はてなキーワード: 垣間見るとは
私がずっと前から通っている喫茶店が結婚相談所からおすすめスポットに指定されたようで、一昨年あたりから、土日に行くと席の7割がお見合いらしき二人で埋まっている。
しかも、これは私の自意識過剰かもしれないけど、お見合い同士を隣席にしないようにか、カップル-私-カップルのサンドイッチになって、左右を顔合わせに挟まれることも多い。大体みんなコーヒーかカフェオレを頼んで、1時間ぐらいで解散している。
それで婚活の現場を垣間見ることが多いんだけど、Xの婚活エピソードで流れてくるような酷い感じの人はそんなにいない気がする。女性はみんなおしゃれで、男性も清潔感のある服装をしていて、朗らかに会話を楽しんでいる。ただ、確かに時々、横にいながらちょっとこれは、、と思う人もいる。その「これは、、」というポイントが面白いぐらいに男女で分かれるので、書き出してみる。
【男性】
〇外見
びっくりするぐらい身だしなみができてない人がたまにいる。女性では見たことない。
男でもさすがにTシャツデニムとかは見たことない。着てるアイテム(服)は合ってる。でも身だしなみができてない。
・髪の毛がボサボサ→坊主でない限りは短くてもクシで梳かないとダメ。特に後頭部。寝ぐせついてる人いたよ。
・服が薄汚い→砂かぶってる?ってぐらい色褪せた服着てる人がいた。どんなに大切に扱っても、服は着ているうちに古びるよ。特にトップス。一年以上前に買ったトップスは婚活の場には着て行かない方がいい。アイロンもかけなさい。
・カバンが汚い!!→これ多い。普段から使ってるんだろうけど、ボロボロに擦れて肩紐が伸び切って太もも丈ぐらいになってたり。仕事用のと別に買ったほうがいい。中に何を入れてるのかしらんけど、パンパンに膨らんでる人もいる。
・臭い→隣の席でもキツいぐらい臭い人がいた。ブックオフの古着コーナーのすえた臭いをもっとキツくした感じ。本人じゃなくて服とかカバンに染みついた臭いだと思う。こういう匂いは洗濯しても取れないから買い直すしかない。
〇話し方
・声でかい→びっくりするほど声が大きい人がいる。静かな店内に響き渡る個人情報。
・変な褒め方→褒めたいのか知らんけど、会って早々に「スタイルいいですね」って言ってる人いた。たとえポジティブな言葉でも、相手の見た目にいきなり触れるのは絶対やめた方がいい。お綺麗ですね、で超ギリギリセーフ。
正直、男性で話の内容でうわって思う人はそんなにいない。話が弾まなかったり、早口だったりはあるけど、性格悪いな~って人とか、変な冗談言う人は、居合わせた限りはいなかった。そういうのは顔合わせじゃなくてデートで出るのかな。
【女性】
〇外見
例外なく全員綺麗。若い人は女子アナみたいな雰囲気で、年配の人も落ち着いた上品な感じ。
本当に、女性は見た目に気を配っている。
〇話し方
ネットでは男性のコミュ力が非難されがちだけど、話を零れ聞いていて引いたのは、女性の方が多かった。
・高圧的
横で気分が悪くなるぐらいに態度が悪い。店員さんにはにこやかで、その顔が相手の男性に向いた途端鬼みたいになる。会話も怖い。詳細は覚えてないけど、いちいち嫌味で、相手を馬鹿にする感じ。横の私さえ悪意に胃がキリキリした。
キャリアウーマンっぽい女性と真面目そうな男性の組み合わせの時、女性がキビキビと意地悪くエスコートしてて(男性がメニュー見てちょっと時間かかってたら、「あ、もういいですよね?じゃあ私と一緒でカフェオレにしましょう!時間もったいないんで!」って有無を言わさず言ったり)怖かった。仕事できそうな感じの人に多い。
男性が何か聞いたら、「それプロフィールに書いてましたよね?会う前にチェックもしないんですか?」って即答してた人もいた。怖い。
・被害妄想
男性の言うことを全部マイナスに捉える変換器みたいな人。そんな悪意いっぱいに受け取らなくてもいいじゃん。なんかもう、特定のワードが出た瞬間にアウトみたいな、アレルギーみたいになってる人いる。
男性は単純にコミュニケーションが苦手で、女性は性格が悪い人が多い。相手の顔見た瞬間に「ナイな」って感じで、それから雰囲気悪い女性、結構いる。
男女とも、うわっと思う人は年配が多かった。若い人はみんなちゃんとしてる。
あと、これは別枠で厳しそうと思った顔合わせも見た。
コーヒー一杯1000円超えのホテルラウンジで隣に来たカップルで、二人とも慣れてる感じであまりにも会話も立ち居振る舞いも完璧で、初対面だろうにお会計まで阿吽の呼吸で全てがスムーズ過ぎて、武道の達人同士の立ち合いを見ているようだった。でも、なんか、人間味が無かった。完璧に洗練された型を見てる感じ。
芦原妃名子先生が亡くなられて以降、漫画家や脚本家側から連日多くの発信がなされている。
一方でこの事件の鍵を握るプロデューサーなどテレビ局や出版社側からの発信はあっただろうか?
