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2019-03-14

無神論者のほうが宗教者の百倍殺してる

キリシタン弾圧をもう忘れたのかよ

リメンバー比叡山

踏み絵までやって思想統制したのは誰だ

2019-01-10

元気モリモリご飯パワーって元号経験あるなと思ったら

元亀のことだった。

織田徳川浅井朝倉と戦ったり、比叡山延暦寺焼いたり、武田信玄が死んだり、足利義昭が京から追放されたりというのを僕らは何度も見てきた。

これが元亀年間のこと。

どうりで覚えがあるわけだ。

逆に元亀っていつだっけ?と思ったら、毛利元就が死んで輝元に代替わりした時期でもあるから、「元亀毛利(元就→)毛利(輝元)ご飯パワー」と覚えましょーね。

2018-11-13

anond:20181113111328

比叡山焼き討ちって、今のポリコレから見ると「罪も無い武士ではない民間人一方的虐殺した事件」みたいに捉えそうだけど。当時の比叡山にいるのは大部分が僧兵だし、A勢力とB勢力の戦い以上の意味は無いような気もする。

最近考古学調査によると、信長時代に焼き討ちされたと判るのは根本中堂と大講堂のみで、「3000人の首を撥ねた」みたいのも誇張なのでは無いか?という説が出てきているらしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)

anond:20181113111328

意識として陸続きじゃないってのはあるよね>比叡山焼き討ち

戦国時代とかの合戦Tシャツでいきり立つ人は少ないんじゃないの?

三国志の有名な戦いTシャツみたいのも別に中国の人は何とも思わないと思う

anond:20181113111643

比叡山焼き討ちのポジティブな面って、

おそらく「当時の僧侶堕落していたから」

みたいな話を言ってるんだろうけど、

そのレベルで言えば原爆投下だって

日本本土決戦を諦めさせ戦争終結を早めた」

擁護されることは多いんだよな…

少なくとも原爆投下日本敗戦象徴になってるわけで、

韓国独立の経緯を表現するのに原爆写真を使うのは

別にからない感覚ではないんだよなあ。

原爆Tシャツって

たとえば「信長Tシャツ」に比叡山焼き討ちや本能寺炎上などの場面イラストを入れたら

天台宗僧侶から延暦寺への差別意識の表れだ!」ってクレームが入ったみたいなものなんでしょ?

2018-10-20

はてブベジタリアンビーガンに対する偏見が低レベル過ぎてヤバい

肉屋を襲う過激派ニュースのせいで勘違いしてる奴がいると思うんだが、ビーガンそもそも過激派でなんでもないからな。

ビーガンは頭おかしい滅ぼせって言ってる奴らは、イスラム教徒は全員テロリストだ滅ぼせって言ってるのと変わらないからな。

欧州じゃ人口的にも数%はいて、お前らがやってるのは、「ユダヤ教教義ヤバイ、全員改宗殲滅しなきゃ」ってのと同等。こっち来てビーガン滅ぼせ表明したら逆にナチスレベル過激派扱いされても不思議じゃない。

ヨーロッパ大学学食じゃ必ずビーガン向けメニュー提供されてるし、若い人にはかなり浸透してきている思想だ。(ビーガンと書かれた食べ物は必ずしもビーガンけが食べるわけではなくて、欧州では肉を食べる量を減らそうと考える人は多い)

典型的批判動物を食べるなら植物を食べるのもおかしいってのがあるんだが、そういうのはあくまで線引きの問題で、「自分と近い命をどこまで尊重するか」という話に帰結される。歴史をたどればほんの少し前まで白人有色人種の間に線を引く人間もいたし、戦争状態ともなれば自国民とそれ以外の間に線ができかける。

それにしてもビーガンは極端に思えるだろうが、伝統的にも欧州で言えば修道士日本で言えば厳格な僧侶実践すべきと教えられてきたことだ(実際はよく破ってたんだが、それは現代ビーガンにもいえるかもしれない)。歴史的にも何一つおかしい話じゃない。(ビーガン滅ぼせって言ってる奴らはもう一度比叡山でも焼くんだろうか?)


