品という概念をオリジナルと捉え、それを開き直って芸術としか呼んだ。創造は概念として独り歩きし始めたのだろう。ましてや写真や映画は複製芸術という言葉通りオリジナルの芸術作品なんてものは、今の現代はほぼ存在しない。ご存知の通りそれらを皮肉ってアプロプリエーションという表現もある。
オリジナルが正しいという概念を捨て、オリジナルに過去の作者の人生観や経験、普遍的観察を植え付けて概念を形や文章にして創り上げていくことが現代の創造であると個人的には考える。
http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556
>当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。
>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。
>作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、
>李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、
ごもっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、
一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが
真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。
作家と作品と場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対に必要?本当に?
他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャンの作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?
芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で
芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。
結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから。
アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身と作品との戦いがある。
アーティストがアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、
ダミアン・ハーストの『ナチュラル・ヒストリー(ホルマリン漬けサメ)』なら、
それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに
そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、
>しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。
>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。
>芸術というものの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。
結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、
それならば彼女が就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身の出来事の記述に終始してることに納得できる。
でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論と
「芸術というものの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。
http://anond.hatelabo.jp/20150111070135
を書いたものです。
mahomi4 全く的はずれすぎ。
というコメントがありまして、この人の見る当を得た見解ってのはどういうものなんだろうとブックマークをたどったところ、
http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
という記事にたどり着きました。扱っている事実が同じなのに見解が正反対というのもなかなか面白いのですが、少々以上に気持ち悪いと感じたのも事実です。
その気持ち悪さを説明するのも手間がかかるのですが、やってみますと、
親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として
平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、
うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に
あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ、
(今朝のLe Mondeにはシャルリーの絵に対して今でも怒っている
アンテグラシオンやライシテの実態について、その限界を認識しながらもルソーまでひもといて、全体的にはフランス万歳!とまとめている点です。ベルばらのオスカルでしょうか。
私がすごく気持ち悪いと言うのは、こういうことをフランス人が言うならまだわかるのです。マジョリティの側にはどうしても見えてこないものというものがあります。それは善悪の問題ではなくて立場の問題です。