とりわけ当事者である小学館と日テレの対応に注目が集まっているが、さっぱり音沙汰がない。
https://adpocket.shogakukan.co.jp/adnews/7059/
大人女性の心をつかむ豊富で多彩な漫画が、タイアップにも活躍します。『プチコミック』須藤綾子編集長インタビュー | 小学館AD POCKET
『セクシー田中さん』掲載誌である「姉系プチコミック」などを手掛ける、「プチコミック」編集長によるインタビュー記事である。
このなかでは、渦中のメディアミックスについて触れられており『セクシー田中さん』も登場する。
『セクシー田中さん』のように女性が自立して輝く設定だったり。あくまで漫画として面白いことが第一ですが、メディアミックスは一番大きく読者をつかめるところなので、これからもドラマや映画サイドに興味を持って頂ける作品をつくっていくことも一つの大きな目標です
小学館がこの記事を削除した意図や芦原先生の件との関係は分からない。
デジタル風刺画とは、コンピューター、タブレット、スマートフォンなどのデジタルツールを使用して、人の顔や体を面白く、面白く、または嘲笑する方法で描く芸術です。デジタル風刺画は通常、娯楽、批評、宣伝目的で作成されます。デジタル似顔絵には、従来の似顔絵に比べて、次のようないくつかの利点があります。
紙、鉛筆、絵の具を必要とせず、デジタルデバイスと特別なアプリケーションだけを必要とするため、より簡単かつ迅速に作成できます。
さまざまな効果、色、スタイルを使用でき、必要に応じて編集または変更できるため、より柔軟で創造的になります。
物理的に印刷したり送ったりする必要がなく、電子メール、ソーシャル メディア、または Web サイト経由で送信できるため、配布が簡単かつ安価になります。
デジタル風刺画は日本を含むさまざまな国で人気があります。日本では、デジタル風刺画は似顔絵として知られています。これは「似た顔の画像」を意味します。にがおえは、古来より発展してきた日本の伝統芸能です。にがおえは通常、政治家、著名人、歴史上の人物などの有名人の顔をユーモアや風刺的に描きます。 にがおえは観光地やショッピングセンター、お祭りなどでお土産や贈答品としてもよく使われます。。
日本人アーティストが作成したデジタル風刺画の例は次のとおりです。
にがおえ:日本の風刺文化と渡辺想の作品を垣間見るは、世界中にクライアントを持つデジタル似顔絵アーティスト、渡辺 創の作品を特集しています。
Chōjū-jinbutsu-gigaは、動物と人間の戯れを描いた古代の絵巻物であり、世界最古の漫画作品の 1 つと考えられています。
風刺画ジャパン: 笑いのためだけには、20分でデジタル似顔絵をライブで描くサービスを提供する東京・渋谷のデジタル似顔絵ショップです。
約三ヶ月前、社会人生活に区切りをつけた。当方は、はてなユーザーの中でも高齢である。一般的な定年はとうに過ぎている。社会人として40年以上生きてきて、得られた知見といえば……大したものはない。
ただ、今回どうしても書き綴ってみたいことがあり、筆をしたためることにした。書式については、ほかの増田の方に合わせるものとする。難しい漢字も、できる限り平仮名とする。
書き上げたのは本日12/12だが、推敲の関係で五回に分けて投稿する。土曜日には終わるだろう。
私の教員としてのキャリアは、都内にある中学校から始まった。大学を出てすぐだった。今思えば懐かしいが、あの時代に戻れたとしても今の方がいい。時代は進んでいる。
あの当時はアナログだった。電話はあるが、パーク保留(1機で複数保留ができる)といった機能はないし、パソコンは事務所に1台あるかないかだった。各学校にコピー機はあったが、今と違ってコピーされた物のコピーは悪手だった。印刷すればするほど色が薄くなる。濃淡調整機能などあるはずもなく。
学童についても、今に比べれば悪ガキがたくさんいた。今の子どもに比べると、暴言や暴力が明らかに多い。「人は教育を受けることで初めて人間になる」というのは、初等教育学のテキストにある基本的な考え方である。
さて、昔ではなく今の時代を観ていたいのだが、心がどうしても時代を遡ろうとする。この日記で表現したいことは、今から約十年前の出来事である。この度日記にまとめたのは、教委事務局に勤めていた時に最後に取り組んだ仕事のひとつである。残念ながら、教育そのものに関することではない。※当時の関係者は全員退職している。
要約すると、某地方自治体にある教育委員会の中に社会教育課というのがあった。その部署というのが、区役所の中のいわゆる問題のある職員が集まるところだった。区内の教員を指導する部門の長をしていた頃の私は、すぐ近くで醜い言い争いや、低次元な行為がなされているのを幾度となく目の当たりにした。
彼ら彼女らの言動には、ほかの教委職員も腹に据えかねていた。そして、ある年を境として、何度も本庁と協議・交渉を重ねた結果、教育委員会という組織から社会教育課を放逐することができた。
本当に苛々とした日々だった。その分、悲願が叶ったと知った時の喜びは至高だった。今でも解放感が脳裏に蘇ってくる。
これから私が話すことは、人によっては相当厳しい。負の次元に堕ちた地方公務員の姿を垣間見ることになる。それでもよければ、読み進めていただきたい。
私はもう経済社会を完全に引退している。書き綴る出来事もだいぶ前のことだから、元いた組織の迷惑にはならないだろう。何かあった場合は、私が責任を取る所存だ。
トピックについては、1.から6.まで用意している。具体的な職員のエピソードは2.~5.である。6.において、社会教育課との決着について書かせてもらう。
教育委員会(≒教委事務局。教委。以後は同じ意味として扱う)とはどんな組織か? というと、早い話が地方自治体の学校教育に関する意思決定と事務(企画・調整・一般的な管理行為)を行う組織である。
第180条の8 教育委員会は、別に法律の定めるところにより、学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員の身分取扱に関する事務を行い、並びに社会教育その他教育、学術及び文化に関する事務を管理し及びこれを執行する。
教育長が責任者となって所掌事務や教育改革・首長への提言その他を総理し、教育委員が集まる会議(議会のようなもの)で可決された教育内容が自治体内の学校において実施される。
かつての戦争の折、行政の暴走行為によって学校教育が歪められてしまった経緯がある。地方行政の主体から教育の機能を切り離して、教育活動全般に関する権限を有する行政委員会としての役割を与えた。
実際のところは、市区町村の本庁舎の一部を間借りしている教委が大半である。役所の中に多くある部署のひとつとして位置付いている。
(指導課)…都道府県教委が教員の中から高査定者を人事異動させる
(学事課)…指導課のような教職員出身者と市区町村職員による合同チーム
(学童クラブや児サポ)…教委が有望者の中から採用・選定をして運営
そういうわけで、私の場合は上記でいうところの指導課(各学校の指導方針を所管)や学事課(学校事務を所管)に籍を置いていた。あれは、新卒で教育現場に配属になって十年少々だったか。ある年の人事異動で、そろそろ別の学校に異動になるかと考えていたところ、教委事務局への配属を告げられた。
それから数十年、学校現場に戻ったのは二度だけだ。一度目は中学校の教頭として、二度目は校長として。その前後にも、私はやはり教委に籍を置いていて、より高い視座から教育活動のあり方を見直すことや、新しい学校を作る、あるいは廃止するといった仕事に取り組んだ。
最後は課長級職員としてキャリアを終えた。その後は、いわゆる名誉職といった扱いの教育の仕事に数年だけ取り組んで、先日正式にこの仕事から引退した。
タイトルにある出来事は、社会人生活の中でも相当後半にあたる。都内にある中学校で教頭としての務めを果たした後、ある年の人事異動で教委事務局に課長職として配置された頃の話である。期間としては三年間だ。
