はてなキーワード: ダチョウ倶楽部とは
鈴木は陣営外の人にも話が通じる右翼として有名だったが、実は朝まで生テレビの成立に大きな関りがある。鈴木が居なければあの番組は無かったんである。
また風桶式に鈴木が居ねばネットの団塊叩きも無かったんである。ちょっと説明しようと思う。
鈴木の親は民族主義新興宗教の「生長の家」の熱心な信者だった。その為大学時代は六本木にあった生長の家道場の寮に住み込みんで大学に通うと共に国粋宗教活動と学生運動に身を投じ、全共闘の左翼学生と殴りあいをしていた。最近話題の宗教二世だったのだな。
この道場は乃木坂の緑の中にあった。https://goo.gl/maps/tv9eakNek34ZLQXU6
今では生長の家の3代目がエコロジー志向になったので建物も塀も取り払われて開放的な森として一般にも開放されているが、一昔前は周囲の階段が「おばけ階段」と呼ばれるほど鬱蒼とした場所だった。
日本会議の中核メンバーも多くここに入寮しており実はこの寮は戦後の右翼運動の胎盤みたいな場所なんである。安倍政権で日本会議が急接近した事で政治にも影響を与えた。米議会は安倍政権と日本会議の関係を問題視していたのでこの寮の輩出者も分析把握されているかも知れない。
この敷地内には日本教文社という出版社もあってこれは生長の家の教祖谷口雅春の著書を出版して思想と教義を広める為に設立された出版社だ。しかしフロイトの『精神分析入門』や『夢判断』、ユングの選集などをいち早く出版するなど、実は学術分野でも存在感を示してきた社でもあった。
余談だが防衛庁(当時)の庁舎は2000年まで六本木にあり(現ミッドタウン)、更に60年代まで門が開いていたので近所の人は庁舎内の売店で買い物をしていたそうである。六本木、赤坂の物価より安い上に生長の家道場と防衛庁庁舎は目と鼻の先だったので鈴木も利用して安いパンツ等の購入に重宝していた。
ところがある日、左翼学生による防衛庁突入事件があり、それ以来門は閉められ部外者が売店を使用することは出来なくなった。
六本木交差点の先や青山まで行ってハイソ価格のパンツを買うしかなくなってしまった為に怒り沸騰、全共闘と衝突した際には「お前らのせいでパンツが安く買えなくなっただろ!」と叫んで相手を殴っていたとの事である。相手も何を言われているのか不明だったろう、と鈴木は述懐していた。まー、面白おかしく話を盛ったんだろうけど。
1970年に三島由紀夫の市谷駐屯地東部方面総監部占拠と割腹自殺事件が起きて世間を揺るがしたが、三島の介錯、つまり斬首をしたのが森田必勝。森田もまた割腹し介錯された。この森田必勝は鈴木の後輩で、思想的に鈴木の影響を強く受けていたという。
この為に鈴木は強く動揺、やがて右翼として生きる事を決意する事になる。やがて勤めていたサンケイ新聞も退職してしまう。(デモでの狼藉で解雇されたとの話)
鈴木はこの事をずっと気にしていて十字架を背負っているかの如くだったが、2000年頃になると「森田氏」と敬称を付けて呼ぶようになった。十字架を下したのかもしれない。
余談だが、小泉政権時代に男性か女性か判らんと評判になった井脇ノブ子という政治家が居たが、彼女は学生時代、右翼学生運動のマドンナで、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の様に数万の男塾みたいな学生の先頭に立ち、当時新右翼学生運動のプリンス的立場だった森田との交際の噂もあったとの事である。
