これまでそれなりにネットの世界にドップリしてきて、それなりに楽しんできたつもりだった
……何だか「凄く楽しそうだった」のだ
ありきたりな、語録も使えば下ネタも言う、ネットネタを使えばゲームやアニメの話もする放送だった
なぜだか「置いて行かれた」と思った
なぜだか「なんで、俺が居ない所でこんな楽しそうにしてるんだろう」と思った
「自分が自分の世界に篭っている間に、ここではこんなに楽しそうにしてたんだ」と
にも関わらず、片やこんなふうに集まってワイワイ出来ていた人たちと、そうではない自分
もしかすると、こういう感覚を得た人というのはそれなりに居るのかもしれないと思った
理由は色々だろうが、自分が所属していたとおもっていた場所に置いて行かれた感のある人間は
"おそろしいおそろしい" "野菜"ぐらい雑でもくれる人はくれるので楽。
★要約が上手いなら簡潔にまとめる。
みんなが不安に思ってることを、過激な言葉と小難しい専門用語を混ぜながら書くといい。
最後に
みんなもはてなスターゲットだぜ
舞田敏彦(@tmaita77 https://twitter.com/tmaita77)のことかー!
えきのみちかの話題。
一部の馬鹿な人を除いては世の中に増えてきている萌え絵を拒否することができないことはわかってると思うんだ。
流れ的に排除することなんでできないんだ。受け入れる必要があるんだ。
でもなんでもかんでも受け入れることはできないから、OKラインが必要なんだ。
だからこの話題の元ツイートではそのラインを提示してみていたんだ。
なのに一部のオタクは
エロくない何言ってんだとか
フェミの迫害には断固拒否する必要がある、拒否しないとすべて排除されるとか
見なきゃいいじゃんとか
こいつら何言ってんだ状態だ。
吸わない人が
・店は禁煙にしよう
・ポイ捨てするな
と言っていることに対して
喫煙者が
・好きなところで吸わせろ
・臭いの嫌なら鼻閉じれば
と言っているようなものだぞ。
おまえらそれでいいのか。
榎木津って大変だなあ。
本日記は、新海誠監督による劇場アニメーション映画『君の名は。』および『秒速5センチメートル』の結末に関する内容を含みます。
今日、新海誠監督作品『君の名は。』を観て、私はふたつのことを思った。
ひとつは、新海氏の監督作品でまだ観ていない、『星を追う子ども』と『言の葉の庭』を観てみたい、ということ。
もうひとつは、「新海監督って、一貫してるなァ」ということだった。「観てない作品があるのに、一貫してるかどうかなんてわからないだろ」
とは自分でも思うのだが、「一貫してるなァ」と思ってしまったのだからしかたがない。
『秒速5センチメートル』の二人は、なぜ最後に、本作のような形で、出会えなかったのかなァ、ということを考えた。
あの二人を、本作のような形で、出会わせなかったものはなんだったのだろう、『秒速5センチメートル』にあって、
本作になかったものなんだったかな、と考えて、それは、罪悪感とか後ろめたさのようなものではなかったか、と私は思った。
なぜ罪悪感なんかを抱くかといえば、「大切な存在を小さくしたのは、時の流れるままにした、他ならぬ自分だ」と思うからで、
一方の本作で罪悪感なんかを抱かないのは、「大切な存在を小さくするのは時間のせいでも自分のせいでもなく、
人智を超えた力によってそれをスパッと忘れさせられてしまうから」である。
喪失感はあるが、「喪失させたのは他ならぬ自分だ」という後ろめたさはない。
一緒に観に行った友人が、『秒速5センチメートル』で劇中の時間を多く割かれた恋愛のディテールが本作ではほぼ描かれないことを、
「欲をいえばもっと胸キュンしたかった」とか言って少し不満がっていたのだが、私はなんとなく、それはこんな理由じゃないかと思っている。
私の憶測に過ぎないが、『秒速5センチメートル』では、長い「時間」を見せることで、大人になった主人公が罪悪感というか、
後ろめたさというか、申し訳なさというか、そんな感情を抱いているのだと、観客に理解して欲しかったのだろう。
第2部以降、主人公が送る日々を見る観客は、「彼の心の中では彼女との思い出の領域はもう増えないのに、
その他の領域は大きくなるばかりだ」ということがわかる。
彼女の存在の相対的大きさの縮小に慣れようとする彼が、その「慣れようとした」という自覚によって、
思い出や、かつて抱いた強い想いを粗末にしているような疑念や後悔を感じ始めることも。
恋愛のディテールが長く描かれたのは、そんな第2部以降の時間とのバランスをとったからだろう。
一方、本作では、「何か大事なことが色々あったはずなんだけど、思い出せない」という、喪失感だけを観客に共有して欲しかったのだろう。
そのために、観客を「二人に恋をさせたものが色々あったのだろうけど、断片しかわからない」という状態に置くことを選んだのだろう、と私は思う。
本作で、再会を果たす直前の主人公は『秒速5センチメートル』のモードに入りかけている。
それは時間が経つにつれて、「思い出せないままにしている」自分を責める気持ちが徐々に強まるからだろう。
きっと、時間とともに何事かを忘却したり喪失したりすることに対して、罪悪感のようなものを感じてしまう、というのは、
しかし、本作の二人は再会できる。それはおそらく、本作の世界観では「忘れる」だけでなく「思い出せない」もまた、
時間のせいでも自分のせいでもないからだろう。「時間という要素によって、出会えなかった」物語を描いた人が、
「時間という要素がないのなら、出会える」という物語を描いたのだ、と私は思った。
新海監督の2作品、『秒速5センチメートル』と『君の名は。』の対比は、生花と造花を思わせる。