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2018-01-14

anond:20180114052652

まず最初に、男にとっての「こいつとならセックスしてやってもいい女」を考えてみたい。

顔が可愛く、スタイルもそれなりで、男に性格的に従順な女、ということになるね。

これを参考に考えてみると、顔が可愛く、スタイルも良く、女に従順な男ということになる。

分かりやすく言うと、女好みの美少年美男子ということになるかな。

男と女性的には非対象という反論が来るだろうけど、それは男社会価値観を再強化する考え方だから無視していいと思う。

2018-01-07

ゼロ年代テン年代、大量キャラ聯合艦隊運用説について

特に増田に書く必要はなかったのだが、なんとなく投稿

たぶんガイシュツな話題だとは思うが自己満足備忘録として。


聯合艦隊運用

昨今のアニメゲームでは一作品につき膨大な数の美少女(あるいは美男子)が登場し、妹が12人程度で騒いでいた例はもはや過去の事例と化している。

我々オタクは多人数をどのように把握、認知しているのか。そこで推測されるのがラベリング、レッテリング、分類により段階的に整理されているという話である。分類というとリンネ生物分類が思い浮かぶが、実際は遺伝子や生態よりむしろ運用都合による分類が主となるため、「聯合艦隊」の字を用いる。大艦隊艦隊戦隊、というようなツリー意味だと思って頂ければよい。そのため、あずまんとかがなんか昔言ってたデータベースなんちゃらとも意味合いが異なる。聯合艦隊なんて言葉使わず普通にグループ制とか言えよという指摘は正当であるが、語感がなんかちょうどいいので採用した。


聯合艦隊運用説の概要

あなたヒロインが総勢60名前後いるアニメ製作しようとしている。しかシリーズ中にこの人数はさらに増加する可能性はしばらく高い。この作品において破綻なく全ヒロインをうまく描写する方法を考えなくてはならない。

このとき

60人前後大洗にいる人達>三凸に乗ってるカバさんチームこと歴女チーム>カエサル

というように分類分けされていれば、60回の描写ではなくチーム数、高校数の回数分の描写で60人を描くことがなんとか可能である

このように大人アニメガールズアンドパンツァーは多人数のヒロインをうまく管理できている、という説である

そしてこれはさらなる大人コンテンツにも適応可能であり、それこそ数百人のデレステ(各ユニット)、数百隻の艦これやアズレン(国籍、級型、艦隊戦隊)にも通ずる。プリパラなどの女児アニメにも通ずる部分があるかと思われる。


聯合艦隊運用のはじまり

不明であるが、始祖かどうかはさておき、ゼロ年代以降で広めた大型貢献者という意味では、東方projectがそうではないかと思われる。例え他に始祖がいたとしても、現代に影響が大きい作品、という意味では東方を真っ先に挙げてよいのではないかという意味だ。

東方は新作リリースごとにヒロイン数が増加の一途を辿っているが、「紅魔組」「旧作組」「永夜組」というような中分類、さらにその下に妖精組だとか八雲一家というような分類が存在することにより混乱しにくく、また二次創作等でもその分類内でのやりとりが扱いやすいかと思われる。意図してそうしているわけではなくとも、それが聯合艦隊運用に該当すると思われる。

それを言うなら学校部活モノの方が発端ではないのか?という反論は有力かもしれない。一応、ある高校>あるテニス部>「八雲一家」みたいな複数段階分類はあまりいたことがないという再反論を用意したが、別に分類数は一段階でも二段階でもそれ以外でもいいしあとダブルスとか学年とかあったの今思い出したので、再反論東方大影響説はここで敗れるかもしれない(急に弱気)。


聯合艦隊運用していないゼロ年代テン年代作品

たくさんある。聯合艦隊運用必須ではない。ただし人数が多ければ多いほど、艦隊編成の効果は大きくなると思われる。

例えば稼働当初、キャラ個人のアク強い個性で勇躍したデレステであるが、早い時期から艦隊編成の伏線を展開し(TPなど)、後発展開やアニデレなどで効果的に活用されることとなる(アニデレについては予想外編成や不意打ち編成の効果も含む)。また例えば、爆乳ばかりクローズアップされた及川雫がセクギル編成によりやや違うニュアンス獲得に成功するなど、キャラの扱いがいくばくか柔軟重層になる効果散見される。そもそもあんきらという戦隊が極初期から編成されていたこともある。

