はてなキーワード: フェティッシュとは
2年付き合っている彼氏にロングスカート黒メイドの女装をさせたい。
相手は美白細身小柄の美人顔というわけではない。体つきも大きく身長は183cmある。
ゴリラほどではないけれどゴツい顔立ちで、ファッションやおしゃれなど見た目にあまり興味がない。
3年着古して穴の空いたTシャツを「穴が空いたからここから手が出せて便利」と喜んでデートで着てくるような人だ。
髪型も邪魔になったから切るスタンスで、目指すスタイリングがあるわけでもないようだ。
この前ネット広告で男性用のロングスカート黒メイド服を見かけた瞬間、彼が着ている姿を見たいと思った。
彼の友人や彼自身はそう思わないかもしれないが、私はそう思う。
化粧もウィッグもなくていい。普段通りの彼にメイド服をドッキングさせたい。
もし着てくれたら泣いてしまうかもしれない。そして沢山可愛いと言いたい。(彼は時々わざと可愛こぶるところがあるのできっと嫌ではないと思う)
同じ願望をもつ輩はいないかと検索してみるも、化粧やウィッグを施したパス度の高い女装をさせたい彼女たちしか見つからなかった。
増田の皆様、どうか彼にメイド服を着てもらうためのアイデアをお貸しください。
今のところクリスマスに酒の勢いでメイド服を差し出して土下座するしか案がありません。
【追記】
読んでくださった、またコメントしてくださった皆様ありがとうございます。
メイド服を発見した当時は単純に「彼に最高に似合う服を見つけた!」と思っていましたが、
コメントを読んで、改めて「これは特殊性癖に含まれるのだなあ」と実感しました。
一般女性に置き換えれば、彼氏からいきなり「頼むからこのトランクス(新品)を履いてくれないか」と頼まれるようなものだと思います。
(女性がメンズファッションを身につけることはほぼ一般化しているので、異性装でもフェティッシュ度の高いアンダーウェアに変換しています)
もちろん、彼がメイド服を着てくれるのであれば、需要があるのかはともかく私はトランクス(新品)を履く程度の心づもりは出来ています。
ブコメで「酒は不誠実だ」とのお言葉をいただき、たしかにそうかもしれないとおもいました。
私は、お酒を飲むことで「あのときは酔ってたから」と覚めた言い訳をするつもりではないし、
あとはメイド服を写真に撮るなど記録に残してあとでいじったりするようなこともしたいわけではありません。
ただ一番の不安は、彼とお互いの性癖の話題はほぼしたことがなく、私自身がお酒の力でも借りないと告白をできる自信がないのです。
彼は私より圧倒的にお酒に強いので、お酒に飲まれることは無いと思っているというところもあります。
でもお酒の力を借りたいのは後ろめたさもあるからなのかもしれません。状況を選びつつストレートに彼に伝えられる勇気を持ちたいです。
入ってない。その理由は、一般には性的「志向」と性的「嗜好」を分ける考え方があるからだ。だが、その説明が十分かというと、私は必ずしもそうは思わない。
志向と嗜好を分ける方は、その二つを絶対に区別できると思っている。確かに概念として切り分けることは可能だ。だが、実際に自分の性的衝動の根源が、対象の「性」にあるのか、あるいはそれ以外の「属性」にあるのか、私たちはハッキリと区別できているのだろうか?
たとえば年下の女性しか相手にしない男性の性的衝動の根源は、対象の性にあるのか属性にあるのか本人に区別がついているのだろうか? 女性が好きだ、特に物憂げな顔が…という男性は、単に女性好きなのかそれとも「物憂げな顔」フェティッシュなのか。「性的志向としては異性愛者で性的嗜好は年下好みだと言えます」「性的志向としては異性愛者で性的嗜好は物憂げな顔フェチです」という分析は確かに可能だろう。だが、それらの男性の衝動はもともと一つである。そのとき、その切り分けに何か意味があるのだろうか?
そして「性的志向」も「性的嗜好」も本人の意志とは無関係に育まれるものであるとき、前者は尊重すべきだが後者は異常である、と断言することがフェアなことだろうか? 二つを区別せよという言い方には、「性的嗜好は変態だが、性的志向は変態などではない」といういささか差別的な物言いが含まれているように感じられる。性的志向だって度が過ぎて社会関係に破綻をきたせば異常だし、性的嗜好だって嗜むレベルにとどまるならそれは治療の必要もない正常の範囲内ではないのか。だとしたら、嗜好することの権利は確保されてしかるべきではないかと思う。たとえば空想や、社会的に実害の及ばない範囲内で。
課題はある。それは、たとえば「社会的に実害を及ぼさないようにすることが難しい」性的嗜好が存在することだ。たとえば殺人行為そのものに強い快感を覚える殺人嗜好などがそれだ。窃視や露出も「実行」の一歩を踏み出せばすぐ違法になる。それ以外については、同嗜好の集団内である程度解消できそうではあるが、マイナーな性的嗜好は公言しにくいだけに、どうしても反社会的な世界とのつながりが強くなってしまうところがあり、危険である。ロリ・ペドもそうした嗜好とみなされているし、それを公言しただけで周囲に危険を感じさせるため決して口にすることも許されないだろう。ただ、だからといって自らの嗜好を卑下する必要はないと私は思う。性的志向が保護されるべきものであるのと同様に、性的嗜好もそれ自体としては権利として守られるべきと考えるからだ。たとえどのようにマイナーな性的嗜好であれ、その人の内心の自由は尊重されなくてはならない。
そもそも、男性中心社会に置いて、男らしさと人間性は完全に切り離し不可能なものだよ。
オタクは人間性に欠けてるって言い分自体が、オタクには男らしさが欠けているという証左になっている。
萌えキャラなんてホモソーシャルな社会で交換可能な女性扱いでは無いから、萌オタは度々、動物だの豚だのに例えられてきたんですね。
これは、女性が恋愛映画を見てだらだら涙を流す生物として舐められているのと同じ地平線上にある。女は人間では無いから動物的でも容認されるが、オタクがエロゲーに感動して涙をながすと、バカにされるのも男らしさと人間性の結びつきによる問題だ。
男らしさから離脱したら、性的なものから自由になるか? そんなわけないだろう、人にはセクシャリティがあるんだから。むしろ性的には野放図でフェティッシュでちょっと普通とはズレてる変態かもしれないけどいいよねとなるし、それを認めていかなければ、結局「男らしさ」によって構築された近代的な規範に男も女も絡め取られていくだけになる。
一部のフェミニストがオタクと対立するのはセクシャリティの野放図な多様性路線でオタクという部分で対立軸を形成してるからで、クズ男オタクがとりわけ「自己責任の精神や異性への人権意識に著しく欠けた」ように見えるなら、そういう敵対イメージを利用してフェミニストを動員したい向きがあるからだよね。フェミニストの女性って言っても、中身は女性性を内面化した女々しい女性が多いから、性的なイメージを問題にした旗振りはよく効くでしょう。
『けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観から抜け出しているところにある。
少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。
もうひとつの「ガイナックス的なアニメの価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場のいぶし銀の技術者、ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。
私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーもインタビューで語っている。
「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)」http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html
放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)
たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事「最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズ、たつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。
「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/
ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。
―― アニメはお好きなんですか。
たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。
―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?
たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りました。http://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html
本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。
話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。
たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。
そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートがたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だから『けものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。
『シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明だから”。
ガイナックスや庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。
新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギークな価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任は野ざらしにされ担う者はいない。
2000年代、2010年代のアニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観そのものは形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。
もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。
これは自由の味だ。
ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識そのものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。
可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアをスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きのスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。
3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチが必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。
次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的なものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成、脚本・たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない(脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。
「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思います。たつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」
http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395
「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバーを関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題。
福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚はミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。
最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しである。たつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。
1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌えの主人公、エヴァ風ギミック、NARUTO風アクション、ジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通のオタクが価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。
続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーでキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。
第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションはレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。
4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。
5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ。2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。
ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」である。たつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。
『ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマがシリアスだからだ、という批判も予測されるが「ストーリーがシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。
『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグがテーマとTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。
再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。
自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァ風けもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう。
ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。
それは多分、ヒトやキャラクターには人格があって、それを尊重したいという意識が強いのだろうね。
例えるなら「思いを言葉にした途端胡散臭くなる」現象とおなじで、
一側面だけ切り出されて違ったものに見えてしまうようで気持ち悪い、という感覚があるのでは?
そして、「待受画面に人の顔写真を設定するのは気持ち悪い」という感覚と同じで、
そういった形象にすがるのは幼稚に思えてしまうのでは?
