はてなキーワード: ホットトイズとは
俺はゲームをプレイするときに、操作キャラクターと自分を同一視“しない”。
なぜなら、そのように感じられないからだ。
これは一人称のゲームであっても同様で、FPSはそれなりに遊んでいるが、そういう種類の没入感を得られたことは一度もない。
スペースバーを押すだけでおかしな跳び方をし、左クリックをするだけで銃を撃つ、そういう存在を自分と同一視するのは難しい。
人型のロボットを操縦し、その機能を駆使し、そのカメラを通して異世界を見る、そういう風に感じられる。
感受性が低いのかもしれないが、『Papers, Please』にはすごく没入できたので、無感動というわけでもないと思う。
前置きが長くなった、FPSの話をしたいわけじゃない。
さて、ではそのようなプレイヤーにとって、ネットゲームの操作キャラクターとは何か。
したがって、それは必然的に、かわいい女の子とか、セクシーな女性とか、フェティッシュな幼女とかになる。
部屋に飾るならどういうお人形さんを飾るかという話だ。
だが、少なくとも俺は、ホットトイズのジョーカーを買うくらいなら、その金でプレミアのついたエリーンちゃんを買う。
ゆるふわ日常系マンガで見たいのは女の子同士のキャッキャウフフであって、野郎のツラではない。
そういう価値観でもって、お人形さんたる操作キャラクターを選び、キャラメイクをする。
したがって、それは必然的に、かわいい女の子とか、セクシーな女性とか、フェティッシュな幼女とかになる。
そのようなキャラクターがプレイヤーから託されるものは、「カッコいい俺を見てくれ」ではない。
そのようなプレイヤーがゲーム中で優れたプレイングを行った際に感じることは「俺って上手いでしょ」ではない。
まあそう思う部分もあるが、主としては「こんな可愛くてかつカッコいいキャラを持っていて鼻が高い」である。
つまり、我々はどちらかと言うと、キャラクターとコミュニケートする他者の側から自分のキャラを評価している。
そしてその観点から、ある種の所有欲に基づいた満足感を得、それをゲームプレイ上の楽しみのひとつとしているのだ。
言うなれば、そのキャラクターが完全に自律して勝手に動き、喋り、活躍し、所有欲を満たしてくれるのが理想なのである。
もちろんゲームである以上、プレイヤーとしてのプレイングの楽しみは、それとは別にあるのだが。
なにそれキモ……と思われるかもしれないが、それを言ったらキャラクターに自己投影してカッコつけるのだって相当だ。
それではと「たかがゲームに」などと醒めてみても「薄っぺらい人間だな」というカウンターを食らうのが目に見えている。
こんなのは単なる価値観の違いでしかないので、不毛な泥の投げ合いはやめようではないか。
さて、ここまではいい。
ここまでは単なる平和な平和なインナーヴァースの話であり、犬派か猫派かといった程度の問題でしかない。
ネットゲームでは、操作キャラクターを介して他者とコミュニケーションを取らねばならない。
ここでお人形さん派は、大きな壁に直面することになる。
お人形さんごっこをしたいわけでもない。
それを所有することで満足感を得たいだけだ。
であるので、他者とのコミュニケーションにおいては、たとえそれがキャラクターを介してであろうとも、基本的には“地”でいきたい。
しかしながら、一方でそのキャラクターは、かわいいかわいいマイお人形さんでもあるのだ。
だから、狐耳を生やしたつぶらな瞳の幼女が「俺さぁ」とか言うのは、耐えられない。
そういう他人のキャラクター見ると、キャラクターとプレイヤーの双方に対して「雑だな」と感じる。
我々は自分と同様、他人のキャラクターもお人形さんであると見做しているからだ。
中におっさんが入っているのはもちろん知っているが、それでも美意識の問題で、それはなんか許されない感じがある。
そして先に述べた通り、我々はそのような他者の側から自分のキャラクターを評価している。
よって、自分のお人形さんの愛らしさを損ない、所有欲を傷つけてしまうような真似は避けたい。
結果として、最低限そのキャラクターの口から発せられてもおかしくない、という方向性を、我々は志向する。
プレイヤーとしての“素”と、キャラクターの口調としての妥当性。
この両者が衝突した結果、何が生まれるか。
一人称は「私」で、極めて抑制的で、丁寧な話し方をする、あれである。
我々は女性を演じたいわけではないし、なりきりをして遊びたいわけでもない。
そこで、喋らせているのはプレイヤーだが喋っているのはキャラクター、という体を成すため。
そしてまた、お前おっさんだろと突っ込まれても、おっさんが丁寧口調で喋ってるだけですしおすしと避ける逃げ道を作るため。
我々は女性を演じたいわけではないし、なりきりをして遊びたいわけでもない。