逆に少人数内で編成しても構わないしそれはそれで効果的と思われる(ストライクウィッチーズなど)。


聯合艦隊とは今まであったカップリングの言い換えではないか

二人や修羅場トリオとは限らないため、また恋愛関係とも限らないため異なる。もちろん艦隊内で恋愛修羅場があっても構わない。


聯合艦隊の有無、効率について、人数的な目安や制限はあるのか

特にないが、一つの目安として、12〜13人が艦隊編成なしで扱える(扱いやすい)上限なのではないかとトピ主としては睨んでいる。これは冒頭に上げたシスプリ12であると同時に、アイマス765ASの13人であり、アニメ1クールで1人に1話という計算が成り立つ(ちょっとはみでてるけど)上限値である。数百人いるデレマスからアニデレに登場したのが何人か、1人あたり何話当てられていたか、という話題を、艦隊編成もふまえて考えてみれば興味深くなると思われる。


⑦なーにが聯合艦隊運用説じゃ、お主が勝手なことを言っているだけであろう

増田なんだからそういうものである。ただし、別に客観的反論というわけではないのだが、アイマスのなかではやや後発であるsideMが「最初から艦隊編成重視になっている点は興味深い。と書きたかったのだが、単にJupiterにあわせただけではないか、あるいは女性向け作品として何か特別事情作戦があったのではないかとも邪推でき、特に後者に明るくないトピ主としてはこれ以上の探求はできない。


⑧これって三次アイドルと同じ?AKBとか坂とかLDHとか

トピ主は三次アイドルに詳しくないため十分な回答はできないが、なんだかAKBには複数グループ大人数の上で、AとかKとかBとかアンダーとか色々あるそうなので、なにがしか近いものがあるのかもしれない。


⑨これってアメコミのチームアップと同じ?

トピ主はアメコミに詳しくないため十分な回答はできない。普通は先にヒーロー個々人が十分活躍し、知名度も人気も出た後でチームアップするものではないかと思ったのだが、重厚長大アメコミ歴史ではチームアップしてから人気や知名度が出たケース(※実写映画スパイダーマンとかブラックパンサーとかが先行登場した件ではないことには注意。サイドキックソロデビューしたり襲名したりする件とも少しニュアンスが違う)もあるのだろうか。いや別に犬溶接マンソロデビューしたらしいという噂に怯えている訳ではないのだが。


艦隊編成は固定か、流動か、そもそも誰が決めているのか

編成を決めるのは制作サイドでもいいし、消費者サイドでもいい。それはさておき、編成が流動的、複数的かどうかは作品によるが、そうすることが効果的なのかどうかトピ主は懐疑的である。編成流動によって新しいドラマが生まれることはアニデレが好例となったが、あまり臨時編成や使い捨て任務部隊みたいなのが連続すると、編成の効果が薄れる気がする。

いささか脱線となるが、人数が多いながら編成が超流動的なミリシタには若干の心配がある。例えば急に「徳川マシュマロの人」と言われても、それなりに追っていなければ、この人が39人中誰と何を話しているのか思い浮かびにくかろう。これがsideMの「追いはぎにあった人」だと、「あ、そういえばその人、喫茶店的なユニットにいて…そこには厨二の人とか男の娘とか」と、とりあえず初期状態での話し相手は46人中4人、話す場所の状況(喫茶店)ぐらいは思いつく。これが聯合艦隊運用説の骨子であり、この有無の差は、覚えやすさや印象残りやすさに対してそれなりの影響があるのではないか

