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2019-03-31

ネットにおけるアンチ豊臣秀吉の出現

から書く話は一切のエビデンスがない。主観である

2000年台初頭までは豊臣秀吉ネット上でも人気のある歴史上の人物だった。

立身出世太閤はん、天下統一

これは90年台半ばにあった大河ドラマの影響も大きいだろう。とにかく人気が高かった。

しかし、ネット上の空気がある時期を境に一変する。

日韓ワールドカップだ。

この時期に2chをはじめとして、ネット上では韓国人と思われるおかし書き込みが多発するようになった。

豊臣秀吉蛮行を声高らかに歌い上げる人も多発した。

朝鮮出兵で酷いことをした、国内でもこれだけの失策を重ねた…と。

しかし、他のロクに相手されなかった過去きこみと違い、秀吉アンチによる書き込みは多数の日本人の心を動かした。

なぜならば、秀吉晩年に残虐な行為したこと、耄碌したことは明らかに事実であり、

朝鮮出兵失策だったこと、秀次や秀秋への仕打ち後継者秀頼の首を絞めることになったのは明らかなのだ

その結果、秀吉人気は落ちるどころか多数のアンチを生むことになった。

歴史上に失策を重ねたとされる人物は多数いるが、アンチがこれだけいる人はそういまい。

英雄でありながら失策も多そうな足利尊氏天智天皇平清盛西郷隆盛木戸孝允坂本龍馬…彼らにこれほどのアンチがいるだろうか。

皆気付かなかったのかな

2018-10-17

聚楽第歴史改変

オタク戯言です。

刀剣乱舞イベントおめでとうございますー!楽しみです!

聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。

分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくま妄想ですので批判等はお控えください。


1.聚楽第とは

聚楽第とは豊臣秀吉天正15年(1587年)9月京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市中央図書館所蔵蔵浅野文庫諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。

元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイス聚楽快楽歓喜の集まり意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。

浅野文庫

尊経閣文庫

三井文庫

国立国会図書館文庫

桜井成広所蔵本

聚楽教育会所蔵

三井家所蔵「聚楽第図屏風」

堺市博物館所蔵「聚楽行幸図屏風」

三井文庫所蔵「豊公築所聚楽城之図」

①〜⑤は周囲の大名屋敷名称バラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁役割であったと考える。しかし、秀吉政治に関して大阪城聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第公家としての居城であり、大阪城武家としての居城であると書いている。

聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である

秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである秀次秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山追放高野山人質切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉親族切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。

2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史重要

今回のイベント於いて歴史修正されたのは豊臣秀次生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。

まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである

朝鮮出兵

豊臣秀次切腹事件

それでは順に述べていこう。

朝鮮出兵

朝鮮出兵聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である大陸領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。

(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸出来事のためあくま私的妄想範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵関係ないと思います歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)

秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界理由としては前項で述べた聚楽第歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば

1587年 京都聚楽第完成

1592年 秀次聚楽第を与える

1595年 秀次切腹と共に破却

しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。

この事から聚楽第存在するには秀次生存必要であり、切腹事件が起こらない過去改変が行われていると考えられる。

2018-10-16

ワールドトリガーに感じる居心地の悪さ

ワールドトリガージャンプSQ移籍して連載再開するらしい。全く別のジャンル作品で繋がったTLが、連載再開の報に一気に湧いているのを見てその報を知り、自分も嬉しくなった。熱い支持を受けていて、掲載順もそれなりに安定していた連載が、作者の身体的都合で休載余儀なくされてしまった事態は傍から見ていても心が痛むものがあったからだ。