教委事務局の中でも、ほぼ真ん中あたりの奥側に指導課長である私の席があった。「ようやくここまで来たか」と思いつつ、課員全員が見渡せるデスクに腰掛けようとした時だった。言い争う声が聞こえるではないか。何時かは忘れたが、おそらく正午前だった。
社会教育課の事務スペースで、複数の職員が言い争いをしていた。若い子と、中年ほどの男性・女性の職員だった。どういう構図かは全く覚えていないが、低い次元の話をしているのはすぐにわかった。公務員以前に、社会人として使うべきではない語彙や、極めて高圧的な物言いが見て取れた。
話し合い(口論)を少しばかり眺めていたが、最後は男性職員が女性職員から詰問を受け、ちょうどかかってきた電話を取る形で逃げて終わった。若い職員は、舌打ちをしてその場を後にしつつ、コピー機が設置してある台を蹴っ飛ばして事務室を出て行った。
『なんだ、こいつらは?』
心の中でそう思った。これまで配属された教委事務局の中に、こんな連中はいなかった。この市区町村の教委事務局で働いていた時もあったが、社会教育課は別のオフィスにあった。
社会教育課、という部署名は伝統的である。霞が関にも同名の部署があるほどだ。本来であれば、歴史と実績のある部署のはず。では、なぜこんな連中が……? と思って気になったが、その時は時間の無駄であると考えた。
だが、そういうことにならなかった。社会教育課は、私のいる課長机から10mも離れていない。しかし、毎週のように何度も何度も、大きい声で怒鳴るわ、悪態をつくわ、イベント行事で問題を起こすわ、用事で来られた区民を怒らせるわで、こちらとしても仕事がやり辛かった。
私と同じ教職員サイドの職員に詳しい者がいた。この教育委員会(T区とする。豊島区は関係ない)の社会教育課について聞いたところ、なんとなく経過がわかった。
・その場所ではひとつの課として独立していたが、不祥事が多かった
・監視の意味も兼ねて、本庁総務部の人事課が教委事務局の中に移した
といったところだった。この時は、まさかこの連中のためにあれほど頭を悩ませることになるとは思わなかった。
ここから先は、個別職員の話になる。2.以降に譲りたい。長く詳細に書いても読者が不愉快になるだけだ。できれば各三千字以内でトピックを終わらせたい。
話があちこちに逸れることも多々あろうが、何卒お許しを願いたい。
(次part)
ネットの普及で、『世間』の範囲が広くなっている感覚がある。沖縄の人がネットや報道を通じて北海道の『世間』を垣間見ることもできるし、逆もまたしかり。なんなら日本にいながらアメリカやイギリスの『世間』の情報を得ることだってできる。
しかし、『世間』に出てくる登場人物が増えすぎて、身動きが取れなくなって苦しむ人が増えてしまった。ネットという広い『世間』で「○○を頑張った、○○の努力をした」と言えば、「世の中にはもっと凄い人がいる」と膨大な成功者のデータで叩きつけられ、「○○で辛い、○○があって苦しい」と言えば、「世の中にはもっと苦しんでいる人がいる」と捨て置かれる。
ネットの海は広い。けれど広すぎて手に負えない。今や大海は全世界まで広がっている。そのせいで、あまりにちっぽけな自分に絶望して精神を病む人もいる。そうなるくらいなら、井の中の蛙に徹するほうが余程幸せじゃないか?ちょっとしたコミュニティで、ちょっとした成功をおさめて、ちょっとした幸せを味わう。そっちのほうが、余程充実しているのではないか?
ネットが悪いとは言わない。広くなった『世間』が悪いとは言わない。ただ、安心できる井戸の一つや二つは持っておいたほうがいいと自分は思う。
虎の威を借る狐、ここにあり
でも評価めちゃくちゃ高い。え?
べた褒めレビューだらけ。まじで引くくらいべた褒めだらけ
dicelog.
5つ星のうち5.0 応用の効く思考法
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本を読んで久しぶりに「効いた〜」って感じがしました。
私自身がたまたまタイミングが合っていただけで、他の方が同じような印象を受けるかは全く分かりません。
ただ、今の私にはものすごく刺さる本でした。
本書はタイトル通り、世界の一流とされるエンジニアがどう考え行動するかを「思考法」という言葉でまとめて紹介してくれています。
具体的なTipsのような内容から、マインド、そしてAIとの関わり方など、多岐にわたる一流エンジニアの捉え方を垣間見ることができます。
私自身はエンジニアでもなんでもなく、デザインを主軸とした小さな個人自営業者なのですが、畑違いの仕事をしている私にも本書の内容は非常に参考になり今後の仕事に活かせると感じましたし、子育てや人間関係などにも活用していこうと思います。
何より心打たれたのは、本書の最終章、締めとなる文章の言葉です。
5つ星のうち5.0 初めて腑に落ちた
Amazonで購入
Masafumi330
5つ星のうち5.0 根本的な価値観が180度変わる、素晴らしい本でした
私自身、周りの人は上手くやっているのに、なんで自分は上手くできないんだろうという自己否定にとらわれたソフトエンジニアでした。
ただ、自分が上手くできないと感じる理由は、脳の使い方にあるということが分かって一気に視界が開けたように感じます。
また、最後の章で、日本の批判文化についても言及されてて、ここが一番私には刺さりました。
自分自身、他人や他の物事の悪い部分だけをクローズアップして揚げ足取りをする部分があるかもしれません。
1人じゃこの国の批判文化を変えることはできないかもしれませんが、まずは自分の手の届く範囲で、失敗を受け入れる習慣をつけていこうと思います。
ほんまか?
フェイクスポットでAmazonのレビューを分析したら最悪のF評価
ブレないなあ。。。
あのさ、
置き配で置いてもらってもの凄く便利なのと
あれにお願いして入れてもらって、
ルパン参上!とかキャッツアイ!とかサインのところにちゃんと受け取りのサインして受け取れるじゃない!
なので今私が受け取れたもの全てを換算すると100パーセントの受け取り率になるのよね。
すごい私も便利だし駅前の宅配ボックスはいつも飛び込み前転でわーいってお届け荷物の品を取りに行くのよ。
そんでね、
いま、
今この瞬間にトラブルがあって、
その荷物を入れてくれた担当ドライバーさんが荷物入れました!って最終ボタンを押してなかったみたいで、
私が案内された認証番号を入れても該当のお品がありません!って言うじゃない
なーにー!やっちまったな!
私があまりにふざけすぎて、
サインの受け取りに
ルパン三世とかキャッツアイ!とか書くから怒られちゃったのかなーって思っていたら、
普通に納品した際にボックスに入れたとき終了処理をしていなかっただけの話だったらしく、
調べてみてもらったらそう言うことだったのよ。
もうどうしようもないわよねーなんて困っていて困っている山脈に向かってヤッホー!ってそれこそ叫んだらそう言うことだったわ。
そう言うミスってヒューマンエラーがどちらかというと人の思い込みなのかも知れないわねって言うところを私も肝に銘じまくりまくりすてぃーかしらね。
てっきり本当に私がふざけたサインをしていたことに腹を立てて意地悪されているかと思ったわ!
その駅前の宅配ボックスに受け取りに行った際の飛び込み前転が1回無駄になっちゃったわ。
宅配業者さんに確認してご連絡差し上げますって終わったんだけど、
そう言うやり取りをしたくないから宅配ボックスに頼んでいるわけもなきにしろあらず。
なきにしろあらずってよく言うけど、
実はよく意味は分かっていないけれど、
それって私だけ?
いくら私が私だよって私を自ら証明してもAIが違うよ!って言ったら絶対に違うってそんな世の中になったら大変よね。
いまだって、
たまに本当にこれAIの判定間違ってない?って分類がされてあって、
明らかにキッチン用品のジャンルのページなのに腕時計が陳列されていてこれAI分類の妙なのかしら?って
そう言う時の問い合わせ先って一応人間が出て電話口でしゃべっていると思うんだけど、
いやー上司がそう言ってるんでもうどうにもなりませーんみたいに電話終わっちゃったら、
どうしようもないわよね?