2018-01-04

美少女美少年

美少女女子高生はOKでも

美少年男子高校生は年齢的に無理がある気がする

美少年男子中学生辺りが限界なような

美少女は十代まで

美少年四捨五入して10歳までな感じ

何で許される年齢がこんなに男女でズレてるんだろう

そして美しい男子高校生は何と呼ぶのだろう

美青年美男子…何だろう

2017-12-31

anond:20171231113527

分かりやすく言うと、ブス女は美男子を求めるけど、その逆はあり得ないということ。

この場合美男子生物学価値が高くて、ブス女は低いということ。

美男子を求める女は多いが、ブス女は誰から相手にされない、と言い換えてもいいよ。

2017-12-21

anond:20171221124438

根拠については、最初の方にちゃんと書いてあるよ。女性社会進出が進むにつれて自信のある女が増えることによって、女から男にアプローチやすくなると。男が童貞を捨てるには、今後は女の主体性に任せてみるのも一つの手段であるということ。最も、そんな芸当ができるのは美男子イケメンだけだけど。

>男の一部が積極性放棄して恋愛ゲームに参加しなくなったとしたら残りの男が女を食い散らかしていくのでは?

そうはならない。女性社会進出が進むと、女の発言力が増えて、社会における男自身自由度が低下していく(まさに現在進行形で、その社会の変革が進んでいるのが今)。となると、その残りの男も主体的恋愛を進めていることが、困難になっていく。それと並行して、男性の草食化が加速的に進行するので、恋愛は女が主体的に進めなければどうにもならなくなる。

男が攻めで、女が受けが恋愛規範である、という価値観は今までの日本が男社会から成立していただけ。男が積極性放棄した以上は、女がその役割を担わなければならないということ。そうしないと、非婚化や少子化はどうにもならなくなる。その意味では、男は女に対して女性社会進出容認する代わりに、無制限積極性要求することができる。

anond:20171221013439

大切なことを忘れているんじゃない? 何で男から女にアプローチすることが大前提になっているのだろう。

から男に告白プロポーズして、恋愛結婚に至るカップル存在無視している。

そのこと自体が、男社会の発想そのもの。女の主体性拒否している。

もちろん、女からアプローチされるのは美男子イケメンから普通以下のブ男には関係ないけどさ。

2017-12-19

anond:20171219210708

何がお花畑だ、今まで女から告白プロポーズをされてきた美男子イケメンを私は何人も知っている。

女が男をリードすることに、何の不自然も感じない。もっと女に経済力が付いていけばなおいい。

「お花畑だ」と言っているあんたこそ、女からリードされるような資質も持ち合わせていないのではないか

2017-12-06

anond:20171206104341

から男にプロポーズするとなると、顔がいい男に人気が集中してしまうことになるけど、それでいいの? 男だって美人な女が好きなように、女も顔の綺麗な美男子が好きなのは当たり前だから、男同士の容姿格差が今以上にひどくなると思う。女からプロポーズするべきではないという考え方は、男を守る価値観でもあるんだよね。

それに、女からプロポーズされることが当たり前になるには、女自身に十分な経済力があるといった裏付け必要経済力が強い方(立場が強い方)が結婚したい相手を選んでプロポーズするわけだから本来プロポーズする方が圧倒的に有利。男から相手にされないモテない女を見ているとよくわかる。

2017-12-02

anond:20171202000558

で、でたーーーーーーーーー線の細い美男子ホモばかりの作品でアライ気取りのクソ腐!!!!!!!!!

anond:20171202080624

特に努力らしい努力をしなくても、素の状態でも周囲から注目されやす美男子美人には勝てない、という価値観が再強化されるんじゃないかな。

2017-11-13

anond:20171113105808

1はできそうなのですが、2はふたりとも女なので美男子でいってみようと思います

2017-11-06

美男子と女のブスの「裏」恋愛市場について

今の社会スタンダードとなっている恋愛形態は、容姿の冴えない男が美人な女を手に入れると言うストーリーだ。冴えない男は経済力なり男らしさなりの裏付けを持って、美人な女にアタックし、二人は晴れて恋人同士となる。これが下位の男と上位の女が作り出している正規恋愛市場だ。しかし、そのような価値観が主流になっている社会では、女のブスと美男子にとっては肩身が狭い。