1977年google:image:『おまえらがかわいいけんなぐるんや!』は井脇31歳の時の刊行だが表紙写真の井脇は暴力教師だかダチョウ倶楽部上島だか素人には見分けがつかない。
鈴木らは「新右翼」であり、これは全共闘などが含まれる新左翼に対抗する為に生まれ、政治権力に癒着した旧右翼らと違う軸を志向した。そもそも対抗する相手の新左翼自体が、日本共産党が暴力路線を放棄する事に反発して生まれたもので、要するに暴力vs.暴力。
最初から硬派なバンカラと軍国路線で、彼らが卒業して政治結社を結成するようになると国防色(カーキ)の街宣車を使うようになった。これが80年頃になると威圧感を与える黒塗り街宣車と旭日旗、日章旗、軍歌を流すというスタイルが定着した。
鈴木が代表を務める一水会も黒塗り街宣車で軍歌を流して通行人を威圧して居たが、やがて鈴木はこのスタイルは良くないと考え出す。こんなスタイルでは話を聞いてくれる人が居ない。
という事で今の機動隊バスのような爽やかなブルーに塗り直して大音量の軍歌も怒鳴り声も止めた。これは今で言うとテニスサークルヤクザとか好青年暴走族みたいな強烈なミスマッチである。(考えれば機動隊バスが国防色止めたのも同じ動機だ)
すると傍目には社会党などの街宣車に見えるから、すれ違う右翼街宣車に怒鳴られる事もあったそうである。「あー、てめえらふざけんじゃねえぞおいゴラ!」「あ、一水会さんでしたかどうもすいませんでした」って事が度々あったそうだ。
ただ、話を聞いて貰えないスタイルが流行したのは大人の事情もある。威圧感があって相手が震えあがるというのは、例えば企業相手の抗議に行くときは相手が折れてやり易い訳だ。
更に活動費というのは支持者の寄付と機関紙の購買費で稼ぐのだが、相手が折れた先に機関紙の購買も持ち掛ければ受諾されやすい。そこで心付けを渡してくる相手もいる。
するとシノギの手段としてヤクザが参入してくるようになる。民事介入暴力だ。ヤクザは元々旧右翼と不可分だったが、それが新右翼のスタイルを模倣して参入するわけ。威圧感を高める為に街宣車もカーキや灰色じゃなくて黒塗りの方がいいし、車格も小さいライトバン等より大型のワゴンやバスの方がいい。こういうのを警察用語で右翼標榜暴力団という。当時沢山いたヤクザが参入する事で「業界」のパイも大きくなった。
鈴木はこういう威圧じゃなくて議論や対話を好むスタイルだったので、敵のはずの新左翼側とも交流があり、新左翼出版社から自書を出版して居たりもした。それで「一般人の方も向いている面白右翼」という評判が高くなっていた。
そこで1985か86年に全共闘上がりの活動家と鈴木含む新右翼の大討論会というのを開催する事になった。司会はあの田原総一朗である。
この当時は全共闘とか学生運動というのは完全に過去のものになっていて嫌悪さえされていた。流行っていた思想はポストモダンで、モダンの内容も踏まえずに言葉の戯れを繰り出すのが流行していた。これは凄惨な内ゲバを繰り返して自滅したのに青臭い異議申し立てさえすればよいという立場で「議論」の場に居座っていた学生運動的なものに参加したくない、そうではないものが新しい価値ある態度なんだという、以前の政治的なものへの強い忌避、反感がベースにあった。あの田中康夫も事あるごとに全共闘残滓の異議申し立て的態度や代ゼミ講師的ノリをコキ下していた(湾岸戦争で日本が参戦を求められた事に衝撃を受け転向)。
そんな時代背景では政治議論なんてものはカビが生えた扱いで部外者には面白い訳がない。