ちなみに、3次や2次のアイドルやキャラを愛する人も、程度の差こそあれ同じ感覚はちゃんと持っていると思う。
持っている上で、さらに一周して、馬鹿っぽいけれどもシンプルに好意を表現するメソッドとして、
キャラ絵の壁紙を設定したり、フィギュアなどのキャラを象ったグッズを愛でる――
ということを無意識にこなせているのだと思う。
そういう事をしてもプライドが傷つかないくらいに、そのキャラが出る作品(ないしアイドル)について
表面的でフェティッシュなキャラクター性だけでなく物語性を好いているんだという自負を、オタクなら皆持っていると思う。
けれどもそんな事はおくびにも出さず、他人にはおどけて極端にフェティッシュで幼稚な嗜好ばかり他人に見せているんだよ、きっと。
他人の目を気にしていると、好きを通せないどころか抑圧されるような雰囲気さえあるから、自然とそういうある種の露悪的なメンタルになっていくんだろう。
いい加減最後です。
http://anond.hatelabo.jp/20170202164740
YOUTUBEのCM動画に神CMありがとうございます、とかコメントしてるの君?高く評価した動画のキャプションで色んな人の顔が浮いてる完全個人の結婚式ビデオがあってこいつマジだなって思ったぜ。頑張れよ
Youtube見たが、「神CM」とコメントを入れているのは増田本人なのか同じ趣味の人なのか
ブコメ人気トップに貼られているのyoutubeのコメントが例の何らかの性癖の人っぽくておもしろいね
断じて違う! これは俺じゃない! 企業の公式アカウントに「SKEやほかの女優やアイドルでもこんなCMやっていただけませんか?」なんて堂々とコメントできるほど図太くないし、それで自分の希望が通ると思えるほどおめでたい頭はしてない。しかし、彼もまた自分と同種のフェティッシュであることは認めざるをえない。たぶん、Yahoo!知恵袋でときどきオカズをクレクレ君してるのはこいつなんじゃないかと邪推してみたりするわけだが、まさかこういう形で自分の訴えが裏付けられるとは思ってもみなかった。
昨年だったか、顔だけ大きく見せるレンズっていう記事どっかで見た記憶。。。。。。(フレネルレンズかぶるやつ)
デイリーポータルZで顔が大きくなる箱、という企画をやっていたが、ああいうのがいいってことと思われる http://portal.nifty.com/kiji-smp/160825197264_1.htm
見つけた時、あっこれいいかもって思ったけど、そうでもなかった。
普通、顔デカでしょ。いや、でも確かに英語圏では「Big Head, Small Body」と並列表記される場合もあるので、きっとどちらも正解なんだと思います。
鼻の穴をじっくり見てると興奮することはあるけど、そういうのは違うのかな
切った爪をビンに保存してそう。
してません。
本当にうらやましい。この手の表現の黄金期は80年代後半から90年代初頭だったように思う。もっとも技術的にはCGが発達した現代のほうがいろんなことができるので、今回のような恩恵にあずかれたりもするわけだが。
だったらいいんだけどな。かわいい女の子を使ってこれからもジャンジャンやってほしいですよ。
最後までお読み頂きましてありがとうございまず。このマイナー性癖にようやく光を当てられたうれしさもあって、自分が感じたり知ったことを詰め込んだら、超大作になってしまいました。「絶対人に言えないカルトフェティッシュ大図鑑」にタイトルを変えたほうがいいかもしれないな。ほかにも真面目に分析をしていただいたい人のコメントや、ストライクな動画をご紹介いただいたコメントもありましたが、それのお返事はまた次の機会とさせてください。気になることがあったらまたコメントください。それではまた。
http://anond.hatelabo.jp/20170202164127
より続きます
顔だけ大きく加工された画像が怖くて比率が異常なキメラ怖い怖いと忌み嫌っていたが、まさかある意味似た部分に注目している人がいたとは…
こちとてホントに生理的なものなので、自分と真逆にそういう人がいるのはよくわかる。現に自分も幼い、本当に幼かった頃、そういうCMや広告を見て怖くて泣いたような記憶もある。それがある日突然、逆の反応に変わった。自分でも相当戸惑ったはずだけど。嫌いすぎて反応が真逆にひっくり返ってしまった、という説もありえるんじゃないかって思ってる。
いや、小顔は小顔でこういうのもあるんですよ? これはこれで割と好きです。
普通に自分で美人さんの顔の写真を集めて、適当な身体に合成するようなものを作ればいいじゃん。動画は難しいだろうけど静止画は簡単だ。
そんなのフォトショで加工すればいくらでも自作できるじゃないかと思うかもしれないが、こういう性癖の人はあくまでもそれをどこからか見つけないとダメなんだ。
確かに自作に挑戦した時期もあった。自分で使うだけなので別にどこにアップするわけでもないが、どこかのモデル撮影会の写真で自分の好みかつ高解像度のデータをゲットして、それを加工した。まぁ使えなくもなかったが、フォトショのスキルがついただけで費用対効果がよくなかったのですぐやめた。加工にはある程度の時間がかかるので、加工前の写真を見すぎてしまったのが原因だと思う。あと、写真ならともかく、動画となると自作のハードルは一気に上がる。生きた生首フェティッシュの人が動画を投稿し続けるYouTubeアカウントがあるが、これもクオリティの低さは個人レベルなので限界があった。この人はずっとコラ画像専門の職人だったのだが、あるときから動画制作にシフトした。コラ画像のほうがそこそこクオリティが高くて好きだったので、画像の世界でもっと続けてほしかったのだが。動画のほうも2年くらい前から更新がピタッと止まってしまい、現在は廃墟状態。残念だ。
参考
https://www.youtube.com/channel/UCbFyeD5G7n4uSfMSrxfiHOA
参考
http://greg20033.deviantart.com/art/Why-her-584173334
個人レベルでそこそこの品質を維持しているのが以下のアカウント。既存の映画の場面を上手く加工するパロディ動画を一種なんだが、女性キャラが多ければ多いほど個人的な評価は高くなる。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLLHMipOGa6G2XarB3krN7BY-4I0gYuvo1
これもあるにはあるが、素人レベルでは精度に限界がある。それから素材はネットの海に腐るほどあるので、盗撮する必要はない。
ARとVRを混ぜればどうにかなりそうだなw 進め!電波少年でやってたみたいなのだね…。 同好の士が見つかることを望みつつ。
これもいい線いってるんだけど、違う。なぜかって、処理が雑だから。最初は世の中にはすごい番組があるもんだと大興奮したが、すぐに沈静化した。原因は松本明子があまり美女だと思えなかったことと、首周りの処理が雑だったこと。ブルーバックの簡易合成処理(よくニュースの天気予報で使われる、CGの天気図の前に気象予報士が立つようなやつ)を使っているんだから当たり前だ。処理が雑といえば、ダチョウ倶楽部が初期の「天才テレビくん」にグースケ、チョッキー、パータンというキャラクターで出演していたとき、やはり「電波少年」と同じ要領で被り物をしているダチョウ3人の顔面部分以外が消されていて、しばらく反応が続いていたことがあった。「いい加減卒業しよう」と決意したのは確かこの頃で、汚い顔したおっさんに欲情した自分が情けなくなったものと思われる。ただ、美女に関してはやっぱり卒業できず、思春期を過ぎて、本格的に対象が女性に向かっていくことになったわけだ。そういう意味ではごくごく健康に、まっとうに育ってはいるはずだ。この性癖が残ってしまったこと以外は。
ところで、「天才テレビくん」で画像検索したら、ストライクな画像を発見した。ある時期のオープニングが実写とアニメの合成だったらしい。
http://haryjura.blog40.fc2.com/blog-entry-605.html
これはなんとしても動画を探すしかないと息巻いていたが、いざニコニコで見つけた画質ガサガサの動画を見てみたら、顔部分は全部静止画だったんで、画像だけで十分ですね。ごちそうさまでした。というわけで、静止画、動画にかかわらず、美女の顔が浮いているのもかなりイケる。というか、今回の滝クリのような純粋な巨顔など滅多におめにかからないので、普段はもっぱらfloating headsを主食にしている。顔と一緒に手も浮いてたりするとなお良い。
http://i.imgur.com/pRdZ0N8.jpg
その7へ続く。
http://anond.hatelabo.jp/20170203152756
次がようやくラストです。
http://anond.hatelabo.jp/20170202163828
より続きます
AVの世界で言うと、フェティッシュものだけを専門で制作しているギャロップというレーベルがあって、「丸呑み」「串刺し」「股裂き」・・・サンプル画像を見るのもおぞましいタイトルを多数制作している。
参考:ギャプップ作品一覧
http://www.dmm.co.jp/digital/videoa/-/list/=/article=maker/id=45367/
どれもこれも悪趣味で、興奮どころか吐き気を催すものばかりだが、泥沼の中で輝く真珠のように、こちらの琴線に触れるタイトルがひとつだけ。
参考:改造人間4
http://www.dmm.co.jp/digital/videoa/-/detail/=/cid=h_758pmid00088/
女性アンドロイドを主人公にした、手術台の肉体改造ありーの、機械部分の露出ありーの、各種フェチの心をくすぐる作りになっているようだが、極めつけは強制分解である。悪い怪人に襲われて、手足をもぎ取られ、首も外される。意外と手が込んでいて、この種の作品がほかに作られていないのが残念だ。ちなみに、ストリーミングにしても価格が高すぎるのでサンプル動画しか観ていないので、分解されたあと彼女がどうなったかは知らない。自分の嗜好とは直接関係ないが、「惨敗ヒロインもの」の作品は一定の需要があるようで、女性ヒロインが悪役にコテンパンにやられ続ける(場合によっては命を奪われることも)のをひたすら収めたAV一歩手前の自主制作特撮が別の業者によって死ぬほど作られてもいる。正直、こんなんで興奮できる人の神経を疑う。ま、おまゆうなんですけどね。
着ぐるみというか、被り物フェチはまた別で、そういう人は日本にも何人かいる。Twitterで盛んに情報を発信されているので、探せばすぐに見つかると思う。これも自分とはニアミスの性癖で、自分の嗜好のなかでこれと一番近いのが、人間の顔を出す形式のマリオネット(humanettes=ヒューマネット、と呼ばれる)。当然美女限定。野郎が女装してこれをやる動画があるが、やっぱりどうしてもムリ。
仮面ライダーの格闘ゲームに膨張仮面(ダメージを与えるほど頭が膨張する)という隠しオプションがあるので、蜂女あたりを相手に戦ってみてはどうか
三次元には変わりないんだろうけど、やっぱりCGはちょっといけない。身体はCGでも構わない(身体だけなら二次元も大歓迎)が、顔だけは実写じゃないといけない。Miiの顔面ポリゴンに欲情してる奴がおったら俺でも引くわ。
この間ブクマしたこれ思い出した→ http://jp.automaton.am/articles/newsjp/20170116-38160/
http://youtu.be/AYTxjvZxr4E こういうの?