何度問い合わせても堂々めぐりになってしまうAI搭載チャットサポートとは雲泥の違いでサービスの差が出てくるのかも知れないわ!
まあ、
一旦は一安心よ!
新しくルパンやキャッツアイの他になにか盗む系の作品のタイトルの登場人物の名前でサイン出来るように今から考えておくわ。
そんなふざけているから
ちゃんと受け取れないのよね!
うふふ。
遅かったので、
と言うか朝はちゃんと起きたんだけどスプラトゥーン3を寝起き一発目やってから
残りの鍋にいつまでも居座っている結局ミートソースパスタのものになってしまったのを平らげてしまって完売ね!
喉が乾くわ!
知らないうちに塩辛くなっていたのかも!
ケース買い出来るところを見つけたいんだけど、
あれもあれで美味しくてお気に入りなんだけど
あまり見かけないのよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「コンマイ語」みたいなので盛り上がってる人にいくら今のルールやテキストがいかに分かりやすく整備されて公式が親切か説いたところで事実がどうか関係なくそういう事言いたいだけだから意味ないんだけど、真に受けてしまう初心者を減らすため事実を発信し続けないとと思って毎日デケェ声を出している
結論を言えば、遊戯王程度の用語でそこまでイキれる理由が皆無だ
コンマイ語なんてのは昔からある蔑称であり、どこでだれがどういうものを指しているのかすら曖昧なステレオタイプの用語でしかない
はっきり言えば「日本人はみんな寿司を握ることができる」みたいな低俗な話であり、マジでどうでもいい
そんなことに一々突っかかって「事実を配信する」って態度はゲーム全体への信頼度を損ねる行為でしかない
言わせておけばいいんだよ
そんでこういうコンマイ語に反応する人たちって、割とマジで遊戯王くらいしかTCGやってない
ようは専門バカすぎて遊戯王でしかこういう話を語れないってのが致命的にダメ
そもそも彼らが比較しているのが日本語と遊戯王の用語ってわかれば、その比較がいかに無意味なのかわかる
なぜかっていうと、およそ大抵の専門用語は日本語で書いてあっても日本語ではないからだ
遊戯王でよくある「対象にする」なども、違うジャンルの専門分野の人からすれば別の意味が出てきてもおかしくはない
日本語になっているけど日本語として書かれていないものはこの世に何百と例がある
その中のたった一つである遊戯王を取り上げ「ルールブックとテキストを読めばわかる」といわれても、逆にその程度のゲームでイキってる方が恥ずかしいじゃんって感覚になる
狭い世界だけで言葉を操っている人の殿様感覚を垣間見ると、外部の人からすれば「またか」ってなっちゃうんだよ
もしコンマイ語について何か言いたいなら、せめて3個くらい他のTCGのルールを持ってきて用語の難しさとか解説すればいいんだが、そういうの全然誰もしないからな
ゲームの中だけでもボードゲームとかも複雑で面倒くさい用語使うものなんていくらでもあるんだし、遊戯王に対してコンマイ語なんて蔑称ついてるのはむしろご褒美だとしか思えないんだよね
事実なんて外部の人にとってはどうでもいい話なんだよね
深夜の翳りに身を晒し、今やっと眼を覚ました。これは魂の夜ふかし、そう呼ぶべきでしょう。
さて、私は時折、American Mathematical Society(以下、AMS)の書籍を求める運命にある。特にStudent Mathematical Libraryというシリーズは、その薄っぺらい体裁ながら、研究の奥深さを体感できるとても理想的なものであり、よく手に取ることとなる。しかし、その紙一重の薄さの背後に隠された内容は、従って、大学院の学生にのみ耐えうるものとなっている。昔、あまりの熱意から何冊か買い求め、積読の山を築いたこともあるが。
その山に埋もれる中、一つの書を読み尽くしたことがある。それは、数理モデリングの書であった。数理モデリング、これは往々にして、ラグランジュの未定乗数法などのよく知られた方法論に頼る傾向がある。しかしながら、AMSの書籍はそのくだらない枠組みにとらわれず、多彩な事例を探求していた。とはいえ、フレンケル教授が言うように、数理モデリングと言っても、ついには「ペンキ塗りの数学」である。
私は数学の最前線を垣間見るようになり、調和解析と数論の奇跡的な交差、フェルマーの最終定理、ガロア群、保型関数など、その深遠さに驚嘆する日々である。最近は、経済学に数学を結びつけることに強い興味を抱いており、mean fieldのような奥深い謎が私を惹きつける。
学びたいことが山ほどあり、私の能力と時間には限りがある。何を学ぶべきか、と悩むのはやむを得ない。しかし、コスパを重視し過ぎると、ついにはペンキ塗りの典型に陥ってしまうだろう。複数の数学の領域を結びつけることは、即座に実用性が見えるものと、その応用が果たしてどこに行くのか見当もつかないものがある。伊藤清が指摘するように、「実用を考慮しなければ、数学で遊ぶことは限りない」。この観点から見れば、私が探求すべき分野は、確率論の領域にあるのは明らかだろう。確率微分方程式とゲーム理論の交わる地点は、実用性との調和によって成り立つ、その方向へと進む決意を固める。
hash: c94da2af8ee4dd6e6ead4da0676b2b97
この記事のタイトルを見てこのページを開いた人達の中で、同じ気持ちの人は何人いるのだろう。
新作が発売されて間もないこの時期、水を差すようで申し訳ないとは思うが、文章として残しておきたかったので書いておく。
新作のネタバレがあるので注意してください。
私はゼルダの伝説というゲームが好きだ。昔から大好きだ。テンプレのように時のオカリナからハマり、過去作も新作もずっと遊び続けた。
おなじみのキャラクターが出ても同じようなギミックやアイテムが出ても古臭さや飽きを感じさせず、常に新しさを感じてきた良いタイトルだ。子どもの頃から遊んで、大人になった今でも夢中になれるほど好きなゲームだ。本当に大好きだ。
ゼルダの伝説のキャラクターは、本作を遊んだことが無い人でも名前ぐらいは知っているぐらい有名だと思う。主人公のリンクとヒロインのゼルダ姫。この二人は毎度違う人物だったり前作と同一人物だったり様々だけれど、だいたいの関係性は変わらない。いつだって二人は「勇者」と「姫」だ。
ゼルダ姫というキャラクターは最初のシリーズでは登場回数も少なく、メインカラクターにしてはやや影が薄かった。だけど気にしたことがなかった。だってプレイヤーの中で「ゼルダ姫」というキャラクターは特別なのだ、そう簡単に会えるものでもないと子どもながらに思っていたし、大人になった今でもその考えは変わらない。
スマブラの影響もあり、私の中でゼルダ姫=時のオカリナのイメージが強かった。そんな中で、風のタクトが発売された。ゼルダ姫のイメージが今までとがらっと変わり、衝撃を受けた。だけど、すんなりとい受け入れられた。だって彼女は性格や人間性が違ったとしても、「特別なゼルダ姫」だったからだ。
重要な時に現れ、リンクを導き、そして一緒に魔王を倒す。王道なすストーリーの中で、ゼルダ姫は物語のヒロインとして輝いていた。