そう思われていたのに、いざ討論会をやってみたら部外者にもかなりウケがいい。やってる方も面白い。
それでこれはいけるぞと踏んだ田原総一朗がテレ朝に持ち込んだ企画が朝生だったんである。
当時、エロ一本鎗だった深夜放送枠でフジTVが色々実験的な番組を放送し始め、その深夜枠のいい加減さも相俟って好事家的視聴者層にウケていた。そこにCNNの放送権をゲットして社会路線で行きたかったテレ朝が乗ったのだろう。
こういう経緯だから最初の頃の朝生は体制派vs.反体制派orリベラルという構図が鮮明だ。田原は最近「朝生は最早保守だ左翼だという時代ではないというのが朝生を始めた動機だ」みたいな事あちこちで言ってるんだが、この経緯を見ればこれが嘘って事は判るだろう。ボケちゃってるんじゃないの?討論なんてウケない時代に「激突全共闘と新右翼」討論会の成功で行けると踏んだのが朝生なのだから。
そしてこの討論会は鈴木の左右を超えた交流と議論好きの人格が無ければあり得ず、田原も来なかった筈なのだから、鈴木の存在が朝生を産んだと言って差し支えないんである。
こういう風に鈴木の活動と波及した社会現象は停滞して煙たがられていた政治議論を活性化した。すると全共闘上がりの人士らは元気になって「異議申し立てが必要だ」「もう一度騒いでもいいだろ」と言うようになった。これらを受けて刊行されたのが1994年の『全共闘白書』である。
この動きに対し、同世代の松原隆一郎が文藝春秋社の雑誌『諸君!』で批判を加える。更にこれを受けて諸君!誌では「うるさいばかりで無責任 上と下からぶっ叩け全共闘世代」という特集を組んで、その名の通りに上の世代と若手の執筆者が全共闘叩きをする記事を寄せた。
つまりはこれがネットで長年繰り返された団塊批判の始まりなのだ。この全共闘的振舞いへの批判から団塊Jr.世代(増田もそう)の日本を支配するオヤジ世代へのルサンチマンと甘えが被さり、「団塊世代」全体を叩くという風にスライドしてきたのである。そこでは例えばいい年になっても漫画を読んでるというスタイルを確立したのが団塊だ(劇画市場の成立)とか子供部屋が個室とか結婚は好きな相手とすれば良いしなくても良いという常識とか若者向け流行歌の市場とか個人のプライバシーとか時給制アルバイトとかが団塊世代がわがままをしたせいで出来たって事にも向き合わないで済んだ。
些か「風が吹けば桶屋が儲かる」的だが、鈴木の活動が無かったら全共闘上がりが活性化して『全共闘白書』が刊行されることも、それに対して下の世代が反発する事も無かったのである。そしてそれがネット民の甘えを吸収して団塊叩きに変化する事になったのだ。
最後に現在も統一教会との関係で取り沙汰される朝日新聞襲撃殺人事件の赤報隊に関して。
1990年代に新右翼を名乗る男の脅迫で柳美里のサイン会が中止されるという事件が起きた。鈴木はSPA!誌に連載を持っていてそれを批判したところその男が抗議してきた。その中で男が赤報隊の名を語った為、鈴木は「赤報隊とは面識がある、名前を騙ったお前を赤報隊は必ず殺すだろう」と伝え、懺悔の言葉を引き出す事に成功し、それを連載記事に書いた。
すると、直ぐに警察が何らかの容疑で令状を取り事務所を捜索して書類の類を皆押収してしまったのである。赤報隊の情報を得る為の別件事件だ。これに鈴木は怒って赤報隊の情報は二度と官憲に提供しないと書いてそれきりになってしまった。
結局赤報隊と鈴木の面識が脅迫犯へのブラフだったのか真実だったのかは不明なんである。