ジャストコーズというオープンワールドのゲームの隠し武器に、対象の頭を大きくするというものがあるのでオススメしておこう。 https://www.youtube.com/watch?v=ygxBmBihb9E /ヤギコンに比べれば業は深くない
それでもCGゲームの発達には目を見張るものがあって、パッと見そんなに実写と変わらないものも出てきた。DKモードでちょっとそそられたのが、「トゥームレイダー」と「バットマン」のゲーム。「バットマン」は戦闘画面以外のドラマパートをDKモードにしてまとめた動画があって、多少の違和感を覚えながらも何度かお世話になった。「トゥームレイダー」の場合は、ゲームのシステム上、ララ・クロフトがなかなかこちら側を向いてくれないので、飽きてしまった。新しいネタに困ったとき、気分転換にちょっと使う程度。
これもそんな感じ。別にネトゲに登録して課金してプレイするなんて面倒なことはしないので、関連のバナー広告をたまに拾う程度。それでもあなどれないのは、この手のネトゲには韓国の場合、イメージキャラクターにアイドルが起用されることが多く、その流れでいいネタにありつける場合がしばしばあるのだ。だから結局このあたりの動向もある程度押さえておく必要がある。
参考:
http://i.imgur.com/JYQNAJP.jpg
幼い自分にこの性癖を決定的に植え付けてしまったのが、昔懐かしいプレイステーションのCM。若い女性が「鉄拳2」の顔デカ裏技を試すと、なぜか自分自身が顔デカなってしまうというもの。こりゃたまらんです。
http://i.imgur.com/hYZ6Awh.png
その6へ続く。
http://anond.hatelabo.jp/20170201014659
より続きます。
ボブルヘッド・フェチ? https://www.bobbleheads.com/
SDガンダムとか顔だけでかくてカタカタ揺れるひとし君人形みたいなやつ
最初なんのことかわからなかったが、ボブルヘッドのように頭だけが大きい三次元美女ってことか。コメントに巨大女と勘違いしてる人がいるが、特殊性癖にしてもレアすぎて理解するのに手間取るレベル。なんかすげえ。
英語圏だと、こちらが求めるような頭身の体系を、首ふり人形(Bobblehead Doll)にたとえて呼ぶ傾向がある。ちょっと前に、ある職人が人気女優を巨顔に加工してまとめてimgurにアップして話題になったってニュースが訳されて日本でも少し紹介されていたけど、そのときの見出しでは「Celebrity Photoshop Bobbleheads」と呼ばれていた。
海外のCMではこんなのも。ハゲのオヤジはいいから早く女を出せ。
文章では何を言っているかわからなくて動画で把握できた。それは滝クリみたいに相手が服を脱いでなくても欲情できるんだね? というか服を脱いでいるオカズが世になさそうだな……
ところがあるんだなこれが。
それっぽい単語で画像検索したらでっかいちんちんに混じって女性を4頭身ぐらいに加工したエロ画像が出てきたので意外とある性癖なんだろうか。
「Bobblehead Porn=バブルヘッド・ポルノ」というジャンルが存在することが去年か一昨年、Reddit(英語圏の2ちゃん的なやつ)のあるスレッドで明らかになった。で、実際その専門板もできていて驚いたんだが、そこで上がっていた画像は、5、6年くらい前に4chan(海外の2ちゃんみたいな画像掲示板)に立っていた「Bobblehead Fetish」というスレで見たものとほぼ同じだった。裸なのは構わないけど、やっぱりちょっと生々しすぎるような気が。顔と局部とどっちを見たらいいのかわからなくて意識が分散するのか、思ったより使えない。ただ、これが動画になったらまた変わってくるだろう。巨大女AVがあるんだから、巨顔AVがあったっていいんだけどなぁ。
http://www.レディット.com/r/BigHeadPorn
http://anond.hatelabo.jp/20170131142756
より続きます。
そうなんだよ。少なくとも顔だけは実写でなければダメ。二次元に萌える人(主にエロゲとか)にはその人なりの理屈がたぶんあると思うけど、自分には全然ピンとこない。顔はアニメキャラで身体だけ、あるいは局部だけが妙に人間ぽくて生々しいやつとかもあるけど、性的に感じる部分が自分と反転してるのかなって考えると、あれが好きな人の気持ちもわかる。
イラストはNG。確かにリアルな絵という意味では実写に近いのかもしれないけど、ビックコミックもぴあも、イラストレーターのタッチが割とハッキリしているから、その時点で対象外になってしまう。それと、ブコメ欄で誰も挙げていなかったのがちょっと意外だったんだけど、最近の主戦場のひとつとして、LINEの実写スタンプがある。その中にはリアル系のイラスト、もしくは、実写の写真をイラスト風に加工したものがあって、それはけっこう燃料として重宝している。最近は規制が緩和されたらしいけど、以前はスタンプに使う人物の頭身をキャラっぽくしないと配信するための審査が通らなかったとかで、それであんなに気持ち悪い実写、実写まがいのスタンプが作られるようになったらしい。また、韓国ではKakaotalk、インドネシアではWeChatといったように、各国でメジャーなLINE以外のトークアプリでも実写で顔デカスタンプ(海外ではSticker=ステッカー、Emoticon=絵文字という言い方がポピュラー)が作られ続けていて、いろいろな手段でそれを入手しては有効に?活用させていただいている。特に韓国は日本以上にアイドル大国なので、むしろ実写スタンプは韓国のほうが盛んで、名作もそこそこある。ただ、男性アイドルのスタンプも多く、画像検索する際にノイズを排除するのが面倒で面倒で仕方ない。
https://pbs.twimg.com/media/BxOHtdQIcAE4qpX.png:large
全然ダメ。観月ありさが実写版サザエさんをやったときのポスターで顔だけ実写になったものがあったと思うけど、あれがギリギリでストライクゾーン入り。ところで「ちびまる子ちゃん」って中国ですごい人気があるんだけど、中国で作られたちびまる子関係のCMでマンガの頭身をそのまま実写でやっちゃった狂ったCMがあって、あれもなかなかよかった。お母さんがもっと美人なら言うことなかったが、これは元のキャラがああなんだから諦めるほかない。
http://i.imgur.com/DP51nCz.png
湯婆婆とかでいける?
