はてなキーワード: 歴史的とは
法学:ほぼ実務に即するので、最高裁判決を頂点にある程度の客観性は担保されてる。ただ、憲法学は宗教論争化しており、政治学側からの批判が多い。海外の考え方を持ち込む意欲は強いが、逆に日本の考え方を海外に発信しようという気概はほぼない(知らないだけかもしれないけど)
政治学:2000年代初頭には「ポリサイ頑張ろう(政治を科学する、政治という現象をデータ分析的な手法で考えよう)」みたいな機運があったけど、どうもうまくいってないっぽい。直近の状況は詳しくない。日本の政治思想を海外発信する人はあまりいないけど、分析手法は共有も兼ねて海外でも発表してそうな印象
そもそも、社会学や政治学は表象を(知られているものとは別の角度で)著述することで新たな人間観、社会観、新たな概念を生み出す(例:円柱は正面から見たら長方形だけど、上から見たら円だよねみたいな)ことに価値を置いてる/いたので、どうしても自然科学的なアプローチとは相性が悪かった(歴史的に"天才のひらめき"によって前進してきた)。
とはいっても、それ(天才待ち)だと理論は進展しない(しにくい)し、トンデモ理論であふれちゃうので70年代以降はデータ分析的な手法で表象を改めるという手法が試されてる(道半ば)。
査読に関しても、個の集合体である(カオス的な)社会を扱っているので、反証はいくらでも可能で、大規模な社会実験が必要になる追試が事実上不可能なのでなかなか難しいと思う(こなみ)
マジかよ、ローカルで普遍性のない保全生態学とか消え去っていくべき学問分野だったんだな。ニッポンバラタナゴとかイタセンパラとかアユモドキとか、ごくごく限られた人にしか興味を与えないもんな。
超新星爆発とか一過性の極みだよな。個々の超新星は一度しか爆発しないもんな。天文学もいらねえな。
古生物学とか何で存在してるの? 既にいなくなって追試もできない生物の研究することに普遍性はあるの? そこから普遍的な法則とか導き出せるの?
人文系は研究対象として地理的にローカルかつ繰り返しはあるかもしれないけど一過性の現象を主に扱う以上、
研究内容自体がごくごく限られた人にしか興味を与えずほとんどは歴史的資料の価値すらなく消え去っていくものが大半だと思う。
ここが人文系が宇宙共通の普遍的真理を研究対象とする積み上げ塗り替え式の自然科学や数学と大きく違う点だけど、
国際的な基準による客観的な研究評価が難しいとなると、目的と効果について国民に対する明確な説明責任が求められる、
科研費などの税金ベースの競争的研究資金の枠組みに組み込んでいいものなのかは正直疑問なところではある。
政府(主に財務省)が文系学部の縮小の方向に動いているのも、こういうこういう見方をされている側面が強いんじゃないだろうか。
「人文学・社会科学の国際化について」(独立行政法人日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会 p.73-75)
https://www.jsps.go.jp/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf
http://sociology.jugem.jp/?eid=277
Laudanの研究伝統論による社会学理論発展法の考察 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_41/_pdf/-char/ja
日本の社会学には「学説研究」と「理論形成(構築、発展含む)」の2つがある。
「学説研究」とは優れた理論を適切に読み、解釈することである。
「社会学」を欧米から輸入した日本では、この「学説研究」が(すくなくとも2000年代まで)社会学の中心となってきた。
一方、「理論形成」は社会の諸問題(経験的問題)を「以前より効率よく解決する」ためのものである。
創造的で想像力が必要な仕事であり、歴史的にはフーコーやハーバーマスのような一部の天才的な英雄によってなされてきた(英雄史観)。
例えば、新しい人間観や社会観の創造・採用、適切な概念を作り出すことがこれに当たる。
日本でも「学説研究」から「理論形成」へと移行すべき時期なのだが、「どうすれば理論を形成できるようになるのか」というハウツーが世界中のどこにも未だ存在しない。
1970年代のアメリカでは理論構築のためのテキストが数冊出版されており、
1.学説の専門家ではなく,統計や数理モデルに詳しい研究者によって書かれており,