その後も様々なタイトルが発売され、スカイウォードソードが発売された。これも風のタクトの時と同様に衝撃を受けた。だって、今まで特別な存在だったゼルダ姫が姫ではないどころか、序盤から会えるどころがリンクとは既にとても深い関係にあったからだ。
スカイウォードソードのゼルダは新しい存在であったが、愛らしい容姿と一途にリンクを想う姿がまさにヒロインで、すぐに大好きになった。今まで物語のヒロインであったゼルダが、今度はリンクのヒロインになった。姫ではないけれど、やはり特別な存在であることに変わりわなかった。
そしてスカイウォードソードからはゼルダという人物にスポットが当てられることが増えたように感じた。でも、そうなるのも分かる。だってヒロインだし、可愛いのだ。今まで影が薄かった方がむしろおかしいのだ。そう思った。今までリンクとゼルダ姫の関係性に恋愛の様な進展があることはなかったが、きっとこの二人は結ばれたのだろう。リンクのゼルダを救おうとする必死な姿を見て、そう思えた。
2017年3月3日、待望の新作「ブレス オブ ザ ワイルド」が発売された。
ブレワイを発売初日に遊ぶために死に物狂いでSwitchとゲームソフトを予約し、一日中遊び続けた。今までには新しい遊びがたくさん詰め込まれたゲームだった。
はじめは声だけだった姫だが、リンクが記憶を取り戻すごとに彼女がどんな人間だったのかを垣間見ることが出来た。どれだけ修行を積んでも力が目覚めず苦悩する姿、リンクへのコンプレックス…と、今までのゼルダ姫とは明らかに違う人物だった。
それから徐々に感じるようになった。彼女は、本当に「ゼルダ姫」なのか、と。
少しでも皆の役に立つため努力しているけれど報われない、「かわいそうな」ヒロインだった。こういう女性の姿を見た時、多くの人間は「守りたい」と感じるのだろう。だけど、私はそうは思えなかった。むしろ、勤勉な設定なのにどうして役に立つことを物語中なにも行う描写がないのだろう、と。
頑張る姿はこれでもかという程描かれているのに、それが報われるのはリンクの死の間際と物語のラストだけ。いくら「ゼルダはすごい人だ」と言われても、納得が出来なかった。
私は、このゲームを通して「ゼルダ姫という愛されるべきキャラクター」を押し付けられている。そう感じてしまった。
ブレワイのゼルダ姫はリンクを守ってくれない、アドバイスをして導いてくれない、ただひたすら遠くから神秘的な声を一方的に送られるだけだ。役に立つ重要なアイテムをくれたりもしない。光の弓矢だって、使えるのはラスボスだけだ。大事な場面だけ登場して、ガノンを封印するという美味しいシーンだけ持っていく。彼女は気持ちを押し付けるだけ押し付けてきて、こちらの考えは聞いてくれない。一体どうして、そんな彼女を愛せることができるのだろうか。100年の間、ひたすらリンクを待ってくれていたと言うけれど、誰が待っていてくれと頼んだのか。勝手に待ち続けて、勝手に満足しているのではないだろうか。
良くも悪くも、彼女はリンクという人間に依存し過ぎている。だけどリンクが彼女のそばにいるのは、彼女が好きだからではない。リンクが勇者で、騎士だったから。それだけだ。ゼルダの中でリンクという存在は大きいだろうが、リンクの中でゼルダという存在は比例していない。証拠も何もないけれど、少なくとも私はそう感じた。ゼルダを助けたいという気持ちを、リンクからは何一つ感じなかったからだ。
思い出を辿っていく中で、リンクの記憶のはずなのゼルダ姫目線のものばかりなのも気になった。捏造された記憶を見せつけられているのではないか、と思うぐらい。
だけど、ゲームはとんでもなく面白かった。ゼルダ姫という人間は理解できなかったが、それでもゲームをクリアできたのは彼女の姿も名前も、ほぼ記憶の中と終盤しか出てこなかったからだ。
そしてついに、ティアーズ オブ ザ キングダムが発売された。
プレイ前から、嫌な予感はしていた。ゼルダ姫という人間のゴリ押しをひしひしと感じたからだ。だけれど、ゲームはやはり面白い。空島だけで夢中になってしまっていた。そして始まった、怒涛の「ゼルダの伝説」のムービーが。
どのムービーもゼルダ姫、地上のモブキャラクターの口からもゼルダ姫、他のメインキャラクターと会話してもゼルダ姫。どこを見てもゼルダゼルダゼルダの嵐だった。
いずれ訪れる未来を救いたいと、自ら龍になりマスターソードを癒し、リンクを待つゼルダ姫。それはもう感動のシーンなのだろう。私以外の人間にとっては。
龍の泪のストーリーを終え、涙が散り地上絵になった瞬間に悟った。ああ私、このキャラクターが嫌いなんだ、と。
どうして、こんなことをする前にもっとリンクの為に力になるシーンが無かったのだろう。どうして、おいしいところだけ持っていこうとするのだろう。どうして、頼んでもいないことを勝手にやって勝手に泣いて、勝手に全てをリンクに押し付けてくるのだろう、と。
このゼルダ姫の中で、きっと「私の憧れるリンク」という存在がある。そのリンクは、プレイヤーが操作しているリンクとは違う。彼女は頭の中のリンクに依存し、そして自分の思い描く完璧なストーリーを辿ってくれると信じて疑わない。だから押し付けてくるのだ、なにもかも。
ブレス オブ ザ ワイルドもティアーズ オブ ザ キングダムも、本当に素晴らしいゲームだ。だけどたった一人「ゼルダ姫」という存在の為に、手放しにこのゲームを大好きだと言えなくなってしまった。ムービーの度に現れる姿にもテキストの中で名前が出てくるだけど辛くなり、ゲームが出来なくなってしまった。どうしてこうなってしまったのだろう。私はもう、このゲームを好きだと言える資格を持っていない。
唯一の救いは、2作も出したのだからきっともうブレワイの系譜の続編は作らないだろうということだ。新しいハイラルで、新しいリンクとゼルダ姫を見守りたい。一刻も早く、そうなってほしい。
コロナ政策に関してリスクコミュニケーションをすると、それが医療的な側面であれ、経済的な側面であれ、人の死という話は避けて通れません。しかし、はっきり言って、日本国民にこれを受け入れる度量がありません。人命の話をすれば、理屈を越えたウェットな批判がいっぱい来るのは目に見えています。そうなのであれば「言わないでおこう」となるのが、政治側の都合だけを考えれば当然の帰結であるわけです。
厚労省のサイトの奥の方にある資料や、都道府県サイトの奥の方にある国方針に基づく施策に関する資料を見ると、リスク評価は一定程度されていることを垣間見ることができます。しかしながら、それが表立って語られることはありません。5類移行の話に限って言えば、世論調査で賛成多数でした。それなら、道義的なところには目をつぶって、その空気に乗っかかってしまえ、となるのが自然でしょう。
どうすれば政治家は説明責任を果たすようになるでしょうか。国民が、説明責任を果たさないことこそが最大の悪であると、説明の中身に対するものよりも大きな熱量を持って批判するようになれば、彼らは説明するようになるでしょう。「政治家は話をごまかす」などとぶつくさ言いつつも、しばらくして忘れてしまうのであれば、そうである限り政治家が説明責任を果たすことはないでしょう。