ヤクザの根絶やしを目的とする暴対法が施行される事になった時、任侠右翼とも付き合いがある野村秋介に鈴木はヤクザの人権を守れデモに参加しようと強く誘われたが、鈴木は「イヤですよヤクザなんて」と気乗りがしなかったが、野村は親分肌なので断れない。仕方なしに参加したら呉智英らに「アウトローの人権とは笑止」などと言われてしまった。
今日アメトークでダチョウ倶楽部やっててふと気になったけど、いつから「リアクション芸」と言うようになったんだろう。
こういう「芸」が全盛だった1990年代のバラエティをよく覚えているけど、当時は「られっこ」キャラの芸人に危険なことをさせて、痛い、熱い、苦しいと泣き叫ぶ姿を、俺たち視聴者はただただ純粋に笑っていた。上島や出川は「芸」だと思ってやっていたのかもしれないけど、観ている側からすれば、学校の教室のいじめをバラエティでリアルに再現していた(ように見えた)からこそ面白かった。
「リアクション芸」などという言葉ができたのは、たぶん2000年代後半ぐらいで、おそらく「いじめを助長する」という指摘に配慮するようになったのだろう。「お約束」が見えていないからこそ面白かったのに、「お約束でやっている」ことを強調するようになって「リアクション芸」は急速につまらなくなり、令和になって消滅しつつある。そしてそれはいいことなんだろうと思う。
1日目
①池袋かるまる
有名サウナ。
昔はよくきていたが久々。
サウナは相変わらず混んでいる。薪サウナと蒸しサウナはやはり入れなかった。
2日目
有名な巨大本屋。
数学の歴史みたいな本が意外と面白くて立ち読みで読み切ってしまった。
3日目
韓国に本店があるらしい?本場のカンジャンケジャン が食べられる、蟹の種類が違うとのことで行ってみた。
確かに日本のカンジャンケジャン とは違うけど、なんかあっさりしてる感じ。
ゲキマズだった。
4日目
+880円で行ける低温サウナがあるが、これはいらなかった。カップルじゃないとキツい。
風呂の方はサウナや風呂の種類が大量にある。しかし、どれも混んでいてイマイチ。混みすぎるとダメだね。
外気浴も若者が床に寝そべってたり風呂の脇で喋りまくってて厳しい。
全体の感想
色々巡ってみたけど、イマイチ当たりが引けなかった。
今日はこの3つだった
顔を見て、母親に捨てられた女の子。しかし、数年後の彼女の姿を見てください!
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再生中
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ひろゆき切り抜き集
【目次】 00:11 先日のアメトークを見て 02:05 有吉さんが売れてからの変化 02:46 上島さんの仕事の変化 03:14 引退できるほど ...
先日のアメトークを見て
【ガーシー】乃木坂の齋藤飛鳥と生田絵梨花の男性問題がエグイ。【東谷義和の切り抜き】
6.5万 回視聴 1 日前
あの熱々おでんをホッペタにくっつける芸はダチョウ倶楽部さんが発祥じゃなくて、
太田プロの先輩の片岡鶴太郎さんから始まった技をダチョウ倶楽部さんが伝承していったってことなのよ。
そんで、
そんでよ!
そう!
暢子がいまおでん屋さんやってるじゃない。
赤字を立て直すためにってことで、
そんで沖縄県人会の会長でもある片岡鶴太郎さん役の人が屋台に来て食べに来るシーンがあったんだけど、
暢子が片岡鶴太郎さんのほっぺに熱々のおでんをくっつけるんじゃないかな?ってハラハラドキドキしているんだけど、
今週はおでんの回でしばらく続くのかしら?