といったものであった。
データの収集・分析が重要であるという考えは社会学の「統計学化」として社会学者からは懸念されていた。
これは理論形成はデータから帰納や命題からの演繹によってのみなされるわけではないからである。
(「社会学の理論の役割」を考える際、統計学化された社会学では認識論や存在論、人間観や社会観などの哲学的な問題が脇に追いやられてしまう)
また、理論を発展させるためには「解くべき問題の発見(未解決問題の発見)」が必要である。
「なにが未解決であるか」「すでに言及している・使える学説はないのか」を知るためには、今までの学説の研究(研究伝統の基本的な文献)が結局のとこと必要となる。
まとめると、社会の諸問題(経験的問題)を解くにはデータの収集や分析が重要であるが、手法の問題(概念的問題)の解決への手掛かりは学説の研究の中にある。
凡人であればあるほど、二兎を追うべきなのである。
(まとめここまで)
他
https://twitter.com/kaya_hojo/status/1049257254552125440
私は研究者というよりコラムニストになりたかったんだな。もともと東浩紀と上野千鶴子、大塚英志や宮台真司に憧れて社会学を志したのだから、研究者というよりは表現者への憧憬が強かったんだろうな。でも社会学を学んだ6年間はすごくキラキラしていて充実していたよ。合掌。
人間は男女どっちかに属しているから、ジェンダー論の取り扱う戦場から逃げ場がないんだよ。オタク論ならオタクじゃないと自認してる人は無関係だと離脱できるし何ならオタクをやめることによってその論争から逃げてもいい。でもジェンダー論は無理。耳をふさいでもいいけれど、知らないどこからか撃たれて実社会でダメージを負う可能性すらある。
究極的には、男も女も、言ってるのは「もうこれ以上私たちから奪うな、責めるな、いじめるな」なんだよ。
増田では「フェミは強欲でどんどん自分たちの利権を拡張しようとしてる」みたいな批判が良くなされる。それそのものの真偽は横において、真だろうが偽だろうがそれとは無関係に、フェミは(そして女の多くは)「もう十分わたしらは被害者なんで、歴史的に見てやられてきたんで、これ以上要求しないでくれませんかね」っていう被害者意識がベースなわけよ。
んでもって、それは男性側も大差ないわけ。現代社会においてメイン労働力として期待されてる割にはそれに対して精神的な反対給付がないって言う被害者意識を持ってる。重ねていうけれど、本当にそれって被害なのかどうなのか? 本当に差別受けてるの? 受けてるとしてどっちが多いの? ってのとこれは別の話ね。お互い貧乏くじをひかされたと思ってる。内面で真実だって話。
まあぶっちゃけ、日本社会に余裕が無いってのが一番大きいと思うよ。メディアの逆望遠鏡効果みたいなので、自分の不幸が際限なく拡大されて見えるんだよ。みんなもう限界ギリギリに疲れているでしょ。これ以上社会的義務や奉仕を要求されたら倒れちゃう。なんせ俺たち日本人は勝手に自分たちでハードル上げて血反吐吐くのが大好きな民族だから、いつでも限界なのよ。
ジェンダーに限らず、ありとあらゆる場所や局面で、自分の所属するXXXは不遇であるってみんなが叫んでる状況だ。非正規とか、ルッキズムとか、マイナーな趣味のマイナーさとか、都会居住/地方居住とか、世代別とか、学歴とか。それらのうちどれが正当な嘆きかなんてのはあんまり関係ない。内面では真実なので叫びはやまない。
あとはもう声の大きさと、その問題でどれだけ多くを巻き込んで炎上できるかどうかってのだけが重要なんだよ。男女って枠組みはその最大規模ってだけ。
http://scopedog.hatenablog.com/entry/2018/10/07/000000
についての補完です。
上記記事が綺麗にスルーしている旭日旗問題の起こり、よく言われる2011年AFC当時の奇誠庸の発言とメディアの動き、そして日本サッカー協会がどうしたかが次のサイトに残っていました。
http://momolunafever.blog64.fc2.com/blog-entry-618.html
この記事からは日韓戦以外でも旭日旗が問題なく使われていた事から、旭日旗が政治的意図、差別的意図など持たずして日章旗より少数ながら普遍的に応援旗として使われていたこともわかります。
どう見ても日本に非はないばかりか、日本を侮蔑した上にありもしない旭日旗でケチをつけられたことに対して日本サッカー協会は寛大にも不問としました。