肉食わないと生きてけないみたいに言う人間もいるがビーガンよりマイルドベジタリアンは卵とか乳製品食えるから栄養的には問題ないし、ビーガン大豆由来のタンパク質なら食い放題、タンパク質の加工技術が上がってビーガン向けの肉料理もどき加工食品ラインナップが充実したことで、栄養学的にも健康実践できるようになった生き方なんだよ。(多少平均寿命が縮むかもしれんが、こっちは肉の食い過ぎで太り過ぎてる人も多いのでなんともいえない。)植物由来でタンパク質をとれることを知らないレベル議論してる人間ビーガン栄養認識馬鹿にするとかどんな地獄なんだか。

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/newsphere.jp/national/20181019-2/

このブクマ偏見に満ちてるが、犬だって肉食性ではなく人間と同じ雑食性だと記事説明されてるし(実際日本では犬に肉由来のペットフード食わせるようになったのは最近の話。)、動物愛護の観点っていうのは「現状ビーガンドッグフード栄養が足りていないor高価であり保護されるような貧しい犬に行き渡らないという」極めて論理的でまっとうな指摘であって、お前らが表明してるような「犬が肉食えないのかわいそう」みたいなそれこそ人間視点見方じゃないわけ。


あと肉の生産に関する議論を補足すると、肉の生産には飼料コストがかなりかかっていて、地域によっては食料よりも飼料生産が優先されるせいでそこの貧困層人間が飢えているって指摘があるわけ(実際肉の生産止めたところでそいつらに食料がまわるかは知らんけど)。実際ペットフード生産地で餓死者が出てるんだとしたら、動物殺すのも植物殺すのも変わらんお前ら風に言うと、お前らの犬は途上国貧困層人間食い殺してるのも変わらんってことになるな。


ちなみに自分ビーガンじゃないし、欧州じゃ価格が安いのをいいことに毎日肉食ってるけど、自分ユダヤ人でも黒人でも朝鮮人でもないか差別してる奴らを無視するっていうのは違うと思うから怒りの増田を書かせてもらった。




追記誤読している人がいるようだが、普通ビーガン肉屋を襲わない。お前らの見てた海外ニュースには肉屋を襲う過激派ビーガンと呼ぶって書いてあった?度々引き合いに出してイスラム教徒にはすまないが、それは9.11の直後に「テロリストイスラム原理主義者」って誤解を広めたメディアがいたのと似たような問題最近だと一部メディアの「インセル」の使い方もそうか。それにしてもいつもはマスコミ不信決めこんでるのに、何かを悪く言うレッテルときだけは簡単に信じて扇動される層よくない。

もっといえば普通ビーガンは鬱陶しい街頭活動もしない。まあそれは言論の自由だけど。肉食について過剰に批判する層は表現規制フェミと一緒で一部の過激派という認識でよろしい。


ブコメに少し返信

ketudan

統計は知らんが欧州では明らかに多い。出羽守という指摘は正しい。

我が国事情も知らない物知らずが説教するな」っていうのは、ミャンマーサウジアラビア中国弾圧する側は同じようなこと思ってるだろうね。実際のところほとんどの人はそのあたりの国の歴史的背景について詳しくないでしょ?

mori99

ビタミン剤健康によくないという考えは、味の素健康によくないというデマに近接するところにあるんだが、逆にそう思ってるエセ科学層とビーガンが被るところもあってそのタイプ人間無知なまま子供育てると虐待まがいの結果を招くということはあるので難しい問題だとは思う。

verda

一応主語はてブではなくて偏見のはずなんだが。はてブ場所ととるか人の集合ととるか。人の集合にしても思想統一されてないのが当たり前だしなあ。タイトルで煽らないと人が釣れないと思ってたところは残念ながらある。

maguro1111

犬の幸せ特別視する思想いいと思う。やっぱり恣意的な線引きの問題ではある。犬は歴史的にも人にとって特別といえると思う。対立はいいと思う。非難されるべき偏見無理解。あと自由主義を前提とすれば他人自由を奪う押し付けもよくないとはいえる。そういう意味で嫌われるビーガンがたくさんいるのは知ってるが、おかしいのは押し付けあるいは個人自由を軽んじる姿勢であって肉を食べない思想じゃない。犬が肉を食べる自由は、その犬の飼い主の自由なのか犬自身権利なのかという議論はあるだろう。