ちっともいけません。大事なことなので何度も言うが、美女は絶対条件である。湯婆婆も体型的にはアリだが顔面的にNG。でも、湯婆婆の声の主である夏木マリがあの頭身で現れたならちょっと考えるところではある。あぁ、俺って熟女もけっこうイケるクチだったとは・・・。
熟女といえば、高橋恵子だ。「段先生の奥さん」で調べてみたら『栞と紙魚子』というマンガが出てきたのだが、『栞と紙魚子の怪奇事件簿』のタイトルで実写ドラマ化されているではないか! 二次元ではダメだが実写だとアリの原則がここでも適用される。しかも、高橋恵子がこのキャラクターを演じているとは! この人も昔は美しく、今もなお美しい立派な熟女だ。ネットで見つけた写真を見る限り、これはかなり期待できそう。身体の処理がどうなっているのかによってまた印象は変わってくるだろうが、まずはDVDを入手してチェックしてみたい。深夜枠だったせいかまったくノーマークだった。教えてくれた人、ありがとうございます。
永井豪先生は『デビルマン』で美樹ちゃんを生首にしたり、『バイオレンスジャック』で人犬にしたり、実はこっち側の人間なんじゃないかって密かに思ってました。せっかく『デビルマン』で美樹ちゃん生首を忠実に実写化したんだから(地上波の深夜にテレビ放映した時、そのシーンがカットされてて怒り狂ったことがある)、サイコジェニーも実写にすべきだった。せっかくシレーヌに冨永愛を使ってたんだから、サイコジェニーもその気になればかなり気味悪いのができたはずなのに、惜しい。
http://i.imgur.com/xgbyR5R.png
これも顔が怖いんでムリ。
いそべいそべえの作者の新作とかオススメ
だんだんわかってそうなコメントが増えてまいりました。詳しい経緯は割愛させていただくが、そのマンガ、タイトルを調べて入手し、さっそく読ませていただいた。これは良い。マンガなのが本当に惜しまれる。読みながら試しに有村架純ちゃんで脳内実写化してみたところ、一度は滝クリで疲れ果てた身体がたちまち蘇り、大きな発電効果があった。このエネルギーは一体どこから来たのであろうか。これぞ人類の神秘。ドラマでも映画でもいいので、原作に忠実な実写化を熱望する。かわいければ架純ちゃんじゃなくてもいいから。読んでいてる最中、やっぱり男性キャラはかなり邪魔っけだった。逆に、女性キャラはモブであっても目が勝手に拾う。ええい、もっとかわいい女子を出さぬか。
ゆうきりん『ヴァルキュリアの機甲』(電撃文庫)オヌヌメ。首輪をつけた巨大美少女たちとキャッキャうふふ、美少女動物園ですよ!(やめろ 何と、妊娠出産も! 最後楽園へとたどり着く展開は必見(だからやめろよ
自分の場合ビジュアルがすべてなので、読んでみないとわからんが、ラノベはたぶんNGかも。ただ、前述した画像投稿サイトにはテキストのみの投稿機能もあって、自分の妄想小説をひたすら書き続けるアカウントはいろいろ見かけてはいる(英語圏限定。ちなみに、自作のコラ画像と妄想小説をセットにしてアップする気合いの入った人もいる)。読めばもしかしたら英語の勉強になるのかもしれない。
村上龍は女の足が好き過ぎる自分が変態じゃないかと不安だったが、谷崎を読んで安心したらしいので、同好のために小説を書いてみてはどうだろう。
むしろ自分で書けというご意見も。自分自身はそうでもないけど、文字列によって救われる人だって当然いるはずだとは思う。ただ、ネットに公開されてるこの手のフェティッシュSSはどれもこれも幼稚な自己満足ばかりで、読んでて痛々しさしか感じないので、あまりそこに魅力は感じていなかったりする。細かい嗜好が一致しなくて余計にいらだつ、なんてこともあるかもしれない。それこそ妄想でしかないが、なにかやるんならやっぱりビジュアルにこだわりたい。映画やドラマは難しいだろう。でも、「顔デカ美女写真集」をプロデュースくらいなら、どうすかね。これくらいならやれますかね。
「勃起が止まらなくなる」まではないけど、アニメイトのエレベーターに乗ると女性声優の顔がデカデカ写ったPOPが壁面に貼られてて正直ちょっと興奮するので気持ちは分かる
女性声優はいまやアイドルと同義。実力はともかくかわいい子がずいぶん増えたし、現役のアイドルと同じくらいの割合でこちらに訴えかけてくる広告やCDジャケットを作ってきそうな気はする。残念ながらアニメにそれほど興味がないのでこの方面はあまり拾えていないが。ところでそのPOPってどこのアニメイトなんでしょうか。
その3へ続くが、
1日の投稿制限に引っかかって、今日はもうこれ以上ムリなようです。すみません。
大した話じゃないんで身内向けのチラ裏とでも思ってほしい。
直視するのが恥ずかしくて調べきれてなかったけど、
どのイベントなのかはまぁいろいろ調べてみてほしい。
「ナナとカヲル」を読んで一度くらいならと思うくらいのM寄りで、
ぼんやりとそういう憧れはあるけれど調べるとっかかりがないタイプ。
同人誌即売会ならともかく、こういうのに参加するのは初めてだし、
おもしろみのある服も綺麗な服も持たない喪女が行ったら浮くんじゃないかとヒヤヒヤした。
直前まで迷っていたものの、付いてきてくれる人が捕まったので行くことにした。
周りに看板なぞあるわけもなく、静かな住宅街に倉庫みたいな場所だった。
本当にやっているのだろうか不安になりながら受付らしき人に入場料を払い会場へ。
会場は思った通りそこまで狭くなくて、だいたい同人誌即売会のイメージまんまだった。
ただスタジオだけあってところどころ雰囲気のあるつくりが見える。
美女が腰掛けそうな絵になるソファ、何かを吊ると思しき一角など。
私がコスプレイヤーだったらさぞ興奮したと思う。
地下の部屋から数階のフロアで何部屋かにまたがって展示されており、
だいたい1部屋2~7くらいの展示だったと思う。
最初に入ったブースは首輪、と言ってもチョーカーのようなものも多く、
思ったよりは気軽に使えそうなカラフルなもの、細めなもの、鍵付きのもの、
これらがすべて人の意思を制御するために存在すると思うと圧巻だ。
日常生活では着ないような服をまとい、
という意思表示をするのはたしかに少し歪な形をしていて、セクシーだと思う。
会場をざっと見た感じ、男女比は1対1くらい。
ちなみに終盤行われた緊縛ショーは女性の比率が高かったらしい。
女性は黒髪ぱっつん姫カットとビビッドな髪色のお姉ちゃんが多い。
みんなそれぞれに好きな格好をしているので、
喪女だから浮いちゃうよ~~><といった心配はあまりいらなかった。
そこまで興味はなかったものの、実際に試着できるというので着てみることにした。
フォロイーのフォロイーの写真で見かけて面白いな、と思っていたくらいの認知度だった。
フェティッシュな「ジャンル」として認識したのはこのイベント終了後になる。
ぴちぴちした薄いマットみたいな服をハンガーから降ろして更衣室へ。
今回は全身黒人間みたいなスーツではなく、ワンピース型のドレスにした。
販売側の女性が着せてくれたが、まぁ想像通り吸い付く吸い付く。1人だったら無理だろうなあ。
少しひんやりしていて、全身に吸着する感じがあって心地よかった。
鏡で見るとテカテカしていて、アメコミか何かのヒーロースーツを思い出した。
続けて他の試着を進められて、今度はコルセット内蔵のものを着てみる。
ここでは普段の服よりひとまわり小さいサイズを進められ、そちらを着ることになった。
女性二人係で後ろのファスナーを上げると、先ほどよりもぎゅうぎゅうに全身が締め付けられた。
少し苦しいけどさっきよりも密着感がすごい。
鏡でみてみると、締め上げられた腰のくびれが強調され、胸元が際立っていた。
腰~胸元にかけてが立体的な構造になっており、寄せてあげて効果がすごい。
下半身デブも相まって腹部のひょうたんのラインが強く主張していた。
たぶんサービスだろうけど、表面の質感をテカテカにするジェル?を縫ってもらうとなおすごい。
鏡の中の私は、ボディコンのおねーちゃんみたいな身体をしていて質感まで変わってしまった。
ひとのからだというものは、こうも簡単に形を変えてしまうものなんだ。
眼で実感して肌で納得させられる屈服感に支配されるのがどきどきしたし、なんだか面白かった。
ああこのエロティックな質感と感触、解放感にやられるんだなと納得するしかなかった。
体型補正のパワーに惹かれてお買い上げまでするとは思ってなかったけどさ。
べたべた腰回り触ってみたりしてとっても楽しかったけどさー。
まさかこんなことになるとは思ってもみなくて会場を去った後もしばらく放心していた。
いやあまぁ、楽しいからいいんだけど、なんだか何か一線を越えてしまった気もする……。
よくわからないどきどきに、今も胸が締め付けられている。
この気持ちは変かな。
自分は男でヘテロなんで女の子に対して妄想するだけなんだけど、別に男or女から男or女という組み合わせはなんでもいいとして、手足の欠損フェチつまり腕なり足なりがぶった切られてるっていうことに対してフェティッシュな感情をいだくってのはどんだけマイナーなんだろう。
個人的にはもう理想の女の子を想像すると欠損しているのがデフォルトで、一昔前は四肢全部欠損しているのがブームだったんだけど、最近は両腕がないという程度もそれはそれで可愛いかなーという感じで、この辺の好みは千差万別だと思う。またさらに個人的にはそもそも「ない」子を相思相愛的に愛でたいし痛めつけるつもりはないんだけど、ここは「ある」子をぶった切る過程のほうがむしろ主眼という人もいるかもしれない(私的に邪道と言いたいが余計なお世話か)。
という上で、欠損フェチなはてなユーザーとかいないんだろか。あるいは、あんまりフェティッシュな感覚はないけどこのレベルの欠損ならオッケーとか。みんな欠損に関してどう思っているのか知りたいので、トラバなりブコメで教えてほしい。
極々個人的には、将来的に髪の色がどうこうとか胸の大きさがどうこうとかと同じ感じで片腕のあるないとかが扱われるようになると嬉しかったり。ラノベとかえろいゲームとかハーレムアニメとかで普通に欠損しているヒロインが混じってる感じになる未来を希望してしまう。
2016年冬クールも終わってしまった。次クールのアニメが着々と始まっている気がするが、前期のヒロイン三選を選定する。
基本的にアニメ本編は見ていない。ヴィジュアルイメージを頼りに独断と偏見で決めていく。
早速ですが、謝罪します。このアニメはちょっとだけ本編見ちゃいました。ですが、ほたるさんの着衣巨乳に免じて許してください。
ほたるさんは精神科通院中のメンヘラかな。菓子メーカの娘っていうのも全部妄想で、昼間っから出歩いて駄菓子食いまくってる通院治療中メンヘラなんだよなあ。いつもハイテンションなのは薬のせいだし、手首のリスカ跡を隠すためのバンドも常備してるからしょうがないね。
「着衣パイズリでの狭射」「白ブラウスにジワッと広がる脇汗」「ムレムレの漆黒パンスト」など、汁気の多そうなヒロイン、怒涛の第一位!