なので、だからこそ、今のタイミングでこの作品に対して自分が思っていることを吐き出しておきたい。……といってもタイトル通りなのだが、どうしても自分はこの作品にどうも熱狂的になれる面白さを感じることが出来ないのだ。TLの複数の愛読者曰く、「基本的に地道な展開で最初は地味かもしれないが筋が通っているので話が繋がってくると気持ちよく読める」とか、「登場人物がしっかり集団の一員としてそれぞれ思考して動いているので、キャラクター言動ストレスを感じることが少ない」とのことで、実際自分作品を読んでいてその要素は強く感じている。話の筋が通っているというか全体的に物語の筋が丁寧に描写されていて、登場人物もそれぞれ自分立場をわきまえた上で動くので、とにかく話の進みがスムーズで、読んでいてストレスがない。だが何故かもやついた、どこか居心地の悪いものを感じてしまって、それが払拭できないままランク戦中盤あたりで挫折してしまった。ストレスなく話を読めて、楽しめているはずなのに、どこかでもやもやしていて、それがずっとひっかかっていた。

もやもやした居心地の悪さというのが長らく自分の中で言語化出来なかったのだが、最近それが「登場人物がしっかり思考して動いている」ことに起因するのではないかと思い当たり、少し愕然としている。

主人公含めメインとなる登場人物は、確かに社会人を迎える年齢を越えた大人もそれなりにいるが、基本的中学生から年長でも大学院生ぐらいの歳だ。それなのに皆しっかり思考して、組織のために、任務のために、理性的に動いている。感情に突き動かされて理性や思考放棄し全体の足を引っ張るような「危うい」登場人物が、主人公対立立場にあるキャラクターを含めてもほとんどいない(肉親の死の件で敵方主人公サイドに確執を抱えている三輪秀次例外と言えなくもないが、その設定の割には彼も随分物分りが良いように思える)。どうもそれが自分の中で引っかかっていて、いまいちTLの愛読者達のように盛り上がれないのだ。

暴走したキャラクターによって足を引っ張られるように展開していく物語が好きかと問われればむしろ苦手と言ってしまタイプで、シン・ゴジラなんかはむしろゴジラ版お役所緊急事態お仕事もののノリでかなりのめり込めたしよく出来た映画だと思ったのだが、思春期少年少女もそろって「物分りの良い」「良く出来た」キャラクターとして描かれてしまうと、ストレスの無さが行きすぎてむしろ居心地の悪さを感じてしまうのかもしれない。自分自身中学生高校生の頃はおろか、一応の社会人になった今でも彼らのように理性的に動くことができる自信は全く無い。

だが、ワールドトリガー物語自体面白いのだろう。登場人物への居心地の悪さを抜きにすれば、キャラクターちゃん思考して動いているが故に話自体は見事に筋が通っていて、きちんと盛り上がるべきところで盛り上がっている。大規模侵攻編の話の運び方とケリの付け方は、自分の好みに合った方向性だった。何度も言うが、本当に話自体は好みに近いのだ。

なので、もしも「感情優先で動いているキャラもいるよ!」とか「三輪君順調に復讐者として成長してるよ!」とかあったら教えてください(ランク戦中盤以降読んでいないので)。実はこの機会にもう一度この漫画再チャレンジしてみたいんです……。

追記

夜明けたら思ってた以上に反応いただけていて驚いています。本当に単なる吐き出しですので!

合わないのかなというのは実感していて、一度挫折した後は距離を置いていたのですが、今回こんなずらずら長文を書いてしまったのは、連載再開に伴って「オタクなら何かしら刺さるよ!」な言葉が再び自分の周囲から聞こえるようになって、以前挫折した時に思った「オタクなのになんで自分は刺さらないんだろう」という疑問が再び沸いてきてしまたからです。上にも書いた通りむしろ登場人物感情IQの低さを頼りに進む話ってあんまりきじゃないんですが、何故かこれだけは合わないっていう。人間味がないから不気味というよりは、皆さん出来過ぎているように見えて読んでるこっちが勝手に疎外感や劣等感持っちゃってる感じです。なのでそこを克服できたらと思ったんですよね。

当たり前ですがオタクでも刺さらない作品はあるよね…

香取ちゃんについては名前は聞いていました。せっかくなので彼女活躍?まで目を通してみて、それでも合わなかったらそういうもんだと思うことにします。教えて下さった方ありがとうございました!