はてなブックマーク - コロナ5類「科学ではなく空気で決まった」 西浦教授が指摘する課題:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR5155P3R4GUTFL01N.html
50過ぎた独身のオッサンが同じ工場で働く女性社員に恋をしたようで何よりだ。
春だし。
定時の時間と共に速攻で飛び出して、まだ作業の片づけをしているその女性社員を横目に帰るのが日課になっているようだ。
なので片づけが終わる前に臨場しなければならないので、定時のサイレンからの速攻帰宅に磨きがかかっている。
SNSでつぶやく『今日も好きな人が見れた』という書き込みが微笑ましい。
春だ。春が来た。
秋には実るとは限らないが、春なのだ。
個人的にはアナキン・スカイウォーカーのフォースの暗黒面を感じたヨーダのように一抹の不安があるが、今は干渉外で静観を決め込む予定である。
なんせ、春なのだ。
この春から始まった盲目的に恋に走るオッサンの人間ドラマを垣間見ることで、新たな見識を得ようと思う。
ファーストシーズンで終わるのか、セカンドシーズンがあるのか。
バッドエンドかハッピーエンドか、純愛ストーリーか、ヒューマンドラマか、はたまたサスペンスホラーなのか。
俺はその先の展開を読めない。
横須賀線に乗って品川を過ぎると、品鶴線と呼ばれる区間に入る。
この区間では3回、東急の線路と交差する(大井町線、池上線、東急多摩川線)。
といっても、交差するだけで、相互に乗り換えができるわけではない。
横須賀線は比較的速達性の高い路線であり、駅数もさほど多くないからだ。
乗り換えができるわけでもないのに、3線とも交差位置上に駅を設けている(下神明、御嶽山、沼部)。
おそらく東急側は、いつか横須賀線側にも駅ができ、乗換可能になると踏んで、駅を作っておいたのだろう。
しかし、それらは未だに叶っていない。
横須賀線に乗ってそれらの駅を垣間見ると、横須賀線に対する東急の想いみたいなものを感じてしまう。
この駅は、平成22年のダイヤ改正時に完成したかなり新しい駅だ。
それでも、辺りのタワーマンション開発に押され、ホームはつい最近、上下分離されたほどに賑わうようになっている。
そのため、もはやマンション開発のために駅が作られたかのようにさえ思えてしまう。
横須賀線の武蔵小杉駅は、もうひとつのJR線である南武線と接続するために作られたのだった。
南武線沿線から東京駅方面への流れを作るために、駅が作られたのだった。
そして、武蔵小杉にはそれ以外にも駅がある。
そう、横須賀線の武蔵小杉駅が誕生するということは、東急の「想い」を叶えることでもあったのだ。
その乗換経路は、南武線ホームを介して相当に離れているのだけれども、ようやくのことで乗換が可能となったのだ。
先の3線のように、隣接地ではないけれど、横須賀線への東急の想いは、期せずして武蔵小杉で可能となった。
そうして、横須賀線間近にある東急の駅から、一方での武蔵小杉駅の誕生へ、という一連の流れを頭に巡らせると、
横須賀線と東急が人格を持っているかのような、綿密な物語さえ感じてしまう。
そういうことを通勤の行き帰り、頭の中に巡らせることがある。ごちそうさまでした。
そんなライフプランセミナーのカリキュラムの一つに「定年後の過ごし方」という講習が設けられていることもある。筆者も様々な企業に出かけてライフプランセミナーの講師をやる時に、定年後の働き方や趣味等の見つけ方などについて筆者自身や取材した方々の経験から、心得ておいた方がいいことについて話をする機会も多い。
ところがそういったセミナーに参加している人たち、中でも男性は、ほとんどが定年後の生活に対して自信なさげなのである。夫婦同伴でセミナーに参加するケースも多いのだが、そういう時は決まって女性の方が熱心で、定年退職後の生活プランを積極的に考えているのに対し、男性の方は大概、訪れる定年後というものに対して、今ひとつイメージがつかめていないようなのだ。
さらに言えば、実際に定年した後、活発に活動したり、様々なイベントに参加したりするのは圧倒的に女性が多いそうである。ある全国紙の記者と話していた時に、彼女は「なにかイベントを企画しても来るのは7割が女性。男性はみんな引きこもりがちになってしまうんですよ」と言っていたことを思い出す。一体どうしてそうなるのかが不思議だったのだが先日、ある女性の方々数人と会食をしていた時に出てきた話でその謎が解けた。
一緒に会食した彼女達の年齢はいずれも40~50代、職業は独立したファイナンシャル・プランナーであったり、会社員であったりと様々だったが、いずれの方々にも共通するのは結婚の経験があり、仕事も何度か変わったことがあるということだった。女性の間に混じってお話を聞かせてもらうと、我々男性とは違う発想を垣間見ることができ、とても面白いので、筆者は割とそういう機会が好きだ。
その時、ある1人の女性が言い放った言葉によって、それまでの疑問が氷解した。
それは「男の人って、アウェイになったことがないのよねえ。だからアウェイの立場になると、どうしていいかわからずに混乱してしまうのよ」という言葉であった。その場にいた他の女性もこれには大きくうなずき、さらに「そうそう、特に大企業にずっと勤めていた人ほど、まったくアウェイの経験がないのよね。だから困ったものなの」というコメントも出てきた。確かにそれはそのとおりである。筆者自身、定年まで一つの会社に勤めていた典型的なサラリーマンなので、退職したとたんにアウェイになるという感覚は非常によくわかる。
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なるほどなあ
これはしょうがないよな
憲法の最高規範のやっかいさを端的に表現していて興味深い。ブクマの反応も含めて。
憲法が憲法自身を自ら最高!と自己規定する、というのは、そもそもマジックなんだよね。
これに答えられなければいくら教科書の言説を取り出しても意味がないよ。
法律というのは、根拠をすべて憲法に求めることができるんだけど
憲法だけは違う。なにせ最高規範なんだから、その上に憲法を基礎づけるものはない。
なんで最高なの?というと問いに、オレ(憲法自身)がサイコ―だっていってんだからサイコーなんだよ!というだけである。
しいていえば、今の憲法の思想が好きだ、重要だと思う、という社会のコンセンサス(通説という言い方をすることが多い)でしかない。
なので、社会のムードにとても左右されやすいのが憲法の脆弱性といえるんだよ。
だから、常に普遍的な原理だ!とかって言い続けてなければならなくて、わかってない奴や反論する奴がいたら、速攻でモグラたたきをしたがるわけ。
憲法の持つ本来的な脆弱性については、例えば、18世紀のアメリカの制憲の始祖たちも随分、起草前は随分悩んだらしく、
有名なフェデラリスト論文は、匿名で書かれ、憲法制定に至る思考実験を垣間見ることができる。
米国では、司法の世界をがっちりと国民参加も含めて重層的に構造化したから、その思考実験の結果が社会全体に引き継がれている。