しかし以降も韓国メディアは旭日旗があったこととして日本批判を走らせます。
http://specificasia2.blog12.fc2.com/blog-entry-4104.html
そして2012年、スポーツの場において立て続けに事件が起こります。
【8月】
https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=157386
↓
http://news.livedoor.com/article/detail/6849042/
↓
そしてとばっちり
「ユニフォームが旭日旗を連想」と難癖 韓国で日本体操メダル剥奪要求
https://www.j-cast.com/2012/08/13142714.html?p=all
【9月】
一方U-20女子W杯において日本サッカー協会は旭日旗を一時持ち込み禁止としました。
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-4776.html?sp
読みづらいので要点のまとめだけ抜き出すと…
発端 韓国のオリンピックでの蛮行。この行為の逃げ道に韓国は旭日旗を持ち出してきた。
↓
1.日本サッカー協会(JFA)、U-20女子W杯会場への『旭日旗』持ち込みを禁止に
↓
2.日本サッカー協会(JFA)、HPにU-20女子W杯会場への『旭日旗』持ち込み禁止を明記→該当ページ削除される
↓
日本サッカー協会は当初、政治的なトラブルを招くという理由で観客の旭日旗所持を禁止した。
しかし大会開幕直前に突然、「FIFA規定の拡大解釈があった」とし、禁止方針を撤回した。
小倉純二日本サッカー協会名誉会長も28日、「日本国内で禁止したのではない。旗の搬入は止めない」と明らかにした。
↓
4."旭日旗持ち込み許可に抗議”…韓国サッカー協会、U-20女子W杯をボイコットか
↓
韓国メディア、日本のサッカーファンは普段より激昂している。明日は旭日旗登場か
↓
こうして韓国や日本サッカー協会による旭日旗を巡る問題に関して在特会の反発まで招いた結果、scopedog氏が上げているあえて旭日旗だらけのデモにつながります。
氏が上げている写真も2012年9月末のもの。ドンピシャです。
おまけですが2010年の在特会のデモの様子。スポーツの応援と同様、旭日旗はあっても少数です。
http://shinn1968.seesaa.net/article/139254289.html
これ以降も発端である“ありもしなかった旭日旗”に関する反省はないばかりか、旭日旗は戦犯旗と言い、旭日旗に関係ないありとあらゆるただの旭日デザインにまで現在進行形で旭日狩りを進めているのが韓国です。
ちなみに韓国の旭日旗に対する批判は2011年以前もありました。
https://matome.naver.jp/odai/2137549386765563801
しかし当時、そこまで問題化していなかったのは2011年以前、普通に応援旗として使われていた事からもわかります。当の韓国人が使用するくらいには内輪な話だったのでしょう。
日本で言えば太極旗を身にまとった日本人を在特会が批判するくらいの事だと思います。
それがなぜ2011年、あの時から国際問題化させたのか?これにはちょっとした推察があります。
それまでは韓国に差別的な在特会もネトウヨも、韓国批判のために旭日旗を大して持ち出した事がなく、韓国の旭日旗批判は空回っていたのだと思います。
そこを結びつけたのが奇誠庸の嘘「旭日旗を見て涙した。」だったんでしょう。
つまり、『日本の極右が旭日旗を使って韓国人を煽ったから』と言う大義名分を彼らは得たわけです。
信じ込んだ韓国人が2ちゃんねるにサイバー攻撃を仕掛けたことは先に上げたサイトに残っていますね。
以降その嘘はどこ吹く風、彼らが既成事実として論うのはscopedog氏も同様、在特会による2012年以降のデモや、旭日旗でのスポーツ応援となりました。
ちなみのちなみに上記まとめにある韓国発の記事は2006年から。2005年末に親日罪を制定した反日ムード真っ盛りの盧武鉉政権下からのものが多いですね。
旭日旗問題についてこのサッカーとの関係性はどう見ても切り離せないし、調べればすぐに出てくる事実なんですが、普段歴史的資料に勤勉で成り行きを順序立ててデマを批判されるscopedog先生がなぜこのサッカーの話を見落として旭日旗問題に触れられたのか。
猿も木から落ちるでしょうか?