2018-07-28

難行から易行への分派活動

ほとんどの宗教で、難行から易行への分派活動は見られるよ。

出家して俗世を捨てて厳しい修行をしたり、たくさんある戒律律法を守ったりすれば天国に行ける」という思想には納得感があるけど、古代中世の日々の生活で精一杯の厳しい世界でそうした生き方ができるのは、お金持ちや高位聖職者だけというのが現実だった。

まり難行系の教義だと、お金持ちと高位聖職者しか天国に行けないということになりがち。ということで、「○○するだけで天国に行ける」という教義分派活動生まれる。

キリスト教が「○○しろ、○○してはいけない」という定めがほとんどなくて、神を信じさえすれば救われるという教義なのは、当時のユダヤ教律法重視のファリサイ派が主流派で、それへの改革運動イエス・キリスト活動だったから。

もっとも、カトリックがあれこれ定めを勝手に付け加えたので、ルターがまた軌道修正せざるを得なかったけど。

以下の浄土真宗コピペも似たような感じ。

比叡山修行した法然。→浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜

働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら

おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう」

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。

念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)

心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。

から俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」

おまけ 一遍時宗

「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。

まり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走

から感謝の踊りを踊ろうぜ、let's dance!」

https://anond.hatelabo.jp/20180728124959

2018-07-03

ここではダジャレ言ってもいいんやで

比叡山。ひぇ~

2018-03-27

anond:20180327100644

国家暴力装置である」と喝破して批判された政治家が昔いたけど、「なぜ人を殺してはいけないのか」を突き詰めて考えてみると、そのことにたどりつく。

現在近代国家においては、一般市民武装することを許されていない(日本欧州諸国の話。アメリカについては例外中の例外)。

暴力武装を独占していいのは国家だけであり、具体的には軍隊警察組織の2者が暴力を独占する。

国家暴力を独占することによって、国家内における治安を維持することが出来るようになる。

よって、一般市民暴力行使してはいけない。つまり、人を殺してはいけないし、人を傷つけてはいけないし、他人の物を盗んではいけない。

暴力行使していいのは、交戦権を持っている軍隊と、刑事訴訟法に基づいて執行する警察組織だけ。

中世日本統一政府が無かったので、各貴族豪族宗教寺院自分武士を雇って武装して、自分の身を自分で守っていた。

昔の東大寺比叡山延暦寺は自前で僧兵を雇って武装していたらしいことが歴史書に書かれている。

暴力行使してはいけない、という考え方は明治維新後の近代国家価値観なので、まだ150年ほどしか経過していない。

もし増田が人を殺したいと思ったら、公務員試験を受けて自衛官警察官防衛出動海上警備行動を発令できる権限のある防衛大臣刑務所刑務官死刑判決を下せる裁判官を目指せばいいのではないか

2018-03-01

会社サボって京都に行った時の話

 

「どうして人って自分理解できないことに対して寛容になれないんだろうね」

会社をサボろうと思ったわけじゃなかった。今日だけは一人になりたいと思った。自分の割り振られている仕事はこっそりやっておくつもりだった。なんだけど、昼すぎには東京駅から広島行きの新幹線に乗っていた。大学生ときはこんな簡単に乗れなかったのに。少しだけ大人になった気がした。

なんで京都だったのだろう。多分、その意味無意識自分にはわかっていて、意識自分にはわかっていない。思えばいつもそうだ。いつも無意識自分は答えを出している。懐疑的な僕だけが無意識に出した答えを理解できずに苦しんでいる。無意識の僕は僕よりも僕のことを理解している。なんでなんだろう。僕はいつも僕に負けている。

京都についたらとりあえず清水寺に行こうとだけ決めていた。京都駅から歩くと30分以上かかってしまうけど、歩いていきたかった。ただ歩きたい時もある。その時はそういう気分だったのだ。

 

 