もういつ暢子がホッペタに熱々のおでんをお見舞いするか
だから結構キーマンである重要な人物の物語のキーになる役なんだけど、
片岡鶴太郎さんが画面に出てくると
真面目にお芝居がカッコいいゆえに余計に面白くなっちゃうと言うか。
もしかしたら、
『ちむどんどん』ってあの片岡鶴太郎さんがおでんをほっぺにくっつける熱々のやつの技が生まれた物語のお笑いストーリー太田プロ創設物語なのかしら?って
たぶんそんなわけ無いと思うけど、
最終大伏線回収の時に
次は太田プロなのかしら?って
まさかやーって
高嶋政伸さんのシェフ役の人が最初暢子の名前を知らないときにご来店頂いてイタリアン美味しい料理メニューコースを食べていたときのあだ名が
タマゴかハムタマゴかちゃんと言われてるかどうかは分からないけど、
最終暢子がどう変形するか。
片岡鶴太郎さん熱々おでんの技を伝承する太田プロ創設物語なのか。
一旦ここは入り口の原点のおでんの味に戻る!って言っていたから
やっぱり最終完成した原点イタリアンレストランオーナー大城房子さん秘伝のおでんを完成させ、
片岡鶴太郎さんが熱々のおでんを例の堪能の仕方で堪能するってのが
展開が急すぎて先が読めないわ。
兄の賢秀にーには呆れるけど
話しのベースとしては暢子になんの食べ物屋さんをやったら面白いか大喜利に掛けたいわ。
もう
ここ最近稀に見る誉れ高い
次回が楽しみな朝ドラだなって思うわけなのよ。
うふふ。
もう世の中この2種類のサンドイッチだけでもいいと思ったけど、
やっぱり2種類だけって言うのはダメよね。
結構緑茶って水出しだとまた急須でいれるのとまた違ってすっきりとした味わいよ!
口の中も心なしかというか、
朝爽やかな爽快感よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
安田はコンビの「じゃない方」としてノッチとの大きな格差が生じ、不遇な扱いを受けていた。が、
最近は先輩であるダチョウ倶楽部・上島竜兵のグダグダなトークを横でフォローしたり、
ついには、「上島がしゃべらんとすることを要約し、本人よりも上手く伝え」たり様々な形で上島を補佐し、
「上島のブレーン」としてのキャラを確立しつつある。上島自身は「俺の座付き作家」などといったり、さまざまな番組でブレーンとして呼んでおいたりしている。
また、相方のノッチがトークに弱いため、ノッチが言いたいことを上手く伝えたり、すべった時などにフォローする役目も担っている。
有吉の応援にかけつける役で最近ではサンデーナイト・ドリーマーに頻繁に出演するようになった。有吉のお気に入り先輩芸人は上島と安田となっている。
子供の異状死は親が捕まった報道を見るが、芸能人と高齢者の異状死は自殺以外で報道された例があるだろうか
病院外で死んだら当然警察官も現場に行くけれども、万が一異常が見つかったとしても、高齢者や有名芸能人の事件は日本の司法が「事件にするな」で終わりそう
上島さんが亡くなって、それについては悲しいの一言だけど、この際「リアクション芸」というのが個人的には苦手という死ぬほど嫌だったことを言っておきたい。かつては「リアクション芸」がはじまったら、速攻でチャンネル変えた。
ダチョウ倶楽部の中だけで熱湯風呂をやっているぶんにはいいだろう。しかし実際は、上島を熱湯風呂に叩き込む役割は、とんねるずやダウンタウンだったり、番組での立場が圧倒的に強いMC芸人だった。どう見ても、強い立場の人間が、弱い人間が苦しんだり痛がったりするのを見て楽しむ、というものでしかなかった。教室や部室の中のいじめやしごきをバラエティ風にしているだけである。あれをみんなが笑って楽しんでいる事実が、中高時代の自分にとっては自殺が思い浮かぶほどつらかった。
また、これがテレビの中で完結していればまだしもだが、決してそうではなかった。出川が繰り返し語っているように、リアクション芸人は街中を歩いてても、急に暴言を吐かれたり、軽く暴力を振るわれたり、自宅の前で騒がれたり、という被害を毎日のように直接受けていた。そういうエピソードを聞くたびに、リアクション芸人というのは、根本的に間違っているんじゃないかと思わざるを得なかった。
上島さんはリアクション芸にプライドを持っていたかもしれないけど、強い人間が弱い人間を痛めつけて笑うという、こうした芸は、もう令和の時代は完全に終わりにすべきだと思う。本当にそうなってほしい。