流石に全員だとは思いたくねーな。観測範囲が悪いだけでまともな人もいると信じたい。
で、
「頭の悪いお前ら蛮族に、進んでるわれらがフェミ、ポリコレというものを教え込んでやろう。感謝するがよい」というスタンスだからしょうがないべ
フェミでないものは人間じゃないかあるいは野蛮人だと思ってるからあいつらは。
結構本気で俺にもそういう考え方であるようにしか見えてないんだが、こういう次元のヘイトを招いてる時点でロビー活動としては失敗なんだよな…。
陣営抗争にしか興味がないバカにはテキの抵抗にしか見えてないんだろうけど、そもそも「大概の人は正しい形に直すことで利益が減少したり不利益が発生するのなら、正しくなくとも現状維持を選ぶ」もんだっていう、歴史的にも何回も証明されまくってる現実を理解できていなさすぎる。そこで高潔さだのを振りかざしたり罵倒の言葉だのを繰り返したって余計に白眼視されるだけであって。
そんなもんで人が動くんなら共産主義だって失敗しなかった。日本だって過去何度も大粛清法が発令された時期があって、それがコケた理由の一つには大概「民間の権限を制限しすぎて反発された」ってのがある。
教育勅語は、過去の歴史的においては、日本の近代化に一定の役割があったと考えられるが、時代を経るについて、その位置づけが変わっており、どの視点に立つかによって評価が変わってシマウマ。
江戸時代以前、幕藩体制下においては、人々は藩(クニ)というコミュニティへの帰属意識はあったが、日本という統一された国家への帰属意識は存在しなかった。しかし、欧米列強のアジア進出に直面し、明治国家は統一された近代的な「国民」を創出する必要性に駆られた。そこで、井上毅が中心になって起草されたのが教育勅語である。
江戸以前の封建社会では、お殿様がいて、家来衆がいて、そのまた家来がいて、農民・商人・工人がいて・・・と、多層的な社会構成となっていた。欧米を直接視察した当時の指導者たちは、このまま身分により分裂した社会では、我が国が近代化を成し遂げて欧米に伍してゆくことは難しいと考えた。そこで、表向きは日本人に馴染みのある儒教的な用語を使いつつも、勤勉であれというプロテスタンティズムの精神を注入したものが教育勅語である。(米英独における近代資本主義の形成にプロテスタンティズムが果たした役割についてはマックス・ウェーバーの説に譲る)
教育勅語の登場により、日本人の中にプロテスタンティズム的な精神が形成され、曲がりなりにも、なんとか我が国は近代国民国家を創りだすことに成功した。また、一番問題になっている「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ・・・」の文言についても、歴史的には欧米の「国民軍」形成の流れと相似をなすものであると位置づけられる。(というのも、それ以前は武士階級のみが軍事に専念して、一般市民にとっては軍事は全くの埒外であった。このままの意識が続いていたとしたら、本邦は他のアジア国家と同様に、欧米の植民地となっていたであろう)
ただし、時代を経て昭和の激動期に入ると、明治憲法と同じく、長所よりも欠点が目立ち始める。
欠点の第一要因は、明治憲法や教育勅語が、現人神である天皇から臣民に下されたもの(実際は、明治の元勲が起草したものだが)という形式を取ったことであろう。明治憲法も、首相の権限が明記されておらず、その基盤が弱小である等の問題をはらみつつも、「不磨の大典」化してしまったため、政治家が軍事官僚を縛ることすらできなくなってしまった。教育勅語も時代に即して改定を行う動きもあったものの、やはり天皇から下された「聖典」という位置づけから改定ができなくなり、戦時下においては国民を総動員する装置となってしまった。