清水寺植民地なっちゃったよw」

タカは、「清水寺日本人全然いない」と驚いた様子の僕に向かってそう言った。京都についた時、一応連絡しておいたほうが良いだろうと思って連絡を入れたところ、

タカから「急にどうした?」と返信が来たので、「確かに急だったわ。なんか一人になりたくて」と言った。するとタカは何かを察したように

「19時から会おうよ。なんか食べたいものある?」と聞いてきた。僕が「お好み焼きもんじゃ」と注文したら、「もんじゃ東京食べ物からw」と笑われてしまった。

もんじゃ東京食べ物なのか。もんじゃとかお好み焼きとかはなんとなく関西発の食べ物イメージがある。本場のお好み焼きはやっぱり広島なのかな。よくわからないけど、関西に来たら食べるべきものってその辺なんだろうなって思っていたのに。

 

 

 

「よくわからんのだけど、多分おれ社会人向いてないわ」

タカは呆れた顔で「今更?」とだけ答えた。

「そんなことはわかっているんだけど、なんかほら、そういうことじゃなくてさ。向いていないことなんて百も承知だったよ。だけど自分はそれが自分課題だと思っていたから。克服すべきものだと思ってた。昔から社会性のなさで怒られてばっかりだったし、大学入ってからもそれは変わらず指摘を受けるばかりだったから」

「りゅーちゃんにそれは無理だと思ってたよw」

僕もそう思っていた。だけどそれでもきっと何かを変えるためには、多種多様な方々と協働することが求められるのだと。そう考えた時、社会性のなさは致命的だと思った。

・・・まぁ確かに、いまこうしてここにいる時点で克服できるとは言い難いね。笑 タカはどうなの?こうして今自分事業やってるわけだけど。俺と似たような課題感じていたわけでしょ?」

「もちろん全くできないよね。絶対無理!ってわかってたか半年で辞めるつもりだったしね〜。

 ただ私の場合成功体験があったからさ。大学時代に。それでイケる実感があったよね。まあ、最低限のお金さえ回っていれば潰れることはないしね。」

僕は店員さんが焼いてくれたお好み焼きに青のりをかけてからヘラで4等分にした。

絶対無理かあ。それ、いいね。俺も決め切れたら少しは楽だったのかもしれん。だけどやっぱ、難しいわ。」

タカは4等分にされたお好み焼きひとつ取って、息を吐いた。

「なにがあったの?」

 

 

 

お店を出てから、「これからどうするつもりなの?」と聞かれたので

漫画喫茶に泊まるつもりだよ。あ、それか温泉の付いているホテルとか、今から入れないかな?」と言った。

明日みんなで温泉いくよ。学生の子達連れて合宿すんのよ。宿泊費とか食事代とかはうちで持つからメンターやってくれない?明日には帰るつもりなんだっけ、帰るの明後日なっちゃうけど。」

温泉・・・宿泊費タダ・・・

すごい魅力的だった。でも急に押しかけてそこまでしてもらうのは申し訳ないと思ったので、

「いやさすがにおれなんかがメンターとか、大丈夫か?これ・・・なんかみんなきまずくしちゃいそう。。」気を遣ってみたのだが、

「なにさっきからうるさいわ!こういうのは流れで行くもんだろ!そういう旅なんじゃないの?今回は!」と怒られてしまった。

こんだけ勢いのある感じなら、確かにスパパーンと会社を辞めて事業を興すくらい容易いんだろうなと僕は思った。今日タカの家に居候させてもらうとして、合宿に参加させてもらうことにした。

 

 

自分のやりたいことを実現するためだったら、政治的な動きだっていやだと思うことないって言ってる人がいてね。その人の気持ちがよくわかる。今京都行政トップの人たちとお話する機会あるけど、そういう人たちの理解をいただくのとかって、自分事業のためだったら苦じゃないよ」

いつから僕は人から好かれることが苦手だと思うようになったのだろう。いつのまにか、目上の人はみんな自分のことをいけ好かないやつだと思っていて、余計なことを口走るくらいなら、会話せず穏便に済ますほうがいいと思うようになった。みんなから気に入られて、それでコトがうまく進むのなら、どんなに生きやすいだろうか。