パツンパツン(^ω^)のブラウス越しのおっぱお
世が世なら地味子No. 1として君臨していたであろう少女だと思う。パープルのサラサラヘアがフェティッシュ心を射抜いてGOOD!
キャラの中身は知らないが、見た目的には母性とはひと味違った女の包容力がプンプンに感じられる。優しそうなキャラデザもっと流行れ。
「チュッ...チュ」と音立てて唇で吸い付きなながら丁寧にフェラを始めそうなキャラランキング堂々の第一位!
オバサンの厚化粧最高! 冬クール途中から現れたダークホース。なんだかお姫様のキャラデザが微妙だったので、ガンダムには失望していたが、もー、たまらん。
でも、17歳でいいです。
「バキュームフェラ」、「顔面騎乗」、「アヘ顔」、「「んほぉぉっつ!!」」が似合うキャラランキグ衝撃の第一位(当社調べ)!
今季のキャラを考える上では「このすば」勢も考慮に入れる必要があるような気がするけど、あれはニコニコのランキングで細切れになった動画を見てしまったし、語るまでもなくキャラが立ち過ぎでいるので除外。キャラデザは綺麗なんだけど、「黙ってれば美人」感が強いんだよなあ。これから録画貯めした動画をイッキ見する。
春クールの視聴予定なし。
艦これはシコれる。というのを否定する異性愛好者の男性はまず居ないんじゃないかと思われる。
軍艦を擬人化したという建前のフェティッシュなデザインの2次元美少女キャラが半裸になる。エロい。軍艦は年齢が無いので小学生くらいの見た目のキャラも居る。ヤバい。
実は艦これはDMM.comオンラインゲームの利用規約で申し訳程度にR-18なので全裸や性交シーンは全く無いがR-18である。しかしDMMオンラインゲームのページに年齢確認らしい年齢確認は無いので知らなかったりこっそり遊んじゃってる未成年も居るだろう。
私が言いたいのは艦これが全年齢の皮を被った危険な性的コンテンツであるというわけでは無く、性的欲求が一般人並の男性は可愛い女性が服(露出が高くても低くても関係無い)を着た絵を見ただけで抜ける生き物であるという事実だ。別に艦これで無くともコロコロコミックやなかよしのような児童誌のキャラですら抜ける。これについては進撃の巨人や刀剣乱舞やおそ松さんで狂気乱舞立体軌道をしている女性の方々も納得できる部分があるのでは無いだろうか。
艦これは基本無料である。ゲームバランスも昔はヌルかったため全然課金する必要も無かった。しかし、2014年にケッコンカッコカリというキャラクターとの擬似結婚という建前のレベル限界突破システムが実装された辺りから、状況が異なってきた。
ケッコンカッコカリはレベル限界突破だけでなく限定のボイスも聞けるのだが、ケッコンには必ず手に入る一つを除いて1人700円の課金アイテムが必要だ。レベル限界突破が必要なほど艦これを愛するユーザーはよほど貞操観念が無い限りたった1人とのケッコンで満足するはずが無いので、かなりの額を課金する事になる。また、期間限定イベントステージをクリアしないと半年以上手に入れられないキャラクターも居るため、1季ごとにユーザー達の目には血がほとばしる。キャラクターを手に入れられない落胆や憤怒の余り引退したユーザーも少なくないと聞く。艦これのキャラクターを愛でて抜くにはとてつもない時間とお金を必要とするのだ。艦これのキャラ数は軽く100人を超えて現在は200人に近付いているが、10人とケッコンするだけで7000円、イベントを攻略するために課金アイテムに手を出せば更に額は増える。これはDMM.co.jpで販売されているエロゲー1本分を軽く上回る。
一方、DMM.co.jpで販売されている三次元のAVは高々3千円程度であり、しかも1〜3分程度のサンプル動画が無料で何度でも見れる。艦これは幾ら払っても本番シーンなど見れないと言うのに。
艦これに続いて最近流行っているのがグランブルーファンタジーだ。こちらも危険な程露出が高いわけではないキャラクターで抜くためにプレイしているユーザーが大半で、有名なのはエロゲー原画マンの伊東ライフ氏だ。こちらはFlashを使わないブラウザゲームなのでPCだけではなくスマホでも遊べるが、艦これと最も違う点はキャラを手に入れる方法がガチャメインという事だ。ガチのガチャゲーである。課金額は艦これを更に超え月当たり数万から十万超えもフィクションにならない世界だ。高級ソープに行ける額を二次元に投じる男たちが実在する。
もはや性風俗ですら無い2次元コンテンツを相手に戦わなければならない3次元性風俗の将来が心配である。
(とくにオチは)ないです。
俺はゲームをプレイするときに、操作キャラクターと自分を同一視“しない”。
なぜなら、そのように感じられないからだ。
これは一人称のゲームであっても同様で、FPSはそれなりに遊んでいるが、そういう種類の没入感を得られたことは一度もない。
スペースバーを押すだけでおかしな跳び方をし、左クリックをするだけで銃を撃つ、そういう存在を自分と同一視するのは難しい。
人型のロボットを操縦し、その機能を駆使し、そのカメラを通して異世界を見る、そういう風に感じられる。
感受性が低いのかもしれないが、『Papers, Please』にはすごく没入できたので、無感動というわけでもないと思う。
前置きが長くなった、FPSの話をしたいわけじゃない。
さて、ではそのようなプレイヤーにとって、ネットゲームの操作キャラクターとは何か。
したがって、それは必然的に、かわいい女の子とか、セクシーな女性とか、フェティッシュな幼女とかになる。
部屋に飾るならどういうお人形さんを飾るかという話だ。
だが、少なくとも俺は、ホットトイズのジョーカーを買うくらいなら、その金でプレミアのついたエリーンちゃんを買う。
ゆるふわ日常系マンガで見たいのは女の子同士のキャッキャウフフであって、野郎のツラではない。
そういう価値観でもって、お人形さんたる操作キャラクターを選び、キャラメイクをする。
したがって、それは必然的に、かわいい女の子とか、セクシーな女性とか、フェティッシュな幼女とかになる。
そのようなキャラクターがプレイヤーから託されるものは、「カッコいい俺を見てくれ」ではない。
そのようなプレイヤーがゲーム中で優れたプレイングを行った際に感じることは「俺って上手いでしょ」ではない。
まあそう思う部分もあるが、主としては「こんな可愛くてかつカッコいいキャラを持っていて鼻が高い」である。
つまり、我々はどちらかと言うと、キャラクターとコミュニケートする他者の側から自分のキャラを評価している。
そしてその観点から、ある種の所有欲に基づいた満足感を得、それをゲームプレイ上の楽しみのひとつとしているのだ。
言うなれば、そのキャラクターが完全に自律して勝手に動き、喋り、活躍し、所有欲を満たしてくれるのが理想なのである。
もちろんゲームである以上、プレイヤーとしてのプレイングの楽しみは、それとは別にあるのだが。
なにそれキモ……と思われるかもしれないが、それを言ったらキャラクターに自己投影してカッコつけるのだって相当だ。
それではと「たかがゲームに」などと醒めてみても「薄っぺらい人間だな」というカウンターを食らうのが目に見えている。
こんなのは単なる価値観の違いでしかないので、不毛な泥の投げ合いはやめようではないか。
さて、ここまではいい。
ここまでは単なる平和な平和なインナーヴァースの話であり、犬派か猫派かといった程度の問題でしかない。
ネットゲームでは、操作キャラクターを介して他者とコミュニケーションを取らねばならない。
ここでお人形さん派は、大きな壁に直面することになる。
お人形さんごっこをしたいわけでもない。
それを所有することで満足感を得たいだけだ。
であるので、他者とのコミュニケーションにおいては、たとえそれがキャラクターを介してであろうとも、基本的には“地”でいきたい。
しかしながら、一方でそのキャラクターは、かわいいかわいいマイお人形さんでもあるのだ。
だから、狐耳を生やしたつぶらな瞳の幼女が「俺さぁ」とか言うのは、耐えられない。
そういう他人のキャラクター見ると、キャラクターとプレイヤーの双方に対して「雑だな」と感じる。
我々は自分と同様、他人のキャラクターもお人形さんであると見做しているからだ。
中におっさんが入っているのはもちろん知っているが、それでも美意識の問題で、それはなんか許されない感じがある。
そして先に述べた通り、我々はそのような他者の側から自分のキャラクターを評価している。