以上を踏まえると、教育勅語は日本の近代化を推し進めた功績があり、現代資本主義社会においても引き継がれる価値観を含有するという点では一定の「普遍性」を持つ一方で、戦時下においては国民を動員する装置となったという点で「負の側面」も多く有するという、なんとも白黒つけがたい存在であると評価できる。
なお、現代では教育勅語は、その歴史的役割をすっかり終えており、今さら道徳のために引っ張り出してくる必要性は無いという私見を最後に付け加えておく。
ただし教育勅語にしろ君が代にしろ、歴史的な「色」が付き過ぎているんだよね。
日本はアメリカにコテンパンに叩きのめされて、日本中の都市を焼け野原にされて、2発の原爆を投下されて、沖縄で地上戦を仕掛けられて、海外領土を全部失って、300万人の日本人を殺された。
外国人から見れば単なる啓発文に過ぎないけど、日本人から見れば未だに「滅びの笛」のような存在であることは変わらないと思う。
https://twitter.com/yash_san/status/1047462479133954048
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/yash_san/status/1047462479133954048
1. 教育勅語にもいいところがあるというのなら、山口組綱領も中々素晴らしいことを書いてあるので、学校教育で活用したらどうか。
とか、オウムの尊師が同じようなことを言ってるから、教育勅語をあがめる奴はヤクザやカルトの経典もあがめるんだ、なんて言ってる馬鹿が湧いてるけど、俺に言わせれば、ヤクザやカルトが掲げてすら社会一般からも間違ってはないと言われるくらい正しさに普遍性があるという実例だろう。それとも君の人生は親や友人を大事にしない事が正解なのか?それはそれはなんとも不幸な人生だな、で終了なんだよね。
特に、教育勅語が正しいとか引用して教育に利用すべきと主張するまでもなく、「友人を大事に」なんて子育ての段階で教えていくべき普遍的な概念だし、その普遍性を受け入れた上で教育勅語とは何だったのか?歴史的な役割と経緯について教えればいいだけだ。
なんて、この程度の頭の悪いロジックに乗っかって、教育勅語の普遍性を否定した気になってはしゃいでる奴らも、返す言葉にロジックがなくなってるやつもアホすぎる。
教育的普遍性について否定しようもないなら、歴史的経緯と近代に果たした役割も含めて教育に利用する価値があるし、使わない理由もない、と言ってる訳でね。
馬鹿用に改めて言うけど教育勅語を利用すべきとは言わないが、普遍性があるものなら教えたからと言って、アホが言うような軍国主義化の為の教育にはならないし、利用してはダメな理由もないんだよと言っている
普遍性があると言った!教育に使うなんて許せない、戦前回帰だと吹き上がって大臣を攻撃してるのはアホでしかないよね。
呆れるほどアホだよね
the_sun_also_rises 何度もブコメ書いている(例:https://goo.gl/DnCzwM)が教育勅語の12の徳目のうち11は普遍的なもの。にも関わらず「どこの部分は普遍的でどこの部分は今には合わない」という主張はないというブコメに★が集まってるのはなぜ?