陪審制をみたフランス人のトクヴィルが感動したのは有名な話だね。
連邦最高裁の重要判決ではほぼ必ず、制憲時の思いにさかのぼって答えを出す。
日本は、戦後、ある意味、そういう産みの苦しみを思想家たちが共有せず、戦禍というキーワードでなんとなく丸め込んでしまった(前文)。
そうすると、必然的に、戦争の記憶が薄れれば、憲法も意味がぼやけてくる。
立憲主義の意味だって、教科書開いて調べるようなもんじゃないんだよ。社会の仕組みとしてそれをいいと思うかどうかの話なんだから。
いいと思わない奴がいても全然構わないし。
【前編】
https://anond.hatelabo.jp/20220502223251
次は、私が現場で直接に『畜生』と対峙した際の経験だ。「マジでクソだな」の2つ目になる。
あるアニメの記念すべき回の収録(製作委員会の各社代表が参加。弊社からは私)が終わった後、スタジオの待合室で出版社の人と雑談をしていた。この後で飲み会をする約束を取り付けてから、私が座椅子を立ってトイレに向かう途中の廊下で、それは起こっていた。
男性声優(以下「男」とする。声優と呼ぶだけの価値はない)が、違う事務所の女性声優の手首を掴んで言い寄っていた。男は、自動販売機の近くの壁に女性を押し付けるようにして口説いていた。ご飯に行こうよ、とのこと。女性に逃げ場はないし、顔も近かった。女の敵は権力者だけではない。あらゆる状況において存在する。
私は距離を取って観察していた。考えが誤っている可能性があるからだ。しかし、やはり女性は嫌がっている。顔はこわばり、体は斜めを向いて男と視線を合わせないようにしている。それを確かめて私は、ぐいぐいと2人の方に歩いて行って、声をかけた。
「ちょっといいですか。この子は嫌がってるみたいです。やめた方がいいと思うのですが」
「あ?いやいや……おかしいやろ」
歯切れの悪い言葉とともに男は黙った。お互いに顔は知っているが、話したことはなかった。
返答を待っていると、男が「こっちのことなんで。うちら同士のことなんで関係ないでしょ」と、女性声優を連れて移動しようとした。
私の記憶では、「待て!」と叫んでいる。左手で男を制したはずだ。
「やめろと言ったろ。私がどういう立場の人間かわかってるよな?」
そう言って睨みつけると、男はまた黙った。
「今回に限っては、この子の事務所に報告するだけで済ませる。あなたの事務所には話さない。その子の手を離して、もう帰ってくれ」と彼のための逃げ場を用意したのだが、それでも手を離さなかった。
目いっぱいまで男に近付いて、額の辺りを睨みつけた。「帰れ」とだけ告げて、それでまた男の目を見続けた。
すると、男が女性の手を放した。舌打ちをして玄関の方に移動していった。収録の時は大人しい印象を受けたが、こんな人間だとは思わなかった。
女性を見ると、真下を向いていた。鼻をすする音が聞こえる。顔は前髪で見えなかった。
「マネージャーに報告しないとだめだよ。難しかったら、私が一緒に行ってあげるから」と言うと、「ありがとうございます」とだけ返ってきた。そういうわけで、その場は事なきを得た。
飲み会前のトイレに行った後、出版社の人とスタジオを出る時、その子がマネージャーと一緒にいるのと確認して安堵したのを覚えている。
それで、入口の自動ドアを通り過ぎたところで、ある理由でマネージャーに呼び止められた。以後数か月の間、さっきの声優の子と色々あったのだが……これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
まずは以下のサイトを紹介する。エンタメ作品をレビューするためのサイトだ。
1回で読み切れる量ではないため、後でまとめて読まれるのを推奨する。
https://sakuhindb.com/janime/7_DOKIDOKI_21_20PRECURE/
https://sakuhindb.com/janime/7_Star_20Twinkle_20Pricure/
概要を説明すると、前者はプリキュア暗黒期(2011~2015頃。男児向け作品の出身者がプロデューサーだったのに起因するらしい。確証はない)と呼ばれる作品のひとつだ。後者については、「東映アニメーションが若手女性プロデューサーを大抜擢!」というアニメ雑誌の記事が記憶に残っている。
上のサイト(作品データベース)では、プリキュアシリーズにおいて「非常の悪い」の評価数が多いものがたまに現れる。
ネタバレを回避しながらコメントを紹介していく。『ドキドキ!プリキュア』だと、「主人公が実は一番自己中」「パロディが多く、児童向けとしてふざけている」「赤ん坊になんてことを」といった【作品の感想】を見つけた。
同じく、『スター☆トゥインクルプリキュア』だと、「主人公の声が無理」「追加メンバーの扱いが悪すぎる」「最後のあたりでメインテーマである多様性を否定」といった【作品の感想】があった。ここまではいい。批判というのはあってしかるべきだ。
稀にではあるが、質的に異なる評価やコメントがある。スタッフを誹謗中傷することが目的であり、作品の内容は二の次、三の次といった次元のレビューを見かけることがある。プロデューサーの経歴にやたらと詳しく、シリーズ構成や脚本家が過去にどんなシナリオを作ってきたかを把握している。業界用語もポンポン飛び出す。
こういったレビューは言うまでもない。アニメ業界内部の人間が書いている。「なぜ私じゃなくて、あいつが評価を受けるんだ。なぜあいつが表舞台に立っているんだ!?」という至ってシンプルな理由――妬みや嫉みである。
彼ら彼女らは、特定個人をこき下ろす目的で公共の場にコメントを書き込んでいる。製作スタッフしか知らない内容や、業界人でないと考察できないレベルの内容がつらつらと並んでいるのを見ると、慙愧に堪えない思いをすることがあった。
嫉妬なのだろう。他人が成功することで自らの地位が低下するという思考に由来して、こういった行動が起きる。彼らは悲しい存在だ。他人を蔑んでいる時点で、相手が自分より優れていることを認めている。このように仲間を大事にできない者は組織も大事にしないし、自分すら大事にできないことが多い。
これとは逆に、相手を賞賛するというのは、事実を客観的に把握したうえで仲間を尊重する行為だ。自分=相手=組織、という感覚があるから相手を自然に認め、褒め称えることができる。仲間が成長して賞賛を受けると自分も気持ちいい。そういう原理が働いている。
特に、健全で安定した自尊心(自分に価値があるという意識。誇り。自分は影響力のある、重要な存在だという感覚)をもてるかどうかは、りっぱな価値ある仕事を自己の内部に取りこみ、自己の一部にできるかどうかにかかっている。
完全なる経営(2001/11/30) アブラハム・マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.25
人間は、精神的に未発達な時期がある。少年期~青年期は特にそうだ。自分はすごいと思いたがり、他人はすごくないと思いたがる。常に上に立っていたい。だが、精神が成長すると、人間を比較することに大した意味はないことがわかる。