有働出人みたいな人がそうでしょう。まあ、あの人の活動はそれなりに有意義な部分がありますが、あの人に代表されるような白人マイノリティは、有色人種の国、それも支配階級にはならない日本や韓国に来て、初めてマイノリティ性というものを味わうことになります。そうすると見るものさわるものすべてが刺々しく感じられる。
アメリカにいる時は警察官が黒人を狙い撃ちにしてもあまり気にもしていなかったような人が、職務質問を日本の警察官にされると激怒する。年間何十人と言うレベルで何とかバッシングで死者が出ているオーストラリアから来た人が、じろじろ見られるくらいで韓国はレイシストと騒ぎ立てる。
こういうことは日本では私たちがマジョリティだから言われて初めて気づくという面もあります。言われてもただ反発するだけということもあります。自らがマイノリティとなった時に、マジョリティである時の視線・態度をかえりみるにまでなれればいいのですが、残念ながら、女性に暴力を振るう黒人男性、同性愛者を差別する女性は珍しくありません。
そしてそれを更にマジョリティの側が、見ろ見ろ、連中はこんなに野蛮だぞとはやしたてる。
あるドイツ人と話していた時、我が国は民主的でリベラルで、世界に冠たる我がドイツ、みたいな話になって笑ってしまったのですが、まあそれはその人個人の話なので、ドイツ人って全然変わっていないよねとは言わないでおきましょう。ただその人には人種差別はどこにでもあるけれど、東洋人がしつこくチンチョンチャンとまとわりつかれる国はドイツ以外ではそんなにはない、年間百人以上ヘイトクライムで殺されている国はそんなにはないということは「見えていない」のですね。
リベラルであると言うことが、他者を見下すこと、見ろ見ろ連中はこんなに野蛮だぞってなることが、リベラルがそのためのエクスキュースになることがあるのです。
リンク先の記事の何が気持ち悪いかと言えば、日本人で、パリに住んでいて、未だにシャルリー・エブドに怒っている中学生は新聞の記事でしか見たことがなくて、見えないゲットーに守られていてマジョリティのような顔をしている、それがすごく気持ち悪いのです。
国民戦線のルペンだって、アンテグラシオンは同化政策と言う意味で、ライシテはイスラムを強制的に同化せしめると言う意味で大賛成なのですからね。
歴史をひも解いて言うならば、フランス革命以後、フランスは確かにリベラルな原則を打ち立て、それを徹底してきた歴史があります。公平を期して言うならば、第一次世界大戦後、日本が列強に要求した人種平等の原則に英国とアメリカは反対しましたがフランスは賛成したと言うことも付け加えておきましょう。
しかし同時に、そのリベラルでライシテな共和国下においても、フランスもまた数々の非道をなしてきたことは忘れてはなりません。
フランスでは支配層の横の流動性が高く、文化人、メディア関係者が政界に横滑りすることも珍しくはありません。新聞人であったクレマンソーが第一次大戦期のフランスの首相であったように、エリート層は全体として支配階級を形成しています。ポール・デュシャンは二十世紀半ばのジャーナリストで、第四共和政期にアルジェリア行政官に就任して、監獄を視察しています。その時、アルジェ独立派の囚人たちの身体に、拷問の後があるのを見て首都に報告しています。その拷問の傷跡は、デュシャン自身の身体にもありました。ナチスに捕らわれていた時に拷問された跡です。
パリ解放の日の記録をサルトルが書き残しています。ルクレール将軍に率いられた自由フランス軍の入城をもってしてナチスのパリ占領は終わりを告げて、自由だ!自由だ!というはじけるような喜びを書いています。そうして成立した自由なフランス、ライシテなフランスの下でアルジェリアでは拷問が行われていたのです。
インドシナでのフランスの動きも決してほめられるようなものではありませんでした。フランス当局もいちまいかんで行われた人身売買はナチスから解放された人たちの手によってなされたものですし、フランスはインドシナ独立を抑えるため、アメリカに対して原爆の使用を執拗に求めています。これも、自由なるフランス、言論の自由なフランスの体制下でなされたことです。
私はいちいちフランスの過去の悪行をあげつらって、批判したいのではありません。フランスのリベラルな諸制度も国家制度の補完部分であるにすぎず、国家制度そのものを、相対化して批判するようにはなっていないということを言っているのです。フランスの内部にいるシャルリー・エブドは水の中にいるため水の重さを知りません。自分がネジであるに過ぎないことを理解できていないのです。それは結局、彼の中にマイノリティ性がないからであってマジョリティ側の暴力について無自覚であったからです。能力の問題ではありません。性格の問題です。
批判と言うものは嘲笑や侮辱にならぬよう、あるいはそうなっても構わないのは権力の側に対してのみ、その注意深さが必要です。風刺画というメディアは明らかに全方位になす批判の方法にはむいていません。
「市場で評価される作品が良い作品」が、いまの現代美術の評価軸。
そして「アートマーケットの観点からは、作品の値段はほとんどの場合キャンバスと絵の具代や労働時間などではなく『コンセプト』の値段なのです。」( http://www.amazon.co.jp/dp/4902078171/ p.182)で、村上隆はコンセプトで勝負している。
批判者の批判の一つに「村上隆作品には絶対的な美がない」というのがありそうだけど、そこを問われるゲームを村上隆はしていない。
「あんなのパクりだ」も同様で、作品自体はパクりでもなんでも良くて、そこにどう「コンセプト」を見出すかが重要。
「あんなのパクりだ」論法でいくんなら、デュシャンの便器はどう解釈するのか?
「美術とは綺麗な絵のこと。それがない美術館はおかしい。だから21世紀美術館は駄目」という考え方と、「アートとは絶対的な美のこと。それがない作品はおかしい。だから村上隆は駄目」という考え方が似てると思いました。