ここでも友人を大事にとか親を大事になんて普遍的だって言ってるけど、都合の悪いものが見えないのが、はてなのリベラル勢じゃないですか。
「教育勅語は友達を大事にしろってかいてあるから、今も使える」とか
https://anond.hatelabo.jp/20181004213650
結局、ここのブコメも含めて、大臣が普遍性のある部分もあると言ったああああって喚いてたアホの主張の要旨ってこれでしょ。真理性のある部分もあると認め得る、と回答したら、忠君報国しろと国の為に死ねとイコールになると、パヨパヨ直結回路で妄想飛ばしてるだけじゃんね。教育勅語には部分的に普遍性を認められるというのは、忠君報国して天皇陛下の為に死ねという時代錯誤な価値観の肯定とイコールなのかね?wまぁ、君らはそう思ってんだろな。だから、普遍性があると言った!教育に使うなんて許せない、戦前回帰だと吹き上がってたんだろ?やっぱりアホでしかないよね。呆れるほどアホだよね
しかもワザワザ、教育勅語についての見解を求めておいて、正解だと妄信してる全否定コメントが出なくて、部分的には普遍性を認めることも出来ると答えた事が気に入らないと暴れてんでしょ。笑えるよね。
に代表される様に、分かっている人は分かっている。アホだけは相変わらず、論理的な思考ができないのがよく分かった。教育勅語そのものには、罪がある訳ではない。かつて、どのように使われたかが気に入らないからと言って、教育勅語そのものには普遍性を認める事が可能な部分がある、それを改めて口にした事で大臣を攻撃する正当性は一切ないという事を理解すると良いだろう。教育勅語は軍国化の象徴だと、軍靴の音が聞こえてくる妄想から離れる事が出来ない君らには、論理的に考える事など不可能かもしれんが。現在に至るまで、大臣批判の正当性を言葉に出来たものなどブコメにもトラバにも一人もいない。幼児の様に感情が受け入れられないと、イヤイヤしてるだけなんだからなw
タバコが生理学的な物という認識で批判されているがタバコは文化的な物だった。吸っている大人はかっこいいなどなるほどまったく根拠がない。しかしその無根拠な意味づけがまさに文化の定義そのものだろう。
物には物理的な機能性と別に概念による意味づけによって価値が出てくる。たとえばアート作品に何千万円という価値があるのは歴史的背景=過去の人達が意味づけした価値がその物の概念的価値を基礎づける。ピカソの絵が物理的に変な絵だという批判は真であり同時に概念的に素晴らしいものだという「妄言」もまた真なのだ。
原爆ドームなどもさびれた建物だがそこに僕達は意味を見出す。あるいは恋愛なども同様のことがいえる。
あなたや僕の彼女彼氏配偶者に自然的な妥当性などない。愛が素晴らしいのは科学的根拠と別領域でただ僕達が勝手に、無根拠に、意味づけることができるからだ。事物には概念を与えることで意味を持って彩りを与えてくれる。それが文化の定義だろう。物理的な価値だけを認める物質主義はタバコの概念的価値を駆逐した。
無根拠な意味づけがタバコの文化的価値を支えていた。タバコが物質的に害をもたらすことが真であると同時にタバコが概念的に意味づけされた物「だった」ということもまた真なのである。
そしてそのユダヤ人はマルコポーロ事件でも明らかなように表現規制の欲望を隠すこともしない。
我々は常に弾圧されてきた。だから単なる不快の表明でもやがてヘイトの正当化に繋がるから
全く違う。
女性、在日、LGBTが本邦で迫害されてた事実などないためユダヤを元に書くが、件のマルコポーロ事件での記事の趣旨は「アウシュビッツ事件の事実を考える」事であり、断じてユダヤ人人の排除や抹殺を図るものではなかった。
これに過敏に反応するのは防衛と言えるのか?
対して今回のシュナムル事件では、オタクカルチャーそのものの排除を目論んでいた。言わば直接攻撃である。
どうして同列に語れようか?