自分は人からどう見られているかに対して無頓着なままだった。ものすごくくだらないことだと思っていたし、気にしても仕方がないに決まっていると思っていた。みんなが意識せずに行っていることを全くしてこなかったからか、まわりからどう思われているのかを意識することがまるでできないらしい。それに今だって、心底どうでもいいと思っている。自分価値を人に決めさせてしまって良いのだろうか。それは僕に対して最も無礼な態度に思う。

 

でも多分、こんな僕だけど目上の方々は僕が苦手だと思っているほどには僕のことを苦手としていないのだろう。きっと僕が歩み寄り方を知らないだけで。

 

 

 

嵐山から望む京都景色はとても奥ゆかしくて、いつまでも眺めていられた。奥嵐山にはちょっとした小屋があって、ベランダみたいなところから景観を味わうことができる。ボケーっとした顔で座布団の敷かれたベンチに座っていると、住職おっさんが僕の隣に座り、京都のことや奥嵐山のことについていろいろ教えてくれた。四条にある木造カフェブレンドウィスキーを入れて飲むとか、でもおっさんウィスキー水割りにしてそのまま飲むとか。ブラタモリで紹介されたとか、夏目漱石がここで昼寝して帰ったとか。14時になった時、僕の隣で法螺貝を吹いてくれた。宗派によって吹き方が違うらしいのだけど、どこがどう違うのかまではわかりそうになかった。

比叡山に行きたいの?今が一番のチャンスだね。本場の比叡山体験できますよ。」住職おっさんは言った。

「本場ですか?本場というと・・・

修行僧が登った比叡山だよ。2月寒いし、ロープウェイが動いていないからね。バスも出てるけど、歩いて登るんだ。修行になるよ。」

「それは過酷ですね・・・いまから行くと登り切れなさそう。」僕は残念に思った。

これは無意識の僕と意識の僕が対話をするための旅なのだからもっと旅らしいことをしていいのかなって思った。さすがに歩いて登るわけにもいかいから、ひとまず夜行バスの予約をして、そこから京都駅レンタカーを借りて比叡山を登ることにした。

 

 

「これからどうするつもりなの?」僕は言った。

比叡山の頂上から見える夕暮れの景色の美しさに言葉が出なかった。奈良まで続く京を一望できた。この景色がまさに権力象徴しているように感じた。僕はこの平地に思いを馳せた当時の人々のことを思った。ある人は太平を願い、ある人は戦乱を望んだ。比叡山を焼き討ちするくらいの器量は僕にはないだろうな。僕は彼の方がバグっていることに少しだけホッとした。「それよりはいくらか、だいぶマシだよな。」

京の反対側の景色も好んだ。どこまでも山脈の続くような予感が僕の想像世界を掻き立てた。さらにすぐそこに琵琶湖があって。つくづく京都はいいところだなって思った。この景色をいつでも見られるなんて。

これから東京に帰る。そう思った時、 タカの家のドアを開けた6階から景色を見て、「うわ、すごいねこれ、タカにとっては見慣れた景色かもしれないけど、俺にとってはすごい貴重なものだよ」と言ったことを思い出した。

タカは「知ってるよ」と満足げに笑った。


 

 

タカの部屋には今だに世界史教科書政治経済用語集が置いてあって、僕たちはそれを手にとって、

「うわあ、いまやったらすげえ理解できるのに。。東インド会社とかって、もう、そりゃそうするよね・・・

政治経済もやってたの?あれ、二次試験って、文系2科目? うわ、すごい、ケインズ説明。みてこれ。この一文にケインズ政策とその課題点書いちゃってるよ。」

と盛り上がっていた。

知らないものに対して関心を持つことは難しい。僕は勉強が苦手で、覚えなければならないことを覚えることができなかった。そんなことよりも日本史whyを解き明かして行くのが好きだったのだ。

「なぜこの絶望的な状況下で戦争に踏み切ったのか。教科書では陸軍の勢いって書いてあるけど、それだけで本当に説明つくのかな?」

いまだからわかることが受験時の記憶から解き明かされるのが面白いアームストロング砲を答えとして書かせる大学があって、当時は「なんだこの重箱クソ問題」と思っていたが、その答えを書かせることで戊辰戦争真意を解き明かすきっかけになっていることに後から気づくことがあるといったように。