よって、自分のお人形さんの愛らしさを損ない、所有欲を傷つけてしまうような真似は避けたい。
結果として、最低限そのキャラクターの口から発せられてもおかしくない、という方向性を、我々は志向する。
プレイヤーとしての“素”と、キャラクターの口調としての妥当性。
この両者が衝突した結果、何が生まれるか。
一人称は「私」で、極めて抑制的で、丁寧な話し方をする、あれである。
我々は女性を演じたいわけではないし、なりきりをして遊びたいわけでもない。
そこで、喋らせているのはプレイヤーだが喋っているのはキャラクター、という体を成すため。
そしてまた、お前おっさんだろと突っ込まれても、おっさんが丁寧口調で喋ってるだけですしおすしと避ける逃げ道を作るため。
我々は女性を演じたいわけではないし、なりきりをして遊びたいわけでもない。
リブート版『ファンタスティック・フォー』が駄作でない理由(ネタバレなし感想) カゲヒナタのレビュー
気持ちはわかる。
俺も「『クロニクル』のジョシュ・トランクが監督!」と聞いてワクワクとときめきをおぼえ、
公開後、実写版『デビルマン』がアメリカ侵略したかと思われるほどの大炎上に怯えたクチだ。
で、正直、観た時の印象は「世の中の91%(RT調べ)から総スカン食らうほどダメってわけじゃないだろ。アメリカ人きびしすぎ」。
しかし、「思ったほど酷くはない」でも、F4が駄作であることは変わりないと思う。
びっくりしたことに、本作の主人公たちは人生がうまくいっていないダメな若者で、わりと性格も悪いのです(作中で、彼らは「Kids」と呼ばれています)
まず、「主人公たちは人生がうまくいっていないダメな若者」ではあんまりない。
研究所を放り出されていたドゥームや、厳格な親に反発したがるジョニーなんかは当てはまるかもしれない。
が、主人公はバクスターに入学(就職?)した時点で「それまでコケにされてきた天才的な才能が正当に認められた」わけで、事実ここいつは終始ずっとノーテンキというか、あんまりグツグツした情念めいたものを燃やしていない。青春を超エンジョイしている。別にそれはそれでいいけど、マイルズ・テラーのあのアンニュイさを活かしきった『セッション』のあとだけにやけにもったいない。『クロニクル』アゲインを期待していた観客もそこで肩透かしをくわされる。
ケイト・マーラも親と弟の板挟み、ドゥームとテラーとの三角関係、コソボ出身という暗い過去、などなどドラマになりそうな設定が顔を覗かせるものの、びっくりするくらい本編に活かされてない。そもそも何考えてる人かよくわからない。観る人によったら、中盤までジョニーと姉弟だって気づかないんじゃないか? テラーとの恋愛要素も、テラー視点でうすら青春っぽく描かれるだけで、特に深くもならない。
中盤前半まるまる出番のないベンくんに至っては書きこみもクソもない。最序盤でこそゴミ山の底辺家庭で育ったという劣悪な家族・養育環境が思わせぶりに描かれるものの、その後一切言及はない。なんでテラーと仲良くしてんのかもわかんない。信頼関係がどうやって育まれてきたかもわかんないのでザ・シングになってからの「大親友に裏切られた辛さ」みたいなものが薄く感じる。傍目には、ひさしぶりにあった古いクラスメイトに怪しい宗教に勧誘されてのこのこひっかかった、頭のよわいかわいそうな人にしかみえない。
ドゥームもドゥームでバックボーンがよくわからない。出てきたときからフードかぶってちょっと気難しいギークを気取っている童貞野郎にしか見えない。ドゥームという希代の悪役へ至らせるトラウマイベントに欠けている。研究所を叩きだされた経緯もむしゃくしゃしてとりあえずロックなことをしてみた、程度のマインドっぽい。尾崎豊か。
とりあえずケイト・マーラが好きで、マーラとテラーの仲を快く思っていないみたいな描写はあるものの、二人の仲は決定的なところまで行ってない。しかも、「俺の女にちょっかい出すんじゃねえ」的な釘をテラーにさそうとしたら、逆にテラーから「あの機械もうできたよ」と言われて「えっマジで」とばかりに盛り上がる。女にそこまで執着なさそう。
じゃあテラーに対する嫉妬心なのかといえば、そこも開発チームとして一致団結する過程でうやむやになってしまう。
総合するに、なんでこいつが地球を滅ぼしたがっているのか、なぜ異次元に永住したがっているのかがわからない。異次元エネルギーの影響で頭おかしくなった、で済むかもしれないが、それは「人間ドラマ中心のF4」としてどうなんだ。
ついでにいえば、クリストファー・ミンツ=プラッセをちょっとだけ細くしたような絶妙なムカツキおフェイスがどこかヘタレっぽくて、情けない。
唯一、バックボーンやコンフリクトの描写(病院での父親との衝突シーンや能力使用に関する言い争い)に成功したヒューマントーチだが、せっかくそうやって高めた緊張を爆発させるシーンがない。問題を劇的に乗り越えるシーンがない。
「壁」だった父親が唐突に殺されて、「兄弟仲良く……」と言い残して死ぬだけだ。え? これまでの親子喧嘩はそれでオールオッケーなの? もったいない。
要するに全体的に人物への書き込みが不足している。死ね死ねパワーを充填し損なっている。リア充デビューを果たした主人公、脳内で一人相撲を繰り返してるだけの童貞悪役(まあテラーも童貞だろうけど)、何を考えているかわからないヒロイン、中折れしたブラック・コックのような黒人枠、影が薄いだけのかわいそうな親友。これが今回のF4の面々である。到底、ハーレム少女漫画で活躍できそうなバイタリティーはない。
こうじゃなかった。『クロニクル』はこうじゃなかった。ちゃんと主要キャラ三人それぞれの書きこみができていて、そのうえでの関係性がちゃんと……まあいい。これはF4だ。
ジョシュ監督自身が「デヴィッド・クローネンバーグ的に人間の肉体が変化していく場面を描きたいんだ」と言っていたとおり、作中では「これホラーだろ!」と思いたくなるシーンがあります。
あー。うん。これはできてた。なんでクローネンバーグやりたかったのかわからんけど、できてた。超こわかった。能力ゲットシーンだけじゃなくて頭パーンも爽快感込みで。
いや……でもさ。俺たちはホラー映画観に来たわけじゃなくねえ? 百歩譲ってさ、暗いヒーロー映画自体は否定しないよ? みんな『ダークナイト』大好きでしょ? おれだって実は『マン・オブ・スティール』そこまで嫌いじゃないよ? グロシーンばっちこーいだよ?
でも、だから、なに? ホラー描写ができてるから、なに? それがF4の本筋とどう絡んでくるの? 「自分たちが変わっていくことへの恐怖」? いや、おまえらそれかなーり早い段階で適応してたよね? いきなり「一年後……」とかつってたよね? そこ書かないの? 変わっていくプロセスを見せたかったんでしょ? なんで変わってしまった自分に適応する/できない/やっぱするプロセス書かないの? なんでスーツきりゃ全部オッケーなの?
これはジョシュ監督のデビュー作にして、高い評価を得た『クロニクル』と同様です。
『クロニクル』は「能力を持ってしまったがゆえの悲劇」が描かれており、本作では「能力を持ったという運命を受け入れなければならないという試練」が前面に押し出されています。
「運命を受け入れる」か。良いセリフだな。でも、それ、ドゥームさんの前でもおなじこと言えんの?
え? 言っちゃうの? マジで? 「こうなったのもたぶん運命なんだ」って? 本人の目の前で????
たしかに、みんな能力を持ってしまったことにどうやって向き合えばいいのか、その葛藤はありました。
けど、『X-MEN』なんかと違ってその葛藤が全部あいつらの内部で完結してるし、しかも特に真摯に向き合うことなく、ラストバトルのテラーさんによる安い演説一発(本当にここはとってつけた感がすごい。それまでのテラーのキャラとも合ってない)で解消されてしまうので、本当にこいつら悩んでたのかよ、と白けてしまう。
この映画見てると「ああー技術者って大人になってもガキくせえバカばっかで、酒に酔った勢いでうっかり世界滅ぼしかけたりもするんだなー、害悪だなー」って気分にしかなんないよ? 脚本からは科学者や技術者に対する悪意しか伝わってこないよ? テラーが劇中具体的に技術で世界に貢献した例って、レジの故障を直したくらいじゃない?
テクノクラート讃歌なら『ベイマックス』のほうがよほどポジティブなメッセージ性を与えてるぞ? 科学っていいなあ! 研究室っていいなあ! になれるぞ??