女のブスにとっては、ブスに生まれた時点でこの正規恋愛市場に参入することは不可能だ。そして美男子にとっては、そもそも自分は何もしなくてもモテるのに、なぜ自分から女にアタックしなければいけないんだと、美人としてのプライドをひどく傷つけられる。ブスが常に卑屈な気持ちになっているのに対し、美男子は上記の正規恋愛市場のもの憎悪しているのだ。

からこそ、表題の通りの「裏」恋愛市場である。ブスと美男子は、世の中から無視されている者同士として非常に馬が合う。ブスにとっては、美男子自分にない美貌を持っている者であり、何としても自分のものにしたがる。美男子にとっては、自分を求めてくれるブスは、自分自身自尊心を満たしてくれるのだ。今の世の中で一番の勝者は、普段から底辺だ最下層だと蔑まれている女のブスなのかもしれない。

2017-11-03

美男子だった説でも採用してそのまま行くか

anond:20171103153519

しかし、何もしなくても女が寄ってくる属性美男子として生きていても、周囲のブ男たちの邪魔立てによって本来の魅力を発揮できないとなれば、そいつらに対して一言くらいは言ってやりたくもなるよね。

anond:20171103140737

書き方がわかりにくかったかな。美男子って、本当にモテないんだよ。

受け身女が多過ぎるせいで、誰も美男子に言い寄ったりしないし、できない。

ただ女は周囲から見ているだけだし、美男子本人も「僕はモテないんじゃないか」と自己嫌悪になっている。

告白プロポーズは男からするべき、という考え方が嫌いだ

社会から成り立つ考え方だからだ。不細工な男が、自分好みの美人な女を恋人配偶者として選ぶのに好都合ではないか

から男に告白プロポーズをすることは、はしたないことだと見なされる。

この考え方が浸透している社会では、ブスが男を好きになったり結婚することは実質的不可能だ。

ブス自身モテることは実質的にあり得ないので、自分から動かなくてはならない。

しかし、「女から告白すべきではない」考え方の社会の中では、ブスは動くことすら封じられてしまう。

同じように、ブスの対極の存在である美男子もこの考え方にイラ立っているに違いない。

なぜなら、女から告白すべきではない考え方の社会では、女は美男子敬遠して、自分から動かなくなってしまう。

本来は女からモテるはずの美男子は、ずっと一人でいることになってしまうからだ。

2017-10-16

anond:20171016100914

社会では「男の論理」が幅を利かせることになるので、男が嫌いな女のブスは当然嫌われる。

社会的弱者である女の中の下位であるブスは、社会の一番の最下層に落ちてしまうということ。

美男子については、男の中にもヒエラルキーがあり、そのヒエラルキートップ美男子

美男子の生きにくさは、「高嶺の花でモテない美人の女」以上のレベルだということ。

anond:20171016100719

社会構造的に迫害される存在であった女のブスと、人々から敬遠され続けてきた美男子達に光が当たることになる

ここよくわかんないのでもうちょっと詳しく説明して?

社会なんて、さっさと消えてなくなれ

2017年現在日本においては、男女平等に反対している人たちの方が反対派であると思う。女性社会進出と、男性の家庭進出の流れは今後も更に進められていくはずだ。女性には経済力甲斐性が求められ、男性には経済力甲斐性が求められなくなっていく代わりに、女から容姿若さ吟味されることが当たり前になっていく。それがいいことなのか、悪いことなのかの是非は置いておく。しかし、今まで男社会の仕組みの中において、社会構造的に迫害される存在であった女のブスと、人々から敬遠され続けてきた美男子達に光が当たることになるので、私は個人的にこの世の中の流れを素直に歓迎したいと思う。

※こんな意見を書けるのも、私自身が後者属性の男であるからですが、そこは皆さんスルーしてね^^

「男社会」の仕組みをもう一度整理しておきたい。男社会とは、世の中の半分の人間である男達に、経済力社会的地位などを無理矢理に与え、本人たちの意志関係なく下駄を履かせて、社会を動かしていく制度である。なので、男たちに課せられる負担は女以上に重くなる。その分、男には女にはない特権が与えられるので、男たちはそれで納得して世の中はうまく回っていったのであった。