エンタメ業界の問題点は、精神的に未発達な人間が多すぎることにある。そういうわけで、公共のインターネット掲示板で、同じ会社の仲間を糾弾するといった行動で鬱憤を晴らそうとする。嘆かわしいとは思うが、あくまで当人の課題であり、私にはどうすることもできない。当人が成長することでしか解決しない。
アニメ業界で活躍していきたいと考える人が、有象無象に足を引っ張られない未来を願っている。私には、そういった人間を相手にし続けてなお、作品作りへの情熱を燃やすだけの『好き』がなかった。
だから、この業界を辞めた。心が限界で、いつしかアニメが好きではなくなっていた。
だから、残業が少ない仕事を選んだ。今はしみじみと会社員兼農家として生きている。
以上でこの日記は終わりだ。一万字もお付き合いいただきありがとう。デリヘルの人ではないから安心してほしい笑
これまで、私を育ててくれた業界に感謝を述べたい。楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、憎しみを覚えたことも、とにかく多くの経験を与えてくれた。
私はこの業界から去って、田舎で暮らすことを選んだ。けれど、業界に残ったあなた達が、今でも人の心を動かせるだけのコンテンツを作り続けているのを知っている。
最後に、大人の男性向けに春アニメを紹介する。今は5月なので5本を挙げる。
それぞれ400字以内になるよう心がける。順番に意味はない。思いついたものからだ。
放送前は「まだ0話だけど切るわ」という意見がちらほらと散見された。今では覇権枠候補として認識されている。
これ子ども向けだよね?と思っているのなら、はっきりいって違うので、ぜひ3話まで視聴してほしい。音楽好きにはお勧めだ。
作品全体として優れている。P.A.WORKSらしい安定した作風である。
コンセプトも、脚本も、演出も、作画も、キャラクターもすべてが及第点以上だ。
孔明の英子への愛情が見て取れる。彼女の歌を1人でも多くの人間に、世界に届けるために奮戦する姿に胸を打たれる。
2. ダンス・ダンス・ダンスール
バレエが題材だ。
こういう独自性のあるアニメは、面白いかつまらないかの二極になりがちだ。当作品は、もちろん前者である。
作画はかなりOK。人間が動いている感じがするだけでなく、その実際の動きを見ている者がどう視覚するかまで含めて画を描いている。
そういう描写が1話からビュンビュンと飛び出してきて、まさに圧巻だった。
シナリオもいい。作者がどれだけ等身大の中学生を描いているかを垣間見ることができた。リアルだ。あまりにもリアル。あー、昔はこんなんだったな、と感じてしまう。
課金して原作を読んでみたけど、やっぱり原作者(ジョージ朝倉)の実力が違う。レベルが違うとはこのことだ。
スタッフが本気で作っていると断言できる。というか、今季アニメは当たりが多すぎる。最終回まで残り2ヵ月もある。楽しみだ。
これが好きな人は、『ボールルームへようこそ』も楽しめる。
3. であいもん
こういうのでいいんだよ。こういうので。
4. SPY×FAMILY
覇権枠だ。
製作委員会がそれぞれ大量の資金とスタッフを出し合い、平均的なアニメの実に3~5倍以上の予算と時間を使って最高のものを作り上げる。これは、そういう類のコンテンツだ。
WIT STUDIOとCloverWorksの共同作品になる。
(「進撃の巨人」と「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の制作会社)
原作者は長年漫画家として活躍しており、ベテランの域に入りつつある。
この『SPY×FAMILY』の漫画原作の序盤は、無理やり感のある脚本運びだ。
あまりにこじつけ的な舞台設定や、シナリオや、キャラの言動が見受けられる。それらは間違いない事実だ。
だが、中盤以降はキャラクターがどんどん生きてくる。
ネタバレはしない主義なので伏せるが、尻上がり的にどんどん面白くなっていく。
このアニメを見続ける価値はある。最初の方だけ我慢すれば、きっと楽しめるようになるだろう。今後の展開をお楽しみに。
ニコ動出身のクリエイターユニット『HoneyWorks』の楽曲のスピンオフアニメ。
ハニワというと、やはり「女性向け」を想起する人がおられるだろう。
これは、男性も楽しめる作りになっている。ハニワは女性メンバーが主体だが、男性も一緒になって創っている。安心してほしい。
主人公はいい子だ。ドジなところにも明るさがあって、人生への本気度があって、好感が持てる。
私が好きな社会心理の本に、「男性はカタログとシチュエーションに萌え、女性は物語と関係性に萌える」という文言がある。
まず、女性向けという観点でいうと上の相関関係は合格点を超えている。細かくは述べないが、人間関係は大変濃いうえに、ドロドロすることもある。
男性向けという観点からは、「シチュエーション」を挙げよう。第3話のMV撮影回において、とある胸糞描写がある。終わりの方で、まさに倍返しとばかりの展開があるのだが、これがまた爽快だった。この回で全話視聴しようと決意した。芹澤優の演技がバッチリはまっていた……。
小学生まではアニメの中の美少年にブヒブヒ言ってる腐女子だった。中学生になってから、友人がデビューしたてのキラキラアイドルにはまったので、話についていくために音楽番組を見始めた。
そして私にも同じ事務所の推しができた。友人の推しグループよりもずっと先輩で、世間からはすでにおじさんキャラ扱いされているグループだった。
バラエティも小慣れた感じでこなしていて、ネタ扱いされているようなグループだったが、歌を披露するときはすごくかっこよくて、そのギャップに秒でハマった。
ハマりたての勢いのまま、ライブにも行った。当時はまだメイクなど覚えておらず、ひどい顔面で行ってしまったことを今でも後悔している。
そのライブはいわゆるアニバーサリーライブで、パンフレットではこれまでの活動の振り返りとこれからの展望をメンバーたちが語っていた。
「きっと20年後も、何も変わらず同じ雰囲気でインタビューに答えているだろう」と彼らは語っていた。
私はその言葉にひどく感動した。
私は彼らの仲の良さを垣間見るのが好きで、他のどのグループよりも絆が強いと思っていた。アイドルと名乗るのは憚られるような年齢でも、臆することなく笑顔を振りまく姿が好きだった。
一生推そうと思っていたのに、そのライブが私にとって最初で最後のライブになってしまった。
その数年後には、メンバーの1人が女性問題の不祥事で脱退した。何をしている?と思った。立て続けに数人が脱退した。私が好きだった、アイドルとしてのプライドも、メンバーだけで生きていけるレベルの仲の良さも、全部虚像だったことが分かった。もうそのグループは存在しない。
結局今は小学生のころに好きだったアニメのキャラクターを再び推している。新しいジャンルにハマる気力はもうない。
そのアニメは現在ほとんど供給がない。供給がないということは推しに幻滅することもないということで、疲弊したオタクにはちょうどいい沼です。
現在の推しはとてもストイックで天然なところもある、とってもかっこいい男の子です。元担のように匂わせも風俗通いもしない。二次元最高。