細々書いてきたけど、こんなものは全部些末なダメさにすぎない。「時間配分に失敗している」せいでもない。ましては「暗いから」でもない。
本作が駄作である最大の理由、それはラストバトルにおける勝利のロジックのなさだ。
ラスボスであるドゥームさんは異次元世界では神に等しい力を持つ。地形を変形させるなんてお手の物。まさに最強クラスの敵だ。
しかもリブート前のドゥームさんを知る我々にとって彼は「F4の宿敵」として広い認知を得ている。
こんなもやしみたいなシリーズ一作目でうかうかと殺されるような敵ではないはずだ。
それがである。
ドゥームさんはビックリパンチ一発でやられる。しょぼい。イモータン・ジョー様もびっくりのあっさりさでぶっとばされる。イモータンさまはそれでもみんなの心のV8をいつまでももやしつづけるであろうが、この偽クリストファー・ミンツ=プラッセの最期はせいぜい鮫入りの水槽に落ちたどっかのヴィランと混同される程度でしかなかろう。
もうちょっと説明すれば、このビックリパンチはいわば友情の団結ビックリパンチ、少年漫画的な元気玉であるはずなのだが、バラバラだったチームが団結するまでの流れがおざなりというか、雑さ極まっているのであんまり元気そうに見えない。
しかも、既にドゥームさんに対して一ダウンを奪った直後の攻撃である。そう、ドゥームさんは圧倒的なパワーと地の利を得ているにもかかわらず、ラストバトルに於いてはあんまり圧倒しないのだ。とりあえず序盤は筋肉バカ二人を撃破し押せ押せムードにはなるものの、ケイト・マーラごときのバリアに手こずる始末。もうちょっとがんばれ。
このバトルさえ、ラストバトルさえよければせめて駄作よばわりはまぬがれえたかもしれない。
序盤のダルさやルックに反したノーテンキさも、中盤の物語運びである程度までは取り返せていた。
あとはクライマックスで盛り上げるだけで40点程度は獲得できていたはずなのだが……。
それでも、ギリギリ次回作が楽しみな程度のクオリティではある。増田はトランク監督を応援しています。マーラもルーニーではなくケイト派です。
あ、そうそう。本作で唯一良かった点をあげるとしたらケイト・マーラの着ているスーツのビッチビチぷりですね。エロいことこのうえない。監督、ラバースーツAVとかにフェティッシュを感じてるんだと思う。そういうのが好きな人は60点いくとおもう。
以上。
タイトル | ああ播磨灘 | バチバチ BURST | 火ノ丸相撲 | りきじょ | 武装少女マキャベリズム |
---|---|---|---|---|---|
作者 | さだやす圭 | 佐藤タカヒロ | 川田 | 歌麿 | 神崎かるな |
連載誌 | モーニング | 少年チャンピオン | 少年ジャンプ | 月刊アクション | 少年エース |
主人公 | 播磨灘 | 鮫島鯉太郎 | 潮火ノ丸 | 明石丸美 | 納村不道 |
主人公の性別 | 男 | 男 | 男 | 女 | 男 |
初登場時の強さ | 横綱 | 幕下 | 小学生相撲二冠王 | 初心者 | 乳首相撲横綱 |
得意技 | 呼び戻し | ブチカマシ | 右下手投げ | ぶちかまし | ぶちかまし |
弱点 | 負けたら即引退 | - | 身長152cm | ただのデブ | 対戦相手が熊 |
ヤンキー枠 | - | 常松 | 五條佑真 | - | - |
気弱枠 | - | 大吉 | 小関信也 | - | - |
マワシ | ○ | ○ | ○ | ○(onレオタード) | ○(onジャージ/ブルマ) |
仮面 | 多種の仮面を被る | - | - | - | 般若 |
いつの間にか相撲漫画をたくさん読んでいるということに気がついたので各漫画の要素を比較してみた。
比較対象は、ああ播磨灘、バチバチBURST、火ノ丸相撲、りきじょ、武装少女マキャベリズム。
連載誌は、モーニング、チャンピオン、ジャンプ、アクション、エースと、週刊月刊問わず、少年青年問わず多岐に渡っている。
巨人大鵬卵焼きと言われていた頃のような大人から子供まで大人気というような時期を過ぎて久しいが、テレビ中継もされているしスポーツニュースで結果も放送する。
自分でプレイしたことはなくても、なんとなく知っているという人は多いので、相撲漫画もそれほど珍しい存在という訳ではないのだろう。
実際、これを書くときに相撲漫画の一覧がないか調べてみたけど、ここに挙げた5つ以外にもかなり多くの、100まではいかないけど数十は余裕でくらいは相撲漫画がある。
しかし、他の競技の例えばバスケットボールならスラムダンク、野球ならタッチ、ややマイナー競技ならアメフトのアイシールド21のような、その競技を代表する大人気の名作漫画というものは、相撲にはない気がする。
火ノ丸相撲も、連載誌ジャンプだし、結構おもしろくはあるのだけど、スラムダンクやアイシールド21級かと言われるとそこまでは…と思う。
主人公は、4人が男。1人が女。かなり80%:20%と男女比が偏っているが、実際の競技人口も、全相撲漫画の男女比はもっとかたよるだろう。
80%:20%という男女比ですんでいるのは、りきじょが女子相撲という珍しいジャンル扱っていて私の興味を惹いたからでしょう。
初登場時の強さはやはり、播磨灘が圧倒的に強い。
登場時から横綱で、そこから一度でも負けたら即引退を宣言して、相撲協会を改革するまで((というか勝手に変わっていくと言う方が適切かも))数十連勝するという漫画なので。
バチバチ、火ノ丸では、最強ではないけど、周りよりもそこそこ強い主人公が成長していくと言った趣。
武装少女マキャベリズムは、まぁ、乳首相撲では横綱らしいけれども、実際に乳首相撲を行う描写はないので本当にそんなに強いのかは現在のところ不明である。
得意技は、播磨灘が呼び戻し、火ノ丸が右下手投げとテクニカルな技を得意としているのに対して、相撲の決まり手は82もあるにも関わらずその他の漫画ではぶちかましと同じ技を得意技としている。((ぶちかましは決まり手じゃないか…))
これはやはり、相撲の技の知名度がそれほど高くないということに由来するのだと思う。
上手投げ下手投げという名前は知っていても、それがどのような技で何が違うのかを知っている人はそれほど多くない。
そうなると、相撲を知らなくてもわかりやすいぶちかましを得意技に設定せざるを得ないということになるのだろう。
ヤンキー枠/気弱枠と言えそうなキャラクターがバチバチと火ノ丸には登場している。
相撲に興味が無いヤンキー、先輩を敬わないヤンキーを変えていく、気弱なキャラクターを変えていくというあたりが物語を作っていく上で定番なのかなと思う。((私は読むだけなので想像でしかないけど。))
同じ枠に入れたけど、バチバチのヤンキー枠は学生横綱、火ノ丸のヤンキー枠はただのヤンキー、バチバチの気弱枠はニート、火ノ丸の気弱枠は相撲好きだったりとかなり違うキャラクターではある。
同じ特徴があるということはできるが、全体の印象が同じという訳ではない。
相撲といえばマワシ、マワシといえば相撲というほど、相撲界におけるアイコンであるので、相撲漫画でマワシを書かないなどということはあり得ない。
逆に言うと、普通の相撲漫画でマワシに何か特徴を持たせるということはしない。
特徴があるのはやはり女子相撲を描いたりきじょで、腰周りにしかマワシのないすもうパンツが出てきたり、大会でマワシの下に着るレオタード、スパッツを買いに行ったりやはり男子とは異なる描写がある。
武装少女マキャベリズムでは相撲部でさえなく、球技大会的に相撲をとるので、主人公の納村はマワシonジャージだし、ヒロイン枠の鬼瓦輪はマワシonブルマなのである。
納村は((乳首相撲ではなく普通の相撲の))経験者なので、マワシを一人で締められるが、鬼瓦は締められない。
そこで、納得村の協力の下に鬼瓦がマワシを締めるというシーンが4ページに渡って描かれるのだが、これがなかなかに羞恥心を煽るフェティッシュなシーンなのである。
映画で例えるならゴーストニューヨークの幻でのろくろのような、男女の共同作業を描いた名シーンであると言えるでしょう。
播磨灘と、武装少女マキャベリズムの鬼瓦輪がマワシ姿に仮面という出で立ちで登場する。
播磨灘は連載が長いということもあり、実に多種多様な仮面を被って土俵入りする。
一例を挙げると、鎧武者、龍、ポリネシアン、トーテムポール、だるまなどなどかなり多種多様である。
鬼瓦は、連載開始時からずっと半分割れた般若の面でこれを変えたことはない。
どちらも、マワシに仮面という共通点のあるキャラクターではあるが播磨灘が浮気症なのに対して、鬼瓦は一途と対象的なキャラクターであるということも言えるだろう。
割りと好きな漫画なのだが世間的な知名度が低いので、よろしければ読んでみてはいかがでしょうか。
http://www.kadokawa.co.jp/sp/2014/machiavellism/
基本的には、バトルものでありつつ、ハーレムものな感じなのだが、その絵柄に反して剣術部分は実際の江戸/明治期の実在の流派が出てきたりとしっかりしている。(あくまでも剣道未経験者目線だが。)