社会特権1:女のブスを社会の最下層として世の中から排除できる

社会特権2:男だけの意見で、社会全体の声として通用させることができる

社会特権3:容貌の美しい男は、雲の上の存在のように扱われる(要するに、いないものとして無視される)

社会特権4:それらの特権を、特権として意識することなく生きることができる

そして、近年の女性社会進出施策のおかげで、この男社会の仕組みは崩壊寸前になっている。若い男の人たちの中には、自分一家大黒柱になって生きると考えるのは少数派だ。今の世の中をパッと見ただけでは、いまだに男社会が続いているように見えるが、これは火が消える間際のロウソクが一番強く輝いているのと同じことで、近いうちに社会価値観は消え失せる。北朝鮮との戦争後に始まる「第3の維新」の流れの中で起こる革命が、そのタイミングになるかもしれない。

2017-10-15

anond:20171015115357

イケメン」は「男前」も含んでいるよね

美しさというよりも男性性、たくましさを多く含んでいる

いっぽう元増田の言う男の「美人」は

美男」「美男子」「美少年」という言葉表現されている

中性的、男女を超越した普遍的な美しさのイメージがある

2017-09-20

anond:20170920010439

失敗しない恋愛なんてありえない。

一発でうまくいくほど甘くない。

どんな美男子でもブサイクでも失恋はする。

かくいう自分も実った数より振られた数の方がよっぽど多い。

そして受け入れた数より振った数の方がよっぽど多い。

うまくいかないことの方が多いのは大前提

未だ一回だろ。

もっと分母を増やすしかない。

そして経験をふやして精度を上げろ。

パートナーがほしいならね。

2017-09-15

私たち勃起について語るとき起こりえるささやか奇跡


兄の家に恋人といった。

甥の誕生日だったからだ。


成長した顔をみたら小さい頃の兄にそっくりだった。

厩戸皇子顔の美男子だ。


バッキンガム・バックブリーカーの模擬をするなどして適当あやした。

実父母も来ていて、ルイボステーを囲いしばし談笑した。

父の突起乳首頭皮露出についての話題ピークアウトだった。


みな楽しそうでよかった。


帰途。電車

恋人と互いの挙動について感想戦を繰り広げていた。


その中で驚愕質問を投げかけられた。


「なぜ、あなたはずっと勃起していたの?」


寝耳に永久凍土が落ちてきたような衝撃だった。


「ぼくが、勃起? ハハン、冗談


恋人こちらがとぼけていると思ったようで、不快感をあらわにする。


「リトル・タニグチは、私のバッドボデーにご不満のようで」


どうやら恋人は私が義姉、実父に欲情したと誤解しているようだ。


違う。断じて違う。欲情どころか勃起もしていない。

そもそも勃起アルファベを満たしていないのだ。


私の勃起条件

α. ブレックファーストを摂る前

β. ポール・スミス エクストリーム香り

γ. 20代巨乳存在


「いずれか一つでも、要件を満たしていないと、勃起は発動しない」


そう説明したが、恋人は納得しない。平素インテリ頭脳はもう赤チン寸前。


うそよ、この目で見たものあなたミニミニテントチノパンマイムマイム!」


声が大きくなる。向かいの席の老夫婦が怪訝そうな顔でこちらを見ている。


「やめてくれ。人が見ている」


「後ろめたいことなんてないわよ! ほら! 見せて御覧なさい! マイムマイム! マイムマイム! マイムベッサンソン! ヘイヘイヘイヘイ!」


「やめなさい!」


「うひょ~! マイムマイム~! おそ松チンポ~! うひひ~!」


失笑噴飯!」


はいかれた恋人をおいて電車を降りてしまった。

人波もまばらなプラットフォームのベンチに座り込み、しばらくうなだれる。


誰そ彼時の風にあたり、少しだけ冷静になって考えた。

私のリトル・ミスターについて。彼はなぜ暴走してしまったのか。


そうすると、一つのことに気づく。

私たちがずいぶん長い間、対話をしてこなかったことに。


ぴん、と挨拶をするように、チノパンごしのチンポをはじく。

ふふ。と思わずこぼれる。これは笑みだ。汁じゃない。


私は少しのセンチメンタルとともに手帳へ筆を走らせる。


拝啓

リトル・ミスター。しばらくぶりだ。元気かい。こっちはまあまあうまくやってるよ。

最近職場チーフに昇格したんだ。同僚との関係も良好。

ずっと欲しかったベストパートナーも出来た。時々ファイトもあるけど楽しいよ。


なんてね。ちょっとかしこまってみたけど、こんなこと全部知ってるよな。

なにせ、君とはずっと一緒だったんだから

小さい頃は毎晩ベッドのなかで、語り合ったよな。

水泳の授業の夜に担任先生のVラインの角度を求めたり、

ドライオルガズムの宗教貢献について朝まで話したりさ。

未来セックスフレンドをどうすれば喜ばせることができるか研究しようと、

アダルトショップでエアドールを買った夜はケッサクだったよな。

バスタブに浮かべたせいで中の空気が膨張して君がはまっちまって、

帰ってきた母さんがみたこともないような顔してさ。

テンパッて円周率を覚えてるだけ叫んだっけ。

君があんまり張り切ったせいだよ。

なんてね。うそだ。ぼくのせいさ。君はいつも正しい。

悪いのはいだってぼくの方だ。


さっきのこだって、本当は欲情しちまってたんだ。

でも義姉さんに、じゃない。

猫だよ。あのスコティッシュフォールドのメス猫さ。

ぼくの家族はみんなバカからあいつが発情期に突入したことに気づいてないんだ。

だけどぼくだけはそれを知っていて、あいつもぼくを知っているんだ。

ウィンウィン。でも生物学的に勝者はいない。

あいつは物理的に死ぬ。ぼくは社会的死ぬ

そのせめぎあいの末路、バニシング・ポイントがあの勃起ってわけ。

勃起アルファベなんてでたらめさ。あんものを信じるのはバカジョックスだけ。


ぼくらは目を背けたい真実出会ったとき、見てみぬフリしてしまう。

でもそうやって蓋をした真実は、ナイトメアのようにぼくらを襲う。

そうならないように、ぼくらには超越した視点必要なんだ。

かみさまみたいな存在だよ。

きっと君のような。


いつかまた、夜が明けるまで語り明かす日を楽しみにしている。


親愛なるリトル・ミスター

ウエストライン愚か者より



手紙を書ききったところで、静かな風が吹いた。

うす暗いプラットホームに、一本の電車がやってきた。

どうやらもう最終電車のようだ。


私はぼんやりとがらんどうの電車を眺めていた。

すると、光の中から、一人の人間が近づいてきた。


「いきましょ」


彼はそういって私のチンポをつかんだ。


「離せ変態!」


私は走って帰った。

手紙は川に捨てた。


2017-07-08

けものフレンズ面白さの本質

けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観から抜け出しているところにある。

少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。

もうひとつの「ガイナックス的なアニメ価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場いぶし銀技術者ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。



私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーインタビューで語っている。


「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html

放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)

たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズたつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。

「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/

ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。

―― アニメはお好きなんですか。

たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。

―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?

たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りましたhttp://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html

本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。

話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。

たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。

そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だからけものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。

シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明から”。

ガイナックス庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。

新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギーク価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任野ざらしにされ担う者はいない。

2000年代2010年代アニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観のもの形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。

もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。

これは自由の味だ。

ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識のものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。

可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。

3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチ必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。

次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的ものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成脚本たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。

「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思いますたつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395

「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバー関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題

福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚ミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。

最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しであるたつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。

1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌え主人公エヴァギミックNARUTOアクションジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通オタク価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。

続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。

第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。

4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。

5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。

ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」であるたつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。

ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマシリアスからだ、という批判も予測されるが「ストーリーシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。

『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグテーマTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。


再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。

自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァけもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう

ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。

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