2017-07-07

花戦さ感想メモ

河原生け花

前田利家がかっこよかった

女児毒舌畜生発言聚楽第落書き事件ばりの虐殺されても文句言えなかったが関白こらえた

その後やっぱり処罰されてちょっと驚いたが、親は見逃されてるあたり温情だし処刑も残念でもないし当然

池坊野村萬斎サイコパス

粥をそのまま自分で食べちゃうのは理解不能

佐藤浩市利休のなんだこいつ…顔

生け花の後のアレとその後のアレは予想できなかった

からさまな伏線だったけど二重になってるのは気づかなかった

記憶力が悪い池坊だけど逆に何年も前に一度あっただけの事をあれだけ覚えてる方がおかしいのかもしれない

利休切腹自体描写無しだけど敢えて描写してないんだろうなってシーンも多い

朝顔一輪だけ残して全部摘んだエピソード、数寄人は喜ぶだろうけど普通は不機嫌になるよね

秀吉ヤンデレ

野外利休ドール亀甲縛り

市川猿之助エンケンに見える

絵師ネキかわいい

猿顔がコンプレックスなのにみんな猿猿言って…でも考えれば元凶信長だよな

ちょっと反省したけどこの後秀次事件やら朝鮮侵略でやらかすんだよね…

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2016-07-31

http://anond.hatelabo.jp/20160731010703

マジかよ

ありがとう

秀次選挙中止かと思ったら繰上の罠で見逃したからなあ…

次回も面白そうなのに同じ策にハマるところだった

ありがとう

2014-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20140128144831

全くどうでもいいけど、元増田

家康秀吉が天下を取ってていても詰んでいなかった。秀次が継いだ場合は早晩詰むことになったが、それが起こらなかった故に詰んでいない状況が続き、結果、天下を取った」

認識している可能性があるから、あんまりキメ顔で正しくは…とは言わないほうがいいんじゃない


秀次って徳川秀忠みたいなタイプぽいんだよなー。たぶん、治世の政治家としては有能だったんじゃないかと。そう思うだけに残念と言えば残念である

http://anond.hatelabo.jp/20140128141639

まぁそう言っても秀頼ラブだからなぁ。

冷静な判断は無理だったろうな。

所詮養子

実子にはかなわない。

話は参考になりました。

秀次のことはあっても周りの大名まではあまり話が及ばないしね。

http://anond.hatelabo.jp/20140128141639

秀次が継いだら家康が詰む」というよりは「秀吉が天下を取った時点で家康詰んだ秀次の死により息を吹き返した」のほうが正確だろう。

豊臣秀次が継いでいた場合徳川家は詰んでいる

最上伊達は完全に秀次シンパになっていて、上杉も豊臣方安定だから東北方面から家康へのプレッシャー半端ない

越後は堀、信州は天敵・真田甲斐秀次とも縁が深い浅野で、東海道秀次付の宿老達の構えときていて中部方面の対徳川対策も申し分なし。

徳川から攻めるのはほぼ無理な状況で、自然石川数正的な離脱だったり、お家騒動だったり(徳川家徳川家で子沢山かつ仲悪くて大変)、

北条の遺児の復権運動も間違いなくありそうだったりで、徳川領土維持するのも大変つか、わりと詰んでいる。


ま、逆に秀次を殺したことで、連座して最愛の娘を殺された最上義光は命を懸けて徳川応援することになり、伊達も豊臣家の秩序に見切りをつけるようになった上、

甲斐浅野幸長は徳川のとりなしで流罪の身から釈放されたことで恩義を感じるようになり、東海道が一気に豊臣家内での位置を大きく下げた元宿老達

秀次事件ではなだめるためかむしろ加増してもらってるケースが多いにしても)のたまり場になって、その状態で秀吉が死んじゃうものから

ほんと豊臣家にとっては自殺行為徳川家にとっては天佑だったとしか言いようがない

 
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