無駄ものっていうのは実はそんなにないのかもしれない。

それを解釈活用する力がないだけで。

 

 

 

国際会館駅からバスで30分ほどの旅館から帰ってきた時、

改札前で「これからどうするつもりなの?」とタカは言った。

「ん〜どうしようかな。帰りのバスまでフラフラしたいな」

「いや、そっちじゃなくて。辞めちゃいなよ。リクルート

彼女は僕よりも僕が今一番欲しい言葉を知っている。

 

 

2018-01-29

睡運瞑菜題目を唱えるだけで21世紀社会を生き抜くことができます

古来、睡眠運動瞑想一定量野菜ルールを遵守することで精神的に安定し、21世紀社会を十全に生きていけると説かれてきました。

しかし、鎌倉武士ブラック気味の社員にとっては、あるいは貧困層にとってはそれらは経済的にも時間的にも難しいものでした。

比叡山で修業した者の中には、睡眠運動瞑想野菜絶対性を重視して、これらを実践する以前に、これらを口に出して唱えるだけで効き目があると説くものが現れました。

これを他力本願といいます睡運瞑菜絶対性に帰依するのです。

南無睡運瞑菜

南無睡運瞑菜

南無睡運瞑菜

南無睡運瞑菜

こうして睡眠運動瞑想野菜の教えは更に一般に広まることになり、現代に至っています

2017-10-21

anond:20171021200303

誰だっけな、たしか曽野綾子

織田信長比叡山焼き討ちをして僧侶虐殺したのは知的業績である」ということを理解するにはある程度の知的鍛錬が必要となる

みたいなこと書いてたけど、結局そういうことだと思うよ

おわかり?

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2017-05-14

[] 阿闍梨

阿闍梨あじゃり)餅は、京都市満月製造する菓子

  

丹波大納言の粒餡を、さまざまな素材を練り合わせた秘伝の餅生地で包み、焼き上げた半生菓子

しっとりした皮と自家製餡の絶妙なる調和…。

独特の食感を楽しめる逸品。

  

比叡山修行する僧にちなみ命名。形は阿闍梨かぶる網代笠を象った。

http://www.ajyarimochi.com/a_ajarimochi.html

http://www.ajyarimochi.com/a_kasidukuri.html

2017-01-20

虐殺があったとか、なかったとか。

虐殺

あった とか

なかった とか

政治的スタンスもあるんだろうけど

なかったというのは

民族として、そういう事はしない、美しい民族だという事が言いたいんだろうかね。

でも、人数は正直わからないけど

あったんじゃないの?

それを虐殺と言うかどうか

というのは やはり被害側、そばで見てきた側の立場というものがあるわけで

何らかの加害行為があったのであれば加害者側がどうのこうの言いだすのは廉直な姿勢として

どうなんだろうか。

もっと加害行為をしたのは先祖の話であって

はっきり言って今の自分関係ないと思いたいよね。

犯罪者の子供を差別するような事はしないと思うけど

事件が起きたら犯罪者の子供をいじめたり

被害者でもないのに家族を責めたりって

そういう事は普通はしないと思うんだけど

でも現実被害者家族は恨みに思う気持ちもわかるわけ。

何とかなりませんかね










比叡山焼き討ち事件

2016-06-09

延暦寺僧侶暴力

見出しを見たら、僧兵が蜂起して強訴でも起こしたのかと思ってしまう。

実際のニュースはこちら。

http://this.kiji.is/113466795994908154

比叡山延暦寺40歳僧侶が25歳の修行僧を殴り鼓膜が破れるけがを負わせた。

これは普通企業で言えば「パワハラによる傷害事件」ということになるはず。

何故か警察には届けていないらしい。

2015-12-25

各界の様子

エリート高校

 灘開成あたりの話。

 土日は普通に遊んでる。寮にいたが、土日は靴がほぼなくなってるから、皆遊んでるか部活してる。

 勉強リガリやる奴が半分くらい。勉強やらなきゃ即効で最下位まで行くっぽい。雰囲気東工大

 男女交際の話すらでない。

 教師はそこらの学校と同じレベル特にレベルに違い無し。っつか、学校での勉強は、悪魔定期テスト対策程度。自分勉強はやる。

  