そうして女性が得た一次産物を戦闘能力にまさる男性が暴力で奪うことが可能だったって話なわけよ。
日本で言えば戦国時代なんかまさにこの形なわけで。そもそもお腹に子供がいるとろくに走ることもできない女性と男性が殺し合いしちゃったら統計的な勝敗は目に見える結果にしかならんのよ。
別段俺はフェミでもなんでもないんで、そういう時代の話を持って女性に現代的な何らかの給付を行え! なんて話をするつもりはサラサラ無いんだけど、でもだからこそ人類史の中でそういう「暴力がその他すべての力よりも意味を有してた時代があった」ことそのものを否定しちゃまずいとおもうわけ。それってもう歴史的にはどうにもならんかこの事実であってそれをなかったコトにするのは違うでしょ。
そういうのを踏まえて「だから今この現代において女性を優遇しよう」っていうのか「過去は過去だししったこっちゃねえよ」っていうのか「それなりのバランスを提案するんでこういう考え同スカ」っていうのかは、個人の自由だと思うけれどね。
https://togetter.com/li/1265112
話題になっていたコレ、置く置かないはおいといてそもそもの話を考える。
1点目は様々な人も言っているが、子供がそう言っているのにその場で写真を撮る余裕があるのは何故だ?
これは知的財産権の侵害でなり公衆送信権を犯している可能性がある。
そのため、一般に言われるアフィブログなどではAmazonのリンクを使って画像を出している事が多い。
責任回避もあるし権利処理されているから使われていると考えられるからね。
3点目がすげぇ微妙。
何故か?男は歴史的に公共の場所で胸を出している事が多い(プール、海等)。
また、工場労働等で熱い場合に上半身裸で労働していることもある。この辺は世界的に見ても変わらない。
ちなみに、江戸時代の頃だと女性でも胸出して普通に仕事をしていて西洋文化が入ってきて以降「恥ずかしい物」となったっていう背景もあるよ
歴史を見れば女性が母性の象徴として胸を出しっぱにしているのが当たり前の文化もあった。
なのにも関わらず男はよくて女は何故だめなのか?と議論がされている。
機能が違うだろって?男でも乳腺自体はあるし多少の母乳は出たりするよ?大量に出る場合は病気だけど。
女性の胸を性器とするのであれば男性の胸も性器とならなければいけない。
そういった意味で統一的思考として最近の子供向け水着で男女変わらずに上も隠しているのは理解が出来る。
フィンランドでも女性が公共のプールで胸を出す権利は認められているし
ニューヨーク州でも認められているし調べるとそこそこ女性が胸を隠す必要性がない国は結構ある。
それでも胸は性器か?胸を性器だと考えているのはその思考をしている人物が「僕にとって興奮する部位だ」と言っているだけでは?
男だったら股間を大きく描いているような物だと言っているが、男性器に対応する女性の部位は陰核(クリトリス)であり胸ではない。
胸がセックスアピールたり得るかどうかに関してはなるとは思うが、胸は性器ではない。
アメリカでも一部州で女性が公共の場で胸を出す権利を求めてデモ行進していることもあるよ。
なので、胸を性器だ!って言ってる人は男尊女卑ではなかろうか。男も女も胸は胸でしかないよ
4点目も若干微妙
「異様に巨大に描かれたイラスト」と、言っているが手の位置を見ると両脇から下に手を入れて胸を持ち上げていて強調されているわけで
割と世界中見ても最近の日本でも巨乳化の傾向はあるので多くはないが居るレベルのサイズだと考えられる。
目算でG~Hぐらい、日本人は鳩胸が割といるので大きく見えるだけで実際は小さいもある。
逆にバスト本体が大きいんだけど胸が大きく出てないから小さいと思われる人もいる。
ですんで、コレを問題にしたいのであればグラビアに絡めて女性が性的搾取される~・・・であって