ただ、漫画ならまだ止め絵だけなので手間も少ないが、動画にしようとすると実在の剣術、しかも映像資料の残っていない時代の剣術を正確に描くあたりに手間がかかりそうで、アニメ化にはハードルが高いかな?という印象はある。
「オレおたく文化に理解があってナードでかっこいいだろ!」みたいなファッショニスタが増えたのはゼロ年代後半くらいだろうか。
渋谷のTRUMPROOMとかよくアニソンのイベントをやってるイメージだった。
それは単純にオタク文化ネイティヴの世代が大人になったからオタク文化を楽しむ人の層が広がったというだけなのかもしれないが、
オシャレな人たちがアニメに理解があるそぶりを見せることが何かすごく苦手だ。
そういう人がオタクに対してアニメという共通項を使って話そうとするときのオタクの尻尾のふり加減も苦手だ。
オタク文化・いわゆるサブカル・フェティッシュな文化がクラブイベントを行うという尻尾をふり方もある。
「オタク気持ち悪い」とハッキリ言う手合いよりもむしろバカにされているのではないかと思ってしまう。ファッションのアイテムの一つとしてアニメが扱われているように感じるのかもしれない。
それと、俺自信がものすごくそういうリア充のカルチャーに憧れがあるせいなのだろう。
以前増田で女性エロ漫画家のオタサーの姫化に嫉妬しているという記事が少し話題になった。オタサーの姫自体はむしろクラブ文化とは真逆ではあるが、しかし作品ではなく自らの容姿を晒していく姿勢の氾濫は、オタク文化を浸食するものの一つだ。
そのときのブクマコメントで師走の翁のリア充アピールもウザいというのもあった。
そして、コミック阿吽本誌にクラブイベントのレポート漫画が掲載されるそうだ。
やめてくれ、ここにまでそういうものを持ち込まないでくれ。
あの時、テレビは1つ番組を視聴するのに63円程かかった。インターネットの普及により個別に電子決済が可能になったからだろう。だから起きてから寝るまでテレビを見ていたら、その日だけで800円くらいかかった。
けど、その代わり、映像も見せ方も内容も、すべてが作り込まれていた。
それまでの、従来型のスポンサーをつけて得る収益体系が成り立たなくなってから、テレビからコマーシャルは消え、クリエイター達が作品を披露する場になった。それまで大衆が"広告"によってペイしていた分をクリエイターがペイする仕組みになった。
なかでも私の気に入りは天気予報だった。
あえてアナログな装置によってやるのがこの番組のウリらしい。カメラとお姉さんの間にアクリル板があって、そこに、手書きのマジックで等高線やらが書き込んであり、お姉さんがそこに、天気を示すカラフルでゼリーみたいな粒を、説明しながら置いていった。カメラは少しローアングルで、お姉さんの顔は見えない。まるでカメラの存在を無視するかのように説明をしていく。なんだかフェティッシュをくすぐるような、そんな映像が45分続くのだ。
チャゲアスといえば、ダブルミリオンを達成した「SAY YES」と「YAH YAH YAH」がやはり圧倒的に有名ですが、「PRIDE」はそのどちらと並べても決して劣ることのないどころか、全J-POP史上においても比類のない、赫奕たる地位を占める壮大なバラードです。そしてPRIDEは幸運なことに録音に恵まれています。1989年に発表されたその曲は、何度もライヴで歌われており、様々なバージョンを聞き比べることができるのです。ASKAは年代によって声質や歌唱法がかなり異なっているので、それぞれ別のしかたで楽しめます。今回はややマニアックですが、PRIDEの様々なバージョンをレビューしてみようと思います。
評価=8
CD音源にかなり近いですね。他の音源に比べて特徴となっているところは、サビの「駆け抜けていく」(1:48-50)の歌唱ですね。とくに「く」の母音の処理です。「ウ」と「ア」の中間で発声することで、単に「ウ」と発声するよりもパワフルに聞こえます。ASKA独特の母音の処理方法です。声も若さが満ち溢れていて爽快感を覚えます。
評価=9
声のフットワークが軽くて、とくに高音となるサビのメロディーをなめらかにすべっていく様子はあたかもサーカスの軽業師のようです。曲をより「自分のもの」にできている気がします。
ちょっとマニアックというかフェティッシュなことを言うと、「涙の跡」(3:33)という部分の「だ」の発声が他のものよりも情感豊かで、素晴らしいです。この録音はもっともエモーショナルなものかもしれません。
評価=9
あまり時間の間隔を置いていません。最高のパフォーマンスです。②ほどの情念はありませんが、全体の均整ということで言えば一番優れているものでしょう。
評価=10
ややASKAの声が太くなっていますね。じつは私が一番好きな音源はこれです。
声質が太くなり重量感を覚えさせるけれどもパワフルに突き進むさまは、重戦車が高速移動をする様子さえ思い浮かべます。
この録音では「駆け抜けてく」の「く」の音が、しっかりと「ウ」で発声されていますが、私はこちらのほうが好きです。かように苦悶の表情を浮かべた「ウ」はなかなか聞けません。
評価=7
アンプラグド、さらに欧米でのパフォーマンスということもあってか、アレンジがかなり変わっています。
やや大人しめですね。テンポも少し早くなってあっさりとしています。お洒落な気分でPRIDEを聞きたいという時にはよいでしょう。
評価=6
この頃からASKAの喉の調子に翳りが見えてきます。ポップス歌唱法にはご存じ「ミックス」というものがありますね。地声と裏声を混ぜるってやつです。
艶のある地声成分で高音が出ないのか、裏声成分多めで叫ぶ手法(オペラ歌唱に近い発声)が所々で見受けられます。後半になると多くなりますね。
評価=6
コンサート途中に感極まって歌えなくなったことで有名な韓国ライブです(なおその映像はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=sFi5qExw_pM)。2000年。
やはり前と同じで、高音が苦しそうですが、この曲ではその苦しげな姿すら一種のパフォーマンスに転化しうるものをもっており、胸を打つものがあると思います。②とはまた違ったおもむきで情感があります。
評価=5
2003年から2004年にかけての年越しライヴです。⑥の3年後ですね。
この頃になると、90年代と声は明らかに違ってきます。目に見えて声が太くなってきます。
喉の調子が治らず、どの歌唱法がいいのか模索している感じがします。
評価=9
声はさらに太くなっていくのですが、そうした自分の声にあった歌唱法が見つけられたのがこのLIVEだと思います。2007年。
90年代のASKAを軽快なトランペットだとすると、これは炸裂するトロンボーンとでもいったところでしょうか。CHAGEの超高音はさらに金属質なものとなって、硬質なハーモニーを聞くことができます。
しかしこのLIVEで注目しなければいけないのはASKAよりもむしろCHAGEです。大サビのCHAGEの超高音のハモリはこれまでのどの録音にもなかった凄みを与えてくれています。
あと、またフェティッシュなことを言いますと、3:25あたりの「傷ついて知ること」の「と」の音は、大地の奥底からやってくるような雄渾な響きで痺れます。
やっぱり90年代は黄金期で、どれを聞いても圧倒的ですが、その中でも台北ライヴはワーグナー「神々の黄昏」のような、崩壊しそうなまでに過剰な絢爛さがあって、私はそれを愛してやみません。
00年代になると喉の不調が目立ちますが、それでもDOUBLEのライブは全盛期を取り戻すかのような圧倒的なパフォーマンスを見せてくれます。しかしそれは90年代前半の軽業とは異なり、敬虔なカトリック教徒の盤石堅固な信仰の凄みにも似たものを思わせます。
ちょっとした事情で複数のギャルゲー・乙女ゲーをプレイする機会があった。
普段ゲームで遊ばない人間としては新鮮で楽しかったのだが、主人公と自分の性別が同じ、つまり攻略対象が異性のキャラクターだと、何とも言えない気まずさを感じて素直にゲームを進められないという経験を何度もした。
美少女たちとキャッキャウフフするのは、完全に虚構の上での出来事なので、結構わりきって楽しめる。
キャラがいかにも男受けをねらっていてあざとい、という感じも受けず(多分これは私が男性のフェティッシュなツボをよく知らないからだろう)、娘や妹をかわいがる感覚に近い。
逆に乙女ゲーが遊んでいて恥ずかしいのは、極端にデフォルメされた人物造形(描画の様式ではなく人となりや行動パターン)や、異性愛者の女性が男性に抱く欲望の型をあれこれ提示する様子を直視するのがためらわれてしまう。
自分が女性であるがゆえに、あくまでゲームという虚構の中で向ける視線にもかかわらず、虚構としてわりきれないものが残る。ゲーム内で描写されるような、一方的な視線を現実の男性に対して向けてしまうのではないか、いやいやそれはどうも、と思ってしまう。あるいは単純に、男性に対する性的な欲望を向けることに対するはばかりなのかもしれない。
おそらくこういう感覚は馴れの問題で、ゲームに親しんでいる人ほど、虚構性を現実から切り離して自由にその世界を楽しむことができるのだろうと思う。