医学部

 テスト前2~3ヶ月はお勉強漬け。その時期は一日15時間くらいが多分平均じゃないだろうか。

 大学受験と違って完全に暗記なので、どんだけ疲れていてもやれるから制限なくやる。下手したら大学受験よりやる。

 それ以外の時期は、講義や実習とか必要なのだけ出て。ほぼ普通学生と同じ。

 部活に熱心な奴が多いが、それは将来のコネのためってのが多い。

 人格的に優れてるっていうか、社会的な外面を完璧に作り上げてる奴が9割。皆オトナ。

 恋愛は盛んではない。童貞処女多い。

  

格闘技

 9割草食系。ってかホモ多い。

 末っ子気質ってか、先輩、先生みたいなのに甘えてくる奴が多い。

 肌を触れ合わせてるからか、友情にアツい。

 淡淡と自分いじめられる奴が多い。

 知的レベルが残念なサルみたいな人も多いが、そいつらはそいつらで心はドキュンではない。刺青なければ公務員か?って感じの空気な人が多い。

 無口な奴が多い。

 非常に勉強熱心で。頭は悪くてもとことんやる。英語でもポルトガル語でも辞書見ながら格闘技動画勉強している。

 格闘技に関しては知的

  

医者

 残酷な人が多いと感じる。感情麻痺してる人も多い。半分くらいは人間味を感じない。

 非常に仕事をやることに特化した人間性の人が多い。

 常にお勉強って人がほとんど。

 あと、サイコパスっていうか、暴力的な人が一定数発生する。やっぱ死体を見慣れてるとか関係あるだろうって思う。

 女医さんはメンヘラ多い。

 アレだ、比叡山修行してるお坊さんみたいな。そういう人達が多い。なんか悟ってる。

 恒常的に寝ない生活からか、人の死に関わったり、リスクある処置ときメチャクチャストレスかかるからか、感情的にキレル不安定な人がかなりいる。

 上下関係に異常に厳しい。

 患者と同僚で完全に人格が違うサイコパス多い。

2015-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20150213165717

今の時代に、復活を演出することなんて、出来るの?

しかに、2000年後の戦争の元を作ったのだから宗教って罪深いよな。

儒者仏教徒同士の戦争って、あ。

比叡山の焼き討ちとか、あるね。オウムも、テロだし。日蓮系も、ちょっと怖いな。

2013-10-05

こうして俺はモテ

かつて俺は、女にモテたいと思い、モテる技術的な本を読み漁った。

だいたい「自信を持てばモテるよ」と書かれていた。

勘のいい俺は、自信をつける方法さえ見付ければいいんだと仮説を立て、Googleを走らせた。

すると、「根拠なんかなくてもいい。自分を特別扱いしましょう」こんな話に多く触れた。

なるほど簡単じゃないか。と思い、その日の夜はものすごい自信満々でキャバクラに行った。

とにかく自分を特別扱いして、自信満々な、余裕な態度でキャバ嬢とのトークを走らせた。

多くのキャバ嬢からは「それはいいけど、なんで破けてるTシャツ着てるの?」とか「靴下右左微妙に違うんですけど」とかいじられ、自信が揺らぎそうになったが、かろうじて持ち堪えた。破けているTシャツ何が悪い。俺は特別なんだ。

そんな中、一人のキャバ嬢は、「ああ、楽しい。ずっとこの席にいたいな」と言ってきた。

でも、給料日前だったし、場内指名とか出来るほどお金がなかった。お金のことを考えた瞬間からは、嘘みたいに自分を特別扱いすることが出来なくなった。

なるほど。自分を特別扱いすれば自信は身につくが、社会との接点では服とか、お金と言った社会信用が個人的な自信に影響を与えてしまうのか。

俺はモテたくて、その為に自信を身につけたいと思っている。千日回峰行に没頭できるような、比叡山歴史に名を刻むレベルの自信を身につけたいわけではない。

モテる為の自信は、服とかお金分野で、ある程度他人の評価基準に合わせなくてはならないようだ。

そう考えて、清潔かつ無難ファッションへの心がけと、あと、ある程度金持ちになったらモテた。簡単だった。

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